中米侵略史 | コロンブスのカリブ海沿岸諸国侵略史 |
更新日/2018(平成30).9.23日
Re:Re3:れんだいこのカンテラ時評204 | れんだいこ | 2006/08/24 | |
【コロンブス没後500年に寄せて】
近代史を彩る西欧列強による植民地化政策の嚆矢となったポルトガル、スペイン両国の新大陸発見の競り合いの様子と植民地政策の実態を検証しておく必要がある。 15世紀後半、ポルトガルは東回り航路、スペインは西回り航路開拓に乗り出すが、1492年のコロンブス艦隊のアメリカ発見以来、ポルトガル、スペインを始祖とする西欧列強の世界の領土分割植民地化が一挙に加速した。 非西欧諸国はそろそろこの西欧史を熟知し、これを推進せしめた勢力を対自化せねばならぬのではなかろうか。これを文明的総括と云うのではなかろうか。個別の研究は為されているだろうが、これを一括する研究は進んでいるのだろうか。そういう疑問を覚えたので、ここにサイト化する。 ここでは特にコロンブスを採りあげる。2006年は、コロンブス没後500年に当る。そういう意味で、「西欧植民政策史の元一日としてのコロンブスの悪業」を素描しておくことにする。 れんだいこが思うに、コロンブスの原住民政策は度の過ぎた先住民なぶり殺しを招いた。何しろお蔭でその当時居た先住民は史上から跡形もなく消えてしまった。それは、本国スペインから見ても越権の許しがたい蛮行であったようで、コロンブスは強制送還されている。ところで、コロンブスをしてそのように措置せしめたものは何であったのか、これを考察せずんば学問したことにはなるまい。 はっきり云おう。どこの国でも良い。異民族の民と民とが遭遇した時、継続的な交易を目指しての相互交流が始まるのが通例であろう。史上その例なら枚挙の暇なく挙げることができる。コロンブスの如く、原住民の人の良さにつけこみ、彼らの財宝の一切合財を簒奪し、挙句は奴隷化せしめ、当然の如く抵抗が起れば殲滅するまで叩きのめすとい遣り方は、世界広しといえど例の「狂信ユダヤDNA」以外には考えられないのではなかろうか。 この「狂信ユダヤDNA」がその後の世界を席巻し、今もパレスチナで蛮行を満展開しているのではないのか。「コロンブス問題」はこう問う史的価値を有している。一体全体、イスラエル建国前後から今日までどれだけ理不尽にアラブ人の血が流されたことか。あの独特の話法を嫌悪せよ。彼らの理不尽な暴虐に抵抗すれば、暴虐した方ではなく、された方がテロリストと指弾され、された方が必死の抗戦に至れば更に制裁の対象とされる。悲劇は一方が他方に完全に跪くか殲滅されるまで続くことになる。パレスチナ、西欧では何度も繰り返されてきた歴史である。聖書には歴然とその遣り取りがしるされている。パレスチナ、西欧以外にはこうした事例はない。パレスチナ、西欧史をかく客観化せねばなるまい。 大航海時代を経ての「西欧列強による植民地化政策」の主体は西欧列強諸国であったが、その何処の国にも共通して、この政策を勧言し、植民地政策を実施監督したのは改宗ユダヤ人達グループではなかったか。実はこの連中こそが「西欧列強による植民地化政策」の黒幕ではないのか。れんだいこの眼には、西欧列強の国家中枢に食い込み、世界の領土分割植民地化を誘導せしめた「宮廷ユダヤ人とユダヤ政商連合」の影が映る。 彼らは恐らく、「未開の民の富を収奪するのは選良の民の特権」、「自分たち以外は犬畜生並みのゴイムであって、選民たる自分たちに隷属するのが当り前の人種に過ぎない」とする悪魔論理に則り、ゴイム文明をいとも容易く組み敷いていったのではなかろうか。丁度この頃に「シオンの議定書」が策定されたが、彼らの当時の総路線を定めたものではなかったか。多くのエセ識者が否定する「シオンの議定書」こそ研究されるに値するのではなかろうか。 「シオンの議定書」和訳本を刊行した太田龍・氏はさる日、「ユダヤ世界帝国の日本侵攻戦略」の中で次のように述べている。
あらゆる歴史的史実は、太田龍・氏の指摘の正しさを証しているように見える。 1492年、コロンブス艦隊がアメリカを発見した丁度この頃、スペインのキリスト教会と国家は、自国領内のユダヤ教徒に、キリスト教に改宗するか、さもなくばスペインから退去せよと命じている。通説歴史書は、「悲劇の民ユダヤ人論」からのみ説かれているが、そうではないのではなかろうか。退去令を発布されるには相応の理由があったのではなかろうか。その背景事情がもっと解明されねばならない。 さて、スペイン国王の「ユダヤ人追放令」に遭遇して、彼らの一部は改宗し、残りはオランダその他の国々に転居した。丁度こうした折、コロンブス艦隊により新大陸が発見され、ユダヤ人の一部は新天地に移住し始めた。 この頃、改宗ユダヤ人はカトリック教会の中に浸透していった。イエズス会は設立当初からユダヤ色が濃厚であった。こうして、改宗ユダヤ人達が先兵となり、キリスト教の仮面をつけて主の御名を売り込みながら、現地支配層を篭絡しつつ、「狂信ユダヤDNA」以外には考えられない残虐非道な手法で富の簒奪政策を強行していったのではないのか。 ポルトガル、スペインは、中南米から大量の金銀を収奪した。カリブ海諸島とアステカ(メキシコ)、インカ(南米)に侵入した。北米ではインディアンを篭絡し、その社会を破壊させた。連中はこの頃アフリカを征服しており、黒人奴隷貿易を開始し始め、北米と中南米に送り出していった。カリブ海諸島に砂糖工場を作り莫大な利益を上げた。この過程を指導したのが概ねユダヤ政商であった。こうしたユダヤ商法により収奪した利益が巨富をもたらし、その後の世界征服計画の準備資金となった。 豊富に資金を蓄えた彼らは権謀術数を廻らし、オランダを乗っ取り、ユダヤ地下世界政府を構えた。アムステルダムに公然とユダヤ教のシナゴーグ(寺院)を建てた。これを為しえる実力を蓄えたことになる。かくしてオランダがユダヤの最初の根拠地となった。エルサレムを失ってから1400年にして初めて、ユダヤは世界征服の確固たる足場をオランダに見出した。 200年後の1690年代、ロンドンに移す。アジア征服の拠点は東インド会社で、インドからアヘンその他を輸出した。続いて中国に目を向けた。唐代にユダヤ人は広く根を張ったが、やがて弾圧され、元朝で重用されたものの、明代に徹底的に圧迫された。清朝になると、中国のユダヤ人社会は跡形も無く消滅していた。狂信ユダヤは、イギリスを使って中国侵略に再々度着手した。清朝がアヘン輸入を禁止するや、1840年、イギリスは清国にアヘン戦争を仕掛け、清国は屈辱的な敗北を喫した。香港が割譲され、上海に治外法権租界が作られた。 18世紀末、アメリカ独立とフランス革命を経て、英米仏蘭の4カ国が狂信ユダヤの牙城と化した。フランスのブルボン王朝が転覆された。アメリカの場合、南北戦争から第一次世界大戦の過程で、狂信ユダヤの支配権が確立された。 この間、西欧列強は、植民地政策により得た富に味を占め、帝国主義化を競い始めた。しかし、帝国主義諸国は他方で巧妙に戦争政策に巻き込まれ、その戦費調達で国家財政を悪化させられた。国家が疲弊するに応じて支配力を強めたのがかの連中であった。結果的に、英国が覇権を握り、最終的に米国へと変遷していった。この間これを推進せしめたのは例の連中ではないのか。そして今もなお大イスラエル計画を夢見て散々悪事を廻らしているのではないのか。 残念ながらマルクス資本論にも、レーニン帝国主義論にもこの視点はない。れんだいこは、ないから関心を持たぬのが良いとは思わない。むしろ、関心持たぬままで全てを解析したかの如くに得心して古色蒼然とした帝国主義論を振り回すのは、よほどオツムが粗雑なのではなかろうかと思っている。 2006.8.24日 れんだいこ拝 |
【「東方見聞録」の歴史的役割】 | ||
( 「マルコポーロの東方見聞録を読む」その他を参照する) 十字軍の遠征によって東方事情が伝わったことにより西欧ルネサンスが始まり、併行して新世界事情探訪の動きが強まった。イタリアのヴェネツィア商人の旅行家マルコポーロ(Marco Polo、1254ー1324)は、それまでの旅行メモをピサの物語作者として知られるルスティケロに聞き書きさせ、こうして生まれたとされている「東方見聞録」が当時のヨーロッパにアジア探訪気運を醸成させた。これが、後の大航海時代に大きな影響を与えた。同書の中で、日本が「黄金の国ジパング(Zipang)」として次のように紹介ていた。
「東方見聞録」の刊行経緯の裏事情が次のように推測されている。即ち、「アジアに憧れた商人マルコの一大旅行記」なる通説は作られたものであり、事実は、「敬虔なドミニコ修道会のキリスト教信者だったポーロ家の3人が、ローマ教皇から東方事情の調査収集を命ぜられ、クビライの臣下となりつつその任務に就き、東方事情調査書ともいうべき『東方見聞録』を作成した。『東方見聞録』はそういう性質のものである。つまり、彼らは東西の皇帝に仕える二重スパイだったということになる」。こうなると、ドミニコ修道会やらポーロ家の詮索までしたくなる。何となく臭うものがあるが分からない。 |
【大航海時代の幕開け】 |
ポルトガルの封建所領は王家の収入を増やさないので王家は独自の努力を始めた。1414年、ポルトガル王にしてアビス王朝の創始者ジョアン1世が、北アフリカの商業都市セウタ(モロッコ)攻略の遠征を開始した。ジョアン1世を父とし、イギリスのランカスター家の娘、ヘンリー4世の姉にあたるフィリバを母とする当時21歳になる第3王子も大航海時代の幕開けとなるこの遠征に兄達と共に参加し、武勲をたて有名になった。彼こそ、西アフリカ探検航海を推進し、後に「エンリケ航海親王」と呼ばれるようになった人物である。 1415年、ポルトガルの大軍はジブラルタル海峡を渡って北アフリカの商業都市セウタ(モロッコ)を攻略し、イスラム教徒からこれを奪った。これは一種の十字軍でローマ教皇からも評価された(ポルトガルの北アフリカ進出)。 セウタ確保の必要から西アフリカでの布教と貿易が問題になったエンリケは、3人の王(父、長兄ドゥアルテ1世、甥のアフォンソ5世)に仕え、キリスト騎士団長及びポルトガル南端のアルガルヴェ総督という立場でセウタの確保を指導した。その事業は大まかに二つあり、一つはマディラやアゾレスなど大西洋の島々への植民であり、もう一つがアフリカ西岸の探検と貿易である。後者については、昔からの『煮える海』『怪物の来襲』といった神話の壁を打ち破る船長教育が必要でエンリケは航海に関する人材を北欧、イタリア、イスラム世界など、宗教、人種を問わず招聘し一種の情報センターを主催したとされている。 1446年、エンリケの部下達はギニアに達しポルトガル発展の基礎を固めた。ポルトガルは1460年頃までに、カナリア諸島・マデイラ諸島を探検しシエラレオネ付近まで進出し、さらに象牙海岸・黄金海岸を経て、1482年、ガーナの地に城塞を築いて金や奴隷の交易を行った。 |
【クリストファー・コロンブス(1451年頃ー1506.5.20日)】 |
総評。スペインの王家に仕えたイタリアのジェノヴァ出身の探検航海者にして植民地請負商人。1492年、ヨーロッパ人(キリスト教徒、大航海時代として初)としてはじめてアメリカ海域へ到達し(「アメリカ大陸の発見」)、ヨーロッパの新大陸進出の先駆となった。本人は、死ぬまでたどり着いた場所をアジアだと信じて疑わなかったという。 日本語では「クリストファー・コロンブス」の表記が定着しているが、他国には通用しないことが多い。イタリア語名(本名)はクリストフォロ・コロンボ (Cristoforo Colombo)、スペイン語(カスティリャ語)名はクリストバル・コロン (Cristobal Colon)、ラテン語ではクリストフォルス・コルンブス (Christophorus Columbus)、英語ではクリストファー・コロンバス (Christopher Columbus) である。日本語の表記は英語読みをもとにしている。 |
【新大陸発見前までのコロンブスの概要履歴その1、西回り航路献策に至るまで】 |
「(ウィキペディア(Wikipedia))クリストファー・コロンブス」、2006年読売新聞連載「500年後のコロンブス」その他を参照する。 |
1451年、毛織物業と居酒屋を営むドメニコ・コロンボの息子としてイタリアのジェノバで生まれた。これについてはイタリア北部クッカロのコロンボ家出身説もある。更に、1461年、スペイン王子カルロス・デ・ビアナとユダヤ人女性マルガリータ・コロンの間に非嫡出子として生まれたとするユダヤ人説も唱えられている(「ユダヤ系スペイン人説」)。「当時はカトリックの貴族、王族と改宗ユダヤ教徒との結婚は異例ではなく、多数の改宗ユダヤ教徒が宮廷の要職に就いていた」。こうして、出自、出身とも異説が多くはっきりした事は解らない。 1477年、大西洋の向こう側の知識を求めアイスランドへ渡航した。 ポルトガルのアフリカ西岸の探検は1470年代に赤道を越えて、1480年代には南緯22度に達した。 1480年頃、ポルトガルで船乗りとして航海を重ねていた。この時期、西ヨーロッパの知識人や航海関係者の間では、地球が球体であるということがほぼ常識となっていた。しかし、世界地理全体の知識は当然のこととして貧弱で、コロンブス自身、実際よりも2割も小さい地球の姿を想像していた。コロンブスは詳細な海図を作成しながら、しだいに大航海の構想を抱くようになっていった。それは、西周り航路で“インディアス”すなわちアジアに到達しようとするものだった。 1480年、カトリックの異端尋問所が設置され、以降数世紀、多数のユダヤ人が処刑ないしは追放されていくことになった。 1484年〜1485年の初頭、スペイン南西部ウエルバ県のパロス・デ・ラ・フロンテーラに着いたコロンブスと息子のディエゴは、パロス・デ・ラ・フロンテーラの町から3kmほどにあるラ・ラビダ修道院に庇護を求めた。 |
【クリストファー・コロンブスの概要履歴その2、第1回目の航海に至るまで】 | ||
コロンブスは、当時ポルトガルが東回り航路でインドに到達するべく次々と船を出したのに対し、西回りでインドに到達する事を計画した。 1484年、ポルトガル国王のジョアン2世に西回りの航海のための援助を求めるが断られる。その頃ポルトガルは東回りの航路によってアフリカの喜望峰に達しており、インド航路開拓に手ごたえを感じていたからであった。コロンブスはポルトガル王の援助をあきらめ、スペインに狙いを絞った。当時、スペインでは、カスティーリャ女王のイサベル1世とその夫アラゴン王のフェルナンド5世が、カスティリアを夫婦共同統治、アラゴンはフェルナンド二世の単独統治としていた。 1484年、修道士たちの助けもあり、コロンブスは当時スペインを治めていたカトリック両王に航海案を提出することに成功した。 1485年、ディオゴ・カンがジョアン2世に命じられてナミビアのクロス岬に到達した。 1486年、コロンブスは、スペインカスティリア女王イサベルとの会見にこぎつけた。ドン・キホーテの作者セルバンテスの生地でもあるマドリッド郊外のアルカラ・デ・エナーレスの司教館で謁見を許された。この時かどうかは不明であるが、コロンブスは、「私は貴国に住む外国人」と自己紹介している。西回りでインドに到達する計画を打ち明け援助を願い出たところ、イサベルは計画に強い興味を示したものの時期尚早と判断した。南部に残るイスラム勢力のグラナダ王国を半島から最終的に排除する国土回帰運動を焦眉の課題としており、アラゴン王フェルナンド2世も又商湾バルセロナを抱えてイタリア半島への影響力をフランス王と競っていた為、良い返事は得られなかった。計画の採用は 1492.1月のグラナダ陥落を待たなければならなかった。 コロンブスは、高僧や有力者の説得に成功し、イザベラ女王から生活費を支給された。その後もスペイン各地を渡り歩きながら数度に渡ってスペイン各地で謁見を繰り返す。返事はいつも保留された。当時のスペインは、グラナダを攻めるために準備を整えており「コロンブスの献策」を検討する余裕が無かった。 1487年、ポルトガル人バルトロメウ・ディアスは、国王ジュアン2世の計画によりアフリカ東岸への迂回を目的として3隻の艦隊で出航した。ケープタウン付近で南下して嵐のため陸地を見失い闇雲に航海して北上、アフリカ南端モッセル湾を発見した。ディアスはインドへ向かうよう主張したが船員達の反乱によって撤退を余儀なくされ、付近を偵察しつつ帰路についた。本当の南端はアグリャス岬だがディアスは景観とテーブル湾(ケープタウン)の関係で印象の強い「嵐岬」を南端と考え、1488年暮れ、国王に報告した。王は後で「嵐岬」をを「良き希望の岬」(Cape of Good Hope)と名付け、た。その後「喜望峰」と表現されるようになった。ヴァスコ・ダ・ガマが、ポルトガル王に命じられてインドへ旅立つことになった。 ディアスは「喜望峰」航路の経験を活かし、ガマのインドへの航海の準備に全面的に協力し出発の時は途中まで見送った。その後、ブラジル探検に加わり海難事故で他界した。 1492.1月、スペインは遂に、スペイン南部に残るイスラム教国グラナダを攻め落とし(グラナダ王国を滅ぼす)、レコンキスタを完遂した。レコンキスタとは、国土回復運動であり、718年から1492年までに行われたキリスト教国によるイベリア半島の再征服活動の総称である。ウマイヤ朝による西ゴート王国の征服と、それに続くアストゥリアス王国の建国から始まり、1492年のグラナダ陥落で終わった。レコンキスタという言葉はスペイン語の Reconquista =「再征服」の意味である。ポルトガル語では同綴でルコンキシュタという。 かくして、かってイベリア半島全域を支配したイスラム教徒の最後の拠点グラナダがキリスト教徒に引き渡されることになり、翌年の1.2日、当時カトリック両王と呼ばれたスペインのカスティーリャの女王イサベラとアラゴンの王フェルディナンドが、グラナダに入城した。最後のグラナダ王アブー・アブダラーは海を渡ってモロッコに去った。 「ウィキペディア(Wikipedia)大航海時代」は次のように記している。
同4月、スペイン王家は同国内に住むユダヤ人に対し、8.2日を期限とする国外追放令を発布した。追放者は推定で16万人以上にのぼった。スペインはそれまでキリスト教、ユダヤ教、イスラム教の混在に比較的寛容であったが、グラナダ王国が滅亡した1492年以降急速に「楽園」が失われ、「宗教、宗派、民族の違いを理由にした紛争や戦争」が勃発していくことになった。これを逆に云うと、「異宗教、異宗派、異民族の共存できる寛容な世界作りが世界史的テーマになった」ことを意味する。 コロンブスの冒険はスポンサー探しで頓挫しかかっていたが、イスラム時代からアンダルシアの地に住んでいたユダヤ人改宗者にしてフェルナンド王の宮廷会計官が、所要経費の相当部分となる百万マラベディ(金の価格から現在の日本円に換算すると約1500万円)の前貸しを申し出た。この時、密約が為され、「ユダヤ人の安住の地探訪こそコロンブスの冒険の隠された狙いであった」とする説が有る。
ポルトガルの東方貿易に遅れをとってはならないと焦り始めていたスペイン女王イザベラ女王は、コロンブスの提案を受諾し、協約が結ばれた。レコンキスタでグラナダを奪回した直後であったのが幸を奏し、話が纏まった。こうして、コロンブスは、航海への援助を取り付けることに成功し、カトリック両王から「カスティーヤ提督」という称号と共にさまざまな援助を受けた。なおイサベル1世自身の援助は、自身の指輪一つだけだったと云われる。 コロンブスがスペイン王家の支援を受けて出航したのは翌8.3日である。コロンブス出航の真の目的は、「ユダヤ人の移住先探索」であったとする説も有る。 |
【第1回目の航海】 | ||
1492.8.3日早朝、コロンブスは、ラ・ラビダ修道院でのミサに参列した。スぺインのイサベラ女王の援助を得て、大西洋をインドを目指してパロス・デ・ラ・フロンテーラ港を出航した(第1回航海出発、〜1493.3.15日)。この時の編成はキャラベル船ニーニャ号(船長はビセンテ・ヤーニェス・ピンゾン)とピンタ号(船長はマルティン・アロンゾ・ピンゾン)、ナオ船のサンタ・マリア号(旗艦)の3隻で総乗組員数は約90人(120人と言う説も)。 10.12日、出航2ヵ月後のこの日、ピンタ号の水夫が陸地を発見した。ついに西まわりで東洋に到達し、伝説の金の島シパングを発見したという思いはコロンブスを狂喜させた。現在のバハマ諸島グァナハニ島に到達し、翌朝コロンブスはその島に上陸し、ここを占領してサンサルバドル島(聖なる救世主)と名づけた。これが、「西欧人による新大陸発見、上陸」となった。サンサルバドル島は、1周約40kmの小さな島で、先住民としてタイノ族が住んでいた。コロンブスは、王旗と十字架を先頭に上陸し、友好のしるしとして、先住民にガラス玉と鏡を贈ると、彼らは返礼に珍しい果物などとともに「香り高い乾燥した葉」を差し出した。これがたばこであり、ヨーロッパへ持ち帰ることになる。
コロンブスは、この島が金を豊富に産すると考えた。島民から聞いた、島の中部の金の産地の名シバオが、かの東洋の伝説の島シパング、つまり日本を連想させ、コロンブスは、自分たちが東洋、それも金の島シパングに到達したと信じ込んだ。シパングに着いたら金を手に入れ、その金を持って西のシナ大王国に行き、そこで物産を買いつけてスペインに帰ってくるのが、コロンブスの当初からの計画だった。
12.24日、クリスマス・イブのこの日、カリブ海を航海中の旗艦サンタ・マリア号が現在のハイチ沖の小さな島の岸で座礁した。乗船していた39名の船員はハイティの北岸に上陸し、サンタ・マリア号の残骸を集め、アメリカに於けるスペイン初の植民地(居留地)を作った。コロンブス一行がもっとも重視したのは、現在のハイティとドミニカ共和国のある島だった。この島は地域の中心であり、人口も周囲の島々より稠密だったようだ。コロンブスは島の美しさに感激し、気候も風土もスペインに似ていると感じて、エスパニョーラ島、つまり「スペインの島」と名付ける。そこにしばらく滞在し、根拠地となる砦を建設した。そこで彼らは気前のよい原住民たちと遭遇し、多くの黄金を目にした。やがて金山が発見される。 |
【帰国後の大歓迎】 |
帰還したコロンブスを歓迎してバルセロナの宮殿では盛大な式典が開かれた。伝説の島シパングらしき島を発見し、その島で入手した金を持って帰国したコロンブス一行は、熱狂的な歓迎を受けた。コロンブスは航海に先んじての「1492.4月の協約」に基づく権利を主張した。これにより、発見した島島すべてを支配する副王(総督)の地位、世襲提督の地位、持ち帰った真珠・宝石・金銀、今後発見地から上がる収益の10分の1を貰う権利を獲得した。陸地を発見した者には賞金が王夫婦からかけられていたのだが、コロンブスは自分が先に発見したと言い張り、これをせしめている。 この時、「コロンブスの卵」の逸話が生まれている。誰かが「誰でも西へ行けば陸地にぶつかる。当たり前のことだ」と述べ、コロンブスの成功を妬む人に対して、コロンブスが卵を机に立ててみよと言い返し、誰も出来なかった後でコロンブスは軽く卵の先を割ってから机に立て、「人のした後では造作もないことだ」と言い放った。これが有名な「コロンブスの卵」の逸話である。史実か創作かは定かではない。 |
【第1回目の航海時の植民地政策の実態】 | ||
スペイン王は、植民地での反乱や原住民への虐待を理由に、コロンブスを牢獄に繋いだことさえあったということで判明するように、コロンブスが新世界で行ったことは、スペイン王をも恥じらわせ烈火とさせるほどの「徹底的に残虐にして特異な植民地政策」であった。その淵源はなへんに有りや。 コロンブスは、新しい島に到着するたびに上陸して、カスティリャ女王イサベラの名で、入念な領有の儀式を行った。この島の住民が臆病で気が善く、いつも裸で暮らしており、武器というほどの武器もないのを見て、統治に困難はなく、この島の富は容易に手に入れられると考えた。 コロンブスは、航海のスポンサーであるスペインのカトリック王(フェルナンド王とイサベル女王)に向けて航海誌「コロンブス航海士」(林屋永吉訳、岩波文庫)を書いた。その中で次のように記している。
コロンブスの実際の施策の詳細は不明であるが、この言葉通りに原住民を翻弄し、圧制を敷いたものと思われる。これについては、概要が分かり次第書き付けることにする。 コロンブスが帰航した後に島の砦に残された40名足らずの男たちは、島の女を奪って一人で三、四人ずつ自由にした。女の取り合いから喧嘩して殺し合いになり、一部の男たちは散り散りに島の各地に行き、乱暴を働いて住民に殺されたり、病気にかかって命を落としたりした。砦に残った何人かのグループは、金の産地と聞いたシバオに遠征し、現地の王に散々に打ち負かされた。その王が海岸の砦にまで攻めてきて、生き残った男たちは全員殺されたり海に逃げて溺れ死んだりした。 結果的に、スペイン支配化でタイノ族は死に絶えた。主に強制労働と旧大陸からもたらされた天然痘などの伝染病流行の結果であった、とされている。新たな労働力としてアフリカ系黒人が奴隷として連れてこられた。 |
【第2回目の航海】 |
1493.9.25日、第2回航海がカディスを出発(〜1496.6.11日)した。17隻の船団がエスパニョーラ島に向かった。一攫千金の野望に燃えた1500人で出発した2度目の航海はその乗員の中に農民や坑夫を含み、植民目的であった。 入植は難航していたが、コロンブスは内陸部のシバオなどへの金の探索を精力的に進め、この島に相当量の金が存在するとの心証を得た。この間、周辺のアラワク族の人たちは親切で、困っている入植者たちに食糧を持って来たり、農作物の栽培法を教えたりした。ところが、現地の慣習と文化を無視した西欧人の行動が、かっては善良で親切だった島の住民の警戒心を強め、両者の関係は緊張して行った。 1494.6.7日、ポルトガルとスペインによる新航路開拓と海外領土獲得競争が白熱化すると両国間に激しい紛争が発生した。さらに他のヨーロッパ諸国が海外進出を開始したため、独占体制崩壊に危機感を募らせた両国は仲介をローマ教皇に依頼して、トルデシリャス条約によりスペインとポルトガルの境界線画定した。 |
【第3回目の航海】 |
1498.5.30日、第3回航海出発(〜1500.10.31日)、6隻の船で3度目の航海に出る。今度は南よりの航路を取り、マディラ・カナリー・ヴェルデ岬諸島を経て西航し、小アンティル諸島の最南端トリニダート島に着き、その対岸の現在の南アメリカ大陸のベネズエラのオリノコ川の河口に上陸した。その後、北上してサントドミンゴに着くと、後を任せていた弟・バルトロメの統治の悪さから反乱が起きていた。コロンブスは説得を続けるが、入植者たちはこれを受け入れなかった。 |
【第4回目の航海】 |
1502.5.9日、第4回航海出発(〜1504.11.7日)。船数4隻の乗組員140名で4度目となる航海をするが、王からの援助は小型のボロ舟四隻というものであった。出航したが、イスパニョーラ島への寄港は禁じられており、カナリー諸島を経て西インド諸島のマルティニク島に行き、さらに西航して初めてアメリカ大陸のホンデュラスに着いた。それから中米沿岸を航行し、10月頃、パナマ付近まで行き植民を企てたが、見込みがないと判断してパナマ周辺を6か月さまよった。現在のホンジュラスからパナマにかけての中米地方に到達している。が、最後は難破して救助された。 1503.2.14日、スペイン、植民地との貿易を統括する通商院をセビリャに設置。 1503.12.20日、エンコミエンダ制、イスパニョーラ島で公認。 1504年、最大の理解者であったイサベル女王が死去。宮廷にはコロンブスに好意を示そうとするものがいなくなった。コロンブスの身分は「市民」でしかなく、副王たるコロンブスの存在は邪魔になるばかりであった。 11月、スペインへ戻った。 |
【黒人奴隷の強制輸入】 |
1505年、イスパニョーラ島に黒人奴隷導入。 |
【晩年のコロンブス】 |
帰国後のコロンブスは病気になり、失意と不遇のまま過ごすことになる。 |
【植民地化のその後の動き】 |
コロンブスの新世界到達後、欧州からの南北アメリカ移住が始まった。 1513年、スペイン人の探検家バルボアが、パナマ地峡の反対側を踏破して、谷、太平洋を発見。 |
1519年、マゼラン(マガリャンイス)が、スペインの命を受け、セビリアから5隻の船で出発してモルッカ諸島への西回り航路開拓に出た(〜1522年迄)。1520年、南米南端のマゼラン海峡を通過して、1521年、フィリピン諸島に到着した。マゼランはその地で戦死したが、その部下エルカーノ率いるビクトリア号1隻が1522年にセビリアに帰港し世界周航を果たし、地球が球体であることを実証した。 スペインはこの後もメキシコから太平洋を横断しモルッカ諸島への航路を開こうと躍起になり、ポルトガルと摩擦を起こす。そのさなか、1571年、フィリピンは、メキシコを出発したミゲル・ロペス・デ・レガスピによって征服されスペイン領となった。 ポルトガルは、マレー半島・セイロン島に進出した。1543年、ジャンク船に乗ったポルトガル人が日本の種子島に漂着して鉄砲を伝えている。1557年、マカオに要塞を築いて極東の拠点とした。 1500年、
アメリカ航路開拓に遅れをとったポルトガルも、カブラルがブラジルに到達し、その地をポルトガル領に加えスペイン同様に原住民から富を収奪した。 |
【その後のカリブ海諸国】 |
サンサルバトル島は、島しょ国家バハマに属する。1973年、バハマは、英連邦の一員として独立した。人口約30万人。公用語は、英語。現在、カリブ海有数の高級リゾート地として潤っている。 |
(私論.私見)