天孫降臨、神武天皇東征神話研究

 (最新見直し2006.12.5日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 高天原王朝は、アマテラスの孫ニニギの命を地上の王になって日向の国に天降らせる。その子ホオリの命がウガヤフキアエズの命、その子がカンヤマトイワレ彦の命(後の神武天皇)という系譜が出来る。アマテラスの曾孫(4代目)の代になって東征に向かうことになる。神武天皇が日向を立って橿原に都を定めるまでの色んなエピソードが、古事記と日本書紀にほぼ同じ内容で記録されている。これを神武東征譚と云う。神武伝説は、伝説か史実かどうか未だ不詳であるが、誠に興味深い内容を記している。

 2006.12.4日 れんだいこ拝


【ニニギの命の登場とアマテラスの降臨命令譚】

 戦で勝利したフツヌシとタケミカヅチは高天原に凱旋し、葦原墓国を平定したことを報告した。アマテラスは、オシホミミの命に、葦原中国を統治するよう命じた。オシホミミの命は、タカミムスヒの娘のヨロヅハタトヨアキツシ姫の命との間に生まれ成人していた子の天津彦火のニニギの命に役目を譲った。アマテラスは、オシホミミの命の進言を受け入れ、「ニニギの命よ、そなたが葦原中国を支配することを委任いたします。さっそく天降るように」と命じた。こうして、アマテラスの命で、ニニギの命が天降ることになった。

 アマテラスは、出発に当り、ヤタの鏡と草薙の剣と八坂の勾玉(まがたま)を授け、これをお守りとして祀るよう言い渡した。これを三種の神器と云う。最後に稲穂を渡し、高天原の稲を葦原の中国の食物とせよと命じた。オモヒカネには祭事と政事を執るよう言い渡した。他にアメノコヤネ(中臣氏の祖神)、フトダマ(忌部氏の祖神)、アメノウズメ(猿女氏の祖神)、イシコリドメ(鏡作の祖神)、タマノオヤ(玉作の祖神)が従った。他にアメノオシヒ(大伴氏の祖神)、ヒコホノ二ニギ、アメノイワトワケ、タジカラヲ、アメツクメの各命が随伴した。
 オシホミミの命=。ニニギの命=邇邇芸命、瓊瓊杵命。アメノコヤネ=、中臣氏の祖神。フトダマ=、忌部氏の祖神。アメノウズメ=、猿女氏の祖神。イシコリドメ=、鏡作の祖神。タマノオヤ=、玉作の祖神。アメノオシヒ=、大伴氏の祖神。ヒコホノ二ニギ=。アメノイワトワケ=。タジカラヲ=。アメツクメ=天津久米命。
(私論.私見)

 「ニニギの命の登場とアマテラスの降臨命令譚」は、天孫族が、出雲王朝を屈服せしめた報を受け取ったアマテラスにより打ち出された葦原中国平定の降臨命令の様子を伝えている。

【サルタ彦の水先案内人登場譚】

 ニニギの命が天降り始め、地上へと続く道が八本に分岐する天の八またのところに差し掛かったとき、「上は高天原を照らし、下は葦原中国を照らす」見たことのない一人の神が道に立った。アメノウズメが呼ばれ何者であるか探った。
アメノウズメ  「これからアマテラス様のお孫様が天降りする道に、遮るごとくにそこに立っておられるあなたはどなたですか?」。
サルタ彦  「私は国つ神のサルタ彦(猿田昆古)と申します。アマテラス様のお孫様が天降りされるとお聞きして先導したいと思い、こうして出てきたのです」。

 かくて、サルタ彦が水先案内することになった。
 サルタ彦=猿田昆古。
(私論.私見)

 「サルタ彦の水先案内人登場譚」は、高天原王朝の天孫降臨に当って、サルタ彦が水先案内することになった経緯を伝えている。「上は高天原を照らし、下は葦原中国を照らす」とは、高天原と葦原中国の双方に事情通であったという意味であろう。

【ニニギノ命の一行が日向の国高千穂の峰に天孫降臨譚】

 ニニギの命の一行はサルタ彦の先導で天の八重雲を押し分け天降り、筑紫の日向の国の高千穂の峰に降臨した。ニニギの命は、アメノホシヒの命とアマツクメの命を左右に従え、大地にしっかりと足を踏み下ろした。大伴の連の祖アメノオシヒと久米の直の祖アマツクメの二人が出迎えた。天孫族はこの地に御殿を建て、アマテラスを祀った。日向国風土記に拠れば、迎えた土地の神が、「尊の御手を持ちて稲千穂を抜きて籾(もみ)と為し、四方に投げ散らし給わば、必ず開晴(あか)りなむ」と申し、その勧めに従って稲をあちこちに植えたところ、天開晴(あか)りて日月照り光るようになった。新嘗祭、大嘗祭の儀はこれによる。
 日向の国=現在の宮崎県の高千穂の峰に比定されている。
(私論.私見)

 「ニニギノ命の一行が日向の国高千穂の峰に天孫降臨譚」は、ヤタの鏡と草薙の剣と八坂の勾玉(まがたま)が三種の神器であること、筑紫の日向の国の高千穂の峰に天孫降臨したことを伝えている。これにより、高天原族は天孫族とも云われることになる。以降、仮に天孫族と云いかえることにする。なお、本居宣長の「古事記伝」に拠ると、「この高千穂は、霧島山を云うなり」とある。

【ニニギの命とコノハナサクヤ姫の結婚譚】

 この地で、ニニギの命は、オオヤマヅミ神の娘のコノハナサクヤ姫と出会い一目惚れした。ニニギの命がオオヤマヅミ神に求婚の挨拶に出向いたところ、姉のイシナガ姫共々貰い受けるならばとの条件が出された。了承したニニギの命は器量良しのコノハナサクヤ姫とは同衾したが、器量の良くなかったイシナガ姫は相手にせずまま返した。オオヤマヅミ神は、「イシナガ姫を嫁にすれば、ニニギノミコトの命は雪が降り風が吹こうとも常に岩のように永遠に変わらない命を持つはず。コノハナサクヤ姫だけを選んだということは、木の花のように栄えるが、寿命は木の花のようにはかないものになるだろう」と予言した。

 コノハナサクヤ姫は身ごもった。このことを伝えられたニニギの命は、一夜の契りで孕むとは信じ難い。もしやその腹の子は国つ神の子ではないのかと疑った。コノハナサクヤ姫は、戸が一つもない産屋をさくり、その中で子を生むことにした。そして、「私の孕んだ子がもし国つ神の子であるならば焼け死ぬでせう。天つ神の御子であるならば如何なる危険が待ち受けていようとも何事も起らないでせう」と云い置いて、身の潔白を証す為に産屋に火を放った。火はみるまに産屋を包み、燃え上がった。炎の中で、姫は3人の子を産んだ。火の盛んに燃える中で、海幸彦のホデリの命、中頃にホスセリの命、火勢の弱まる頃に山幸彦のホオリの命兄弟を生んだ。ホオリの命の又の名をアマツヒコホホデミと云う。
 コノハナサクヤ姫=木花咲耶比売。イシナガ姫=石長比賣、イワナガ姫。ホデリの命=火照命。ホスセリの命=火須勢理命。ホオリの命=火遠理命、
(私論.私見)

 「ニニギの命とコノハナサクヤ姫の結婚譚」は、ニニギの命がオオヤマヅミ神の娘コノハナサクヤ姫と結婚した事を伝えている。これは、天孫族がオオヤマヅミ族系と同盟関係に入った事を伝えているのだと悟らせていただく。これが最初の同盟となった。

【海幸彦と山幸彦譚】

 兄のホデリの命は釣りを生業としたので海幸彦と云われた。弟のホオリの命は狩りを生業としたので山幸彦と云われた。或る時、今日一日だけ道具をとりかえましょうという話しになり、海幸彦が狩りに、山幸彦が釣りに行くことになった。ところが、山幸彦は、大切な釣り針を魚に取られてしまった。海幸彦は怒り、釣り張りを返せと言い張った。山幸彦が大事な剣を壊してたくさんの釣り針をつくって供したが受け取ろうとせず、あの釣り針を返せと言い張った。

 山幸彦が海辺で悩んでいる時、シオツチの神がやってきて、小さなかご船つくり、ワタツミの神の宮殿へ行くよう示唆した。「その庭にある井戸のそばで待ちなさい、ワタツミの神の娘が現れて、良い方法を教えてくれるでせう」。山幸彦は教えられた通りに向った。井戸の傍に立つ桂の木の上で待った。はした女が水を汲みに来た時、井戸に高貴な若者が映った。ワタツミの神の娘豊玉姫に伝えられ、豊玉姫が現れて目と目を見つめ合わせると恋の虜になった。山幸彦は宮殿に招かれ、歓待された後、豊玉姫が妻として差し出された。山幸彦はこうして宮殿で暮らし始めた。

 いつしか3年の月日が流れた。或る日、釣り針の件を思い出し大きなため息を一つついた。豊玉姫がそれを聞きつけ、父のワタツミに相談した。ワタツミがため息の訳を問いただし、山幸彦が釣り針の経緯を話した。ワタツミの神は、海中の魚を集め、釣り針を飲み込んでいる魚の情報を集めた。タイが釣り針を飲み込んでいることが分かり、これを抜き取り、山幸彦に渡した。山幸彦は遂に帰ることになった。ワタツミの神は、釣り針の返し方の祝詞「貧(まず)チ、滅びチ、落薄(おとろえ)チ」を教え、兄がいじわるをした時の潮満つの青玉、謝った時の潮枯れの赤玉という二つの玉を渡した。

 山幸彦はワニの背に乗って帰った。ワタツミの神に教えられた通りに海幸彦に釣り針を渡した。ニセモノだと言い張ったが取り合わなかった。この後、海幸彦は田を高いところへ作っても低いところへ作っても実りが悪かった。山幸彦の方はいつも豊作だった。三年後、海幸彦が山幸彦を攻めてきた。山幸彦が潮満つの青球をかざすと海幸彦は水に溺れた。苦しくなって助けを求めてきた時、潮枯れの赤球をかざしたころ水が引いた。海幸彦は詫び、以降は護兵隼人として天の御子に仕えるようになった。
 シオツチの神=塩椎神。ワタツミの神=綿津見神。豊玉姫=豊玉比売。
(私論.私見)

 「海幸彦と山幸彦譚」は、天孫族の海幸彦山幸彦兄弟の仲違いを伝えている。これは、天孫族の内部対立を語っているものと思われる。山幸彦が、ワタツミの神の娘豊玉姫と結婚したことも伝えている。これは、天孫族がワタツミの神系と同盟関係に入ったことを伝えているのだと悟らせていただく。これが次の同盟となった。

【ウガヤフキアエズの命譚】
 
 山幸彦が海の宮殿で結ばれたワタツミの神の娘豊玉姫がやって来て、「あなたの御子を宿している。天の神の子を海で生むことは出来ないのでやって参りました」と云う。海のなまざに産屋を建てかやぶきの小屋をつくった。豊玉姫は、山幸彦に、「異郷の人が出産するときには、すべて本の国の姿になってしまうので出産の姿をご覧にならないで下さい」と伝えて小屋に入った。山幸彦が禁を破って覗いたところ、大きなワニが赤ちゃんを産もうとして、腹ばいのままのたうち回っていた。その姿を見られた豊玉姫は恥じ、産殿に御子を残したまま海へ帰った。

 山幸彦は、歌で呼びかけた。
 「沖つ鳥 鴨着く島に 我がい寝し 妹は忘れじ 世のことごとに」。
 (沖のかもの寄り付くあのわだつみの島で、添い寝していた君を忘れられない。私の命のある限り)

 御子はウガヤフキアエズの命と名付けられた。豊玉姫は、我が子が不憫で堪らず、歌を添えて妹の玉ヨリ姫を育ての叔母として送ってきた。
 「赤玉は緒さえ光れど 白玉の 君が装し 貴くありけり」
 (赤玉は玉ばかりでなく、その緒(紐)まで光輝きますが、白玉のような君のお姿が一層貴く恋しく思われます)

 ウガヤフキアエズの命が玉より姫と結婚し、イツセノの命、イナヒの命、ミケヌの命、ワカミケヌの命の4人の子を生む。その末の子がカンヤマトイワレ彦命となり後の神武天皇と称されることになる。
 ウガヤフキアエズの命=鵜茸草茸不合の命、天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命。玉より姫=玉依昆賣。イツセの命=五瀬命。イナヒの命=稲氷命。ミケヌの命=御毛沼命。ワカミケヌの命=若御毛沼命、カンヤマトイワレ彦命=神倭伊波礼毘古の命、神武天皇。
(私論.私見)

 「ウガヤフキアエズの命譚」は、山幸彦が結婚したワタツミの神の娘豊玉姫の子供であるウガヤフキアエズの命が天孫族の皇統を継承した事を伝えているのだと悟らせていただく。

【天孫族の東征始まる譚】
 日向国高千穂宮に住居していた天孫族の東征の時の様子が次のように書かれている。
 「東に美(う)まし國ありと聞く。我いざこれを討たん」

 かくて、天孫族は日向の浜を発し、豊国の宇佐に着いた。ウサツ彦とウサツ姫は服属して、足一あがりの宮を建てもてなした。次に、豊後水道を経て、筑紫の国の岡田宮に1年、安芸国のたけりの宮に7年、吉備国の高島宮に8年過ごした。速水門に至った時、国つ神のキタカネツ彦が現れ、一行を先導した。浪速の渡りを経て、河内国の難波津に到着した。
 速吸門=はやすいのと、豊予海峡。筑紫=現在の福岡県が比定されている。豊国=現在の大分県が比定されている。安芸国=広島県。たけりの宮=多祁理宮。吉備国=岡山県。キタカネツ日子=木高根津日子、さお根津日子とも記す。
(私論.私見)

 「天孫族の東征始まる譚」は、天孫族の東征がいよいよ始まったことと、東征行程を伝えている。

【ニギハヤヒの命王朝譚】
 記紀の記述が齟齬しているが、河内から大和一体にかけてこの時既に天孫族の高天原王朝よりも早く外来系のニギハヤヒの命率いる王朝が成立していた。これに触れておく。ニギハヤヒの命が、どこより降臨したのかを廻って、天孫系、出雲系、その他系の三説ある。れんだいこは、以下の如く推理する。
 日本書紀の神武東征の下りに次のように記されている。
 「塩土老翁(しおつちのおじ)に聞きき。曰く、『東に美き地(くに)有り。青山四周(よもめぐ)れり。その中に又、天磐船(あまのいわふね)に乗りて飛び降りる者有り』と云いき。余謂(おも)うに、彼の地は、必ず以って天業(あまつひつぎ)をひらき弘(の)べて、天下に光宅(みちお)るに足りぬべし。けだし六合(くに)の中心か。その飛び降りると云う者は、これニギハヤヒと謂うか。何ぞ就(ゆ)きて都つくらざらむ」。

 物部氏の伝承譚である「先代旧事本紀」(せんだいきゅうじほんぎ)は次のように記している。
 「ニギハヤヒの尊、天つ神の御祖の詔(みことのり)を受け、天磐船に乗りて、河内国の河上のいかるが峯(みね)に天降りまし、則(すなわ)ち、大倭国(やまとのくに)の鳥見の白庭山に遷ります。いわゆる虚空(そら)見つ日本国というは是(これ)か」。

 矢田坐久志玉比古神社(やたにいますくしたまひこ神社、現在の奈良県大和郡山市矢田町)にも、ニギハヤヒが天磐船(あまのいわふね)に乗って、この地に降りてきたとする伝承が残されている。同神社は、独特の神代文字を伝えている。この文字は、熊野大社の奥宮として知られる玉置神社に残る文字と符合している。このニギハヤヒが、土地の豪族ナガスネ彦と和議し、ナガスネ彦の妹・ミカシギヤ姫を妃とすることで、櫛玉ニギハヤヒの命王朝を創始し、河内の大和田トミの白庭山に居を構えていた。ニギハヤヒの命とミカシヤ姫の間にウマシマデの命が授けられていた。縁戚関係を成立させ義父となったナガスネ彦は、ニギハヤヒの命を君として仕えていた。

 櫛玉ニギハヤヒの命王朝は、ナガスネ王権時代よりの大国主率いる出雲王朝との同盟を継承し、大物主と称されていた。大国主と大物主は、出雲王朝系共同統治者の間柄であった。こうして、天孫軍東征時点に於いて、大八州国には、出雲ー河内ー大和にまたがる出雲王朝系の豪族連合型王朝が出現していた。

 河内大和王朝の祭政一致政治の中枢は三輪山であり、ニギハヤヒの命大物主が政務を執っていた。崇神天皇8年12月の条の三首の歌の一つがこれを隠喩している。大物主を祀る三輪の地から神酒が天皇に献上された時に詠われた歌である。
 「この神酒(みき)は、我が神酒ならず。倭(やまと)成す、大物主の、醸(か)みし神酒、幾久 幾久し」。

 こうした局面で、天孫軍が東征してきた。どの時点のことか定かではないが、ナガスネ彦と天孫族は次のように遣り取りしている。
ナガスネ彦  「昔、天津神の子が天磐船に乗って天より降りてきた。名を櫛玉ニギハヤヒの命と申す。私の妹のミカシギヤ姫を娶り、弧をんでいる。私はこのニギハヤヒを君主として仰いできた。あなたは自らを天津神の子と称し、この国を奪おうとしているが、そうなると天津神の子が二人いることになる。なぜ天津神の子が二人いるのか。思うに、あなたはウソをついている」。
天孫族  「天津神の子は多く居る。もしニギハヤヒの命が本当に天津神の子であるというのなら、必ずやその印となるものを持っている筈である。それを見せてみろ」。

 この後、双方が証拠の天羽羽矢(あまのははや)と歩ゆぎを見せ合い、譲らなかった。
 トミ=鳥見、登美。奈良市富雄町と比定されている。ナガスネ彦=那賀須泥毘古、長髄彦。ニギハヤヒの命=邇芸速日命、天照国照彦天火明櫛玉饒速日命、大物主。ミカシヤ姫=三炊屋媛。

【天孫族と河内王朝の激戦譚】
 河内国の難波津に到着した天孫族は、ニギハヤヒの命率いる国津族出雲系王朝軍と闘うことになった。難波の日下で、ニギハヤヒの命の義父にして元々の土地の豪族ナガスネ彦軍と闘い敗れる。その時の様子が次のように書かれている。
 難波の日下で、天孫軍は、国津系の豪族ナガスネ彦軍と闘い、長兄のヒコイツセの命が敵の放った矢に射抜かれて負傷するなど手痛く敗れた。天孫軍は南海道に兵を募り再び戦闘するも、弟のヒコイナイの命が討ちとられた。第三皇子なるワケミケヌの命は行方不明となった。第四皇子のワケミケヌの命が統率し、南海道、韓兵、淡路等の兵合わせて再度攻略する。今度はナガスネ彦が重傷を負い、東国に退く。アビ彦は越に退く。こうして、天孫族は、四男のワケミケヌの命の指揮によって辛うじて初勝利することができた。
 日下=現在の大阪府東大阪市に比定されている。ヒコイツセの命=。ヒコイナイの命=。ワケミケヌの命=。ワケミケヌの命=。アビ彦=。紀州熊野=現在の和歌山県新宮市)に比定されている。
(私論.私見)

 「天孫族と国津族の激戦譚」は、天孫族と国津族の戦いが凄まじく、摂津で重大な敗北を喫したことを伝えている。

【天孫族の紀州熊野迂回上陸譚】
 第四皇子なるワケミケヌの命が天孫族を率いて、紀州熊野に上陸して山と平定に成功する。その時の様子が次のように書かれている。
 長兄のヒコイツセの命の「日の神の御子が日に向って戦うのが良くない。日を背に負うようにして戦うことにする」の言に従い、天孫軍一行は南へ下り、紀の国の男の水門に上陸した。そこで、長兄のヒコイツセの命が「賎しい奴に手傷を負わされて死んでしまうのか」と口惜しがりながら死んだ。一行は熊野村の浜に舟を着け、徒歩で北に向かった。道中、大きなクマが現れたかと思うと姿を消した。熊野に辿り着いた時、ワケミケヌの命は俄かに病に襲われ、軍人達も倒れて臥してしまった。

 この時、熊野のタカクラジが、一振りの太刀を持ってやって来て奉った。曰く、アマテラスとタカギの神が夢に現れ、タケミカヅチに苦戦する天孫族支援を命じたところ、タケミカヅチは、「私が行く代わりに先に私が葦原の中つ国を平定した時のフツノ御魂の太刀を天降りさせ、タカクラジの倉の屋根に穴を開け、そこから落とし入れてくだされば良いでせう」と答えた。続いて、「タカクラジよ、太刀を天つ神の御子に差し上げるように」と仰せられた。その太刀を差し上げに参りました。(この太刀はその後、石上神宮に納められている) タカクラジの言を聞いたワケミケヌの命は忽ち精気を取り戻した。

 この時、ヤタガラスが現れ道案内することになった。天孫族は、一行荒ぶる神々のひしめく中を行軍し、吉野川の下流に着いた。国つ神のニエモツノコ、イヒカ、イワオシワクノコが恭順した。宇陀に着いた時、ウカシ兄弟と対峙することになった。ヤタガラスが説得に向ったが、兄ウカシは鳴鏑(なりかぶら)で応え敵対の意志を明確にさせた。ところが、軍勢が予期したより集まらなかったウカシ兄弟は一計を廻らし、偽りの降伏で誘って落し入れようとした。ところが、弟が内通し仕掛けられた罠を教えたため事前に偽計を知ることが出来た。大伴の連の祖になるミチノ臣と久米の直の祖になるオホクメが、兄ウカシを呼び出し、「おのれが作り、お仕え申すという大殿の内に、おのれがまず入れ」と、太刀の柄(つか)を握り締め、矛を突きつけ矢をつがえて殿の内に追い入れた。兄ウカシは、おのれが作った落とし仕掛けに掛かって潰されて死んだ。弟ウカシは、天津神の御子へ恭順を誓った。

ワケミケヌの命の神夢譚】

 ナガスネ彦の抵抗に悩まされていた頃、夢の中に神が現われ、神託を下した。神曰く、天香具山の土をとって天の平か(平らな土地の皿)を作って天神地祇(てんじんちぎ)を敬い祀れば、敵は必ず降伏するであろう。ワケミケヌの命は早速密使を走らせ、神託の通りに行動した。

【天孫族と国津族の第二の国譲り譚】
 天孫族と国津族の第二の国譲り譚が次のように記されている。
 天孫軍は、国つ神族の内部分裂を誘いながら進撃し、平伏しなかった土雲族、トミビコ、師木のエシキ、オトシキ兄弟ら八十タケルを攻め滅ぼした。但し、ナガスネ彦の抵抗は引き続いており戦線は膠着していた。遂にニギハヤヒが登場し、両軍が対峙することになった。この時、金のトビが現れて天孫神に加勢したため、ニギハヤヒーナガスネ彦軍が総崩れとなった。
 
 この下りの神話は、物部氏の伝承「先代旧事本紀」(せんだいくじほんぎ)に拠れば、次のように記されている。れんだいこが意訳する。
 天孫軍と国津軍の戦闘は長期化し、天孫軍優位のまま膠着状態に入った。国津軍の実権は、ニギハヤヒの子のウマシマチに移っていた。ウマシマチは、天孫族新王朝の要職の地位の約束を得ることでナガスネ彦を殺し、抵抗を終息させた。ここに両者が大和議し、天孫軍と国津軍の合体による大和王朝が創始されることになった。「大和」の由来はこれによる。ウマシマチはその後物部氏として大和朝廷の第一豪族として枢要の地位に有りついていくことになる。

【神武天皇即位譚】
 第四皇子なるワケミケヌの命がカムヤマトイワレ彦命となり、初代天皇として即位した。その時の様子が次のように書かれている。
 こうして、ワケミケヌの命が大和を平定してカムヤマトイワレ彦命となり、初代天皇として即位した。かくて、大和朝廷を創始した。カムヤマトイワレ彦命は後に神武天皇と称名したので、神武天皇が大和朝廷初代天皇となる。神話上は、この皇統が平成の現在まで続くという事になっている。

 新唐書日本伝は次のように記している。
 「みな尊を以って号となし、筑紫城に居る。彦 の子神武立ち、さらに天皇を以って号となし、移りて大和州に治す」。
 タカクラジ=。葛城地方の土豪と推測されている。オワリ氏の祖。 ヤタガラス=八咫烏。葛城のカモ氏の祖。ウカシ=宇迦斯。カムヤマトイワレ彦命=神倭伊波礼毘古命。
(私論.私見)

 「神武天皇即位譚」は、天孫族がやむなく迂回して紀州熊野に上陸し、国津族の内部分裂を誘いながら大和に侵入し、ワケミケヌの命が即位してカムヤマトイワレ彦命となり大和王朝を創始した経緯を伝えている。

【神武天皇とイスケヨリヒメの結婚譚】
 神武天皇は正妃を定め、旧出雲王朝系から貰い受けている。次のように記している。
 神武天皇は、アヒラ姫を妻にしていた。タギシミミの命とキスミミの命という日向で生まれたお子もいた。その神武天皇は、トミ彦の妹のトミヤ姫を妻とした。ウマシマジが生まれ、物部の連、穂積の臣、ウヌ女の臣らの祖となった。

 或る時、三輪の大物主の神と関係の深いヒメタタライスケヨリ姫を見初め、イハレ彦とイスケヨリ姫は結婚することになった。大神神社の北を流れる狭井川のほとりにあったイスケヨリヒメの家で一夜を過ごすことになった。こうして生まれた子が、ヒコヤヰの命、カムヤヰミミの命、カムヌナカハミミの命である。
 アヒラ姫=阿比良比賣。タギシミミの命=多芸志美美命。キスミミの命=岐須美美命。オオモノヌシの神=大物主神。ヒメタタライスケヨリ姫=比賣多多良伊須気余理比賣、ホトタタライススキ姫。ヒコヤヰの命=日子八井命。カムヤヰミミの命=神八井耳命。カムヌナカハミミの命=神沼河耳命。
(私論.私見)

 「神武天皇とイスケヨリヒメの結婚譚」は、天孫族の皇統を継ぎ大和王朝の初代天皇となった神武天皇が、河内王朝ー出雲王朝系のイスケヨリ姫と結婚したことを伝えている。これは、大和王朝と河内王朝ー出雲王朝の同盟を暗喩していると悟らせていただく。逆に云えば、河内王朝ー出雲王朝の協力なくしては大和を平定できなかったこと、出雲王朝が隠然と勢力を蓄えていたことを暗喩しているのではなかろうか。

【八紘一宇詔勅発令譚】
 神武天皇は、神武天皇は、畝傍山(うねびやま)の麓橿原(かしはら)に都を築き、橿原宮に遷都した。この時、「八紘(あめのした)をおおいて宇(いえ)と為す」の八紘一宇詔勅を発令した。「橿原遷都の詔 皇宗 神武天皇」は、次のように記している。
  「我、東(ひんがしのかた)を征(う)ちしより、ここに六年となりたり。頼(こうぶ)るに皇天(あまつかみ)の威を以ってして、兇徒(あた)就殺(ころ)されぬ。辺(ほとり)の土(くに)未だ清(しづま)らず、余(のこり)の妖(わざわい)尚あれたりと雖(いえど)も、中洲之地(うちつくに)、復(また)風塵(さわぎ)無し。誠に皇都をひらき郭(ひろ)めて、大壮(おおとの)を規(はか)りつくるべし。而(しか)るを今運(よ)屯(わかく)蒙(くらき)に属(あ)いて、民(おおみたから)の心素朴(すなお)なり。巣に棲(す)み穴に住みて、習俗(しわざ)惟(これ)常となりたり。それ大人(ひじり)制(のり)を立てて、義(ことわり)必ず時に随(したが)う。いやしくも民に利(かが)有らば、何ぞ聖(ひじり)の造(わざ)に妨(たが)わん。まさに山林をひらき払い、宮室(おおみや)を経営(おさめつく)りて、つつしみて宝位(たかみくら)に臨みて、元々(おおみたから)を鎮(しづ)むべし。上(かみ)は乾霊(あまつかみ)の国を授けたまいし徳(みうつくしび)に答え、下(しも)は皇孫(すめみま)の正(ただしきみち)を養いたまいし心を弘めん。然(しこう)して後に、六合(くにのうち)を兼ねて都を開き、八紘(あめのした)をおおいて宇(いえ)にせんこと、亦(また)可(よ)からずや。観(み)れば、夫(か)の畝傍山(うねびやま)の東南(たつみのすみ)の橿原(かしはら)の地(ところ)は、蓋(けだ)し国のもなかの区(くしら)か。治(みやこつく)るべし」。
(私論.私見)

 「八紘一宇詔勅発令譚」は、出雲王朝の協力を得た大和王朝が「八紘一宇」を掲げ、全国平定に乗り出した事を伝えていると悟らせてていただく。

【諡名「ハツクニシラス」天皇考】

 カムヤマトイワレ彦命(神武天皇)は137歳まで生き崩御し畝傍山の北に葬られた。諡名(おくりな)はハツクニシラスと付けられた。第10代天皇の崇神天皇の和風諡名も「ハツクニシラススメラミコト」と付けられている。
 ハツクニシラス=御肇国。
(私論.私見)

 崇神天皇の諡名も「ハツクニシラススメラミコト」と付けられている。この同名諡名の意味が詮索されている。





(私論.私見)