日共党中央の弁明、対処考

 日共党中央は、2003衆院選に完膚なきまでに打ちのめされ、もはやお得意芸のご都合主義的な数字いじりのお披露目もできずしどろもどろを呈した。やっとの思いで次のような常任幹部会声明「総選挙の結果について(2003.11.10日)」を出してはみたが、「科学的社会主義屋」の弁明はいつまで続くのだろうか。以下、逐一これにコメント付けてみるが、結局この場に及んでも何の反省も教訓を為そうとせず、徒に従来式の正義の弁明を繰り返しているだけの様が見て取れる。

 2003.11.10日付け赤旗は、「選挙結果について」と題する志位委員長の会見記事を報じている。常任幹部会声明「総選挙の結果について」と内容が酷似しており、新しい観点は無い。常任幹部会声明が、「来年の参議院議員選挙での前進を実現するために、全力をつくす決意」としていたところを、「1月に開く第23回党大会にむけて、党綱領改定案を全党の英知でねりあげるとともに、強く大きな党をつくる仕事に、新たな決意をもってとりくむ決意です」とすりかえただけの代物(しろもの)でしかない。
 その@・この場に及んでも依然として数字いじりで事態を誤魔かそうとしている。「今回の総選挙で、わが党が得た議席は、改選前の二十議席から九議席となりました。比例代表選挙の得票は四五八万票(七・七六%)であり、前回二〇〇〇年総選挙の比例選挙の六七一万票(一一・二三%)には及ばなかったものの、直近の国政選挙である二〇〇一年参院比例選挙の四三三万票(七・九一%)をほぼ維持する結果でした」。

 そのA・常に敵を外に求め、主体的な反省を放棄し、志井→恣意的な駄弁を繰り返している。アメ帝論に代わって財界論を持ち出し、政権選択の流れをアメリカ式の二大政党制を求める財界の呼びかけによるものと規定しているが、批判するにご都合なすり替えでしかなかろう。「わが党は、財界・大企業主導でつくりだされた政党地図のこの急激な変化の意味を、事実にそくして明らかにしつつ、『国民が主人公』の日本をめざす改革の道を訴え、消費税増税と憲法改悪という二つの大悪政に反対する立場を、正面から訴えて奮闘しました」。

 そのB・選挙期間の短さを単に嘆いて駄々をこねている。どの党も条件は一緒であろうに、ならば、公明党の健闘ぶりをどう説明するのか、日共常任幹部会よ説明してみよ。「しかし、わずか一カ月という限られた期間に、おこっている事態の真相とわが党の立場を、多くの有権者に伝えきるにはいたりませんでした」。

 そのC・いつもの唯我独尊の事足れりで済まそうとしている。「財界が主導する二大政党制には、行き詰まった自民党政治を打開する力も展望もありません。二十一世紀、国民の希望にこたえる日本の未来を切りひらくうえで、日本共産党の果たすべき役割はいよいよ重大です。わが党は、この選挙で掲げた公約実現のため、国会の内外で全力をあげてたたかうものです」。

 そのD・党中央の責任放棄の弁明を、次の参院選への決起にすりかえている。「総選挙の総括は、党内外の方々の意見に広く耳を傾け、近く開く中央委員会総会でおこないます。わが党は、来年一月の第二十三回党大会に向けて、党綱領改定案を練り上げ、強く大きな党を築く課題に力をそそぐとともに、来年の参議院議員選挙での前進を実現するために、全力をつくす決意です」。


旧来式社共運動の総破産を論評する れんだいこ 2003/11/11
 2003衆院選は、社共勢力に致命的な打撃を与えた。これをれんだいこが評すれば、社共に代わる党派が出現していないだけで、もしそういう党派が出現していれば露と消えていただろうと思われる。つまり、土井的社民運動、不破的日共運動のどちらもが最終的に総破産したことを物語っている。事態は遂にここまで来た。この観点が欲しい。以下、日共続いて社民を評してみる。

 「日共党中央に問われているのは何か」。端的に云えば、責任体系の欠如である。現下日共党中央にとって、このところの相次ぐ選挙戦での敗北の意味するところは深刻なものである。にも拘わらず、その責任から免責されようとしてあれこれ弁明し続けている。それはもはや姑息卑怯というより、いわば人間失格とでも形容されるべき変調さであろう。まともな感性では無いという意味だ。既に充分食傷されており、時間の問題で鉄槌がお見舞いされるだろう。

 どういう意味か、論述してみる。現下党中央にとって、選挙戦とは、宮顕−不破党中央以来これ一本に集約し、つまり他の大衆運動、労組運動、デモ等々を放棄し、その代償として贖(あがな)ってきた「運動の前進の指標」であった。1955年の六全協で宮顕ラインが党中央に登壇して以来、もし功績ありとすれば、このこと以外には何も無い。それほど犠牲の多い議会専一式指導ぶりであった。1960年、70年の20年間は正成長を遂げてきたから、党中央は是認された。

 しかし、1980年、1990年代において停滞し始め、1990年後半からは明らかに退潮し始めた。近時は、地方選挙、国会選挙共々において後退現象が現れている。ごく最近の傾向としては、既に雪崩の如き崩壊ぶりを見せつつある。にも拘わらず、宮顕−不破−志位党中央は捲土重来を虚しく繰り返す術しか持ち合わせていない。

 唯一の生命線としてきた「運動の前進の指標」である選挙戦における敗北は、宮顕−不破−志位党中央派運動の破産であり、とりもなおさず責任問題に移行すべき事柄である。誰に言われるでもなく、自ら進んで党中央の座椅子から降りるべき性質のものである。宮顕−不破党中央が、当局内通派投降主義者で無ければ遠の昔に責任を痛感し、他系統の指導を迎え入れるべきところのものである。

 しかし、この党中央は如何なる詭弁を弄しても党中央権力を手放そうとしない。ここに宮顕−不破党中央派の胡散臭い本質がある。この観点を持ち合わす者が少なすぎるが、今こそ耳目を開くべきである。既に、現下党中央は50年近くにわたって党機関を私物化しており、その唱える民主集中制、分派規制論により下部党員の脳内は破壊されている。そういう事情で、れんだいこの指摘する当然のところに関心が向わないが、この病巣こそが映し出されるべき現下日共の姿態である。

 以上の分析から云えることは、宮顕−不破−志位党中央を革命的に引き摺り下ろすか、新日共の創生に向うかのいずれかにしか展望は無い、ということになる。この道に乗らない論議は虚妄であり、何ら生産的なものにならないだろう。問題はかく提起されている。

 補足すれば、社民党の病巣も近似している。土井執行部は、社会党を解党し、社民党として転身させてみたものの相次ぐ後退を続けている。こたびは、見るも無残な敗北となった。にも拘わらず土井執行部は又も延命されつつある。この党はもはや朽ち果てている。こうなると、日本左派運動の見識そのものが問われているのではないのか。

 政治とは与野党、穏健派急進派如何を問わず、責任体系の継続である、この観点が欲しい。何も、政治に限らずかも知れないが。

 2003.11.11日 れんだいこ拝


土井党首の引責辞任を祝す れんだいこ 2003/11/13
 政界の激震が勃発している。保守党の自民党への吸収に続いて、社民党の土井党首が引責辞任となった。残すところ日共・志位委員長であるが、この党にだけは常識が通じない。よって、れんだいこは相手にしない。

 それはともかく、遅きに失したとはいえ土井党首の辞任を称賛したい。それは議会制民主主義のルールであり、自民党のみこのルールに忠実などという風潮をいつまでも許容してはならないところであった。こたび、社民党が当然のこの倫理観を規範にしたことは悦ばしい。

 思うに、政治的党派はとりわけ、外に対する主張はまずもって党内に実現しておくべきでは無かろうか。ミニチュアなコミューンを実現し得て、その成果を元手に党外へ、世間へと押し広げていくべきではなかろうか。そういう意味で、党首の責任と指導能力への期待が大きくなるのもむべなるかな。

 党首並びに執行部は、党内コミューンの攪拌現象に対する重責がある。これを逆から見れば、党外世相の縮図として党内がある、ということになる。党とは、この相補関係を次第に自党に有利に導く責務を有し、党中央はこれに直接的な責任を負う。この争闘こそ党派の生命では無かろうか。

 思えば、これを最も上手に御してきた、きているのが自民党では無かろうか。その機関運営主義を見よ、反対意見の存在は当然であり、反対派の存在が当然視され、政策的な派閥の存在が容認され、だがしかし決定された重要事項に対しては一致結束するを良しとする、これに反して万一政争として尾を引いた場合でもやがて再集合する。

 政治の信を選挙で問い、結果次第で執行部は引責辞任を余儀なくされる。為に、あらかじめ信任数値を打ち出す。議員は平素より辻説法1万回、国政報告会を繰り返し、議員ごとの後援会を組織し切磋琢磨する。あぁ何たる理想よ。これをやってきたのが政権与党の自民党であり、続いて公明党であるように思われる。

 とはいえ、自民党の理想政治は過去のものとなりつつある。近時の無能タカ派系権力は機関運営主義において極めて稚拙であり、対米協調も属州並みにイエスマン化しつつある。川口の吐き気をもよおす外交振りを見よ。これと一蓮托生する公明党の先は案外暗い。この間むしろ素性をはっきりさせた面があり、新左派圏の創出とその発展に随い今後は逆風に見舞われることになるだろう。だから、心配するなと云いたい。

 さて、結論はいつもこの党のことになる。かの党の党内コミューン(つまり党内の在り姿)を世間に押し出したとして、それを規範として社会を造ったならば、我が社会は一体どうなるのか。まさに金正日体制そのものではないのか。金体制の素体はよく知らないのに巻き込むのも変だから言い換えるが、治安維持法体制、無能官僚制、手前勝手なエセ論法、本音を隠しての建前主義、至るところに著作権攻め、三枚舌等々。

 と思えば、この党中央の異邦人性が分かろうというものだ。土井も降りた、保守党も分解した。さて、この党中央はいかなる姑息な弁明を為しつづけることだろう。ここが見どころになってきた。恐らく、何か他所事の喧騒を見つけ、目をそらす作戦にでることだろう。これ予言しておく。


【この日共党中央の姑息な弁明を如何せん】
 志井委員長は、2003.11.12日放映のCS放送・朝日ニュースターの「各党はいま」に出演し、朝日新聞政治部の峰久和哲記者の質問に答え、総選挙の結果と今後の日本共産党の取り組みについて概要次のように述べている。あんまり噴飯ものの総括故に逐一コメントしてみる。

 曰く、「消費税増税、憲法改悪という日本の命運にかかわる二つの問題で」とある。(チョット待て)れんだいこに云わせれば、この初手からうそ臭い。今回の衆院選の最大懸案はイラクへの戦後初の自衛隊の軍事派兵を廻る是々非々の論議こそ一級課題であった。時代が要請しているこの論議を正面から受け止め、政府与党あるいは民主党、社民党と対峙すべきであった。ところが、不破―志位党中央は、陰険姑息故にこう課題を設定し対決することから逃げ、巧妙に話題をずらせて「憲法改悪」問題へ一般化させた。それは逃亡というよりも、政府与党のイラクへの戦後初の自衛隊の軍事派兵に対する幇助的役割を果たしたと云っても良い。

 もう一つは、小泉首相が再三「任期中の消費税の見直しはしない」と明言しているにも拘わらず、票狙いとしか考えられない「消費税増税」問題を浮上させ、あたかもこれらが喫急課題かの如く欺瞞し論争をけしかけた犯罪性である。大衆を愚昧と侮る故に大衆が憤るであろう「消費税増税問題」を取り上げ、歓心を買おうとした。つまり、エエカゲンな低劣な策略に出たことが分かる。しかし、この姑息な遣り方が却って反感を呼び、こたびの選挙結果は大敗北となった。これが、日共のこたびの衆院選の真の敗北であろう。しかし、不破―志位党中央にこの姑息さを反省させる事は無理というものだろう。案の定、「消費税増税、憲法改悪という日本の命運にかかわる二つの問題で」と未だにすりかえ論を展開している。病膏肓とはこのことだ。

 曰く、「選挙直前に自民党と新民主党が同じ流れに合流し、その枠内で『政権選択』を競い合うという、政党状況の急激な変化でたたかわれた」ことを指摘し、「私たちはそういう変化が起こったことを事実をもって知らせ、党の改革提案を正面から押し出してたたかった。しかし解散の直前に起こった変化であり、ことの真相を国民のみなさんに知らせきるには時間が足りなかったというのが実情だった」と言い訳している。

 (チョット待て)新民主党がどうしようと勝手だろう。それを言い訳の種にするのなら、世に五万と充満していよう。不破―志位党中央の決して責任を取らない、その為の言い訳話法はもううんざりだ。「時間が足りなかった」と云うのもヒドイ言い方だ。これだけ「公平に」党首討論会、幹事長討論会、政見放送の機会が与えられ、マスコミ広告も自由に許されている環境の中で「時間が足りなかった」とは、大衆を馬鹿扱いした話であり、下部党員に更に鞭打つ話であり醜悪極まる。しかし、毎度このパターンを繰り返しており、この種の弁明が許容されるこの党の内側は一体どうなっているのだろう。大衆が馬鹿なのではなく、手前たちのほうが余程馬鹿丸出しということがまだ気づかないのだろうか。大衆は、日共の見解を承知済みで見放しているというのが実際だろう、だから何回やってきてもうんざりでうるさいだけなのだ。

 曰く、「総選挙が『政権選択選挙』、『マニフェスト選挙』といわれたことについて、財界が“シナリオライター”だった」ことを指摘し、「『政権選択』ということだけに選挙を収れんさせることは問題だ。この枠組みでいけば『二大政党』しか必要でなくなる。国会議員の選挙を、首相を選ぶ代理人を選ぶ選挙にわい小化することは、議会制民主主義の基本をこわすものだと批判するとともに、小選挙区制についても「国民には多様な意見があり、それを締め出してしまうという制度自体に大きな問題がある。比例定数削減は絶対に許されないと指摘した」なる珍論をぶっていいる。

 (チョット待て)「財界が“シナリオライター”だった」ことを得々と持ち出しているが、左派にとっては自明な話ではないのか。財界に厳正中立を願うのは勝手だが、如何なる財界観を持っているのか問うてみたくなる。そういえば、何かのレセプションの席でで財界からお褒めの言葉を頂いたとか、招かれ講演したところが評判を呼んだなる話を吹聴していたが、財界に接近してみたり敵意を煽ってみたり便利な引出しを持っていることだわ。

 もう一つ、不破―志位党中央に議会制民主主義の基本を講釈されるとは。議会制民主主義の基本とは、公正な選挙で国民の信を問い、思わざる結果がでれば責任を被り、新執行部の下で再度挑戦していくという繰り返しの中にこそ意味があるだろうに。自らを責任の枠外に置き詭弁を弄し続けるのは、議会制民主主義を恐れぬ所業であるぞよ、何をか況や。

 曰く、「(総選挙結果は)政界の地図が変わるなかでの過渡的な結果であり、いま進んでいる道を確信をもって進むことが基本だ。国民のなかでのたたかいを大いに起こし、そのなかで大事な役割を果たしたい」と強調し。「新たな国会では、日本共産党ならではの論戦を大いにやりたい」と述べた、とある。

 (チョット待て)「いま進んでいる道を確信をもって進むことが基本」の結果が、このところの相次ぐ後退だろう。普通には、「現行路線を再検討し、後退局面からの脱却を目指すのが基本」となるところだろう。こういうのを天動説論と云うのだろう。

 曰く、来年の参議院選挙について、「自民党政治を変える『日本改革の提案』の訴えは、今後いよいよ大事になる。小泉首相が『任期の三年間はやらない』という消費税増税も、参議院は六年が任期であり、この間にいやがおうでも熱い問題になる。憲法も、自民党は再来年に改定に大きく踏み出すという日程を明らかにしている。総選挙では自民党も民主党も、増税と改憲について正面からの議論を避けたが、これらの問題がいよいよ熱い争点とならざるをえない」と強調した。

 (チョット待て)「消費税増税問題」はこれからが政治課題であるということであり、意図的に邪な動機で早く取り上げすぎていたことを自己暴露しているではないか。

 2003.12.3日、日本共産党第10回中央委員会総会(十中総)が開かれ、志位委員長が「総選挙の総括と教訓、来夏の参院選挙の方針 参院選、党大会に向けた活動直ちに」と題して幹部会報告を行った。続いて、市田忠義書記局長が「イラクへの自衛隊派兵――この歴史的暴挙をくいとめる行動に立ちあがろう」との国民へのアピールを提案、十中総の決議として確認された。

 志位委員長の弁明は、2003.11.12日放映のCS放送「各党はいま」に出演した際に述べた「総選挙の結果と今後の日本共産党の取り組みについて」と主張が寸分変わらない。変わったところと云えば、「総選挙結果について、党中央としておわび」を述べたものの、「比例代表で得た458万票は2001年の参院選の得票とくらべて25万票増やしている」と居直っており処置なしの感を深めたところか。「今後の前進の土台となる貴重な成果だ」と万能論法で取り繕っているが、こうなるともはや漬ける薬が無い。

 党中央の指導責任を弁明しているが、その反省点を聞き分けすれば性も無い技術的なことばかりであり、本音は党中央の免責にこそあるのが透けて見えてくる代物でしかない。

 2003.12.7日 れんだいこ拝


小泉倒すも不破を倒すも同じレベル れんだいこ 2003/12/08
 2003.12.7日付け赤旗は、「選挙戦への取り組みについての問題提起 比例代表選挙と小選挙区選挙のあり方をめぐって」なる見出しの十中総での不破議長の発言要旨を掲載している。これを読むに、全く姑息卑怯且つ無責任な不破論法が丸出しされている。以下、これを解析する。

 要旨とあるので詳細は分からないが、この御仁は、先の衆院選の敗北に対して指導者としてのお詫びさえしていないようである。「若干の問題提起をする」としていきなり本題に入っているようである。全く度し難い器量の持ち主であることが分かる。

 不破講話は何の事は無い、昔はまともだった式の語りで現下党員が笛吹いても踊らずを叱咤しているだけの無内容に終始している。「選挙活動の取り組み意欲低下問題」を取り上げているが、これを正面から論ぜず、中選挙区制から小選挙区制への移行について事態変化の認識が弱いというすり替え総括して済ましており、聞いてあきれてしまう。

 先の総選挙の敗北を指導責任問題と選挙戦敗北の真の原因究明に向うことなく、、戦術レベルの問題に矮小化した上で、仇敵公明党の対応の仕方を持ち上げている。一体、この御仁の脳内コードはどうなっているのだろう。

 「彼らの選挙戦のやり方は、謀略と反共主義に満ちた無法きわまるものです。しかし、中選挙区から比例代表・小選挙区への切り替えにたいする対応には、見るべきものがあります」、「彼らの選挙活動の謀略性や不法性は、徹底的に批判し告発する必要がありますが、この選挙制度のもとで、比例代表選挙での得票増に中選挙区時代以上の執念で取り組んでいること自体は、私たちも他山の石とする必要があるものです」と云うのは勝手だが、党員は口をポカンとさせられたことであろう。

 天衣無縫とはこのことだ。しかし、それは深い責任感に裏打ちされていない限り「よく云うよ」と侮蔑されるものでしか無かろうに。汝、愚かというも哀れなり。

 以下、この御仁の天衣無縫さは、選挙制度の仕組みの講釈に向う。どこかの大学教授のつもりで、「ブロックごとの党の得票率の比較表(表1)」、「ブロック別の党候補の順位表(表2)」、「ブロックごとの一人当りの必要得票率(表3)」、「公明党が立候補した選挙区の得票状況(表4)」なるものを持ち出し、「選挙戦における比例代表と小選挙区への取り組みの問題の再検討」に向っている。これをれんだいこが読んでみるも至って詰まらない。

 ところで、世算事では有るが、不破は興味深いことを思わず漏らしている。「党活動の経験としても、私自身は、党の中央にくるまでは、学生の党支部での経験と、労働組合の書記局支部の経験しかなく、党機関での活動というものには、まったく参加したことがありませんでした」と、その素性を告白している。

 次のような本音も漏らしている。「全国三百の小選挙区に、候補者が候補者の任務専門で活動し、事務所をもち、そこには常勤の活動家がいる、こういう体制をつくれるかというと、財政的にも人的にも、それだけの力は、党にはありません。もちろん、それだけの力のある党組織が、そういう取り組みを意欲的におこなうということは、ありうることですが、これを全国的な方針にする条件はない、ということです」。

 おいおい不破よ、人民的議会主義論で登場してきた70年代初頭から30有余年になっているんだぞ。他の諸闘争つまり街頭運動、労組運動、その他大衆的団体による個別闘争の牽引責任から一切逃亡し、議会専一闘争一本に絞り上げ、国会内の過半数勢力形成による平和的政権移譲戦略を構想してきた責任というものがあろうに。

 よくも平気で「財政的にも人的にも、それだけの力は、党にはありません」なんて居直れるよな。民間の企業経営レベルなら、詰め腹切らせられるのが当然というところでせうに。

 締めくくりはこうだ。「次の総選挙では必ず失地回復できるように、選挙戦と党活動の立て直しについて、各県のみなさんが英知をしぼっていただくことをお願いして、発言を終わるものであります」。

 読んでみてさっぱり要領を得ない。例の忍法すり替え話法で煙り巻きにされただけのことである。しかし、党員たるや「さすがは不破さん、人が目に付けないところを上手に説き明かす、凄いわ」なんて提灯持ちし続けるのだろう、ご苦労なことですたい。こうなると、小泉倒すも不破を倒すも同じレベルのことになりますな。

 2003.12.8日 れんだいこ拝




(私論.私見)