国際金融資本帝国主義の植民地支配史総評

 (最新見直し2010.12.10日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 2010年現在、遂に日本が国際金融資本帝国主義の植民地支配下に置かれようとしている。その危険性が公然化しつつある今、近現代史を彩る国際金融資本帝国主義の植民地支配史を確認しておくことは意味のあることだろう。そういう思いで以下サイト化する。強調しておきたいことは、国際金融資本帝国主義の植民地支配は単に武力、それに基づく強権によって成立したのではない、必ず現地に彼らに呼応するシオニスタンが養成され、そういう内部からの呼応、手引きによって首尾よく完遂されたと云う史実が認められることである。かく観点を据える時、現代日本史が植民地化支配史を他人ごとではなくする。ここまで解析して行くのがれんだいこの望む歴史叙述である。してみれば既成の通史は何と味気ないことか。

 その中でも、清水馨八郎著「侵略の世界史  ~この500年、白人は世界で何をしてきたか~」(祥伝社文庫、2001.11月初版)は有益な書である。「特定アジア FLASH 総合サイト」の「欧米の植民地支配」で一部が転載されている。これを貴重な論考と看做し学ぶことにする。追って、れんだいこ文に書き直す予定とする。

 れんだいこが清水馨八郎氏に注目したのはロッキード事件の際の毅然とした態度であった。清水氏は、「首相権限問題」に関わる全日空の新機種選定に於いて、田中首相の関与を否定する論陣を張っていた。これについては、「全日空の新機種選定への関与の問題」に記している。かの時期における角栄擁護に資する論陣を張ることは勇気のあることであったが、清水氏は臆するところなく見解を表明している。そういう履歴を持つ清水氏の国際金融資本帝国主義による植民地支配史の歴史的総括論であるので期待を裏切らないであろう。
以下、清水氏の著作の転載を無断でして行くことになるが宜しくご理解賜われんことを請う。

 2010.12.09日 れんだいこ拝


 侵略の世界史  ~この500年、白人は世界で何をしてきたか~」につき、「簡単な紹介」として次のように紹介されている。

 「同時多発テロ」は、“侵略の世界史”の終わりの始まり。現代の世界情勢を理解する上では欠かせない「白人」による侵略の歴史を「世界史」としてお伝えします。明治以来、日本は欧米を文明先進国と崇めてきました。日本人が持つ歴史的自虐史観はどのように刷り込まれてきたのでしょう。それは歴史を昭和史や大東亜戦争史といった短期間の歴史から見ていることに起因しています。その偏った歴史観から脱するためには、歴史のスパンを500年という長い視野を持って大観せねばなりません。本書では、白人の非白人に対する野蛮性・侵略性、またその根源は何か、さらに世界が白人国家によってどのように植民地に組み込まれていったのか、その由来を明らかにしています。そしてそういった歴史の真実を知ることで、虚偽の自虐史観は取り払われ、われわれ日本人は「唯一白人の支配に従わぬ」日本の自信や誇りを取り戻せるでしょう。現代史だけを見ていたのでは、世界の中の日本の位置を見失ってしまうでしょう。日本の文明史的、世界史的意義を改めて考えさせられる一冊です。

 本書は、西欧の繁栄を支えた植民地支配の暗黒面を見落としてきた白人の残虐性と侵略性の根源は何かを解明する。現代史だけを見ていたのでは、世界の中の日本の位置を見誤ってしまう。過去500年、白人が世界に向かって何をしてきたかを見れば、歴史の真実は明らかとなる。日本人としての誇りと自信を取り戻すために。

  「著者紹介」として、清水馨八郎氏が次のように記述されている。

 大正8年、山梨県出身。東京文理科大(現筑波大)卒業。千葉大学名誉教授、理学博士。都市と交通研究で長く学界をリードし、航空審議会委員など各種委員を歴任する。日本人が戦後失った「誇り」を取り戻すための講演・執筆活動も精力的に続けている


 これによれば清水氏は理系になるが、その学術的見識から始めて文系分野にも立派な業績を生んでいることになる。かくあるべきではなかろうか。

 同書の「目次」は次の通りである。
まえがき
序章  米国同時多発テロの背景と日本の対応―白人による「侵略の世界史」の終わりの始まり
○歴史の分かれ道となった魔の九月十一日、○テロは新しい戦争の形態、○”自爆”に高度な技術は不要、○テロの真の原因はアメリカ自体にあるのか、アメリカの三つの原罪、○米軍報復戦の困難、ベトナムの二の舞か、○戦争挑発の常套手段、○アメリカの没落の始まりと日本の対応、○日本国憲法原理主義の呪縛から解放される時
第一章  逆転発想の世界史―近世五〇〇年を、全地球レベルで読み直す
○冷戦後、日本はなぜ「独り負け」なのか、○勝者の理論を押し付けられた歴史認識、○近世世界史の虹から見た大東亜戦争、○歴史教科書論争をどう読むか、○国家は内部から腐敗、堕落で、崩壊する、○「西洋病」患者、日本の成立事情、○今こそ白人の暗黒の歴史を白日のもとに、○歴史は勝者によって作られる、○求められる日本人主体の歴史観
第二章   なぜ、白人は侵略的なのか―その歴史、宗教、風土から、原因をさぐる
○風土の違いは、民族の性向にどう反映するか、○太陽の光を渇望する北欧の人々、○収穫より略奪のほうが効率的という考え方、○VIPの持つ本来の意味とは、○ローマ帝国が衰退した当然の理由、○「聖書」を生んだカナンの地の過酷な風土、○聖戦とは名ばかりの「十字軍」の正体、○身の毛もよだつ「異端尋問」の実態、○中世までは東方文明に屈しつづけた西洋の歴史、○西欧人が香辛料を求めた最大の理由
第3章  スペイン・ポルトガルの世界征服― “新大陸”の先住民の運命と、二ヵ国による世界二分割構想
○コロンブス西航の目的地は日本だった、○新大陸にコロンブスの名が冠せられなかった理由とは、○神の名の下に、何をしても許されるという論理、○最後のインカ王、トゥパク・アマルの最期、○ヨーロッパ人による現地の推定犠牲者数、○白人の残虐非道を内部告発した人々、○日本に到達したポルトガルの東洋侵略、○香辛料貿易で莫大な利益を得たポルトガル、○スペイン、ポルトガルによる「地球二分線」の策定
第四章   英仏蘭による植民地支配―インド、東南アジア、南太平洋の収奪とアフリカ大陸の悲劇
○北米大陸進出に失敗したオランダ、○330年にわたるインドネシアへの苛斂誅求、○イギリスの植民地支配が長持ちした三つの理由、○なぜ人間が人間を奴隷とする思想が生まれたのか、○ヨーロッパ列強のアフリカ完全分割、○原罪のアフリカの諸問題の根源は、すべてヨーロッパにある、○ボーア戦争と、南アの「アパルトヘイト政策」の起源、○プランテーション栽培における黒人奴隷の酷使、○南太平洋の島々の運命
第五章  アメリカ、ロシアの野心と領土拡張―東から西から、いよいよ極東に迫り来る侵略の魔手
○「アメリカ独立宣言」の高邁な精神も、先住民は適用外、○アメリカ領土拡張と、インディアン抹殺計画、○アメリカに連れてこられた奴隷たちの運命、○アメリカが侵略戦争を仕掛けるときの常套手段、○アメリカの太平洋進出と、ハワイ強奪、○ロシア帝国の東方進出と不凍港の獲得、○共産主義による大粛清と強制収容所の恐怖、○マルクス主義侵略の犠牲者は、世界で1億7000万人、○白人の植民地争奪戦の結果としての第一次世界大戦
第六章  白人侵略の終着点・日本の対応―なぜ非白人国で唯一、侵略を免れたのか
○なぜ、日本一国が、侵略を免れたのか、○秀吉の朝鮮出兵に隠された雄大な意図、○来るべき白人侵略に、着々と手を打っていた江戸時代、○アヘン戦争における中国の大敗と日本の震撼、○欧米が驚いた幕末日本の技術力、○日本を救った吉田松陰の先見の明、○咸臨丸の渡航と、岩倉使節団の大業、○大臣並みに遇されたお雇い外国人教師たち
第七章   立ち向かった唯一の有色人種―日本の戦争は、世界史の中でどう位置づけられるか
○中国、朝鮮に触手を伸ばすロシアとの対立、○日露戦争は人類解放の出発点、○日本追い落としをはかるアメリカの遠謀思慮、○念願の戦争に持ち込んだルーズベルトの喜び、○世界中が喜んだ日米の開戦、○独立運動の指導者を養成した日本、○インドネシア独立のために戦った残留日本兵
第八章  日本が真の独立国家となるために― なぜ、占領政策で刷り込まれた自責史観に固執するのか
○西洋人は野蛮人と喝破した西郷隆盛、○500年に及ぶ白人侵略の総仕上げ、○「南京大虐殺」はどのように仕立て上げられたか、○東京裁判の非を鳴らした外国の識者たち、○マッカーサーの遅すぎた悔恨、○なぜ当の日本だけが、カラクリに気づかないのか、○「日本に手を出した国は滅びる」との言い伝え
おわりに   日本=戦争犯罪国家論を説く人たちへ

 以下、「侵略の世界史  ~この500年、白人は世界で何をしてきたか~」を参照しながら確認して行くことにする。

大航海時代
 同書の記述ではないが、大航海時代について「近代における市場拡大の原動力」から転載しておくことにする。
 それまでの市場は、国家の富のおこぼれに預かるために商人が行っていたが、国家が市場から得られる富に収束し、国家自ら交易に乗り出していったのが大航海時代。・ポルトガルがアフリカ航路からインドへ、スペインが南米へ、そしてオランダ、イギリスがインド、北米へと進出していく。海外へ進出した西欧列強は、武力による略奪と、貿易による収奪で富を蓄積していく。

 大航海時代、アメリカ大陸に進出したスペインは、インカ・アステカ帝国を圧倒的武力によって滅亡させる。(アステカはスペイン人のコルテスが600人の兵士によって、インカは同じくスペイン人ピサロがわずか180名たらずの兵によって制圧している) スペインはポルトガルが侵略したブラジルを除き、中南米の大部分を侵略した。中南米にはインカ帝国が存在したペルーを中心として、金山・銀山が豊富に存在しており、スペインは原住民(インディオ)を酷使して大量の金銀を採掘した。(あまりの重労働の為、インディオの死亡率は高く、16世紀半ばには、ジャマイカのインディオは全滅したと言われている。インディオが激減すると、今度はアフリカから黒人奴隷を連れて来て、重労働に当たらせたと言う)

 獲得した金・銀はスペインへと運びだされ、1500年初頭から1600年代半ばまでに運ばれた金・銀の総量は、銀18000トン、金200トンに達した。(なお、イギリスのエリザベス女王は、海賊を使って中南米からスペインへと金・銀を運ぶ船を襲わせ、横取りしていたと言う。まさに略奪闘争そのもの。)

 こうして、中南米から金・銀が大量に流入した為、ヨーロッパの貨幣価値(当時は銀貨が主要に流通していた)が一挙に下落し、物価高騰すなわちインフレが起こった。(ヨーロッパの価格革命) このインフレ効果はスペインだけでなく、ヨーロッパの国家になんらかの恩恵をもたらし、ヨーロッパの商工業は活性化。更に地代の相対的低下により、農民の社会的地位が向上。ヨーロッパ全域の経済・社会が大きく変動(=小金持ちが増加)し、市場が一気に拡大していく。

 スペインによる中南米からの略奪を中心に、大航海時代以降、数100年間を通じて各地で奴隷貿易が行われ、ヨーロッパに莫大な富=「市場の原資」が集積されていった。こうして蓄積された原資の上に産業革命=産業資本主義が成立、市場の拡大スピードは更に加速していく。

 すなわち、近代における市場の急拡大は、タダ同然(=略奪)によって手に入れたものを、高値で売ると言う最大の「価格格差のうまみ」を原動力にもたらされたと言え、その原点はスペインが中南米か略奪した原資=金・銀に求めることができる。

【南米編】
 
 スペインの中南米インディアス完全制圧のはじまり

 1492年、コロンブスが出帆した年に、スペイン軍はすでにイベリア半島からムーア人の追放を完了していた。コロンブスの航海に続いて、スペイン人はまもなく西インド諸島を征服してしまった。1521年、コルテスはメキシコにあったアステカ帝国を滅ぼし、1532年には、ピサロがペルーのインカ帝国の征服を終えていた。途方もなく広い海洋帝国の所有国として、スペインは国王フェルナンド、女王イサベルの治政下で、十六世紀の前半には、ヨーロッパ最強の国となっていた。

 最初スペイン人はまず西インド諸島にやってきて、エスパニョーラ島のインディアスに対して皆殺し作戦を行なった。鉄砲を持った歩兵と犬を伴った騎乗の征服者たちは、島の狩猟採集部族を意のままに打ち破った。女、子供も逃がさず、強姦して殺戮した。抵抗者は容赦なく鎮圧された。1496年までに、この島は完全にスペイン人に制圧された。同様な襲撃は、キューバやカリブ海の他の島々に対しても行われた。征服者達は、新世界に国王の名によってやってきたのであるが、さらに重要なのはキリスト教の名においてやってきたことである。教会は、しばしば彼らの手先として、進んで新しい土地の略奪に参加した。

 司祭は兵士と一緒になって先住民の村落に現れ、先住民たちに向かって、キリスト教信仰を受け容れるべしとスペイン語で書かれた公式の催告書を読み上げるのである。この催告書は、教会が国王に新世界領有権を与えたと述べていた。そこにはイエスが宇宙の王であり、彼が聖ペテロをローマ大司教に任命し、ローマ法王がアメリカをスペイン国王に授けたと宣言されていた。これにしたがってインディアスは信仰に入り、スペイン国王の王権を認めることを強制された。

 インディアスはスペイン語が全然解らず、言っていることも書いてある催告書も何も解らないまま従わされた。かれらはイエスのことも、国王も法王のことも聞いたこともなかった。考える時間も与えられず、屈従するしかなかった。これを拒否すれば兵士に殺されることになった。しかもこのお触れは「その拒否から結果する死と損失は、汝らの落度であることをここに言明する」といったひどいものであった。殺されなかった先住民は家を追われて、鉱山労働者、農奴、荷役動物になることを強制された。
 神の名の下に、何をしても許されるという論理

 当時スペインの社会では「何人であれ、インディアスを棒で打つこと、むちを加えること、彼を犬と呼ぶこと、その正しい名前以外の名で呼びかけることをしてはならない」と規定していた。しかし、インディアスに対する制圧は、身の毛もよだつ残虐行為を伴った。それは5世紀が経った今日でも、それがいかに恐るべきものであったかをためらわずに語ることはできない。

 次にドミニコ教会司祭がもたらした、カリブ海でのスペイン人の野蛮行為についての二つの目撃談を示す。

 「数人のキリスト教徒が乳飲み児を抱いた1人のインディアスの女と出合った。彼らは連れていた犬が腹を空かせていたので、母親の手から子供を奪い、生きたまま犬に投げ与え、犬は母親の目の前でそれをがつがつ食い始めた。・・・出産して間もない女たちが捕虜の中にいたとき、もし赤ん坊が泣き出すと、スペイン人たちは子どもの足をつかんで岩に投げつけたり、密林の中に投げ込んだりして、赤ん坊が確実に死ぬようにした」

 次の話は、鉱山でのスペイン人とインディアス労働者との関係を描いている。

 「現場監督の誰もが、その配下にあるインディアスの女と寝るのを習慣にしていた。気にいれば、女が既婚であろうと未婚であろうと。監督はインディアスの女と小屋に留まる一方、その女の夫は山から黄金を掘る仕事に送り出された。夕方送り出された男が戻ってくると、持ち帰った黄金の量が少ないといって、打ちすえられたり、むちを当てられ、そればかりか手足をくくられてベッドのそばに犬のように投げ倒され、そのすぐ上で監督が彼の妻と横になっていることがよくあった」(トーマス・バージャー著『コロンブスが来てから』朝日選書)

 このようにインディアスたちは非人間的な状況の下で生き、そして死んでいった。1540年までにカリブ海のインディアスは事実上、絶滅させられた。(P109~P112)
 ヨーロッパ人による南米侵略の推定犠牲者数

 スペイン人は、なぜ自由に殺し合い、奪い、言語に絶する残虐行為を犯してよいと感じたのであろうか。なぜ、インディアスの置かれた状況に同情を覚えなかったのだろうか?
その答えとして、トーマスバージャーは、次のように述べている。「(その原因は)その勝利のあまりの唐突さにあった。スペイン人はその征服の容易さを、ヨーロッパ文明の優越性とキリスト教の優秀性のあかしだとみた。インディアスが敗北したのは、彼らが【静的な退嬰的な社会集団で、挑戦を受けたとき効果的に対応できなかったためである。彼らはすぐに屈服してしまい、同じあっけなさで彼ら自身の神を捨てて、キリスト教に帰依した。(中略)インディアスは、書かれた言語を持たなかったから、その歴史や信仰についての記述は、ヨーロッパ人にゆだねるより仕方がなかった。ラテンアメリカでインディアスの権利の無視が続いたのはこうした初期の出会いに由来している。

 さてコロンブス以来、スペイン人の征服者によって中南米の原住民のインディアスが、約一世紀の間にどれほど犠牲になったかを推計してみる。これをカリブ海地域と、メキシコ中央部とアステカ地域と、ペルー中央部のインカ地域に分類してみる。カリブ海地域の犠牲者 38万人。アステカ地域の犠牲者 2400万人。インカ地域の犠牲者 820万人。以上、約3300万人である。

 ではコロンブスが到着した1492年頃、これらの地域の原住民の数は、どれほどだったのだろうか。多くの研究者が大雑把な推計を試みているが、それによると最大推計で1億1千万人、中間推計で7000万人、最小推計でも4000万人である。

 インカ帝国が完全に滅亡した1570年ごろ、この地方の人口は合計1000万人に激減してしまっていた。これは最大推計の1億1千万人からみると約十分の一に減ったことになり、ほぼ1億人ものインディアスがヨーロッパ人の征服の犠牲になったことになる。この数は、直接の殺戮だけでなく、ヨーロッパ人がもたらした伝染病の天然痘やチフスによる死者も含まれている。

 ともかくヨーロッパ人の侵略によって、一世紀足らずの間に、それまで独自の文明を打ち立てて、平和で幸せに暮らしていた罪のない先住民を、ほぼ全滅させてしまったのである。これまでの人類の歴史で、これほどの悲惨があったであろうか。ヨーロッパ白人は、人類史に一大汚点を残したのである。

 先住民が白人によって受けた被害は、人的犠牲だけではない。大量の金、銀などの宝物が、ヨーロッパに持ち去られた。白人の新大陸征服の目的の一つが、黄金の獲得であったからだ。1660年までにヨーロッパに持ち去られた金は、解っているだけで181トンである。現在、世界でもトップクラスの金輸入国である日本の、平成三年の年間輸入量が260トンだから、発掘、精錬技術が未熟な当時としては、いかに大量であったかがわかる。

 さらに銀も、この間1万7000トンも収奪されていったのである。インディアスが長い間かかって勤労して営々と貯めた宝物を、白人は何の努力もせず、所有者を殺し、奪っていったのである。ヨーロッパ人とは罪深き大泥棒たちであったのだ(P119~P122)

 なお、ヨーロッパ人が野蛮人だと蔑視していたインディアスは、彼らが亡ぼした十六世紀の『アステカ文明』や『インカ文明』よりもっと以前に、この地方に【巨大な石の文明】を築いて栄えていたのである。その一つがユカタン半島に残る【マヤ文明】である。この文明は、四世紀~十世紀にかけて【都市国家を形成】し高度の文化を誇っていたのである。今に残る【巨大な石造りのピラミッド】リンクに象徴されるとおりである。『マヤ文明』『アステカ文明』『インカ文明』のいづれもが、スペイン人によって崩壊させられている。
 白人の残虐無法と内部告発者の存在

 コロンブスの米大陸到達以来の、先住民に対する白人の残虐無法ぶりのあまりのひどさを見て、たまりかねて仲間の非を内部告発した白人がいた。それはコロンブスと同時代のスペイン人、ラス・カサスである。さらに現代になって、先ほどからその著書を引用しているカナダのトーマス・バージャーは、アメリカの開拓時代に、白人が先住民のインディアンをいかに不法に抹殺していったかを、法と正義にもとづいて告発している。(中略)

 ラス・カサスは、1514年から1566年に他界するまで、6回にわたり大西洋を横断し、インディアスの自由と生存権を守る運動の中心的な役割を果たした。彼はこの報告書(※ラス・カサス著 『インディアスの破壊についての簡潔な報告』 岩波文庫)で、カリブ海のたくさんの島々の破壊の実態を正確に記述している。特にコロンブスが名づけたエスパニョーラ島(現ハイチ、ドミニカ共和国)については、くわしく述べている。

 この島には300万人のインディアスが住んでいたが、コロンブスが来てから50年後の1542年には、この美しかった島に生き残ったのは、ただの200人だったと報告している。

 スペイン人はまず、先住民に必ず、金を要求する。初めはその要求に応じていても、ヤクザの脅しと同じで、要求は次から次へと釣り上げられ、ついには暴力を振るうようになる。先住民たちの堪忍袋の緒が切れて反乱を起こすと、それが白人の思う壷で、彼らは馬にまたがり、剣や槍を持って無差別にインディアスを殺しまくる。もともと武器など手にしたことのない人々だ。この武装した土地泥棒の無法者にかなうはずがなかった。特にインディアスが恐れていたのは、馬だった。騎馬の兵士など見たこともなかった。(中略)

 スペイン人は手に入れたインディアスを、男なら金採掘に、女なら畠仕事に活用した。この奴隷たちには雑草のような食物しか与えなかったので、過酷な労働と飢餓でばたばたと倒れていった。荷物の運搬には、すべて奴隷を牛馬のように使った。重い荷物を背負わされ100キロ、1000キロの道を歩かされた。インディアスの背中や肩は、重い荷物ですりむけ、まるで瀕死の獣のようだったが、スペイン人は鞭や棒や平手や拳固で、容赦なく彼らを痛めつけたのである。彼らはインディアスを野獣として扱ったのである、とカサスは述べている。(中略)わが国でこの報告の翻訳が出たのは、1976年(昭和51年)になってからである。日本の西洋史学界が、いかにヨーロッパ人の歴史の暗黒面をあばくことに怯えていたかが分かるのである。

 ラス・カサスに次いで白人の先住民族に対する残虐さをあばいて、白人自身に反省を求めた人物がカナダのトーマス・バージャーである。彼は現代のラス・カサス、カナダのラス・カサスと言われるに値する人物である。(中略)彼はカナダの先住民族のインディアンの権利問題を追及しているうちに、インディアンについてはカナダだけでなく、アメリカにも中南米にも同じ問題があることに気がついた。そこでラス・カサスの報告を読み、啓発され、広く南北アメリカ大陸でのインディアンの悲惨の歴史を研究した。そして『コロンブスが来てからー先住民の歴史と未来』(朝日選書)という著作をまとめた。彼はコロンブスがアメリカ大陸に来てから、どれほどの先住民の血と涙が流されたかを法学者の目で正しく分析、さらに現在各地で過去の暗影を背負って細々と生き残っている少数民族となったインディアンたちの権利保護の運動を展開している(P124~P129)

【奴隷貿易編】
 残虐非道の奴隷狩り、奴隷貿易の実態

 最初にアメリカ大陸に到着したスペイン人は、簡単にアステカ帝国やインカ帝国を亡ぼし、金銀宝物を略奪し、反抗する先住民を見境なく殺していった。その数は前章でも触れたように、多く見積もって1億人(白人がもたらした流行病死も加えて)に上るといわれる。これでは金銀の鉱山が発見されても、採掘の労働者が足りない。砂糖や、コーヒー、タバコなど白人に都合のよい植物農耕のための人手も足りない。

 そこで彼らが考えたのは、アフリカから労働力として黒人奴隷を連れてくることであった。かれらは原住民を殺し過ぎた結果、労働力不足に気がつき、鉱山労働力や農場の労働力を、アフリカから収奪することになる。白人たちは多数殺しておいて、その穴埋めにまた悪事を働く。ここに人類史に刻まれる二つの悪行を、彼らは同時に進めることになった。(中略)

 奴隷狩りには、三つの方法がある。第一は拉致、誘拐である。動物を捕らえるように待ち伏せして、通りがかりの先住民をさらってゆく。第二に白人奴隷商人とアフリカ人首長の契約。首長が他部族に戦争を仕掛け、捕虜を大勢捕らえて商人に渡し、代わりに安物の鉄砲やタバコや酒、ガラス玉と交換する。第三は首長が白人と組んで同胞を売り渡す、支那の買弁的行為である。

 集められた悲運の奴隷達は海岸の奴隷貯蔵庫に格納され、奴隷船が来るのを何日でも待たされる。奴隷貯蔵庫の地獄絵のような悲惨の実態は、文化人類学者川田順造氏の『曠野から』の実態調査報告で知ることができる。
奴隷船には複数の奴隷商人の商品(奴隷)が積み込まれるため、所有者の見分けがつくように、牛馬のように腕や腹に烙印を押され、二人ずつ鎖でつながれて暗い船倉に放り込まれる。船倉は天井が低く、立つことも横になることもできない。奴隷たちはそこに詰め込まれ、汗まみれ、くそまみれの生き地獄が待っている。だから航海中に半分以上は死亡した。死体は無造作に大西洋に捨てられ、魚の餌食にされたのである。

 人道無視、国家ぐるみの大犯罪

 十六世紀から十八世紀にわたる奴隷貿易は、欧州、アフリカ、新大陸の三大陸にまたがる三角貿易によってがっちりと組み立てられ、欧州に莫大な利益をもたらしたのである。参加した国は、ポルトガル、スペイン、オランダ、イギリス、フランスの五ヶ国である。奴隷商人たちは、ヨーロッパから安物のビー玉、火器(銃器)、木綿の工業製品をもってアフリカ・ギニア湾岸にいたり、黒人奴隷と交換し、奴隷を南米ブラジルや西インド諸島で売り飛ばした。次にその金で土地の砂糖、綿花、タバコ、コーヒーなどの亜熱帯農産物をしこたま積んで、ヨーロッパに帰ってくるのである。三角貿易の完成だ。この貿易は一貿易で三重の利益が得られる。中でも最も巨利を博したのはイギリス、フランスであった。

 奴隷貿易で最盛期を迎えるのは、十八世紀である。推計では十六世紀は九十万人、十七世紀は三百万人、十八世紀は七百万人、十九世紀は約四百万人が奴隷として売買されたといわれている。概算1500万人である。一人の黒人を新大陸に連れて行くまでに、五人の黒人が中途で死んだという恐るべき推計があるから、アフリカから働き盛りの黒人が数千万から一億人近く連れ出されたことになる。

 黒人奴隷を一番多く移入したのはカリブ諸島で約40パーセントを占め、次に砂糖のプランテーション労働などのためブラジルへ38パーセントが運ばれた。残りはアメリカ南部のプランテーションである。アフリカは大きな大陸でありながら、現在世界一過疎の大陸になったのは、働き盛りの男子を大量に新大陸に奪い去られたからである。その後、十九世紀にいたるヨーロッパ列強の、アフリカ分割植民地支配を受けて、現在のアフリカの貧困、民族紛争も、すべて白人の勝手な収奪、不合理な民族分割の結果である。特に人身売買、奴隷貿易などの人類史上の大犯罪は、イギリス、フランスなどの国家自らが組織的に犯したのである。

 なお十六、七世紀に新大陸から大量の金銀がヨーロッパに奪い去られていった。その過酷な鉱山労働に、インディアンと黒人奴隷が酷使された。ヨーロッパにもたらされた金銀は、やがて産業革命からヨーロッパ資本主義の原資となった。またこの金でヨーロッパ商人はアジアから香辛料、茶、ゴムなどを大量に買い入れて儲けた。これもアメリカ、ヨーロッパ、アジア大陸にまたがる三角貿易として、ヨーロッパに巨万の富をもたらしたのである。非白人の汗と血と苦痛の収奪、犠牲で支えられたことを忘れてはならない(P158~P164)

【北米編】
 アメリカの領土拡張と、インディアン抹殺計画

 南北アメリカ大陸のうち、イギリスの植民地となったアメリカ、カナダなど、英語圏の先住民をインディアンと呼ぶ。先にも述べたとおり、彼らは紀元前4万年から2万5000年頃、アジアから当時は陸続きだったベーリング海峡を通ってやってきた人達で、人種的には日本人と同じモンゴロイドである。ヨーロッパ人による北米の征服は、中南米より一世紀遅れて始まった。白人は先住民を野蛮人扱いしたが、彼らはアイヌと同じように、先祖の残してくれた自由の大地で、大自然に抱かれて伝統を守り、天真爛漫に楽しく平和に暮らしていた。そこへ突如、白人植民者が侵入し、インディアンの運命は一変するのである。

 当時、北米大陸に侵略してきた白人はイギリス、フランス、スペイン人だった。だが、イギリス人(後のアメリカ人)と出会ったインディアンの運命が一番悲惨だった。なぜか。というのもフランス人はもっぱら毛皮にのみ関心があり、スペイン人は貴金属に関心があった。そのため彼らにとって、先住民の抹殺は得策ではなかった。ところがイギリス人の関心は、もっぱら土地だった。土地とは言い換えれば領土である。イギリスで食い詰めた移民たちは、新大陸で広大な土地を入手できるという会社の宣伝を信じて、はるばる大西洋を渡って来たのだ。ここにたちまち先住民との土地争奪戦が始まる。

 インディアンには、もともと土地私有の観念はなかった。土地の権利、売却、譲渡、などの意味すら知らない。それをよいことに、イギリス人は無理矢理契約書に署名させ、合法的と称して騙し、脅して、次々にインディアンの土地を収奪していった。合衆国は建国以来、土地所有をめぐってインディアンと白人との間に結ばれた条約・協定は300を超えたが、そのほとんどすべてが、日ならずして反故にされた。アメリカ人に都合のいいときは合法性の証文に使われ、都合が悪くなれば即座に破り捨てられたのである。

 メイフラワー号の移民をはじめ、当初の白人植民者の飢えと苦難を救ってくれたのは、友好的インディアンたちであった。トウモロコシやタバコ栽培を教えてくれたのはインディアンではなかったか。白人はその恩を、たちまち仇で返したのである。

 1830年、ジャクソン大統領は、野蛮人の一掃のためと称して強制移住法を制定し、すべてのインディアンをミシシッピー川以西に立ち退かせた。ところが探検や調査が進むにつれて、ミシシッピー川以西も、以東に勝るとも劣らぬ資源の宝庫であることが判明した。かくて白人の幌馬車隊は、ミシシッピー川を越えて西へ西へと殺到した。。インディアンは白人の度重なる約束違反に激高した。その上、インディアンの命綱のバッファローを、白人は面白半分に撃ち殺してしまった。かくして西部を舞台に、凄惨なインディアン戦争がいたる所で繰り広げられることになった。

 映画の西部劇は、この戦争を白人に都合よく正義の戦いとデッチ上げて描いたものである。「フロンティア」「開拓」の美名のもとに、西へ西へと進められたアメリカ領土の拡大は、力で先住民の土地を奪うことだった。インディアンの武力抵抗は、1876年にカスター中佐指揮下の第七騎兵隊の一個大隊を殲滅したリトル・ビッグ・ホーンの戦いで絶頂を迎える。しかし結局、圧倒的に優勢な合衆国軍の前に敗退を余儀なくされて、1890年のウンデッド・ニーのスー族約300人の虐殺事件をもって幕を閉じた。残った彼らは自由の天地を奪われ、狭い保留地(リザベーション)に閉じ込められた。大東亜戦争中、アメリカが日系移民のみを強制収容所に閉じこめたのと同じ不法な手口であった。

 コロンブスが到達した頃、北米の先住民の人口は200万人から500万人で、その80~90パーセントは今の合衆国に住んでいたと推計されている。十七世紀以降、植民地建設が進むにつれて、とくに合衆国での殺戮と、白人がもたらした伝染病などによって、その数は急激に減少し、1890年頃にはわずか35万人にまで減ってしまった。その後、1924年ようやくインディアン市民権法が制定され、インディアンは、はじめて人間として認められた(P189~P192)


 アメリカに連れてこられた奴隷達の運命

 現代文明社会では、人喰いとか人狩り、人身売買は野蛮人のすることと教えられてきた。ところが文明人といわれる白人が、この500年間に行ったアフリカ黒人の奴隷狩り、奴隷貿易、奴隷売買、人家畜の行為は、国を挙げて計画的、組織的に行われたことで、人類史上からみて最も忌まわしい世紀の犯罪と断言しうる。そのことは前章でも述べたが、では新大陸に連れてこられたアフリカの奴隷たちは、どのような扱いを受けたのだろうか。

 奴隷船から陸揚げされた奴隷たちは、奴隷商人に売り渡され、奴隷市場で家畜のように売りに出される。奴隷商人は、奴隷を鎖で数珠繋ぎにして町に乗り込み、目抜き通りで彼の「商品」のよさを宣伝して競売を行なう。価格は召使い用、農園労働者用など用途によって異なる。奴隷たちは衆人環視のもとで競売台に立たされ、馬を調べるように唇やまぶたをめくられ、時には裸にされて品定めをされ、有無を言わさず親子兄弟をバラバラにして売られていった。アフリカ人はどんな思いで耐えていたのだろう。

 当時のアメリカ人にとって、奴隷の競売は財産作りの重要な手段であった。後の南北戦争のときの南軍の将軍たちの中には、奴隷商売で巨利を博した将軍が多かった。人身売買は、確かに人間の歴史とともに古くからある。しかし近代に入って、これほど大掛かりに組織的に、200年にわたって人間の売り買いを行ってきた国は、世界広しといえどもアメリカだけである。1860年、アフリカ人奴隷の総数は、19世紀初頭の4倍強、400万人になっていた。この急ピッチの増加は、南部の綿花生産量と軌を一にしており、奴隷の大半は綿花生産の労働者として投入されていた。そこから巨額な利益をあげた南部大農園主の豪華さは、映画『風と共に去りぬ』でお馴染だ。(中略)

 奴隷たちは鞭打ちにおびえながら、一日中牛馬のように働かされた。しかし奴隷は家畜ではなく、白人と同じ人間だったから、非道な仕打ちに当然反抗した。反抗の型は三つ、第一がサボタージュ、第二が逃亡、第三が反乱、暴動だった。逃亡先は二つあった。白人の入り込めない湿地や森林に身を隠すか、奴隷制を認めない北部諸州やカナダへ逃げ込むのだ。逃亡は命がけだった。失敗し捕えられれば数百回の鞭打ち、焼印が普通。また逃げ切った奴隷の首には賞金がかけられ、生かすも殺すも捕えた者しだいというリンチも許された。

 奴隷の反乱、暴動も多く、失敗して殺された奴隷も無数であった。1831年のナット・ターナーの反乱、1859年のジョン・ブラウンの武装蜂起など、歴史に名を残している事件は氷山の一角にすぎない。ジョン・ブラウンは絞首台上で「罪深いこの国の大罪業(奴隷制度)はただ流血によってのみ洗い清められることができると、私は確信する」と予言した。このことは、翌々年の1861年からの南北戦争で実証された。南北戦争では、実に70万人の血が流された。

 オリンピックで黒人が活躍するもう一つの理由

 リンカーン大統領による1863年1月1日の「奴隷解放宣言」で400万人の黒人奴隷は解放された。しかしそれは名目上の自由を得ただけで、実質的な人種差別は、現在まで続いているのである。1996年夏、オリンピックが米国アトランタで開催された。アトランタは南部奴隷市場中心の街、『風と共に去りぬ』の舞台、キング牧師の出身地で人口の過半が黒人という「黒人都市」である。

 開会式の聖火ランナー(モハメド・アリ)も、聖歌の歌手も黒人、100メートルなど、短距離走の決勝のスタートラインに並んだ選手は、すべて黒人だった。
かつて米国はアフリカから家畜として奴隷を買ってきて、南部の農園を開拓させ、それによって栄えた。より力持ち、足の速い者を選んで連れてきて、弱い奴隷は廃棄し、結婚もさせなかった。より強い奴隷を作るために、強い奴隷同士を掛け合わせるといったような、まるで家畜を品種改良するような手段を使った。黒人はもともと身体能力が高い上に、こうした「改良」によって、より強く速い者たちが生まれるのは当然であった。オリンピックにおける黒人の好成績は、こうした悲しい歴史を反映したものだともいえる。(P192~P197)

 アメリカが侵略戦争を仕掛けるときの常套手段

 西部開拓がほぼ終了すると、アメリカは、アメリカ独立に刺激されて独立したばかりの近隣の中南米諸国に、度重なる介入、侵略を行ないはじめた。まず、1845年、アメリカはメキシコから独立したテキサスを併合した。その後メキシコと戦争を起こし、(米墨戦争、1846年~1848年)、その勝利によってニューメキシコ、アリゾナ、カリフォルニア州など、南部、西部の広大な領土を併合し、国旗の星の数を一挙に増やした。

 この戦争の開戦の契機が「アラモ砦の戦い」だった。しかし、この戦いは、アメリカが自国のアラモ砦を囮にして相手を挑発し、わざとメキシコ軍に先制攻撃をさせ、自軍に相当の被害を出させたうえで「リメンバー・アラモ砦」を合言葉に戦争を正当化し、国民を鼓舞して反撃に移るというもので、これは、この先アメリカが侵略をするときの常套手段となるのである。

 次いで1898年、米国は、ハバナを表敬訪問中の米戦艦「メーン」を自ら爆沈させ、2060人の乗組員を犠牲にし、これを敵がやったことにして「メーン号を忘れるな」を合言葉に国民を戦争に駆り立て、有無を言わさず、スペインに宣戦布告した。この米西戦争は、キューバの独立戦争を支援する名目で始めながら、実質的にキューバを保護領化してしまい、合わせてスペイン領のプエルトリコをも領有するものだった。これによりアメリカは、中南米諸国に対する軍事的、経済的支配を強化するための前進基地を獲得することが出来た。

 アメリカの侵略、戦端の動機は、当初から一貫した手口を使ってきている。そのことは「アラモ砦」でも見たとおりだが、歴史に正当性を残したいため、そうした子どもじみた騙しの技巧をこらすのである。“真珠湾を忘れるな”も、ルーズベルトが「騙し討ち」という罠に日本をはめて開戦の動機にしたことは、今や世界の常識となっている。このことについて、大統領の長女の娘婿である、カーチス・B・ドール氏が語る真実のルーズベルトの言葉「私は決して宣戦はしない、私は戦争を造るのだ」が、すべてを物語っている(馬野周二著『操られたルーズベルト』プレジデント社)

 この手は湾岸戦争でも使われたフシがある。イラクのフセインを騙し、クウェート進攻に誘い出し、フセインを侵略者に仕立てて世界に宣伝し、待ってましたとばかりアラビアに集中していた55万の米国の大軍を一挙に出動させた。用意周到の準備がなければ、あれほど手際よく大軍を動かし短期戦が出来るはずはない。日本をはじめ世界中から戦争協力の冥加金を集め、新兵器の商品見本市を果たし、大量の武器弾薬を砂漠に打ち込み、「死の商人」の在庫を一挙にカラにし、この戦争ビジネスは見事に成功、収支決算でおつりがきたそうである。この大芝居も世界はいまだに米国の聖戦だと思い込まされている。このようにアメリカ軍の戦争は、すべて敵が仕掛けたかのように宣伝し、止むなく立ち上がった聖戦に仕立てて、輝かしい歴史を残そうとする。アメリカはヤラセの名人なのである。

 アメリカの太平洋進出と、ハワイ強奪

 1898年の米西戦争は、極東においてアメリカがスペインを押さえて、アジアでの覇権を握る一大契機となった。すなわち米極東艦隊は、フィリピンのマニラ湾でスペイン極東艦隊を撃破した。米西戦争が始まった時、フィリピン人の独立革命家のアギナルドや、リカルテは、独立を助けてくれるものと米軍に大いに協力した。地元革命軍を利用してスペインに勝った米国は、一転、革命家を騙してフィリピンを米軍領土に組み入れてしまった。騙されたと知った革命家は、日本に援助を求めながら、激しいゲリラ戦を展開するのだが、目的を果たせなかった。

 アギナルドやリカルテなどの先住民の独立戦争を鎮圧して、初代軍政長官に就任したのは、アーサー・マッカーサー陸軍少将で、その副官が息子のダグラス・マッカーサー中尉であった。さらにアメリカは、勢いにのって、太平洋の島々、ハワイ、グアム、サモア群島を奪取し、太平洋上に極東進出の多くの拠点を確保することができた。中でもハワイは先住民のカメハメハ王朝下にあって、明治以来、日本人の移民が多かったので、アメリカは日本に奪われるのではないかと危惧し、リリウオカラニ女王を騙して王朝を滅ぼし(1893年)、米領土に編入してしまった(1898年)。その折、ハワイの女王は明治天皇に救援を求めにきたが、日本には、まだ米国と戦う力がなく、見殺しにするより仕方なかった。

 カリブ海域でもアメリカは、キューバに度重なる軍事介入をするとともに、パナマ、ドミニカ、ニカラグア、ハイチなどに介入した。かくしてカリブ海は米国の裏庭となった。中でも、1903年のパナマ保護領化は重大である。すなわち1914年、パナマにアメリカはパナマ運河を開通させたが、これによって大西洋と太平洋を結びつける重要な流通路を獲得し、南米大陸の航海権、通商権を完全に掌握することができた。さらには、いよいよアメリカは、太平洋から極東に向かって覇権を拡大するチャンスを得たのである。こうしてアメリカの侵略最前線は、はるばる太平洋を越えて、いよいよ日本の目の前までやってきたのである(P197~P202)

【オーストラリア編】
 オーストラリアにキャプテンクック(1728~79)が到来したのは、1770年であった。当時この大陸には原住民としてアボリジニーが約30万人も平和に暮らしていた。彼らは4万年も前に東南アジアからこの大陸に移住してきたものである。クックは上陸するや原住民を無視して一方的に英領を宣言した。まず、おれのものと、ツバをつける白人のやり方である。

 英国は1788年、11隻の船隊に流刑囚1473名を乗せて、シドニーに近いボタニー湾に現れた。男囚778名、女囚192名、その他という構成だ。本国の犯罪人を植民地に流刑したのはイギリスだけでなく、ロシアのシベリア流刑は有名だし、フランスもパリ・コミューンの政治犯を多数、ニューカレドニアへ送っている。

 受け入れ側の先住民にとって、男女囚の比率が四対一のアンバランスなことは大変迷惑であった。最初に被害を被ったのはアボリジニーの女性である。男囚の性欲を満たすための現地調達が行われたからだ。オーストラリアは流刑植民地だから、続いてきた一般植民者も本国に容れられない落ちこぼれ、ならず者、無法者が多かった。これら白人にとって現地のアボリジニーは野獣、野犬やねずみと同様、考慮に値しない存在として虐殺が始まった。動物狩りの対象としてアボリジニー狩りを楽しんだのである。

 かくして最初の船隊が来てから約100年後の1901年には、先住民は6万7千人に激減してしまった。オーストラリアの南端にあるタスマニア島のアボリジニーは、もっとひどく、全滅させられてしまった。

 タスマニア島は四国と九州を合わせたくらいの広さで、緑に恵まれた島である。住民はオーストラリアから移り住んだアボリジニーで、平和に暮らしていた。後からやってきた白人植民者に先住民は邪魔とばかり、見つけしだいに射殺された。当初3万7000人いたアボリジニーは、1847年にはたった44人になった。

 絶滅寸前のこの人種の中で、最後の一人となったトルガニーニという女性の数奇な運命は、感動的である。最後の1人となったとき、オーストラリア政府は、最後のタスマニアン・アボリジニーとして人類学上の貴重な資料として保護することになったからだ。佐渡のトキのような運命である。

 1876年、トルガニーニは「山の奥に私を埋めて」と言い遺して苦難の生涯を終えた。遺体は遺言どおり山奥に埋められたが、やがて無法者の白人が墓をあばき、遺体をバラバラにして持ち去った。彼女の骨は考古学上の珍品として高価な値がつき、蒐集家の手に渡り博物館にまで陳列された。やがてトルガニーニの骨が取り戻され、正式な荼毘に付され、その灰ががタスマニアの海にまかれたのは、彼女の死後100年たった1976年のことであった。(P179~P181)

【アジア編】
 330年にわたるインドネシアへの苛斂誅求(かれんちゅうきゅう)

 オランダは、アフリカ及びインド洋の沿岸地域にあったポルトガルの貿易拠点を次々に奪い取り、17世紀中頃には、現在のインドネシアを中心とした地域に、確固とした拠点を築いた。これ以降、330年間もの長期にわたって、オランダのインドネシア植民地支配が続くのである。

 その統治方法は、

1.原住民を文盲のままに放置し、土侯を使って間接統治
2.キリスト教に改宗した者は、優遇して警察官や軍人に登用
3.オランダとインドネシアの混血児童を中間階級として使用し、民族の分断を図る。
4.社会の流通経済は華僑にやらせ、経済詐取によるインドネシア人の憤慨と憎悪を華僑に集中させる。
5.一切の集会や団体行動を禁止する。
6.全国各地で用いられていた320の部族語をそのままにして、一つの標準語にまとめる企てを禁止する。

 以上の方法でインドネシア人から民族意識を奪っていったのである。またオランダは、コーヒー、砂糖きび、藍、茶、肉桂などの「強制栽培制度」を導入した。しかもオランダは直接手を下さず、諸侯を使って分割統治し、その上前をはねるという、巧妙な政策をとった。人民詐取や悪政の恨みを華僑や諸侯に向けさせたのである。

 イギリスのインド支配でもそうだが、植民地支配を会社組織にして一見、国家が政治的軍事的に前面に出ないように見せかけている。植民地を会社経営としたのだから、利益の追求が最大目的で、原住民の福祉など眼中にないのは当然である。植民地とは本国の国益中心で、現地からしぼれるだけしぼるために存在するのである(P146~P147)

 イギリスの植民地支配が長持ちした三つの理由

 近世500年間の世界の覇権国を概観すると、16世紀がスペイン、17世紀がオランダ、18世紀と19世紀がイギリス、20世紀がアメリカと見ることができる。この中にあって、最もヘゲモニーが長持ちしたのは、一番小さな島国イギリスであった。しかも最盛期にはオーストラリア、ニュージーランド、カナダ、エジプトから南アフリカ、インド、ビルマ、マレーシア、それに太平洋の島々を加えて七つの海にまたがる広大な領土を支配し、200年もの間、パックス・ブリタニカを誇りえたのがイギリスであった。その原因、ナゾ解きは、専門の史家によって種々論究されているが、私は次の三点を注目している。

 第一に英国はユーラシア大陸からドーバー海峡を隔てた島国で、直接大陸での抗争、動乱に巻き込まれず、その動向を一歩置いたところから観察できるという地理的優位性を持っていたことだ。この点日本は、ドーバーが30キロなのに対して、東シナ海900キロ、朝鮮海峡200キロで、大陸の動乱にはイギリス以上に巻きこまれる危険性が少なかった。第二点は、キリスト教を植民地統治の手段に使うやり口が、スペイン、ポルトガルとは基本的に違っていた。スペインなどはカトリック国で、十字架を武器に、支配地住民に無理矢理に信仰を強制したが、イギリス(イギリス国教会)は、キリスト教の教義はあまり問題とせず、教会などの組織にのみ関心を示した。したがってカトリックのような狂信的な異教弾圧はなかった。

 ただしイギリスは、宗教が世界支配の重大な決め手であることを確信して、世界の主たる聖地はほとんどその保護国に取りこんでいる。エルサレム、コンスタンチノーブル(イスタンブール9、ガンジス河、メッカ、メジナなど、すべてがそうである。だからイギリスは、最大のプロテスタント国家で、また最大のイスラム国家だったともいえる。英国は宗教にやや寛容で、むしろこれを政治的に利用するのにすぐれていたのである。第三に、スペイン、ポルトガルが植民地から収奪した莫大な富を単に国内で豪勢に消費しただけだったのに対して、イギリスは内部蓄積し、科学技術を高め、産業革命を起こし、海外貿易を盛んにし、さらに産業資本を蓄積して、次の植民地経営に活用した。つまりイギリスは、スペイン、ポルトガルのように泥棒で得た富を一回限りで使い果たして終わることに満足せず、次の植民地収奪という高度の泥棒の手段に、うまく回転していったのである。巧妙と言えば巧妙である。

 なぜイギリスは北米から撤退し、インドに進出したか

 イギリスは1588年、スペインの無敵艦隊(アルマダ)を破り、スペインを衰退させ、さらに、1652年より三回にわたる英蘭戦争に勝利し、オランダの海上権を奪ってしまった。かくして17世紀後半になると、イギリスの植民地争奪戦争の相手はフランスのみとなった。18世紀の英仏の熾烈な植民地争奪戦は、一つは北米大陸で、他はおもにインドで行われた。ヨーロッパによる南北アメリカの植民地分割は、欧州南部のスペイン、ポルトガルが南方の中南米に展開したのに、欧州北部の英仏が、北部の北米に展開したのは地理的宿命のおもしろさである。このため、北米をアングロアメリカ、中南米をラテンアメリカと言うようになった。

 北米での英仏の植民地争奪戦はオハイオ川の支配をめぐって勃発した。最初の四年間は、イギリスに不利な状況だった。しかしイギリスは、ヨーロッパ本土の戦争に深入りせず、多数の軍隊を北米大陸に集中させたために、最終的にフランス領カナダの中心地ケベックを占領し、これを機に形勢は一気にイギリス側に有利になった。勢いに乗ったイギリス軍は、さらに西インド諸島スペイン領も占領した。

 イギリスから多数の植民者が新大陸に移住し、イギリスの植民地が拡大し、力をつけるにしたがって、現地での独立運動がさかんになってゆく。フランスは現地の植民者勢力を応援した。そしてフレンチ・インディアン戦争(1754~63年)をへて、ついにアメリカ合衆国が英国から独立してしまった(1776年)。このためイギリスは、北米で失った利権をインドを中心とするアジアで取り戻すべく、この方面に全力を集中させることになった。

 しかし、ここでも先発のフランスと熾烈な植民地争奪戦争を繰り返すのである。しかし仏軍は、ベンガルの豪族軍と結んで英軍とのプラッシーの戦いにいどむが、敗れてインドからついに撤退する。かくて、インドにあったムガル帝国は、イギリスの支配下に入ることになった。英仏の海外での植民地戦争は、ヨーロッパ本土において、英仏七年戦争となって対応するものだが、これだけでなく、両国は植民地争奪戦がもとで、1689年から1815年まで126年間も、ヨーロッパで熾烈な闘争を繰り返すことになった。

 ヨーロッパ列強の、インドや東南アジア植民地経営は、東インド会社という一見平和な株式会社方式で進められたところに特色があった。東インド会社方式は、イギリスのほか、オランダにもフランスにも、デンマークにもスウェーデンにもあった。いずれも国王の特許状によって設立された。東洋貿易の独占権が与えられ、後に植民地経営の中心となり、武力をもって外国の同業者と激しく競争した。イギリスの東インド会社は、1600年、エリザベス女王の特許状で設立され、18世紀半ば頃、フランス勢力を打倒し、土着君主を抑圧して、インドを完全に掌握してしまった。イギリスはインドの現地人を多数傭兵として使い、結局現地人同士が戦わされることになった。現地人を犠牲にして植民地戦争を戦う方式は、以後すべての戦争に採用されたのである。

 植民地から収奪した富を産業革命に転用したイギリス

 イギリスは、オランダ、フランスを武力闘争で打ち負かし、世界の海上権を握り、広大な植民地を独占することになった。このためイギリスはヨーロッパのどの国より物資資源、産業資本を蓄積することができた。これが18世紀中頃以後にはじまった「産業革命」の原動力となっていったのである。産業革命は、道具による生産から機械による生産への転換であり、また動力の転換でもあった。生産の機械化は、まず木綿工業ではじまった。18世紀になると、インドの綿布への内外の需要が増大し、これがイギリス国内にも木綿工業を発達させ、1733年、ジョン・ケイが飛びおさを発明して織布の生産率が倍加した。さらに1764年、ハーグリーヴズが紡績機を、1785年にカートライトが力織機を発明した。以上を繊維革命と呼ぶ。

 これまでの機械は、動力として水力をを使っていたが、蒸気機関の発明によって産業革命は本格的な進展をみせるようになった。ニューコメンらが蒸気力による排水用ポンプを発展させていたが、ワットがこれを改良して、原動機としての蒸気機関を1781年に完成した。以上が動力革命である。工業の発展は石炭・原料・製品を大量輸送する交通機関の発達をうながした。1814年、スティーヴンソンは蒸気機関車を発明し、1825年に最初の鉄道を実用化させた。これで馬車から鉄道の時代がやってきた。またアメリカ人フルトンは、蒸気船を実用化した。以上を交通革命という。

 かくして最初に産業革命をなしたイギリスは、19世紀に入ると「世界の工場」として繁栄を誇った。この革命を、19世紀中頃をすぎるとフランス、ドイツ、アメリカにも達した。産業革命の進展によってヨーロッパ列強は、原料輸入と商品の市場獲得のため、ますます植民地が必要となってきた。このため、植民地からの収奪は強化され、先住民の伝統的な生産・生活様式は、強制的に転換させられ、悲惨な状態へと追いやられてしまった。(P149~P157)

【アフリカ編】
 ヨーロッパ列強のアフリカ完全分割

 18世紀後半にイギリスで産業革命が進み、そして19世紀のはじめには、イギリスは「世界の工場」と言われるまでの経済の黄金時代(ビクトリア時代)を迎えた。これに刺激されてフランスもアメリカも、1830年代から、ドイツは1840年代から、ロシアは1860年代から、それぞれ産業革命が起こり始めた。このため19世紀末期から20世紀初期になると、ヨーロッパ列強では産業に必要な物産資源の獲得と市場拡大のため、より以上の植民地の必要性が急激に高まってきた。各国間での産業競争が激しくなるにつれて、欧州外での植民地争奪競争もまた激化した。

 ヨーロッパ人にとってアフリカは、北部の地中海沿岸地域が知られていたのみで、広大なサハラ砂漠が横たわる背後の地域は、魅力のある土地ではなかった。ただ黒人を奴隷狩りして、つかまえ、新大陸に売り飛ばす点にのみ、関心が集中していた。しかし19世紀の半ばになり、さしもの奴隷貿易が下火になる一方、リヴィングストンやスタンレーら、白人によるアフリカ内部の探検が盛んになるにつれて、ヨーロッパ列強は目の色を変えてこの大陸に突進してゆくことになった。

 1870年代、アフリカにおける白人の支配地は、沿岸部を中心とする10パーセントぐらいだった。ところが、1900年代には、エチオピア、リビア、南アを除く全ての土地が、白人のむしり取る格好の場となった。まるで無人の野を行くが如く、早いもの勝ちのすさまじい分捕り合戦が始まった。一番たくさん分捕ったのがフランスで、イギリスが二番目、以下ドイツ、ベルギーと続き、最後がスペイン、イタリアである。しかし、フランス領には広大なサハラ砂漠が含まれるので、実質一位はイギリスと言ってよい。フランスはアジアとアメリカ大陸でイギリスとの植民地争奪戦争に敗北したので、その分をアフリカで取り戻そうとして広大な土地を手に入れたが、その大部分は砂漠であった。ところが、イギリスは、エジプト、東アフリカといった主要部分を、実に計画的、地政学的に取得してきた。さすがにイギリスは七つの海を支配するだけの、第一級の植民地大泥棒国であることを実証した。

 現在のアフリカ諸問題の根源は、すべてヨーロッパにある

 そもそもアフリカは、人類誕生の地である。アフリカ東部で発見されたホモ・ハビリスの化石は、150万年から200万年以前のものだそうである。この大陸は、海岸線がきわめて単調で屈曲に乏しく、しかも沿岸台地が海に迫り、直接概要の波浪が打ちつけるため、湾や入り江のある良港に恵まれていない。だから外洋から船が河川を遡って内陸奥深くまで舟航することが不可能で(ナイル川は例外)、このためアフリカの外界との交流は疎外されてきた。

 さらに気候条件も恵まれない。北部と南部の回帰線あたりには、サハラ砂漠とカラハリ砂漠の大乾燥地帯が横たわる。アフリカ大陸の中豪を赤道が通り、この御を中心とする熱帯雨林地帯が広がり、これを取りまいて草原のサバンナ地帯や乾燥疎林地帯が続いている。このような不健康な気候のため、疾病や飢饉が襲って死亡率も高く、全アフリカで人口は約6億7000万(1992年)と、世界の諸大陸中、最も希薄である。その原因は、この厳しい自然環境のほかに、白人がもたらした人為的なものである。つまり、16世紀から19世紀に展開された奴隷貿易で、働手である大量の青年男女が奪い去られたからである。

 また、アフリカ諸国の国境が、今日においても、定規で線を引いたような直線的な様相を呈しているのは、白人本国の都合で住民、人種を無視して勝手に分割統治したからである。同一民族が二つに分離されたり、対立民族が同じグループに一まとめにされたりした。このような民族の歴史、文化、生活を全く無視した不合理な分割統治が、今日のルワンダをはじめとするアフリカにおける地域紛争や不幸の根源になっている。また、労働力がゴムやコーヒーなどのプランテーションへの強制労働に駆り出されることによって起こる飢饉や、白人がもたらした文明病による疾病、さらにソ連からの共産イデオロギーによる紛争など、現在アフリカがかかえる悲惨な問題の根源は、突きつめるとすべてヨーロッパに起因していることがわかるのである。
(P164~P169) 

【白人の世界侵略を阻止し、有色人種を解放した大東亜戦争】
 近代世界史の虹から見た大東亜戦争

 近世世界史をコロンブスのアメリカ大陸到達(1492年)の15世紀末から、香港返還(1997年)、長野オリンピック(1998)の20世紀末までの500年で大観すると、人類の歩んだ歴史の虹がはっきりと浮かび上がってくる。歴史の時間的スパンを500年くらいの長さで見、さらに地理的空間を地球規模のグローバルな視点で観察すると、人類史の真実が手に取るように見えてくる。この虹の橋の上に、日本の存在や日露戦争、大東亜戦争を位置づけると、その意義の重大さがはっきりと描き出されてくる。

 500年にわたる白人の世界侵略史

 この5世紀間、虹の橋の上で活躍したのはスペイン、ポルトガルをはじめ、オランダ、英、仏、米、露など、すべてヨーロッパ出身の白人のみで、その間、東南アジアや、アフリカ大陸、アメリカ大陸の原住民らは、奴隷か植民地民族として呻吟していたのである。

 この時代は、一口に言って、白人による世界植民地侵略制覇の時代と断言できる。彼らは繰り返し、世界中を荒らし回った。彼らは文明とキリスト教の宣教の名をかかげながら、異民族に一片の憐憫の情をも示すことなく、早いもの勝ち、手当たり次第に奪いつくし、殺しつくしていったのである。この時代、白人以外は「人にあらず」で、人間としてまともに扱われることはなかった。

 ところがここに奇跡が起こった。この白人侵略の世界史の虹の中に彗星のごとく忽然と現れたのが日本だった。有色人種は、科学技術という文明で武装した白人にはとうていかなうはずがないとあきらめきっていたのに、長い間国を鎖していた名もない日本が、独り忽然と白人侵略に立ち向かったのである。

 力には力で対抗するしかない世界の帝国主義の時代に、日本も強大な軍事力を蓄えて彼らの侵略を阻止するために立ち上がったのは、日露戦争(1905年)から大東亜戦争(1945年)にいたる僅か40年余りであった。それは世界侵略史500年の歴史の虹のわずか十分の一にすぎない一瞬の出来事であった。

 この虹の上に刻印された日本の存在と決断と犠牲とが、その後の世界史上、白人侵略の停止、植民地解放、人種差別撤廃の動機となり、世界地図を塗り替えるほどの人類史上最大の革命をもたらしたことは、何人も疑うことのできない事実である。(P42~P45)

 今こそ白人の暗黒の歴史を白日のもとに

 西欧500年の発展、繁栄の基礎になっていたものはなんであったのだろう。それは世界史上例を見ないほどの悪逆非道の非白人支配と略奪の上に築かれたものであった。西洋文明の発展、西欧人の栄耀栄華の陰に、その何百倍もの非白人の苦痛、苦難の犠牲があったのである。五世紀にわたって白人の文明と繁栄を支えるために、どれほどの不正と搾取、虐待と殺戮があったことか、今こそ、この白人の触れたがらない暗黒の歴史を白日の下に晒す時が来たのである。これなくして21世紀の平和は語れない。この過去の世界史を総括して反省しない限り、21世紀の真の歴史は生まれないと知るべきだ。(P54)

 引用ここまで

 ≪収穫より略奪のほうが効率的という考え方≫

 ヨーロッパの土地の生産性が日本の土地と比較していかに低いかを、次の数字で見ることができる。まず ヘクタール当たりの牧草収穫高を比較してみる。イギリス、アメリカでは乾草3.6トン、生草→4.4トン、フランスでは乾草5トン、生草20トン。対する日本では乾草30~70トン、生草210~300トンである。★フランスのようなヨーロッパで最も豊沃な地帯と比較しても、【日本は生草でも乾草でも、同一面積の6倍から15倍の生産量】をあげている。

 次にヨーロッパでは農民が蒔いた種の何倍くらいの収穫量があるのであろうか。中世史家の報告によると、中世の十五、六世紀まで穀物の収穫量は、播種量の2,3倍と考えられる。多く見積もる学者でも、4,5倍にしかならない。十七、八世紀でも7,8倍にすぎない。★日本では古くから「一粒万倍」の言葉があるように、収穫量は神の恵みと感謝しきた。★ヨーロッパの農業は、私たち日本人には想像もつかないほど生産性が低い。

 冬の長いヨーロッパでは、春の来るのが遅れると、致命的な打撃を受け、飢餓は慢性的になる。種用として貯蔵していた穀物まで食糧に廻さねばならない。このような苛酷な風土では、生きるためには略奪によって補うより外に道がない。

 西洋史の大家・会田雄次氏によると「略奪が一番簡単で、一番豊かな生活を約束することで、ヨーロッパ以上のところはなかったのだ。日本では泥棒、強盗はバカがやる一番損仕事になっている。略奪はヨーロッパでは、優秀な人間がやる企てであると考え、日本とは全く逆の価値判断である。【イギリスの王家は先祖が海賊】であったことを誇らしげに宣しているほどだ」(『日本の風土と文化』角川書店)と乏しい食糧をめぐる激しい争い、そして略奪を生存のための当然の権利と考えるヨーロッパ人の性向は、ここに由来するのである

 ≪狩猟・牧畜民族の残虐性]≫

 高緯度立地、太陽光の乏しさ、作物の生育に必要な夏の雨量の少なさ、氷河時代の影響を受けた石の文化と沼沢地など、★ヨーロッパの風土はどれをとっても『農業で暮らすにはあまりにも酷しい環境』である。したがって狩猟や牧畜、酪農が生活の基本にならざるをえない。それなのにヨーロッパが、シベリアなどと比較して高緯度の割に多くの人口が生活できたのは、西から大西洋を北上するメキシコ暖流が、比較的気候をやわらげてくれるからである。その上、山脈は東西の方向に走り、西の海から恒常的に吹く偏西風を遮るものがなく、ヨーッパの内陸深くまで海洋の影響が及ぶからである。いわゆる大陸の西側にある「西岸気候」の恩恵を受けるからである。

 これに対して大陸の東側は「東岸気候」といって大陸内部の乾燥した風が偏西風に乗って吹き荒れる。冬期はとくに酷しい。アジアの東の満州、朝鮮、北米大陸の東岸の冬の酷しさは、このためだ。ところが、日本列島のみ、東岸気候下にありながら、温かい対馬暖流の影響で、冬の大陸性気候はやわらげられ、雪を多く降らせるが、寒さはさほど厳しくはなく、冬でも海洋性気候の恩恵が得られるのである。

 さて欧米語に由来する文化という語は、大地を耕して穫ったもの、カルティベイト(耕作した)したものの意である。★ヨーロッパでは、耕すべぎ大地から得られるものがあまりにも少ないので、その上でいかに生き残るかの【生存の文化】になるのに対して、日本では、その大地の上で、いかに豊かな生活を楽しむかの【生活の文化】が中心となって生まれる。

 生きる目的が生存にあるか、生活にあるかとでは、大変な違いである。日本では戦前まで、町でも村でも一般大衆が日常鍵を持ち運ぶ、キーライフというものを知らなかった。欧米人は他人をまず疑い、関係はすべて契約で成り立ち、自己の所有物は鍵を掛けないと安心できない。明治になって日本を訪れた西洋人が、日本の農村を旅行して、夜、蚊帳を吊って寝ている姿が外から見えても平気でいるのにビックリ仰天したそうである。スキがあれば略奪、強盗が日常で、鍵社会で身を守る欧米人からみると、【丸裸の無防備の日本人の生活】は、異常に映ったのであろう。

 中世までのヨーロッパの農民たちは、【略奪と防御に備えて武器を各戸に備えていた。】またいざというときのためにも、武器は農民の必需品であった。古代、中世の一般農民の墓からも多くの剣や槍などの武器が副葬品として発掘されているのである。農民といえども、戦う戦士であったのだ。狩猟生活は絶えず動物に罠や囮を掛け、騙し捕え、おびきよせる技をみがかねばならない。遊牧も牧畜も絶えず動物を殺し、食し、血をみて暮らす生活である.、動物にあわれみなど掛けていては、生活が成り立たない。数千年にわたる厳しい環境の下で、ヨーッパ人たちが檸猛な肉食動物的残虐性を持つようになったのは、このためである。

 以下の記事はhttp://www.nipponkaigi.org/1700-rekishi/1720-02oubeiajia.htmlよりの引用

 欧米列強のアジア侵略はいかにして行われたか

 15世紀の大航海時代で世界に進出した西欧列強は、やがてアジア全域を植民地化した。彼ら白人帝国主義国はいかなる侵略行為を行ったのか。

 1 掠奪と搾取

 350年にわたりインドネシアの香辛料など独占的に収奪したオランダは、19世紀に入ると、強制的栽培制度を導入し耕地の5分の1(実際は半分)にわたって、コーヒー・砂糖・藍などのヨーロッパ市場向け作物を強制栽培させた。これによる巨額な収益は国家予算の3分の1を占めた。

 インドシナ半島東部を支配したフランスは、無主の土地に没収令を出して、申告のない土地を収奪しフランス人らに無償で与えたため、農地を奪われた農民は小作人からさらに債務奴隷へと没落した。イギリスは、インドの綿織物輸入で利益を上げていたが、産業革命で自国の綿製品が盛んになると、インドの綿製品には課税しイギリスの綿製品には免税して逆輸入させてしまった。これによりインドの紡績業は大打撃を受け、織物都市のダッカの人口は激減した。また、茶の輸入により入超になったイギリスは、中国へ流出した多額の銀を取り戻すためにインドにけし栽培を強制し、大量のアヘンを中国に密輸して暴利を得た。財政悪化を招いた清はアヘンの密輸を取り締まったため、イギリスはこれを口実に戦争を仕掛け、香港を租借した。これが悪名高いアヘン戦争である。


 2 貧困と飢餓

 列強は、アジアの都市・沿岸地方における貿易で利潤を得るのが目的であったが、18世紀後半の産業革命を迎えると、原料の供給地と製品の市場として広範囲な植民地を直接支配するようになった。土地の集約的耕作と輸出用換金作物の大規模栽培は、白人の資本投下によるプランティションで行われたが、それは無料に近い土地で低廉な労働力を使い、莫大な収益をあげるものがほとんどであった。そして、マレーのゴム、インドの綿花というように、特定の一次商品を宗主国に輸出し、完成消費財を輸入するという経済構造に変質したため、従来の自給型農業が決定的な変化を被った。その結果、水田の減少や失業者の増加により、飢饉に際して多くの犠牲者を出す地域が現れた。ジャワでは人口33万の町が12万に減少したり、インドではイギリスの支配ののち飢饉が増加し、1877年の南インドの飢饉では5百万人が死亡し、1943年での犠牲者はベンガル地方だけで340万にも達した。

 3 複合民族化

 大規模農業の急速な開発によって、大量の労働者を必要とした列強宗主国は、大量の移民政策をとった。インドネシアでは、中国人苦人(クーリー)が1860年の20万人から1930年の123万人と6倍に増加。マレー半島では、鉱山労働者に中国人、ゴム園労働者にインド・タミール人が大量に移入された。これらの移入アジア人は、現地社会と融合せず固有の習慣や宗教を保持したため、複合社会ができあがってしまった。また、植民統治では、この移入アジア人を金融と流通機構に登用したため、上部に白人支配層が、次に華僑やインド人などの外来アジア人が、最も人口の多い現地民が最下層の地位におかれるという階層社会を造った。この大量の移民政策の結果、例えば、マレーシアでは、マレー人52%、華僑39%、インド人12%という複合民族国家が形成され、戦後も深刻な民族対立の原因となっている。

 4 弾圧と虐殺

 列強は植民地支配への反乱については、きびしい弾圧と虐殺でのぞんだ。イギリスは、1857年に起こったセポイの反乱に徹底的な弾圧を加えた。当時のイギリスの『タイムズ』紙は「キリスト教会の破壊1に対し100のヒンドゥー寺院をたたきこわせ。白人殺害1に対し、老若男女を問わず1000人の暴徒を死刑にせよ』と報復を訴えた。事実、イギリスは、みせしめのため捕虜の集団銃撃や焼き殺しなど、珂責ない弾圧と虐殺を行った。

 フランスのベトナム支配は、監獄をつくることから始まるといわれた。1940年のメコン河流域の住民蜂起では、6000人のベトナム人が逮捕され、サイゴンの監獄は満員となり多くの囚人が死亡した。1945年、ホーチミン国家主席が読み上げた独立宣言にその怒りが込められている。「…彼らは学校より多くの監獄を建て、容赦なく愛国者を殺害し、蜂起を血の川に溺れさせた。…」

 アメリカとて例外ではない。米西戦争に勝ったアメリカは、フィリピンに戦争を仕掛けて8万人の陸軍部隊を送り込み、全域を制圧した。また、1906年、アメリカ式の土地制度などに反発したイスラム系住民の反乱の時は、米軍は彼らの砦を包囲し、戦闘員から女子供を含めて6百人全員を皆殺しにしてしまった。


 5 愚民政策

 列強のアジア支配の例として、オランダの350年間にわたるインドネシア支配の特徴を、ASEANセンターの中島慎三郎理事長は次のように分析している。

①オランダの安全と利害に関係ない限り放任し、人民を文盲のままにして各地の土侯(サルタン)を使って間接統治した。徹底した愚民政策をしいたのである。

②才智にたけたアンボン人とミナハサ人とバタック人を訓練し、キリスト教に改宗させて優遇し、警察官や軍人として登用。そして、オランダとインドネシアの混血児を作り中間階級として使い、民族の分断を策した。

③社会の流通経済は華僑にやらせ、経済搾取によるインドネシア国民の憤慨と憎悪は華僑に集まるよう仕向けた。

④インドネシア人の団結を恐れ、一切の集会や団体行動を禁止した。3人のインドネシア人が立ち話することすら許されず、禁を犯せば反乱罪で処罰された。

⑤インドネシア国民の統一を阻止すべく、全国各地域で用いられていた320の種族語をそのままにして、一つの標準語にまとめる企ては絶対に許さなかった。


 列強に侵略にあえぐアジア

 清(中国)

 1662年以降、中国を支配した満州族の清は、東インド会社が経営するインドとの貿易を開いていたが、イギリスとのアヘン戦争やアロー戦争の敗北を契機に列強に不平等条約を締結させられ、外国の圧力を受けた。特に日清戦争の敗北後は、ロシア・イギリス・フランス・ドイツなどによって鉄道の敷設権や要地の租借権を奪われ、半ば植民地の状態となった。

 朝鮮

 14世紀に李氏が朝鮮半島を統一したが、17世紀に入ると清の攻撃を受けて服属した。欧米列強は鎖国を続ける朝鮮に開国をせまり、我が国も日朝修好条規を結び開国を進めたが、日清戦争によって宗主国の清に朝鮮の独立を認めさせた。その後ロシアが朝鮮を圧迫したが、日露戦争を経て、我が国が朝鮮の指導・監督権を獲得し、1910年、日本の領土(日韓併合)となった。

 インド

 紀元前4世紀に統一国家の出現を見たインドは、16世紀にはムガル王朝が成立した。しかし、1600年にイギリスがインドに進出して乗インド会社を設立し、度重なる征服戦争を繰り返して全土を征服した。イギリスは、セポイの反乱の武力鎮圧後、1877年にムガル帝国を滅ぼして英領インド帝国を樹立。以後は直接統治を行い、苛酷な植民地経営を行った。

 ミャンマー(旧ビルマ)

 1044年にパガン王朝が全土を統一したが13世紀の元帝国の侵入後は小国に分裂し、やがてアラウンバヤ王朝が統一を達成した。17世紀以降、イギリスの乗インド会社と貿易を行っていたが、イギリスが三度にわたるミャンマー(ビルマ)戦争でこれを征服し、1886年に全土をインド帝国に併合し、植民地化した。

 インドネシア

 14世紀にはジャワ島を中心にマジャバヒト王国が勢力を拡大したが、17世紀にはマタラム王国などイスラム系の群小国家が成立した。17紀よりポルトガル・オランダ・イギリスなどが進出し、1818年にオランダがマタラム王国を滅ぼして植民地にし、19世紀末までにスマトラ.ボルネオを支配し、1904年にオランダ領東インドをつくって植民地体制を確立した。

 マレーシア

 15世紀にマラッカ王国がにポルトガルに支配され、17世紀にはオランダの支配を受けた。18世紀後半に入るとイギリスが進出し、イギリスは、ペナン・シンガポール・マラッカを海峡植民地として直接統治し、さらに北ボルネオ・マライ半島への支配を強化して1895年にマライ連邦を結成した。

 インドシナ三国

 中国支配にあったベトナムは、10世紀に独立政権が誕生したが、19世紀の阮朝がフランスの軍事介入を受け、侵攻された。ベトナムの宗主権を主張する清がフランスと戦った(清仏戦争)が敗れたため、1885年フランスの保護国となった。カンボジアは、9世紀のアンコール朝がカンボジア最盛期の王朝となったが、14世紀以降は周辺国に侵入を受け衰還し、ベトナムがフランスの植民地にされると1863年にフランスの保護国とされた。ラオスも、14世紀半ばにランサン王国が最初の統一国家となったが、1893年にフランスの保護国となった。フランスは、このインドシナ3国を併合して仏領インドシナ連邦(仏印)を形成した。

 フィリピン

 7千余りの島嶼をもつこの地域は、マレー・インドシナ系の民族が、イスラム教を信仰していたが、16世紀にマゼラン率いるスペイン遠征隊が侵入。武力でルソン島を平定したスペインは1571年に植民地とし、皇太子フィリップにちなみここをフィリピンと命名した。1898年には米西戦卑でスペインに勝ったアメリカがフィリピンの植民統治を行い、徹底した英語とキリスト教の普及を押し付けた。

 タ イ

 13世紀のスコータイ王朝が最初に民族統一国家をつくり、14世紀から4百年続いたアユタヤ王朝を経て、1782年に今日のバンコク王朝が創設された。19世紀から20世紀にかけてイギリスとフランスからの進攻を受けてラオス・カンボジア・マレーにある領土を取られたが、インドシナ半島の英仏両国の緩衝国家として独立を保った。
 大東亜戦争は植民地解放戦争だった

 参考動画
 欧米のアジア植民地支配の歴史
 白人による過酷な植民地政策によって、植民地の住民は動物のように扱われ、莫大な富の収奪によって、インドや東南アジアの国々は痩せ細る一方であった。
 インドネシア独立戦争
 日本軍の軍政下で結成された組織や日本軍の指導の下で行なわれた様々な訓練が、その後のインドネシア独立戦争で大きく開花する。
 インドネシアの侍
 日本の敗戦後、再び植民地経営をしようと再上陸してきたオランダ軍を相手に、インドネシア人達と一緒に独立戦争を戦い抜いた日本兵達の物語。
 ミャンマーでは大東亜戦争はどのように教えられているのか
 ミャンマーで大東亜戦争がどのように教えられているのか、当時、日本軍はどういう軍隊だったのか、ミャンマー現地取材の映像で語られる歴史の真実。
 ビルマ(現ミャンマー)独立の父
 ビルマの独立に係わったビルマ人の多くが、日本で訓練を受けており、当時の日本軍の南機関がビルマ独立に多大な貢献をしている。
 親日国インド
 莫大な富の収奪、愚民化政策、分割統治等、200年以上にも及ぶ英国の過酷なインド支配の実態と、インドの独立運動と日本との関わり。
 インドネシア独立記念パレード
 インドネシアの独立記念パレードで、日本刀や竹やりを持ち、誇らしげに日本の軍歌を歌う現地の人々。日本軍は植民地独立の象徴的存在である。
 今もインドで歌われている日本兵を讃える歌
 インドのマパオの村で、今も歌われ続けている日本兵を讃える美しい歌。その歌詞は日本兵への思いやりに満ちている。
















(私論.私見)