「1992年細川新生党結党以来の新党の歩み」 |
(暫定整理中、最新見直し2005.9.18日)
細川連立政権に結集していった新党諸派の興亡史が、「新党全記録」で確認できる。これだけの追跡を為しているのは他では見られない。 90年代初頭に輩出した新党諸派は、戦後の混乱期から1955年までの政党盛衰史以来のほぼ50年ぶりの政治ドラマであることに意義が認められる。92.5月結党の「日本新党」に始まる「新党さきがけ」、「新生党」、「新進党」、「太陽党」の5党の流れを追うことにする。 |
1991.10月、海部俊樹総裁の任期満了に伴う自民党総裁公選が行われ、11.5日、宮沢内閣が誕生する。この時、宮澤喜一(宮澤派)・渡辺美智雄(渡辺派)・三塚博(安倍派→三塚派)の3名が立候補し、竹下派会長代行にして海部政権時代の幹事長として手腕を振るった小沢が、3候補を個別に面接(「小沢面接」)したことで物議を醸している。この頃既に竹下登と小沢一郎が水面下で主導権争いをしていた。
1992年(平成4).5.7日、細川護煕氏が「自由社会連合(仮称)」結党構想を発表し、同趣旨文が文芸春秋6月号に掲載される。これが「政界再編の狼煙となる」。(細川護煕氏のプロフィール。1938年、東京都千代田区で生まれる。1963年、上智大法卒、朝日新聞入社、鹿児島支局などを経て東京本社社会部へ。1969年、総選挙に熊本一区から。落選。1971年、参院全国区から自民党公認で初当選。33才の最年少議員。田中派所属。その後、田中内閣で参院予算委理事を皮切りに参院議運委理事、自民党副幹事長、参院議運委筆頭理事。1983年、参院議員の任期を残し、熊本県知事選に自民党公認で当選。1987年、熊本県知事に再選。1990年、翌2月の熊本知事三選への不出馬を表明。1991年、臨時行政改革推進審議会(第三次行革審)「豊かなくらし部会」部会長に就任。国から地方へ試験的に権限を移す「パイロット自治体構想」を提言。 5.22日、「日本新党(JAPAN NEW PARTY、代表・細川護煕)」が結成される。 7.8日、第16回参議院議員選挙が公示され、日本新党は、参議院比例代表に16名を名簿登載して選挙戦に入った。準備不足と他党との競合を避けるということで、比例の全国区のみに候補者を立てることになった。 7.26日、最初の選挙の洗礼で361万7235票、4議席(細川護熙、小池百合子、寺沢芳男、武田邦太郎)を獲得する。このことが日本新党のみならず新党創出を勢いづかせることになる。その後、地方選、首長選にも取り組む。 8.27日、金丸自民党副総裁が東京佐川急便からの5億円献金を公表、副総裁の辞意を表明。 9月、同時並行的に細川、田中秀征、武村正義(知事時代に細川と面識があった)の3者会談が行われ、田中秀征、武村正義らが自民党を離党し行動を共にすることを確認、同志を募り始めている。当時武村は、政治家とカネに関する問題をきっかけに発足した勉強会「ユートピア政治研究会」を率いており、そのメンバーにも声がかけられた。こうして実際に離党予備軍として集まったメンバーは、武村、田中、園田に加えて、井出正一、佐藤謙一郎、渡海紀三郎、鳩山由紀夫、三原朝彦の計8人となった。 10月、行政改革をテーマにした超党派の勉強会「制度改革研究会」が発足。武村が座長、田中が事務局長を務め、運営委員となった細川が学者や評論家、経済界、労働界からメンバーを集めた。この時、社民連の菅直人なども参加しており、与野党問わずの流れを生み出している。結果的にはこれが「新党さきがけ」結成を準備していくことになる。 10.14日、金丸が、東京佐川急便事件の責任を取って議員辞職、竹下派会長を辞任。会長ポストの争奪で派内の対立が激化。小沢をめぐる擁護派と小沢に反発する批判派(梶山静六、橋本龍太郎ら)が発生。10.28日、竹下派後継会長、小渕恵三に決定。小沢系の議員は後継会長に羽田孜3)を推したが、竹下系の議員は派内での主導権を奪い返すべく小渕恵三を推した。結局、竹下系が押し切り、小渕が後継会長に決定した。小沢グループ「改革フォーラム21」旗揚げ。これにより、竹下派「経世会」は竹下系の議員からなる小渕派と、小沢系の羽田派「改革フォーラム21」に分裂していくことになる。 12.11日、宮沢内閣改造。旧竹下派勢力の相対的な後退。 12.10日、自民党竹下派「経世界」が小渕派と小沢・羽田派に分裂。小沢・羽田派が「改革フォー ラム21」を結成。12.18日、44名が参加して、羽田、小沢派を旗揚げした。1987.7月に結成された経世会が分裂し、竹下派は党内最大派閥の座から転落した。 |
1993.1.11日、「改革フォーラム21」3ヶ月以上にわたる全国遊説開始。1.19日、 「改革フォーラム21」の事務所を開設(千代田区紀尾井町1−11戸 田紀尾井町ビル3階)。 3.6日、金丸が、18億5000万円の巨額脱税容疑で逮捕される。政治改革についての論議がいっそう高まり、改革派と守旧派7の対立も深まった。守旧派と呼ばれた梶山静六らの自民党執行部は政治改革に関して消極的な姿勢を続けていた。宮沢喜一首相がテレビの会見で今国会中の政治改革の成立を発言したが、実現するに及ばなかった。 4.13日、「政治腐敗防止特別措置法」法律案要綱(骨子)発表。5.10日、「政権交代期成同盟の提唱」を中央公論に発表。 6.18日、宮沢内閣不信任案成立。賛成255、反対220、欠席21。自民党から羽田派34人を中心に39人の賛成票、18人の欠席で、可決された。宮沢政権は衆議院解散を打ち出した。 本会議後、武村、田中、園田に加えて、井出正一、佐藤謙一郎、渡海紀三郎、鳩山由紀夫、三原朝彦、この8名に岩谷毅、簗瀬進を新たに加えた10名が離党を表明。 6.21日、「新党さきがけ」結成。代表に武村正義。田中が執筆を担当した結成宣言、政治理念、政策の基本姿勢を発表。 宮沢内閣不信任案に反対した武村他10名が自民党を飛び出て「新党さきがけ」を結成したことが、宮沢内閣不信任案に賛成した「改革フォーラム21」に衝撃を与えた。「これでは筋が通らなかった。状況は一変し、筋書きのない展開に進んでいった」(平野貞夫「日本を呪縛した8人の政治家」)。 6.22日、竹下派から分派した小沢・羽田派(「改革フォーラム21」)が自民党を離党。6.23日、自民党竹下派から分裂した羽田派「改革フォーラム21」の44名(衆議院議員35名、参議院議員9名)らが「新生党」(党首・羽田孜、代表幹事・小沢一郎)を結成する。顧問に小沢辰男、代表幹事代行に渡部恒三が就任した。これが政界再編を急加速させ、非自民連立政権の中核として細川政権を樹立していくことになる。但し、日本新党。新党さきがけは小沢・羽田派の動きに対して慎重に様子見した。 新生党は、「守旧」ではなく、「自己革新的新保守」の再興を目指し、基本理念を「自立」と「共生」に置く。選挙に当たって、政治改革の実現、新政権の中核的役割を担うことを宣言する。しかし、田中―竹下―金丸系譜が金権派閥政治に荷担していた連中であると批判されていくことになる。 ここに、「日本新党」、「新党さきがけ」、「新生党」が揃い踏みした。この三党が共同戦線を張り、政界再編を急加速させ、非自民連立政権の中核として細川政権を樹立していくことになる。 小沢は自民党を離党して総選挙に望んだ。小沢が戦略として目指していたのは、非自民、非共産勢力で衆院の過半数を制することである。小沢は非自民連立政権の実現へと猛然と走り始めていくことになる。連合の山岸会長と極秘に会談し、社会党、民社党の公明党を取り込み、選挙日を目前にした時点で社会・新生・公明・民社・社民連の5党が選挙後に非自民・非共産の連立政権を目指すことに合意、連立政権構想が完了した。 6.24日、新生、社会、公明、民社、社民連の5党首が、非自民・非共産連立政権を目指すことに合意。選挙協力と「三項目の合意事項」を確認した。「三項目の合意事項」とは、@・総選挙での協力、A・外交・防衛などの国の基本政策はこれまでの政策を継承する、B・新政治創出のための連絡協議会の設置というものであった。日本新党の細川は、新生党に対して「いかがわしい人々」と発言。武村は、「カレーライスを食いながら、一時間で決めた軽薄なもの」と酷評した。 この時、久保亘(わたる)社会党副委員長は、「A・外交・防衛などの国の基本政策はこれまでの政策を継承する」に難色を示し、「これは党の役員会には諮れない。私の責任でやるからそのつもりでいてほしい」と発言している。 6.27日、東京都議会議員選挙投票日。公認候補20名(トップ当選9名)推薦候補7名当選。一気に都議会において第三党に躍進した。 6.30日、細川護熙日本新党代表が、選挙後さきがけとの合流を表明。 7.1日、新生党、基本政策発表。小選挙区比例代表並立制など。「自民離党がけじめ」と過去に異例の“反省”も。さきがけが「政策理念と基本課題」発表。 7.3日、第40回衆議院議員選挙候補者90名発表(公認候補55名、推薦候補22名、支持13名)。日本新党と新党さきがけが、衆院選での選挙協力、政策協議機関の設置の2点を合意、合意事項発表。 7.4日、第40回衆議院議員選挙告示。日本新党も初の衆院選に臨む。 7.7日、新生党の小沢、政治改革で一括法案を選挙後提出する意向を表明。羽田、総選挙結果の尊重を促す。 7.10日、新生党の小沢、連合3労組に追加支援要請。新党さきがけとの院内統一会派結成合意、発表。 7.12日、新生党の羽田、戦争への反省を国会で決議することを提唱。 7.18日投開票の衆院選を前にして、社会・新生・公明・民社・社民連の5党は選挙後に連立政権を目指すことに合意。これにより同じく選挙後に統一会派結成を合意していたさきがけ・日本新党は自民・非自民に続く第3勢力となり、キャスティングボートを担うことになる。 7.18日、第40回衆議院議員選挙。投票率は総選挙史上最低の67%。選挙結果は自民党223、社会党70、新生党55、公明党51、日本新党35、共産党15、民社党15、さきがけ13、社民連4、無所属30。社会党の一人負けの惨敗、自民は現有議席維持、新党の躍進。この選挙では、非自民政権の誕生と政治改革の実現を期待する新党ブームの追い風が吹いた。 新生党は、公認した立候補者69人のうち、55名が当選し、日本新党、さきがけ共々、議席数を伸ばした。 さきがけは、公認候補35名(トップ当選17名)推薦候補15名、支持9名当選。日本新党は細川代表と縁のあるもの、昔からのスタッフなど掻き集めて最終的には候補者を91名擁立した。日本新党は公認候補35名を当選させ、後に公認した3名を加えて大きな発言権をもつことになる。新党さきがけは13議席を獲得(石田勝之、宇佐美登、田中甲、錦織淳が初当選)。 7.19日、新党さきがけと日本新党が、衆議院にて院内統一会派「さきがけ日本新党」結成、発表。この両党はキャスティングボートを握ることになった。 7.21日、新生党の船田元幹事、非自民連立政権でさきがけ・日本新党に対して協力を呼びかけ。 7.22日、宮沢首相、党両院協議会で退陣を表明。 7.23日、さきがけの武村正義が、日本新党の細川護煕との間で「政治改革を断行する政権」樹立を提唱を提唱。遠藤利明と近藤豊が無所属のまま統一会派入り。さきがけ・日本新党は23日、田中の提案で逆に両勢力に「政治改革政権」を提唱。両勢力が受け入れを表明したが、自民の対応は不十分と判断、全面的に受け入れた非自民勢力と連立政権を組むことになった。 7.24日、小沢、平野貞夫、連合の山岸章会長、社会党右派の山花貞夫委員長、田辺誠前委員長の5名が鶴首会議。 7.26日、新生、社民連も、社公民に続き、「政治改革政権」構想の受け入れを党議決定。 7.27日、新生党の小沢、「羽田首相」に固執せぬ意向を表明。 7.29日、非自民・非共産の8党派が党首会談開催。日本新党の細川護煕代表を首相にあて、連立政権を組むことで一致し、連立政権に関する合意事項発表(7党1会派覚え書き発表)。 「8党派連立」(社会党、公明党、新生党、日本新党、民社党、新党さきがけ、社民連、参議院会派・民主改革連合)は、新生党の小沢一郎の政治手腕に寄るところが大きかった。選挙前すでに新生・社会・公明・民社・社民連の5党首は非自民・非共産の連立政権の樹立を目指すことに合意していた。しかし、この非自民5党の議席の合計は過半数には届かなかった。一方、さきがけの武村正義と日本新党の細川護煕は、「本年中の政治改革の実現」をかなめに、「政治改革政権」構想を提唱した。自民にとっても、非自民にとっても、過半数の議席を確保して政権を握るためには、このさきがけ・日本新党を取り込まなければならなかった。数字的には自民党が飛び抜けた第1党であったが、カギはさきがけ・日本新党が握っていた。このことを素早く見抜き、行動に移ったのが小沢であった。小沢は、首相の座を、有力視されていた新生党の羽田にではなく、また、さきの5党中の最大勢力の社会党にでもなく、日本新党の細川16)に差し出すというウルトラCをやってのけた。非自民5党はさきがけ・日本新党の「政治改革政権」構想を受け入れ、これに民主改革連合を加えた8党派が、首相に日本新党の細川をあて、連立政権を組むことで一致した。 細川首相、武村官房長官、鳩山副官房長官(新党さきがけ)という統一会派さきがけ日本新党で首相官邸を固めた七党一会派による細川内閣が1993年8月9日に成立した。実に38年ぶりの政権交代であった。 7.30日、自民党総裁選で河野洋平が渡辺美智雄元外相を破り総裁に就任。 8.2日、加藤六月氏ら5議員、新生党との統一会派結成へ。 8月、細川は、同郷の園田博之の勧めで、田中秀征と雑誌で対談する。細川と田中は意気投合し、政界再編に向かう。 8.4日、新生党羽田党首、新政権は「戦争責任の明確化を」すべきだと講演で主張。 8.5日、宮沢内閣総辞職。 8.6日、衆参両院本会議で細川護煕日本新党代表が内閣総理大臣に指名される。細川総理大臣誕生(首班指名)。衆院議長土井たか子。女性議長は国会で初。 8.9日、細川内閣発足(連立政権)。組閣人事では、首相官邸が首相・細川、官房長官・武村、副官房長官・鳩山、代表幹事・園田、政策幹事・井出、首相特別補佐・田中秀征らによる統一会派「さきがけ日本新党」で固められた。国会でも総理会派ということで各議員が要職に就いた。大臣人事では、社会6、新生5、公明4、民社1、さきがけ1、社民連(日本新の枠)1、民間から2。このうち女性が3人含まれていた。新生党が主要閣僚を固め政権の中枢を担った。社会党は、書記長に久保、衆院議長に土井たか子が就任する。女性議長は国会で初。この流れを国民は歓迎し、細川内閣の当初の支持率は71%で、国民に大きな期待を感じさせるものとなった。 政治改革法案の動きは次の通り。「選挙制度改革を含む政治改革」は細川政権の悲願であった。社会党は、それまでの小選挙区制反対路線からの180度転換し、政治改革担当大臣の山花前委員長と自治大臣の佐藤観樹前副委員長という選挙制度改革担当の2大臣を出し、積極的に小選挙区制導入の中心的役割をはたした。 政府案として、「定数小選挙区250、比例区250の小選挙区比例代表並立制という小選挙区制の導入。企業団体献金は政党だけ。政党助成金は国民一人当たり500円、総額600億円」案を取りまとめ、その後「政党助成金は国民一人あたり335円、総額414億円に減額修正」となり、9.17日に国会へと提出した。自民党は、「小選挙区300、比例区171」案で対抗した。 11.16日、細川首相と河野洋平自民党総裁の会談で、「定数小選挙区274、比例区226、政党助成金を国民一人当たり250円、総額309億円」で合意される。11.18日、政治改革4法案が衆議院で可決。賛成270、反対226、棄権10。賛成には自民党から西岡武夫ら13人、反対には社会党から岩垂寿嘉男ら5人。 12月、政治改革法案優先か平成6年度予算編成を優先させるかを廻って、小沢と武村が対立した。小沢は政治改革を優先し、武村は景気対策に繋がる予算編成優先を主張した。結局、細川首相が小沢の補正予算による措置案を採用したが、国会の会期延長を廻ってそれを拒否しようとする自民党との攻防が待ち受けていた。 1994.1.10日、連立与党は参院政治改革特別委で、17日の中央公聴会開会を求める緊急動議を提出、賛成多数で可決。 1.21日、参院で政治改革法案が賛成118、反対130で否決される。賛成に自民5、反対に社会17の「造反」があった。衆議院ではなんとか可決されたものの参議院では社会党から反対する議員がでて否決されてしまった。結局、社会党の与党にあるまじきこの対応が細川政権の致命傷になる。 1.28日、細川首相は、土井衆院議長の仲介で河野自民党総裁とのトップ会談を行い、自民党の譲歩案を飲むかたちで1.29日なんとか政治改革関連4法案を成立させた。「定数小選挙区300、比例区200、比例区は全国11ブロック、企業団体献金は1団体を認め、1企業50万円。政党助成は、政党の前年収支の40%」となった。何とか政治改革法案を成立させ政権の最大公約を果たした細川内閣の支持率は高く2.1日の朝日新聞の世論調査では71%であった。 8.10日、細川首相記者会見。政治改革法案の年内成立に政治責任を表明、最大目標とした。8.25日、細川首相、「穏健な多党制に収斂」と表明。 8.10日、田中秀征が党代表代行に就任。8.11日、田中秀征が首相特別補佐に就任。 8.27日、 連立与党の政治改革法案の内容固まる。定数小選挙区250、比例区250、企業団体献金は政党だけ。政党助成金は国民一人当たり500円、 総額600億円。 8.30日、新生党の羽田党首、二大政党を中心とした体制が望ましいと発言。 9.16日、政府が緊急経済対策を決定。規制緩和、円高差益還元、総額6兆円の景気テコ入れ策など。 9.16日、参議院院内統一会派「日本新党・民主改革連合」結成届け出。 9.17日、政府が政治改革4法案を臨時国会に提出。政党助成金は国民一人あたり335円、総額414億円に減額修正。 9.20日、社会党委員長選挙で、村山富市を選出。山花貞夫政治改革担当相と交代。9.25日、村山富市が社会党新委員長に。 9.21日、臨時国会開会(細川首相所信表明)。 9.30日、政府、コメ輸入など冷害対策を決定。 10.12日、栗本慎一郎氏、新生党入り。 11.1日、緊急景気対策記者会見。 11.5日、小沢一郎新生党代表幹事への鹿島献金問題、連立与党内にも批判。11.8日、新生党の小沢、鹿島献金問題に関して記者会見。 11.16日、細川首相と河野洋平自民党総裁の未明の会談。定数小選挙区274、比例区226、政党助成金を国民一人当たり250円、総額309億円に 修正を細川首相から提示。自民は拒否。 11.18日、政治改革4法案が衆議院で可決。賛成270、反対226、棄権10。賛成には自民党から西岡武夫ら13人、反対には社会党から岩垂寿嘉男ら5 人。 11.18日、参院の日本新党・民改連、新生党が参議院統一会派記者発表(名称「日本・新生・改革連合」)。さきがけ、日本新党政治改革キャンペーン。政治改革法案衆院で可決。 12.2日、改憲発言で中西防衛庁長官が辞任。後任に愛知和夫。 12.13日、細川首相、ウルグアイ・ラウンドでコメの部分開放を決断。12.14日、コメの部分開放を閣議決定。 12.15日、衆議院で45日間の会期延長が強行可決される。自民党は欠席(出席4人)。社会党から欠席6人。 12.16日、田中角栄が死去。 12.17日、94年度予算案の越年編成を決定。1993年末、予算案の越年編成やむなしとする小沢に対して、武村が年内編成を主張し、亀裂が生じた。 12.17日、さきがけ日本新党「コメ部分輸入受け入れ」に対処するための緊急記者発表。 12.30日、細川首相、「高齢化が活力に結びつく社会の構築」「豊かで質の高い生活基盤の構築」などを柱とする「21世紀ビジョン」を発表。 当初はさきがけと日本新党の二人三脚で運営されてきた細川内閣。小沢一郎、市川雄一を中心とする新生・公明ブロックに。細川首相が軸足を次第に移し始めたことでバランスが変化した。具体的には94年度予算の越年編成をめぐる対立や政治改革法案成立後の求心力低下、国民福祉税構想、武村官房長官更迭を目的とした内閣改造問題などを経て、94年4月日本新党との合併構想の撤回、統一会派解消に至る。武村自身も、「12月26日の細川・小沢・市川会談以降、急に細川さんの態度がよそよそしくなった。」と述べている。 こうした動きに反発した日本新党の親さきがけ派の議員は後に日本新党を離党し、統一会派「さきがけ・青雲」などを経てさきがけに合流することになる。 |
1994年 1.4日、自民党を離党した西岡武夫、石破茂、笹川堯、大石正光の各代議士と鳩山邦夫代議士が、西岡氏を代表とする新会派結成を衆院事務局に届け出た。 1.4日、政府が防衛計画大綱見直しを1年繰り上げ。 1.5日、参院で政治改革法案、自民党欠席で審議開始。 1.7日、自民党、ウルグアイ・ラウンドでの政府のコメ市場部分開放受け入れについて、羽田外相・畑農水相の問責決議案を参院に提出。 1.10日、連立与党は参院政治改革特別委で、17日の中央公聴会開会を求める緊急動議を提出、賛成多数で可決。 1.21日、参院で政治改革法案を否決。賛成118、反対130。賛成に自民5、反対に社会17の「造反」。細川内閣の課題は何といっても政治改革の断行であった。細川内閣は政治改革の中で一番の焦点となった選挙制度改革12)について、小選挙区250、比例区250という政府案を、一部の反発はありつつも、なんとかまとめ、1993年9月17日に国会へと提出した。しかし比例区を多くしないと社会党が生き残れないという主張も強く、まとまりはしたものの一枚岩では無かった。それに対して自民党案は小選挙区300、比例区171であった。いよいよ審議に入った政治改革法案であるが衆議院ではなんとか可決されたものの参議院では社会党から反対する議員がでて1994年1月21日に否決されてしまった。内閣存続の生命線である政治改革法案については、なんとしても成立させねばならず、さらに予算の関係で時間が無かった細川内閣は1月28日の深夜、土井衆院議長の仲介で細川と河野自民党総裁のトップ会談を行い、自民党の譲歩案を飲むかたちで1月29日なんとか政治改革法案を成立させた。その案は小選挙区300、比例区200の案であった。13)しかし不完全とはいえ長年の懸案であった政治改革法案を成立させたことで細川内閣の支持率は高く2月1日の朝日新聞の世論調査では71%であった。 1.24日、さきがけ日本新党が、政治改革関連法の成立求める緊急アピールを採択。1.29日、修正の上、国会で政治改革関連4法案が成立。 1.26日、両院協議会開催。翌27日決裂。 1.28日、土井たか子衆院議長の斡旋で細川首相、河野総裁がトップ会談。定数小選挙区300、比例区200、比例区は全国11ブロック、企業団体献 金は1団体を認め、1企業50万円。政党助成は、政党の前年収支の40%まで。 1.29日、政治改革関連4法案法案が衆参両院で可決し、成立。 細川政権の最大公約が果たされたが、選挙制度改正へと「政治改革」の意味が矮小化されていったことは、否定できない。 1.30日、自民造反の参院議員3人(石井一二、木暮山人、星野朋市)新生党入り。 1.31日、日本新党・新党さきがけ政治改革法成立御礼キャンペーン。新党さきがけの田中秀征が政治改革法成立で区切りがついたとして首相特別補佐を辞任。江田五月、阿部昭吾 統一会派さきがけ日本新党入り。菅直人、新党さきがけに入党。星野朋一、石井一二、小暮山人、自民党を離党し新生党に入党統一会派入り。 2.3日、細川首相が突然「国民福祉税7%、97年4月からの実施構想」を発表。しかし、寝耳に水の社会党は政権離脱の構えで反対し、さきがけ、民社党からも批判が噴出した。翌2.4日、与党代表者会議が「国民福祉税」案を白紙に戻すことで合意。新生・公明の「一・一・ライン」の独断専行として批判された。 2.4日、参議院新会派「新緑風会」結成。 2.8日、細川首相が「国民福祉税構想」を撤回。政治改革法案をなんとか成立させた細川政権はその高い支持率を頼みに、2月3日にいきなり7%の国民福祉税構想を発表した。14)しかしこのことは大きな問題を巻きおこした。元々、細川が総理大臣になってから党との関係が疎遠になっていたことを不満に思っていた議員たちが、党になんの連絡もなしにその構想を発表したことに怒り首相官邸に押し掛けると言う事態となった。さらに、さきがけも構想に反対の態度を示した。そのことに驚いたのか細川は2月4日にすぐに構想を撤回し、2月18日には党本部に9ヵ月ぶりにいき議員職員懇談会を開いた。この時、細川は党の人間との関係修復のために「官邸にも気軽に来てください」などかなり気を使った発言をしている。15)党との関係は収まりそうな気配を感じさせたが、さきがけとの関係はさらに悪化することとなった。 細川が総理になって以来、日本新党内には、武村官房長官、鳩山官房副長官、田中首相特別補佐とさきがけの優遇がひどすぎるのではないかとの不満がくすぶり、さらに連立政権内で唯一与党の中核にいた経験をもち連立政権のなかでの存在感、発言権が圧倒的に大きかった新生党の小沢一郎と武村の確執が囁かれ、細川が小沢よりの態度を示すようになったため、そのあとの合併構想は一向に話が進まなかった。そうしたところに細川と小沢が中心となった国民福祉税構想がでてきたのである。その後、細川は小沢の指示により1994年2月15日に武村を官房長官から外すための内閣改造を企図した。それは実現せず、3月2日に断念されたが、4月に入り日本新党、さきがけ、共に合併を断念、そのことにより日本新党内の親さきがけ派の離党が相次ぐことになる。 2.8日、政府与党、6兆円の減税先行、1年間の時限、財源問題は年内国会で結論と決定。政府、総合経済対策を決定。2.10日、連立内閣で初の税制大綱と政府予算案の閣議決定。 2.14日、細川首相が連立与党幹部に内閣改造を打診。「新生・公明の社会・さきがけ外し、小沢の武村外しの思惑」が取りざたされ、これによって細川と武村、日本新とさきがけの関係悪化が表面化した。3.2日、細川首相が内閣改造を断念。結局、内閣改造は断念せざるを得なくなった。連立与党内の一連の争いは「一・一ライン」vs.「村・村コンビ」28)とも揶揄された。 2.16日、社会党の久保書記長「社会党は新生党と一つの党になれぬ」と語る。 2.22日、衆院予算委、細川首相が佐川急便から1億円を借金した問題で、国会法104条により東京地検、国税庁に資料提出を要求。両庁は拒否。 3.4日、修正政治改革法案が成立。細川首相、施政方針演説。 3.8日、日本新党の松岡新代表幹事が、さきがけとの合併に消極的な見解。3.24日、日本新党の松岡代表幹事が、統一会派の人事見直しをさきがけに要求。 3.16日、新生・日本新の「統一会派構想」浮上。3.17日、新生・日本新・民社、連立各党による新党の結成へ、努力をすることで一致。 3.27日、連立政権誕生後初の自民党との対決となる石川県知事選で、連立与党推薦の谷本正憲前副知事が初当選。 3.31日、参院予算委員会で細川の佐川疑惑を集中審議。日本新党とさきがけが合併を断念した頃、細川内閣も存続のピンチを迎えていた。細川の佐川急便からの一億円借金問題が国会で追及されたからである。この細川の一億円借金問題は日本新党が最初の参議院議員選挙に出馬したころから噂されていたことであるが、ここにきて細川の証人喚問が要求されることになってきた。そして、細川は4月8日にあっさりと退陣を表明してしまう。 4.6日、加藤六月氏らが新生党に入党へ。新生党、衆院で60人に。 4.6日、日本新党の常任幹事会で、さきがけとの合併を事実上撤回。4.7日、さきがけの武村も合併断念を表明。 4.8日、細川首相が総理大臣を辞任表明。新生・公明の結びつきが強くなり、「一・一ライン」が裏で強引に主導する二重権力構造が他党の反発を招いた。 4.8日、日本新党は統一会派「さきがけ日本新党」から離脱、新会派「改革」(日本新党、社民連 40名)を結成。 連立与党は次期政権に関する協議に入った。この中でさきがけは「新政権づくりに臨む基本姿勢」を発表し、新生・公明ブロックの政治手法に危機感を強める社会・民社両党と連携する構えを見せた。だが、党内に「連立維持派」と「離脱派」を抱える両党は、党の分裂回避を優先させて連立政権に残留することになり、さきがけだけが閣外協力に転じた。この結果羽田孜が内閣総理大臣に指名されるのだが、その後の統一会派「改新」騒動をめぐって社会党が政権を離脱、以後さきがけとの連携を深めることになる。 細川首相の後継問題の調整において、連立与党内の対立が表面化した。調整を行う場を代表者会議にするか、党首会談にするかで、新生・公明・日本新の3党と社会・さきがけ・民社などの4党派が分裂状態になった。代表者会議であれば、「一・一ライン」が参加できる、というのが論点であった。 小沢一郎は、新生党との協力を考えていた渡辺美智雄ら自民党内の一部29)と連携することも視野に入れていた。しかし、結局、連立与党は連立維持の方向で羽田を擁立することで合意した。ただし、さきがけは新生・公明主導の政権運営を警戒し、次期政権では閣外協力に転じることを決定した。 4.11日、さきがけ、社会、民社などの4党派が開いた党首会談に、新生、公明、日本新の3党が欠席。加藤六月、田名部匡省、吹田幌、山岡賢次、古賀 一成の5人、正式に新生党入り。新生党、衆院で60人に。 4.12日、自民党の河野洋平総裁が後継首相指名投票に出馬表明。与党は一転、連立の枠組み維持を優先することで基本的に合意。羽田孜副総理兼外相が後継候補に固まる。 4.15日、さきがけ、次期政権での閣外協力を決定。社会、民社両党は連立維持を前提にした政策協議入りを受け入れ、羽田擁立へ。自民党では鹿野道彦 前総務庁長官ら5人が離党。渡辺美智雄元副総理・外相、自民離党、新党結成の意向を表明。 4.18日、石破茂代議士が新生党入党へ。 4.19日、渡辺美智雄、自民党離党を断念し、後継首相指名投票への出馬も断念。自民党は河野洋平擁立で一本化。自民党の林寛子・小坂憲次議員が新生党入党へ。新生党、衆院で62人に。 4.22日、連立与党、首相後継候補に羽田副総理兼外相(新生党党首)を擁立することで決定。 4.25日、細川内閣が総辞職。衆院が羽田孜を首相に指名。 4.25日、新生、日本新、民社など5党派が、新生党を中心、社会党抜きで新統一会派「改新」が結成される。 4.26日、首班指名では連立に協力した社会党が連立政権を離脱。 4.27日、自民・社会、国会運営など協力へ。新生党批判でも一致。 4.28日、羽田内閣が39年ぶりの少数与党政権として成立。組閣人事では、新生党から8名、公明党から6名入閣し、両党で閣僚の3分の2を占めた。 羽田は「改革と協調」を掲げ、街頭での辻立ち演説まで行った。少数与党状態の解消のため、連立与党と社会党との間で、政策協議が行われたものの決裂した。内閣不信任案の成立が不可避と判断した羽田内閣は、解散総選挙という手段もあったが、結局、6月25日に内閣を総辞職した32)。羽田内閣は在任58日間という戦後2番目の短命政権に終わった。 新生・公明主導の連立与党は、次第に社会・さきがけの協力が得られなくなっていく。細川内閣退陣後に成立した羽田内閣が少数与党内閣になり、短命に終わったのは、必然だったのかもしれない。 5.7日、日本新党結党二周年。 5.9日、日本新党を離党したグループと、「さきがけ」が統一会派「さきがけ・青雲」を結成。 5.10日、羽田孜首相が衆参両院本会議で所信表明演説。基本理念は「改革と協調」。最重要課題に政治改革。衆院小選挙区の区割り法案の早期成立、新選挙制度での次期総選挙、税制改革の年内実現を表明。 5.10日、政務次官人事発表。郵政政務次官−永井英慈、環境政務次官−鴨下一郎、 農林水産政務次官−木幡弘道、総務政務次官−石井紘基、法務政務次官−牧野聖修。日本新党議員懇談会。 5.12日、衆院で代表質問。自民党の河野、社会党の村山それぞれ、羽田政権の「強権的政治手法」、「二重権力」構造などを批判。5.13日、参院でも代表質問が始まる。 5.17日、衆院議院運営委員会理事会、自民党が提出した奥田敬和議運委員長(新生党)解任決議案の採決を棚上げ。社会党、採決の延期を要請。自民党、受け入れ。 5.19日、新生党、愛野氏を議運理事から外す異例の人事。小沢批判が原因か。野末陳平新生党入り。 5.20日、公共料金値上げの年内凍結を、閣議決定。 5.20日、荒井聡、枝野幸男、前原誠司、高見裕一が離党(民主の風へ)。 5.22日、さきがけ議員団(武村、鳩山、錦織)訪米、28日帰国。 5.22日、社民連解党、日本新党と合併。 5.23日、衆院予算委の総括質疑始まる。連立与党の政策合意にある普遍的安全保障と集団的安全保障の関係について、羽田孜首相「ほぼ同じ意義を有する」と答弁。 5.26日、社会党の久保亘書記長、羽田首相と会談。予算成立後に内閣が自発的に総辞職すれば社会党の政権復帰もあり得ると伝えた。首相は「任務を懸 命に果たすのみ」と回答。 5.28日、社会党が連立政権離脱後初めての中央委員会を開催。村山富市委員長が羽田政権に対して総辞職による新たな連立政権づくりか、衆院の解散・ 総選挙を求める考えを表明。 5.29日、社会党執行部は中央委員会で、羽田内閣が自主的な総辞職に応じれば、新たな安定政権づくりに参加し、総辞職しない場合は解散・総選挙を求 める、との両にらみの戦略を訴え、了承を得た。 5.31日、統一会派を「さきがけ・青雲・民主の風」に改める。 6.1日、民社党の大内啓伍が「改新」結成問題で辞任。6.8日、米沢隆が民社党の新委員長に。 6.6日、北朝鮮の核問題に関して、羽田孜首相は、柿沢弘治外相、熊谷弘官房長官らに中国への働きかけなど外交努力による平和的解決に努めるよう指 示。 6.16日、 佐川問題に関連して細川の証人喚問が決定。細川の証人喚問に対する抗議(談話)発表。細川の証人喚問に対する申し入れを行なう。 6.19日、新生党閣僚と山花貞夫・社会党前閣僚らが会談。 6.21日、細川証人喚問(衆院予算委員会)。 6.22日、22日 社会党が政権構想「新たな連立政権の樹立に関する確認事項」を連立与党に提示、政策協議へ。 6.23日、自民党、94年度予算の成立直後、内閣不信任決議案を衆院に提出。 6.23日、新政党、結党一周年に当たり、東京・渋谷のハチ公前広場で街頭記念演説 会を開催。 6.23日、園田代表幹事が社会党に「村山首相」構想を提案。 6.24日、社会党が、内閣が「自主的総辞職」をした場合、羽田首相の再任はありえないとの考えを示したことで、連立与党と社会党の政策協議は事実上 決裂。連立与党と社会党の政策協議が不調に終わる。 6.25日、羽田内閣総辞職を決断。臨時閣議で決定。 さきがけは、新政権樹立に向けて「共存への貢献と行政改革」と題する声明を発表し、民権政治の実現、行政改革の推進、安保理常任理事国入り問題などに対する見解を示した。同じく独自の政権構想を発表していた社会党は、連立復帰を求めるグループと自民党との連携を模索するグループに分かれていた。そこでさきがけは早々と「村山首班」構想を社会党に提示し、両党は基本政策に関して合意に達した。社会党とさきがけが新たな政権構想を合同でまとめることで合意。 その後社会党は、連立与党および自民党との両にらみで協議を進めたが、さきがけと新生・公明ブロックとの対立は解消できなかった。結局社さ両党の合意に自民党が無条件で同意する形で「自社さ連立」政権が決まる。 6.26日、新生党、社会党からの政策協議の再開申し入れを拒否。社会党、自民党からの政策協議に応じることを決定。 6.27日、新生党の小沢、羽田再任改めて否定。自民党の河野洋平総裁と社会党の村山富市委員長が会談。事態の早期収拾と、国会会期延長は避けるとの方針で一致。 6.27日、社会党とさきがけが基本政策について合意が成立。 6.28日、社会党が連立政権復帰も模索。村山委員長と与党7党派の党首・代表会議で政策協議に入ることを合意。 6.29日、社会党と旧与党の政策協議が税制改革などをめぐって決裂。自民党が社さ両党の政策合意に同調して国会は村山首班を指名。連立側は自民を離党表明した海部俊樹元首相を擁立。決選投票の結果、村山が首相に指名された。 この時、キャスティングボードを握っていたのは社会党であった。社会党が、連立側か自民党のどちらにつくかで勝負が決まる状況であった。ここで、自民党は政権復帰への執念を見せ、社会党委員長の村山富市に首相の座を差し出し、自社連立のための接着剤としてさきがけをパートナーとした。これに対して、小沢一郎は、自民党を離党した海部俊樹元首相を連立側の首相候補に擁立し、自民党の分裂をねらった。しかし、決選投票の結果、村山が首相に指名された。新生党は野党へと転落する。 6.30日、自社さ連立の村山連立内閣が発足。副総理・外相に河野洋平自民党総裁。 村山内閣は、武村、村山、河野洋平の3党首をシンボルとするハト派政権を目指した。首班には、自民党を離党した海部俊樹との対決を制した村山富市社会党委員長が選ばれ、さきがけからは武村蔵相、井出厚相、園田官房副長官が入閣した。また錦織淳が首相補佐に就いた。村山内閣の当初の支持率は35%。 新生党は野党に転落し、小沢は、新生党代表幹事の辞表を提出した。しかし、それは受理されず、その後の撤回もなされなかったため、うやむやになった。渡部恒三氏が党務代行。党内では、かねてから小沢の専制的なやり方に対する反発が目立っていたが、8月になって小沢は批判派と妥協し、民主的な集団指導体制で運営するようになった。新生党は、政権交代可能性のある健全な政治を目指し、二大政党制への移行を主張する。そして、小選挙区比例代表制をにらみ、野党を結集する新・新党運動を主導し、「新進党」へと発展的解党を遂げる。 その中でさきがけは、55年体制の下でイデオロギー対立を続けてきた自民・社会両党の接着剤役を果たそうとした。自衛隊合憲や日米安保維持といった基本政策の転換を社会党に迫るとともに、逆に自民党単独政権ではなし得なかった水俣病問題や被爆者援護法、従軍慰安婦問題の解決などを実現した。 しかし、特殊法人の改革問題で自民党と激しく対立し、北海道や三重県の知事選への対応を巡って社会党の反発を呼ぶなど、自社両党の板挟みの中で苦しい政権運営が続いた。しかも特殊法人問題での大蔵省との協力姿勢や、二信組救済問題での渋々の処理策追認は、党代表でもある武村蔵相への配慮と改革志向とのジレンマをさらけ出すことになった。 7.4日、新生、公明、民社、日本新党が新党準備で一致。 7.4日、鳩山由紀夫がさきがけの新代表幹事に就任。 7.5日、中島章夫、枝野幸男、荒井聰、前原誠司、高見裕一、五十嵐ふみひこの6名が入党。衆議院の会派名を「新党さきがけ」に変更。 7.7日、旧連立与党「改革推進委員会」発足。細川が最高顧問に。 7.14日、日本新党常任幹事会「新・新党」を了承せず。 7.15日、参院の小林正、新生党へ。新生党、参院で14人に。 7.20日、村山首相が国会答弁で「自衛隊合憲」「日米安保体制の堅持」を明言。 さきがけが、95年度予算で、自社両党の特別枠要求に同調しないことを決定。 8.1日、新生党の愛野氏、新・新党結成で小沢氏主導は「いけない」と反旗。 8.14日、 「侵略戦争」を否定する発言をした桜井環境庁長官が辞任。 8.18日、新生党、小沢一郎代表幹事が留任。党結束を優先し、批判派と妥協。顧問会議を新設。「集団指導体制」で出直し。 8.31日、日本新党常任幹事会で「年内に」新党結成を確認。 9.5日、村山連立政権へ対抗する形で旧連立勢力の合同首脳会議が開かれた。この時、「責任ある政治を求めて――新党結成への基本理念」と「新党結成に向けての国民へのアピール」を発表した。基本理念の特徴としては「責任ある政治」「たゆまざる改革」を掲げる改革の内容:政治改革・行財政改革・地方主権の確立・経済改革・教育改革、「長寿福祉社会の基礎確立」「男女共同参画社会」を目指す「一国平和主義・一国繁栄主義からの決別」を表明、国連安保理常任理事国入り問題→旧連立勢力内に異論→基本理念への明記は見送る、などが挙げられる。 9.9日、新党協議会の第2回世話人会で小沢一郎新生党代表幹事を世話人会座長に選任。 9.11日、村山内閣で初の国政選挙である参院愛知再選挙で、旧連立グループの推す都築譲が、連立与党の推す水野時朗に約39万票の大差で圧勝。 9.22日、与党3党が、97年4月から消費税率を5%に引き上げることを決定。 9.22日、公明党拡大中央執行委員会が新・新党に参加することを正式に決定。 9.27日、海江田万里、石田、遠藤、牧野が「改革」「新党準備会」に不参加を決定。寺沢、武田、小島「新党準備会」入り。「改革」187名で結成。 9.28日、新生、公明、日本新、民社など共産を除く野党の各党派187名が、参院の統一会派「改革」結成。自民党の200人に継ぐ衆院第2勢力が誕生した。午後には衆院186人、参院39人、計225人の国会議員による「新党準備会」が正式に発足。新党準備実行委員長に新生党の小沢一郎代表幹事が選出された。新・新党の党名は公募により「新進党」に決定した。新進党への参加方式でもめた公明党は、分党方式をとることを決めた。 9.28日、新党準備会発足式(キャピトル東急ホテル)衆参で225名。海江田らが「民主新党クラブ」結成届け出。 9.29日、新生党の長城計画・日本中国交流使節団(団長石井一前自治相)236人が出発。新生党の16国会議員が参加、中国の喬石全人代常務委員長 ら要人と交歓(10月4日帰国)。 9.30日、新党準備会役員人事発表。海江田、石井、遠藤、牧野が常任幹事を辞任し、統一会派「改革」より離脱。日本新党が党大会で、解党・新党参加を正式決定。 10.5日、羽田孜新生党党首、衆院本会議で「改革」を代表して代表質問に立ち、小選挙区区割り法の成立後すみやかに衆院の解散・総選挙をするよう要 求。 10.5日、自民党が鳩山由紀夫に、北海道知事選出馬を打診していたことが明らかになる。11.21日、鳩山由紀夫が北海道知事選への出馬を断念。 10.9日、新生党の小沢、国会欠席し仏へ。心臓病検査の憶測も。 10.24日、さきがけの田中秀征が社会党の山花貞夫と会談。 10.30日、第一回日本新党党大会開催(東京プリンスホテル)。 11.2日、行政改革委員会設置法が成立。 11.5日、公明党は党大会で、新生党などとつくる新・新党に大半の国会議員が参加、地方議員などは当面従来の党組織に残るという活動方針を採択し、 「分党」を決定。 11.8日、鳩山代表幹事が、社会党が提唱している新党構想に当面同調しない考えを表明。 11.14日、社会党から、さきがけとの統一会派構想が浮上。 11.16日、新生党全国代表者会議。12月9日に新党に移行するため新生党を解党すること、同10日に公明、日本新、民社など野党各党派と新・新党を 結成する方針を決定。 11.16日、さきがけが、知事・政令指定都市長に関し、4選以上の候補を公認・推薦しない方針を決定。田中秀征が、社会党との統一会派結成の可能性を否定。 11.21日、衆院の300小選挙区の区割り法(改正公職選挙法)が成立。12月25日施行。 11.24日、政治改革関連法案のうち、区割り法案など4法案が成立。 11.24日、新・新党の党名は、公募により「新進党」に決定。綱領、規約、当面する重点政策を決定。 12.1日、細川「新・新党」の党首選に不出馬を表明。石井離党。 12.5日、公明党が第34回臨時全国大会を開催。新進党に参加する「公明新党」の設立総会と残留する参院議員と地方議員からなる「公明」の結党大会を開催。公明党が「分党」方式で新進党に参加することを決定。 12.6日、参院新生党有志、新進党の党首の選挙による選出を申し合わせ。新生党の栗本、日本新党の小泉らは新進党に不参加の方向。 12.8日、新進党の党首選挙で海部俊樹、羽田孜、米沢隆の3氏が争った結果、海部俊樹元首相が当選。幹事長は小沢一郎が無投票で選出。 12.9日、新生党、日本新党、民社党などが解党、新進党へ。 新生党は正式に解党をして1年半に及ぶ活動に幕を閉じた。民社党が第40回臨時全国大会を開催し、民社党の解党、新進党への参加を決定。 新生党は自民党の派閥を割り、政権交代を実現させる中心となり、久々に政治に劇的な緊張感を生み出した。しかし、自民党時代と変わらぬ一面39)を見せたり、権力闘争に明け暮れるなど40)のマイナスのイメージがつきまとった。新生党は、1年半というわずかな期間ではあったが、政界再編の激動期にあって、小沢一郎のビジョンと政治力によって、良くも悪くも政界をかき回した存在意義の大きな政党であったと言えよう。 12.10日、新進党結党大会を横浜市みなとみらい21「パシフィコ横浜」で開催。結党大会には新生党、公明新党、日本新党、民社党などから衆参2214名の議員が参加。新進党発足。海部俊樹党首=小沢一郎幹事長体制で始まることとなった。「自由、公正、友愛、共生」を基本理念として、「たゆまざる改革」と「責任ある政治」を推進することを決議した。 日本新党は当初から、新党さきがけとの合併を予定していたが、選挙制度改革により小選挙区が誕生するのに伴い元々新人議員が多く地盤が弱い日本新党の議員では小選挙区を戦えないという懸念が出始め、もっと大きな規模での党の合併が目指される素地はあった。また、連立政権が出来た頃から連立与党の合併による新党作りの話が出るようになり始めた。日本新党の中には民社党との連携を先にすることを望む声もあり、新党準備会が発足した後にも、新・新党への参加が常任幹事会で了承されない程であったが、結局は新・新党の結成に参加することになった。そして1994年10月30日の第一回の党大会でそれが了承され、第一回の党大会が解党大会となった。こうして日本新党は、活動の基盤を確立することが出来ず、風に乗って誕生し、風のように時代を駆け抜けて、歴史の表舞台から姿を消した。 12.27日、「明日の内閣」(政策準備委員会)発足 |
1995年(平成7) 1.9日、新進党両員議員総会を開催。「明日の内閣」の第1回の会合開催。 1.12日、社会党の村山首相が、さきがけとの統一会派結成に積極的な姿勢を表明。1.13日、武村代表も、社会党との統一会派に積極的な姿勢を表明 1.13日、反小沢派」(愛知・愛野ら)が勉強会。川端達夫(旧民社党)が新進党離党。 1.17日、阪神・淡路大震災発生。 1.18日、三重県知事選、新進党など北川を擁立→新会派「民主連合・民主新党クラブ」が正式に結成されるまで無所属。 1.20日、第132国会召集。新進党組織委員会が入党運動の要綱を策定、目標は300万党員。 2.25日、田中秀征が、不戦決議採択は当然との見解を表明。 2.5日、前新進党衆議院議員の木村守男が青森県知事選挙で当選。 2.14日、山口敏男、幹事長代理を辞任。3.22日、山口敏夫、新進党を離党。2信組問題で「党に迷惑かけた」。 3.7日、参議院選挙と統一地方選挙の「選挙対策本部」を党本部に設置。小沢幹事長が連合(鷲尾悦也事務局長)と初の首脳会談、選挙協力など合意。友愛会(服部光朗ゼンキン連合会長)との幹部初会合。 3.15日、さきがけが、政策大綱「われわれがめざす日本の進路」を発表。月刊の党機関紙「党報さきがけ」(後に「通信さきがけ」)を創刊。 3.20日、地下鉄サリン事件発生。 3.28日、鳩山、菅の2名が与党代表団の一員として北朝鮮を訪問。 4.9日、新進党推薦候補が岩手県(増田寛也)、三重県(北川正恭)など重点知事選挙で勝利。道府県議会議員・指定都市市議会議員選挙などでも躍進。 4.23日、政令指定都市以外の市長・市議会議員、特別区の区長、町村の町村長、町村議会議員の各選挙の投票が行われ、新進党公認・推薦候補が多数当選した。 5.1日、社会党と政策研究会の設置で合意。5.4日、武村代表が、社会党との新党結成の可能性について言及。5.5日、社会党の村山首相が、さきがけとの連携について意欲を表明。5.9日、社会党との政策協議で、新党準備会参加に慎重な姿勢を表明。 5.8日、野末陳平が新進党から離党。参院会派は平成会にとどまる。5.10日、太田誠一も新進党離党の届。5.25日、小林正が新進党を離党。参院会派は平成会にとどまる。 5.27日、社会党が臨時党大会で新党結成を明記した「95年宣言」を採択。 5.28日、鳩山代表幹事が戦後50年決議に関して、歴史観が違えば連立解消も辞さないと表明。 6.8日、さきがけが、ゴラン高原PKOへの自衛隊参加を条件付きで容認。 6.12日、新進党が「村山内閣不信任決議案」を提出したが、与党3党などの反対多数で否決。自社さ3党首が、新3党合意を急ぐことを確認。 6.16日、さきがけが、フランスの核実験再開決定に反対する党声明を発表。6.22日、武村代表らがフランス大使館を訪れ、核実験再開に抗議。 6.16日、水俣病解決へ向けて与党3党が合意。政府が北朝鮮に対するコメ支援を決定。 6.30日、与党3党が「新3党合意」を決定。 7.3日、結党2周年パーティーを開催。 7.17日、菅直人が「みなし配当課税」凍結を提案。「危機管理体制強化の提言」を発表。 7.18日、住専処理策を発表。 7.20日、初めて政党助成金が交付される。 7.23日、第17回参議院通常選挙投開票。新進党が大躍進。新進党は、2.5日の青森県知事選挙では前新進党衆議院議員の木村守男が当選、4月には党推薦候補が岩手県、三重県など重点知事選挙で勝利した。また政令都市以外の市長・市議会議員、特別区の区長などの各選挙でも新進党公認・推薦候補が多数当選した。そして7.23日の第17回参議院通常選挙でも比例区で自民党を上回るなど、改選議席19を倍増する40議席へ躍進した。この選挙では比例区で1,250万票余りを獲得して18議席を占め、選挙区では1,100万票余りを獲得して22議席を占めて新進党の最盛期となった。 しかし「親小沢」「反小沢」の確執が始まり、離党者が出始めたのもこのころだった。1月13日には「反小沢派」とされる愛知和男・愛野興一郎が勉強会を開き、同じ日に、旧民社党の川端達夫が離党した。続いて3月22日に山口敏夫が、5月8日に野末陳平が、10日に太田誠一が、25日に小林正が相次いで離党した。 さきがけは3議席を獲得(奥村展三、水野誠一が初当選)、目標には及ばなかった。 8.4日、第133臨時国会召集。 8.28日、武村正義が、参院選の責任を取って代表の辞意を表明。第2期さきがけ塾開講。武村蔵相が、大蔵省財政金融研究所長を解任。8.29日、武村正義が代表の辞意を撤回。8.30日、武村代表が、「第三極」結集に関して社会党との連携を進める考えを表明。 そこでさきがけは第2次村山内閣成立に際して、連立継続の前提として4項目の緊急課題(総理官邸機能の強化、審議会の公開、土地バンクの創設、国連改革検討機関の設置)を提唱するとともに、さきがけ枠の経企庁長官に民間人を推薦するなど、存在感をアピールしようとした。またフランスの核実験に対しては、「環境重視」「非軍事的国際貢献」という党理念を体現すべく、タヒチでの抗議行動に参加した。宇佐美登、田中甲がフランス海軍に拿捕されるという事件が起きたが、おおむね世間の評価は高かった。 村山首相とは阿吽の呼吸で「社さ新党」に向けた発言を繰り返し、政策協議、選挙協力、新党構想など様々な計画が浮上しては消えていった。この背景には、党内の保守系議員の中に社会党に対するアレルギーがあったことと、労組主体の党運営を恐れた若手議員の賛同が得られなかったことが考えられる。結局この武村・村山主導による「社さ新党」構想は、田中秀征を中心として10月に設置された基本戦略委員会の抵抗に遭って頓挫し、自民党議員や学者・文化人も参加する勉強会の設置で決着した。(96年1月発足のフォーラム「日本の進路」) またこうした問題とは別に東京では、菅直人が中心になってリベラル勢力の結集を目指す動きが見られた。 7.31日、参議院に院内会派を結成(代表は堂本暁子)。 8.8日、第2次村山内閣が発足。武村蔵相が留任、経企庁長官に民間の宮崎勇氏を推薦。 8.9日、武村代表が、解党的決意で第三勢力を結集する意欲を示す。社会党の村山首相が、さきがけを連携相手に想定して新党構想を進める考えを表明。 8.10日、 菅直人が、東京で第三勢力結集を目指すため海江田万里らと会合。 8.12日、武村代表の進める社党との新党構想に対して、鳩山代表幹事が否定的な考えを表明。 8.15日、村山首相が「戦後50年」の首相談話を発表、英兵捕虜問題で謝罪。村山内閣の閣僚9人が靖国神社に参拝。 8.24日、ゴラン高原へのPKO派遣を了承。さきがけの要求を受け、村山首相が私的諮問機関「国連問題懇談会」設置の方針。 8.28日、井出正一が党政務幹事に就任、総務会長には中島章夫が昇格。 8.31日、 菅直人が、「リベラル結集を目指す東京会議」準備会を発足。 9.7日、田中秀征が、首相の私的諮問機関「国連問題懇談会」に関して申し入れ。政治資金収支報告書をホームページで公開。村山首相が全国知事会議で 「官官接待」の自粛を要請。 9.13、 社会党とさきがけが、次期総選挙での選挙協力を進めることを確認。9.21日、社会党の新党結成方針に対し、田中秀征が合流しないとの考えを表明。 9.22日、自民党総裁に橋本龍太郎氏が就任。外務省に対して「外相国連演説に対しての再要望」を提出。鳩山代表幹事が、社会党が設置を予定している 新党結成委員会にも不参加を表明。 9.29日 第134臨時国会召集。新進・海部党首、旧公明はずし?人事構想、唐突と市川ら猛反発。市川政務会長が退任、党内にしこり残す――新進党 人事。 10.1日、鳩山代表幹事が、総選挙前に第三極結集を実現する意欲を示す。 10.3日、「明日の内閣」 改造に伴い、新党役員人事を発表。市川雄一衆議院議員に代わり渡辺恒三衆議院議員が政務会長に就任。 10.5日、 村山首相が、第三極結集に向けて学者や文化人中心のフォーラム設置を提唱。 10.6日、ゴランPKOに関して機関銃の携行を認める。薬害エイズ問題の真相解明を要求。臓器移植法案の採決に関して、党議拘束を外す方針を確認。 10.7日、鳩山代表幹事が、社会党との合併による新党結成を否定。10.15日、鳩山代表幹事が、社会党主導の新党参加を改めて否定し、党の独自性強 調を表明。 10.12日、鳩山代表幹事が、自民党首相政権に対する抵抗感が薄れているとの認識を示す。 10.13日、自民党の江藤総務庁長官が辞任。 10.14日、菅、枝野の2名が厚生省に「血液製剤によるHIV感染薬害に関する質問趣意書」提出。 10.17日、鳩山代表幹事が、社会党の新党結成の手法を批判。 10.19日、前北海道知事の横路孝弘が、さきがけとの連携を重視する考えを表明。宝珠山防衛施設庁長官が辞任。 10.20日、社会党支持の労組会議から、武村正義を中心とする第三極構想(武村新党)が浮上。 10.21日、社会党の村山首相が第三極結集に関して、武村正義との連携を重視する考えを強調。10.23日、鳩山代表幹事が「武村新党」に関して、時間をかけて進めるべきとの考えを示す。 10.24日、新進党・共産党とともに、薬害エイズに関する集中審議を要求。 10.25日、田中秀征が、「武村新党」に同調せず社会党主導の新党にも合流しない考えを表明。 10.26日、社会党との会談で、新党への早期合流を拒否。菅直人が、沖縄振興のための特別立法を提唱。社会党との勉強会構想を最終的に受け入れる方針。鳩山代表幹事が、新進党の羽田陣営の離党に期待感を示す。 10.27日、社会党の村山首相が、さきがけとの勉強会設置に改めて意欲を示す。社会党との勉強会「フォーラム日本の進路」に自民党議員も加えることを 決定。新進党の小沢一郎が新党首に就任。 10.28日、政府が新防衛計画大綱を閣議決定。 10.28日、武村代表が、社会党議員が個々で参加する形の新勢力結成に前向きな姿勢を示す。 10.31日、さきがけが、自民党と選挙協力についての正式な協議を開始。 11.10日、友愛会、新進に組織的参加へ 11.25日、「幹事長は小沢以外」羽田出馬へ意向固める―新進党首選。11.29日、小沢擁立へ署名集め検討、新進に新グループ若手ら「第三の候補」検討。 12.2日、武村代表が、さきがけ主導の新党結成に改めて意欲を示す。 12.19日、 武村蔵相、住専処理策決定。村山首相が提唱している第三極結集に向けた協議の場作りで同調する方針を決定。 12.20日、住専処理問題で、武村蔵相を支えていくことを確認。 12.22日、基本戦略委員会で、社会党との第三極結集に向けた協議の場作りの方針を撤回。 12.24日、自民党のグループ・新世紀と、相互の交流を深めていくことを確認。武村代表が、基本戦略委の「同調撤回」に不満を表明。 12.28日、新進党党首選。「公開党首選」で行い、小沢一郎が羽田孜を112万票対56万票で大差をつけて破った。羽田が小沢一郎幹事長に敗北する。参加条件は18歳以上で参加料1000円を払うというものだった。 12.9日、新進幹事長に米沢隆元民社党委員長。党務・選対は小沢側近。 小沢は大差をつけて当選したものの、海部、船田、鳩山らが立候補の動きを見せるなどしたため、このころから新進党内の溝が深まっていった。また、この党首選は羽田不在の間に党首選に関するさまざまなことが決められたり投票用紙が捨てられて一般参加の投票者に確認がとれなくなるなど「不明朗な選挙」(羽田)だったため、小沢と羽田との間に確執が生まれた。党首選後、小沢は党務・選対に渡辺恒三や二階俊博、西岡武夫などの側近を登用して自らの回りを固めた。 これにより新進党が分裂含みとなる。翌96.1月に反小沢派「興志会」が結成される。「興志会」の結成の背景には、羽田らが小沢の政治手法に対して反発していたこと、感情的なしこりが存在していたことなどが推測されているが、それ以外に既に「保保志向」か「野党結集」かの路線上の対立があったのではないかと思われる。新党の立ち上げは、第一に政党助成法上の規定から12月の末がリミットであること、第二に10月の衆院選で新進党が事実上敗北し、その将来が見えてきたこと、があり、12月26日となった。その過程で羽田は、小沢に対し「分党」を認めるように要求したが、これは認められなかった。(ここで「分党」という言葉を使い「離党」と言わないのは、政党交付金の配分が異なるからである。政党交付金は所属国会議員数と国政選挙の得票率に応じて配分される。政党助成法上の「分割」=分党を行えば「議員数割」と「得票率」の両方が支給されるが、「離党・新党結成」の場合には、「議員数割」だけで、交付金はほぼ半額になる1)。もっとも、党の解散を伴う分党を小沢等が認めるはずもなく、羽田らは、離党することを余儀なくされた訳である。)分裂は比較的スムーズに行われる。その背景には、ここでガス抜きをすれば自らのリーダーシップの強化に繋がるとの小沢の思惑もあったのではないだろうか。新党結成が固まった12月7日の段階で羽田は、「30人規模にしたい」と発言していたが、12月13日には作曲家の三枝成彰に「15人くらいがちょうどいいんだ。30人も、40人もいると(党の)顔が見えなくなる。国民が反対することをいえる政党を作りたい。」と述べている。現実に衆参合わせて13人でのスタートとなった。 |
1996年(平成8年) 1月、新進党内反小沢派が「興志会」結成 1.5日、村山首相が突然の辞意表明。 1.6日、新政権に向けての与党3党の政策合意が成立。最重点課題として、大蔵省による金融行政の大幅な改革、農協系金融機関を含めた農林関係組織の改革、薬害エイズの真相究明と薬事行政の改革、という3点が掲げられたが、これらはいずれもさきがけが強く主張して盛り込まれたものだった。この合意を受けて自社さ3党は、橋本龍太郎を首班候補に擁立、さきがけからは田中秀経企庁長官と菅厚相が入閣した。同時に武村が羽田内閣時以来1年半ぶりに党務に復帰し、更なる政界再編に向けて再び動きを強めていくことになる。 1.11日、第1次橋本内閣が発足。田中秀征経企庁長官、菅厚生大臣が入閣。 橋本内閣の発足に伴って党務に復帰した武村代表は、あくまで社民党との合併による新党結成を模索したが、園田博之を始めとした党内の反発を受けて断念した。そんな中、鳩山代表幹事と新進党の船田元による新党構想が表面化し、以後新党を模索する動きは鳩山を中心に進むことになる。鳩山は友愛精神を基軸にしたリベラル新党の結成を目指し、新進党に所属する弟邦夫とともに自民党や新進党も視野に入れた、既成の枠組みにとらわれない政界再編の道を模索した。特殊法人改革、住専処理などを通じてイメージを低下させていた武村代表に対する不満や、小選挙区制の選挙に対する不安を抱える党内の若手議員、特に前回の総選挙で新党ブームに乗って当選した1年生議員は、こうした鳩山の動きに対して期待を寄せていった。しかしながら、ただでさえ存在感を喪失しつつある小政党にとって内部の路線対立ばかりが報じられるのは致命的であり、党勢はますます衰え、それに伴って選挙への不安が高まるといった具合に悪循環に陥りだした。 武村と鳩山由紀夫の路線対立は、さきがけの発展的解消、新党結成という方針で一旦は収束するかに見えた。しかし、さきがけ主導の新党に危機感を抱く弟邦夫の意向もあって兄由紀夫が態度を硬化、個人単位での結集と武村・村山両氏の不参加を主張し始める。事態収拾のため96年8月に行われた武村・鳩山会談も不調に終わり、鳩山とその同調者が離党する結果となる。武村は責任を取って代表を辞任し後任には、菅直人が代表就任要請を固辞したために井出正一が選ばれ、菅と田中秀征を副代表、園田を代表幹事とする新体制が発足した。以前からさきがけのメンバー全員が新党に移行することを望んでいた菅副代表が、鳩山新党との仲介役として登場するが、幹部を中心にさきがけ残留の声が高まり、結局菅は多くの若手議員とともにさきがけを離れて鳩山とともに民主党を結成する。 1.13日、羽田、「21世紀」の荒井将敬代表と連携に向けた協議を開始。 1.16日、 田中秀征・園田博之の副代表就任などを内定。 1.18日、石井紘基が入党。鳩山代表幹事が、党独自の調査から総選挙で1ケタに なるとの見通しを示す 1.19日、 社会党が定期大会で党名を「社会民主党」に変更。 1.19日、新進党第2回定期全国大会を日比谷公会堂で開催。 1.20日、太陽、民主両党は、「21世紀」を含めて経済政策を話し合う「緊急経済対策会議」を設置。 1.20日、鳩山代表幹事が、新党結成に向けて党内の意見調整を急ぐ考えを示す。 1.21日、太陽、新進、民主三党の国会対策責任者は、平成8年度補正予算案の対応について共同で修正案を出すことを確認。 1.22日、羽田グループの政策勉強会の旗揚げが行われる。 1.23日、民主党の鳩山由起夫、太陽党の羽田党首は、統一会派を視野に入れた週一回の定期協議を開くことを再確認。 1.24日、社民党と政策に関する定期協議を行うことで合意。自民党のグループ・新世紀が会則を改め、さきがけなど他党派議員の加入を認める。 1.28日、鳩山代表幹事が既成政党の枠組みにこだわらない政界再編の必要性を改めて強調。 かつて一・一ラインと言われて盟友だった市川雄一が「通常国会終了後に旧公明で勉強会を」(朝日新聞)と発言したり(1月20日)、羽田グループが勉強会「興志会」を発足させたり(2月1日)、細川護熙が田中秀征、小泉純一郎と新しい勉強会を発足させる(2月13日)など不穏な動きが活発化した。 2.1日、羽田グループの初会合、勉強会「興志会」(66人)を正式に設立する。 細川が田中秀征、小泉純一郎と新しい勉強会発足へ。 2.5日、自民党の加藤紘一幹事長、社民、さきがけとの連立を基本としながらも、行政改革実現などのため、太陽、民主両党との連携を目指す考えを表明。 2.6日、自民党、財政削減へ協力要請、太陽、民主両党などと政策協議。 2.16日、菅厚相が薬害エイズ問題で国の責任を認め、患者・家族に直接謝罪。鳩山代表幹事が、小選挙区制の見直し論議に慎重な姿勢を示す。 2.20日、鹿野道彦・田名部匡省・増子輝彦を中心に「政治改革・政党政治を推進する会」を結成。 2.21日、社民党との合併を前提とした新党協議を棚上げ。住専問題に関係した金融機関からの政治献金受領を最低1年間自粛。 2.22日、自民党のグループ・新世紀が社さ議員を加えて総会、さきがけから7人参加。 2.25日、京都市長選挙、新進を含む5党が推薦した桝本頼兼が当選。 1996年の通常国会では住専問題が最大の焦点となった。この住専処理に対して政府・与党は6850億円の税金を投入しようとして世論の批判を浴びたので、これを機に政局を揺さぶろうと新進党は3月4日から25日までの22日間、国会内でピケ戦術を採ったがこれが思いの外、不評で世論にそっぽを向かれてしまい結局失敗に終わった。 3.19日、住専問題を巡り、小沢党首と橋本首相のトップ会談。 3.25日、土井衆院衆議院議長の仲介で与党側と新進党が合意、ピケ戦術を解除。 3.28日、田中秀征が細川護煕、小泉純一郎とともに行革の勉強会を発足。 4.1日、船田が鳩山由紀夫と「次の総選挙の前後に新党結成」で合意。 4.2日、鳩山代表幹事と新進党の船田元による新党構想が表面化。4.4日、鳩山代表幹事が船田元との新党構想に対して、当分は自粛すると表明。 4.5日、鳩山代表幹事が新党構想に関して、新進・自民にまず呼びかける考えを表明。 4.7日、鳩山邸で花見会を実施、鳩山兄弟の他に市民リーグや社民党の新党推進派が一同に会する。 4.8日、 「社さ新党」の結成を事実上断念。 4.21日、武村代表が衆院選に関して、単独で100人の擁立を目指す考えを表明。 4.22日、小沢党首が橋本首相と会談。 4.24日、鳩山代表幹事が、消費税率再引き上げの必要性を指摘。 5.7日、鳩山代表幹事が友愛精神を基軸にした新党構想を雑誌に発表。 そして5月10日に住専処理策を含む平成8年度予算案が参議院本会議で可決・成立し、住専予算の削減はなかった。こうして新進党はますます混迷の度を深めていった。 5.10日、武村代表が米軍用地収容のための特別立法に関して検討容認の考えを示す。政党交付金の使途をホームページで公開。住専処理に税金を投入する96年度予算案が成立。 5.23日、船田が前日の発言の責任を取り党総務会長代理を辞任。 5.31日、新進党の鳩山邦夫が、兄由紀夫にさきがけからの離党を促す。NPO法案について、新進党と意見交換を行うことが決定。 6.11日、グループ・新世紀の総会で、鳩山代表幹事が新党構想を語る。 6.18日、住専処理関連法が成立。 6.20日、小沢が細川・羽田と会談して「挙党一致」を確認し、また6月25日から7月18日の間に6回にわたって「小沢党首対話フォーラム」を開催するなどして党内融和を図ったがその後、鳩山邦夫や船田元など党内有力者の離党が相次いだ。 6.25日、 橋本政権が消費税率を97年4月から5%に引き上げることを閣議決定。 6.29日、鳩山代表幹事が、船田元らとの信頼関係を強調。 7.2日、沖縄米軍用地収容に関して、特別立法論議を急ぐことに懸念を表明。 7.18日、岩国哲人らが「新風会」発足。 7.23日、「興志会」が解散。 7.24日、岡山県知事選立候補のために江田五月が離党(落選)。 8.26日、鳩山邦夫が党東京都連会長を辞任。 9.3日、鳩山邦夫が離党(東京2区で当選、民主党)。 9.11日、武村代表が行財政改革に関する三つの提案を発表、選挙後の行革政権を提唱。園田博之が鳩山代表幹事の新党構想に関して、理念の必要性を指摘しつつ支持を表明。 9.26日、住宅金融債権管理機構が発足。 9.27日、鳩山代表幹事と菅直人が、さきがけを発展的に解党して新党を結成する考えを示す。田中秀征が、さきがけのまま総選挙に臨むべきとの考えを 表明。 9.27日、衆議院解散。石破茂(鳥取1区で当選、「21世紀」に参加)・今津寛(北海道6区で落選、自民党)が離党の意向を表明。 9.28日、武村代表が、さきがけが結束して新党に移行する可能性を探る考えを示す。 8.2日、鳩山代表幹事が、9月中に新党準備会を結成する方針を表明。 8.3日、園田博之が、新党の枠組みよりも行革を柱とする政策論議を先行すべきと主張。 8.13、鳩山代表幹事が、臨時国会前に準備会を経ずに新党結成もありうるとの考えを示す。 8.15日、鳩山代表幹事と菅直人が会談し臨時国会前の新党準備会結成で一致。菅直人は、さきがけの大半が新党に移行する道を探るべきとの考えも示す。 8.17日、田中秀征、園田博之、菅直人が新党移行の方針で一致。鳩山代表幹事も理解を示す。 8.20日、武村代表も加えた幹部会議で先の方針を確認。鳩山代表幹事は最終判断を留保。整備新幹線の建設費を全額公費とする自民党案に同意しない方針を固める。 8.21日、発展的解党・新党移行の方針を固める。鳩山代表幹事も基本的に理解を示す。 8.24日、武村正義が、新党では後衛に回るとの考えを表明。 8.25日、鳩山代表幹事が、結党時には武村正義の参加を拒む意向を表明。 8.27日、鳩山由紀夫が党代表幹事の辞表を提出。武村・鳩山会談(〜28日)。 8.28日、鳩山由紀夫が、さきがけを離党し9月中旬に新党を結成する意向を正式に表明。武村正義が、党代表を辞任する意向を固める。 8.29日、臨時総務会で武村代表の辞任を了承。新人候補者への経過説明会。菅直人が、代表就任を推す声に対して固辞する考えを示す。 8.30日、新代表に井出正一を、新代表幹事に園田博之を選出。菅直人は副代表に。 鳩山、簗瀬、五十嵐の3名が離党。 9.1日、さきがけの井出代表らによる新体制が発足。 9.2日、園田博之が、行革政権構想を軸に鳩山新党との連携を探る考えを示す。井出正一が、さきがけのまま総選挙に臨むことを前提に選挙準備を進め る考えを示す。 9.3日、代表幹事の役職名を幹事長と改める 9.5日、鳩山新党と社民党に対し個人参加の新党を提案。田中甲が離党。 9.7日、井出正一が、社民・さきがけ・鳩山グループの協議を1週間以内に始める意欲を示す。 9.9日、菅直人と鳩山由紀夫が、第三極結集に向けた新党準備会の設立で合意。10.10日、菅直人の報告を了承。メンバーのほぼ全員が参加する見通しに。 9.12日、菅直人が民主党結成の呼びかけについて報告。参加は個々の判断によることを確認。 9.17日、菅直人・鳩山由紀夫が、さきがけ幹部に対し民主党に参加するよう要請。井出正一らはさきがけ残留を決定、当選一回議員の民主党参加は容認。 9.18日、小平忠正が離党。10.25日、石井紘基が離党。10.26日、荒井聰、小沢鋭仁、中尾則幸、中島章夫がさきがけから離党。 9.20日、さきがけが社民党と選挙協力を進めることで一致。 9.27日、衆議院解散。 9.28日、民主党結党。社民党の土井たか子が新党首に就任。 10.2日、さきがけが、民主党と総選挙後に行革政権構想について協議することで一致。 10.13日、園田博之が民主党に対して、行革政権に参加するよう期待を表明。 10.15日、総選挙後の行革政権で進める重点政策案を発表。社民党が、さきがけの提唱する行革政権に対し積極的に対応する考えを示す。 10.20日、第41回衆議院総選挙衆院選投開票。新進党、衆院選で伸び悩み(事実上の敗北)。新進党は、小選挙区96名、比例代表60名(計156名)が当選、党の有力者では田名部や米沢が落選。改選前の160議席を4議席減らして156議席となり、事実上敗北とも言える結果だった。この選挙では比例区での順位決定に関して総選挙対策本部の顧問兼本部長代理である羽田の頭越しに決められ執行部の独走ぶりが目立った。 10.21日、党最高諮問会議で羽田や細川が分党の意向を伝え小沢も了承した。しかし創価学会や党内の支持が得られず、分党問題はひとまず収束することになった。 さきがけは、武村・園田の2議席を獲得とたのみで惨敗した。井出正一が代表を辞任する意向を示す。代表を務める井出や経企庁長官だった田中などが落選し、衆参合わせても5人という小政党に転落した。この結果、堂本暁子が議員団座長に就任するなど党組織は大きく変化し、第2次橋本内閣に対しても社民党とともに閣外協力に転ずることになる。 この時政権離脱をしなかったのは、参院社民党勢力を政権に残留させるためにも自民党がさきがけを必要としたという外部要因と、たとえ小政党となろうとも与党に留まることで少しでも政権に対する影響力を維持したいという内部要因があったと思われる。しかし自民党中心の連立政権の中で党の存在感は以前に増して薄くなっているのが現状である。 10.24日、熊谷弘に除名通告。10.31日、米田健三が離党届提出。11.5日、高市早苗が離党(12・27自民党へ)。11.6日、笹川が離党 10.28日、羽田・細川「分党構想」断念。 10.21日 自民・社民、さきがけが、政権継続を前提に政策協議を開始。 10.22日、さきがけが、行政改革の推進を条件に、新政権に閣外協力する方針を決定。井出正一の代表辞任を了承、堂本暁子を議員団の座長に選出。 10.29日、政調会長に水野誠一が就任、総務会長は堂本暁子が兼務。参院補選で芦尾長司の推薦を決定。 10.31日、自民・社民、さきがけが政策合意書に署名。 11月 7日、新進党は、首班指名選挙では多数の党議拘束違反者(=小沢党首以外に投票)を出し党内の混乱ぶりを露呈した。第2次橋本内閣発足。さきがけは社民とともに閣外協力。畑恵が離党を提出(12.18日、自民党へ)。田浦直・米田健三を除名処分にする。 11.29日、新進党と民主党の政策責任者による協議を開催。 12月 2日 日米の特別行動委員会が沖縄の米軍基地の整理・縮小策で最終報告。 12.4日、警視庁は、岡光序治・前厚生事務次官を収賄の疑いで逮捕。 12.4日、羽田、羽田グループ閣僚経験者との会談の席で、離党に強い決意。12.7日、民主党との連携を早くも模索。 12.10日、新進党結成2周年。 12.7日、郵政省とNTTがNTTの分離・分割を合意。 12.12日、この日から16日まで3回の羽田・小沢会談(平行線をたどる)。羽田の離党・新党結成で「合意」をまとめた。小沢と羽田の間の政治手法の違いや小沢チルドレンと呼ばれる議員たちが垣根を作って羽田らを寄せ付けなかったことなどが原因だった。 12.13日、さきがけが、建設国債発行額で異論を唱え、補正予算編成を延期。 12.16日 さきがけが、補正予算編成に関して、主張が通らねば賛成しない姿勢を確認。小沢と羽田の3回目の会談、羽田の離党・新党結成で「合意」をまとめる。 12.20日、補正予算案に反対する方針を確認。与党3党が医療保険制度改革案を合意。 12.26日、与党3党が金融検査・監督の分離を合意。この間に奥田・岩國が正式に「羽田新党」参加決定。 12.26日、羽田・岩国ら13人が離党し、新党「太陽党」を結成した。 12.26日、羽田孜元首相等(旧新生党を中心とする衆院10人、参院3人)が新進党を離党し、「太陽党」を結成。 羽田らは記者会見で「日本政治の機能を取り戻すきっかけを作りたい」と述べ、「対立と清掃の政治から対話と実行の政治への転換」を掲げた結党宣言を公表。「政界再編の起爆剤となる」との決意を表明し、規制緩和や地方分権など「自由と自己責任」の実現、各国との「和と共生」による国際協力などの基本理念を掲げた。(基本政策の内容については別箇所参照)極めて当たり障りのない内容が盛り込まれているが、その理由も「政界再編の起爆剤となる」ためにほかならない。すなわち、衆参合わせて13人の政党で政策実現がかなうはずもなく、羽田党首が表明したとうり、太陽党の当面の目標は「新進党と民主党の橋渡し」(こういう政党を政治学では「要の政党」という)なのであり、橋渡しには政策を固定化しない方が有利なのである。イデオロギー政党色を脱した、プラグマティズム政党としての具体例は、憲法問題にも現れる。 96年2月の議員研修会において、新進党内では異論を主張しなかったが、現行憲法下での多国籍軍参加を容認する新進党の基本政策について、「憲法解釈を逸脱している」と否定的な見解をまとめた。同時に、介護保険法案についても政府案の成立に基本的に協力していくことを確認し、「非新進路線」を打ち出した。明確に、個々の政策について是々非々の態度をとるプラグマティズム政党の姿勢を表明したといえよう。なお、 党名は、「羽田氏の明るく、ぬくもりのあるイメージと勢力結集の核になる」(参院議員)として「太陽党」となった。 結党当初より羽田党首は、「野党結集の接着剤となることを目指す」とか「あくまで野党勢力の結集を目指す」、「健全な野党として各党をつなぐ触媒の役割を果たし、自民党に対抗するもう一つの極を作り出す核になる。」(結党翌日の96年12月27日)との考えを示している。具体的に、「触媒」とは、新進党の反小沢グループと民主党とのつなぎ目となることを意味している。しかし小沢が現新進党党首である以上、新進党との距離を縮めるには限界がある。そこで必然的に最初のアプローチは民主党に向けられたが、それは必ずしもスムーズに進んでいるとはいえない。例えば97年11月7日の世話人会の席(年表参照)で鳩山副党首は、構想中の統一会派への参加を当面見合わせることを表明している。(菅党首は別の場所で「政党の再編をあまり急ぐと数合わせになる」と述べている)これはそもそも菅・鳩山のイタリアの中道・左翼連合「オリーブの木」をモデルにした構想は、それぞれの政党が統一の首相候補や政権構想を掲げて選挙協力する「政党連合」的なものであり、必ずしも統一会派や政党の合流は必要でないからに他ならない。民主党は苦労して作り上げた「民主党」というブランドを簡単には手放したくないのである。 羽田は新進党への離党届け提出の際、西岡新進党幹事長に「お互い改革という目標は同じだ。存分に連絡を取っていこう。」との趣旨の発言をしている。これに対し小沢は「離党・新党の結成は国民の期待に反する」と批判する一方で「改革の意志を同じくする人とは、協議するのは当たり前」とも述べている。両党の関係は比較的良好だったと言っていい。それを裏付けるように1月20日に太陽、民主両党は、「21世紀」を含めて経済政策を話し合う「緊急経済対策会議」を設置したものの太陽党畑英次郎幹事長は、統一会派については、「新進党を加えた協力が必要」の立場を崩さなかった。しかしその後、感情的なしこりや小沢の保保路線志向の表面化などにより関係は悪化していく。2月17日初の議員研修会の中で太陽党は、現行憲法下での多国籍軍参加を容認する新進党の基本政策について「常道の憲法解釈を逸脱している」と否定的な見解をまとめたほか、介護保険法案でも対案の提出を検討している新進党とは 同一歩調をとらず、政府案の成立に基本的に協力していくことを確認し、「非新進路線」を打ち出した。さらに2月24日の講演の中で羽田は、オレンジ共済組合事件を巡る新進党両院協議会が質疑抜きで打ち切られたことに対し、小沢を批判している。これに対し新進党側も6月10日の党総務会で、太陽党に対する不満が続出し、太陽党との定期協議のあり方を見直すよう、注文がつく事態となる。結局、両者の完全な関係修復は新進党の解党まで待たれることになる。 指摘しておかなければならないのが、わずかに13人の政党とはいえ太陽党には、路線上の対立があると言われていることである2)。構図としては、羽田、畑といった幹部が自民党に対抗する野党結集の核づくりを目指しているのに対し、中堅・若手は自民党への接近や復党を志向しているというものである。後者については、知名度を持たない中堅・若手が、小選挙区制度で生き残るための必然的な動きともいえる。 |
1997年(平成9年) 1997.1.29日、新進党の友部達夫議員がオレンジ共済詐欺容疑で逮捕された。これは新進党の友部達夫議員の政治団体が運営する「オレンジ共済組合」が出資法違反や詐欺などに問われた事件で、これに関連して友部達夫が比例区で初当選した1995年の参院選の際に細川護熙など党関係者が友部から金銭を受け取って名簿順位に手心を加えたという疑惑であった。 2.5日、記者会見で友部議員問題で釈明をした細川は公認への関与を否定し、新進党内のこれまでの調査で「人選は相当部分、旧党派の責任者にゆだねられていた」(西岡武夫幹事長)(朝日新聞)とされているのとは食い違いを見せており混乱ぶりが目立つ格好となった。また3月末には細川が軽井沢に所有する別荘地が他人の借金の担保になっていたことが明らかになるなど党内のスキャンダルが絶えなかった。 2.16日、細川、党役職(最高諮問会議)辞職へ。2.17日、小沢党首、細川と離党をめぐって会談。3.3日、小沢党首が自民党の竹下登元首相と都内で会談。3.10日、新進党が太陽党と共同チームを作ることで合意。 こうした党内のゴタゴタに嫌気が差した小沢は自民党右派との連携をにらんだ「保保路線」を本格的に模索するようになった。3月には小沢側近議員と自民党議員による「日本の危機と安全保障を考える会」が発足した。そして4.2−3日には今通常国会最大の懸案となっていた沖縄の駐留軍用地特別措置法改正案で小沢党首は橋本首相と会談し3項目で合意。また5月2日には自民党の森喜朗総務会長とロンドンで会談するなど、保保路線色を鮮明にした。その一方で自民と新進の若手議員が、「保保」に対抗して会合を開くなど「反保保」の動きも党内にあった。 4.3日、太陽、民主党の協議が行われ、民主党が両党に新党さきがけを加えた三党で国会内の統一会派結成を目指すことを提案、太陽党はこれを了承。 4.18日、第1回党大会 羽田党首、今後の政界再編への対応について、与野党の枠組みにこだわらずに「民主的勢力の結集」を目指し、自民、新進両党 の一部や民主党などとの対話を積極的に進めていく方針を打ちだす。同時に、「保保連合構想」を批判。また、新進抜きの民主との連携には慎重。 4.21日、羽田党首、講演の中で自民党の一部を含めた幅広い「保守・リベラル勢 力」の結集を目指す考えを示す。「保保連合」について、「ガイドラインで強引に安易な道をとると、とんでもないことが起こる」と批判。 5.1日、第68回メーデーに新進党も積極参加。 5.2日、小沢一郎党首、自民党の森嘉朗総務会長とロンドンで会談。 5.3日 憲法施行満50周年記念アピール。 6.9日 畑英次郎幹事長、ガイドライン見直しの中間報告に対し、「後方支援活動の範囲を、有事の際どこまで区別可能なのか疑問。有事法制整備への 姿勢には一定の評価。政府は早急に法整備に取り組むべきだ。」、ガイドライン見直しの中間報告に対し、太陽党は、態度保留。 6.11日、太陽党、民主党との協議で、両党による統一会は結成について、(1) 秋の臨時国会に向け、一段の環境醸成に努力する、(2)政権交代可能 な二大政治勢力形成を念頭に努力するの二点で合意。 6.18日、細川氏が新進党を離党。細川が「既成のしがらみから一歩離れて、今の政治の流れがこのままでいいのか考えてみたい」(朝日新聞)として、突然離党した。 7.6日、都議選で、新進党は議席ゼロの惨敗を喫し、対照的に公明は候補者24人全員が当選した。この結果を受けて、当初、「都議選後」とされていた公明所属の参院議員11人の新進党への合流が先送りされた。7月14日には5人が離党届を提出するなど徐々に崩壊し始めた。 7.15日、「反保保」の勉強会「政党政治の将来を考える会」が発足、岡田克也が参加。 7.17日、「改革会議」の旗揚げに民主・太陽と合意。 7.25日、「反保保」の鹿野道彦元総務庁長官を中心に、野党各党の議員の勉強会「改革会議」が発足した。 8.3日、小沢党首が藤井公明代表との会談で、公明参院議員の新進党移行の早期合流を要請。 8.10日、羽田党首、鳩山・細川と会談。保守・中道路線のもとでの勢力結集を指すことを確認。同時に連携強化で一致。 8.11日、第2次橋本改造内閣発足。 8.16日、佐藤孝行総務庁長官の更迭を要求。 8.25日、「改革会議」発足。(衆69人、参18人)、太陽党は全員参加。世話人の新進党鹿野氏、畑氏は、98年の参院選に向けて、公約をとりまと めていく方向で一致。 9.2日、新進党が「日本再構築宣言」を正式決定。 9.3日、「改革会議」世話人会、「対自民路線」で一致。同時に、各党幹部による協議を呼びかけることを確認。羽田党首、民主党の研修会で、「野党 にあるものは結集すれば政権交代があり得るという確信を持つことが必 要。太陽党は、結合体の媒介役を果たしたい」。 9.18日、太陽、民主、新進の野党三党、国会対策委員長会談を開き、佐藤孝行総務庁長官入閣問題で、不信任案提出を含めた対応を協議。 9.18日、神崎武法総務会長が旧公明党グループの研修会で「反保保」を言明して小沢の党運営の手法の限界を印象づけた。 9.22日、 さきがけ・民主の幹部が会談、復縁の道を探る。 9.27日、新進党幹事長西岡氏、太陽、民主との国会共闘について歩調をそろえていくことを強調。 10.3日、羽田党首、衆院代表質問で「佐藤孝行の入閣は改革への国民の期待に対する裏切り」、「景気低迷の責任は、政府の楽観的な景気判断と経済運営にある。法人税・所得税の減額、土地税制の改革など速やかに実施すべき」、「今回の行革は、単なる数あわせ」「政府の財政構造改革法案は、 構造改革の名に値しない」。 10.21日、小沢、菅、羽田の3党首が会談。 10.31日、党勢不振の責任を問うために鹿野道彦元総務庁長官が党首選に立候補することを表明した。これに対し小沢は臨時国会の会期中であることを理由に党首選への立候補の意思をなかなか明確にしなかった。 11.7日、太陽、民主両党などの国会議員による野党結集を目指す懇談会の初の世話人会を開催(世話人会は羽田、鳩山、畑らが発足)。 11.28日、大蔵省の財政・金融分離問題で、施行期日を2001年までとする方針を確認。公的資金投入を前提にした、金融システム安定化緊急対策案をまとめる。 11.28日、公明(藤井富雄代表)が常任幹事会で来年夏の参院選の比例区を独自で戦う方針を決めた。 12.5日、羽田、細川、菅の3者会談で、「懇談会」を軸に、今後とも野党結集路線を進める方針を確認。 12.9日、太陽、民主、新進の3党欠席のまま預金保険法改正案が衆院本会議で可決。 12.17日、羽田、細川、太陽党と細川グループなどによる統一会派の年内結成を目指すことで一致。 12.18日、新進党首選挙。結果は小沢が230票対182票で鹿野を破った。太陽党は野党結集を行う上で都合の良い鹿野道彦が当選することを望んでいたが、鹿野は小沢に破れる。羽田、細川、鳩山3者会談、今後も新進党にも野党協力を呼びかける必要があるとの認識で一致。 党首に再選された小沢は19日、新しい党体制づくりに乗り出し、党内の旧公明党グループ「公友会」の神崎武法代表幹事(党総務会長)、旧民社グループ「民友会」の中野寛成会長(党国会対策委員長)と相次いで会談した。小沢は党の結束を固めるためそれぞれの会を解散するよう求めた。中野会長は受け入れる姿勢を示し、神崎代表幹事も応じる方向となった。一方、「公明」は20日、党の拡大中央委員会で来年の参院選比例区は新進党とは別に、公明として独自に臨むことを決めた。 12.19日、太陽、細川グループ、民主改革連合、次期通常国会までに統一会派を結成することで合意。12.24日、「政党連合推進懇談会」の会合。 12.25日、小沢は突然、公明の藤井富雄代表に参院の旧公明党議員を「分党」して公明に合流させるべきだとの考えを示し藤井代表も分党に賛成した。小沢はこの合意に伴い、新進党の解党―保守新党結成に踏切り、準備に着手した。小沢は解党することを決断。 12.25日、細川は、太陽党や民主党と接触を続けてきたが、依然無所属として活動を行ってきた。しかしやはり政党助成法上の規定で年末までに結党することを迫られていた。そこでようやく12月25日になって、衆参合わせて5人という助成が受けられるぎりぎりの議員数で結党することとなった。そもそも羽田と細川は羽田が新進党を離党する際に行動をともにすることを検討した程に近い関係にあり、遠くない将来において両党が合同することが予想される。 12.25日、太陽、参院の3人が、民主党・新緑風会に合流(参院の太陽党は解散、しかし3人の太陽党籍は残す)。細川ら、衆参5議員「フロム・ファイ ブ」結成で合意。 12.26日、細川護熙が新党「フロムファイブ」を結党。 12.27日、新進党が衆参両院議員総会を開き解党を正式決定し、新進党は3年余りでその歴史に幕を下ろした。そして自民党より右寄りと言われる小沢一郎率いる自由党(54人=衆議院42人、参議院12人)、旧民社党系の中野寛成率いる新党友愛(23人=衆議院14人、参議院9人)、旧公明の衆議院政党である神崎武法率いる新党平和(37人)、旧公明の参議院政党である黎明クラブ(18人)、新進党崩壊の引き金を引いたともいえる鹿野道彦率いる国民の声(18人=衆議院15人、参議院3人)、そして長老格の小沢辰男率いる改革クラブ(12人=衆議院9人、参議院3人)の6党に分かれた。 12.29日、羽田、細川、鳩山、「公明」の藤井富雄代表と会談・野党結集に向けた連携を要請。 12.30日、太陽、フロム・ファイブ、国民の声の間で新・新党結成に向けた本格協議を開始することで合意が成立している。注目すべきは、その前日の29日に羽田、細川、鳩山が「公明」に対して野党結集に向けた協力を要請していることであろう。羽田の言う「太陽党の発展的解消」も射程内に入ったと思われる。 |
(私論.私見)
第三節
小沢の政治改革
1993年の政界再編について、経世会内部の権力抗争が政界全体に波及したに過ぎな
いという見方も出来る。だが、この時期、リクルート事件、佐川急便事件等、相次ぐ汚職事件
によって、自民党一党支配による55年体制の行き詰まりを感じ、政治改革、政界浄化を望
む国民世論が高まっていた点は重要である。
こうした中で、政界再編の引き金を、直接引いたのは、羽田、小沢グループということにな
る。確かに、羽田、小沢グループが宮沢内閣不信任案に賛成したのは、党内で少数派に追い込
まれていたゆえに、大きな賭けに出たという側面は否定できない。しかし、それだけではな
く、小沢は自らの政治理念の実現のために政界再編を仕掛けたのも事実である。その理念と
は「激変する国際情勢に対応できる政治体制」(2)の構築であり、具体的には、憲法見直し、
自衛隊の海外派遣の自由等が主な内容である。小沢にとっては、これらの実現こそが「政治
改革」であり、そのためには、小選挙区制の下での保守二大政党制への移行が必要だと考え
ていた。
小沢が目指した「政治改革」とは、何だったのだろうか。小沢は、前述した通り、1980年
代後半から常に党運営の中枢に携わり、特に、海部内閣時代には幹事長として政権運営の中
心にあった。「その時期、小沢は、対米経済摩擦と湾岸戦争という、2つの国際的な問題の処
理を任され、そこから、日本政治における発想の根本的転換の必要を痛感するようになった。
小沢の『改革』の主張は、何よりも、こうした対外的な交渉を通じて形成された危機意識が
背後にあり、日本が、より積極的な国際的役割を果たすことが不可欠であるという認識を確
たるものとした。」(3)
そして、小沢は、従来の自社両党による「55年体制」が続く限り、改革を進めることは出
来ないという結論に達し、選挙制度改革によって、保守二大政党制に転換するしかないと判
断した。リクルート事件以来、政治改革、政界浄化を選挙制度改革によって実現するという
世論は高まっており、小沢は、そうした世論の動きに自らの構想実現のチャンスをみた。小
沢の戦略は、衆議院の選挙制度を小選挙区制に改めることで、社会党を解体し、自民党を中
央集権的にするという2つであった。
まず、1つ目の社会党の解体については、元々、社会党の「護憲、安保・自衛隊反対」などの
政策は、小沢とは正反対のものであり、加えて、55年体制における「国対政治」では、こうし
た社会党の要求に、自民党はしばしば譲歩してきた。社会党の存在は、小沢にとって大きな
障害だったが、一方で、社会党の現状は、「各選挙区で20%以下の支持によって、辛うじて
野党第一党の地位を維持している。」(4)に過ぎず、その意味で、中選挙区制の恩恵を一番
受けていたのは社会党だった。小沢は、小選挙区制によって、社会党に壊滅的打撃を与えよ
うとしたのである。
2つ目の自民党を中央集権的にすることについては、自民党の「なれあい政治」の打破を
目的としていた。小沢の言う「なれあい政治」とは、ひとつは、自民党政治家が、中選挙区制の
下で選挙区への利益誘導、あるいは、選挙区民への迎合に専念して、「天下国家のことを考え
ている暇がない。」(5)ことと、もうひとつは、前述した、社会党をはじめとする野党との「な
れあい」である。
小沢は、こうした自民党の体質は、中選挙区制という選挙制度に原因があると考えた。つ
まり、中選挙区制の下では、自民党の場合、1選挙区に党公認候補を3〜4名出し、しかも、
公認が得られず、保守系無所属で立候補しても、十分、当選の可能性はある。これは、各候補
が、派閥と個人後援会の力で選挙を戦っているためである。したがって、自民党政治家が、選
挙に当選するために重要なのは、所属派閥の力と、地元への利益誘導を通じて、強固な個人
後援会を作り上げることであり、これに対して、党の公認を得ることの重要性は、相対的に
低いものであった。
小沢は、小選挙区制を導入することで、「個人後援会中心の選挙」から「党営選挙」に改めよ
うとした。小選挙区制の下では、当然、各党候補は1名であり、党公認が当落にとって、決定
的な影響をもつ。さらに言えば、自民党公認を得られなければ、当選することは、極めて厳し
くなる。そして、このことは、公認権を握る、党執行部の権力が派閥に代わって絶大になるこ
とを意味し、候補者の選定においては、各議員の党の政策への貢献度、理解度が基準になる。
小沢は、「派閥の連合体」であり、「議員政党」的性格を持っていた自民党を「中央集権化」しよ
うとしたのである。
「このように、小沢の『政治改革』のねらいは、自民党の中央集権化と社会党の解体、保守
二大政党化の2つにより、憲法見直しをはじめとする、日本の政治、軍事大国化に必要な諸
政策を機動的に遂行しうる体制づくりをねらっていたといえる。」(6)
第四節
小沢の挫折
だが、小沢が目指した政治改革は、完全には実現することなく、挫折に終わることになる。
その大きな原因の一つは、小沢の「政治改革」が、当時、国民の間で求められた「政治改革」と
は、本質的にかけ離れたものだったことにある。「政治改革」が選挙制度改革によって実現す
るという点は、両者において共通しており、実際に、細川内閣において、政治改革関連法案が
成立し、選挙制度改革は実行された。
しかし、選挙制度改革によって、国民は、金権選挙の打破と政界浄化を期待したのに対し
て、小沢にとっての選挙制度改革とは、あくまで、保守二大政党制へ移行し、憲法見直し、自
衛隊海外派遣等の、自らの政治理念を実現させるための手段であった。この点について「小
沢の政治改革論には、自民党の派閥政治、汚職、腐敗、金権政治そのものへの批判は終始欠落
して」(7)おり、国民の支持を得る上で致命的な欠陥だった。したがって、小沢路線は、政
界再編によって、「議員レベルの離合集散を引き起こしはしたが、有権者レベルの再編成に
は、全く成果を挙げられなかった」(8)のである。
そして、もう一つの原因は、自らの改革を、既存の政党を離合集散させることにより、すで
に選挙で選ばれていた議員を動員して実現しようとしたことである。小沢は、選挙制度改革
後の選挙に当り、改革の担い手として、新生党、公明党、民社党、日本新党などを合成して「新
進党」を作るが、それらの議員が、全て、小沢の目指す改革に賛同して新進党に参加したとい
うわけではなかった。とりわけ、従来、福祉、平和を主要な政策に掲げていた旧公明党議員に
とって、小沢の自衛隊海外派遣等の安保政策には、かなりの違和感があった。また、旧新生党
議員にしても、「そもそも、新生党結成時に、政策志向により小沢支持に集まったわけではな
く、小沢との個人的人脈で彼に従った議員が多かっただけに」(9)必ずしも、小沢の政治改
革を理解し、賛成していたわけではなかった。事実、新進党は、小沢の政治改革を推進するこ
とは出来ず、やがて、既成の政党の寄せ集めという実態が表面化し、最後は「分党」という形
に終わる。
以上の2つの原因により、小沢の「政治改革」は挫折に終わる。そして、小沢の目指した改
革と、それに伴う、経世会分裂以降の一連の行動は、選挙制度改革を実現し、政界再編という
政党分野の離合集散を引き起こすにとどまった。結局、小沢は、自らの政治改革のうちの選
挙制度改革以上の部分において、国民の支持を形成することが出来ず、また、国会議員を改
革に動員することにも失敗したのである。
(1)
土屋繁 「自民党派閥興亡史」花伝社
(2) 渡辺治 「政治改革と憲法改正 中曽根康弘から小沢一郎へ」 青木書店
(3)
大嶽秀夫 「日本政治の対立軸」中公新書
(4) 同上
(5)
渡辺治 「政治改革と憲法改正 中曽根康弘から小沢一郎へ」 青木書店
(6) 同上
(7) 同上
(8)
大嶽秀夫 「日本政治の対立軸」 中公新書
(9) 同上
第四章 小泉内閣の誕生と経世会支配の終焉
第一節
経世会支配の復活
社会党、新党さきがけの連立離脱により、少数与党政権となった羽田内閣は、1994年
6月23日、わずか65日で内閣不信任案を前にして総辞職した。代わって、6月29日、村
山富一社会党委員長が首相に指名され、自民、社会、さきがけの3党による、連立政権が発足
した。自民党にとっては、約11ヶ月ぶりの政権復帰であった。
自民党は、1993年の衆院選後、宮沢に代わって、河野洋平を総裁に選出していた。また、
政権を失った反省から、党の体質の変革が試みられ、その柱として、派閥解消が唱えられた。
実際に、派閥事務所の閉鎖の申し合わせが行われ、マスコミは、各派閥に「旧」の文字を付け
ることにしたが、この派閥解消は表面的なものであり、実質的に派閥の活動は続けられた。
自民党が短期間に政権復帰を果たしてしまったことで、自民党の派閥解消をはじめとする
体質改善は実行されることなく、立ち消えとなる。
村山連立政権は、1996年まで続くが、その間、1995年10月に、河野に代わり、経
世会の橋本龍太郎が総裁に就任した。そして、村山内閣の後を受けて、1996年1月11
日、2年半ぶりに自民党首班による、橋本内閣が発足した。経世会にとっては、竹下以来、2
人目の首相であった。この年の10月、小選挙区比例代表並立制による、初めての総選挙が
行われ、自民党は過半数には届かなかったものの、勝利し、選挙後の11月に発足した第二
次橋本内閣は、3年3ヶ月ぶりに自民党単独政権になった。この時、経世会は88人で、三塚
派86人、宮沢派73人を抜いて、党内最大派閥に復帰していた。
1998年7月12日の参議院選挙で、自民党は敗北し、橋本首相は退陣する。これは、橋
本内閣が、景気対策よりも財政再建を優先させ、消費税の5%への引き上げ等の政策を進め
たことにより、景気が失速し、有権者の支持を失ったためである。経世会は、総裁選に、会長
である、小渕恵三の擁立を決め、当時、幹事長代理だった野中広務らが、多数派工作を行い、
優位に立った。7月24日の総裁選には、小渕、経世会を離脱した梶山静六、三塚派の小泉純
一郎の3人が立候補し、小渕が選出された。小渕は、宮沢以来5年ぶりの派閥領袖の総理総
裁となった。
「小渕勝利の背景には、経世会という、党内最大派閥の全面支援と、加藤紘一、山崎拓ら、
『ポスト小渕』を狙う、他派閥領袖の思惑、内閣、党のポストに就きたいという陣笠議員の心
理が支持の広がりを生んだ。」(1)小渕内閣の誕生は、こうした点で、同じ経世会でも、行政
改革を掲げ、「自民党再生の切り札」として、派閥横断的に支持を受けた橋本内閣の時とは異
なり、名実共に、「経世会支配」の復活であったといえる。
第二節
小泉内閣の誕生と経世会支配の終焉
小渕は、1999年9月の総裁選でも、加藤、山崎を破って再選を果たすが、翌2000年
4月2日、脳梗塞で倒れる。小渕内閣は総辞職し、4月5日、森喜朗が後継総裁に就任した。
「森総裁誕生」の経緯は、小渕が倒れたことが、突然の出来事だったとはいえ、総裁選等、必要
な手順を全く踏んでおらず、森や経世会の青木幹雄、野中広務ら「5人組」が談合して決定し
たものだった。この選出方法は、「密室で選んだ」と批判され、森退陣の際に、「次は、密室では
なく、開かれた総裁選で決めるべきだ。」(2)という党内の空気を醸成し、地方で、党員によ
る予備選が実施されることに繋がる。
「森内閣は、発足当初こそ、41.9%の支持率を得たが、『神の国』発言等、首相自身の相
次ぐ失言により、支持率はすぐに下がり始めた。このため、2000年6月の衆院選では、都
市部、比例区で自民党は惨敗を喫した。秋には、支持率20%を割り込み、加藤、山崎両氏が、
退陣要求を突きつける『加藤の乱』にまで発展した。」(3)さらに、2001年2月10日
に起きた、「えひめ丸沈没事故」への対応で、世論の支持を決定的に失い、党内の大勢も、森退
陣へと動き、3月10日、森首相は、事実上の退陣表明となる、総裁選の前倒し実施を表明す
る。
そして、この総裁選では、前述した、森総裁誕生の経緯への批判から、党の地方組織である
都道府県連が、党員による予備選の実施を強く要求し、結局、広島、山口を除いて、党員投票
を行い、その結果によって、各都道府県に3票ずつ割り当てられた地方票が決定されること
になった。
総裁選には、経世会の橋本龍太郎、森派の小泉純一郎、江藤・亀井派の亀井静香、河野グル
ープの麻生太郎の4人が立候補した。だが、実際には、橋本が、経世会に加えて、堀内派の支
援を受け、それに、江藤・亀井派も決選投票では、橋本支持に回るとみられ、国会議員の数で
圧倒的優位に立っていた。
したがって、選挙の焦点は、小泉がどれだけ地方票を獲得できるかであり、実質的に「橋本
対小泉」の図式となった。但し、江藤・亀井派が橋本支持に回った場合、国会議員数で、橋本と
小泉の差は、約100人になり、地方の予備選で圧倒的な勝利を収めない限り、小泉の当選
は絶望的な状況だった。
しかし、予備選の蓋を開けてみると、小泉は、41都道府県で1位となり、123票を獲得
したのに対して、橋本が1位になったのは、橋本の地元、岡山、青木の地元、島根、野中の地元、
京都など5府県であり、わずか15票の獲得にとどまった。この結果により、小泉の勝利は
決定的となり、亀井は本選を辞退し、江藤・亀井派は小泉支持に回り、堀内派も自主投票に方
針転換した。そして、2001年4月24日、国会議員による投票が行われ、その結果、小泉
は、正式に自民党総裁に選出された。
小泉が、地方における予備選で、「地滑り的勝利」を収めた理由は、財政構造改革などの政
策が受け入れられたことと同時に、小泉が掲げた、「脱派閥政治、反経世会」の政治姿勢が支
持されたことが大きい。小泉は、この姿勢を鮮明にするために、総裁選以前に就いていた、森
派会長職を辞め、派閥も離脱した。また、小泉は、海部内閣時代に、山崎、加藤と共に「YKK
グループ」を結成して以来、事あるごとに経世会との対決姿勢をとってきたが、この総裁選
では、改めて、派閥政治、経世会支配の打破を訴えた。
「派閥政治、経世会支配の打破」これは、リクルート事件以来、国民が望んできたものであ
ったが、小選挙区制導入による「政治改革」を通しても、実現されることはなかった。そして、
自民党の政権復帰後も、何ら変わることなく、経世会支配は続いた。しかし、総裁選が「橋本
対小泉」の図式になった時、国民の大半は、小泉が橋本を破って、経世会支配を終わらせるこ
とに期待をかけた。それは、一般の国民とはややかけ離れた存在である、自民党員も同じだ
った。
小泉は、総裁選中、「私が勝てば、総裁選史上で初めて、最大派閥の支援を受けないで勝つ
総裁になる。」と語っていた。小泉内閣の誕生は、大平内閣以来続いた田中支配と、それを受
け継いだ経世会支配の終焉と言える。
(1)
土屋繁 「自民党派閥興亡史」 花伝社
(2) 読売新聞政治部 「小泉革命 自民党は生き残るか」 中公新書
(3)
同上
おわりに
1、派閥の弱体化と派閥人事の否定
2001年4月の総裁選予備選は、派閥の組織力が弱まりつつあるという事実を象徴す
る結果となった。元々、予備選でも、小泉よりも橋本のほうが有利と言われていた。なぜなら、
党員全体の65%が経世会の影響力が強い、各種団体の職域党員だからである。
過去をさかのぼると、自民党は党則に基づいて党員投票による予備選を実施したことが、
1978年と1982年の二度あるが、いずれも、経世会の前身である田中派が推した候補
が1位となった。特に、1978年は、現職首相だった福田赳夫が、田中派の全面支援を受け
た大平正芳に敗れたのであり、田中派の職域党員への影響力の強さを見せつけた。
田中派の流れを組む、経世会も、職域票獲得に自信を持っており、総裁選において、影響力
の強い有力支持組織を通じて、職域支部の党員票を押さえようとした。
しかし、予備選の結果は、小泉が、党員票の58%を獲得したのに対して、橋本は30.
2%にとどまり、小泉の圧勝だった。この結果は、「職域支部の締め付けは効かなかったと言
われている。」(1)ように、派閥の影響力の弱体化と、経世会が得意としてきた「組織型選挙」
の崩壊を示している。
小泉内閣の誕生は、確かに、経世会支配を終わらせたが、それは、一時的なものに終わる可
能性も十分あり、本当の意味での派閥政治の解消が実行されるかは、今後も注視していく必
要がある。
だが、小泉が、「脱派閥政治」に取り組んでいることは事実であり、それは、特に人事面で顕
著である。小泉は、経世会を党3役からはずし、閣僚人事でも、これまでの派閥人事を行わな
かった。従来、閣僚人事は、各派閥の推薦名簿から、大臣ポストを配分する「派閥均衡人事」だ
ったが、小泉は、派閥に関係なく、自分が適任と思う人物を選んで組閣を行ったのである。
この派閥人事を否定した意味は大きい。なぜなら、ポスト配分機能は、資金の配分と並ぶ、
派閥の権力の根幹であり、求心力である。派閥が人事に関する権限を失えば、その存在意義
は大きく薄らぐことになる。したがって、派閥人事の否定は、派閥解消への第一歩であると
言える。
2、小選挙区制と派閥政治の解消
最後に、政治改革を目指した、小選挙区比例代表並立制の導入は、完全な失敗に終わった
のかという点に触れたい。これに関しては、「政党本位の政治、政権交代は実現されず、政治
改革で目指していた政治像とは正反対の方向に向かっている。」(2)と言う研究者も多く、
あながち、間違っているとも言えない。
しかし、新制度の下での総選挙は、まだ2回しか行われておらず、小選挙区比例代表並立
制というシステムが、今後、効果を発揮していく可能性は残されている。また、新制度での2
度の選挙において、すでに、政党、政治家の行動と有権者の投票行動の双方に、徐々に変化が
見られるのも事実である。
その変化のひとつは、政党、とりわけ、野党が小選挙区制型の行動様式を取ることで、政権
交代の可能性を作り出した点である。まず、1996年10月の総選挙においては、新進党
が、小選挙区で235人の候補者を立て、比例区と合わせて、合計361人の候補者を立て、
また、2000年6月の総選挙では、民主党が、前回の新進党を上回る、262小選挙区で候
補者を立てて、過半数の議席獲得を目指した。結果的には、政権交代は起きなかったが、中選
挙区制時代の社会党が、1958年総選挙を除いて、一度も定数の過半数の候補者を立てな
かったことと比較すると、この野党の姿勢の変化は、十分、評価に値する。
もうひとつの変化として、選挙において、党首の存在の重要性が、非常に高まってきてい
ることが挙げられる。1996年総選挙では、政権交代を狙う新進党が、小沢一郎党首を首
相候補として明示し、有権者に政権選択を訴えたのに対し、自民党も、橋本龍太郎総裁を前
面に出して選挙を戦った。
逆に、2000年総選挙では、党首のマイナスのイメージが、選挙結果に影響を与えた。森
首相が、自身の度重なる失言により、国民の激しい反発を買ったため、自民党は支持を失い、
都市部、比例区で惨敗した。また、民主党についても、鳩山由紀夫代表に、全盛期の菅直人の
ような人気があれば、選挙結果において、自民党と民主党の差は、さらに縮まっていたと思
われる。
そして、2001年7月の参院選での自民党の勝利は、言うまでもなく、「小泉効果」によ
るものである。事実、小泉を総裁に選んだ自民党議員や、党員たちの投票行動は、間近に迫っ
ていた参院選、さらにその後の総選挙において、誰が、総裁なら勝てるかという判断による
ところが大きい。
選挙において、党首イメージが重要になってきている理由は、無党派層の投票行動に大き
く影響するからだと考えられる。朝日新聞の調査によると、「2000年の衆院選の比例区
では、無党派層の15%が自民に、37%が民主に投票したが、2001年の参院選では、無
党派層の27%が自民に投票したのに、民主には20%しか投票しなかった。」(3)この結
果は、無党派層の票が、森首相のときには、民主党に流れていたが、小泉首相になって、今度
は、自民党に流れたことを、よく表しており、党首の存在が、いかに選挙結果に影響を与える
かを物語っている。
小選挙区比例代表並立制における、党首イメージの重要性。ここに、自民党の「脱派閥政
治」へのヒントがあるように思われる。党首によって、選挙結果が、大きく左右されるとなれ
ば、必然的に、党首(総裁)の権限、リーダーシップは強化されることになる。前述したように、
1996年総選挙は、総裁である、橋本を前面に出して戦った、自民党は勝利したが、このこ
とは、選挙後、橋本の総裁としての立場を強化し、持論であった、行政改革を実行する上で、
強力な基盤となった。また、2001年参院選での自民党の勝利は、小泉内閣の政権基盤を
強化し、小泉が掲げる、構造改革の推進力となっている。
また、党首のイメージが重要となれば、それは、総裁の選出過程の透明性に繋がる。従来の
ように、派閥の論理や、一握りの人間だけで「密室」で総裁を決めていては、もはや、選挙に勝
てないことは森首相によって実証された。このことは、総裁選の在り方そのものを変えるか
もしれない。これまでは、総裁選こそが、派閥の最大の存在意義、究極の目的であり、派閥の
合従連衡で総裁選の結果は決まった。しかし、そのようにして、総裁を選ぶことに対しては、
いまや、国民ばかりか、地方の党員までもが反対であることが明らかになった。今後は、開か
れた総裁選を通じて、派閥とは全く関係なく、国民や党員に支持される人物を総裁に選ぶべ
きである。そして、このことは、派閥の存在価値をなくし、派閥解消にも繋がるだろう。
「近年の日本は、いわゆる無党派層が5割を超える状況であり、特に、都市部において、与
党としての利益配分の力のコントロールを超えるような投票動向が出現する可能性は絶え
ず存在する。」(4)言い換えれば、これは、政権交代が十分起こりうる状況だということが
出来る。そして、この状況の下で、自民党が、脱派閥政治を進め、民主党をはじめとする野党
が、常に、政権を担当する態勢を整え、自民党に対案を提示して、野党としての機能を果たす。
そうなって初めて、日本政治が、国民の望む形に近づき、「政治改革」が実現したと言えるの
ではないだろうか。