陽明学左派・李卓吾

 (最新見直し2007.3.7日)

【李卓吾の生涯履歴(1527~1602・慶長7)】
 中国明末の硯儒にして思想家、評論家。陽明学左派に属し、殊に禪学に通じた。
 中国の泉州福建省晋江県出身。名は載贄、或は略して贄、字は卓吾、原名は林載贄(りんさいし)。後に姓を李と改める。温陵居士と号す。李家は元々回教(イスラム教)徒の家柄であった。この母斑が、その後の卓吾に諸々の影響を及ぼしていくことになる。

 26歳の時、郷試(科挙)に合格し。進士とはならず地方官を歴任した。南京、北京、雲南省に赴任する。54歳の時、退官し、湖北省麻城県龍湖にある芝仏院に落ち着き、「五十歳を過ぎて求道の巡礼を志した」。読書と著述に励み、後に剃髪した。李卓吾の代表作のほとんどはこの芝仏院時期のものである。その思想は陽明学左派(泰州学派)に属する。これには、官僚として各地に赴任した折、焦竑(しょうこう)や耿定向 (こうていこう)・耿定理(こうていり)兄弟と親交を結び、その影響を受けたことによる。その後、王竜渓(おうりゅうけい)、羅近渓(らきんけい)といった王陽明の弟子に出会うことで、李卓吾は思索を更に深めていった。

 南京に赴任していた折りにイエズス会マテオ・リッチと邂逅している。以後何度か会い、相互理解を深めている。卓吾はリッチの人柄や能力、その著作「交友論」に高い評価を下している。またリッチの方でも卓吾がキリスト教に一定の理解を示したことや文学にも科学にも精通していると書き残している。

 1590年、 卓吾は引退後、「李氏焚書」(原本は全六卷)を著わしている。同書で、倫理道徳の基本に置かれていた四書五経を軽んじ、道学礼教の偽善を暴いた。朱子学及びそれを信奉する道学先生への厳しい批判が込められていたため、周囲から危険思想と断定され、様々な圧力をかけられた。李卓吾への批判はその思想だけでなく生活習慣(僧形となったこと、極度の潔癖性であったこと、女性にも学問を講義したこと)にまで及び、彼を悩ますことになる。また李卓吾への批判はその思想の特異性のみならず、彼の性格に拠るところも大きかった。自ら狷介・偏狭と述べ憚らず、世と相容れないこと甚だしかった。

 卓吾は文学評論も試みており、これまで俗な文学とされていた戯曲や小説に初めて価値を見いだし、例えば「水滸伝」を「史記」と比肩して遜色ない名文学であると評価したことでも知られている。

 1599年、「蔵書」を著す。

 75歳の時、「乱道を唱え、世を惑わし、民を欺いた」として追われた。結局、迫害を逃れたさきの北京近郊で捕らえられ投獄された。卓吾の別の言葉は次の通り。

 「私と二度と会えぬことで悲愴を感じる必要はない。私の形姿は見えないとしても、私の心は書巻を開けばそこにある。その書を読むことによって、その人間と対面するのは千万倍も生彩のあることで、外面の形骸如きは何で私の書に及ぶことがあろうか」。

 1602(慶弔7)年、獄中で自殺した(享年79歳)。死後も弾圧は止まず、著作やその出版の版木は全て遺棄され、王朝が清朝に移り変わっても禁書目録にその著作は載せられることになる。また明儒学案にもその名は記されてない。

 著書に焚書、続焚書、蔵書、続蔵書、説書、初譚集、李氏文集がある。なお明時代の西遊記写本に「李卓吾先生批評西遊記」があるが、これは権威づけのため李卓吾の名を勝手に使用したものである。

 卓吾の名言は次の通り。

 「よく自立する者は必ず骨あり、骨あれば行くべし立つべし。苟くも骨なければ、百の師友の支え導くとも如何ともし難し」。

 橋本堯氏は、「伝統中国による人権概念」の中で次のように評している。
 「彼の言説特徴を簡単に言いますと、中国史上初めて孔子を相対化したといえます。それまで中国では長らく孔子は聖人として位置づけられていた絶対的な存在でありました。それに対し李卓吾は「天、一人を生ず、自ずから一人の用あり」と説いているように、人間は孔子の存在に関わりなく、その人間がこの世に生まれてくるのはその人でなければならない存在価値があると反論したのです。これは孔子を相対化したと同時に人間そのものの価値を説いたといえます。

 中国では、ありのままの人間では価値がなく孔子の教えを身につけてはじめて人間としての価値を認められるという考え方が長い間支配的であったのです。しかし李卓吾の言説はあまりにも急進的であったため、彼は〈妖人〉として逮捕され、北京の監獄で自殺してしまいます。その後李卓吾の著書は版木ごと全て焼かれ、明代の次の清代には禁書とされ、復活は清末まで待たなくてはならなくなります。せっかくの李卓吾の言説は、そこで立ち消えになってしまうわけです」。


【卓李吾の思想】

 李卓吾は、「知」と「言」の乖離する時代精神に抵抗したところに史的意義がある。為に、儒教の裏切者、異端とみなされ迫害に遭い、ついに自刎することになった。が、高踏的反俗性と草の根気質が合体した過激な言動と、人間存在の意味を問う「性命の道」を貫いた後半生は中国哲学史の主流に連なり、そのラディカリズムは数百年を経て今日にも生き生きとしている。

 和光大学人文学部教授の橋本堯・氏は、「問題提起1伝統中国による人権概念」は次のように記している。

 李卓吾は明代(一三六八~一六四四)末の人であり、陽明学〈左派〉の学者として有名な人物です。著書として代表的なものに『焚書』『蔵書』などがあります。また文学評論も試みており、これまで俗な文学とされていた戯曲や小説に初めて価値を見いだし、例えば『水滸伝』について『史記』と肩を並べられるほどすばらしい文学であると評価した人でありました。実は私は修士論文でこの人物をとりあげたという縁があります。

 彼の言説特徴を簡単に言いますと、中国史上初めて孔子を相対化したといえます。それまで中国では長らく孔子は聖人として位置づけられていた絶対的な存在でありました。それに対し李卓吾は「天、一人を生ず、自ずから一人の用あり」と説いているように、人間は孔子の存在に関わりなく、その人間がこの世に生まれてくるのはその人でなければならない存在価値があると反論したのです。これは孔子を相対化したと同時に人間そのものの価値を説いたといえます。 

 中国では、ありのままの人間では価値がなく孔子の教えを身につけてはじめて人間としての価値を認められるという考え方が長い間支配的であったのです。しかし李卓吾の言説はあまりにも急進的であったため、彼は〈妖人〉として逮捕され、北京の監獄で自殺してしまいます。その後李卓吾の著書は版木ごと全て焼かれ、明代の次の清代には禁書とされ、復活は清末まで待たなくてはならなくなります。せっかくの李卓吾の言説は、そこで立ち消えになってしまうわけです。目次のページへ戻る

 李卓吾の思想の真髄は「童心説」にある。次のように述べている。

 概要「童心とは真心のこと。童子は人の初め、童心は心の初めである。長じて道理や見聞が心に入り、童心が失われる」。

 「童心」とは、「人間が本来持っている清い心、偽りのない真心」を云う。これは陽明学の「良知」を発展させた先に卓吾が到達したものである。卓吾によれば、誰もが持つこの「童心」は成長につれて、知識や道理といった外からもたらされるものによって曇らされ失われるという。

 この思想が危険視されるのは、当時正統イデオロギーとなっていた朱子学における聖人に至る道を否定している点にある。朱子学では心を性と情に分かち性こそ理とする「性即理」をテーゼとするが、性を発露するために読書などによって研鑽を積まねばならないとする。しかるに李卓吾はそのような研鑽そのものが「童心」を失わせるとして排し、否定的に捉えるのである。そして「童心」を失った者がなす文や行動がいかに巧みであろうと仮(にせ)であって、真なるものでは無いとする。

 卓吾は、士大夫に対して、仮(にせ)、端的に言えば偽善者と非難した。彼が生きた明代は「金瓶梅」が書かれたり、著名な詩人がひいきの妓女のくつをお猪口にして持ち歩くなどの行動に見られるように文化爛熟あるいは退廃の時代であった。その支配イデオロギーは儒教の中でも特にリゴリズムの傾向が強い朱子学であった。士大夫は口を開けば仁義を唱え、立派なことをいうが、実際の行動はそれに伴っていないことがままあった。卓吾は、士大夫のこうしたダブルスタンダードに対し激しく反発し、士大夫やその価値観を激しく痛罵した。

 士大夫的価値観への嫌悪・反発が明確に吐露されている例として、それまで儒者によって貶められてきた歴史上の人物や文学の顕彰が挙げられる。たとえば始皇帝馮道といったそれまで高く評価されてこなかった人々を再評価した。又、文学評論も試みており、これまで俗文学とされていた戯曲や小説に初めて価値を見いだし、例えば西廂記や西遊記水滸伝史記離騒と比肩して遜色ない古今の至文と評価した。

 李卓吾の代表作「蔵書」は紀伝体の歴史書だが、その真骨頂は人物の分類や各列伝に付される評論にあり、歴史書の体裁をとった思想書と見るべきである。こうした李卓吾の価値判断は、彼が外的な規範よりも、自らの内なる真心、すなわち「童心」を重視し、且つ是非に定論無しとしたことにより可能となったのである。

 「焚書」の中で、卓吾自身が、「識者の肝を串刺しにし、抉り出すが故に焚き捨てるべき書」と記述している。次のような一節がある。

 「孔子は人が名を好むことを知っていたから名教(儒教)によって人を誘導し、釈迦は人が死をおそれるが故に死によって人を恐懼(きょうく)させ、老子は人は生を貪ると知っていたから長寿によつて引導した。これらは、人を導く為のやむを得ぬかりそめの名目であって、真実の探求とは何の関係もないのだ」(2007.4.26日付け産経新聞、関厚夫・氏の「ひとすじの蛍火 吉田松陰 人と言葉」№97)。

 卓吾の思想は、儒教や仏教、道教の限界を超えんとして、虚飾や偽善を暴き、真理を究めんとしている。それ故、同時代人から奇矯、奔放といった烙印を押され、異端視された。


【卓李吾の影響】

 李卓吾の「童心説」は激しい批判を浴びたが、命脈が絶えたわけではない。文学において受け継がれていった。すなわち清代に袁中道ら公安派の唱えた「性霊説」はこの「童心説」を受けたものである。これは人間の自然な心の発露を文学によって表現しようとする考えで、その後は袁枚に引き継がれた。真っ向から士大夫的価値観に挑戦した李卓吾の姿勢そのものは、その後後継者が現れることはなかった。

 吉田松陰がこの李卓吾に強い影響を受けている。 1859(安政6).1.23日、松蔭は、義弟の小田村伊之助に書簡を送っているが、その一節に次のように記されている。

 「卓吾居士は一世の奇男子にして、その言葉は、僕の心に響く。例えば、『人、竹を愛するも、竹固(もと)より人を愛せず』。読み終わった後、一人笑ってしまった」。
 「他人は僕の言葉を嫌がっているのに、僕は言葉を発するのを止めない。これこそ卓吾の言葉通りではないか」。

 愛弟子の入江杉蔵に次のように述べている。
 「卓吾の文には面白いことがたくさんある。中でも童心説は甚だ妙。嘘や虚言の世の中に、一人童心の者がいれば、周りから悪(にく)まれるのももっともなこと」。

 同年春頃、野山獄中に於いて明の李卓吾の著「李氏焚書」を熟讀し、その會心の部を抄録した且つ欄外には短評を加へた「李氏焚書抄并識語」(この抄録本はその中約四分の一を抄出し、合計九十四枚を二册に綴つてある)を著わしている。松蔭は、卓吾の教説に対し、「わが真(まこと)と合う」と述べている。

 松蔭の傾倒振りについて、中川諭・氏は、「『鍾伯敬先生批評三国志』について」(1997.3.22日)の中で次のように評している。

 「松陰は李氏の著書を愛讀し、思想上に於て共鳴するところ尠くなかつたこ とは、其の著作及び書簡中に屡々散見する所である」。

 松蔭は、高杉晋作に次のように伝えている。
 「世に身生きて心死する者有り。身亡びて魂存する者有り。心死すれば生くるも益無し。魂存すれば亡ぶるも損無きなり」。

 現在、儒教は、中国が近代化する過程において支配イデオロギーの座から滑り落ち、清末の五四運動においては「人を喰う」教えとして批判にさらされた。逆に卓吾の思想が見直され、五四運動以降は解放的思想の先駆者として再評価され、儒教批判の先駆者として漸く顕彰されるようになった。今日では、顧炎武黄宗羲王夫之と並んで明末清初を代表する思想家の一人として数えられている。

 松陰のように肯定する人は少なく、司馬遼太郎は李卓吾に共感を示しつつも焚書に関しては「よくわからない」と首をひねっており、幸田露伴に至っては李卓吾を全く評価しない。内藤湖南も「過激思想家」と評するなど、高い評価を与えていない。

 参考サイト、「ウィキペディァ李卓吾

 関連書籍、狭間直樹著「中国社会主義の黎明」、岩波新書

【幸田露伴の李卓吾評】
 幸田露伴は、1927(昭和2)年、文藝春秋6月号に、「金聖歎」を発表している( 1930年版「露伴全集第九巻」、岩波書店、1952年版「露伴全集第十五巻」、岩波書店)。

 水滸傳や三國史演義や西廂記等を批評した者に金聖歎といふのが有ることは誰しも知つてゐることである。水滸傳は聖歎の評のほかの本は、今は殆ど手に入れ難いほど希有なものになつてゐて、李卓吾評と云傳へられたり、鐘伯敬評と云はれたりしてゐる本は、寓目してゐる人も少い、隨つて水滸傳と云へば直に聖歎の名を思い出すやうになつてゐて、聖歎を水滸傳の忠僕の如く思つてゐる人も有り、又近頃の支那の人などは、何でも古に反對して新しいことを言ひたい心から、聖歎を大批評家などと掲げてゐる者もある。

 しかしそれは飛んでも無い事で、聖歎は水滸傳を腰斬にして、百二十囘有つたものを七十囘で打切つて、そして辻褄を好い程に合せて、これが古本である、普通の俗本は蛇足を添へたものだなぞと、勝手なことを云つたもので、本來の水滸傳から云へば、けしからぬ不埒なことをしたものである。忠僕どころでは無い、欺罔横暴、何とも云ひやうの無い不埒な奴である。

 又聖歎の批評といふのは、如何にも微細に入つた批評のやうであるが、實は自分の勝手に本書の精神も情懷も何も關はずに、自分の言ひたい三昧をならべたもので、一向本來の意味合も氣分も關はぬどころか卻つて反對の方向へ無理やりに漕ぎつけたものである。勿論原書を半分に裁斷して澄ましてゐる程に人を食つた男であるから、其位の事は何でも無いのである。

 であるから、聖歎を良い批評家だと思つたり、聖歎本で水滸傳を論じたりなんぞしてゐるのは、餘りおめでたい談で、イヤハヤ情無いことであるのだ。けれども聖歎は口も八丁手も八丁で、兔に角に世間のお坊ッちゃん達を瞞着し得ただけの技倆は持合せてゐたのだから、感心な小僧には相違ない。

 聖歎の遣り口は、他人の酒を飮み肴をあらして、そして自分の太平樂を喋り立てたのであるから、割の宜い仕事をしたのである。しかも聖歎本の大に行はれたのは亦聖歎の批評の技倆の爲ばかりでは無いので、元來水滸傳が面白いものにせよ、百二十囘では餘り長過ぎて、讀者も些し倦きもすれば、出版者も手間や資金がかゝり過ぎる傾がある。そこで七十囘位にすると丁度商賣上商品として頃合のものになるのである。物の行はれる行はれぬといふことには、其物の眞價からのみでは無くて、世間に向く頃合といふことが大切な條件の一になつてゐることは言ふまでも無い。其の大切な「頃合」といふことから、七十囘本が歡迎されたことは疑ふべくも無い。

 それから又、原本水滸傳では末の方になると讀者の贔屓の深い人物が頻りに殺されたりなんぞする。關羽が死ぬと三國史演義を抛り出してしまふ御見物心理で、大抵の人には贔屓役者が殺されてしまふのなぞは嬉しくない。で、其樣なところが全然無いことにしたのは、多數の御見物には恰も良い本である。これらの理屈から出版社が百二十囘本を捨てゝ七十囘本を發刊して流行させたのは道理な情勢である。特に水滸傳は清朝では禁止本で有つたから、ビク/\もので祕密出版をするのであつた。其の場合に見つけられて燬板や罪を得るおそれの有るのに、長々しい百二十囘本の方を取つて、手間や資金が忽然としてフイになるか知れぬものに少しでも餘計の元手を入れやう譯が無い。そこで水滸傳といえば聖歎本となつてしまつたのである。

 何も聖歎の評が面白いから水滸傳が流行つたのでは無く、聖歎が生れない前から水滸傳は流行つてゐたのである。それこれの事情を考へると、ひよつとすると最初は本屋の注文から聖歎が七十囘本をこしらへ、それから清朝の禁止書となるに及んで、愈々七十囘本の流行といふことになつたのかも知れない。そして其の流行のおかげで、聖歎は偉そうな批評家に見えるやうになつたのかも知れない。
   ∥《   貫華庵  http://www003.upp.so-net.ne.jp/haoyi/guanhua/   ∥

 聖歎といふのは一體何ういふ人だつたらう。何にせよ技倆も有つたのには相違ないのであるから、聖歎に對して一顧を吝むにも當るまい。然し雜書の批評以外には何も大した仕事を仕た人で無いから、名家小傳といふやうなものにも、學案といふやうなものにも出て來る人では無い。聖歎より前に水滸傳を評したと云はれてゐる李卓吾の其評は聖歎のやうに力を入れたものでは無いが、其人は變な人では有るが兔に角に一種の思想家で、反時代的、反道學的、孔子の是非をもつて乃公を是非されてはイヤだと云つただけの男で有り、清朝末の人々は其の思想にかぶれてゐるかのやうに見えるだけの男だから、種々の事も傳はつてゐるが、聖歎はたゞ雜書の批評で名を留める位で有るから餘り何にも其の人となりなどが傳えられていない。《   貫華庵  http://www003.upp.so-net.ne.jp/haoyi/guanhua/   ∥

 聖歎は金人瑞、字は若采といつて、聖歎は其號である。少い時諸生となつたが、試驗に應じて官員にならうと勉強する風でも無かつた。王東淑の柳南隨筆に依ると、「諸生を以て遊戲の具と爲し、得て而してまた棄て、棄てゝ而してまた得」と記してある。勝手傍題に日を消してゐたのだつたらう。それで中々穎敏だつたから、とう/\魔に憑かれた、とある。魔に憑かれたといふのはをかしいが、それは?といふことを聖歎がやつたのである。?といふのは支那の文藝には甚だ多く交渉のあることだから、自分が嘗て「思想」に「飛鸞の術」と題して論じたことがあるが、手早く云へば「神おろし」のやうなことをするので、さうすると何の某といふものの靈魂が其人に降つて、其の靈魂の有してゐる智識才能感情等を此世に現はし出すのである。天臺?法師靈異記といふものを作つた人がある。その中に出て來る慈月宮陳夫人、天啓丁卯五月を以て金氏の?に降るといふのは、即ち聖歎のことで、聖歎に慈月宮陳夫人といふものが乘移つたのであるといふことである。?法師靈異記といふものをまだ見ないが、天啓丁卯といへば明の末で熹宗の時、清の初で太宗の時、我が寛永七年に當る。一體此の?といふもので、若し素張らしい詩人や文人の靈などが降ると、假令其の乘移られた者が無學の下男や下女であつても、急に立派な詩を作つたり文を草したり書畫が出來るやうになつたりするので、支那の著述には?によつて成立つてゐるものも澤山あるし、又意外な書物に意外な人の序、例を云へば後世の書に關羽の序の附いてゐるのなどは、皆?から生じたものである。尤西堂は相當立派な雜劇を遺した一時の才子だが、?が好きで、其集中には?の示した文字さへ載つてゐる。こんな譯だから何も然程怪しがるべきことでは無いが、聖歎は?の憑るところとなつてから、筆を下す益々機辨瀾飜、常に神助有るに至つたと云はれてゐる。それから水滸傳西廂記などを批評しはじめたといふのである。して見ると聖歎の所謂水滸傳古本も聖歎が?の状態の裡から見出したのかも知れない。ハハヽ。聖歎の水滸傳を見て、歸元恭莊は、此の調子ではたまらない、倡亂の書だ、と云つたといふ。然し一時の人々には大に聖歎の書を愛して、非常に世に行はれたといふことである。そこで聖歎も自負しだして、益々勝手に言論して忌まなかつたが、遂に誅せられるに至つたのである。   ∥《   貫華庵  http://www003.upp.so-net.ne.jp/haoyi/guanhua/   ∥

 聖歎が殺されるに至つた事情は詳細には知れないが、世廟の遺詔が難に至つた時の事である。天啓よりはずつと後になる。當時巡撫以下、官に在る者は皆式に從つて臨(なげ)いたのである。巡撫は縣令などを監視するに當たる大官であるから、今や皇帝の不幸に際して大臨の事あるを機として、かねてから呉縣の令の不法の事あつたのを府の諸生等は訐き巡撫に對つて申立てた。少し折が惡かつた、大臨の時になど其樣なことをせねば好かつたのである。巡撫が生憎と令とは懇意であつたから、諸生共此場合に不埒であるといふので、先に立つた者五人は縛られ、其翌日復十三人縛られ、大不敬の罪に擬された。其の縛られた諸生の中に聖歎も與つてゐた。此時分少し前に海寇(蓋し鄭成功一派)が入つて江南を犯し、清朝に從つてゐた官員共で賊に陷つた者も澤山あつた。それら賊に陷つた者は反逆したことになつて、大獄が興つてゐた。で、清の廷議で大臣が出張して、其獄を決し、且つ諸生の非違を正すことになつた。何にせよ明清爭亂交代の時で、萬事ドシ/\片づけねばならぬ時だつたから、書生共の小面倒な奴原も前の反逆罪に傅會されて、死罪と定められて終わつた。そこで聖歎も牧場の草が牛の舌で嘗められて終ふやうに、譯も無く殺されることになつた。判決が下ると聖歎は不思議にも思ひ歎息もして、頭を斷たるゝは至痛なり、而も聖歎は無意を以て之を得たり、大奇々々と云つて刑を受けて終わつたといふのであるが、亦復如是といふものには、聖歎刑に臨んで、頭を斷られるのは痛事である、然し此世の埒を明けるのは快事である、痛快々々と云つて斬られたとある。どちらが眞實か知らない。いづれにしても太平の世だつたら斬られずとも濟むことだつたらうに、大奇々々でも痛快痛快でも痩我慢の響が有つて少し憫然である。水滸傳を腰斬した報で身體を全くは死ねなかつたなどといふのは些酷評だ。誰か?を試みて聖歎を冥土から喚出したらをかしからう。(昭和二年六月) 





(私論.私見)