
更新日/2020(平成31→5.1栄和元年/栄和2).4.12日
1701年、ウィリアム3世の御世、英国国会は「王位継承法」を制定し、カトリックのスチュアート家が王位を要求する事を禁止した。以後、君主は英国国教会の信者でなければならず、カトリック教徒との結婚も出来ない事になった。
イングランド銀行の創立と共に、莫大な財産が創造され、国中に広大な地所が形成された。
1702年、アン女王(1665~1714年。在位1702~14年)が、ウィリアム3世の跡を継いだ。彼女は子供を12人産んだが一人も大きくならなかった。
アン女王が亡くなると、王位継承権を主張する者が大勢登場した。王位に就いたのは、独逸のハノーヴァー選帝公[英国王ジョージ1世、1714~27年]だった。学者のゴットフリート・ウィルヘルム・ライプニッツ(1646~1716年)がこれを正当付けた。
既に1667年にニュルンベルグの薔薇十字協会の書記となっていたライブニッツは、ブランズウィック家の主張を裏付ける証拠調べに20年を費やし、明らかになった事実を「ハノーヴァー古文書家系法典」として公刊した。ライプニッツが古文書によって明らかにしたブランズウィック家の家系は次の様なものであった。国王ジェームズ1世[1603~25年]の娘エリザベスはプロテスタントであったが、プファルツ選帝公のフリードリッヒ5世に嫁ぐ。二人の間に生まれた娘のソフィアは初代ハノーヴァー選帝公エルンスト・アウグストと結婚する。ソフィアはアン女王より先に亡くなってしまうが、ハノーヴァー選帝公となったその息子は、他の王位継承要求者達を退ける事が出来た。それはひとえにライプニッツが入念に証拠調べをした家系記録のお陰だったのである。彼は系図学者・歴史学者として忠誠を尽くしてハノーヴァーのブランズウィック家に仕えた。
ライプニッツがイングランドにもたらしたのはハノーヴァー家ばかりではなかった。フリーメーソンも導入した。彼は薔薇十字協会に関係しており、イングランド側でもフランシス・ベーコン[1561~1626年]が薔薇十字協会に関係していた[創立者とも云われる]為に、フリーメーソン員をイングランド王位に就ける事が出来たのだ。ジョージ1世という名前を名乗ったものの、ハノーヴァー出身の新王は英語は一言も話さず、又自分の新しい領国の言葉を頑として覚えようともしなかった。
クロムウェルに資金を提供したのはユダヤ人。クロムウェルはこの資金で軍隊を雇い、イギリスを奪った。表向きはキリスト教徒であったがユダヤ人に雇われたキリスト教徒であった。
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「天野統康の有料ブロマガ「マネーと政治経済の原理からニュースを読む」」の2014.5.30日、「現代社会に対する批判の天才 故太田龍氏が主幹の週間日本新聞より抜粋 ロスチャイルド以前の金融権力」。
1年ほど前に知人のベテラン証券アナリストの方から、故太田龍氏が主幹をしていた週刊日本新聞を、初回の1号から最終号までの約580冊あまりを縁があっていただいた。生前の太田氏の講演会には何回か参加し、本やネットの時事寸評は読んでいたが、氏の週刊日本新聞は購入していなかった。今までに平成14年から平成19年までの300号くほどを読んだ。太田氏は現代社会に対する批判を行わせたら右にでる人がいないほどの天才的な人であった。またメインストリームの世界では訳すことができない国際金融軍事権力の実態を暴いた英語の重要な文献を、日本人向けに訳してくれたのは、見識と英語力に秀でており、かつ勇敢だった太田氏の偉大なる功績である。特に週刊日本新聞には、日本では滅多に入らない英語関係の文献が多数紹介されている。国際金融軍事権力と日本社会の実体を考える上で参考になった記事をかいつまんで紹介していきたい。
今回は、19世紀初期にロスチャイルド金権王朝が成立する以前の金融権力についての情報である。 |
「平成18年12月18日 週刊日本新聞 第467号 から転載と抜粋」
■ディズレイリとロスチャイルドの関係についての日本人英国問題専門学者のおどろくべき無知
ジョンコールマン著「ロスチャイルドの密謀」(成甲書房)がディズレイリとロスチャイルド家の関係に焦点をあてていることについては、既に色々なところで述べた。<中略>「コンタリーニ・フレミング」※(ディズレイリの本)これは恐らく、明治の翻訳者にはまるでわけがわからない話ではなかったか。19世紀当時の現代と、何世紀も昔のヴェネチアとが、小説で結び付けられている。コンタリーニ家は、ヴェネチアの黒い貴族の重要人物として、西洋史上、著名である。<中略>何故、ディズレイリが小説の中で、ヴェネチアを問題とするのか。<中略>ここでは、コニングスビー(ディズレイリの書いた小説の主人公)が友人たちに対して、英国史とヴェネチアの関係を説明する。<中略>「アンの治世は、ヴェネチア型とイングリッシュ・システムとの間の闘争の時代であった」。アン女王のあとは、ドイツ、ハノーバ王朝から、ジョージ一世(1714年~1727年)が迎えられる。ジョージ一世から始まるハノーバ朝は、純然たるヴェネチア型国家体制であると、ディズレーリは言うのである。
■ヴェネチアの金融寡頭権力国家についての古典的文献、ウェブスター・タープレイ
ウェブスター・タープレイ「ザ・ヴェネチアン・コンスピラシー」
この論文は、今日に至るまで、ヴェネチアの黒い貴族についての最も優れた古典的文献として、高く評価されている。以下にその要点を記述する。まずディズレイリが小説にしたコンタリーニ家である。ヴェネチアの宗教改革と反宗教改革と、その両者に与えた影響は、ガスペロコンタリーニのきらびやかな経歴の中に、最も明確に見ることができる。コンタリーニはヴェネチアの最も高いロンギの家系の中の一つの家の御曹司であった。コンタリーニ家は、七人のドウーチェ(総統)を生んだ。<中略>前出タープレイの論文によれば、ヴェネチアの黒い貴族には、二つの家系がある。第一は西ローマ帝国崩壊時、ヴェネチアに避難したローマの貴族に由来する西暦1000年以前に形成されたロンギと称される古い家系である。この古い家系は、西暦1382年までドウーチェの地位を独占した。この年以降、新しい家系が台頭した、と。ヴェネチアの黒い貴族の貿易の主たる事業は奴隷貿易であったという。これは特筆に値する。ヴェネチアの国家=通商貿易帝国は、千五百年に亘って、外国から征服されることなく強固に維持されたと。<中略>ヴェネチアの国家体制は、金権オリガルキー(金権寡頭権力国家)である。つまり、一定以上の資産を所有する百五十人(又は、より正確に言えば、百五十家)が最初のオリガルキーである。その家系は千~二千、と増えていく。しかし体制の根幹は不変である。コンスタンチンノープルがイスラムの支配下に入って、東ローマ(ビザンチン)が滅亡した時、ヴェネチアの寡頭権力国家(黒い貴族)は、ローマ帝国の正統的継承者と自称して、ローマ帝国の全世界的規模での再建を志した、とタープレイは言う。かくして彼らは16世紀、英国に取り付くわけである。(転載終了) |
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(私論.私見)