32259−2 | 明治期陽明学とキリスト教徒の邂逅(かいこう) |
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日本宗教史における母なる弥陀・父なる神第九部 プロテスタントの日本的受容 26.陽明学からキリスト教へ明治政府、布教を黙認士族出身知識人が台頭徳川幕府は、寺院法度などによって諸宗教を幕藩体制下に組み入れ、既成の秩序をおびやかす可能性のある宗教運動を禁止した。そのため、仏教は幕府に完全に服属してその保護を求め、行政機関の末端としての役割を担う一方、葬儀をはじめとする民衆の欲求に直接的に応(こた)えることによって活路を見いだそうとした。それは、生きる者の悩み(生老病死)に応えようとするのではなく、むしろ死者の供養をもっぱらとするものであった。いわゆる「葬式仏教」と化していったのである。 江戸中期には過去帳がつくられるようになるが、寺院はこの過去帳をもとにして、檀家に三回忌、七回忌、十三回忌、……と法要をつぎつぎに要請し、そのたびに出されるお布施を生活の支えとした。 このため江戸後期には、既存の宗教に救いを求めることのできない都市や農村の民衆の間に現世利益信仰が流行した。幕末にみられる著しい特徴は、現世利益中心の信仰と礼拝対象の人間化であった。「はやり神」として広範な信仰を集めていた菩薩や明神の信仰につづいて、生前悩んだ病苦などを死んだ後に神となって救済する霊神が流行し、さらに自ら生き神と称して民衆の救済を唱える生き神や生き仏の信仰が広まった。 こうした内在傾向的なものの一部は、体系的な教義を備えた新宗教に発展しうる条件を備えていた。黒住教(黒住宗忠)、天理教(中山みき)、金光教(川手文治郎)などの創唱宗教がそれである。とくに、天理教と金光教の教えるところの神は、幕藩体制の崩壊と国民的統一という時代の動向を反映した一神教的な神で、多面的な現世利益を集約し、民衆の一人ひとりを生活の全面にわたって把握する救済者であった。 さて、幕藩体制が崩壊してゆく過程のなかから、一神教的な民衆宗教が生まれて教勢を拡大していくのに歩調を合わせるような形で、少し遅れてプロテスタントは、幕末の禁教下にひそかに布教を開始し、徐々に教線を広めていった。 一八七二年、明治政府の禁令をおかして横浜に日本最初のプロテスタント教会(日本基督公会)が設立されたが、このころには、キリスト教の解禁はもはや何人にも押しとどめられない大勢になっていた。翌年二月、明治政府はキリスト教禁制の高札を撤去し、布教を黙認した。 当初、プロテスタントの信仰を受け入れたのは横浜バンド、熊本バンド、札幌バンドなどとして知られる、インテリゲンツィア(知識人)たちであった。 彼らは、儒教における「天」の概念をもってキリスト教の唯一絶対神を理解し、また、自らのエートスたる儒教倫理を下敷きにしてプロテスタンティズムの禁欲の倫理を受けとめたようである。儒教のなかでも陽明学を奉じた士族インテリゲンツィアが多かった。 内村鑑三は陽明学について、こう書いている。 〈旧幕府が自己の保存のために助成した保守的な朱子学とは異って、陽明学は進歩的前望的にして希望に充てるものであった。それが基督教に似てゐることは従来一再ならず認められた所である。事実、その事も一つの理由となって基督教はこの国に於て禁止せられたのであった。『此は陽明学に似てゐる。我が国の分解は此を以て始まらん』。維新の志士として有名な長州の軍略家、高杉晋作は、長崎にて始めて基督教聖書を調べて、さう叫んだ。基督教に似た或るものが、日本の再建に参加した一つの力であったといふことは、我維新史における特異なる一事実である〉(『代表的日本人』) 熊本郊外の花岡山でキリスト者となることを署名・宣誓した熊本バンドの三十五人は、すべて陽明学(実学)的教養のなかで育った者たちであった。海老名弾正しかり、小崎弘道しかりである。本多庸一や松村介石たちもそうであった。 彼らは、儒教の説く太極(天理)を人格化し内面化してキリスト教を捉(とら)えた。たとえば、海老名弾正は宣教師を通してキリスト教の教えに触れたとき、儒教でいう上帝とキリスト教でいう神とは同じではないか、結局は同じ所に帰着するのだ、と思ったといい、松村介石も、「耶蘇所謂(いわゆる)神とは即ち儒教の所謂天帝、上帝、皇天ではないか、されば汝は幼少より此の神の存在を信じて居る筈だ」と述べている。 |
(私論.私見)