ハワイ米国州史

 (最新見直し2010.11.30日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、ハワイ共和国が必然過程で米国に併合され、やがて属州化されて行った過程を確認しておく。

 2006.9.3日 れんだいこ拝


【ハワイ侵略史24、米国のハワイ併合】
 1898(明治31).1月、スペイン領だったキューバのハバナで独立戦争が激化すると、アメリカは在留米人を保護するためとして、戦艦「メイン」号を派遣したが、ハバナ港内で突如爆発・沈没する事件が起きた。米国内ではこれをスペインの謀略と決めつけ、「リメ ンバー・メイン」の声が巻きあがった。セオドア・ルーズベルトはスペイ ンとの開戦に踏み切る。こうして米西戦争が勃発する。直後に、米艦隊をフィリピンに送り、スペイン艦隊を撃滅して、マニラ湾を占拠した。スペインとの聖戦意識が高揚する中で、フィリピンでのアメリカ軍を支援するためにも、ハワイを併合して、補給基地・真珠湾を確保すべきだとの世論が急速に盛り上がった。

 アメリカは、スペインからプエルトリコ、グアムを割譲させ、キューバを軍事占領して事実上の保護国とした。さらにフィリ ピン独立を目指す「革命軍を援助する」というふれこみでスペイン軍と戦わせ、勝利を得ると一方的にスペインと講和条約を結んでフィリピンを植民地とした。米西戦争で、スペインは、太平洋艦隊、大西洋艦隊を失い戦争を継続する能力を失った。米帝国主義がキューバ、フィリピン、グアム、プエルトリコ等々スペイン植民地のほとんどすべてを獲得した。これにより、スペインに代わってアメリカが世界の覇権を手に入れることになった。

 7.7日、ウィリアム・マッキンリー大統領はハワイ併合の為の決議案に署名し、ハワイの主権は正式にアメリカ合衆国へ移譲された。。

 8.12日、太平洋戦略に基づきハワイ併合を決意したマッキンレー大統領治下の連邦議会は併合決議を可決した。8.21日、ハワイはアメリカの準州(米自治領)として併合された。ネオシオニストの操る米帝国主義は不遜にも、ハワイを併合したことを「Manifest destiny(「明白な運命に基づく宣言」)」と居直った。以後ハワイはアメリカの太平洋支配の拠点となり、オアフ島のパールハーバー(真珠湾)に大海軍基地が建設された(現在もアメリカ海軍太平洋艦隊の基地がある)。

 明治政府は、ごく小額の補償金を米国政府から受け取り、巡洋艦「浪速」に引き揚げ命令を出した。そして、米国の太平洋の覇権が確立した。
ハワイがアメリカに併合されると、アメリカの中国人排斥法が適用され、中国人の移住が事実上不可能となった。

 1899(明治32)年、最後の女王リリウオカラニの姪「王位継承者」カイウラニ女王はわずか23歳5ヶ月の生涯を閉じた。琴線にふれる旋律、アロハ・オエ(Aloha Oe・さらばあなたよ)」は、女王リリウオカラニが作詞作曲した。ハワイ最後の希望の星が消え、ハワイの新政府には、ハワイ市民のみならず、全米から非難と抗議の手紙が殺到した。初代の知事に就任したのがドール。この弟ジェームズ・ドールがハワイで起こしたパイナップル缶詰会社がドール社である。

【ハワイ侵略史25、アメリカ領時代、日本の移民制限が始まり、ハワイが軍港化される】
 1900.4月、ハワイ領土併合法が公布され、同年6月、ハワイ領土政府が設立された。要職にはハワイ共和国下の官僚がつくこととなり、初代ハワイ領土知事として、元ハワイ共和国大統領であったドールが就任した。その後1900年基本法と呼ばれる新法が布かれ、ハワイにもアメリカの諸法が適用されることとなった。

 1900年頃、日米紳士協定により新しい移民の渡航は禁止され、在留日本人労働者の近親者と写真結婚者のみが呼び寄せられることになった。互いに写真を取り交わし、話しがまとまれば日本で入籍して3ヶ月後にハワイに呼び寄せるという写真花嫁が1908年頃から大挙して海を渡った。日系移民は一旦日本へ帰国する者も多く、再度移住を希望する帰米者のみ移住が許可されるようになった。そうした者も1924年の移民法成立により日本人のハワイへの移住は事実上不可能となった。但し、定住した日本人移民の子孫が増加したことから、ハワイの全人口における日本人移民と日系人の割合は増加を続けた。


 この頃、日本人移民は、過酷な労働条件に抵抗し、度々ストライキを行っている。1900年までのストライキ件数は数百件にのぼり、不当な扱いに対する改善が訴えた。これに対し、厳しい弾圧が見舞われ、関係者は牢獄送りとなった。アメリカ併合後は1900年基本法において既存の労働契約が全て無効となったことから、過酷な労働条件の緩和に至り、ストライキの件数も減少していった。

 1901年、セオドア・ルーズベルトが米国大統領に就任する。

 1901.3.11日、近代的な本格的ホテルとなるモアナホテル(現シェラトンモアナサーフライダー)が完成オープンする。 現在もワイキキのファーストレディと呼ばれ中心部に建つ、コロニアル様式の白い優雅な装飾のホテルとなっている。この年、アラワイ運河を掘削した土砂でワイキキを埋め立てる。

 1903年、ハワイ宣伝委員会(のちのツーリストビューロー)が設立される。

 1903年、ハワイ領土議会は連邦議会に対し、ハワイ立州法案の審議を請願した。

 1907年、日系ハワイ人の転航禁止令が布かれた。

 1908年、日本政府と合衆国政府の間で紳士協定が結ばれ、日本からの移民制限、ハワイから米国本土への移民禁止措置が行われた。これにより、事実上既に移民した者の親族以外の渡航が不可能となった。アメリカでの排日運動が活発化し始め、ハワイに於ける日本人に対する風当たりが日に日に厳しいものとなっていった。当時ハワイに住む2万人を超える日本人の子供たちのためにハワイでは150校以上の日本語学校が開設されていたが、国粋主義を吹き込んでいるとの批判がなされた。こうした日本人の生活形態や日本人労働者やその子供に対する批判は英字新聞によって頻繁に取り上げられ、日本人排斥論として世論を形成していった。こうした批判からくる不信感はやがて共産主義者の陰謀論などと結びつけて日本人に対する恐怖感や嫌悪感を市民に助長する結果となった。

 1908年、法学者の根来源之が「日布時事」にハワイとアメリカ本土の労働条件の乖離を指摘し、労働者の待遇改善を主張した論文を掲載し、経済界に大論争が始まった。増給論を支持する石井勇吉らにより「増給期成会」が結成され、待遇改善運動が展開された。

 1909.5.9日、日本人労働者ら7千名が、アイエア、ワイパフ、カフク、ワイアナエ、エワなどのオアフ島各農園で一斉にストライキに起ちあがった。これに対し、農園経営者協会(HSPA)は、参加者らとその家族に対し受け入れを拒否し、立ち退き命令を出した。この結果5千名以上のストライキ難民がホノルルなどに溢れ返った。煽動した日本人活動家らは耕地営業妨害罪などで逮捕され、ストライキは失敗に終わったが、200万ドル以上の損失を計上した経営者側も労働環境の見直しを図らざるを得ず、若干の増給が実施された。

 1914年、第一次世界大戦が勃発する。

 1914年、米国に協力を拒むコロンビアからパナマ共和国を独立させて、運河の建設、使用権を得て開通させた。これによって、20世紀初頭の米国はアメリカ東海岸からカリブ海、パナマ運河、ハワイ、グアム、フィリピンに至る一大海洋帝国として登場した。あとは「日本の脅威」を除けば、太平洋はアメリカの内海となる。

【ハワイ侵略史26、アメリカ領時代、ハワイ併合化の動き強まる】
 1917.11.11日、ハワイ王国最後の女王リリウオカラニが死去(享年79歳)。

 1918年、第一次世界大戦が終了する。

 1919年、ハワイ選出の連邦議会代議員であったジョナ・クヒオがハワイ立州を訴え、連邦議会による立州に向けた調査が開始された。

 1920.1.19日、第一次世界大戦などの影響によりインフレ化が進行し始め、応急処置的な賃上げでは生活が立ち行かなくなり、他国出身者もあわせたハワイ史上最大のストライキがオアフ島にて実施され、全農園労働者の約77%がこれに参加した。このストライキでは1万人を超える日本人労働者が農園を退去させられ、その結果、野営していた労働者ら2500名がインフルエンザに感染し150名が死亡するなど深刻な被害をもたらした。結果的に5割の賃上げ、労働環境の改善を勝ち取ることができたが、多くは農場を去り、製糖産業における日本人労働者の割合は1902年の70%から19%へ急落した。また、こうした行動は後の排日運動を加速させ、日系人社会への圧力がより強められることとなった。

 1924年、排日移民法が成立する。この時まで、、多くの日本人がハワイに渡っていたが、これによりいかなる形の新規移民も認められなくなった。

 1925年、マティソン汽船(マロロ号)就航。

 1927.2.1日、カアフマヌ王妃のサマーパレスがあった王族のヤシ園の跡地にロイヤル・ハワイアンホテル(ピンクパレス)がオープンする。プリンセスカワナナコアはじめ正装の紳士淑女の1200人もの盛大なパーティが行われた。スパニッシュムーア様式の建物はピンクパレスと呼ばれ、世界各国の王族・政財界の大物・ハリウッドスターなどが利用することになる。この頃からハワイ観光地化が本格化する。

 1931.9月、トーマス・マッシー中尉の夫人タリア・マッシーがハワイの地元の若者集団「カリヒ・ギャング」に暴行を受けたとして訴え、5人の若者が容疑者として逮捕された(マッシー事件)。タリア・マッシーはこの5人に間違いないと証言したが、弁護側が5人のマッシー夫人の証言とは矛盾する材料を証拠として提示したため、「陪審不一致」として5人の若者は無罪となった。

 この事件はアメリカ本土でセンセーショナルに報道がなされ、「ハワイの警察制度は古臭く、治安を維持する能力に欠ける」といった世論が形成された。マッシー中尉はこの結果を不服として、仲間と共に容疑者の一人ジョセフ・カハハワイを誘拐、拷問の末、殺害した。陪審は加害者らを懲役10年の有罪としたが、世論はマッシー中尉の行為を「正当防衛」、「名誉ある殺人」とし、ハワイの裁判過程に不満を評した。これを契機とし、連邦議会ではハワイの自治権剥奪などを盛り込んだ改正法案の提出がなされるなど、この事件はハワイ自治権の危機にまで発展し、ハワイ知事はマッシー中尉らを「禁固1時間」に減刑すると云う事件が発生している。

 1935年、ハワイコール(ラジオ)開始。軍事基地ハワイとしての軍需景気始まる。

 1935年、米国連邦議会の従属的な立場にあると痛感したハワイの指導者層は活発なロビー活動を行うようになる。1934年に選出された代議員サミュエル・キングによって立州法案が正式に提出され、ハワイ立州承認問題の調査委員会が組織された。

 1939.9.1日、ドイツ軍がポーランドに侵攻し、第2次世界大戦が勃発する。

 1940年、ハワイの立州に関する住民投票が行われ、有権者の3分の2以上が立州を望んでいることが判明した。こうした動きは第二次世界大戦により一時中断されるが、軍事政権下での抑圧とその解放を経験したハワイの市民は、アメリカ合衆国の国家の一員としての意識が高まり、戦後はさらに声高に立州運動が叫ばれるようになった。

【ハワイ侵略史27、日本軍のパールハーバー奇襲で日米戦争始まる】
 1941.12.7日早朝、日本軍のパールハーバー奇襲で日米戦争が始まり太平洋戦争に突入した。日本軍の奇襲により、アメリカ船舶21隻が沈没、撃破され、2390名のアメリカ軍兵士が死亡した。戦艦アリゾナは1177名の乗組員もろとも海に沈んだ。これが「リメンバー、パールハーバー」となり戦意高揚されて行くことになる。日本軍は、東亜の解放を御旗にハワイを含む欧米の植民地地域(チナ・ソ連以外)に侵攻し始める。

 12.8日、真珠湾攻撃の翌日、ルーズベルト大統領は日本に対する宣戦布告にサインした。これにより、ハワイ社会での基盤を築いていた日系社会は苦難の歴史を辿ることになった。開戦後間もなくアメリカ全土に住む日系アメリカ人と日本人は日米開戦により敵性国民のレッテルをはられ、ジャップとののしられ、強制収容所に収容された。日系人の財産は没収された。真珠湾攻撃以降戦中・戦後を通して日系人の苦労は想像を絶するものだったと伝えられている。但し、ハワイに住む日系アメリカ人および日本人は、ハワイが正式な州でなかったこと、アメリカ本土から離れていること、当時の人口の4割程度を占める日系人および日本人を強制収容すればハワイの社会や経済活動が崩壊しかねないという理由により、コミュニティのリーダーや各会社の代表者、日本語学校の教師など影響力の強い男性が収容所に入れられた。

 1942.1.5日、徴兵年齢の日系2世男子は4C(敵性外人)に分類され、既に徴兵・編入されていた日系兵士は解任・除隊させられた。日本語学校教師やジャーナリストなど、「特に危険」とされた1500人にものぼる日本人・日系人が強制収容所へ送られた。

 ハワイ地方防衛軍として国防に従事していた日系2世シゲオ・ヨシダは防衛総司令官デロス・エモンズにアメリカに対する忠誠を誓う嘆願書を送付し、日系人による軍事部隊、第442連隊戦闘団の前身となる大学勝利奉仕団(V.V.V)を結成した。

 ハワイ生まれの日系2世たちはハワイ在住の日本人社会のために自ら志願兵となることで祖国に対する忠誠心を示そうとして従軍した。第100大隊と本土とハワイ出身者で第442部隊が構成され、ヨーロッパ戦線の最前線で命がけで戦績を残し米陸軍史上比類なき功績を打ちたて、最高勲章である紫心章を数多く受賞し、トルーマン大統領は「全アメリカの誇り」と敬意を表した。 以降白人の日系人社会に対する偏見の減り社会進出も飛躍した。

 6月、ミッドウェー海戦でアメリカ軍が勝利を掴み、日本軍によるハワイ侵攻の可能性が低減した。

 1943年、灯火管制が解除され、1944.10月、戒厳令が解除された。

【ハワイ侵略史28、ハワイの観光化始まる】
 1945年、大日本帝国が無条件降伏し太平洋戦争が終結する。これにより第二次世界大戦が終了する。軍需景気の後退と共にハワイのさらなる観光化、大衆化が始まる。

 1946年、ハワイ出身の代議員ジョセフ・ファーリントンの強い働きかけにより、また、ハリー・S・トルーマンの支持もあったことから、連邦議会はハワイをアメリカ合衆国の正式な州とすべきかどうか再度検討をはじめた。

 1947年、ファーリントンが、ハワイ立州法案を連邦議会に提出した。上院で廃案となり未達に終わった。これをきっかけとして立州化は共和党や民主党のマニフェストに組み込まれるなど、大きな動きを持つようになる。一方で立州化反対派は、ハワイを東西冷戦を背景とした共産主義者の活動拠点であると断じ、その分子をアメリカの政治経済の中に取り込むことは危険であるとする意見も出され紛糾した。

【ハワイ侵略史29、ハワイがアメリカに併合されハワイ州となる】
 1959(昭和34)年、戦後のハワイは、人口、生産、所得とも驚異的進展をみ、新時代に向かう。

 3.11日、公民権運動が活発化し、これに便乗するかたちで、ハワイおよびアラスカの立州化運動が行われ、連邦上院で賛成76、反対15で可決、連邦下院で賛成323、反対89で可決し、連邦議会はハワイ州昇格を承認した。

 8.21日、ハワイ併合の61年後、ドワイト・D・アイゼンハワー大統領が宣言書調印を行い、ハワイが正式にアメリカ合衆国の50番目の州に認められることとなった。米国は、ハワイを併合したことを「Manifest destiny(明白な運命)」と呼んだ。建国以来西に向かって領土を拡大した最終段階がハワイの併合であり、先住民族であるインディアンもハワイ人も、アメリカ人のイデオロギーの前には初めから存在しなかったと云うことになる。

 ジェット機就航、アラモアナ・センターがオープンする。以降、本格的なリゾート開発が始まる。この年、下院議員に日系人のダニエル・イノウエが選ばれている。

 1962年、日本の実業家小佐野賢治が、ワイキキのモアナ・ホテルとプリンセス・カイウラ・ホテルを1940万ドルで買収したのを皮切りとして1972年までの10年間で50以上の日本の会社がハワイの不動産や企業を買収し、ハワイ支店を開設した。

 1970年、ジャンボ機就航。ハワイアン・ルネッサンスの動きはじまる。

 1972.8.31日、ハワイのクイリマホテルで日米首脳会談(田中.ニクソン会談)。アメリカ側は、ニクソン、キッシンジャー、日本側は田中、牛場信彦駐米大使。その後、ロジャーズ国務長官、大平外相が加わっている。この席で、中国問題、特に日中交渉、国際収支問題、日米貿易不均衡問題等が包括的に話し合われている。このときロッキードの密約があったといわれている。

 1974年、日系のジョージ・アリヨシがハワイ州知事に選出される。

 1974年、ハワイ州上院議員アンダーソンらが「日本の経済侵略」として警鐘を鳴らすなど、社会問題として取り上げられるようになった。

 1976年、ホクレア号第1回タヒチ航海。

 1878年、ハワイ語が州の公式言語となる。

 1980年、日本人観光客急増する。

 1980年代に入ってもこの動きは加速の一途を辿り川本源司郎や、川口勝弘といった日本人投資家の不動産買収の話題が紙面上で踊った。ジャパンマネー」に対する世論は非常に硬化し、ハワイ大学イースト・ウエスト・センターの研究者や経済評論家クライド・プレストウィッツなどが「ジャパンマネー」がハワイに与える影響やその問題を強く憂慮した。

 高級リゾートホテルと並び開発のシンボルとされたのがゴルフ場で、1992年時点で68のゴルフコースがあり、さらに当年、州政府に対して93件のゴルフ場開発の申請が出されるなどゴルフ場建設ラッシュとなった。しかし、ゴルフ場の開設は素朴で質素な生活を求める地元住民との摩擦を生み、問題となった。これに対しファシ市長は、公共設備開発使用料(インパクト・フィー)としてゴルフ場1件の開設につき1億ドルを支払うよう開発者側に求め、それを地元へ還元することで摩擦の解消を図った。

 1980年代の後半になると、日本の国内外での投機的不動産投資の影響により、土地・住宅価格の高騰が起こった。しかし、1989.10月、東京株式の暴落(バブル崩壊)が起こり、ハワイにおいても日本企業、日本人投資家からの投資が減退した。進行していた数々のホテルやゴルフ場の開発プロジェクトがその計画半ばにして頓挫し、棚上げされた。


【ハワイ侵略史30、米国大統領の謝罪】
 1993.11.23日、ハワイ王朝転覆100周年記念式典。アメリカ大統領ビル・クリントンにより謝罪法案130-150法案が調印された。これはアメリカ合衆国がハワイ王朝の転覆に対して策謀が存在したことを公式に認め、先住民でありその王国を構成していたハワイアンに正式に謝罪したものである。以下、原文の要旨を転載する(甲斐素直のハワイ紀行第4回「ハワイの旗・モットー・歴史」参照)。

 1893117日のハワイ王国の打倒から100年経ったことを記念し、ハワイ原住民に対し、ハワイ王国をアメリカ合衆国が打倒したことに対する謝罪を行う。

 1778年に最初のヨーロッパ人が到着する以前に、ハワイ原住民は、きわめて高度に組織され、洗練された言語、文化及び宗教を保有し、共有地に基づく自己充足的な社会システムを保有していた。1826年から1893年まで、合衆国はハワイ王国の独立を認識し、ハワイ王国との間に、通商と航海に関する条約を締結していた。しかるに、1893117日、合衆国政府は、ハワイ王国の主権と独立を侵害し、合衆国市民を含む非ハワイ人系居住者からなる少人数のグループとの間の共謀により、固有で合法的なハワイ政権を打倒することを企てた。リリウオカラニ女王は、抵抗に伴う流血の危険を知らされると直ちに、仮政府ではなく、合衆国政府に対して彼女の権限を委譲する次の声明を発した。

 『神の恩寵とハワイ王国の憲法に基づき、その女王であるリリウオカラニは、ここに、この王国の仮政府を樹立するよう要求する特定人に対し、私自身とハワイ王国の憲法に基づいた政府に対して行使されたすべての行動に関して、厳重に抗議する。
私は、アメリカ合衆国全権大使ジョン・L・スチーブンスが合衆国軍隊をホノルルに上陸させ、地方政府を支援するであろうと声明したことによる圧倒的な武力に屈服する。武力によるあらゆる混乱、特に生命の損失を回避するため、抗議と上述の武力による強制の下に、合衆国政府がその代表者達の行動を取り消し、私をハワイ諸島の憲法に基づく主権者の地位に事実として復権させるその時まで、合衆国政府に対しわが権限を委譲する。1893117日 女王リリウオカラニ』

 合衆国の外交及び軍事による積極的な支援及び介入がなければ、リリウオカラニ女王の政府に対する反乱は、民衆の支援がないことと不十分な武力のために失敗したであろう。

 18931218日のグローヴァー・クリーブランド大統領の議会に対する教書では、完全かつ正確に、反乱者の違法行為を報告し、その行動は、『議会からの授権を得ることなしに、合衆国代表である外交官が参加して行われた戦争行為である』と述べ、それにより平和で友好的な政府が打倒されたと認めている。クリーブランド大統領は、さらに『本質的な悪がなされた。我々の国家の性質及び虐げられた人々の要求に基づき、我々は事態の修復に努めなければならない』とし、ハワイ王国の復権を求めている。

 ハワイ原住の人々は、決して彼らの人民ないし国土に対する固有の主権を、合衆国から回復するという要求を直接放棄したことはなく、また、王国や意見表明権を放棄したこともない。ハワイ原住民の健康と福利は、本質的に国土に対する深い感情と結びつきにかかっている。19世紀及び20世紀初頭のハワイにおける経済的社会的な長期変動は、ハワイ原住民の人口及び健康と福利に破壊的影響をもたらした。ハワイ原住民は、彼ら固有の領域と彼らの文化的アイデンティティを彼ら固有の精神的、伝統的信仰、習慣、行動、言語、そして社会的制度を守り、発達させ、そして将来の世代に伝えることを決意した。

 それ故に、アメリカ合衆国議会の上院及び下院はここに集い、決意した。議会は、・合衆国人民の行動により、1893117日にハワイ王国が打倒され、ハワイ原住民の自己決定の権利が侵害されたことを謝罪し、・ハワイ王国の打倒という悪事を承認したことの責任を、合衆国とハワイ原住民の和解のために認め、・合衆国大統領に対しも、ハワイ王国打倒という悪事を承認し、合衆国とハワイ原住民の和解を支援するように要求する」。

(私論.私見) アメリカ大統領ビル・クリントンにより謝罪法案130-150法案考
 「アメリカ大統領ビル・クリントンにより謝罪法案130-150法案」について、どのような内容のものであるのかサイトアップされていないので分からない。かなり重要な法案であると思われる。内容が確認され次第、貼り付けようと思う。ネットでは、こういう重要なところが入手できない仕組みになっている。情報統制されていると云うことでもあろう。

 2010.11.30日 れんだいこ拝

【ハワイ侵略史31、ハワイ先住民族派の抵抗】
 2008.4.30日、ハワイ先住民の主権を求める団体「ハワイ王朝政府」が、ホノルル中心部の史跡「イオラニ宮殿」の入り口を封鎖し、主権回復の抗議運動の挙に出た。同団体はハワイを米国の州とはみなしておらず、正当な政府の執務を執行すると主張している。ハワイでは現在、先住民の主権を求める団体が複数存在している。当局は同日中にも活動家60人あまりに対して執行すると通告。これに対して抗議グループのリーダーは、逮捕されることも辞さないとしながらも、暴力的な抗議活動を行うつもりはなく、もし強制排除されたらまた戻ってくると話した、とある。

 「アメリカ50州の帰属変更の歴史(1763年~現在)」を参照する。




(私論.私見)