32251 王陽明の履歴

【王陽明及び陽明学概括】
 陽明学とは、16世紀の明(みん)時代の中国に生まれた王守仁・陽明(1472−1528)の哲学のことを云う。王陽明の概略履歴は次の通り。

 中国の明時代の政治家にして大儒。名は守仁。字は伯安。陽明は号。浙江省余姚の人。若い時は、任侠、騎射、文学、道教、仏教と熱中する対象を変えて行き、この遍歴を自ら「五溺」と称している。

 初め朱子学を学ぶが馴染めず自力で新思想の構築に向かう。やがて朱子学の「性即理」説に対して「心即理」(理は己の心と不即不離とする「理」観)、後には「致良知」(「心即理」を通して天理の実践・実現を模索する認識手法)、「知行合一」(本当に知るとは、その実践を促す関係にあるとする)、「「万物一体の仁」」(本来天地万物は相互に関連しており一体であるとする)の説などを唱えた。世にこれを姚江学派または陽明学派と称する。著書に「伝習録」、「王文成公全書」など。
 

 陽明学形成の背景にあったものは、明時代において形骸化が甚だしかった朱子学に対する批判であり、それを単なる批判にせずに根本的原理的に推し進め、明代の社会的現実に即応する新「理」観をうち立てようとして興った。やがてこの系譜から、経典の権威の相対化、欲望肯定的な理の索定などの新思潮が生れていくことにる。日本にも伝わり、中江藤樹、熊沢蕃山らの江戸初期時代、中期以降は大塩中斎、吉田松陰、西郷隆盛ら幕末期の志士達のイデオロギーとして受け入れられ、維新活動に重要な役割を果たした。


【王陽明の誕生、家系、幼年、青年時代】
 1472.9月、明(みん)の憲宗の成化8年、中国浙江省余姚(よよう)県に生まれる。余姚は、上海のすぐ南の地で招興酒で有名な招興という町のすぐそば。この頃の中国は明が興っておよそ百年経った頃であり、当時の日本は戦国時代。彼の父は科挙の進士の試験で状元(主席)となっており、つまり身分の高い役人であった。有名な書聖王羲之の子孫であると云われておりことても分かるように代々学者の家柄であった。かくて当然のように王陽明も進士となることを期待されつつ育った。

 王陽明は幼少より学問を好んだが一風変わっており、この頃既に単に進士に合格するのが目標ではなく読書して聖賢を学ぶことの方が重要だと、学問の師に対して臆面もなく言ったと伝えられている。「十二歳で祖父に従って北の都にいる父のもとに行き、家庭教育の他、塾の先生についても修業した。あるとき王が先生に向かって『人間は何をするのが第一等であるか』と訊いたところ、俗物の先生は『本をよく読んで進士の試験に合格することだ』と答えた。すると、この十二歳の王は『いや、それはおそらく第一等のことではあるまい、本を読んで聖賢を学ぶことこそ第一等のことだろう』と言い返したので、先生は舌をまいて驚いたという」(三島由紀夫「革命哲学としての陽明学」小考

 王陽明の勉強好きは書斎に篭もる風のそれではなく、侠気に溢れ、世の中の乱れに憤慨する質であった。年少であることを顧みずに朝廷に対して意見書を上奏すると言い出し、無理やり止めさせられたという逸話も残っている。

 17歳のとき妻をめとったが、その結婚の晩にぶらりと散歩に出かけたまま帰ってこなかった。付近の山の中に道士がいるときいて、それを尋ねて夜が明けるまで語りあかしてしまったのである。妻の家では心配して、方々に人を発して探さしたあげく、やっと山の中で王を探し当てた、と伝えられている。


「雌伏五溺時代」】
 王陽明は父と同じく会試の合格を目指すが幾度か落第している。常ならば落第することを恥とするが、落第のために心を動揺させることの方が恥であると達観しており堂々としてたと伝えられている。28歳で合格するまでは多岐に渡る学問を修得し、兵学についてもかなり修め、後に指揮官として活躍することにつながる。この期間はまさに雌伏の時と呼べる。

 28歳の頃、進士という高等文官の試験に及第、華々しく北京の中央官庁に任官する身となった。王陽明が官吏になった時代は、明代で最も政治が乱れた時代であった。この頃、学問の意義と立身出世の相関に悩む。

 31歳の頃、それまでにあまりに無理な勉強を続けたため肺病にかかり、これが死ぬまで王陽明を苦しめ続けることになる。病には療養が必要なので、辞職して郷里で静養することになる。この頃王陽明は道教の養生法を修めたり、仏教のように遁世しようとしたりと、いろいろ多方面に関心を見せている。

 王陽明の学友湛甘泉は、青年期からこの頃までの王陽明を評して「五溺」と述べている。彼は、王陽明には五つの迷いがあったとして、任侠、騎射、辞章、道教仙術、仏教禅学を挙げている。「初めは任侠の習いに溺(おぼ)れ、再びは騎射の習いに溺れ、三度(たび)は辞章の習いに溺れ、四度は神仙の習いに溺れ、五たびは仏氏の習いに溺れる。正徳の丙演(へいいん)に始めて聖賢の学に帰正す」。ちなみに、任侠とは侠客道のこと、騎射とは武道且つ軍事学、辞章とは詩文のこと。神仙とは仙人術や不老不死の道教の教え。仏氏とは仏教)。

 これらは儒者としては学ぶべからざる異端のものであったので「溺れた」と評しているが、王陽明は当時の権威であり主流であった朱子学にあきたらず、この五つに限らず広くさまざまな学問を修めていたことが判明する。陽明が科挙に合格しなかった背景にこうした回り道があったとも考えられる。但し、1502年頃、「吾(われ)いずくんぞ能(よ)く有限の精神を以って無用の虚文を為(つく)らんや」(役にも立たない詩文作りはやめた)と云って辞章の学に見切りをつけている。ほどなく神仙学とも訣別している。恐らく、社会的関心の方が強かった為と思われる。


【「投獄、左遷、悶々時代」】
 1506年、35歳のとき、孝宗が崩御し、代わって少年の武宗が即位すると、宦官の劉瑾の一派(「八虎」)が専横をきわめ賄賂政治が横行し権勢を振るった。この劉瑾の専制に対する反対運動が起こり、これを諫めようと武宗に上疏したが、かえって劉瑾の怒りをかって投獄された。すでに復職していた王陽明は彼らの弁護しようと上奏するが同じく投獄される。「戴銑(たいせん)らは諌官の職にあって諫言するのが職責である。彼らの諫言に聞くべき点があれば嘉納すべきであるし、仮に諫言に誤りがあっても、よろしく寛恕して諫言の道を閉ざしてはならない。今、戴銑らを罰するのは明らかに行き過ぎである。この際、彼らを原職に戻して公平無私の心をお示しになっていただきたい」。

 王陽明は、官僚陣営の政争に自ら巻き込まれていった。結果、中央官庁仕えの身から左遷の憂き目にあい、僻地に左遷されることとなる。この頃、「五溺」から訣別し儒学への関心を戻しつつあった。但し、それまでの拠り所としていた朱子学と馴染めず悶々と思想検証する日々を経ていた。


【「苦難の時代(文武修行時代)」】
 1508年、37歳の頃、中国西南の辺境地・貴州省竜場駅の駅亭事務監督官に赴任した。赴任地はベトナムに近い山奥の龍場という僻地であり、島流しに遭ったことになる。そこから王陽明の人生が大きく変わっていく。左遷の地は食糧もなく住む家もない、毒蛇毒虫、風土病が蔓延しているという未開の土地であった。犯罪人が逃亡してそこに逃げ込んじゃうくらいの山奥で、漢民族と違う異民族の人々が住んでいた。そこに数名の従者をつれて住み込み、今まで持ったこともない鋤や鍬を手にし、水を汲み、畑を耕し、家を建てる、そういうまさに原始的生活を始めることになった。

 
王陽明の落胆は大きく、日夜煩悶とする日が続く。そんな中で、劉瑾が朝廷を牛耳っている間は中央へ還ることは到底かなわない、もう出世のことなどどうでもいいと割り切ったか道を求めての日夜静座に励んだ。これは朱子学でも教える方法で、ある種座禅みたいな行法であったが「石土郭(せきかく)」(石の囲いでつくった洞窟)の中で日夜端座し、ただ天命を待つのみと心を澄ませた。この時、生死の一念だけは脱却することができなかったと伝えられている。ここまでが苦難の時代文武修行時代)】


【「竜場の一悟」】
 そんなある日、三人の従者が生活の労苦から病に倒れる。王陽明は自ら世話をしてやり、心が塞がれてしまうことを心配して歌や詩を歌い、滑稽な話をして慰めた。その時、そして、王陽明は自分自身が生死の憂いを忘れて愉快な気分となっていることに気付き、もし聖人がこの場いたらどのように過ごすであろう、自分と同じ様なことをしたはずだ。ならばまさに自分は聖人と同じ行いをしているのだ、とふと考えた。朱子学では理と心は別個のものであったが、王陽明はこの時従者を心配し、我が心のままに行動し、聖人と同じ行い、即ち理に到達したと考えた。つまり心は即ち理、「心即理」であるのが本質であると気付いた。こうして、王陽明はかって陸象山が唱えた「心即理」に到達した。かくて、この異郷の地で、「聖人の道は、吾が性に自ずから足る。向(さき)の理を事物に求めしは誤りなりき」(吾性自足)を悟ったとされる。この時より王陽明の思想は朱子学とは違う新たな方向性をはっきりさせ始めることになった。

 「心即理」とは、これを人と宇宙の関係で捉えると、「人は宇宙と本質で一体である」という発想でもある。その文意は、道理を外界の事物の中に捜し求め、聖人の道も同様にそれを求めて外に向かうのではなく、私の心の性の中に自然と備わっている理をも不即不離の関係において捉えねばならぬ、「これまでのように心と理を分けて二つのものとしてはならぬ」という観点を樹立した。この場所が龍場という場所であったので、これを『竜場の一悟』と云う。
ここが陽明学発祥の地になる。


【「文人の時代文武両道の時代」】
 王陽明の新思想を伝え聞いた者達が彼の謦咳(けいがい)に接しようとして竜場に集まってくるようになった。この時、陽明は彼らに対して4箇条の心得を示している。

 1509年、38歳の時、、始めて知行合一を論ずる。知ることと行うこと、思いと行動は、別個のものではない、ということを彼はそこで主張し始める。それは、朱子学の先に知を極め次にそれを行動に移そうとする発想に対するアンチテーゼであった。王陽明の講学が広がり、龍場に次第に弟子が増えていった。

 そうこうしているうち貴州堤学副使席書に聘せられて、貴陽書院を主どる。この頃、劉瑾一派が失脚して誅されたため、中央に復帰することがかなうこととなった。

 1510年、39歳の時、ようやく赦されて都であった北京に戻った。内地の官僚社会に復帰してからの数年は、やや平静であった。この頃、王陽明のもとを訪ねる者があり、よく学問上の議論を戦わせたと伝えられている。黄宗賢(こうそうけん)や湛甘泉(たんかんせん)らは後に門徒となっている。

 1514年、43歳の時、講学ますます盛んになり、天理を存し、人欲を去る省察克治の工夫を説く。【
文人の時代文武両道の時代


【「王陽明の平定政策」】
 1516年、45歳の時、朝命を奉じ、江南地方の巡撫を命ぜられて、その地方に跳梁跋扈する匪賊討伐の軍務に身を投ずる。時の兵武尚書は王陽明が兵法に明るいことを知っていたので、彼に流賊の討伐を命じたということである。大思想家として名高い彼であるが、一方で軍事的才能にも優れ、明の皇族寧王の乱や広西地方の民乱をも平定している。そして、正徳帝の無茶な反乱首謀者の釈放要求には、毅然とした態度でこれを拒絶している。

 1517年、46歳の時、門人に送った手紙に有名な
「山中の賊を破るは易く心中の賊を破るは難し」賊を退治するのは簡単なんだけれども、心の中にいる賊を退治することは非常に難しいとの言説を為している。この解釈は多義であるが、一つには当然自身の心の解析であろう。もう一つには相手の心の底にいる賊を退治するのも難しい、という意味がある。賊の平伏帰順の道程を慮った含意があるかも知れない。
 

 王陽明は、平定地の治安維持を求めて様々な施策を講じていることが注目される。その一つは、学校を興して児童の教育に力を入れていることである。その際の教育方針として次のように指示している。「今、童子に教うるは、まさに孝悌忠信、礼儀廉恥を以って専務と為すべし」と前置きし、「近年の児童教育はもっぱら本の読み方や受験の為の作文を教え、そんなことに児童を縛り付けるだけで、礼をもって導こうとしなかった。又、知識の拡充だけを求めて、善をもって心を磨くことをせず、鞭で打ち縄で縛って、まるで囚人のように児童を扱ってきた。だから、児童は学校を牢獄のようにみなして近寄ろうとしないし、教師を敵(かたき)のようにみなして避けようとする。これではわざわざ悪に取り立てておきながら、善を為せと云うようなものである」と批判した後で、何よりもまず児童の心と体を伸びやかに解放し、自発的なやる気を引き出すことが肝心である、と説いた。


【「古本大学」、「伝習録」刊行】
 1518年、儒教における「般若心経」ともいうべき根本経典、『大学』が朱子学の開祖・朱熹により文章が朱子学の主張に合う形で変えられていたことに反対し、古典本来のすがたに戻した『古本大学』(こほんだいがく)を出版。朱子学の解釈を否定し、権威にやみくもにしたがうのではなく、みずから責任をもって行動する心の自由を説いた。この時期「古本大学」と「伝習録」を刊行し、陽明思想を確固たるものとして世に問うている。「『伝習録』は上・中・下の3巻からなるもので、王陽明の言行録や、手紙を集めた陽明学の重要史料集。王陽明は著書を持たなかったため、弟子により編まれた『伝習録』が、著書の扱いを受けている。日本にも1641年にはじめて京都で印刷され、日本思想に大きな影響を与えた」(陽明学ーその1、朱子学批判・・中国の宗教改革)。


【叛乱鎮圧に見せた王陽明の手腕と讒言】
 1519年、48歳の時、江西省の南昌を根拠地とする王族・寧王しんこうの叛乱鎮圧の命令を受け、戦陣の危険をかいくぐって起兵より十四日でこれを鎮圧し見事その大命を果たした。軍略家としての王陽明の手腕は高く、連戦連勝で負けを知らないという戦いぶりを見せている。その特徴として、指揮、命令だけをするんでなくて彼自身も弓を取ったり刀を抜いたりで肉弾戦を試みている。その際、自分が最も信頼する弟子達を中心にしてできあがった小数精鋭の部隊を自分が率いてって、直接戦うとという方法をとっている。

 が、この時武宗自ら軍を編成し、側近連中が討伐に向かっていた。しかしながら乱はすでに鎮圧されていた為、もしこのまま戦果のないまま戻っては不興を買うと怖れた側近連中は、王陽明にいったん捕虜を解放させ、それをあらためて自分たちが捕まえなおすことにしたいと言ってくるという逸話が伝えられている。あまりに馬鹿馬鹿しい提案だったので王陽明は断固拒否した。それが為か側近連中は王陽明を憎んで謀反の疑いがあると讒言するに至る。こうして陽明の武勲は却って在朝の小人に嫉(ねた)まれて、その誹謗讒言(ひぼうざんげん)に悩まされることになった。


革新的朱子学者との論争
 1520年、この頃、陽明の友人で革新的朱子学者として知られていた羅欽順(ら・きんじゅん)が批判の手紙を送ってきたのに対し、 「羅整菴少宰(らせいあんしょうさい)に答うる書」にて持論を展開している。王陽明は時に48歳、明帝国を二分した叛乱、「朱宸濠(しゅしんごう)の乱」を自ら指揮してわずか14日で平定した後で、その主張は気迫に満ちている。

 意訳「
『大学』は四書の一つで、「孔子の遺作」といわれていました。中庸の「誠」の理論を受けた簡明な儒教概論で、儒教の精髄ともいわれています。これはもともと五経の一つ、「礼記」の一編(第四二)だったもので、宋の朱熹により 『論語』・『孟子』・『中庸』と並ぶ儒教の最も大事な書物「四書」とされました。 ところがこの時、文章が一部分すっぽりと抜け落ちている個所があったのを、朱子学の祖・朱熹が欠落個所を補ったり改変を加えましたが、この改変でもとの『大学』にはない、朱子学の思想である「敬」(悪い事をしないようにひたすら瞑想すること)という概念が付け加えられてしまっていたのです。 そのために、王陽明はこれに反対、もとの「礼記」からとりだして、「古本大学」を作ったのです。

 私が先に出版した、「大學古本」は、孔子の門下が代々伝えてきたものなのです。 その、「大學古本」に、朱子が「誤字・脱字や内容の誤りがあるのだ」と疑って、『大学』を改訂し、補緝したものが現在でまわっている『大学』なのですが、わたしは朱子と違い、「大學古本」には誤字脱字がないと考えるので、すべて元来伝承されてきた『大学』にもどしたというだけのことなのです。孔子本来の教えに基づきすぎるという弊害はあるかもしれませんが、朱子の改訂を否定した気はありません。

 だいたい、学問とは自分の心を正しく捉えることを貴ぶもので、 心をとらえることができない学問はまちがっています。孔子がおっしゃったことですら,自分の心に正してみてまちがっていれば信じてはならないのに、 ましてや孔子におよばない人のことばであれば、まちがいを信じるわけにはいきません。また、ごくふつうの人がいったことであっても、自分の心に正してみて正しいのであれば、それを誤りとすることはできないことです。ましてや、孔子のことばであればますます誤りとするわけにはいかないのです。

 さらに、「大學古本」は数千年にもわたって読み継がれてきたもので、今読んでみても朱子が改変したものよりずっとわかりやすく、精神修養の実行が出来るのです。 そうであるのに、朱子は、「こちらが欠けていてわかりにくい」だの、「ここの文章はおかしい」 だのといって勝手に『大学』を改変してしまったのです。彼になんでこのような勝手が 許されるというのでしょうか。そこで遂に私は昔ながらの「大學古本」を出版したのです。そして、あなたのご批判は、朱子に従うのに重きをおいているだけで、孔子が説いた儒教本来の思想を軽んじたものとしか思えないのです」(陽明学ーその1、朱子学批判・・中国の宗教改革)。


 「抜本塞源」(根本から誤りを是正しなければいけないという意味)説話。王陽明は清廉潔白の士であったことにより賄賂政治とは無縁であった。そうした王陽明を煙たがる勢力が皇帝の側近の中にもおり、彼を煙たがる勢力によっていろんな非難中傷いやがらせが行われた。要するに私利私欲にかられる連中にとっては目の上のたんこぶであった。その勢力によって、陽明は、各地の賊の鎮圧の命令を受け、病気の身でありながらしばしば戦いに出むくことになった。最終的には、57歳の時、遠征地で亡くなってしまう。非常に清廉潔白に生きたことによって、政敵によって死に追いやられるという最後であった。文人としても一流で、武人としても一流で、なおかつ一滴の血も流さないで戦いに勝つなどということもやってのけています。戦場となって、荒れ果てた地域には学校を造ったり、被災者や貧民の為に自分の私財をなげうって救済につとめるということで、ほとんど一生貧乏で終わっています。

 
他方、彼を尊敬する勢力も生まれ、その人達がますます彼の考えを、彼の志を受け継いで広めていくことになった。


 1521年、50歳の時、始めて致良知の教えを掲げる。「良知とは人の心の霊そのものであり、天地の根本精神であり、天地を生み鬼神を生むところの根本霊性であるから、これは自分の体にあっては良知となるのである。良知はわれわれの体に局在しているものではなくて天地の霊そのものである、ということを説き明かした三島由紀夫「革命哲学としての陽明学」小考

 50代後半から数年の間、陽明は郷里の余ように在って、門弟子たちを相手に講学に傾注した。講学とは、一種の学術討論会のようなもので書生たちとの問答がしきりに行われた。「この、五十から五十六まで郷里に帰って、弟子達と修業をつんだ時期が、陽明学が完成された時期である。「良知の他にさらに知なし、知を致す他にさらに学なし」というときの「学」とは、前にもたびたび繰り返したようにただ本を読むことではなくて、体験をもって真理に到達することである。これは、王自身の人生体験から出た結論であった三島由紀夫「革命哲学としての陽明学」小考)。

 彼の教説を慕う人々は、世間の誹謗圧迫にも関わらず急速に膨張していった。「伝習録」には次のように記されている。「先生が会稽(かいけい)に帰って来られた当初は、まだ教えを受けに来る者は少なかったが、その後、来遊する者が日増しに多くなってきた。特に嘉靖2年(1523年)以後ともなると、そういう者たちが先生の邸の廻りに屋を連らねて住み、空前の賑わいを呈するようになった。どの部屋でも会食する者が常に数十人に達し、夜は寝る場所もないので、交替で床につき、起きている者の歌声が朝まで絶えることがなかった。先生が講義の席につくたびに、その周りを囲んで聴講する者は常に数百人を下らない。毎日のように、去る者を見送り、来る者を出迎えるといったあわただしさで、来てから一年たっても、同学の名前を全部覚えきれないほどだった」。

 晩年、王陽明は持病の肺の調子が思わしくなかったのですが、朝廷に再び流賊の討伐を命じられます。病を理由に断ったのですが許されず、仕方なく出陣することになります。討伐は成功し一万七千人が降伏しますが、寛大な措置をとったために彼らは感涙したといいます。しかしこの出征は王陽明の身体には致命的であり、ついに期間中の軍中で没します。

 1528年、57歳の時、生没す。辞世の句は「この心光明、また何をか言わん」。



 「陽明は、生前様々な政治的迫害を受けてきたが、これは死後になっても止まなかった。死去した翌年、早速、『勝手に職責を放棄した』という理由で弾劾され、おくりなは贈られず、爵位の世襲も停止され、その学も異端として禁止されるという厳しい処分を受けている。陽明学は当時の主流である朱子学的秩序を崩壊させるものとし、明王朝が陽明学を偽学と称して禁じてしまったということである。歴史の皮肉として為に却って陽明学が地下水脈的に一派を形成していくことにもなった。しかし、そのため遺族は一時は路頭に迷うほどの厳しい迫害にさらされたという。

 「陽明が、新建候の爵位と文成のおくりなを贈られて名誉を回復されたのは、彼の死から40年もたった1567年のことであった」(守屋洋「陽明学回天の思想」)。





(私論.私見)