ロシアとウクライナの戦争考

 更新日/2021(平成31..5.1栄和元年/栄和3).11.18日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「ロシアとウクライナの戦争考」をものしておく。「★阿修羅♪ > 戦争b24 > 」「HIMAZIN 日時 2023 年 8 月 07 日 」「ウクライナ戦争の本当の歴史(耕助のブログ)」その他参照。

 2003.2.14日 れんだいこ拝


 只今情報貼り付け段階です。いずれれんだいこ流に纏めるつもりです。貼り付けられたサイトの皆様には今しばらくご協力申し上げます。ご自由にご意見聞かせてください。

 松井 良郎
 日本のマスコミは相変わらずロシアの責任論ばかりの偏向報道で日本人を洗脳している。
 ウクライナ戦争はプーチンが起こしたように見えて、実は西側が起こした戦争であり、ウクライナの無辜の民の犠牲が続いているのは、西側が戦争をやめさせないからである…。こう言うと、お前はプーチン派だとして、すっかりウクライナ万歳になった日本ではまるで非国民扱いされるのですが、国際社会はそんな勧善懲悪の単純なものではありません。 それでは情弱。甘い!!歴史や事実や国際社会を見る眼を持った人なら、概ね冒頭の認識で一致しています。この面でも、今やネオコンのプロパガンダ機関と化したテレビを信じる日本人には、目を覚ましてほしいものです。今回は、山下英次先生とのウクライナ対談(中)です。戦争の遠因、中因、近因のうち、中因を中心に語っていただきました。そもそもロシアは信頼できる国ではないのであり、大事なことは、そのようなロシアにあのような侵攻という行動をさせたのは何だったのかを見極めること。簡単にいえば、西側の失敗であり、そもそも不要だったイラク戦争を起こした米ネオコンが意図的に招いた事態とみるべき。あの2014年のマイダン革命も、間違いなく、ネオコンである今のヌーランド国務次官が引き起こしていた。かつて識者たちは警告していた。第一次大戦後、ケインズはドイツにあんなに賠償責任負わせるなと。結局、過重な賠償が次の大戦の遠因に。ケナンは、NATOは東方拡大するなと言っていた。結局、自国の安全保障が脅かされたプーチンは、今回、戦争へと追い詰められた。

【ウクライナ】
面積 60万3,700平方キロメートル(日本の約1.6倍)
人口 4,159万人(クリミアを除く)(2021年:ウクライナ国家統計局)
首都 キーウ
民族 ウクライナ人(77.8%)、ロシア人(17.3%)、ベラルーシ人(0.6%)、モルドバ人、クリミア・タタール人、ユダヤ人等(2001年国勢調査)
言語 ウクライナ語(国家語)、その他ロシア語等
宗教 ウクライナ正教及び東方カトリック教。その他、ローマ・カトリック教、イスラム教、ユダヤ教等。

【ウクライナ問題考】
◆『ウクライナ戦争の遠因、中因、近因 ー国難に直面する日本への教訓 (2)』ゲスト:大阪市立大学名誉教授・経済学博士 山下英次氏
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 あくまでも、ウクライナ戦争からわが国はどのような教訓を導き出すべきかに焦点当てるべし。
もとより、ロシアを庇うつもりは全くない。ロシアは、江戸期から、わが国にとって最大の仮想敵国。ロシアは、ソ連時代に、日ソ中立条約(1941年4月)を反故にして1945年8月9日に、対日参戦を宣言し、戦闘は、同年9月6日まで続いた。;総勢147万人の兵力で、満洲、樺太、千島列島などに侵攻。日本の居留民への残虐行為、計57.5万人におよんだシベリア抑留、中国残留日本人孤児など極めて深刻な問題を惹起。領土面では、北方領土を不法に占拠し、今日に至る。

 1945-08-16付け、ソ連赤軍参謀総長がモロトフ外相に宛てた文書(地図付き)が最近発見された。南樺太、千島列島、対馬に加え、北海道全体をも占領すべし。実際には、スターリンは、北海道の北半分の占領を求めたが、米トルーマン大統領はこれを拒否。このように、ロシアは信頼できる国とは到底言い難い。しかし、そうした行動をとりかねない国に対する対応として、東西冷戦終了後の米欧の対ロシア外交政策は、適切さを欠いていたのではないか?
 西側のマスコミは、この事実と経緯を何故か全く報道しない。これはロシアの主張ではなく、国連を含む第三者機関の正式な報告書である。この事実を取っても、ウクライナがそもそも西側(EU/米国)とロシアにとって政治的駆け引きの焦点であり西側のマスコミの報道は、西側に偏向した報道である事を認識しなければならない。また、そもそもウクライナはソ連崩壊後の独立当初から民族的文化的に2つに分断されていた。ウクライナ南東部やクリミアはロシア系住民が多く工業が主産業といえる。それに対して、中西部はウクライナ人が大多数で農業が主な産業だ。ウクライナ国内のこの分断は、政治的にも住民の帰属意識にも顕著にあらわれており、2004年のオレンジ革命以降この二つの地域の分断は益々顕著になっていた。

【ウクライナの歴史寸評】
 キーウ・ルーシの成立。
 1240年、モンゴル軍キーウ攻略。
 1340年、ポーランドの東ハリチナ地方占領。
 1362年、リトアニアのキーウ占領。
 14世紀から16世紀にかけ、今日のウクライナ南部の黒海沿岸にかけてポーランド、リトアニアからの逃亡農奴を中心としたウクライナ・コサック集団 が形成された。彼らは漁労を営み、オスマン帝国やクリミア・ハン国の港町で略奪行為を行った。17世紀にはキエフを再建、本拠地を移し正教を保護 した。強大化したコサック集団に対し、ポーランド政 府は統制下に置こうとし衝突が頻発した。
 1648年、ボフダン・フメリニツキーに率いられたウクライナ・ コサックが蜂起し全面戦争に発展した(ポーランドからの独立戦争)。
 1654年、フメリニツキーは劣勢を挽回するため、 ロシア皇帝に対しポーランドからの保護を求め、その代わりに皇帝の宗主権を認めた(ペラヤスラフ協定)。これを受け入れたロシアはポーランドと戦い、アンドルソフ講和によりドニプロ右岸はポーラ ンド領、左岸及びキエフはロシア領となった。当初 ロシアはウクライナの自治を認めたが次第に統制 を強めた。
 1709年、ポルタヴァの戦い(ロシアからの独立戦争)。
 1764年、ロシアによるウクライナ自治の廃止。
 領土拡大をめざしたロシア帝国は18世紀半ば、東に向かってはシベリアからさらにベーリング海峡を越えて北米大陸のアラスカを領有、「ロシア・アメリカ会社」を設けて管理し(のちに米国に売却)、南に向かってはラッコなどの毛皮を求めて千島列島を南下し、外国からの門戸開放の使節としては他国に先駆けて日本にやってきた(18世紀末)。
 18世紀後半、エカテリーナ二世によって完全にロシアの一部とされ、ウクライナ・コサック社会は消滅した。ロシアは、15世紀より続いていたクリミア・タタール人を中心とするイスラム国家クリミア・ハン国を1783年に廃し、クリミア半島を併合。その後、同地は1853年からクリミア戦争の主戦場となった。
 1772年、ポーランド分割によってロシア はドニプロ右岸を取得、ガリツィア地方(今日のウ クライナ西部およびポーランド南東部)はハプスブルグ帝国領土となった。多くのウクライナ知識人が、ロシア帝国による文化的抑圧(ウクライナ語禁止令等)から同地に逃れ、ガリツィアはウクライナ民族運動の中心となった。
 1853年、クリミア戦争。
 1871年のドイツ統一の首謀者であり、初代首相のオットー・フォン・ビスマルクは次のように述べている。
 ロシアの力は、ウクライナの分離によってのみ弱体化することができる。ウクライナをロシアから切り離すだけでなく、両国を対立に追い込み、一方の国民の2つの部分を互いに敵対させ、兄弟が互いに殺し合う様子を見守る必要がある。
 19世紀末、ロシア帝国は清国と交渉して満州に進出、満州を横断するシベリア鉄道を敷設し、さらにハルビンから大連まで南満州鉄道を引き、鴨緑江をこえて朝鮮半島にも触手を伸ばし、それが引き金となって日露開戦となった。
 1914年、第一次世界大戦。
 第一次世界大戦とそれに続くポーランドとの戦争の結果、ガリツィアはポ ーランドの領土となった。

1917年
 2月、2月革命。
 2月革命後、ロシア帝国の崩壊でウクライナ人民共和国(中央ラーダ政権)が成立。それ以前は「ウクライナ」という国は存在していなかった。なお当時のウクライナ共和国は現在の西部地域が含まれていない。西部はポーランド・リトアニア共和国、その後オーストリア帝国に支配され、第一次世界大戦後はポーランド共和国の領土。1939年にソ連に併合された。現在のウクライナ共和国はひとつの国でありながら、地域によって全く異なる歴史や文化を持っている。
 ロシアの臨時政府と自治拡大を巡って対立した。
 10月革命。中央ラーダは「ウクライナ人民共和国」の建国を宣言した。
 1917-1921年、ウクライナ・ソビエト戦争。ロシア・ソビエト政権はこれを認めず赤軍を派遣し、以後4年間にわたるウクライナ・ソビエト戦争に突入、 キエフを放逐されたラーダ政府はドイツと結び抵抗する。
 クリミアにおいても、クリミア・タタール人を中心とする世俗国家「クリミア人民共和国」の建国が宣言された。

1918年
 クリミア人民共和国がロシア・ソビエト政府により占領され滅亡した。

1919年
 ロシア・ソビエト政府の支援の下、第3回全ウクライナ・ソビエト大会でウクライナ社会主義共和国が成立した。
 J. M. ケインズが、第1次世界大戦の敗戦国ドイツに対して過大な賠償を要求をすべきではないとする警告。

1921年
 リガ平和条約により、ウクライナ人民共和国の領土はポーランドとソ連に分割・解体された。

1922年
 ロシア帝国が崩壊し、ソビエト社会主義共和国連邦成立。
 12月、ウクライナ社会主義共和国がソ連邦の構成共和国となった。

1929年
 ソ連邦下で農業集団化が始まった。

1932年
 ソ連下のウクライナで大飢饉、数百万人の餓死者が出た(ホロドモール)。今日、ウクライナ、米国、カナダをはじめ複数の国でソ連政権による大虐殺と認定されている。

1936年
 旧ソ連を構成する15の共和国の枠組みは、ウクライナと同様、ソ連時代に作り出された。例えば、ウズベキスタン、カザフスタン、キルギス、タジキスタン、トルクメニスタンの中央アジアの5カ国の国境線は、1924年前後に大論争の末に引かれ、19366年に確定した。それ以前には、カザフ人、キルギス人といった概念は一般的ではなかった。人々のアイデンティティの拠りどころとなっていたのは言語や宗教など、さまざまな要素で、それらは複雑に重なり合っているため国民国家のような明確な区分けはなかった。

1939年
 9月、J. M. ケインズの警告20年後に、ドイツがポーランド侵攻。第2次世界大戦の開始。
 ソ連が、第二次大戦の勃発を機にポーランドをヒトラーと折半して併合、バルト三国を飲み込むのと合わせてフィンランドの一部を割き取った。
 第二次世界大戦では独軍がウクライナの大半を占領、右を契機としてドニプロ川西岸では一時期独立の動きもあったが、結局ソ連軍が再度ウクライナを奪回し独立はならなかった。

1941年
 独ソ戦開始、独によるウクライナ占領。

1944年
 ソ連政権によりクリミア・タタール人が独軍に協力したとの嫌疑をかけられ、民族全体がクリミア半島からウズベク・ソビエト社会主義共和国に追放され、その過程で民族全体の約半数が死亡した。

1945年
 ソ連邦の構成共和国でありながら国連に原加盟国として参加。
 第二次大戦後、ソ連が、日本からは北方領土を取り、東ドイツはじめ東欧諸国を衛星国化した。
 ガリ ツィア地方、ベッサラビア地方、北ブコビナ地方が新たにウクライナ(ソ連)の領土に編入された。

1948年
 G. ケナンが、米国務省の政策企画部長として来日。GHQの占領行政を厳しく批判した。共産主義者の乗っ取りに任せるために、日本社会の弱体化を画策=そんな不思議な目的のためとしか思えない。東京裁判は法的基盤が欠如⇒復讐にすぎない。

1954年
 フルシチョフ時代、ロシア・ウクライナ併合300 周年を記念し、法的手続きを経てクリミア半島がロシアからウクライナに帰属替えされた(ソ連がクリミアをウクライナに編入)。
 ソ連時代、ウクライナはロシアに次ぐ第二の共和国として経済的・人材的にソ連邦を支えた。歴代共産党書記長の中でも、ブレジネフはドニプロジェルジンスク(現ドニエプロペトロウスク州)生まれ。フルシチョフ、チェルネンコはウクライナでキャリアを重ねた。

1962年
 ソ連がキューバにミサイル基地を建造する動きが発覚。米国はソ連との核戦争をも辞さない対応を示した。一国の安全保障体制を確立する際に他国の安全保障を脅かしてはならない。これが国際社会で確立されている「安全保障の不可分性の原理」である。

1979年
 ソ連が、アフガニスタンに出現した親ソ政権からの要請を名分として、10年にわたり同国に進攻した。

1986年
 4.26日、ソ連下のウクライナでチェルノブイリ原発事故が発生。ウクライナ共和国内にも大きな被害を与えた。

1989年
 クリミア・タタール人のクリミアへの帰還が認められた。

1990年
 1.31日、ハンス・ディートリッヒ=ゲンシャー独外相は、ソ連のミハイル・ゴルバチョフ大統領に対し、ドイツ統一とソ連ワルシャワ条約機構軍事同盟の解体という文脈においてNATOは「東方への領土拡大、すなわちソ連国境への接近」を排除すると約束した。
 2月、東西ドイツを統一するにあたり、ソ連の合意を取り付ける必要があり、東西ドイツ統一に関する米ソ協議が開かれ、ソ連のゴルバチョフ大統領は、東西ドイツ統一に際してNATOの東方拡大に警戒感を示した。これに対して米国のベーカー国務長官が東西ドイツが統一してもNATOは1インチも東方拡大しないことを確約した。この約束は口約束であって文書には残っていない。約束には違いないというのがロシア側の見解である。

 冷戦終焉に伴い、東側の軍事同盟であるワルシャワ条約機構は解体された。NATOも当然解体されるとの前提に基づく行動だった。しかし、NATOは解体されなかった。解体されないどころか東方拡大に向かった。約束にもかかわらず、NATOは公然と非常に速いスピードで拡大していった。ソ連との約束を一方的に反故にしたのは米国である。口約束では安心できないとして、ウクライナを加盟させないという確約を文書でよこせ、ということになる。ロシアとNATOを隔てる最後の緩衝地帯がバッファーゾーンがベラルーシとウクライナとなった。
 2.9日、ベーカー米国務長官がゴルバチョフ・ソ連大統領と「NATO拡大は容認できない」と合意した。
 6.29日~7.2日、マンフレッド・ヴォルナーNATO事務総長は、ロシア高官代表団に「NATO理事会と彼(ヴォルナー)はNATOの拡大に反対している」と伝える。
 7.1日、ウクライナ議会は、「ウクライナソビエト社会主義共和国は、軍事ブロックに参加しない永世中立国となる意思を厳粛に宣言し、非核三原則(核兵器の受け入れ、製造、購入)を堅持する」という国家主権宣言を採択した。
 7.16日、ペレストロイカの機運の中、共和国主権宣言。

1991年
 8月、モスクワにおけるクー デター失敗。その後の8.24日に独立を宣言し国名を「ウクライナ」に変更した。
 8.24日、ソ連が崩壊しソビエト連邦を構成していたウクライナが中立の誓約を含む1990年の国家主権宣言に基づいて独立を宣言した。ベルリンの壁が崩壊し、ソ連邦が崩壊し、ウクライナが独立した。
 当初は親ロ政権が樹立された。米国は対ロシア戦略上、早期からウクライナに強い関心を寄せ、ウクライナ民族主義者=ネオナチ勢力を対ロシア戦術上、温存した。
 CIS創設。ウクライナはソ連邦崩壊とCIS設立に際して重要な役割を演じたが、CIS憲章に署名しておらず、当初からCISの正規加盟国ではない。ウクライナはCISが超国家的機構となること には反対するとの観点から CIS加盟国からなる軍事同盟や経済・関税同盟に参加しておらず、各加盟国との間では二国間ベースでの経済・軍事協力を行っている。また、CIS 共同防空システム設置、CIS 経 済裁判所への財政支出等、CIS内の統合を強める動きには加わらない方針を示している。
 12.1日、独立に関する国民投票を行い、90%以上の圧倒的多数が独立を支持し、同時にクラウチューク最高会議議長が初代大統領として選出された。
 12.3日、ロシア共和国が独立を承認するに至って同国の独立(ソ連邦からの離脱)が決定的になり、更に、旧ソ連諸国からなる独立国家共同体(CIS)の誕生、ソ連邦解体に伴い、12 月末にウクライナは名実ともに独立国となった。

1992年
 2月、バイデン、ヌランド、サリバンのトリオが対ロシア戦争を始めたと言えるが、ネオコン(シオニスト)はソ連が消滅した直後、国防総省のDPG(国防計画指針)草案という形で世界制覇プランを作成している。いわゆる「ウォルフォウィッツ・ドクトリン」。このプランに基づき、アメリカが日本を彼らの戦争マシーンに組み込んだのは19955年。
 ウクライナ独立の当初は親ロ政権が樹立された。米国は対ロシア戦略上、早期からウクライナに強い関心を寄せ、ウクライナ民族主義者=ネオナチ勢力を対ロシア戦術上、温存した。
 半ば。ブッシュ政権の政策立案者たちはソ連とロシア連邦に対して最近行った公約に反して、NATOを拡大するという極秘の内部コンセンサスに達する。

1994年
 独立後のウクライナは、連邦分業体制の崩壊による原材料供給不足、エネルギー価格の国際価格化が あらゆる分野の生産を直撃し、生産の低下、インフレの急進、対外債務の累積をもたらした。
 6月、大統領選挙で、元首相であったクチマ候補がロシアとの経済面での統合強化を訴え、独立の強化を訴えたクラウチューク大統領を決選投票の結果僅差で破って第2代大統領となった。クチマ大統領は経済改革を第一の課題に掲げ、議会の共産・社会主義勢力を経済改革の障害として批判した。また、新憲法の草案審議が開始された。
 冷戦後のこの年、「平和のためのパートナーシップ」で加盟希望国との調整が制度化された。

1996年
 6.28日、新憲法が最高会議において採択され、同日付で施行された。
 9.2日、それまでの暫定通貨カルボーバネツに代わり、新通貨フ リヴニャ(hryvnia)が導入された。

1997年
 2月、ジョージ・ケナンのNATOは東方拡大すべきではないとする警告。
 7.8日、マドリードのNATOサミットで門戸開放原則が打ち出され、ポーランド、ハンガリー、チェコがNATO加盟交渉開始の招待を受ける。現加盟国が賛成するならどの国でも望めば加盟させるという門戸開放の方針は、軍事同盟としては破格の大雑把なものであり、NATOの「向かうところ敵なし」という時代の精神を反映している 
 9月〜10月。フォーリン・アフェアーズ(1997年9月/10月号)で、ズビグニュー・ブレジンスキー元米国国家安全保障顧問が、ウクライナの交渉開始を2005~2010年とするNATO拡大のスケジュールを詳述する。

1999年
 3月、アメリカはNATOを利用してユーゴスラビアに対する侵略戦争を開始するが、これはロシア侵略の始まりでもあった。
 3.24-〜6.10日、NATOがセルビアを爆撃する。ロシアはNATOの爆撃を「国連憲章の明白な違反」とみなす。
 ポーランド、ハンガリー、チェコがNATOに加盟した。

2000年
 3月、ウクライナのクチマ大統領は、「この問題は非常に複雑で、多くの角度があるため、今日、ウクライナがNATOに加盟する可能性はない」と宣言。
 プーチンが大統領に就任した。以降たまたまエネルギーの価格が急上昇し、それによってロシアは10年間の困窮の時期を脱した。プーチンは、この経済の好転を味方につけながら、「強い国家」の下で社会を立て直していくという像を示した。10年間の苦しい時期を経たロシア人からすると、「強い国家」が秩序を回復してくれるという像はかなり説得力を持った。プーチンが陣頭に立った第二次チェチェン紛争に関しても、チェチェン側の猛反撃で泥沼化した第一次紛争で傷ついたプライドを取り戻す、という雰囲気があり、その強硬姿勢が国民に受けたと言える。西側との関係でも、ゴルバチョフが始めた冷戦終結は、ロシア人の感覚ではソ連が歩み寄って対等な関係で終結したものだったはずが、西側は自分たちの勝利として理解し、そこから認識のズレが始まっていた。すでに東西ドイツ統一の時点からロシアの少なからぬ部分で不満が渦巻き始めており、事実ゴルバチョフはそれが要因の一つとなって軍にクーデターを起こされた。西側の支援があまり必要なくなったプーチン時代にその傾向が加速し、西側に対峙する意味でも「強いロシア」路線が支持されていった。

2001年
 ジョージアがイスラエルの軍事支援を受け、武器/兵器を含む軍事物資を提供されるだけでなく、将兵の訓練も受けていた。後にアメリカの傭兵会社も教官を派遣している。事実上、イスラエル軍とアメリカ軍がロシア軍に負けた。
 9.11日、ニューヨークの世界貿易センターとバージニア州アーリントンの国防総省本部庁舎(ペンタゴン)が攻撃され、それを口実にしてウォルフォウィッツ・ドクトリンが始動する。

2002年
 6.13日、米国が対弾道弾兵器禁止条約から一方的に脱退する。ロシア下院国防委員会副委員長は、この行動を「歴史的規模の極めて否定的な出来事」と位置づける。

2004年
 東欧7カ国がNATO加盟を果たした。この時点で、バルト3国という旧ソ連諸国がNATO入りし、また黒海の西側と南側をNATO諸国が覆うこととなった。黒海に面していてNATOに加盟していないのはウクライナ、グルジア(ジョージア)、ロシアだけである。
 10月から12月にかけ、独立宣言以来第4回目となる大統領選挙が実施された。最高会議多数が支持するヤヌコヴィチ首相と世論調査で支持率第一位のユーシチェンコ・ 野党「我々のウクライナ」代表を中心に選挙戦が繰り広げられた。クチマ政権側は行政資源とマスコミの利用によって 首相に強く肩入れし、ロシアも露骨に選挙干渉した。ユー シチェンコ側はこれに反発、政治情勢は緊迫した。
 10.31日の第一回投票で、ユーシチェンコ代表の得票がヤヌコーヴィチ首相の得票を僅差で上回りつつも 過半数には至らず、11.21日の決選投票になり、決選投票の結果、中央選管発表で、親ロのヤヌコビッチが勝利した。
 直後、票数が操作されたとする不正選挙とのクレームが提示され、不正選挙に抗議する大規模集会・デモが首都キエフで盛りあがった。抗議する 数十万の国民が集まる等、情勢が流動化した。全国にわたる混乱の中、両者の闘争は法廷及び最高会議に持ち 込まれ、その結果最高裁判所は決選投票の無効化・決 選投票のやり直しを決定、最高会議はヤヌコーヴィチ内 閣不信任案を可決した。結局、選挙がやり直されることになった。この過程でポーランド、EU、ロシアをはじめとする国際的仲裁の試みが続けられた。
 12.8日、政権側が提 案する憲法改正案(大統領の閣僚任免権等を最高会議に移行させる)と、野党側が主張する選挙法改正案等が最高会議でパッケージ採択されることで妥結が図られた。
 12.26日、出直し決戦投票が行われ、親米のユーシチェンコ「我々のウクライナ」代表(元首相)が約8%の差でヤヌコーヴィチ首相を破って当選し第3代大統領 となった。翌2005年1.23日の大統領就任式をもってユーシチェンコ新政権が発足した。この一連の出来事は「オレンジ革命」と命名され、世界の注目を浴びた。
 11-12月、ウクライナで親ロ政権転覆が起こる。米国が深く関与していた。西側諸国はこれを民主化革命とみなし、ロシア政府はこれを、西側諸国が画策し米国の表立った、あるいは秘密裏の支援によって作り上げた権力奪取とみなした。
 2000年にプーチン政権が成立した後、2004年から05年にかけ、ウクライナは大統領選で激しく揺れる。親ロシア派のヤヌコービッチと欧米寄りのユーシェンコが争った。いったんはヤヌコービッチが勝利したが、選挙に大規模な不正があったとして、数十万の市民が抗議デモをくり返した。この選挙戦にはプーチンも自らウクライナに乗り込んでヤヌコービッチを支援したが、最高裁の指示で投票のやり直しをした結果、ユーシェンコが新しい大統領となった。「オレンジ革命」と呼ばれる。

2005年
 2月、オレンジ革命で活躍したティモシェンコ議員を首相とする内閣が発足し、行政改革や汚職対策に着手した。ところが、閣僚間の不和等で行政が混乱し、ユ ーシチェンコ大統領とティモシェンコ首相の対立も表面化した。

2006年
 1月、オレンジ革命の際に採択された改正憲法案(「2004年憲法」)が発効し、首相・閣僚の任免権が大統領から最高会議に移った。
 3月、最高会議選挙が実施され、ヤヌコーヴィチ元首相を党首とする地域党が30%以上の得票を得て、ブロック「ユーリャ・ ティモシェンコ」(BYT)や「我々のウクライナ」を押さえて第一党に台頭した。2004年憲法の定める「与党連合」(定数の過半数以上の議員で結成され、大統領に首相候補を提案する)の結成交渉は難航し、ユーシチェンコ大統領はヤヌコーヴィチ地域党党首を首相候補とすることに難色を示した。
 3月、シュレーダー前・独首相(在任:1998年10月~2005年11月)の露ガスプロム役員への就任が発表された。
 8月、政治勢力間の政策合意が成立し、第2次ヤヌコーヴィチ内閣(第1次はクチマ大統領期)が発足した。
 他方、ヤヌコーヴィチ首相はそれまでの「外交は大統領、経済は首相」という仕切りを越えて大統領権限に挑戦するようになり、与党連合はまもなく決裂して「我々のウクライナ」は野党に転じた。

2007年
 2.10日、プーチンが、ミュンヘン安全保障会議での演説で、NATOの拡大を背景に一極世界を作ろうとする米国を強く批判し次のように衝撃的なスピーチをした。
米国は、世界全体の一極支配を目指そうとしている。NATOの東方拡大(←2004年の大幅拡大)は、相互信頼のレベルを低下させる深刻な挑発行為であることは明らかだ。この拡大は誰に対するものなのか?そして、ワルシャワ条約解体後に西側諸国が表明した保証はどうなったのか?
 プーチンはNATO、EU、G7(当時はG8の一員であった)と協力してはいるものの、我々は世間知らずだとか無知で何も理解していないなどと誤解されてはならないと警告した。我々が対等であるならば、対等に協力しようではないか。[...] 最後の瞬間まで、我々は彼らに事態が白熱した紛争にエスカレートしないようにチャンスを与えた。
 3月、ユーシチェンコ大統領は「我々のウクライナ」やBYTの複数の議員による与党連合への合流を憲法違反であるとし、最高会議の解散を要求した。
 9月、期限前選挙が実施され、地域党が第一党の座を維持したが、BYTと「我々のウクライナ・国民自衛」が過半数をわずかに超える 「オレンジ与党連合」を結成し、第2次ティモシェンコ内閣が発足した。他方、一部議員の離脱を受けて「オレンジ与党連合」が崩壊する等、不安定な政治状況が続いた。

2008年
 2.1日、駐露アメリカ大使のウィリアム・バーンズ(現CIA長官)の本国コンドリーザ・ライス米国家安全保障顧問あて極秘電報。
「1990年代半ばのNATO拡大の第1ラウンドに対するロシアの反発は強かったが、いまやロシアは、自国の国益に反するとみなす行動に対してより強力に反発する自信を身に着けている」。
(←エネルギー価格の高騰により、1999年以降、ロシア経済が急回復したという背景あり)
「ウクライナとグルジアのNATO加盟希望はロシアの神経を逆なでするだけではなく、この地域の安定に深刻な影響を及ぼす懸念がある」。

 米国務省の生え抜きエリートの警告、likeジョージ・ケナン
 国務省の要職を歴任し、国務副長官(2011年~2014年)も経験。
 2.18日、米国が、ロシアの反対を押し切りコソボ独立を承認。ロシア政府はコソボ独立は「セルビア共和国の主権、国際連合憲章、国連安保理決議1244号、ヘルシンキ最終法の原則、コソボ憲法枠組み、ハイレベル・コンタクト・グループ合意」に違反すると宣言。
 4.3日NATOが、NATOのブカレスト・サミットで「ブカレスト宣言」。ウクライナとジョージアが、将来、NATOに加盟することを確認(ブッシュ・ジュニア米大統領も出席)。「ブカレストの決定は最悪の中の最悪」by ユベール・ヴェドリーヌ元仏外相。ロシアは、「ジョージアとウクライナの同盟加盟は、汎欧州の安全保障にとって最も深刻な結果をもたらす大きな戦略的誤りである」と述べ、ロシアがこれ以上の拡大は認められないとの強い態度を示した。

 アメリカのジョージ・W・ブッシュ大統領は、このサミットでウクライナとグルジアを加盟候補国にしようと意図していたが、ロシアの反発に配慮するフランス、ドイツなどの反対で見送られ、共同宣言には将来加盟候補国になるという文言が盛り込まれるにとどまった。ウクライナおよびグルジアがNATO入りすることへのロシアの反対は非常に強硬なものであった。
 8月、ジョージア軍が南オセチアを奇襲攻撃、ロシア軍の反撃で惨敗しているが、この攻撃の黒幕はイスラエルとアメリカ。
 8.20日、米国がポーランドに弾道ミサイル防衛(BMD)システムを配備すると発表。後にルーマニアにも配備すると発表。ロシアはBMDシステムに強い反対を表明した。

2009年
 5月、ウクライナは、ジョージア、アゼルバイジャン、アルメニア、モルドバ、ベラ ルーシと共に、EU「東方パートナーシップ・イニシアティブ」の対象国となり、連合協定締結に向けた交渉を進めた。

2010年
 「オレンジ革命」後、政権内部に混乱がつづき、それに乗じてプーチンは天然ガスの価格を大幅に引き上げ、さらには停止をするなどして圧力をかけた。
 1月、2010年初頭に実施されたウクライナ大統領選挙で、オレンジ革命で政権を追われたヤヌコーヴィッチ地域党党首が決選投票でティモシェン コ首相を破り当選、返り咲いた。2004年~2005年のオレンジ革命が失敗したことを意味した。ヤヌコーヴィチが大統領に就任するとともに、地域党、共産党、ブロック「リトヴィン」等の議員から なる与党連合が結成され、アザーロフ内閣が発足した。
 2月、ヤヌコーヴィチ政権が、露黒海艦隊駐留の2042年までの延長及びガス価格の割引に関するパッケージ合意(所謂ハルキウ合意)に署名し、ユーシチェンコ政 権時代に悪化した二国間関係改善に努めた。但し、2000年代の度重なる「ガス紛争」後も継続するガス問題や 関税同盟との関係等を巡りロシアとの関係は複雑なままであった。その後、マイダン革命後の 2014 年に クリミアが「併合」されドンバス地方が武力により支配されて以降、対ロシア関係は急激に悪化している。
 8月、オバマ大統領が中東での軍事作戦をスタートさせる。ムスリム同胞団を使った体制転覆作戦を始動させるためにPSD-11を承認した。「アラブの春」が始まった。
 10月、憲法裁判所が、政権の意を受けて、2004年憲法を無効とする判断を行い、1996年憲法(大統領に首相・閣僚の任免権がある)を復活させて大統領権限を強化した。
 2010年後半から、前政権閣僚に対する刑事訴追が始まり、ティモシェンコ前首相がロシアとのガス契約の際の職権乱用の疑いで逮捕され、懲役刑が確定した。ルツェンコ元内相に対しても同様の有罪判決が下され、欧米諸国はこれらの裁判プロセスに対し相次いで懸念を表明した。

2011年
 2011年春、サラフィ主義者(ワッハーブ派、タクフィール主義者)やムスリム同胞団を中心とするアル・カイダ系武装集団を利用してリビアやシリアに対する侵略戦争を開始した。
 10月、リビアのムアンマル・アル・カダフィ体制が倒された。が、シリアのバシャール・アル・アサド政権は倒れなかった。そこで新たな武装集団としてダーイッシュ(IS、ISIS、ISIL、イスラム国とも表記)を2014年に登場させた。

2012年
 3月、ヤヌコーヴィチ政権下で、連合協定の仮署名が行われた。但し、ウクライナ国内による民主主義状況の悪化及び改革の遅れ等により、欧米との関係は停滞した。
 7月、地域党はロシア語等の地位向上につながるとされる「国家の言語政策の基本方針に関する」法律を強行採択し、国内外から批判の声が上がった。
 10月、最高議会選挙で、地域党、 統合野党「祖国(バチキフシチナ)」(ティモシェンコ党首の同名政党とヤツェニューク党首の「変化の前線」党の共同戦線)、共産党の他、「ウダール」党及び「スヴォボーダ」党の2野党が新たに議席を獲得した。地域党は、共産党及び無所属議員の協力を得て過半数を維持し、アザーロフ首相を再任した。

2013年
 2013年に入り、前年の最高会議選挙で当選した野党及び無所属議員の議員資格が裁判所の決定によって剥奪される事例が相次ぐ等、民主主義状況の悪化が顕著となった。
 ユーロ・マイダン革命。2013年当時、ヤヌコーヴィッチ大統領は、EUへの接近姿勢を見せ、EU連合協定の締結を目指していた。しかし、ヤヌコーヴィッチは、同年11/29に予定されていたEUとの連合協定の締結プロセスを凍結すると発表。ユーロ・マイダン広場でのデモが発生。
 EUとの連合協定凍結の背景に、同国の深刻な債務問題があった。2013年末の対外債務残高1,377億ドル(対GDP比=78.1%)経常収支赤字の対GDP比の推移は2011年6.28%、2012年8.15%、2013年9,20 %。実質的にディフォールト(支払い不能)の状態。ヤヌコビッチは困ってプーチンに泣きつく。
 11.20日、ビクトル・ヤヌコビッチ大統領派の議員だったオレグ・ツァロフが、議会でクーデター計画の存在を指摘している​​。その直後から、反ヤヌコビッチ派がユーロマイダン(ユーロ広場、元の独立広場)に集結し反政府集会を開始した。これを強制排除した警察特殊部隊が学生やジャーナリストに対し暴行したことが市民の更なる怒りを呼び、大統領・政府の退陣を求める数十万人規模のデモへと拡大した。
 11.21日、ヤヌコーヴィチ政権が、ビリニュスでの東方パートナーシップ首脳会合の直前、EUとの連合協定のへの署名を先送りし、交渉プロセスの停止を決定した。EUとの連携協定がウクライナ国民にとってプラスにならないと判断したため。
 調印延期はヤヌコヴィチ大統領への抗議運動に即つながった。この決定に合わせて巨大なデモが組織された。瞬く間に暴力化していった。新たにテレビ局が3局も開設された。あらかじめ用意周到に準備がなされ、政権転覆に向けての動きが始動した。アメリカのバラク・オバマ政権が、ウクライナのビクトル・ヤヌコビッチ政権を倒すため、国際奥の院の傭兵を手先に利用してクーデターを実行した。欧州統合支持者や政権の汚職に反対する市民による大規模反政府デモが発生。2014.2月まで続く(マイダン革命(尊厳の革命))。
 この間の経緯については、オリバー・ストーン製作総指揮の『ウクライナ・オン・ファイヤー』 が詳細に事実関係を明らかにしている。ウクライナ問題を理解する上で『ウクライナ・オン・ファイヤー』の視聴は必須。https://x.gd/9j1hT
 ヤヌコビッチの支持基盤だった東部と南部の人びとはクーデターを拒否、そこでアメリカを後ろ盾とするクーデター政権は東部や南部の制圧に乗り出した。オバマ政権でクーデターを指揮していたのは副大統領だったジョー・バイデン、国務次官補だったビクトリア・ヌランド、そして副大統領の国家安全保障担当補佐官を務めていたジェイク・サリバン。
 12.17日、「ロシア=ウクライナ間行動計画」の署名(プーチン&ヤヌコーヴィッチ)。ロシアが示した経済支援の内容は、①ウクライナが発行したユーロ債150億ドル相当の買い取り。②ロシアが提供する天然ガス価格の大幅な引き下げ。ウクライナは、EUにも支援を求めたはずであるが、EUとしては、加盟国ではない国に多額の支援はできない。迫りくる冬を乗り越えるためということもあり、ヤヌコーヴッチがプーチンに頼ったのはやむを得なかった。
  ユーロ・マイダン革命に関する2つの解釈
ウクライナの抗議デモ側による民主主義の勝利 岡崎吉彦(神戸学院大学)など
アメリカが企図したクーデターではないか? 塩原俊彦(元・高知大学)など

 ②は国務省、CIA、NED(全米民主主義基金)の米国のトリオ機関によるものとする。特に、当時の国務次官補(ヨーロッパ・ユーラシア担当)のヴィクトーリア・ヌーランドが深く関与(後に筆頭国務次官(政治担当、国務省のNo.3)で、ネオコンの論客ロバート・ケイガンの妻。
バイデン副大統領(当時)も、ウクライナに関して、米政府の先頭に立つ者(point man)として深く関与。オバマ大統領に逐一報告している。②の見方がより説得的に思える。①いついていえば、2004年のオレンジ革命のときには、何十万人もの一般市民がデモに参加したが、2014年のユーロ・マイダン革命のときには、一般市民は街頭に出ることを選ばず。デモ隊の中にはナショナリスティックで暴力的な過激派も多く含まれていた。2014年2/18~2/20の3日間で、合計100名以上が何者かによって狙撃され死亡したが、死者数の内訳は、デモ隊側と警察・警備隊側の双方からほぼ半々に出ている。デモ隊と治安部隊が衝突して死者が出る事態は、強権的な体制の国ではあるが、狙撃手によって死者が出るなどということは聞いたことがない。
 米国のNED(全米民主化基金)が巨額の資金を拠出。ジョージ・ソロスも巨額の資金を投下した。

 2014年
 2014年以降、民主党の米国(オバマ政権、バイデン政権)が政治的に介入したことで、武力行使が始まり紛争が激化し内戦が始動した。
 1.28日、ビクトリア・ヌーランド国務次官補とジェフリー・パイアット駐ウクライナ米国大使がウクライナの政権交代を画策する通話が傍受されヌーランド国務次官補の関与が露見した。2.7日にYouTubeに投稿された。その中でヌーランドは、「バイデン副大統領は取引成立に協力するつもりだ」と述べている。二人は、新政権に誰を入れるべきかを議論し、野党の有力政治家のヤツエニューク、UDARのビターリ・クリチコ、スヴォボーダのオレーフ・チャフニボークの3名候補のうち、ヌーランドはヤツエニュークを首相にし、クリチコとチャフニボークは政権に入れない方が良いと主張。約1か月後に成立した暫定政権は、その通りになった。
 2.17日頃、ウクライナ側からドンバスへの攻撃が始まり、18日、19日とエスカレートしている。その段階でドンバス周辺には親衛隊のほかアメリカやイギリスの特殊部隊、アメリカの傭兵も集結、攻撃態勢が整いつつあることは知られていた。アメリカ政府はロシア軍が偽旗作戦を目論んでいる、暗殺リストを配っているなどと宣伝していたが、自分たちの作戦をカモフラージュしているのだと少なからぬ人が推測していただろう。
 2.18日-20日、ソチ・オリンピックのさなか、首都キーウの都心にある独立広場(通称マイダン)で野党勢力が治安部隊と激突し、100名以上の死者を出す大規模衝突が発生した。
 2.19日、ウクライナの政治家のオレグ・ツァロフが緊急アピール​を出し、「大虐殺が準備されている」と警告した。彼によると、ボロディミル・ゼレンスキー大統領がごく近い将来、ドンバスで軍事作戦を開始するという情報をキエフから得たとしている。クロアチアで行われたように、この地域を制圧してからキエフ体制に従わない住民を「浄化」するというもの。作戦はすでに作成され、準備は整い、西側からの承認を得ているともしていた。この作戦と並行してSBU(ウクライナ保安庁)はネオ・ナチと共同で「親ロシア派」の粛清を実行することにもなっていたという。ターゲットには政治家だけでなく、ブロガー、ジャーナリスト、オピニオン・リーダーが含まれていたが、この情報は2.19日より前に伝わっていて、一部の政治家は国外へ脱出済みだとしている。
 2.20日、抗議運動の中心地であったキーウ(キエフ)の独立広場周辺で狙撃による虐殺事件が起き100名以上が犠牲となった。抗議運動側にいた勢力が味方を後ろから撃ったという自作自演説が根強い。野党勢力がキーウを制圧し、議会はヤヌコービッチを解任、暫定政権がつくられた。「マイダン革命」と呼ばれる。ヤヌコーヴィチ大統領のロシアへの亡命を受け、ヤツェニューク首相による新政権を発足させた。

 オデッサでは反マイダン派の人々が労働組合会館前で座り込みをしていたところ、マイダン派とサッカーファンに襲われて建物内に逃げ込んだ。マイダン派らは建物内に火炎瓶を投げ込み、火炎瓶は反マイダン派が持ち込んでいた灯油に引火して建物は火災に見舞われ40名以上が犠牲となった。消防隊が駆けつけるのが非常に遅く作為が疑われている。マリウポリでも、市民と国民親衛隊(内務省軍)および警察とが衝突して死者が出た。こうした暴力事件で特徴的なのは、革命派(マイダン派)が事件の様子を録画し、自らソーシャルメディアに盛んに公開していたことである。凄惨な動画を撮って公開した。ソーシャルメディアに暴力行為とその結果としての死体が数多く映し出されることになった。
 2.21日、ウクライナ、ポーランド、フランス、ドイツの政府は、ウクライナの政治危機の解決に関する合意に達し、年明けの新たな選挙を呼びかける。極右武装組織「右派セクター」などが親ロのヤヌコビッチの即時辞任を要求し、政府庁舎を占拠。ヤヌコビッチは逃亡。議会は弾劾手続きを経ずに即座に大統領の権限を剥奪する。ヤヌコビッチ政権が暴力革命によって転覆された。米国の工作による政権転覆だった。
 2.21日、ヤヌコーヴィチ大統領は野党指導者との間で2004年憲法の復活等を含む政治危機解決に向けた合意文書に署名したが、直後に行方不明となった。親ロのヤヌコーヴィッチがロシア亡命(後日判明)。
 バイデンは、この前日にも、ヤヌコーヴィッチに電話したことを回顧録で認めている。この2014年政権転覆を現地指揮したのがヴィクトリア・ヌーランド米国務次官補。本国の最高指揮官がバイデンだった。
 2.22日、ヤヌコビッチ大統領がEUとの連携協定署名を先送りしたことを契機に大規模デモが組織された。このデモが途上から暴力化し、大規模殺戮が実行され、ヤヌコビッチ政権が崩壊した。新政府が樹立されたが憲法の規定に基づいて樹立されたものではなかった。
 2.22日、米国は即座に政権交代を支持。この〈非合法政府〉を直ちに国家承認したのが米国。この新政府が東部ロシア系住民支配地域に対する大弾圧と武力攻撃を実行しウクライナ内戦が勃発。そのウクライナ内戦を収束するために〈ミンスク合意〉が制定される。
 このような事態を受け、最高会議における承認を経た上で、トゥルチーノフ祖国(バチキフシチナ)党副 党首を最高会議議長兼大統領代行、ヤツェニューク祖国党会派長を首相とする新政権が発足した(その後 ヤヌコーヴィチ大統領がロシアに逃亡したことが確認された)。
 3.2日ウクライナのクーデターにプーチンが激怒し、ロシアがクリミアを占領した。ロシアはクリミアに電撃的に侵攻し、掌握。プーチンの方が上手だった。アメリカは、軍事的にはこれに全く抵抗しなかった。オバマ大統領が、バイデンに対して曰く「ジョー、ウクライナに過大な期待は持たせないでくれ。我々はウクライナに第82空挺師団(米国陸軍の第18空挺軍団隷下の緊急対応部隊)を送るつもりはないのだから」(バイデン回顧録)。
 3.16日。ロシアはウクライナ南部のクリミア自治共和国で住民投票を実施し、ロシア政府によると、ロシアの支配を支持する票が多数を占める結果となる。クリミア自治共和国において、「共和国政府」による「住民投票」実施を受け、ロシアがクリミアを併合した。

 ウクライナ政府はこれをロシアの武力による違法占拠とし承認しない立場を発表。その後、東部でも情勢が不安定化し、武装勢力等が地方行政府各施設を占拠したことを受け、ウクライナ政府軍と武装勢力の戦闘が開始された。
ロシア指導部のグルジアとウクライナに対する執着が、旧ソ連のバルト諸国や黒海沿岸のルーマニア、ブルガリアなどに対するよりも比較にならないほどに強いことを示した。結果として、NATOの拡大が鈍化した。
 その後、東部でもロシアから武器・人員の支援 を受けた武装勢力等が行政府庁舎を占拠し情勢が不安定化し、ウクライナ政府は事態解決に向け「反テロ作戦」を開始した。
 3.18日、プーチン大統領は政権交代をクーデターと位置づけ次のように述べた。
「ウクライナでの最近の出来事の背後にいた人々は、別の意図を持っていた。彼らは権力を掌握しようとし、手段を選ばなかった。彼らはテロ、殺人、暴動に訴えた」。
 3.20日、財務省キャリア官僚OBの古手川大介氏が、キャノングローバル戦略研究所研究主幹の職位にあり、同研究所HP上にシリーズコラム『小手川大助通信』の記事として「ウクライナ問題について」と題する解説記事を公表した。ウクライナ政権転覆は米国が仕組んだものであり、暴力革命によってウクライナに非合法政府が樹立され、この新政府が東部ロシア系住民地域に大弾圧と武力攻撃を展開。その結果、ウクライナ内戦が誘導された裏舞台を解析した。
https://x.gd/DeAf9
 3.21日、ロシア下院はクリミアのロシア連邦加盟を決議。ロシア政府はコソボの住民投票との類似性を指摘した。米国はクリミアの住民投票を違法として拒否。
 3.25日、バラク・オバマ大統領、ロシアを嘲笑してこう述べた。
「ロシアは近隣諸国を脅かす地域大国だ、強さではなく、その弱さから」。
 中東でダーイッシュを出現させた2014年、オバマ政権がウクライナでヤヌコビッチ政権を倒し、ロシアと中国を接近させることになる。
 4.12日、オデッサ虐殺の二週間前、当時のCIA長官だったジョン・ブレナンが予告なしにキエフを極秘訪問長官ジョン・ブレナンはキーウを訪問していた。当時アメリカがキーウ政権と協力していると見られるのは良くないと一部アメリカ議員さえ不満を漏らしていた。ブレナンは、キーウ政権がドンバスに対して開始しようとしていた「対テロ作戦」(内戦)を進めるよう許可しただけではなかった。ウクライナ全土の反対派を鎮めるための焦土化テロ政策策定にアメリカも協力していたのではないかと思われる。
 4月、ウクライナの東部、ルハンスク州とドネツク州で親ロシア派の住民によるデモ隊が政府庁舎などを次々に占拠し、「住民投票」を強行してウクライナからの分離独立を表明、それぞれが人民共和国を宣言した。
 4.14日、クーデター政権が東部や南部の制圧作戦を承認。ウクライナ政府は黙認することできず、国軍による攻撃に踏み切った。この戦争が、以後8年間、断続的に続く。当時、ウクライナの全人口は4500万、うち東部2州は800万だった。軍事力では2州が国軍に対抗できるはずはない。にもかかわらず戦闘を継続できたのは、ロシアが支援を続けたからである。そしてまた西側諸国も、ウクライナ国軍に対して軍事的支援を行ってきた。これにより戦争は双方ともに引くに引けず長く続くことになった。
 4.22日、ジョー・バイデン米副大統領がキエフを訪れ、その直後から軍事力の行使へ急速に傾斜していった。バイデンのキエフ入りに合わせ、クーデター政権は会議を開いてオデッサ攻撃について話し合っている。5.2日の虐殺に至る。
 5.2日、ウクライナのクーデター政権はオデッサで反クーデター派の住民がネオ・ナチの集団に虐殺された。ネオ・ナチを操っていたのはアメリカのバラク・オバマ政権だ。その日の午前8時にオデッサへ到着した列車にはサッカー・ファンの一団が乗っていたのだが、その一団をネオ・ナチの「右派セクター」が挑発、ネオ・ナチ主導のクーデターを拒否していた住民の活動拠点だった広場へ誘導していく。ナチズムが浸透していたサッカー・ファンと反クーデターと反クーデター派住民とは対立関係にあった。その一方、広場に集まっていた住民に対し、ネオ・ナチのメンバーは右派セクターが襲撃してくるので労働組合会館へ避難するように説得、女性や子どもを中心に住民は建物の中へ逃げ込んだ。その建物の中で住民はネオ・ナチのグループに虐殺される。焼き殺された人もいたが、撲殺したり射殺した後、焼かれた人もいたようだ。その際、屋上へ逃げられないよう、ネオ・ナチはドアはロックしていた疑いがある。このとき50名近くの住民が殺されたと伝えられているが、これは地上階で確認された死体の数にすぎない。地下室で惨殺された人を加えると120名から130名になると現地では言われている。
 5.2日、歴史ある港町にある労働組合会館がファシスト暴徒に放火され、少なくとも男女42人が殺害された。NATOが支援するキーウ政権支持者によりオデッサで衝撃的で残忍な虐殺が行われた。

 この残虐行為から9周年を記念して、週刊論説は欧米の沈黙理由を次のように説明した。
 「労働組合ビル虐殺で合計42人が殺害された。攻撃者は一人も起訴されなかった。適切な調査の実施をキーウ政権は拒否した。しかし、あの日の恐怖は多くのウクライナ人とロシア人にとって転機となった。それは、ウクライナの実権を掌握した政権の恐ろしい本性とロシアに対する卑劣なファシスト的敵意を明らかにした。これはワシントンとNATO同盟諸国によって権力の座についた政権で、2014年以来、ロシアを侵略し、ロシアとの文化的な絆を全て破壊するための戦争機械として武装、構築されてきたのだ。オデッサでの虐殺は、あの日の犠牲者のために記憶されるべきだ。しかし、現在のアメリカ主導のウクライナとロシアとのNATO代理紛争がどのようにして起きたかという背景を説明するのにも役立つという理由でも記憶される。その理由から、欧米の報道機関と政府はオデッサの虐殺を慎重に無視すると決めたのだ。彼らの恥ずべき沈黙は、ウクライナの致命的な混乱における欧米諸国の犯罪的共謀を隠すために必要なのだ」。

オデッサ事件考
 欧米メディアはオデッサ事件の残虐行為について一切言及さえしない。欧米メディアは、この事件は混乱した乱闘で、不明な対立勢力間の衝突による悲劇的な結果だと主張して、この事件を歪曲しようとした。欧米メディアがこの残虐行為を「ロシアの偽情報」だと主張しようとする嘆かわしい試みさえあった。この恐ろしい出来事は、まるでオーウェルの「メモリー・ホール(記憶の穴)」の中に消えたかのように、隠蔽が沈黙に取って代わられた。加害者を裁く国際的独立調査をロシアは要求し続けている。徹底した捜査を行えば、この残虐行為が欧米諜報機関との共謀でキーウ政権指導部が実行したことが判明するという理由で、いかなる本格的捜査もキーウ政権は拒否し続けている。

 2014.5.2日にオデッサで起きたことは、制御不能になった混沌とした暴力による偶発的出来事ではなかった。あの虐殺はウクライナの反政府勢力を脅しNATO体制に従わせるために計画された意図的大量殺人行為だった。あれは国家テロだった。犠牲者は全員オデッサ出身で、市内中心部の歴史的的な建物の外で平和的抗議行動に参加していた。建物はメーデーの祝日のため閉まっていた。当時ウクライナの他のいくつかの南部や東部地域と同様、その年2月、数週間前にキーウで起きたNATO主導のクーデターに対し多くの抗議行動があった。キーウで起きたいわゆるユーロマイダン・クーデターが、ネオナチ連中や民兵組織を美化する超国家主義者やファシストを権力の座にもたらした。そのことに多くのウクライナ人は満足しておらず、実際愕然としていた。オデッサなどの都市は、大祖国戦争 (第二次世界大戦) 中にナチス占領下で、ひどい被害を受けていた。今や政権がロシアとの文化的絆を全て払拭しようとしているのを彼らは目の当たりにしていた。

 2014年の重要な数か月、オデッサやヘルソンやハリコフやドンバスなどの都市、そしてもちろんクリミア半島でも新政権に対する恐るべき反対勢力があったため、ウクライナを反ロシアの防波堤に変えるといCIA計画は難航した。5.2日の数日前、キーウ政権高官がオデッサにいたと、あの日の暴力行為を目撃した元オデッサ議員ワシリー・ポリシュチュクは証言している。そのうちの一人は国家安全保障長官に任命されたアンドリー・パルビイだった。選挙で選ばれた親ロシア派大統領ヴィクトル・ヤヌコビッチに対するクーデターを引き起こした事件である2.20日にキーウで起きた(偽旗挑発により数十人のデモ参加者と警察官が殺害された)狙撃兵による銃撃事件にもパルビイは関与していた。
 5.2日にオデッサで起きた大量殺人事件は見せしめの威嚇テロだった。数週間前首都で起きたクーデターに貢献した数千人のキーウ政権民兵がバスでオデッサに送られ、野営させられた経緯を目撃者は語った。この民兵隊列をアンドリー・パルビイが視察し、防弾チョッキ配給を監督しているのが目撃された。5.2日に反マイダンデモ参加者が襲撃された際、彼らは野球バットを振り回す暴漢たちに労働組合会館に押し込まれた。その後、建物は火炎瓶で攻撃された。燃え盛る建物から飛び降りた人々は「ロシア人全員に死を」と叫ぶネオナチ一味に撲殺された。あの日、平和的デモ参加者を守る警察の職務怠慢と、その後のあらゆる犯罪捜査のもみ消しは治安部隊が共謀していた証拠だ。おそらくキーウの連中が発した上級命令によってのみ可能だったはずだ。

 これは現在のウクライナ紛争と、なぜロシアが2022年2.24日に介入を決めたのかを理解する上で重要な背景だ。ウクライナはロシアを征服するための地政学的紛争としてアメリカとNATO同盟諸国が画策した代理戦争だとロシア政府は主張している。欧米政権とプロパガンダ・メディアはウクライナはロシア侵略下の民主主義国家だと喧伝している。どのようにしてCIAとNATOの技術をキーウ政権が導入し、どのようにしてファシスト暴力を急速に行使しウクライナをテロ国家に変えたのかの理解は、現在の紛争が欧米帝国主義の代理戦争だという分析を裏付ける。欧米主導の「民主主義」は、あらゆる野党やメディアを弾圧している。欧米諸国民がウクライナでの犯罪陰謀に関する真実を理解するのをアメリカやNATO共犯者諸国は望んでいない。戦争商売が非常に儲かるので、これら勢力は最後のウクライナ人まで流血が続くことを望んでいる。

 したがって、オデッサ虐殺のような事件を欧米諸国は記憶の穴に押し込み蓋をしておかなければならないのだ。そうでなければ欧米諸国とネオナチ政権の共謀による欧米諸国生得のファシズムが明らかになるので、民主主義が攻撃にさらされているという虚構を継続させるのが不可欠なのだ。世界中で起きている、いくつかの出来事や進展、つまりアメリカやヨーロッパでの平和的抗議行動に対する警察による残忍な弾圧や、ファシスト・イスラエル政権による大量虐殺を許していることや、中国に対するいわれのない攻勢や、ウクライナへの極悪非道な関与は、全て欧米諸国の本格的なファシズムへの堕落を示している。

 5.9日、旧ソ連圏では第2次世界大戦でドイツに勝利したこの日は戦勝記念日として祝われていた。ウクライナの東部でも住民が外へ出て祝うことが予想されたいたが、バラク・オバマ政権を後ろ盾とするクーデター政権はそれを狙い、キエフのクーデター政権は東部のアルドネツク州マリウポリ市に戦車を突入させ、住民を殺しはじめる。マリウポリの住民は素手で抵抗を始めるが、クーデター政権はネオ・ナチを中心に編成した内務省のアゾフ特殊作戦分遣隊(アゾフ大隊)を送り込んで制圧、拠点にした。東部の都市へ戦車を含む部隊を派遣して住民を殺傷した。
 5.25日、大統領選挙が繰り上げ実施され、中道右派のペトロ・ポロシェンコ元経済発展・貿易相が当選、同年6.7日に就任。以降、ウクライナ政府はより一層欧州統合路線を推進し、EUとの連合協定署名を実現した。同協定は2014年11月に発効(経済部分のみ、正式発効は2017年9月)した。
 6.2日、クーデター政権はルガンスクの住宅街を空爆、住民を殺している。その日、デレク・チョレット米国防次官補がキエフ入りしていた。住宅の爆撃を西側やキエフ政権は否定していたが、インターネット上にアップロードされた映像を見れば、空爆が行われた可能性は高いことがわかる。OSCE(欧州安保協力機構)も空爆があったことを認めていた。
 6月、ポロシェンコ大統領が就任し、クリミア問題に取り組むと共にドンバス問題の平和的解決に向けた取り組みを継続した。
 7月、298 名の民間人死者を出したマレーシア航空機撃墜事件が発生し、ロシア領からウクライナ領への砲撃が続き、ドネツク・ルハンスク両州にある対露国境検問地点が武装勢力に奪取され、同8月後半以降は戦闘におけるロシア正規軍部隊の直接参加が指摘されるようになる等、ドンバスの状況は困難な状況が継続した。
 9月、2014年以降、親ロシア系住民が圧倒的に多いウクライナ東部のドンバス地方では、ウクライ軍と独立系人民軍(ドネツク人民共和国軍)との間で紛争が絶えなかった。そこで、OSCE仲介のもとでロシアも含め当事者間が合意した停戦協定(ミンスク議定書、またはミンスク合意)が調印された。
 9.5日、同9.19日及び2015年2.12日、ウクライナ・露・OSCE及び武装勢力代表により状況解決に向けた停戦・政治解決を目指すミンスク諸合意が署名され、右合意の履行のために独・仏・ウクライナ・露による4者会合(ノルマンディー・フォーマット)やウクライナ・露・OSCEからなる3者コンタクト・グループ(TCG)会合等の枠組みにおける協議が継続される。その後、数次に亘り停戦が宣言されるも、武装集団側は戦闘を継続し支配地域を拡大していった。
 10.27日、繰り上げ最高会議選挙が実施され、12.2日、第2次ヤツェ ニューク内閣が組閣された。新政権は、汚職対策、司法・検察・警察改革、非中央集権化等を中心とした国内改革を進めており、一定の成果が見られている。ただ、国内改革のスピードにはばらつきが見られ、一部改革分野の遅れが指摘 されることもある他、一部与党幹部が関与した汚職が継続されていることを非難する声もあがっている。
 12月、第2次ヤツェニューク内閣組閣。しかし、その後、与党連合内で足並みが揃わなくなる例が増加する。

 2015年
 2.12日、ウクライナ軍による攻撃は絶えず、ドイツとフランスが仲介してウクライナ内戦を終結させるための二度目のミンスク合意が制定された(ミンスクⅡ協定調印)。この合意は2.17日、国連安全保障理事会決議2202によって全会一致で支持され決議された。ミンスクⅡ協定は国際法の地位を獲得した。

 ミンスク2の核心はウクライナ政府が東部2地域に高度の自治権を付与することにあった。このことをもって内戦を終結させることが取り決められた。東部2地域が高度の自治権を得る場合、NATOの規定により、ウクライナのNATO加盟は消滅する。合意が制定された最大の背景がこの部分にある。しかし、ウクライナ政府はミンスク合意を履行しなかった。履行しないどころか、ロシアとの軍事対決路線を鮮明に示した。ウクライナがロシアを挑発したのである。  

 アンゲラ・メルケル前首相は後に、ミンスクⅡ合意はウクライナに軍事強化の時間を与えるためのものだったと認めている。ウクライナによって履行されることはなく、ヴォロディミル・ゼレンスキー大統領も合意を履行する意思がないことを認めた。

 ウクライナ政府は、ノルマンディ・フォ ーマット(ウクライナ、独、仏、ロシア)での対話を継続すると共に、ロシアを侵略国と認定し制裁を科す決 議・法律を採択、ドンバス地方一部地域をクリミア自治共和国同様にロシアによる被占領地と認定する等 の対応を採っている。
 ロシア軍が介入してダーイッシュを敗走させるとオバマ政権はクルドと手を組むが、それが引き金になってアメリカはトルコとの関係を悪化させる。シリアでもロシア軍の強さが明確になるが、それでもネオコンは反省しない。
 5.9日、旧ソ連圏の戦勝記念日。第2次世界大戦でドイツに勝利した日ということで、例年、ウクライナの東部でも住民が外へ出て祝っている。それを狙い、キエフのクーデター政権は東部のアルドネツク州マリウポリなどに戦車を突入させたのだ。クリミアやオデッサと同様、マリウポリは軍事的にも経済的にも重要な場所である。
 6.2日、デレク・チョレット米国防次官補がキエフ入り。クーデター政権はルガンスクの住宅街を空爆、住民を殺している。住宅の爆撃を西側やキエフ政権は否定していたが、インターネットで映像がされている。OSCE(欧州安保協力機構)も空爆が行われたことを認めている。
 10月、地方選挙が実施され、支持率の下落が明らかになったヤツェニューク首相の人民戦線党は参加しないことを決定、ポロシェンコ大統領のBPP党との選挙協力に回った。同地方選挙において、BPP党は各党間で最大の支持率を維持し、躍進を狙う祖国党等が事前の予想よりも低い支持率に留まったことから、ヤツェニューク内閣は当面活動を継続する流れとなった。一方、同地方選挙後、2015年末の予算案採択の際等、与党連合内の自助党(サドヴィー党首)及び祖国 党(ティモシェンコ党首)が政府の方針に反対するケースが多くなった。

 2016年
 1月、EU・ウクライナ間でDCFTA(深化した包括的自由貿易協定)も暫定的に適用が開始された。
 2月、アブロマヴィチュ ス経済発展・貿易相が政権内の汚職を暴露して辞任されたことを契機に内政の不安定性が明確になり、 最高会議はヤツェニューク内閣による2015年の活動を不適格と認める決議を採択。他方、同内閣不信任 案は過半数の賛成を得られず否決され、ヤツェニューク首相に批判的な自助党及び祖国党が与党連合を 離脱した。その後も内閣改造に向けた協議が継続された。
 4月、継続的な組閣交渉の末、ヤツェニューク首相が辞意を表明し最高会議において解任され、フロイスマン最高会議議長を新たに首相とする新内閣が発足した。

 4月にフロイスマン新内閣が組閣されパルビー新最高会議議長が選出された。フロイスマン新内閣は、汚職対策をはじめとする国内改革を積極的に進め、最高会議における司法改革部分の憲法改正法案の採択(未発効)を始め、最高裁判所の裁判官選考、非中央集権化、年金改革や保健改革等で一定の成果も見られた。

 2017年
 6.11日、バイオメトリック・パスポートを所有するウクライナ国民に対するEU渡航の際の査証免除が始まった。
 7月にロンドン、2018年6月にコ ペンハーゲンで開催された「ウクライナ改革のための国際会議」ではフロイスマン首相ら主要閣僚が改革の進展と今後の展望につき国際社会に対してアピールした。
 7月、ヴォルカー・ウクライナ担当米国特別代表が任命され、ドンバス地方への国連ミッション設置についてスルコフ露大統領補佐官と数度に亘り会談を重ねてきたが大きな進展は見られていない(同特別代表は2019年9月に同職を辞任)。

 2018年
 列強による超音速ミサイルの開発が本格化すると、プーチン政権のNATO拡大に対するアレルギーがいっそう酷くなった。超音速ミサイル開発に先鞭をつけたのはロシアであるが、こうしたミサイルをNATO諸国が開発し、仮に加盟国となったウクライナのハルキウ近辺に発射基地を作ったとしたらどうなるか、とロシアは警戒した。超音速ミサイルは、モスクワまで4、5分で届く。軍事専門家は、現時点でロシアが有している超音速ミサイルの技術的優位は5年ほどで覆されると予想している。能力からして、ロシアに作れるものがアメリカに作れないわけがない。ロシアとしては、技術的な優位があるうちにNATOの拡大をこれ以上は認めないような文書の確約が欲しい、条約上の確約が欲しいという願望があり、これ以上のNATO拡大に対するロシアの危機感は見せ掛けではない。
 1月、「ドネツク・ルハンスク両州一時的被占領地域におけるウクライナ国家主権を保障する国家政策の特別性に関する法案」(ドンバス再統合法)を可決させ、ロシアを侵略国と規定するとともに、一時的占領の時間的及び地理的範囲の確定、厳戒令の発出される場合の指揮系統、被占領地域住民に対する施策等を明確化させた。
 4月、継続的な組閣交渉の末、ヤツェニューク首相が辞意を表明し最高会議において解任され、フロイスマン最高会議議長を新たに首相とする新内閣が発足した。
 4月末、ドンバス再統合法に基づき、「反テロ作戦」に代わる「統一部隊による作戦」が開始された。
 5月、ウクライナは、CIS憲章機関(CIS首脳会議等)への参加停止を正式に決定した。ポロシェンコ大統領は、CISの枠組みで締結された全ての国際条約を見直す旨発表した。
 GUAM(ウクライナに事務局所在。ウクライナ・ジョージア・アゼルバイジャン・モルドバが加盟)に関しては、加盟国以外の国・機関との関係でも、米国、ポーランド、EU 等との協力が進められており(「GUAM +」)、日本との間でも、2007年において初の「GUAM+日本」会合が開催された。「GUAM+日本」会合(次官級)は、現在まで7回に亘って開催されており、観光振興、防災、保健、税関等の分野で「GUAM+日本」 の枠組みによる協力が行われている。特に、2017年9月及び2018年9月、ニューヨークにおいて河野外 務大臣の出席を得て5回目、6回目の日・GUAM外相級会合が、2020年12月には中谷外務大臣政務官 の出席を得て7回目の日・GUAM外相級会合が開催された。
 9月、ポロシェンコ大統領は、EU・NATO加盟への道を憲法に明記する憲法改正法案を最高会議に提出した。ゼレンスキー政権においても対EUの重要性は維持され、就任後最初の訪問先としてブリュッセルを選 び、EU及びNATO関係者と会談し、欧州統合路線の継続を明らかにした。
 9月、ウクライナはロシアに対 し、友好協力パートナーシップ条約(1997年署名)の終了の意思を通告した。ゼレンスキー大統領はポロシェンコ元大統領による強硬的な対露アプローチと異なり、就任直後は直接 的な対露批判を避け、捕虜交換等の人道面からのアプローチによってプーチン露大統領との対話を展開した。

 2019年
 2.1日、米国がINF(中間核戦力)条約から一方的に脱退。ロシアはINF離脱を安全保障上のリスクを煽る「破壊的」行為として厳しく批判した。
 ミンスク協定調印後の8年間、度重なる停戦合意にもかかわらず、ウクライナ東部のドンバス地方(ルハーンシク並びにドネツク人民共和国との境界線)に設けた停戦ラインをウクライナ軍は度々越えてドンバス攻撃を繰り返した。この事実に関する詳細な報告は、OSCEの「デイリーレポート」で確認することができる。ここで注目されるのは、ロシアはこのミンスク合意を遵守し、状況の静観を続けている。
 3月、大統領選挙で現職のポロシェンコ候補と俳優兼コメディアンとして活躍していた新人のヴォロディミ ル・ゼレンスキー候補が残り、同4月の決選投票でゼレンスキー候補が7割以上の得票率で大差勝利し、同5月第6代ウクライナに大統領に就任した。ゼレンスキーはミンスク合意履行による東部和平確定を公約に掲げたが、ミンスク合意を履行さず逆に対ロシア軍事対決路線を先鋭化させた。
 7月、繰り上げウクライナ最高会議選挙でゼレンスキー大統領率いる国民奉仕者党が単独過半数の議席を獲得し大勝し、同8月にホンチャルク新内閣が組閣された。
 7月、キエフ においてゼレンスキー大統領就任後初めてとなる第21回「ウクライナ・EUサミット」が行われた。以降、ゼレンスキー大統領をはじめとする政府高官による公式発言において、ロシアとの文脈においてウクライナがEU・NATO加盟することの重要性を強調する動きが頻繁に見られるようになった。対米関係 では、ドンバス紛争(東部紛争)の和平交渉において、現在の枠組みであるノルマンディ・フォーマット(ウクライナ、独、仏、ロシア)に加えて米国が和平交渉に関与するための新しい枠組み創設をウクライナ側は期待し米国に対し積極的なアプローチを繰り返している。但し、このような枠組み創設に関し関係 国の同意に至っていない。
 8月、ホンチャルク大統領府副長官(当時)が首相に任命され財務相や内務相を除くほとんどの閣僚が一新された。 ゼレンスキー政権の発足によってポロシェンコ政権時代の政府高官は一新されることとなったが、G7・ EUやIMFをはじめとする国際社会との協力路線は維持され、特に司法改革や汚職対策、土地改革、民営化といった主要な国内改革は国際社会の意見を大いに取り入れる方向で継続された。
 9月、 ウクライナが2014年以降継続して取り組んできた汚職改革において鍵を握る高等反汚職裁判所(HACC) が設置され、汚職対策をはじめとする改革推進の大きな機運が高まった。
 12月、ゼレンスキー政権は、ポロシェンコ前政権の親欧州路線を継続しつつ、ロシアとの対話の用意がある等表明し、およそ3年半ぶりとなるノルマンディ・フォーマット首脳会合を実現させた。加えて多数の捕 虜交換について露側及び武装勢力との間で合意に達した。但し、ノルマンディ・フォーマット首脳会議は以降行われておらず、TCGにおける交渉も膠着状態が続いている。

 2020年
 2020年の大統領選でバイデンが僅差で勝利した。不正選挙の異議申し立てが取り沙汰された。このときトランプが大統領に選出されていればウクライナ戦乱は発生しなかったと考えられる。
 3月、各分野の成果を急ぐべき等の声を受け、ホンチャルク首相が辞表を提出し最高会議において解任、シュミハリ副首相を新たに首相とする新内閣が発足した。
 アメリカ海兵隊の元情報将校でUNSCOM(国連大量破壊兵器廃棄特別委員会)の主任査察官を務めたスコット・リッターが次のように証言している。
 ウォロドミル・ゼレンスキーは2020年10月にイギリスを公式訪問した際、イギリスの対外情報機関MI6(SIS)のリチャード・ムーア長官を非公式に訪問、会談している​。その訪問はジャーナリストに察知され、撮影された。その事実からゼレンスキーはMI6のエージェントであり、そのハンドラー(エージェントを管理する担当オフィサー)はムーア長官だと推測されている。会談後、ゼレンスキーの警護担当者はウクライナ人からイギリス人へ交代になったという。ゼレンスキー政権はMI6政権だということもできる。MI6は歴史的にシティ(ロンドンを拠点とする金融資本)と関係が深い。
 7.22日、ドンバス和平を話し合う 三者コンタクトグループ(TCG)が武装勢力側と無期限停戦に合意したことを発表し、停戦合意後の数ヶ月間における戦闘行為は大幅に減少した。しかしその後戦闘行為は増加し、現時点でも散発的な戦闘が東 部地域においてほぼ毎日起こり完全な停戦には至っていない。
 10月、ウクライナ憲法裁判所が国家汚職防止庁(NAPC)が管轄する公務員の電子資産 申告制度及び右制度に付随するNAPCの権限を規定する刑法規定が違憲である旨の判決を出した。このことに よって、ウクライナがこれまで行ってきた汚職改革の根幹を揺るがす事態が発生した(いわゆる「憲法危機」)。ゼレンスキー政権はこの憲法裁による決定に徹底抗戦の姿勢を見せ、最高会議においてはNAPC の権限を早急に復活させるための法案を即座に採択しつつ、大統領令によって当時の憲法裁判所所長を 解任するなど、NAPC の権限停止によって起こりうるとされた汚職改革の崩壊はひとまず防ぐ形となったが、政権側が司法の決定を強権的に否定する等三権分立の観点から禍根を残す形となった。
 10月、ゼレンスキー政権が発足して以降初めての地方選挙が行われた。当該選挙はゼレンス キーの党である与党「国民奉仕者党」にとっては地方においても自らの基盤を強固とするため非常に重要な選挙であったが、結果はほとんどの地方及び市長選において勝利することができず第二党以下に甘んじ、代々当該地方で影響力を持つ政治家(地方エリート)が票や議席を増やす選挙となった。

 2021年
 前年の地方選挙後から年末にかけてゼレンスキー大統領及び与党「国民奉仕者党」への支持率は著しく低下し、ある世論調査会社によれば2021年2月頃には与党の支持率を最大野党である「野党プラットフォーム・生活党」の支持率が上回るまでになった。一方、同時期にゼレンスキー大統領及び国家安全保障・国防会議(NSDC)が 主導して行ったウクライナ国内の親露系メディアへの制裁とそれに続く親露政党の議員への制裁導入以後ゼレンスキー大統領及び与党の支持率は持ち直し、支持第一位を維持した。
 4月前半及び10月後半以降、ウクライナ国境付近における露軍のさらなる増強が確認され懸念が高まる等、ウクライナ情勢は不安定な状況が続いた。
 6.14日、ブリュッセルで開催された2021NATO首脳会議で、NATOはウクライナを拡大し、含める意向を再確認する。
「2008年のブカレスト・サミットで決定された、ウクライナが同盟の一員となることを再確認する」。
 9.1日、「米・ウクライナ戦略的パートナーシップに関する共同声明」において、米国はウクライナのNATO加盟希望への支持を改めて表明。
 10月末、ドンバスの戦闘が激しさを増し、ウクライナ軍がドンバスの市街地への砲撃を始めた。ついにロシアが立ち上がることになった。
 12.17日、プーチンが、NATOの東方非拡大と中距離・短距離ミサイルの配備制限を柱とする「安全保障保証に関するアメリカ合衆国とロシア連邦との間の条約」草案を提出。米国はこれを検討もせずに拒絶した。

 「ウクライナ戦乱拡大の最大の戦犯はバイデンとゼレンスキー」であり、トランプ大統領はこの経緯を正確に認識している。こうした歴史的経緯を無視してウクライナ=正義・ロシア=悪魔の図式で虚偽情報を流布し続けているのが、グローバル資本が支配する西側偏向メディアである。
 12月、プーチン大統領はウクライナをNATOに加盟させないことを文書で確約せよ、とアメリカに対して要求した。この要求は結局のところ拒否され、ロシアはこれを開戦理由の1つとする。プーチンは「あなた方はミンスク合意を引き延ばし、我々の安全保障を脅かしている。NATOに誰も引きずり込むことなく安全保障が確保される欧州安全保障条約に署名しよう」と。だが無視された。





(私論.私見)