32256 | 陽明学の実践論 |
【社会堕落論について】
「(その後)王道がすたれて覇道が盛んになり、聖人の学問が姿を消して異端邪説が幅をきかすようになった。その結果、教える者も学ぶ者も、聖人の学問を顧みようとしなくなったのである。覇道を唱える輩は、巧みに先王の真似をして外面を飾り、その実はおのれの欲望を遂げようとするものだが、このような考えが一世を風靡するようになって、聖人の道は荒野に埋没してしまった。人々は先を争って富強のために理論を求め、相手を陥れるための謀略や相手をやっつけるための策略が幅をきかし、天を欺き人を偽って一時の利益を収め、それによって名声をあげようとする連中が続々と出現するに至ったのである。その挙句、人々は闘争強奪にばかり明け暮れるようになり、行き着くところ、禽獣や夷てきと同じような状態に落ち込んでしまった」。
「(現代は)聖人の学問が日に日に遠くなり、忘れ去られていくとともに、功利を追求する風潮が一層強くなった。今では、功利の害毒が人々の心の奥まで浸透し、それが習い性となってからすでに久しい。そのため、世の中には、知識を自慢し、勢力を誇示し、利益を争い、技能を見せびらかし、名声を求める。そんな手合いだけが増えてしまった。彼らは仕官するに及んでも、仮に財政の責任者に任命されると、軍事司法の権限まで握りたがり、礼楽の責任者に任命されると、今度は人事の権限まで手に入れようとする。また、郡県の地方官に任命されると、さらに上級の官職につきたがり、中央の高官に任命されると、今度は最高の宰相の地位を望むようになる」
「むろん、しかるべき能力がなければ、それらの官職につくことはできない。また、諸派の学説に通暁(つうぎょう)していなければ、それなりの名声を博すこともできない。ところが、経典を数多く暗誦していれば、それだけで大きな顔ができるし、たっぷりと知識を詰め込んでいれば、悪事を働く上で助けになる。また、見聞が広ければ、自分の利益をまくしたてるのに便利であるし、文章の修辞にたけていれば、自分の悪事をごまかすのに都合が良い。それゆえ、昔は賢人ですらできなかったことを、今では駆け出しの若造までが、したり顔で論じたり行なったりしている。そして表向きは皆『俺は天下のために働きたいのだ』などと語っているが、本音はと言えば、そうしなければ自分の目的を達し欲望を遂げることができないからである。ああ、このような悪習の上に、このような魂胆をもって、このような詰まらない学問を行っているからには、我が聖人の教えを聞いても、無用の長物としか映らないのは、まことにもっともなことではないか。彼らが良知にケチをつけたり、聖人の学問をけなしたりするのも、当然といえば当然なのである」。
「蓋(けだ)し今に至っては、功利の毒、人の心体にりんしょうし、習もって性と成ること、ほとんど千年なり。相矜るに智を以ってし、相軋(きし)るに勢いを以てし、相争うに利を以てし、相高ぶるに技能を以てし、相取る謦誉を以てす」(功利之毒) |
陽明の慨嘆は、懐古趣味の繰り言ではない。社会の堕落と混乱を鋭く衝(つ)いて、これを止揚し、新しい理想社会の再現を、我が手に担おうとする真摯な情熱に駆られてのことである。且つ、知ったことは行わねばならないとする、知行合一説に徹する以上は、当然そこに不退転の前進の気迫と、それに伴う具体的行動が準備されなければならない。
陽明は、彼の時代における社会、ことにその官僚社会の堕落と混乱の原因を、人々の心にわだかまる功利主義・個人主義にあると見た。「世人は互いに知識を誇りあい、勢力を競い合い、利益を争いあい、技能を自慢しあい、名声栄誉を貪りあう」。そこには天理・良知の働きは影を潜め、あるのはただ自分一個の立身出世を念とする、安易軽薄な功利主義・個人主義の人欲のみである。彼らにあっては、学問も知識もただ立身出世や、ひいては名誉欲、地位欲などの欲望を満足させるための道具に過ぎない。世間の評判をとり、栄誉を求めるための手段に過ぎない。となれば頭に詰め込む記憶暗誦的な学問の堆積は、その傲慢を助長し、知識の豊富さは、その悪事を働く助けとなり、見聞の広さは、その弁舌を振るうのに役立ち、文章の巧みさは、その欺瞞を飾る手段となる。
【抜本塞源論について】
「嗚呼(ああ)、士、かかる世に生まれて、しかもなほ何を以て聖人の学を求めんとするか。なほ何を以て聖人の学を論ぜんとするか。士かかる世に生まれて、しかも以て学を為さんと欲する者は、また労苦にして繁難ならずや。また拘滞(こうたい)にして険艱(けんかん)ならずや。嗚呼、悲しむべきのみ、幸いとするところは、天理の人心に在るや。終(つい)にほろぼすべからざるところありて、良知の明らかなること、万古一日なれば、すなわちそれ吾が抜本塞源(そくげん)の論を聞けば、必ず惻然(そくぜん)として悲しみ、寂然(せきぜん)として痛み、憤然として起ち、はい然として江河を決するがごとく、ふせぐべからざる所ある者あらん」(抜本塞源之論) |
陽明は、良知に純なる行動に徹することを聖人の学・聖学・正学と観念した。良知が人々の心の中に在ると信ずることは、この場合、千軍万馬にまさる心強い援軍なのである。しかし、それは他人をあてにする他力本願ではいけない。自分が先頭に立って、「自ら反(かえり)みて縮(なお)くんば千万人といえども吾往かん」とする気概をもって勇往邁進してこそ、やがてこれに共感共鳴して、自分に応ずる者も出現するに違いない。だがそれにしても、この道を進むことは何と厳しく苦しいことか。その際の心得は「天理の人心に在ることは永遠に滅びない。良知の明るさは万古一日のように変わることが無い」ということにある。
陽明は、弟子に送った書簡の中で綿々と次のように語っている。「私はまことに天の霊に助けられて、たまたま良知の学問を知り得ました。そして、必ずこれによってこそ、天下を安んずることができると考えたのです。なればこそ、世の中の人々が、堕落の淵にしづんでいるのを見るたびごとに、深く心を痛め、我が身の不肖を顧みずに、これを救おうと思ったのです。なるほどこれは身の程を知らぬことかも知れません。世の中の人々はそんな私を見て、みんな一緒になって私をあざ笑い排斥して、こいつは狂人だ、精神を喪失した者だと言います。ああ、しかしそんなことは気にかけるに足りましょうか。自分の身体の病痛が甚だしい時には、どうして他人の非難嘲笑を考えている暇などありましょう。ですから、現今の人たちが私を狂人だ、精神を喪失した者だと言ったとしても、一向に構うことではないのです。天下の人の心はすべて私の心です。天下の人に狂人がいる以上、私だって狂人にならないでいることができましょうか。精神を喪失した者がある以上、私だって精神を喪失しないでいることができましょうか。私のような不肖の者が、どうして孔子の道の実現を自分の任務だなどと考えましょう。ただ顧みて自分の身にも善からぬ疾病があることを、心に聊か知りえたので、四方を彷徨し眺め渡して、私を助けてくれる人を捜し求め、一緒に方法を講じて、その疾病を取り去りたいと考えたのです。今本当に人並み優れた同志の士を得て、互いに支えあって不正を正し、共々に良知の学問を天下に明らかにし、天下の人々に皆自分でその良知を致すことの必要を知らせ、安んじあい助け合って、利己的な心の蔽いを除き、他人を妬んだり、他人に勝とうとする悪習を一洗し、大同の世界をもたらすことが出来たら、私の狂病などはむろんさっぱり癒えてしまい、精神喪失の病患からも免がれ得ることになりましょう。なんと愉快なことではないでしょうか。
【身の内と世界の通交性について】
「これを一人の身にたとふれば、目は視、耳は聴き、手は持ち、足は行き、以って一身の用を済(な)すがごとし。目はその聡なきを恥ぢずして、耳の渉(わた)るところは、目必ず営み、足はその執ることなきを恥ぢずして、手の探(さぐ)るところは足必ず前(すす)む。蓋(けだ)しその元気充周し、血月永條暢(じょうちょう)す。ここを以って痒(よう)あ呼吸、感触神応し、言わずして喩(さと)るの妙あり」(感触神応之妙) |
陽明は、組織は人間のからだと同じである、という。「これを一人の身にたとえてみれば、目は視、耳は聴き、手は持ち、足は歩く。ということによって、それぞれ一身の役に立とうとするようなものである。目は音を聴けないことを恥じとはせず、しかも耳の向かうところには注意を怠らないし、足は物を持てないことを恥じとはせず、しかも手の探ろうとするところには必ず歩いて行こうとする。つまり、このような一身同体の協調的な働きがあればこそ、身体の気力は充実し、血液もよく循環し、痛い痒いの感覚も、吸ったり吐いたりの呼吸も、全て打てば響くように、感応しあい、口に言わずして心に悟る微妙さを持つのである。
【生命の躍動観について】
「学問の功夫(くふう)は、一切の謦利嗜好において、ともに能く脱落して殆ど尽くすも、なほ一種の生死の年頭の毫髪も掛帯するあれば、すなはち全体においていまだ融釈せざるところあり。人の生死の年頭におけるや、もと生身根上より帯び来る。故に去り易すからず。もしこの処において見得て破り、透し得て過ぐれば、この心の全体は、まさにこれ流行してさまたげなし。まさにこれ性を尽くし命に至るの学なり」(尽性至命之学) |
「真の学問は、一切の声利嗜好(名声利益)を求める念や趣味道楽と無関係であるばかりでなく、生死に対する顧慮すらもあってはならない。人間にとっての最大の難事は、その生命に対する執着心を除き去り、天理に純なる良知の命ずるままに義(ただ)しさを行うことにあるとしたのである。学問の工夫というものは、一切の声利嗜好の念などの点で、ほとんど完全に脱却し得ても、なお、もし生死にかかずらう念が少しでも心に残っていれば、全体においてまだしっくりいかない点が出てくる。人間にとって生死の念は、もともと生まれた時からあるものだから、容易には取り去り難い。もしこの問題について、はっきり看破し徹底し得れば、この心の全体は、まさに自由に発動し得てこれをさまたげるものはなくなる。これこそ人間の本性を尽くし天命の本源に到達し得る真の学問なのである」。
「数頃(すうけい)の源(みなもと)無きのとう水(とうすい)とならんよりは、数尺の源あるの井水(せいすい)の生意(せいい)極まらざるものとならんには若(し)かず」 |
(解釈)「数町歩の水源の無い池の水となるよりは、僅か数尺に過ぎなくても、こんこんと湧き出でて尽きない井戸の水になった方がましである」。
【徳・仁探求人生の称揚について】
「只だ世上の人の、すべて生身命子をば看得て来たること太(はなは)だ重く、まさに死すべきと、まさに死すべからざるとを問わず、必ず婉転委曲(えんてんいきょく)して保全せんことを要(もと)むるがために、これを以て天理をばかえってちゅう去(きょ)し了(おわ)り、心を忍び理を害(そこな)ふこと、何者か為さざらん。もし天理に違い了らば、すなはち禽獣と異なるなし。すなはち生を偸(ぬす)んで世上に在ること千百年なるも、また千百年の禽獣となるに過ぎず。学者はこれらの処において看得ること明白なるを要す」(殺身成仁) |
孔子の言葉に「身を殺して仁を成す(殺身成仁)」というのがある。人の道に志す人、人徳の具わった人は、時には自分の生命を投げ打ってでも仁の達成に努めるものなのである、という含意であろう。陽明も弟子に次のように諭した。「とかく世の中の人は、ただただ自分が生き続けることばかりを重大事のように考えて、人の道を全うする為には、死ぬべきか、死なざるべきかという段になっても、一向にそれを問題にしないで、どうにか上手にやってのけ、生命を保とうとするばかりするから、天理を省みず、良心を曲げ、義理を損なうようなことでも、平気でやってしまう。だが、もし天理に背き、良心を曲げてしまえば、もう禽獣と変わりが無い。例え生き長らえて、この世に百年千年生きたとて、ただ百年千年禽獣であるに過ぎない。人間はここのところを明白に看て取らねばならない」。陽明は、かように仁<道徳、道義>が、生死の問題に優先すると説いた。
【社会的実践について】
王陽明の「致良知」は一人己の修身をもって足りようとする学問ではなかった。天下万民の困苦を見れば、直ちにその解決に奔走する止み難い志向を帯びていた。王陽明が友人に宛てた書簡の一節は次のように書かれている。「私は天の助けによって、はからずも良知の学を知り、これに基づけば天下の泰平を招来することができると確信するに至りました。それで、世の中の人々がもがき苦しんでいるのを見るたびに深く悲しみ、我が身の不肖であることも忘れて、それを救済しようと思い立ったのです。人は誰でも、肉親が深い淵に落ちて溺れているのを見たら、大声で叫びながら、はだし裸になり、転ぶように崖を伝い下りて助けあげようとするでしょう。もしこのそばに、のんびりと挨拶を交わし談笑している者がいてこの光景を目にしたら、あのように礼など打ち棄てて騒ぎたてるのは、精神障害者に違いないと思うかもしれません。しかし、溺れている人間のそばにおりながら、のんびりと挨拶を交わし談笑しあってあえて救おうとしないのは、ただの路傍の人であって、骨肉の情などひとかけらもない連中だと言わざるをえません」。こうして陽明学は、「良知」の赴くところ、必然的に社会的実践へと向かっていく。
王陽明のこの観点は晩年になるに随いますます意気軒昂となっていった。かなり晩年になってから、信頼する弟子たちに、次のような感慨を伝えている。「南京に来るまで、私にはいささか道徳家ぶるところがあった。ところが良知を信じるようになってからは、是非の基準に従ってそのまま実行し、少しも隠し立てすることがなくなった。つまり、近頃ようやく私は、あえて行き過ぎを恐れぬ狂人のような心境になりえたのだ。それで天下の人々は、私のことを言行不一致だと言って非難するのだが、言いたい者には言わせておけばよいではないか」。この、良知の行き着くところ世俗から狂人視されるようになろうともあえて辞さない、この狂気こそ陽明学の真髄であるといえる。このことが、世の聖人君子から異端の学として危険視された理由でもあった。
【行動主義について】
王陽明は次のようにも言い為している。「天下の人の心は、すべて自分の心である。天下に正気を失った人がいる限り、私も又正気を失わざるを得ないのだ」、「(世間の中傷について)そんなことを気にしていたら、何も出来ないではないか。良知のあるまともな人間なら、人々の苦しみを見過ごすことはできないはずだ。他人の思惑や非難など気にしないで、まず行動を起そうではないか」。
「幸いなことに、人間の心にある天理は永久になくなることはないし、良知の明るさもどんな時代であろうと変わることは無い。だから、私の主張するこの『抜本塞源』の論を聞けば、必ずや深く悲しみ、強い痛みを覚え、憤然として立ち上がる者が現われ、やがて江河を決壊したような激しい奔流となっていくに違いない」。
「これを期待できるのは、一切の権威を拒否し自らの足で立とうとする豪傑の士以外にはないのである」。
【革命精神について】
「知者は惑わず仁は憂へず。君なんぞ寂寂(せきせき)として隻眉愁(うれ)ふるや。歩に信(まか)せて行き来せば皆坦道。天に憑(よ)って判(さばき)下る人謀に非ず。これを用ふれば則ち行ひ舎(す)つれば則ち休(や)む。この身浩蕩虚舟を浮ぶ。丈夫落落天地をあぐ。あに束縛を顧みること窮囚の如くならんや。千金の珠鳥雀を弾じ、土を掘るになんぞ煩はさん**を用ふるを。君見ずや東家の老翁虎患を防ぐを、虎夜室に入ってその頭を銜(ふく)む。西家の児童虎を識らず。竿を執って虎を駆ること牛を駆るがごとし。病人はいつに懲りて遂に食を廃し、愚者は溺を畏れて先づ自ら投ず。人生命に達すれば自ずから洒落、讒を憂へ毀を避けて徒にしゅうしゅうせんや」(しゅうしゅう吟) |
大塩平八郎は、陽明思想による死を「帰太虚(きたいきょ)」という言葉で表現した。太虚とは宇宙万物の意であるが、人間はそもそも心と肉体を持っているが、肉体が亡びる時、心は太虚に戻るとした。肉体は、天理の心が湧出した良知を行う道具であり、心は天であるから、永遠不滅のものである。致良知が極致に至るのは、まさに心が太虚に帰ることなのだ。それならば、太虚に帰る方法として、天理を存し、人欲を去り、省察克治していかなければならない。しかも太虚は不動のものであるから、行動の帰結としての死を迎えたとき、肉体は滅び、心は本当の天理を全うと未来永遠に存在する、というのが平八郎の言う「帰太虚(きたいきょ)」であった。
陽明は、生きることを第一義としたが、最終的帰結である死を本当に知ってこそはじめて、生きる意味が判り得るとした。その意味で、死という場から逆説的に生を捉えた。
【党派闘争について】
陽明51歳の時、朝廷の検察官により「陽明は朱子の正学をとどめんとするものだ」と弾劾され、その講学の厳禁を奏請されたのに対し、憤然とする弟子・陸澄(りくちょう)に次のように諭している。「四方の優れた人たちが、講学の異同ということで、盛んに議論をはじめているようだが、我々としてはいちいちそれの弁解に廻っている暇は無い。ただひたすら自分の在り方を反省すれば宜しい。もし相手の言葉が正しいものとすれば、私の方にまだ本当でないところがあるのかも知れないから、努めてその正しいものを求むべきであり、徒に自分を是として人を非とする訳にはいかない。もしまた相手の言葉が間違っており、自分のほうが正しいと信じるならば、ますますその実践履行の実を挙げて、自分が納得できることを求めれば宜しい。いわゆる『黙してこれを成し、言わずして信じる』という態度である。だとすれば、今日の様々の誹謗的議論だって、すべて我々の精神修養・切磋琢磨の場でないものはないではないか」
【党派闘争の貫徹について】
「私は今ではこの良知を絶対に信じているから、その命ずるところに従って真の是・真の非を手に信(まか)せて実行し、いささかなりとも覆い蔵(かく)そうなどという気持ちは無い。私は今こそやっと孔子の言う『狂者(目的に向かってまっしぐらに突き進む者)』の心境になりえた。世間の人から、みんなして私の行動と言葉が一致していないと評されても、それは一向に構うことではないのだ」。
「人がもし着実に致良知の工夫に徹し得るならば、他人から非難誹謗を浴びせられ、他人から詐偽暴慢を加えられようとも、それはそれなりに自分にとっての益となる。それはそれなりに自分の徳を向上させる助けとなる。もしその工夫を行わぬとすれば、それらはすべて魔物となって、遂にはその為に圧し倒されるにいたるであろう」。
【権謀術数について】
「蘇秦、張儀の智も、またこれ聖人の資なり。善(よ)く人情をし模(も)し、いささかも人の肯(こう)けいに中(あた)らざる無し。故にその説は極むること能わず。儀秦もまた良知の妙用の処(ところ)を窺い見えたり。ただこれを不善に用いしのみ」 |
(解釈)「蘇秦(合従策提唱)、張儀(連衡策提唱)の発揮した知謀も、聖人の知恵といささかの変わりもない。よく人情の機微を探り当てており、ことごとくツボにはまっている。だから、その説は極め尽くすことができないのである。この二人も良知の素晴らしい働きは知っていたらしい。ただ、それを正しく使わなかっただけである」。王陽明の蘇秦、張儀の智に対する肯定的評価は注目に値する。
(私論.私見)