孔子は、(紀元前551ころ〜前479ころ)中国,春秋時代の思想家。儒教を始めた人として,のち日本にも大きな影響をあたえた。
孔子の人生について記した古い文献で私が知っているのは漢代の歴史家・司馬遷の『史記』のなかの「孔子世家」である。それによると、孔子の名は丘(きゅう)、字(あざな)は仲尼(ちゅうじ)。父は著名な武人だった。当時は貴族中心の社会で、武人は貴族に仕える立場にあった。父と母の関係は正規の関係ではなかったようだ。しかも幼くして父母と死別している。孔子の幼少時代は実に貧しく、苦労したようである。
このような逆境のなかで孔子は武人の道ではなく学問の道を選ぶ。当時の中国には地方ごとに「序」と呼ばれる学校があった。貴族の子弟は13歳で入学するが、貴族の出ではない孔子は15歳で入学した。
「序」を卒業したあと孔子は貯蔵配給係、牧畜係などの仕事に就いたようだ。40歳ごろ孔子は魯国に仕えて官吏になる。そして非凡な才能を認められて魯の高い地位につく。大司冦(だいしこう)という地位である。これは現代風にいうと「大臣」か「最高裁判所判事」のような高い地位のようだ。孔子は外交官としても非凡な能力を発揮し、名声が高まる。
政治力をつけた孔子は理想主義に燃え、貴族の横暴な政治を批判する。そして、これを打倒するために新興勢力として急速に台頭してきた武士階級、官僚、知識層を結集して、当時魯国の政治の実権を握っていた三桓氏の寡頭政治に戦いを挑む。だが、孔子の革命運動はいま一歩のところまで敵を追いつめるが、最後に敗北し失脚してしまう。
生まれた国の魯(山東省)で政治をとって失望した孔子は、失意のうちに祖国を捨てて流浪の旅に出た。自分の政治理想を実現しようと,弟子とともに14年間諸国をめぐった。孔子は時に孔子は56歳。13年間の流浪の旅の間、孔子は三度も生命の危険にさらされた。孔子が貴族階級から危険人物とみなされていたためだった。流浪の旅のあと教育者になった孔子のもとには多くの弟子が集まった。その数3000名と『史記』は書いている。
魯において築こうとした理想国家を他の地に築こうとの願望を秘めた旅だったが、成功せず、13年間の流浪ののち、68歳で再び祖国・魯に帰り、以後、数え年七四歳で没するまで子弟の教育や古典の整理に専念した。かれは,社会には礼とよぶ秩序が必要であり,それには人を思いやる仁とよぶ心が大事だと説いている。孔子と弟子たちとの問答をまとめた本が『論語』である。
孔子はソクラテス、マホメット、釈迦とともに世界四大聖人といわれてきた大思想家である。孔子は波乱の人生を歩んだ。孔子の生涯の一時期は政治革命家のようなものだったのではないかというのが私の解釈である。孔子の言葉の重みはこうした波乱の人生と無関係ではないように私には感じられるのである(森田実)。
政治革命家としての孔子
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