32435 ヘーゲル(1770-1831)



目次  

コード 中項目 備考
32641 生涯の概略履歴
32642 哲学上の功績
32643 ヘーゲル哲学とキリスト教義の相関関係考
32644 人間論、社会論、歴史論
32645 マルクス・エンゲルスの「ヘーゲル論」考
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 ヴェルテンベルク公国の首都シュトウットガルトで誕生。

ヘーゲル論

1、ドイツ古典(観念)哲学の哲学史上における地位、役割、時代社会的根拠。
2、ヘーゲルと先行する諸哲学、体系との対峙、摂取性(問題意識性)。カント及びフィヒテ哲学の影響、シェリング哲学との関係における思想的苦闘。3、ヘーゲルと同時代人、時代社会との総体的対峙状況。
4、ヘーゲル哲学の内容並びにその発展
5、ヘーゲル哲学の特徴、功績
6、ヘーゲル哲学と時代、社会との哲学的関係並びに総体的関係
7、ヘーゲル哲学とその後継者、その継承性。

へ−ゲル名言集

「ある個人が、彼の身中にある意欲の全脈管をあげて一つの対象に没頭し、彼の欲求と力イ両(りきりょう)の一切をこの目的に集中している限り、我々はこのような関心を情熱と呼ぶ。この世におけるいかなる偉業も情熱無しには成就されなかった。理念は我等の眼前に拡がっている世界史という大きな敷物の縦糸であり、情熱はその横糸である」(「歴史哲学」)

「ミネルバの梟(ふくろう・知識の女神のこと)は、暮れ迫る黄昏(たそがれ)をまってはじめて飛び立つ」(「法の哲学」)

「一般によく熟知されているものは、熟知されているからといって、認識されている訳ではない」(「精神現象学」)

「具体的なものは、己を分割して非現実的なものになることによってのみ自ら動くものになる」

「世界の中で、いやしくも偉大なことは何事も、情熱無くしては何も遂げられなかった」(「歴史哲学講義序論」)

「必然は、それが認識されない限りにおいてのみ盲目的だ」


【ヘーゲルのナポレオンに対する評価】

 彼は、ニートハンマーに宛てた「1806年10月13日即ちイエナが仏軍に占領され、皇帝ナポレオンが城壁内に到着した。イエナにて」という書き出しで始まる手紙の中で、「皇帝-この世界精神-が馬上豊かに市街を通り、陣地偵察に出かけていくのを僕は見た。この一地点に集中しながら、馬にまたがって世界を圧倒し征服するこのような個人を見るのは、実に何とも云えない感じだ」と書いている。


【ヘーゲルの英雄史観】

 概要「一切の偉大な歴史的人物と云われる人自身の特殊な目的は、世界精神の意志が内在しているところの重大な事件に関連している。彼らこそ英雄と称されるべきである」。「歴史上において発展する精神は、一切の個人に内在する霊魂であるが、しかし、それは自覚されない内在性でしかないのであって、偉大な人物によって初めて自覚される。彼らの周囲の大衆が、これらの霊魂の指導者に追随するのはその為である」。



【ヘーゲル哲学の推進契機としての意識の自己運動論について】
 
 ヘーゲルは、「大論理学序論」で次のように述べている。「私は、精神現象論の中で、意識がその対象との最初の直接的対立から出発して、絶対知に到るまでの進展運動を叙述した。この過程は、意識のその客体に対する関係のあらゆる形式を通過して、その最後に至って学の概念を獲得する」。

 これによれば、ヘーゲルは、より規定的なものとして意識を措定し、その意識の内在的な自己運動、その弁証法形式を研究することを意図していたことになる。ここにヘーゲル哲学の推進契機ががあったものと思われる。

【ヘーゲル哲学の精神観について】

 概要「凡そ自然界において発生する変化は、それらがどのように乱れていようとも、永遠にただ一巡してまた初めに戻る循環として現われるに過ぎない。自然観にあっては全く太陽のもと新しきもの無しである。ただ精神の領域における変化の中にこそ初めて新しいものが発生する」。

 「精神の生とは、死を恐れてその死滅から逃れようとする生ではなく、死に堪えて死の中に自分を維持する生である。精神は、自分の死滅の中にあって、自分を見出すことによってのみ自分の真理を得るものである」(「哲学史講義」)

 「否定的なものに直面し、これを熟知することによってのみ、その解体の只中に自分自身を見出す威力としての精神」(「哲学史講義」)。


【ヘーゲル哲学の概念観、理念観、真理観について】

 「故に、概念は、実体の真理である」、概要「実体性の関係の移行は、この関係自身の内在的必然性によって起こる。そしてその移行は、かの概念がその必然性の真理であるということに他ならない」、「理論は十全な概念である」、概要「概念は、自由な現存にまで進むと、自我あるいは純粋自己意識【純粋自我】に他ならない」(「大論理学」)。

 「理念は無限なる自由においてであるが、その無限なる自由における理念は、すなわち、おのれ自身の真実態における理念は、おのれを自然として、あるいは他在の形態で、おのれの外へ放出すべく決意するのである」(「エンチクロペディ」ー第一版191節)


 「命題は、真理が何であるかを表現しなくてはならないが、しかし真理は、本質的に主体であり、主体である以上、真理は弁証法的運動、即ち自己自身を生産し発展しながら又自己のうちへと帰還している進行に他ならない」(「哲学史講義」)。

 「存在する全てのものは理念ないし論理的概念のうちにあり、そしてそれ故に理念があらゆるものの真実態であり、全てはその始端にして且つ終局なる理念に帰入する」。

 「全ては論理的理念のうちに在り、しかもそれの外には決してあり得ぬような仕方で論理的理念の内に在る」


【ヘーゲル哲学の思弁的構成に対するマルクスの観点】
 
 マルクスは、ヘーゲル哲学の思弁的構成に対し二つの難点を見て取った。「ヘーゲルは、哲学者が感性的直感と表象を媒介として、一つの対象から他の対象に移行する過程を、詭弁家的な巧みさで、想像した悟性物そのものの過程として、絶対的主体の過程として、叙述する術を知っている。だが、その次に、ヘーゲルは非常に度々、思弁的叙述の内部又、現実的な事そのものをとらえる叙述をしている。思弁的説明の内部におけるこうした現実的説明は、読者を迷わせて、思弁的説明を現実的説明と思わせ、現実的説明を思弁的説明と思わせるのである」(「聖家族」)。


【ヘーゲル哲学観について】

 「それぞれの哲学は、特殊の発展段階の叙述であるというまさにそれ故に、その時代に属しており、その時代の制限の中に縛られている。個人はその民族の子であり、時勢の子である。彼はいかに思い上がっても、その時代を超越することは不可能である。何とならば、彼は自己の実体及び本質たる一つの普遍的精神に属するがゆえに。どうしてこれから超脱することができようか。哲学によって思惟的に把握せるものは、同一の精神である。哲学は普遍的精神の自己反省であり、従って、その限定された実態的内容なのである。全ての哲学は、その時代の哲学であり、精神展開の全系列の一つの項なのである」(「哲学史講義」)

 「哲学はただ世界史の中に反映する理念の光輝だけを問題とするべきである。哲学は、現実世界の中の直接的な、生の情熱の動きから一歩退いて、それを考察するものである。哲学の関心は、自分を実現する理念の展開過程、それもただ自由の意識という形でのみ現われるところの自由の理念の展開過程を認識するにある」、「世界史とは、目まぐるしく変転する歴史の舞台の中で演ぜられる以上のような精神の遂行(展開行程)であり、精神の現実的な生成であるということ-これこそ真の神義論であり、歴史の中で神の義を証しすることである。過去に起こったこと又日々起こっていることは、神なしには有り得ないどころか、むしろ本質的に神の業そのものだという洞察のみが、精神を世界史及び現実界と宥和(わうわ)させることができるのである」(「歴史哲学」)

 「どんな個人も元来その時代の息子である様に、哲学も、その時代を思想の中で捉えたものである」(「法の哲学」)


【ヘーゲル時代観について】

概要「我々の時代は、誕生の時代であり、新時代への過渡的時代である。人間の精神は、既にその古い生活と観念論的世界から決別し、一切の過去を葬って、自らの改造に着手している。事実、精神は決して静止することなく、絶えざる前進運動を続けている。(が、しかしながら、精神の発展は、おもむろに新しい形態を目指して生長し、自己の従来の世界を一つづつ解体するのであって、この世界の動揺はただ些末的な徴候によって暗示されるに過ぎない)全体の相貌をまだ変えるに至っていない。この斬進的退廃と瓦解は、電光石火の如く、一挙にして新しい世界の形態を築き上げる日の出によって中断される」(「精神現象学序論」)。

【ヘーゲルの人間観に対するマルクスの態度】


【レーニンのヘーゲル哲学観】

 レーニンは、「哲学ノート」の中で、ヘーゲル論理学を高く評価し次のように述べている。「ヘーゲルは、二つの基本的要求を掲げている。即ち、@・連関の必然性、A・区別の内在的発生である。非常に重要なことである! これは、私の考えでは次のことを意味する。一、特定の領域の諸現象の全ての側面、力、傾向などの必然的で客観的な適用。二、区別の内在的発生とは、区別、両極性の発展、闘争の内的で、客観的な論理、のことである」。

【キュルケゴールのヘーゲル観】

概要「私は彼から多くのものを学んだ。彼の哲学的知識、彼の驚くべき博学、彼の天才的な洞見を、私は如何なる弟子にも劣らず認めようと思う。否、認めるというのではなく、称賛しようと思うのだ」