3261 | アナーキズムの悲劇考 |
(最新見直し2005.12.16日)
(れんだいこのショートメッセージ) |
れんだいこはアナーキズムに憧憬する。その思想と運動の全貌を解析していないので結論を下しえないが、アナーキズムの方が近世ルネサンス運動の正統系譜では無かろうか、と思い始めている。マルクス主義はこの点で、歴史の重要な流れに無自覚すぎるのではないのか、そう思い始めている。不幸なことに、そのアナーキズムは、方や当局官憲、こなたマルクス主義派により排斥されていった。マルクス主義派の統一思想癖が招いた事態と云えよう。 れんだいこは、本サイトで、果してマルクス主義派のアナーキズム排撃は正しかったのか、を問おうと思う。これはあまり為されていない未踏の分野の考究になる(と思う)。故に、諸賢のお力添えを願う。 2005.3.18日 れんだいこ拝 |
【マルクス主義の陥穽をアナーキズムから観る事の意義考】 | ||||||
アナーキズムをどう評するべきか。れんだいこは、その座標軸を近世イタリアに発したルネサンスに置き、そこから説き起こさねばならないと考える。ルネサンス論そのものは「ルネサンスの研究」に譲り、ここではそのルネサンス精神の承継ぶりをその後の諸思想の中に追跡してみたい。 とまぁ書いたがこれはとても大変なことで、れんだいこの手に余る。しかし、課題をそのように設定したこと自体にれんだいこの功績がある。とりあえず自尊しておく。 ルネサンスの意義を、体制的束縛から逃れて自由自主自律的な暮らしを求める運動であったと仮定する。すると、アナーキズムこそはそのイズムの最も忠実な継承左派運動ではなかったか。その点で、マルクス主義派は、どこでどう思考回路を間違えたのか、理論としてのプロレタリア独裁論ならまだしも、その具体的実践となると一様に、命令に対する服従運動という従順型組織論へと帰着させてしまった。これは明らかな復古的封建手法であり、ソ連邦その他の先発社会主義国がいずこも個人崇拝式王朝体制化させたのも理の当然であろう。 アナーキズムとマルクス主義は本来は共に反体制、抵抗権、革命権を歴史的なものとして是認しているのだが、その手法が対比的に違うことに驚かされる。しかし、仔細に照合していくと、アナーキズムとマルクス主義は案外と接合可能なように思えてならない。今からでも遅くは無い。気づいた時から試みられるべきだろう。 というのは、アナーキズムがマルクス主義の革命権力創出観点を是認し、その運動の実践においてアナーキズム的な自主自律的な自由規律を結社化させる方向で担った場合、却ってその方がより上手く機能するのではないのか、という考察が待たれているように思われるからである。史上のマルクス主義運動は党内を抑圧型にした故にことごとく失政せしめているのではないか、ということに思い至るからである。 1917年のロシア10月革命及びその余韻燻(くすぶ)る時代にあっては、マルクス主義派から見れば、アナーキズムの自主自律的な自由規律的組織論、運動論は革命戦略戦術上あまりにも温(ぬる)い見解のように思えたとしても仕方ない面がある。しかしだ、間もなくロシア10月革命100周年になろうとしており、既にその革命権力は潰(つい)えている。あれほど鳴り物入りで唱えられた先進国革命なぞ、もはやどの国に於いても上の空の絵物語に貶(おとし)められている。 あまりにも象徴的なこの事態に際して考えることは、マルクス主義運動の上意下達式欠陥を素直に認めるべきだろう。それは革命を少しも手繰り寄せないばかりか有害無益な代物ではなかったか。つまり、アナーキズム的な自主自律的な自由規律運動が再脚光浴びる所以のものがあると云うべきだろう。 人は、マルクス主義の史上経験をマルクス主義理論の誤りとして、マルクス主義を排撃する見地から唱える。れんだいこに云わせれば、それは何も語っていないに等しい。なぜなら、そのような見地からマルクス主義を判判したところで、マルクス主義が向おうとした世界の改変の必要は相変わらず課せられているからである。むしろ、革命を必要とする現実が剥き出しにされているのが昨今では無かろうか。 つまり、マルクス主義を批判するのなら、それに変わる世界改変思想と組織と運動に関する新たなものを生み出す必要がある。それを語ることによって初めて有効なマルクス主義批判足りえるのではないのか。この違いを踏まえず、安逸なマルクス主義批判に興じる転向派が後を絶たない。今や、その程度の批判なら誰でも為しえるというのに。 丁度おりしも、「阿修羅政治版8」で、「愚民党」氏が2005.3.19日の「20世紀社会主義の実験は失敗、研究者はそこから学べる 岩田昌征」で、東京国際大学経済学部教授・岩田昌征氏の次のような発言を紹介している。元版は、2005.3.25日発行「SENK」1173号4面の「社会主義とは何だったのか 岩田昌征さんに聞く(上)」のようである。
いずれの言及も、マルクス主義の復権を目指すのではなく、その欠陥を認めつつ何がしかの新しい思想形成へ向うための地盤整備の必要を指摘しているように思われる。れんだいこは、もう少し生硬にマルクス主義の史的高みを見ようとしているが、この提言に文句は無い。というか、この問題意識でもって右へと靡くのか左からこじ開けようとするのか、が問われているように思っている。世の右風潮は物足りない。 そういう意味で、現代は新思想を必要としている。その際、アナーキズムとマルクス主義の徒な鞘当ては無意味である。むしろ接合の方が有意義であろう。あぁ、誰かこの観点から考究を為さないか。 れんだいこは、そこに更に陽明学理論、中山みき理論、イエス・キリスト論をも加えたいと思っている。あるいは日本の伝統的百姓一揆史の経験をも織り込んでみたい。 一言で言えば、人は1・寿命の幅で、2・何を営為すべきか、3・世代間にどう繋ぐべきか云々理論というものを生み出したいと思っている。百年かかっても良いぼちぼちでんな革命論とでも云えようか。 今や、そのような論ないしは主義ないしはイデオロギーを生み出すことこそ肝要で、ここに至らない理知主義とその理知主義を叩く為の批判の為の批判論は空疎な趣味でしかなかろう、そう思っている。 とりあえず筆の進むままに書き付けておく。 2005.3.18日、同3.19日再編集 れんだいこ拝 |
(私論.私見)