32641 生涯の概略履歴

 (最新見直し2005.12.1日)

【バクーニン・ミハイル】(Бакунин、Михаил Александровиу、1814〜76)
 ロシアの無政府主義革命家。トヴェリ県の名門貴族の子。ペテルブク砲兵学校を出て将校となり、1835年中尉で退役。父と対立してモスクワに移り、スタンケーヴィチ グループに入りベリーンスキィ・ゲールツェンらと親交。スタンケーヴィチ(1813-40)のサークルでドイツ哲学を学び、ヘーゲル哲学に心酔。1840年、ゲルツェンの援助で外遊、ドイツのベルリンに出向き、ベルリン大学で哲学の研究を続けた。フランスの社会主義者プルードンと交友しながら、アナーキズム(無政府主義)革命の理論をつくりあげた。彼は心から自由を愛し、いかなる束縛をも拒絶した。権力とりわけ国家権力を憎んだ。スイス、イタリアを遍歴。

 1848年2月、パリに革命が起こると、陣頭に立って熱弁をふるった。3月にはプラハに走って、革命的汎スラヴ主義の運動を起こしてスラブ連邦樹立をはかり、6月に蜂起の先頭に立ち、ヨーロッパ中の支配者を戦慄させた。1849年春、ドレスデン暴動を指揮、逮捕される。ザクセン政府から死刑の判決を受けたまま、オーストリアに引き渡された。そこで絞首刑ついで終身刑に減じられて、1851年、ロシアへ送還、禁錮。51年から57年までペテルブルクの要塞監獄につながれていたが、1857年、シベリア流刑となる。

 1861年、逃亡、アメリカ船で日本経由、アメリカをまわってロンドンに渡り、ゲルツェンと再会した。1863年、ポーランド反乱を支援。

 第1インターナショナルに入るが、ここでマルクスと論争。プロレタリアの組織的な革命行動よりもむしろ社会から脱落した下層の貧困者の暴動を中心に考え、いっさいの国家(労働者階級が権力をにぎったものまで)を否定する立場を執り、マルクスと衝突した。

 1867年、スイスに移り、革命家の国際組織をつくる運動に参加した。69.9月、第一インターナショナルのバーゼル大会でマルクス派とはげしく対立した。バクーニン派はインタナショナルのなかで分裂行動をおこし、分派(アリヤンス)を作る。1872年、除名される。バクーニンは、マルクス派と完全に別れて、アナーキストのインターナショナルをつくった。

 
マルクスとロスチャイルドの関係」は、第一インター・ナショナルでマルクスと決裂したバクーニンの「マルクスとの個人的関係」(1871.12月、バクーニン著作集第6巻・白水社刊)を紹介している。それによると、バクーニンは、マルクスを次のように評している。

 概要「マルクスがエンゲルスと共に第一インター・ナショナルに最大の貢献をしたことは疑いない。彼は聡明で学識深い経済学者であり、イタリアの共和主義者マッツツィーニ等はその生徒と呼んでいい程である。但し、何事にも光には影がある。マルクスは、理論の高みから人々を睥睨し、軽蔑している。社会主義や共産主義の法王だと自ら考えており、権力を追求し、支配を愛好し、権威を渇望する。何時の日にか自分自身の国を支配しようと望むだけでは満足せず、全世界的な権力、世界国家を夢見ている」。

 
 「マルクシズムの起源1」は、次のようなバクーニンのマルクス観について記している。
 「マルクスに愛されたいなら、彼を礼拝しなければならない。マルクスに赦しを請いたいなら、少なくとも彼を恐れなければならない。マルクスは、狂気ともいえるほどに、極端に高慢である」(Bakunin, Works, Vol. III(Berlin, 1924), p. 306. cited in ibid., p. 13.)。

 バクーニンは、亡命革命家の中でしだいに疎外されていったが、その頃バクーニンを熱心に迎えてくれるグループが現われた。それはロシアから大挙してチューリッヒへやってきた若い学生たちだった。彼は学生たちに説いた。最大の悪は国家である。国家は廃絶しなければならない。ヨーロッパは国家の強いところだ。ビスマルクのドイツ帝国ばかりか、それと対決するマルクスのドイツ社会主義も革命国家をつくるという。本当に国家を否定できるのは、ロシア人だけだ。ロシアの農村共同体は国家否定の原型である。ロシアの農民は本能的に反国家主義だ。彼らには、国家に対して反逆したプガチョフやステンカ・ラージンの伝統がある。革命的青年は人民を教育する必要はない。人民の中に入っていきさえすればいいのだ。学生は、大学や国家機構によって汚れてしまわないうちに人民の中へ行かねばならぬ。人民は何をなすべきか知っている。人民は一揆によって立ち上がるに違いない。バクーニンのこの主張が、ロシアに於ける「人民のなかへ」運動の契機となった。

 1873年、バクーニンは、「国家とアナーキー」を著し、バクーニン理論を世に問うた。バクーニンは、同書で、神と国家の徹底的な闘争即ち最も戦闘的な(無神論)(無政府主義)を説き、農民と下層市民の暴動を期待した。このバクーニン主義は、特に資本主義の後進国、イタリア、スペインの革命運動にも強い影響を与え、「人民のなかへ」に参加した学生にも読まれた。バクーニンは、ロシアのナロードニキ運動のイデオローグとなった。但し、バクーニン自身は、晩年になると革命に幻滅し、不遇のうちにベルンで客死した。

 著書は次の通り。
「書簡集」(4巻) 1834年〜35年。
「国家とアナーキー」
「著作撰集」(5巻) 1919年〜22年

【バクーニンのサタニズム観】

 バクーニンは、サタニズムに関して次のように述べているマルクシズムの起源5」より引用する。

 「サタンは、永遠の反逆者、最初の自由思考者、世界の解放者である。彼は、人間が、自らの獣のように無知で従順な姿を恥じ入るように仕向けている。サタンは人間を解放し、その額に自由と人間性の印を押し、反逆を促し、知識の実を食べるよう駆り立てる」。(Mikhail Bakunin, God and the State (New York: Dover Publications, 1970), p. 112; cited in ibid., p. 27.)
 「この革命において、我々は人々のうちにある悪魔を目覚めさせ、最も卑しい欲情を掻き立てなければならない。我々の使命とは、破壊であって、変革ではない」。(Roman Gul, Dzerjinskii, published by the author in Russian (Paris, 1936), p. 81; cited in ibid., p. 27.)

 「バクーニンにとって革命とは、建設ではなく、一方的な破壊である」と評されている。





(私論.私見)