32259−1 幕末志士のイデオロギーに立ち現われた陽明学思想考(明治維新と陽明学)






(私論.私見)


(以下転載、転載元失念、そのうち整理する見込みにてご理解頼む)

『論語』に「民は之に由らしむべし。之を知らしむべからず」

  明治維新と陽明学について・1   00.02.27記


 王陽明(1472~1528)はまた違った異端の説を唱えて朱子学者と戦った。「孔孟の教えと言えども、自分の心に問うて納得出来ないところは従うに及ばぬ」という。四書五教を朱子学者の注解をベースに素読するのが、日常の学問の始まりとして育った日本人にとって、これは衝撃的なことであった。もっとも衝撃は王陽明よりも陽明学左派にして最後の人・李卓吾(1527~1602)がもたらしたものである。大塩平八郎・西郷隆盛・佐久間象山・二・二六事件で刑死した北一輝から三島由紀夫に及ぶ。中でも吉田松蔭が最も傾倒した。(その松蔭に崇拝おくあたわざる人々のなかには、清朝末期に日本に留学した革命を志す中国人も大勢いた)。

 すなわち時代が人を呼び、人がまた時代を呼ぶのである。明の前、宋、元の朱子学徒が支配する時代の停滞窒息状況に風穴を開けたのが王陽明であり、火をつけて燃やしたのが李卓吾である。飛び火が明治維新を生んだ。それがまた、中国の革命を先導したと言えよう。「心死すれば生くるも益なきなり、魂存すれば亡ぶるも損なきなり」という李卓吾の言葉は、革命を呼望する人々の魂に火を点じた。明代にも、多くの人が刑死し李卓吾みずからも獄中で自刃した。日本でも同様であることは、上記に挙げた人々をみても明らかであろう。

 まことに古典を讀むことはむつかしい。本書(『真説「伝習録」入門』林田明大著・三五館刊)は陽明学の一解釈として好事家の書架におくもよかろう。(註:後述するがこれは私の大変失礼な暴言でした)ただ、明治維新との関連や革命的意義には触れず、現代生活への一指針として多くのページを割いていることに評者として不満である。なお王陽明が唱えた説は、彼の独創ではない。宋の陸象山(1139~92)の「心学」や程明道(1032~85)の「万物一体の仁」が先駆である。時代が王陽明を呼んだ。時代を呼ぶ人に出会えた人は幸いなるかな。

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