42―72 その後のソ連邦史考

 (最新見直し2006.1.3日)

【建国革命に失敗し続ける革命政権の不手際】

 革命から10年、1927年末には工業と農業の総生産高は第一次大戦前の水準を上回った。しかし、都市への穀物供給は減りつづけ、穀物危機が生じた。主な穀物生産の中農と貧農は農産物の価格が工業製品と比べて不利なために、市場に出す穀物量が半減した。都市住民を飢えさせず、工業化のため機械を輸入するには、穀物の手当てがどうしても必要だった。


【ボリシェヴィキ第15回党大会】

 1927.12月、ボリシェヴィキ第15回党大会開催。大会は、反対派の問題を取り上げ、その指導者トロツキー、ジノビエフ、カーメネフと多数の活動家を党から除名し、主要なものたちを流刑地に追放していった。

 スターリンはネップを中止して第1次五ヶ年計画を実施に移すことを宣言した。1928年より着手され、翌年には農業の集団化を開始した。これはもともとトロツキーらの主張を実行に移したものであったが、余りにも粗暴な遣り方で強行された。

 工業化と農業集団化は一種の戦争的様相を帯びていた。莫大大量の投資と労働力投入によって、ソ連では新しい発電所、製鉄所、機械工場、石炭コンビナートなどが生まれた。経済全体に占める工業生産物の比率が初めて農業生産物のそれを越えた。農村では「富農を階級として絶滅し、収奪し、全面的集団化を行う」という政策は農民の猛烈な抵抗を受けた。1000万人にものぼる農民が富農として家族ごとシベリアや中央アジアの僻地に追放され、跡形も無く消滅した。農民は「集団化されるよりは」と家畜を殺した為家畜頭数は激減して、その後二十数年にわたり回復しなかった。ウクライナとボルガ下流域では飢饉が起き、数百万人が死んだ。スターリンが後に英国首相チャーチルに「ナチ・ドイツとの戦争よりひどかった」と打ち明けたほど、集団化は困難で多大な犠牲を伴った。

 しかし、この年早くも計画が破綻し、農民からの穀物買い付けが進捗せず、ロシアの諸都市は飢餓に見舞われた。スターリンは突如、政府への穀物供給をサボタージュした富農を弾劾し始め、6月には「新非常時対策」が発表された。富農の多くはシベリアへ追放された。

 農業集団化政策は、トロイカ(スターリン、ブハーリン、ルイコフ)を分裂させた。ブハーリンは、穀物供給不足の原因は農業の分散性、農産物価格などにあると主張し、急速的集団化に反対した。論争は激化し、第一次5カ年計画(1928―32)の作成は難航した。

 鬼塚英昭氏は「20世紀のファウスト」で次のように記している。

 「スターリンの5カ年計画(1928ー32年、1933ー37年、1938ー42年)はいずれも国際的な銀行から融資を受けて為された。その主力は、モルガンとロックフェラー財閥であった。もっと明確に書くなら、ロスチャイルドがスターリンの帝国にドルを貸し付けていたのである」(43P)。

【トロツキー、アルマ・アタに追放、流刑される】
 1928.1月、トロツキー、アルマ・アタに追放、流刑された。アルマ・アタは、モスクワから4千キロ離れた中国国境に近い天山山脈の麓の流刑地であった。ここにほぼ1年暮らすことになる。

 同月、穀物調達危機が起こり、その対処をめぐって主流派内部で深刻な危機と分化が生じる。ネップ後初めて農民に対する強制徴発が行なわれる。
 6.9日、トロツキーの娘・ニーナがモスクワで逝去した(享年26歳)。

 6月、トロツキーが「共産主義インターナショナルの綱領草案の批判」(後に『レーニン死後の第3インターナショナル』として出版)を執筆。


 7月、コミンテルン第6回大会開催。


 8月中旬新たな穀物危機がおこる。スターリン派は、ブハーリン派の拠点−モスクワ党組織、コミンテルン指導部、全国労働組合指導部を各個撃破する。その後もスターリン派は、穀物調達キャンペーンをつづけ、中央委員会総会などの席では表面上妥協的態度をしめすもブハーリン派への組織的攻撃を完遂し、29年の前半には名実ともに決着をつけた。


【トロツキー、国外追放される】

 1929.1.8日、トロッキーの国外追放が決定されている。通知書は次のように記されていた。

 「審議事項 反革命活動のかどにより、刑法第58条第10項の罪に問われたる、市民・レフ・ダヴィドィッチ・トロツキーの事件。本件は、非合法的反ソビエト党組織に於いて生じたるものにして、その組織的活動は最近に至って反ソビエト大衆行動を惹起しソビエト権力に対する武装蜂起を準備せんとしたものである。

 決定 市民・レフ・ダヴィドィッチ・トロツキーはソビエト連邦から追放するものとす。

 トロツキー派数百名が逮捕された。これによりまずトロツキー派が権力の座から滑り落ちた。

 2月、トロツキーは、トルコのコンスタンチノープルに到着。


【「トロイカ体制の分裂抗争始まる」】
 トロツキー派追放後、スターリン・ブハーリン派とジノヴィエフ・カーメネフ派との間で熾烈な闘争となる。トロツキー派追放後、トロツキー派追放に大同団結していたトロイカの分裂が始まった。結果、ジノヴィエフ派とカメネフ派が追放された。権力には、スターリン派とブハーリン派が居座ることになった。

 3月、ソ連共産党政治局の決定により「ウラル・シベリア方式」と呼ばれる強制的穀物調達方式が大々的に適用される。


 4月、スターリン派とブハーリン派の抗争が始まった。スターリンは、強引な集団化に反対するブハーリンを「右翼偏向」として非難し、公然闘争に突入する。無力となったジノビエフ、カーメネフは再入党を認められ、理論家のブハーリンは失脚した。農業の集団化は「説得」によるという建前であったが、実際はいやがる農民を強制的に集団化させる乱暴なものであった。


 7月、トロツキーが、息子のセドフとともに『反対派ブレティン』を創刊。


 同月、コミンテルン第10回拡大執行委員会総会で「第三期論」「社会ファシズム論」が正式に打ち出され、各党に極左主義路線が押しつけられる。


 11月、党中央委総会で、ブハーリンが政治局員を解任される。


 11月、アメリカで株が暴落し、世界恐慌始まる。


 12.16日、トロツキーは、スターリンの意を受けたゲー・ペー・ウーにより一再の政治活動の放棄を要求された。


 1930.1月、トロツキー、「コミンテルンの誤謬の『第三期』」を執筆し、コミンテルンの第三期論を全面的に批判。


 2月、スターリンの超工業化と農業強制集団化を批判する論文を執筆し、『反対派ブレティン』に発表。以後、一連の論文を通じて、経済的冒険主義を批判。


 4月、国際左翼反対派の第1回国際会議が開催される。


 5月、トロツキーが「スペイン共産主義者の任務」を書いて、スペイン革命論に着手。


 1930.6月、第16回党大会。国の工業化と農業集団化の成功を謳った。

 五年間にわたる外国干渉軍と反乱軍による国内戦でもソビエトは倒せなかった。そこでつぎに計画実行されたのが内部かく乱とスターリン暗殺計画であった。そのうちでもナチスと日本の計画は誠に執ようであった。幾組ものテロリストグループが送られた。しかしソビエト国内の革命的警戒は厳重を極め、彼らの計画はつぎつぎに失敗し、ソ連に潜入した暗殺団はみな銃殺され、悲惨な結末に終った。そこには国家と権力と民族と階級の運命をめぐるすさまじいばかりの闘いがあった。

 1930.11月、産業党という反革命団体による各種政府機関の破壊事件(産業党事件)が発生している。

【スターリンが、リトヴィノフを外相に登用する】

 1930年、ユダヤ人フリーメーソンのリトヴィノフが、スターリンによってチチェーリンの後任の外相に任命された。外相に就任したリトヴィノフは、チチェーリンが遂行してきた善隣外交と革命の輸出という二元外交から、ソ連と資本主義諸国との平和的共存に方針を転換する。この方針転換には、レーニン後、世界革命を主張するトロツキーに対して、一国社会主義論を主張したスターリンの指示によるものであった。五カ年計画による社会主義国家建設に邁進するため、対外関係の緊張緩和が優先されたためである。また、世界恐慌をきっかけに台頭したファシズムに対抗する関係上からも、1930年代を通じて、リトヴィノフは、反ファシズムの集団安全保障政策を引っさげ、縦横無尽の活躍を見せていくことになる。(「ウィキペディア(Wikipedia)マクシム・リトヴィノフ」参照)


 8月、トロツキーが「スターリンと中国革命」を書いて第1次中国革命を総括。

 9月、トロツキーが、ドイツ情勢に注意を向け、反ファシズム労働者統一戦線を提唱。

 この年、トロツキーの「わが生涯」、「永続革命論」(ラデックを批判し、永続革命論の基本原則をまとめる)が出版される。

 1931.1月、「スペイン革命」を『反対派ブレティン』第19号に発表。

 4月、トロツキーが「ソ連邦の発展の諸問題」を書いて、ソ連問題を総括。

 11月、トロツキーが「イギリスとインドにおける左翼反対派の課題」を執筆。

 この年、『ロシア革命史』第1巻が出版される。

 1932.2月 トロツキー一家、ソ連の市民権を剥奪される。

 7月、ドイツの総選挙でナチ党が第1党となる。

 9月、トロツキーが 「唯一の道」を執筆し、反ファシズム統一戦線を切実に訴える。

 10月、トロツキーが「危機に立つソヴィエト経済(第2次5ヵ年計画を前にして)」を執筆し、改めて超工業化と農業強制集団化路線を批判し、ネップに戻ることを訴える。

 11月、トロツキーがデンマークに短期旅行し、学生の前で「ロシア革命の擁護」と題して講演。


【「ジノビエフ、カーメネフらが再追放されシベリア送りとなる」】
 1932年、ジノビエフ、カーメネフら多くの者が、再び追放されシベリア送りとなる。以降1933年から35年にかけて、党から追放された者は数十万人に及び、青年共産党から追放された者の数は、それを沙羅に上廻った。ブハーリン、ルイコフ、ピャタコフ、ラデックなどは転向し、スターリンの私的な顧問になったり政府の要員として抱えられた。この頃、スターリンの妻ナディア・アリルエヴァは心痛のあまり自殺を遂げている。

 1932年、スターリンの愛妻・ナジェージュダ・アリルエワが変死する。


 この年、トロツキーが『スターリンの偽造学派』、『ドイツ革命とスターリニスト官僚制』(英訳題名は『次は何か』。ドイツ・ファシズム批判の集大成。グラムシにも肯定的に言及)、『ロシア革命史』第2、3巻、『中国革命の諸問題』(英語)が出版される。

 1933.1月、トロツキーの長女ジーナ、ベルリンで自殺。

 同月 ヒトラー、ドイツの首相となる。

 2月 トロツキー、最後に繰り返し反ファシズム統一戦線の結成を訴える。

 同月 ドイツの国会議事堂炎上事件をきっかけに共産党と社会民主党に対する大弾圧が開始される。

 3月、トロツキーが 「ドイツ・プロレタリアートの悲劇」を執筆し、ドイツ共産党の死を宣告。

 7月 トロツキー、コミンテルンの改良路線を転換し、第4インターナショナルをめざすと宣言。

 同月、トロツキー一家、フランスに移る。

 10月、トロツキーが「ソヴィエト国家の階級的本質」の中で、ソヴィエト国家論を展開し、その変革の展望を明らかにする。

 1933.10月にはウクライナ民族同盟という右翼団体による駐ソビエトポーランド大使館員暗殺事件。1934年から35年にかけてソビエト国内では各地で奇怪な事件(炭坑爆破、列車転覆、家畜の伝染病、鉄道事故)などがつぎつぎと発生している。

 政府は五ヶ年計画を予定より早く達成し、「ソ連は工業国となった」と発表した。そのような発表とは裏腹に、無理な集団化の結果、穀物生産は低迷し、多数の餓死者が出ているというのが農村の実態であった。

 三頭政治を脱却し独裁体制を確立したスターリンは、ブハーリン、ルイコフ、トムスキーらの「右派」との全面的な提携に入った。スターリンの「一国社会主義」論が支配的になった。


ソ連共産党第17回大会
 1934.1月、ソ連共産党第17回大会は、五ヶ年計画の達成を受けて開催された。「ソ連は農業国から工業国に変わった」として、第二次五ヵ年計画(1933―37)に関する決議を採択した。この計画は技術革新の完成を予定した。スターリンらは、この第17回党大会を「勝利者の大会」と呼んだ。大会の出席者はスターリンに対するあらゆる賛辞を惜しまなかった、というのが公式の見方である。

 ところが最近、実はそうではなかったようだという説が出てきている。この説によると、スターリンの強引な農業集団化と大量の餓死者の発生という事態に地方の党幹部がスターリンに不信を抱き、政治局員として人望の厚かったセルゲイ・キーロフを書記長に据えるべく計画し、この大会でスターリンを書記長の地位から解任し、キーロフを書記局に入れたという。事実とすれば公式発表とは反対の大会だったわけだ。

 同年末、そのキーロフが暗殺されると、スターリンはこれをジノビエフ派の仕業であるとして「捜査」に乗り出し、数多くの党員・非党員が逮捕され、裁判にかけられ、あるいは裁判も受けることなく処刑されていった。

 1956年になってフルシチョフ秘密報告により次のような真実が暴露されている。
 「第17回党大会の中央委員候補139名の約80%に当たる108名が逮捕、射殺され、大会出席者1966名のうちの1108名が反革命で逮捕されている」。

スターリン専制体制の成立
 十月革命以来、ロシアの最高指導者は、ボルシェビキの最高指導者であるレーニンであり、レーニンにつぐ人気を持っていたのが、赤軍の指導者であるトロツキーであった。しかし、1922年、レーニンが卒中で倒れ、再起不能の状態となると(24年死亡)、その後のロシアおよびソ連の指導者の地位をめぐって激烈な権力闘争が起こった。この権力闘争のなかで着実に勢力を拡大し、前代未聞の独裁的専制君主となったのが、共産党書記長の地位にあったスターリンである。最初にトロツキー派、次にジノヴィエフ、カメネフ、最後にブハーリン、ルイコフと各個撃破され、1929年以降スターリン独裁体制が確立する。

 平凡社デジタル百科事典「スターリン主義」は次のように記している。
 「『スターリン主義』とは、ソビエト共産党書記長になったスターリンによってもたらされた思想・体制・政策の総称。この呼称はトロツキーと彼の支持者が,レーニン死後のスターリン指導下のソビエト体制を批判的に論ずる時に使用したものであるが,スターリン批判(1956)以降は西側世界でも否定的意味をこめて,より広義に使われるようになった。

 スターリンは遅れたロシアでの社会主義建設を強行するために,急速な工業化と農業の集団化を至上目標に,農民をはじめ国民各層を力で抑えつける政策をとり,国民の強い不満をかった。そこでスターリン指導下の党は国家権力と一体化して,社会全体の改造を図り,党内反対派や農民,知識人などの人民に対するテロルを行った(大粛清)。

 また,スターリンはコミンテルンやコミンフォルムなどの国際共産主義運動の思想や行動にも影響を与え,最初の社会主義国ソビエトの指導の下での各国共産党の活動を求め,自主的活動を制限した。

 このようにスターリン主義とは,社会主義国家において支配政党が国家と癒着して,専制的な指導者の機構になった状態を指す。

 スターリン主義は権威主義,事大主義的傾向を共産主義運動のうえに生じさせ,国内的には,人民に対するテロリズムの体制,党による強圧的な指導体制を,国際的には,ソビエトの一国社会主義によるナショナリズムをもたらした。この結果,国民の自主的活動は抑えられ,経済発展が遅れ,隣接社会主義国との関係にも緊張状態が生じた。

 スターリン主義の評価については,レーニンの社会主義に対する理念や組織とどう関連するかを論議するもの,ロシアの後進性やスターリンの個人的性向や指導の特質の側面を重視する見解などがある。また,中国のようにスターリンの思想や行動の積極的側面を評価するものもあるなど,その内容の理解には多くの議論がある」。

 ドイッチャーの「ロシア革命50年」は次のように述べている。
 「最初、単一政党は、まだ少なくとも自分の党員には、言論と政治的イニシアティブの自由を残していた。それから、支配的少数独裁者は、彼らからその自由を奪い去った。そして、単一政党の独占は、実際は単一分派、つまりスターリ二スト分派の独占となった。革命の10年代に全体主義的一枚岩が形作られた。最後に、単一分派の支配はその頭首の個人的支配となった」。

 1934.2月、親友ラコフスキーがスターリンに屈服。


 6月、トロツキーが「第4インターナショナルと戦争」を執筆し新しい世界戦争を予測。


 10月、スペインで、ゼネストと武装闘争が展開されるも、政府によって血の弾圧を受け敗北(10月事件)。


 同月、トロツキーが 「フランスはどこへ行く」を執筆し、フランスにおける階級闘争を分析。


【「キーロフ暗殺事件」】
 12.1日、スターリンの懐刀キーロフが暗殺された(「キーロフ暗殺事件」)。レニングラードソビエト議長という党の要職に有り、共産党幹部で唯一スターリンに正面切って諫言をのべることができた人物にしてスターリンの最有力後継者と目されていた若手幹部キーロフがレニングラードの党本部のオフィスで、若い一党員により白昼ピストルで射殺された。この事件は、後にフルシチョフが示唆した話では、スターリンが潜在的ライバルを除去し、大粛清の口火を切るために仕組んだ疑いが濃い。久保田政男氏の「フリーメーソン」は、「フリーメーソンによって暗殺された」と記している。 

 この事件後、スターリンによる血なまぐさい粛清劇が開始される。次々に粛清されるべき分派活動や破壊分子が作り出され、多数の古参党員が粛清されていった(ほとんどが冤罪であったという)。

 1934年、スターリンが、ユダヤ自治州を作ると発表した。この宣言はビロビジャンと云われた。ハバロフスク西方175キロにある地域が想定され、面積3万6千キロ、人口25万人を計画した。しかし、この計画は失敗した。


 1935.2月、トロツキーが亡命日記を書き始める。3月、「再びフランスはどこへ行く」を執筆。 6月、トロツキー一家、フランスからノルウェーに移る。


新憲法が必要であるとの動議が採択される

 1935.2.6日、第7回ソビエト大会で、新憲法が必要であるとの動議が採択されている。これにより憲法起草委員会が設置された。委員会には、スターリン、ブハーリン、ラデック、ソコル二コフ、ヴィシンスキーらが加わった。ブハーリン、ラデックが主たる起草者として憲法が検討されていった。


スターリンのテロル荒れ狂う

 1935年春頃、スターリンの護衛40人が秘密裁判にかけられ、うち2名が死刑になった。 5月、ジノヴィエフ、カーメネフ、再び逮捕。1936.8月、「16被告裁判」で、ジノビエフは懲役十年、カーメネフは5年の刑に処せられた。スミルノフ、ムラチコフスキー等も処せられた。1937.1月「17被告裁判」で、ピャタコフ、ラデック、ソコル二コフ、ムラロフ、セレブリャコフ等が処せられた。6月トハチェフスキー元帥ら赤軍司令官に対する秘密裁判、1938.3月「21被告裁判」で、ルイコフ、ブハーリン、クレスティンスキー、ラコフスキー、ヤゴダ等も処せられた。スターリンその他の要人の暗殺、外国のスパイというのが罪名であった。


 7月、コミンテルン第7回大会開催。人民戦線路線に転換。


 9月、スペインでマルクス主義統一労働者党(POUM)成立。指導者は左翼反対派のアンドレウ・ニン。


仕官位階制度の復活

 9月、仕官位階制度を復活させた。「プロレタリア民兵から常備軍への復帰は、コンミューン型国家の変質を物語るものの一つであった。ソビエトの変質は、官僚政府を生み出した」(佐久間元「革命の挫折」)


 1936.2月 スペインに人民戦線政府成立。


 5−6月、フランスでゼネストの大波。


 7月、スペインでフランコのクーデター勃発。スペイン内戦へ。


 8月、第1次モスクワ裁判始まる。被告はジノヴィエフ、カーメネフなど。全員に死刑が宣告され、ただちに銃殺。


新憲法が布告される

 1936.11月、第8回ソビエト全国大会の席上、新憲法が布告された。俗に「スターリン憲法」と云われる。 「世界で最も民主的な憲法」と宣伝されたが、その裏では法秩序も人権も全く無視した粛正が猛威を振るっていた。

 1・平等の無記名秘密投票による直接選挙、2・各共和国の分離の権利、3・主権をソビエト幹部会に置くなどの目新しい「新民主主義」規定を行っていたが、他方で反対派を禁止するという「反民主主義」規定で補完されていた。

 新憲法の第一章第4条は、「ソ連邦の経済的基礎をなすものは、資本主義経済制度の根絶、生産用具と生産手段私有の廃止及び人間による人間の搾取絶滅の結果確立された社会主義経済制度並びに、生産用具と手段の社会主義的所有である」と規定して、ソ連邦が既に共産主義の第一段階(無階級社会)を実現したとうたっていた。その他、「ユダヤ人排斥弾圧禁止条項」が条文化された。 


 同月 ノルウェー政府、トロツキー一家を追放。

 この年の末、『裏切られた革命』(仏語版)が出版される。

 1937.1月 トロツキー一家、メキシコに到着。ディエゴ・リベラとフリーダ・カーロのもとに寄せる。

 同月、第2次モスクワ裁判始まる。被告はラデック、ピャタコフ、ソコーリニコフなど12名。

 4月、哲学者ジョン・デューイを委員長としてモスクワ対抗裁判が開かれる。

 5月、スペインのバルセロナで5月事件起こる。共和派のヘゲモニーがスペイン共産党に移る。


【赤軍の大粛清】

 赤軍大粛清」その他を参照する。

 6月、赤軍の大粛清始まる。トウハチェフスキーがドイツのナチスとパリで連絡をとっていたことが発覚するというドイツのスパイ容疑という罪状で、ロシア帝国時代からの将軍にして、10月革命後は革命政権側に立ちトロツキーと共に国内戦を闘い抜き、その英雄として国民に慕われ、赤軍最高の頭脳であったソビエト軍の元帥(国防人民委員代理)トハチェフスキーなど赤軍幹部8名がスパイ容疑で突如逮捕され、7名(1名は逮捕直前に自殺)が6.11日の秘密軍法会議で有罪判決を受け、控訴なしで即刻銃殺された。これを「トウハチェフスキー事件」と云う。

 この大粛清が起こった背景には、スターリンの赤軍への強い猜疑心と、トハチェフスキー元帥への個人的な恨みが背景にあった。そもそも赤軍は、帝政ロシア軍を母胎として、スターリンの政敵であるトロツキーが創設した軍であり、スターリンから見れば、いつ自分を裏切るかという猜疑心よりも恐怖心が常にあった。また、スターリンは第一次世界大戦直後の1919年に起こったソ連・ポーランド戦争では、南西方面軍軍事委員としてワルシャワ前面のトハチェフスキーにブジョンヌイの第1騎兵軍を送らず敗北させた責任を問われて革命軍事会議議員から罷免されたことを逆恨みしていた。

 この事件の全貌は今日も明らかにされていない。当時のフランスにおける有名な政治記者であったジュヌヴイエーヴ・タブイ女史の出版物「人は私を女予言者と呼ぶ」、当時パリに駐在していたルーマニア大使館の新聞課長エー・シヤハナン・エセゼの記録などにより、ナチスのソビエト内におけるスパイ工作の実態が暴露されており、ナチスドイツとトウハチェフスキーとの間の秘密文書の存在が指摘されている。

 次のような見方もある。ことの発端は、チェコスロバキア大統領ベネシュがトハチェフスキー元帥がドイツのスパイだという証拠の資料あるとソ連の在プラハ公使に通報したことに始まる。しかし、今日では、そもそもソ連を攪乱する目的で、ドイツ保安機関がその資料を捏造し、それとなくベネシュに流れるようにしたこと、ベネシュは自国の安全保障のために役立つと考えて、ソ連在プラハ公使を通じてスターリンに通報させたことがほぼ間違いない事実と判明している。さらに、ドイツをそうした行動にし向けるように、ソ連保安機関が行ったという有力な見解もあるが、これを証明する証拠は現在発見されていない。

 トハチェフスキー元帥という後ろ盾をなくした軍は、以後1937年から38年までの間粛清という名の大虐殺が吹き荒れ、元帥5名中3名、軍管区司令官15名中13名、軍団長85名中62名、師団長195名中110名、旅団長406名中220名が粛清された。同期間中に赤軍全体で4万名以上が粛清され、旅団長以上の幹部と政治将校の実に45%が非業の死を遂げ、これら上部・中堅司令官を大量に失った赤軍は瓦解寸前の状態まで落ちた。

(私論.私見) 「トウハチェフスキー事件とその後の赤軍の大粛清」について

 この事件によりソビエト連邦の軍事能力が大いに殺がれた。れんだいこは、誰が何の目的で企図したのか背景があり、この方面の考察は未だ闇と見立てる。

 2006.1.3日 れんだいこ拝


【「政府要人、赤軍首脳に対する狂気の粛清」】
 こうして1936年から38年にかけてモスクワで三つの大きな粛正裁判が行われ、ジノビエフ、カーメノフ、トハチェフスキー、ブハーリン、ルイコフを始めとする著名な党、政府要人、赤軍首脳が、反国家陰謀、要人暗殺、日独のスパイ容疑の罪で、銃殺刑に処せられた。粛正はとめどなく広がった。フルシチョフによると、第17回党大会で選ばれた党中央委員と同候補139名のうち98名、実に70%が逮捕され、銃殺されたという。(第20回党大会での秘密報告)。
(私論.私見) 「政府要人、赤軍首脳に対する狂気の粛清」について

 この事件によりソビエト連邦の政権能力が大いに殺がれた。れんだいこは、誰が何の目的で企図したのか背景があり、この方面の考察は未だ闇と見立てる。

 2006.1.3日 れんだいこ拝

 12月、デューイ委員会、トロツキーとその息子セドフに無罪を言い渡す。

 この年、トロツキーの『裏切られた革命』(英語版、ドイツ語版)、『私は私の人生を賭ける』が出版される。

 1938.トロツキーの長男レオン・セドフが病院で怪死。

 同月、トロツキーが「彼らのモラルとわれわれのモラル」、「レオン・セドフ――息子、友人、闘士」を執筆し、セドフを追悼。

 3月、第3次モスクワ裁判始まる。被告は、ブハーリン、ルイコフ、ヤーゴダ、ラコフスキーなど。

 7月、秘書のクレメントがスターリニストによって暗殺される。


 9月、第4インターナショナルがパリで創立され、トロツキー起草の「資本主義の死の苦悶と第四インターナショナルの任務――過渡的綱領」を採択。 

 粛正の終わりは突然やってきた。生き延びた党員は他人に入党を勧告して後でその責任を問われるのを恐れ、欠員だらけの党、行政機関の補充はますます難しくなった。大量逮捕は突然中止され、容疑者が釈放されたかわりに、内務人民委員部の多くの将校が逮捕された。そのうち少なくとも一人が裁判に掛けられ、虚偽の自白を引き出したとして処刑された。内務人民委員として活躍したヤーゴダもエジェフも粛正され、ベリヤが登場した。第二次世界大戦勃発の危機が迫っており、流れが変わったということであろう。

 1939.3月、トロツキーが「現代のマルクス主義」を執筆。


 1939.3月第18回党大会。粛正の行き過ぎが逆に非難され、大量粛正を廃止するなどの党規約改正が行われた。大会は、第三次5ヵ年計画(1938―42)を採択した。この計画は、「人口一人あたりの生産高で、先進資本主義諸国に追いつき追い越す」途上での重要な段階となるはずであった。が、対独戦勃発で中断された。

 4月、アメリカ社会主義労働者党(SWP)の同志たちとアメリカ黒人問題を討議。


【リトヴィノフが外相を突然解任される】

 1939.5月、リトヴィノフが外相を突然解任される。リトヴィノフ解任劇の裏には、独ソ不可侵条約の締結があった。ドイツを仮想敵国とする外交政策を立案し、ユダヤ系でもあるリトヴィノフの存在は、独ソ条約締結の障害と看做された。リトヴィノフの後任に就任したヴャチェスラフ・モロトフは、ドイツ外相ヨアヒム・フォン・リッベントロップとの間で条約締結に合意し、国際社会は驚愕した(日本では、1939年・昭和14年8月28日平沼騏一郎内閣が「欧州情勢は複雑怪奇」と声明を出して総辞職した)。1941年リトヴィノフは、党中央委員を解任されるまでに至った。


 8月、独ソ不可侵条約成立。


 9月、ドイツがポーランドに侵攻。第2次世界大戦勃発。


 秋−冬 SWP内で、ソ連を労働者国家と認めない有力潮流が生まれ、主流派(ジェームズ・キャノン派)およびトロツキーらと激しい党内論争が起こる。


 1940.2月、トロツキー、「遺書」を書く。


 5月、シケイロスらの武装集団によってトロツキーの自宅が襲われ、護衛のシェルドン・ハートが殺される。トロツキー一家は奇跡的に無事だった。


 同月、トロツキー起草の「帝国主義戦争とプロレタリア革命に関する第4インターナショナルの宣言」が第4インターナショナル臨時協議会で採択される。


トロツキーが暗殺される

 1940.8.20日、トロツキーがメキシコの亡命先で暗殺された(享年60歳)。スターリンの放った暗殺者ラモン・メルカデルによって後頭部をピッケルで打ち抜かれる。8.21日、トロツキー、病院で死亡し、その革命的生涯を閉じる。狂気の粛清劇は1939年初頭で終わり、トロツキーの死でもってほぼ終息した。『スターリン』、「ボナパルティズム、ファシズム、戦争」、「帝国主義衰退期の労働組合」を始め多くの著作・論文が未完のまま残された。

 フルシチョフ秘密報告によれば、第17回党大会の中央委員候補139名のうち108名が逮捕、射殺され、出席者1966名のうち1108名が反革命で逮捕されたという。第17回党大会がスターリンに反対する大会であったとすれば、この結果は一応つじつまが合う。スターリンの粛清により、1935年から41年までに1984万人が逮捕され、700万人以上が「人民の敵」として銃殺されたという説もある。殺されなかった者は強制収容所で重労働に従事させられた。

 スターリンは現代ソ連のピョートル大帝であり、絶対の専制君主であった。共産主義を建前としてもロシアは東洋的専制主義の帝国であることに変わりはなかった。


 1941.5月スターリンは、モロトフに代わって人民委員会議議長(首相)となり、党、政府首班を兼任するようになった。


 1941.6.22日、ナチ・ドイツによる不意打ちで独ロ戦争始まる。ソビエト国家の存亡を賭けた死闘となり、ソ連は4年にわたり2000万人もの死者を出して、遂に勝利する。この戦いは、ロシアがナポレオンの侵入を撃退した祖国戦争にちなんで大祖国戦争と呼ばれた。戦争指導の全権はスターリンを議長とする国家防衛委員会に集中された。党は軍と国民の間で大規模な組織活動を展開し、中央委は多くの党活動家を軍の政治指導のため戦線に派遣した。後のブレジネフ書記長もその一人であった。


 1952.10月、第19回党大会。13年ぶりに開かれ、これがスターリン最後の大会となった。マレンコフが党中央委報国を行い、「帝国主義陣営の戦争と侵略の政策に対して、ソ連は平和擁護の積極的闘いを行っている」と強調している。大会は、戦災地域を復興させ、農工業の戦前水準を回復する第4次5ヵ年計画(1951―55)の指令を採択、党名をソ連共産党と改め、党規約に変更を加えた。


 1953.3.5日、大会から5ヵ月後、スターリンが脳出血で死んだ。


 マレンコフ首相、ベリヤ内相、モロトフ外相のトロイカを中心とする新内閣が発足。党も最高首脳の合議制、集団指導で運営されることになった。


 だが、マレンコフは僅か9日で党筆頭書記の重要地位を手放し、代わったフルシチョフが次第に実権を握っていった。彼は9月の党中央委総会でソ連農業批判の大胆な演説を行い、また党第一書記の称号を与えられた。トロイカの中で秘密警察を握るベリヤが逮捕され、銃殺刑に処せられた。マレンコフは55.2月に首相を辞任させられ、格下げされた。後任首相にブルガーニンが選ばれた。


 スターリン以後の新政権は平和共存を強調して、朝鮮、インドシナの休戦、オーストリア中立化、ユーゴスラビアとの和解などの柔軟外交を展開した。国内でも秘密警察を党の統制下において、ラーゲリの囚人を大量釈放する緩和措置をとった。こうした中で56.2月第20回党大会が開かれる。





(私論.私見)