ハワイ王国史 |
(最新見直し2010.11.30日)
(れんだいこのショートメッセージ) |
ここで、ハワイ王国史を確認しておく。「NHKシリーズ番組その時歴史が動いた」の2006.8.30日付け第260回「幻のハワイ日本連合 〜カラカウア王・祖国防衛に賭けた生涯〜」がハワイ王国のカラカウア王を採りあげて、NHKなりに「ハワイ諸島侵略史」を報じていた。れんだいこには初耳の話であった。これに興味を覚えたので本サイトで検証することにする。 いつものやり方であるが、ネット検索で出てきた「カイウラニ王女1」、「カイウラニ王女2」、「23.カラカウア王の提案〜幻に終わった日本・ハワイ連邦構想 (1998.2.21)」、「明白な運命(ハワイ王国の消滅)」 、「ハワイの歴史」、「ウィキペディア(Wikipedia)カラカウア (ハワイ王)」、「アメリカ西進の軌跡 盗まれた楽園、ハワイ王国」、「ウィキペディア・ハワイの歴史」等々を参照し、れんだいこ風に纏めた。著作権云々に煩(うるさい)い者はご遠慮頼む。そうでない者は見てたもれ。 2006.9.3日 れんだいこ拝 |
【ハワイ侵略史1、「西欧夷人」のハワイ侵略開始】 | |
イギリスの探検家ジェームズ・クック中佐(Captain James Cook、1728〜79年、通称キャプテン・クック)は、パトロンの第四代サンドイッチ伯爵のジョン・モンターギュ海軍相(海軍本部長)により「北西航路」を見つけるよう命令され、1768年、ロンドンから喜望峰経由で大航海に旅立った。1769年、金星観測のためタヒチに到着し、基地として南太平洋上を航海し始める。続いて、王立協会―海軍省の追加命令にしたがって、伝説の南方大陸 (テラ・アウストラリス、Terra Australis) を求めて南太平洋を探索し始めた。1770年代当時のヨーロッパは、アラスカを発見したばかりであり、その先の航路が不祥となっていた。クックの航海は、第1回航海(1768年 - 1771年)、第2回航海(1772年 - 1775年)、第3回航海(1776年 - 1780年)の3回にわたって行われた。 1778年、クック船長率いる「西欧夷人」による第3回目となる航海でハワイ諸島を発見することになる。クリスマス島を発見した後、1.18日にオアフ島、1.20日にカウアイ島、続いてニイハウ島を発見する。カウアイ島のワイメア湾(ベイ)にレゾリューション号、ディスカバリー号を投錨し、ハワイ諸島を上官のサンドウィッチ伯爵の名にちなみサンドイッチ諸島と名付けた(現地ハワイ人の間では既にハワイという名称が定着していた)。ウオルター・マクドール著「LET THE SEA MAKE A NOISE」は、クック探検隊一行の一人の証言記録を次のように伝えている。
2月、物々交換によって食料等を調達したのちに一旦ハワイを離れ、北西へと旅立った。その後、同年11月、ハワイを再訪したクックは、マウイ島とオアフ島を船上調査した。 1779年、ジェームズ・クック船団2隻がハワイ島のケアラケクア湾(神の道の意味)のビッグ・アイランドに上陸した。「西欧夷人」の触手がハワイ諸島に伸びた瞬間となった。以降、ハワイの運命やいかに。「ハワイの不幸はこのときから始まった」。マクドールの前著には「MAKE A NOISE(騒々しくなる)」と記されている。 この時代、ハワイ諸島にはポリネシア系住民が住み、3つの王国に別れていた。クック一行の上陸に対し、原住民は歓待した。この時、新年の祭り(マカヒキ)の最中で、ハワイ島の王であったカラニオプウは海からやってきた白人クックを伝説の主神にして豊穣を司るロノ神の化身と看做してヘイアウの奥に鎮座する祭壇へ案内した。供物を捧げ、宴を催して酒池肉林のもてなしで歓迎したと云われている。 ところが、クック一行は、既にアフリカやカリブ海諸国でそうしたように原住民をゴイム扱いし奴隷化支配せんとし始めた。首長や神官の権威を損ねたため、両者は抗争に突入した。 2.14日、クック始め数人の船員がハワイ島ケアラケクア湾で惨殺された。その経緯の実相は定かではないが、クックらのカッターを先住民が盗み、盗品の返還交渉で威丈高に交渉したクックらに対し反発が強まり、長の1人がクックらの捜索隊に殺されたという噂に動揺した結果、槍と投石でクックらを攻撃し始め、その過程でクックは頭を殴られ、波打ち際に転倒したところを刺し殺されたと云う。 ディスカバリー号を率いていたチャールズ・クラークは、大急ぎで船の修復を終え、イギリスへと舵を取った。クラークは海軍本部、英国王立協会にクックの死、北方海路探索の失敗、そしてサンドウィッチ諸島の発見を報告し、欧米にその存在を知らしめた。 クックの後に続いて現れた「西洋夷人」サイモン・メトカーフが、原住民を100人以上虐殺した。 |
【ハワイ侵略史2、カメハメハの天下の布武戦争始まる】 |
1780年頃、カウアイ、ハワイ両島を除いた6島は、マウイ島のカヘキリ王により統一されていた。一方、ハワイ島はカラニオプウ王が統治し、マウイ島への侵攻を狙っていた。1782年、ハワイ島のカラニオプウ王が死去。王権を息子のキワラオに、宗教儀式を仕切る守護神祭祀を甥にしてハワイ島のコハラにおいてアリイの家系に生まれのカメハメハに譲った。カメハメハはこのとき戦争の神(クカイリモク)という称号を授かり、コハラおよびコナの領地を譲り受けた。王直系のキワラオとカメハメハ間のいさかいが耐えなかった。 1790年、キワラオはカメハメハに戦争をしかけたが、モクオハイの戦闘で負傷し、逆にカメハメハがキワラオを滅ぼす。 その後、ハワイ島はコナのカメハメハの他に、カウのケオウア大酋長、ヒロのケアウエ大酋長による3分割の統治が始まる。カウのケオエア大酋長は、マウイ島のカヘキリ王の計略に踊り、ヒロに侵攻しケアウエ大酋長を滅ぼす。一方、カメハメハはカヘキリ王の陰謀を察知し逆にマウイ島に侵攻、イアオ渓谷の戦いで大勝利を収める。同時にハワイ島でケオエア大酋長の不穏な動きを察知し、軍をハワイ島に返す。この時、キラウエア近くを進軍中だったケオエア大酋長の軍は、キラウエア火山の大噴火に襲われ全壊に陥る。 1794.2.24日、カメハメハは、クックの後継者とも言えるジョージ・バンクーバーを懇意にし、ハワイにおけるイギリス人水兵の安全保障の見返りとして、外国のハワイ侵略をイギリスが防衛する防衛援助協定を取り付ける。 1794年、マウイのカヘキリ王が老衰で死去する。既にハワイ島の王となっていたカメハメハはすぐにマウイ島に侵攻し、カヘキリの息子カラニクプレをオアフ島ヌアヌパリの戦いで激戦の末勝利する。これにより、カメハメハ王(King Kamehameha)がハワイ島とマウイ島東側を統べることになる。しかし、カメハメハ王は「西洋夷人」に取り込まれており、その甘言教唆に従いハワイ諸島全域の支配に向かい始める。 1795.2月、カメハメハ(King Kamehameha)は、イギリスから仕入れた銃器を手にハワイ諸島統一に向けて動き出す。 1795.4月、カメハメハがハワイ全島の支配のためオアフ島へ侵攻し、ヌウアヌパリの戦いで大勝利を納め、ニイハウ島とカウアイ島を除くすべての島を制圧する。イギリス人のジョージ・バンクーバーを参謀として起用、軍事顧問と最新の武器を導入すると云う西洋式武器を駆使しての勝利であった。これにより、カメハメハ1世(大王)(1758〜1819年、在位1782〜1819年)がハワイ王国(Kingdom of Hawai'i)樹立を宣言する。 1796年、カメハメハ王は、カウアイ島のカウムアリイ酋長に攻撃をしかけるが失敗する。1800年、残りの島の制圧を目指したが嵐や疫病の発生により不調に終わった。1804年、王宮をマウイのラハイナから一時ホノルルに移し、カウアイ島の侵攻を計ったが失敗した。 |
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「西洋夷人」の来航と共に原住民間の戦争が始まるのは世界史の共通現象である。これを思えば、それが国際金融資本帝国主義の支配戦略戦術であると云うことになろう。これに白羽の矢が当たったのがカメハメハ王であり、忠実な役回りをして行くことになる。こう評するべきではなかろうか。 2010.11.30日 れんだいこ拝 |
【ハワイ侵略史3、カメハメハ1世(大王)がハワイ王国創出】 |
1810年、カメハメハ王は、アメリカ人ウィンシップ兄弟の協力を得てカウアイ島大族長カウムアリイ王と講和条約を結ぶことに成功し、ハワイ全諸島を統一した。この時、「西洋夷人」がカメハメハ王権力に食い込んでおり、これがその後の王朝の崩壊につながっていくことになる。それは余りにも高過ぎる以上の代価を支払わされることになるが、カウムアリイ王は、この時点ではまだそれを知る由もない。 |
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カメハメハ王が「西洋夷人」を取り込んでハワイ諸島を天下布武したことを日本の戦国武将・織田信長のそれに比すると、やはり脇が甘かったことになるのではなかろうか。織田信長は、南蛮交易を押し進めたが、権力内に「西洋夷人」を取り込むことはしなかった。それが為かどうか本能寺の変で不慮の死を遂げることになるのであるが、「西洋夷人」への対応差が大きい。このことは重要であると思われる。ちなみに、ここで云う「西洋夷人」とは、例の改宗ユダヤ人というネオシオニストと考えれば良い。一般的に西欧人と表記するのはゴマカシではないかと思う。 2006.9.2日 れんだいこ拝 |
【ハワイ侵略史4、カメハメハ1世のハワイ王国時代、欧化政策の強権導入と伝統保持の葛藤】 |
カメハメハ大王の王朝政治が始まった。併行して外国貿易が盛んになり、ハワイ産物が国外に持ち出された。王は、外国貿易の実態を横目に見ながら、ハワイの伝説的生活習慣や宗教の伝統を重視せんとした。伝説に基づく古来の神々を崇拝し、祭祀場であるヘイアウを建立している。カメハメハ王は、ハワイ島ヒロ、マウイ島ラナイナ、ハワイ島カイルア・コナと首都を移した。 1810年代後半、アメリカ海外伝導評議会がキリスト教を布教するため、ハワイに宣教師を派遣する。 1816年、イギリス人のジョージ・ペックリ―が左上にイギリス国旗が描かれたハワイの旗をデザインし、これが受け継がれることになる。 1819.5.8日、統一からわずか9年後、カメハメハ大王は逝去した。死因の様子は分からない。 この時が、同王朝の最盛期となった。 |
【ハワイ侵略史5、「西洋夷人」宣教師のプロテスタント伝道師団が本格的な布教活動を開始する】 |
カメハメハ大王が死んだこの年、「西洋夷人」宣教師のプロテスタント伝道師団が来訪し、本格的な布教活動を始める。 捕鯨船、商人が次々現われ、それと共にハワイ諸島の資源が乱獲された。この間、ハワイアンの大らかな民族的気質もあってか「西洋夷人」と和合的で急激に混血が産まれていった。ハワイ人には、もともと土地を所有するという考えはなかった。「西洋夷人」は土地制度をつくり、ハワイの3/4の土地を自らのものとした。タロ芋畑に代わってサトウキビが栽培され始めた。 この頃、伝染病が流行り、ハワイ人は新しい病気に対する免疫力がなかった為、カメハメハ大王11世時代に30万人いたハワイ人の人口は、50年後には数万人にまで落ち込むことになる。人口に占めるハワイ人の割合は減り続け、白人と労働力としてのアジア人が増加していった。 |
【ハワイ侵略史6、カメハメハ2世(クヒナ・ヌイ)のハワイ王国時代、欧化政策の満展開】 |
1819年、1世の長男息子のリホリホが後継し2世を名乗った。カメハメハ2世の摂政(クヒナ・ヌイ)となったリホリホの義母にあたる前王妃カアアフマヌ(Kaaafumanu)が実権を握っていた。前王妃は「西洋夷人」に取り込まれており、1世時代の伝統尊重政治を改めハワイ固有の制度や宗教やタブー(カプ)を廃止する政策に転じた。これによりハワイの伝統的文化秩序が廃れていき、西欧文化もどきが幅をきかせる社会へと変質していくことになった。 1820年、聖職者ハイラム・ビンガム、アーサー・サーストンらを乗せたタディアス号がニューイングランドよりコハラに到着し、アメリカ海外伝道評議会が派遣したプロテスタント伝道師団が来訪し、布教活動を始めた。宣教師達は、ハワイ島に最初のキリスト教会となるモクアイカウア教会を建て、本格的な布教を開始する。蛇足ながら、ここで云うキリスト教とは、開祖イエスの事蹟を慕うものではなく、ネオシオニズム的ユダヤ教化された改宗ユダヤ人らによる変種キリスト教を意味している。当時世界史的に、この種の「変種キリスト教」がキリスト教の名の下に広められていき、植民地化の先兵的役割を果たしていった。 ハワイ先住民たちの男はマロと呼ばれるふんどしのような帯のみを身につけ、女は草で作った腰みのだけを身に付け、フラダンスという扇情的な踊りを踊る習俗文化に対して無知野蛮、非人道的「異教の踊り」として断罪禁止し、プロテスタンティズムによる改造を促して行った。 2世の王妃ケオプラニが、ハワイ最初の「この種のキリスト教徒」となった。続いて、カアフマヌやマウイの女酋長カピオラニが改宗した。これにより、多くのハワイアンがこの種のキリスト教」に帰依することとなった。伝道師は、半裸のハワイアンに服を強制し「ム−ム−」を着せた。フラダンスやサーフィンを禁止するよう働きかけた。古代宗教の神殿が破壊され、階層構造により保たれていた秩序や規範が崩壊して行くことになった。1821年、オアフ島のホノルルにカワイアハオ教会が建設され、宣教師たちの保護や水・食料の補給のためと称してアメリカ合衆国の軍艦がホノルル港に投錨するようになった。「悪魔は、懐と背後に剣を秘め、善人の囁きと言葉を持ってやってくる」見本だろう。 1822年、プロテスタントの宣教師らが文字を持たなかったハワイ語にアルファベット文字を当て嵌めたハワイ語を確立し、キリスト教の布教を兼ねて読み書きを教え始めた。 1823.11.23日、リホリホ王は王妃のカママルを連れ、貿易問題の解消を求めてイギリス・ロンドンへ赴いた。 1824年、リホリホ王とカママル王妃は滞在先で麻疹に感染し、7.8日、カママル王妃、7.14日にリホリホ王が他界した。リホリホ2世は在位わずか5年で亡くなった。 |
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アメリカ海外伝道評議会のみならず様々な名称で組織されるキリスト教系伝道団体の正体は、これを世界史的に見ればキリスト教の名を借りた国際金融資本帝国主義の現地調査先遣隊であり「侵略の先兵隊」であったことは疑いない。神の国の福音を説くと云う名目で、その実ユダヤ教義を骨格とした一神教的エホバ信仰であるところに特徴が認められる。この洗脳教義により同調者を組織し、エージェント教育するところに狙いがあったとみなされる。これが伝道事業の本質であったと思われる。日本では、この種の宣教師に対して早くよりバテレン(蛮天連)として本質を見抜いて警戒したが、諸外国では概ね受容して行ったところに不幸が始まった。かく構えるべきではなかろうか。
2010.12.03日 れんだいこ拝 |
【ハワイ侵略史7、カメハメハ3世(カウイケアオウリ)のハワイ王国時代、引き続く欧化政策の強権導入】 |
1825.6.6日、2世の弟のカウイケアオウリ(当時10才)が即位し、3世となった。先王の後見人カアフマヌ王妃が引続き摂政(クヒナ・ヌイ)となり、その権力と発言権が彼女が亡くなる1932年まで続いた。3世の治世は王朝の中では最長の約30年間続いた。宣教師たちは実質的な実権を握る摂政カアフマヌに近づき、ハワイのキリスト教化をすすめることに成功した。この間、ハワイの植民地化が進んだ。「国が溶解するのは、無能宰相による売国奴政策を通してである」という格好事例だろう。 1825年、カアフマヌ王妃がペレ否定、宣教師たちの時代へ入る。宣教師達の権力が増大し、彼らは原住民の伝統文化や儀式を邪教として排斥。歌謡の一種であるオリ・伝統芸能の一種フラなども禁止する。 1827年、フランスよりカトリック教会の宣教師がハワイへ上陸した。カアフマヌ王は、既にプロテスタントが浸透しつつあったハワイでの他宗派の影響による混乱を危惧し、退去を命じる。 1831年までに5万人の先住民が告発された(全人口の2/5)。さとうきびプランテーションが開拓され、同時に文化破壊進行、伝染病が蔓延する。 1832年、カアフマヌ王妃が生没する。摂政の後任としてカメハメハの娘にあたるキナウが就任した。ハワイ王国は西欧化を更にを押し進める。 1834.6月、マウイ島で太平洋地域で初となる新聞「カ・ラマ・ハワイ」が創刊された。同10月、ホノルルで「クム・ハワイ」、1839年には聖書が出版された。徹底した文教政策が奏功し、ハワイ住民の教育水準は飛躍的な高まりを見せ、近代化が加速度的に進行した。しかしこれは同時にハワイの伝統的な文化の断絶を意味していた。 1835年、コロア製糖会社が設立され、製糖業が盛んになる。貿易負債削減のため、それまではネイティブハワイアンの食料としてのみ栽培されていたサトウキビを輸出用資源として大規模生産を行おうとする動き開始された。 1837年、再びカトリック司祭が来航した。同年12.18日、カアフマヌ王は、ハワイでのカトリックの布教と信仰の禁止の命を下した。この命は1839年に解除されたが、太平洋の他の諸島と違い、ハワイにおけるプロテスタントの影響は優勢であり続けた。 1839年、イギリスのマグナ・カルタを基に「権利宣言」を公布した。 1840.10.8日、カメハメハ3世の御世にハワイ憲法が制定され、立憲君主制の体裁を伴って近代国家もどきの体制を固めた。公立学校制度を整備する。 1842年、 アメリカとの独立承認交渉によりジョン・タイラー大統領により独立が認められる。 1843年、カメハメハ3世の時代に、イギリスのジョージ・ポーレット卿が武力によりハワイをイギリス領とした。 1845年、ホノルルがハワイ王朝の首都となった。 この年、基本法が定められ、行政府として王、摂政、内務、財務、教育指導、法務、外務の各職が置かれ、15名の世襲制議員と7名の代議員からなる立法議会が開かれた。これにより、ハワイに帰化した欧米の外国人がハワイ政府の要職に就くことになった。 |
【ハワイ侵略史8、カメハメハ3世(カウイケアオウリ)のハワイ王国時代、「グレート・マヘレ法」施行】 |
1848年、「グレート・マヘレ法」と云われる土地が施行され、ハワイの土地は王領地、官有地、族長領地に分割された。1850年、外国人による土地の私有が認められるようになると、対外債務を抱えていたハワイ政府は土地の売却で負債を補うようになった。この一連の土地法により権利関係に無頓着だったハワイアンは土地を手放してしまい、ハワイの土地が次々と白人の手に渡っていった。国土のほとんどが白人のものになった。1862年までの12年の間にハワイ諸島の約75%の土地が外国人の支配する土地となり、生活の基盤を失うこととなった。白人所有の土地には砂糖キビ耕地が広がり、やがて砂糖プランテーション化し、労働力として数多くのアジア人が移民連行され始めた。中国、日本、韓国、フィリピン、・ポルトガル、プエルトリコなどからの移民が流入した。 1849年、フランス人ギョーム・ディヨンの指揮で、ハワイ政府の建物がフランス軍により占拠されるという事態が起こった。つまり、ハワイ王国は、イギリスに始まりフランス、スペイン、アメリカというハゲタカに次々と狙われ、最終的にアメリカに併合されていくことになる。この間、ハワイ王朝は辛うじて存続し、西欧列強に独立主権国家として承認はさせていたが、欧米列強のハワイ植民地化の動きは止む事が無く、内実はどんどん空洞化していった。 当時、投票権を持つ男性はハワイ王国の全男性中30%に過ぎず、 そのほとんどが白人であった。投票権を持つためには3千ドル以上の財産または年収500ドル以上とされていたため、王国の実権は少数の白人土地所有者たちの手に握られていた。ハワイの内閣はほとんど英米系の帰化白人で占められていた。 1850年、外国人による土地私有が認められた。これにより、白人の投資家たちの手によってハワイ各地にサトウキビ農場が設立され、一大産業へと急成長した。この動きが加速し、1876年の関税撤廃に至るとハワイ王国は世界有数のサトウキビ輸出国となる。 1851年、フランスの武力占拠に対し、ハワイを米国保護領下に置くという声明を一方的に発表する。 1852年、ハワイ新憲法が採択された。新憲法はエイブラハム・リンカーンが奴隷解放宣言を行うはるか前に奴隷制禁止条項が盛り込まれていた。西欧化はアフプアアを伝統とした土地制度にも及び、欧米的な土地私有の概念が取り込まれた。この年、ハワイ有力産業の砂糖プランテーション経営者が海外から労働力の導入として移民の受け入れを行う。 1854年、カウイケアオウリ3世が死亡する。 |
【ハワイ侵略史9、カメハメハ4世(リホリホ)のハワイ王国時代、親米から親英政策に転換】 |
1855.1.11日、3世の甥、初代の孫、摂政であったキナウの次男のアレキサンダー・リホリホが即位し4世となった(20歳)。この頃の行政府内にはアメリカ系、イギリス系、先住ハワイ人という3つの対立したグループが形成されていた。4世は兄のロト・カメハメハと協力し、アメリカの野望を見抜き、閣僚からアメリカ人を排除した。通商・貿易におけるアメリカへの依存を低めるよう努め、またイギリスを初めとするヨーロッパの国々との取引を模索した。4世はイギリス贔屓(ひいき)で、英国式正装に身を包み、舞踏会をひらき、乗馬・クリケットを愛した。王妃エンマは病院の創設など社会福祉への貢献で名高くその美貌も有名だった。4世は親英政治と優雅な王宮風俗をつくりあげた。 1860年、イギリスの王制を高く評価していたアレクサンダー・リホリホは、「ハワイアン改革カトリック教」という名のエピスコパルをハワイに設立し、イギリス本土よりトーマス・ステイリーをはじめとする英国国教会の聖職者を招聘した。この背景には息子アルバートを洗礼させ、イギリスのヴィクトリア女王を教母として立てることで列強諸国と対等の関係を築こうとした政治的思惑があったとされる。ところが、1862年、溺愛する息子を亡くしている。 1860(万延元)年、日本の遣米使節団がハワイに寄港する。カメハメハ4世が謁見し、労働者供給を請願する親書を信託する。この時期、日本は幕末維新から明治維新へと向かう激動期にあり積極的な対応がなされなかった。 1863.11.30日、リホリホ4世が在位9年の短さで夭折した(享年29歳)。エンマ女王はこの後も活発に政治活動を続け、1874年の国王選挙に立候補するが、カラカウアに敗れる。 この頃、「バーニス騒動」が持ち上がっている。皇位継承資格者バーニス(Princess Bernice Pauahi Bishop)は、カメハメハ1世の孫にあたるロッド王子と婚約していた。しかしニューヨーク生まれのチャールズ・R・ビショップ(Charles Reed Bishop)と出会い、婚約を破棄してビショップと結婚した。ビショップは王室の一員待遇となった。 |
【ハワイ侵略史10、カメハメハ5世(ロッド・カプイワ)のハワイ王国時代、親英政治の続行】 |
1863年、4世の弟ロッド・子が即位し5世となった。兄同様アメリカのハワイ併合を危惧し、親英政治を行った。彼は生涯独身だったためカメハメハ王朝は終焉を迎えることになる。
1864.8.20日、カプイワ王5世の治下、王権復古を目指して新憲法を公布した。親英の王が続いたことでハワイ王国がイギリスに傾斜することを危惧したアメリカ合衆国は、極秘裏にハワイ王国の併合計画をはじめた。 1866年、「トム・ソーヤーの冒険」などの著者マーク・トウェイン(1835−1910)がハワイに渡来。「Letter from Hawaii」執筆。 |
【ハワイ侵略史11、カメハメハ5世(ロッド・カプイワ)のハワイ王国時代、日本とハワイの外交関係樹立、日本移民始まる】 |
1867年、日本とハワイの親善協定が締結され外交関係を樹立する。 カメハメハ5世は、在日ハワイ領事として横浜に滞在していたユージン・ヴァン・リードに、日本人労働者の招致について日本政府と交渉するよう指示した。ヴァン・リードは徳川幕府と交渉し、出稼ぎ300人分の渡航印章の下附を受ける。しかし、その後の幕末政変により明治新政府治下となり、明治政府はハワイ王国が条約未済国であることを理由に、徳川幕府との交渉内容を全て無効化した。 1868(明治元)年、渡航準備を終えていたヴァン・リードが、ハワイ人の人口激減対策で、日本より無許可移民「元年者」と呼ばれる第1号移民団153名をサイオト号に乗せてハワイに移住させた。江戸幕府とイギリス人ブローカーの契約だったため、明治新政府から認められず、パスポート不所持のまま移民)ながら渡航した。これが日本移民の最初となる。以降年々増加し、1890(明治23)年にはハワイ総人口の40%が日本移民という迄になる。これが偶然という訳ではなかろう。この政策を推進した背後勢力がある筈であるが、その検証は為されているのだろうか。 1869年、明治新政府は、自国民を奪われたとして上野景範、三輪甫一をハワイに派遣し抗議する。折衝の結果、契約内容が異なるとして40名が即時帰国し、残留を希望した者に対しての待遇改善を取り付けた。この事件を契機として日本とハワイの通商条約が議論され、1871(明治4).8月、日布修好通商条約が締結された。 |
【ハワイ侵略史12、米帝国主義のハワイ侵略】 |
19世紀、西欧列強に伍して俄かに台頭し始めた米帝国主義が、ハワイを太平洋戦略の拠点として位置づけハワイ王国に侵略を開始した。米墨戦争(1846年ー1848年、アメリカ合衆国とメキシコの間で戦われた戦争)、南北戦争(1861年ー1865年)を経たアメリカが、本格的に帝国主義的植民地化競争へと参入し始めた。米帝国主義は、政治・経済・軍事と次々にハワイ王国の主権を蹂躙(じゅうりん)
していった。19世紀後半、ハワイ王国は米帝国主義の餌食にされる目前にあった。ハワイ王国は、これに能く対応しきれるだろうか。 1872年、カプイワ5世が42歳の時、死の床で初代王直系のただ一人の血統者である末裔の女性バーニスに王位を継承しようとした。しかし、ビショップと結婚しているバーニスは王位継承を断った。 1873年、5世が死去した。生涯独身で過ごした5世には子供がいなかった為に跡継ぎがなく、カメハメハ王朝の直系は5代で途絶えることになった。カメハメハ5世は後継者を決めることが出来ぬまま世を去った。 |
【ハワイ侵略史13、ルナリオ王のハワイ王国時代】 |
王族の中から選挙による王が選出されることになり、1872年、国王選挙が行われた。第6代として王族のルナリオ(1835−1874)が王国議会で選出された。 1873.1.9日、親米派のルナリロ王が即位する。ルナリロはアメリカ人を閣僚に据え、アメリカからの政治的、経済的援助を求める政策を執った。アメリカとの互恵条約締結を目的とする交渉が進められた。 1874.2.3日、在位僅か2年、ルナリオ王が結核にかかり、後任を指名せぬまま死去した。王位は再び議会に委ねられることとなった。 |
【ハワイ侵略史14、カラカウア王のハワイ王国時代、ハワイ民族主義による抵抗】 | |
1874.2.13日、再び王国議会で国王選出選挙が行われ、王族に連なりカメハメハの有力な助言者カメエイアモク、ケイアウェアヘウルの子孫にあたるデビット・カラカウア(1836−1891)が第7代国王として王位に就いた。故カメハメハ4世の未亡人であるエンマ元女王を破り国王に選出された。この選挙でエンマ女王の支持者が暴動を起こし死者を出している。カラカウアは米英軍の力を借りてこの暴動を鎮圧した。カラカウア王は弟のウィリアム・ピット・レレイオホクを跡継ぎに指名した(但し、レレイオホクはリューマチ熱のためカラカウアより先に世を去る)。 カラカウア王(King Kalakaua)は、即位当初より米帝国主義と在ハワイ米国人による政経両面に亙る圧力に悩まされた。1874.11月、カラカウア王は、自らワシントンに出向きグラント大統領と会談した。 1875.3月、アメリカとの間に通商互恵条約を締結した。これにより、ハワイの産品である砂糖や米が無関税の輸入自由化商品となった。ハワイ産の砂糖が大量にアメリカに出荷され、外貨利益は莫大なものになった。が、第4条として「ハワイのいかなる領土もアメリカ以外の他国に譲渡・貸与せず、特権も与えない」との文言が組み込まれ、アメリカ依存を強める結果ともなった。 カラカウア王は、主権を護ろうとして民族意識を覚醒させ始めた。カメハメハ2世の時代に禁止されていたフラ・ダンスやハワイアン音楽・サーフィンなどを復活・振興させ、民族の誇りを取り戻すことに努めた。1874年、 カラカウア王は、地方行脚の際に国民に次のように語りかけている。
カラカウア王は白人と共生するハワイを目指したが、甘かった。「西洋夷人」は「共生」なぞ眼中になく、1・王制廃止、2・共和国体制化、3・アメリカとの合併を画策していた。カラカウア王は、次第に「西洋夷人政治」のリアリズムを感じ取り、形勢利有らずの状況下で必死に状況打開策を講じようとした。遂に、小国ハワイの延命策として「ハワイ・アジア連合構想」なる秘策を発案するに至った。ハワイの置かれている状況はハワイ単独では解決し得ない、これを全アジアの問題とし、と同じ状況にあるアジア諸国の連合によって以外切り抜けられない、というのが結論となった。即ち、「アジア諸国連合による欧米列強対抗計画」に辿りついた。 |
【ハワイ侵略史15、カラカウア王のハワイ王国時代、世界周遊旅行で「アジア諸国連合による欧米列強対抗計画」を持ちかける】 |
1881年、カラカウア王は、その実現に向け、自ら交渉の旅に出る。カラカウア王の留守のあいだは妹のリリウオカラニを摂政として統治にあたらせた。移民問題について学びまた外交関係を改善するためとの名目でハワイを発ち、サンフランシスコを経て日本、中国、シャム、ビルマ、インド、エジプト、イタリア、ベルギー、ドイツ、オーストリア、フランス、スペイン、ポルトガル、イギリスを歴訪し、アメリカを経由してハワイに戻った。カラカウアはこの時、日本の明治天皇、清国の西太后、イタリアのローマ教皇、イギリスのヴィクトリア女王と会見している。カラカウア王の外遊は世界一周旅行と見せかけながら、その真意は「ハワイ・アジア連合構想説得行脚」にあった。 1881年、カラカウア王が不在中、痘瘡が猛威をふるい、多数の原住民の命を奪った。中国人移民が持ち込んだものと判明し港を閉鎖する。プランテーション経営者たちは猛反発した。 当時のハワイ王国は既に、欧米から来た白人が国土の75%以上を保有し、また政府の要職も独占していた。土地所有の概念のなかったハワイで、ただのような値段で土地を買い占められ、また独立維持のために近代化を推し進める上でも、欧米人を政府要職につけるしかなかった。しかも欧米人の持ち込んだ淋病、天然痘などに免疫のなかったハワイ人は百年間で人口が30万人から5万人に激減するという危機に瀕していた。 |
【ハワイ侵略史16、カラカウア王のハワイ王国時代、カラカウア王の明治天皇との極秘会談顛末】 | |||||
カラカウア王の「ハワイ・アジア連合構想説得行脚」は、構想の要として日本に白羽の矢を立てていた。王は、日本移民の共生能力を高く評価し、我が物顔でのさばる白人移民に比べて勤勉実直な日本移民に好意を抱いていた。カラカウアは、幕末維新以降近代化を成功裏に押し進め、欧米列強と伍する発展を見せつつある日本に憧憬していた。聞くところに拠ると、明治政府も欧米諸国との不平等条約の打開に向けて苦しんでおり、両国は胸襟開いて話し合えば必ず通ずるものがあると信じていた。 当時の日本の国内世論として「アジアとの連帯を訴える声」があった。明治時代の自由党左派の雑誌「近時評論」の1881(明治14). 4月の記事は次のように書いている。西欧列強の植民地化に抗するアジア連盟の時機が熟していたことが分かる。
1881(明治14).3.4日、カラカウア王一行が外国元首として初めて来日し横浜港に到着し3.22日まで滞在することになる。日本の海軍軍楽隊はハワイの国歌「ハワイ・ボノイ(ハワイの国民)」を演奏して出迎えた。王は思いがけない日本側のもてなしと、異国の地で自身が作詞した国歌を聴かされた事に感じ入って涙を流した。横浜港も鉄道も日本人だけで運用されていて、「どこにもハオール(ハワイ語で「白人」)を見なかった」事に強い感銘を受けた。 ホノルルのビショップ博物館展示のカラカウア王自身の旅行日記には、こう記されている。
カラカウア王の明治天皇との公式会見の様子が詳らかにされていない。いずれ確認しようと思うが、公式会見と秘密会見の二度にわたったのではないかと思われる。いずれにせよ、これが外国の国家元首の最初の明治天皇訪問となった。公式会見で、王は明治政府に対し、それまで日本と締結されていたハワイ側有利の不平等条約を改正し、諸外国として初めて日本に対し不平等条約撤廃をした。その他日本移民の受け入れを表明したように思われる。問題は秘密会見である。次のようなものであった。 3.10日、予定の行事をこなしながらの或る日、王は、付き纏う米国随行員の目をくらまして日本人通訳のみを連れて密かに赤坂離宮を訪ねた。天皇側は夜中の訪問を不審に思ったが、とりあえず会見することとした。こうして明治天皇(当時29歳)との極秘会談の挙に及んだ。日本の伝統文化と近年の国家的隆盛を賞賛した後、ハワ イ王国の内憂外患の窮状を述べ次のように訴えた。
ネオシオニズムの植民地化政策に対抗する「ハワイ―アジアの太平洋諸国家連合構想」を訴えかけるカラカウア王の提案は、考えようによれば後の「大東亜共栄圏構想の先駆的なプラン」でもあった。こうして、日本は決断を迫られた。 人身御供されんとしたカイウラニ王女(Princess Kaiulani)とは、1875年、アーチボルド・クレゴーンというスコットランド人の設計家を父、カラカウアの妹ミリアム・リケリケを母として生まれていた。生まれてすぐカラカウア家に養女に出され、そこでプリンセスとして養育されていた。カラカウア王が縁談を申し出た時、彼女はまだ5歳であった。 ところで、「明治天皇とカラカウア・ハワイ国王の極秘会談」は、カラカウア王お目付け役として随行した「西欧夷人」側近には寝耳に水であった。同じく監視役を務めていた当時のハワイ国務長官アームストロングの手記「AROUND THE WORLD WITH A KING」は次のように記している。
さて、顛末はどうなったか。「明治天皇とカラカウア・ハワイ国王の極秘会談」は直ちに外務卿・井上馨に伝えられた。井上馨こそ誰あろう、伊藤博文を後継し明治政府内の売国奴派ネオシオニズムのエージェントとしての政府内頭目であった。よって、その御仁に極秘会見情報が伝わった時点で全ては水泡に帰す運命になった。カラカウア王は、既に日本の統治機構中枢がネオシオニストのエージェント達によって支配されていることに気づかなかったのだろうか。仮にそうだとしても、迂闊と責めるのは酷であろうが。否、事前情報によりその事に気づいていても、国王間直訴による事態可能性に望みを繋ごうとしていたのかも知れない。その辺りの真相は分からない。 1882(明治15).3.22日、ハワイ国王・カラカウアによる日本との連合計画提案に対し、明治政府の回答がカラカウア王に届いた。「政府にはそこまでの余力はない」と認められていた。井上馨は当初、「カイウラニ王女の話はうまく運ぶだろう」という見解を示し、伏見宮邦家親王第17王子の山階宮定麿親王(当時15歳、後に海軍兵学校卒業後、英国プレスト海軍兵学校留学、小松宮依仁親王となる))との「将来の御成婚」を画策したとも云われているが、最終的に「日本の皇室にはそのような前例がないこと」、「米国の勢力圏に立ち入るのを好ましくない」との理由でウヤムヤにされ幻に終わった。こうして、「カラカウア王の秘策」は潰えた。しかし、移民については実現する。 カイウラニ王女のその後はどうなったか。1889年、カラカウア王の指示でイギリスに留学する。留学中にカラカウアは死去し、叔母のリリウオカラニから王位継承権第1位に指名された。美貌の彼女はヨーロッパ社交界の教養を身につけ、英仏社交界の華になった。政変が続くハワイの事情から帰国が延び続けた。 |
【ハワイ侵略史17、カラカウア王のハワイ王国時代、カラカウア王の抵抗】 |
「カラカウア王の秘策」がかくも早く漏洩し失敗に帰したことで、王の立場は更に不利となった。ハワイ王国の運命は、王が危惧した通りに進んでいくことになる。 1882年、カラカウア王が妹リケリケの夫・アーチボールド・クレゴーンに設計を依頼した「オラニ宮殿」(Iolani Palace)が、後期ヴィクトリア朝風の堂々たる威風で完成した。 1883年、有効期限を7年と定めていた最初のアメリカとの間の通商互恵条約の期限が近づき、この条約は米や砂糖の生産業者などアメリカ国内において、合衆国の利益を損失するとして少なからぬ批判が噴出したが、上院議員ジョン・モーガンなどの帝国主義的拡張論者らにより、「その他の、より高次元な益がある」とする議論により押し返された。 1884年、カメハメハ5世の後継指名を受けながら拒否したバーニスがガンのため他界した。夫ビショップは、ハワイ人の教育と女性の地位向上のために尽くした妻の業績を記念して1889年、ビショップ博物館(Bishop Museum)を作る。当初はハワイの芸術品と王室の家宝を展示していたが、現在はポリネシア文化圏の学術的収集品が展示されている。 1884年、日本・ハワイ移民協約(日布移民条約)が締結され、ハワイへの移民が公式に許可された。以降、官製移民団が組織されるようになった。政府の斡旋した移民は官約移民と呼ばれ、1894年に民間に委託されるまで約2万9千人がハワイへ渡った。1884年、最初の移民600人の公募に対し2万8千人の応募があり、946名が東京市号に乗り込み、ハワイへと渡った。 官約移民は「3年間で400円稼げる」の謳い文句で釣られ盛大に募集された。ところが、現地に待ち受けていたのは半奴隷的な待遇であった。移民は、契約満了を義務付けられたハワイの法律(通称、主人と召使法)により年季明けまで酷使や虐待に耐えなければならなかった。週休1日制の1日10時間労働で月給は10ドルであったが、手取り金額は更に諸経費を差し引かれていた。 官約移民制度下の斡旋は、後に「移民帝王」とも揶揄される在日ハワイ総領事ロバート・W・アーウィンに一任されていた。アーウィンは井上馨と親交を持ち、三井物産会社手配で日本各地から労働者を集め、日本・ハワイの双方から仲介料を徴収するなど莫大な稼ぎを得ていた。1894年の26回目の移民をもって官約移民制度は廃止され、以後は日本の民間会社を通した斡旋(私約移民)が行われるようになる。 1886年、カラカウア王はポリネシア連合形成のために3万ドルの予算を確保し、サモアのマリエトア王とポリネシア連合成立の合意に至った。しかし、このことがハワイの植民地化を狙う米帝国主義を刺激した。翌1887年のクーデターでこの構想は消滅する。 |
【ハワイ侵略史18、カラカウア王のハワイ王国時代、「銃剣憲法」の押しつけ、カラカウア王の非業の死】 |
1887.6.30日、英国女王ヴィクトリアの在位50周年祝典への招待を受け、ハワイ王妃と王の妹リリウオカラニが国王の名代としてヴィクトリア女王に謁見した。この機に、改革党、ハワイアンリーグは、白人市民義勇武装集団「ホノルル・ライフルズ」を擁してクーデターを起こし、カラカウア王に銃剣を突きつけ首相であったウォルター・ギブソンの退陣と13人委員会なる代表団が起草した新憲法への署名を迫った。これに対し有効な対策が取れなかったカラカウアは自ら組閣した内閣を解散した。 7.6日、通称ベイオネット憲法が成立した。この憲法は、武力により新しい憲法を制定させた経緯による「Bayonet Constitution」(「銃剣憲法」)と呼ばれた。これにより、カラカウア王のポリネシア連合運動は息の根を止められた。ハワイ人ロバート・ウィルコックスによる抵抗もあったが失敗に終わった。王政派のW・ギブソン首相も国外追放された。 「銃剣憲法」により、王の権限は大幅に制限され、お飾り的なものになった。国家権限が議会に委譲されたが、ハワイ住民の70%を占めるハワイ人やアジア系住民には選挙権を与えず、少数派富裕層である白人のみが選挙権を持つこととなった。それはすなわち、ハワイを白人が自由に支配するための憲法となった。 10月、モーガンが主張していた真珠湾の独占使用権を獲得することを条件としてアメリカとの間の通商互恵条約が更新された。 1889年、浄土真宗の僧侶であった曜日蒼竜が本願寺派の布教を開始した。これは、西日本(広島県、山口県)出身の移民や、沖縄県出身の移民(オキナワン)が多かったことが要因とされている。これを嚆矢として日本の宗教各派が活動し始め、年中行事や冠婚葬祭だけでなく日本語学校、寺子屋、合唱隊、ボーイスカウト、講演会、バザーなど様々な催しの場を提供し、日系社会のコミュニケーションの基礎固めの役割を果たすようになった。 1890(明治23)年、日本移民が増え、ハワイ総人口の40%に及ぶまでになった。 カラカウア王のその後を想像するのは容易である。王に対する手かせ足かせが更に厳しくなり、こうして自由をもぎ取られた王はアルコール中毒患者にさせられた。1890年、体調を崩し、医者の薦めでサンフランシスコへ移る。 1891(明治24).1.20日、カラカウア王が失意の内にこの世を去り、在位17年の生涯を閉じた。日本来日から10年後のことであった。 |
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カラカウア王の悲劇こそ近代ハワイ史の本質であり圧巻ではなかろうか。 2010.11.30日 れんだいこ拝 |
【ハワイ侵略史19、リリウオカラニリ王のハワイ王国時代、ハワイ民族主義の称揚と米帝国主義との死闘】 |
1891.1.29日、カラカウア王没後、後継者として指名されていたカラカウア王の実妹のリリウオカラニリ(Liliuokalani)王女が王位を継承した(53歳)。リリウオカラニは、1838年、ホノルルに生まれ。西洋式の教育を受け、ヴィクリア女王の50年式典に出席したほどの西洋通。決してネイティブの言葉を忘れず、ハワイの伝統に強い誇りを持ち、音楽的才能に恵まれ165以上の曲を書き残している。ハワイ民謡として有名な「アロハ・オエ」は彼女の作である。1860年、米国出身の白人で後にオアフ島知事となるジョン・O・ドミニスと結婚していた。ドミニスは、リリウオカラニが即位した7か月後に死去する。二人は子供に恵まれなかったため、姪のカイウラニを王位継承者とした。 リリウオカラニ女王は即位後、「ハワイ人のためのハワイ」を標語にハワイ原住民の持つべき権利を取り戻そうとした。音楽を愛好したことでも知られ、しかし、ネオシオニストの画策する米帝国主義のハワイ奪取(アメリカ併合)計画は無慈悲に押し進められた。 1892.11.8日、リリウオカラニの指名した閣僚が再三にわたりそれを拒否し、内閣が成立しない政治危機が続いていたが、この日、ようやく組閣のための閣僚承認がなされた。 リリウオカラニ女王は、共和制派との対決姿勢を強めた。1892年、ハワイ人らの1864年憲法をバックグラウンドとした新憲法制定の請願を受け、1893.1.14日、不公平憲法改正(ハワイアンに選挙権を与え、市民権を持っていない白人からは選挙権を剥奪し、国王権限を強化する憲法草案)のための法案を閣議に提出した。翌日にはイオラニ宮殿前では数千人のハワイ人が集まって、女王支持のデモを展開した。こうした動きに危機感を覚えたアメリカ公使ジョン・スティーブンスはロリン・サーストン、サンフォード・ドールらと接触し、ハワイの併合に対して、ハワイ王国の転覆と暫定政府の樹立という具体的な計画をはじめた。米国政府は砂糖市場でのハワイ砂糖の特権を取り上げて対抗。プランテーション経営者たちは合衆国への併合を画策した。白人側は一気に王制打倒に動き出した。 |
【ハワイ侵略史20、リリウオカラニリ王のハワイ王国時代、ハワイ王朝滅亡】 | |
1893.1.15日、サーストンらの呼びかけで前日結成された「公安委員会」を名乗る組織が、一般大衆に対し、ホノルルライフルズ部隊本部にて市民集会を開く旨の呼びかけをおこなった。これに対し王権派の閣僚は反逆罪の適用を検討したが、衝突を避けるよう主張するアメリカ系閣僚の声もあり、対抗する集会をイオラニ宮殿で行うことが決定された。目的はこの集会にてリリウオカラニによる「新憲法を公布しない」という声明を発表するものとし、これ以上の混乱を阻止しようというものであった。 1.16日、王政派と共和制派が共に大集会を開くなど騒然とし始めた。ホノルルライフルズで開始された集会でサーストンは女王を糾弾し、自由の獲得を市民に訴えた。 危機感を募らせた米帝国主義は、スティーブンス米国公使は 「血に飢えた、そして淫乱な女王が恐怖の専制王権を復活させようとしている」と訴え、米国軍艦ボストン艦長ギルバート・ウィルツに「米国人市民の生命と財産を守るために海兵隊の上陸を要請する」なる通達を出した。この要請によりホノルル港に寄港中だったアメリカの軍艦ボストン号の海兵隊兵士たち160余名が大砲・機関銃で武装し、ホノルル港へ上陸した。イオラニ宮殿をはじめ政府の主要な建物を占拠した。共和制派のハワイ最高裁判事サンフォード・ドール、ローリンサットンら在ハワイ米国人が武装した兵士と共にイオラニ宮殿を包囲、軍艦ボストンの主砲は宮殿に照準を合わせた。 1.17日、サンフォード・ドールが新政府樹立の準備のため判事を辞任した。午後2時、政府庁舎に公安委員会一同が集結した。リリウオカラニ女王は、「無駄な血を流させたくない・・・」と述べ退位を決意した。女王はじめ側近の者たちを拘束、王制打倒クーデターを決行した。女王らは幽閉された。ここにハワイ王国が滅亡した。 共和制派が政庁舎および公文書館を占拠し、ヘンリー・E・クーパーが王政廃止と臨時政府樹立を宣言した。戒厳令が布かれた。ドールは暫定政府代表として各国の外交使節団およびリリウオカラニに対し、暫定政府の樹立を通達した。ネオシオニズム史学はこれを「ハワイ革命」と称している。 リリウオカラニ女王は、スティーブンスに対し特使を派遣し、アメリカが暫定政府を承認しないよう求めた。次のような文書を送付している。
これに対し、スティーブンスは、「暫定政府は承認され、アメリカはハワイ王国の存在を認めない」と回答した。 暫定政府樹立宣言後、ドイツ、イタリア、ロシア、スペイン、スウェーデン、オランダ、デンマーク、ベルギー、メキシコ、ペルー、イギリス、日本、中国といった国々が暫定政府を事実上の政府として承認した。 |
【ハワイ侵略史21、リリウオカラニリ王のハワイ王国時代、日米英帝国主義の確執】 | |
1893.1.18日、政府側委員としてローリンサットンが承認を求めてワシントンに向かった。王室側も暫定政府樹立を不服としてワシントンに特使を派遣しようとしたが、ローリンサットンらが同船を拒否、王室側は2週間遅れてホノルルを出航した。 1.31日、カイウラニ王女(当時18歳)は、事件の知らせを受けるや否や即断即決、イギリスを発ってアメリカに向かった。ニューヨーク港では、新聞記者達が「野蛮なハワイ人の娘」が嘆願にやってくるらしい、ということで待ち構えていた。ところが、カイウラニ王女の洗練された容姿と感動的なスピーチに度肝を抜かれた。ニューヨークのマスコミはハワイ王朝に対する偏見の正義を失った。しかし、王室側の特使コアは、時の大統領クリーブランドとの面会を許されず途方に暮れた。そうこうしているうち、カイウラニ王女に、大統領夫妻の昼食会招待状が届いた。カイウラニ王女から事情を聞いた大統領はその日のうちに、暫定政府側委員ローリンサットンらの主張を退け、事情を徹底調査する旨約束した。 2.1日、スティーブン公使は、ハワイをアメリカの保護下に置くよう併合交渉を進めていた暫定政府に対し、米国公使としてその要求を承認し、ハワイ政府庁舎に星条旗が掲揚された。「ハワイの実(西洋梨)は完熟し、今こそアメリカがそれをもぎ取るのに、黄金の時が訪れている」とフォスター国務長官に、ハワイ併合を訴えた。しかし、リリウオカラニの抵抗や、アメリカ国内における女王支持派、およびスティーブンスの取った強引な手法に対する世論の反発が強まった。 2.23日、巡洋艦「浪速」、さらに5日遅れて「金剛」が相継いでホノルル港に入り、「ボストン」の隣に投錨した。ホノルル港に停泊中の米艦ボストンの真横に投錨してクーデター勢力を威嚇した。「浪速」の艦長は東郷平八郎、後に日本海海戦を指揮して世界に勇名を馳せた名提督の若き日の姿である。カラカウア王の要請した日本からの移民は、1885(明治18)年から始まり、この年までに2万5千人に上っていた。その日本人移民の「生命と財産を守るため」というのが、表向きの理由だった。入港した「浪速」は臨時政府には挨拶も行わなかった。東郷は新政権との接触を避け、リリウオカラニ廃王にのみ謁見した。女王の側近が東郷艦長と長時間の密議を持ったという噂も流れた。地元紙は日本と英国が組んで米国と開戦する可能性まで論じた。「浪速」は3ヶ月ハワイに留まった後、帰国し、一年後に再び姿を現わす。 3.4日、クリーブランドが米国大統領に就任する。クリーブランドはハリソン前大統領とは違ってハワイ併合に消極的だった。クリーブランド大統領が派遣した特使は米国旗を降ろし、米兵たちに自艦に戻るように命じ、さらにこの革命はスティーブンス公使と現地白人有力者たちの画策であったと本国に報告した。大統領は議会で次のように述べ王政復古への援助を示唆した。
グロバー・クリーブランド大統領下の米国政府は、この「革命」が不法なものであると認め、スティーブンス公使を更迭すると共に調査団を派遣した。これに対し、臨時政府側は、アメリカ公使と米軍がとった行動は臨時政府側の責任ではなく、またクリーブランド政権の姿勢はハワイへの内政干渉だとして突っぱねた。臨時政府はアメリカに併合を求めた。 |
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カメハメハ大王の後継者達は、ハワイ王国の衰退を指をくわえて見ていたわけではない。しかしハワイを自分達の手に取り戻すことはできなかった。それほどにネオシオニストの狡知が勝っていたということである。思えば、世界は、16世紀頃よりネオシオニストの餌食にされっぱなしで今日まで至っている。日本がその悪魔の手から逃れえたのはまことに有り難いことであった。 思えば、日本民族は、戦国期の「バテレン危機」を凌ぎ、幕末期の「黒船来航危機」を潜り抜け、大東亜戦争敗戦時の「国家崩壊危機」を遣り過ごし、稀有な独立国ぶりを獲得してきたことになる。しかし、やはり敗戦の傷跡は深い。戦後、ネオシオニストが大手を振って闊歩し始め、政官財学報の五者機関の中枢を押えた事によりこの支配構造から抜けだすことは如何ともし難い。 ロッキード事件の脳震盪で旧田中ー大平連合の活動が封じ込められて以来、旧福田ー中曽根連合のネオシオニスト・エージェント派が、我が政界を恣にしつつある。小泉政権になって以来狂態とも云えるスピードで国家溶解が押し進められつつある。世の論者は、まもなく任期満了の5年余の小泉政権を表面的には批判する向きも有るが、内実は提灯ばかりである。知の衰微が甚だしい。これを如何せんか。 ネオシオニズムの侵略狡知の秘術が尽くされているハワイの被侵略史を学べ。これに日本が無関係ではなかった。否、相当深く関わっていたことがわかる。否、大東亜戦争の裏面の一つであったかも知れない。歴史を複眼的に知ることの恰好な教材が近代ハワイ史ではなかろうか。肝要なことは、米国の侵略史として捉えるのではなく、米国を支配している国際金融資本帝国主義ネオシオニズムのグローバルな侵略史として観ることではなかろうか。 2006.9.3日、2010.11.29日再編集 れんだいこ拝 |
(私論.私見)