ハワイ共和国史 |
(最新見直し2010.11.30日)
(れんだいこのショートメッセージ) |
ここで、ハワイ王国滅亡後の共和国史を確認しておく。歴史上現れた共和国なるものの裏面史が確認できるだろう。 2006.9.3日 れんだいこ拝 |
【ハワイ侵略史22、ドールを大統領とするハワイ共和国の誕生】 |
1893.3月、サンフォード・ドールを大統領とする「ハワイ共和国」が誕生し、ハワイ王国は滅亡した。観光保養地としての再開発が開始された(法律61号成立)。「ハワイ共和国」とは名ばかりの「共和国」で、実態は在ハワイ米国人による独裁国家に過ぎず、アメリカのハワイ併合の地均しをする任務を帯びていた。リリウオカラニ女王はその後、1917.11.11日まで延命した(享年79歳)。ハワイ王国の王位後継資格者バーニス(Bernice
Pauahi Bishop)王女と結婚していた米国人ビショップは、共和国になってサンフランシスコに引退し、1915年に亡くなるまで静かに暮らした。リリウオカラニ女王夫妻は子供に恵まれなかったため、姪のカイウラニが王位継承者となったが、カイウラニはハワイ併合の翌年、死去した。 1893.8月、大統領指示により創設された調査団は、「アメリカ公使スティーブンスが国際犯罪を犯したと確信する。アメリカは国の名誉と威信をかけて誤りを正さなければいけない」との結論を下した。アメリカ公使スティーブンスは解任された。代わって着任したアルバート・ウイリスは、クリーブランド大統領の指示の下、道徳的観点から暫定政府の取り消しとリリウオカラニの復位の道を模索した。 11.4日、ウィリスはリリウオカラニが軟禁されているホノルルへ赴き、リリウオカラニ女王と面談し、公使は女王に「アメリカは、女王の復位を認めます。国家を転覆させた反逆者の処遇をどのように希望するか。今回の首謀者にはできるだけ寛大な処置をお願いしたい」と申し出た。しかし、リリウオカラニ女王は、首謀者に対しては死刑及び財産没収を主張して譲らなかった。一説に、リリウオカラニは、「法律上は死刑であるが、恩赦を認め、国外追放に止めるべきである」との認識を示したとも云う。後日の新聞紙面上には「女王が暫定政府の死刑を求める」との文字が躍った。この捏造報道はその後訂正がなされている。 12.20日、ウィリスは、ドールに対し、「リリウオカラニを正式なハワイの統治者であることを認め、現地位と権力の全てから退くこと」というクリーブランドのメッセージを伝えた。 12.23日、ドールらは、クリーブランドの在任中の併合は不可能であると判断し、「過ちがあったのはアメリカ政府の機関であり、暫定政府とは無関係である。クリーブランド政権の要求は内政干渉にあたる」とした回答を発表した。 暫定政府は、カイウラニ王女を女王に即位させようとし始めたが、リリウオカラニ女王は、「カイウラニはまだ若すぎる」という理由でそれを一蹴した。カイウラニ王女に対しても、「女王就任のオファーがあっても決して受けないように」指示した。 1894.2月、上院議員ジョン・テイラー・モーガンを中心とした調査団は最終的に共和制派を支持する報告書をまとめた。 同7.4日、アメリカの独立記念日のこの日、臨時政府は、ハワイ人による反対集会が繰り返される中、新憲法の発布を行い、サンフォード・ドールを大統領としてハワイ共和国の独立宣言をした。新憲法では選挙権は高額の財産を持ち、王政復古に加担しないという宣誓を行い、英語かハワイ語を読み書きできることという条件をつけたので、大多数のハワイ人と日系移民を含むほとんどのアジア人は政治権力から排除された。王国がなくなってしまったので、日本からの官約移民はこの年に廃止されている。ここからの移民は私約移民と呼ばれる。 1894年、観光保養地としての再開発開始(法律61号成立)する。 1894年以降、日本人の手による移民事業を行う会社が30社以上設立された。特に広島海外渡航会社、森岡商会、熊本移民会社、東京移民会社、日本移民会社が五大移民会社と呼ばれた。移民労働者の郷里送金を代行する銀行なども共同出資で設立され、一大事業に成長するが、1900年のハワイ併合、1908年の日米紳士協約などによりこれらの会社は全て消滅した。 |
【ハワイ侵略史23−1、ハワイ王国派の抵抗】 |
1894(明治27)年、王国滅亡の翌年、最後の女王リリウオカラニの姪「王位継承者」カイウラニ王女はアメリカに渡り王政復古を企図したが失敗する。 1895.1.6日、王党派が反乱を起こしたが数日の銃撃戦の後に新政府軍に鎮圧された。但し、鎮圧にあたった政府軍に死亡者が出た。 1.16日、リリウオカラニの私邸より、あるいはイオラニ宮殿の庭からたくさんの銃器が見つかったとして、リリウオカラニ女王が反乱の首謀者の容疑で逮捕され、イオラニ宮殿に幽閉された。これによりハワイ王国は滅亡した。リリウオカラーニ女王はハワイ王国第8代の王にして最後のハワイ王となった。 ハワイ王国軍や王族・国民達はこぞって徹底抗戦の構えを示し、リリウオカラニ女王奪還を企図した。が、女王は、「無駄な血を流させたくない」として、1.22日、抗戦派の反乱者たち約200名の罪を軽くすることと引き換えに退位を署名した。これにより、ハワイ王国が最終的に滅亡したことになる。2.27日、リリウオカラニは、武器弾薬が庭に埋められていたとする反乱加担罪で5000ドルの罰金と5年間の重労働の判決を受けた。9.6日、王位請求を諦め、共和国への忠誠を誓い、一般市民として静かに余生を送るという誓約書に署名し、釈放された。 1895年、白人特権階層の動きに対して、人口の4割を占める日系人と日本政府はどのような態度をとったのか。カラカ ウア王の時に結ばれた日本・ハワイ渡航条約で約束されていた日本人移民の参政権は銃剣拳法によって否定されていた。日系人たちはその参政権回復要求に絞った活動を開始していた。「浪速」が再び姿を現し、臨時政府は「建国一周年」を祝う21発の礼砲を要請したが、東郷艦長は「その理由を認めず」と突っぱねた。ホノルル軍港の各国軍艦はこれにならい、クーデター一周年は「ハワイ王朝の喪に服するような静寂の一日に終わった」と伝えられている。ハワイ人の間では日本の軍艦が味方してくれたという話が語り継がれ、子どもにトーゴーと名づけたり、ある地域では「ナニワ」が「ありがとう」の意味で使われたりしたという。 以後も渡航条約によってやってきた日本の移民に対して、手続きが不備だとして、上陸を拒否したり、あえて日本政府との間に紛争を起こし、米国内で併合派への支持を集めようと画策した。日本政府は条約違反を抗議するために三たび、軍艦「浪速」を派遣して、損害を賠償し、今後はそのような不法行為を行わないようハワイ政府に要請した。ハワイ政府は対日交渉を引き延ばして、「日本から迫り来る危険」の深刻さを世論に訴えた。 |
【ハワイ侵略史23−2、ハワイ共和国派の逆襲】 | ||
1897.3月、マッキンリーが米国大統領に就任する。ハワイ共和国のハッチ駐米公使は、新国務長官ジョン・シャーマンに面会し、アメリカに早期併合の希望を伝えた。その中でハッチは、ハワイの日本人が暴動を起こしたら、ハワイ政府ではアメリカ人の人命、財産の保護が困難かもしれないとして次のように述べている。
アメリカ国内でハワイ併合を強く支持していたのは、海軍戦略家アルフレッド・マハンを理論的支柱として、大海軍建設と植民地獲得による「海上権力」を求める一派であった。マハンの主張によれば、日本とハワイの間の移民紛争は目覚めつつある東洋文明と西洋文明の来るべき大闘争の前哨戦に過ぎず、真の争点は、太平洋の要を支配し優位を占めるのが野蛮なアジアか、それとも西洋文明国のアメリカかということであった。
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近代ハワイ史を確認すれば、王政国と共和国が必ずしも歴史の進歩を意味しないことがはっきりと分かろう。これを是認するのは国際金融資本帝国主義のネオシオニズム教学であり、歴史の真実は、王政国が共和国により植民地にされて行ったと云う経緯しか残らない。その点で、日本の幕末維新、明治維新が半ばネオシオニズムに籠絡されながらも自律自存の近代国家を目指し成功した稀有な国であることが見えてこよう。その日本が、西南の役を境にネオシオニズムに更に籠絡され「できそこないの維新」化させられた悲劇が見えてこよう。 2010.11.30日 れんだいこ拝 |
(私論.私見)