戦没者及び遺族考 |
(最新見直し2006.8.6日)
Re:れんだいこのカンテラ時評197 | れんだいこ | 2006/08/06 | |
【国家の戦没者祀りと党派の党員祀りの相関考】 今日は、広島原爆投下の日である。れんだいこの「第二次世界大戦の研究(大東亜戦争を問う)」( daitoasenso/daitoasensootou.htm)の「45年終戦への動き」( toshi/nihonkiyosanto_nokenkiyu_toshi_3.htm)の該当箇所は次のように記している。
続いて、8.9日午前11時1分、長崎に原子爆弾が投下された。原子爆弾の威力は凄まじく民族抹殺の危機を募らせた。こうして大日本帝国は「進むも地獄、引くも地獄」の体制危機に陥った。 あれから61年、世情は様変わりした。鬼畜米英と闘った我が日本は、敗戦後「不戦不戦、諸国協調」の誓いで再出発することで世界に許容された。その日本が今や、かっての鬼畜米英の配下軍として自衛隊を献上し、これこそ我が日本の生きる道と囃し立てる首相を5年有余据え、中韓北朝鮮には凛々しいが米英ユ同盟には芸子パフォーマンスで取り入るしか能のない嬌態政治を続けている。 その小泉首相が、「これは心の問題だ。我が日本国憲法は信教の自由と心の自由を保障している」と、日頃の憲法改正論はどこへやら、この時ばかりは憲法を盾にとって8.15靖国参拝強行を狙い、取り巻きが囃したてている。この首相は、つい先だってはユダヤ帽被って「嘆きの壁」の前で祈念してきたつわものだ。その心が「嘆きの壁」にあるのか、靖国にあるのか。れんだいこには明瞭だが、世間はそういう問いはしないようだ。 それはともかく、左派運動側よりするかっての対戦に於ける戦没者及びその遺族に対する位置づけが幼稚染みており、がまんならないので一言しておく。想起すれば、左派運動は戦後一貫して、大東亜戦争を「ファシズム対自由民主主義」陣営間の闘いであったなどとネオ・シオニズム教本通りに嘯き、戦没者及びその遺族に対して、無益な殺傷に加担した逆非国民とばかりに悪口三昧するのを得手としてきた。その究極がA級戦犯であり、末代にわたって祟られるのが望ましいという訳か。そういう理論が罷り通っている。 れんだいこが思うのに、全ての間違いは、かの戦争を、ネオ・シオニズム教本通りに「ファシズム対自由民主主義」陣営間の闘いであったなどと見立てるのが間違いなのではなかろうか。確かに日本帝国主義の侵略戦争であった。これは、左派運動がその観点を失わない限りかく見立てねばならない観点である。しかし、事はそう単純ではない。目下、パレスチナでレジスタンスしているように、鬼畜米英に対する聖戦の面もあったのではなかろうか。 我らが祖父は、望むと望まざると拘わらず赤紙で召集され、その多くが戦地で散った。それは丸ごと国策であったのであり、よって国策の犠牲者として位置づけられるべきだろう。戦闘上、抑圧加害者として振舞ってきたのも史実である。この方面の言及はここでは避けるが、国策の犠牲者ならば、国家が弔うのは当り前であろう。遺族に対する生活保障も国家の義務であろう。戦後日本の政権与党を形成した政府自民党は概ねこれをよく為してきた。しかし、それは、戦後立国のテーゼである「不戦平和の誓い」から為されるべきであろう。 おかしなことに、専守防衛区域を越した地域に戦後初の自衛隊武装派兵を成し遂げ、莫大な国費を無駄にしてきた小泉首相が、英霊と何を語るのか定かでないが、8.15日に靖国参拝すると言い張ってきかない。れんだいこが意見しておく。お前には資格がない、お前はユダヤ帽被ってどこぞで芸子活動しておれば、その方が似合いだ。俺が英霊なら、お前には来て貰いたくないワイ。 おかしなことに、日本左派運動は、戦没者及びその遺族を日陰者にしてきた。それは、先の大戦の理論的総括が幼稚染みていることに起因しているように思われる。それはともかくもだ、分かりやすく云おう。国家にせよ、党派にせよ、国家の為に党派の為に殉じた者を手厚く祀るのは、国家にせよ党派にせよそれが礼儀というものだろう。手前がそれをしていなくて、党員を手足の如く使っては使い捨てしているからといって、それを自慢したり、その作法を押し付けたりすることが良いのではない。恥ずかしいと思うべきなのだ。 戦後日本政府が、戦没者及びその遺族をそれなりにもてなしてきたのは良いことなのであり、それを再度戦争に利用しようとしてするのではない限り、それが出来ていない党派は批判する前に恥じるべきである。思えば、戦後左派運動は、戦前も然りだが膨大な犠牲を生んできている。今日の党中央は、その犠牲に対して深く頭を垂れたことが一度でもあるのか。何度も云うが、それをしないのが自慢ではない。 れんだいこ結論は次のようになる。政府要職の者は、靖国行くなら春秋例祭に小泉が「嘆きの壁」で見せたように礼装で行け。そして、小泉が「嘆きの壁」で見せたように神妙に祈念せよ。党派は、自前の党員祀り殿を設け、党創立記念日には犠牲者を追悼せよ。元一日に思いを凝らせ。物事はこれが出来てからの話しだ。このケジメが出来ぬ者がしたり顔で人に説教するな。 こういうことを云ってみたかったんだ。恐らくお盆が近いんだ。 2006.8.6日 れんだいこ拝 |
(私論.私見)