ヘンリーメイコウのニューズレターから
http://www.henrymakow.com/illuminatibankersorganizedtheenglish.html
Iluminati Bankers Organized
the English Revolution
イルミナティ銀行家は、
シオニストの雑用係オリバー・クロムウェル
「イングランドが一連のまだ終わっていない革命運動の一番手になる運命だった。」
これらの謎めいた言葉とともに、アイザック・ディズレーリ(ベンジャミン・ディズレーリ · 初世ビーコンズフィールド伯の父)が二巻からなるチャールズⅠ世の伝記に取り掛かり、1851年に刊行された。
イルミナティ・ユダヤの銀行家がイングランドにその足場を確立し、世界支配のための手段としたとき、現代世界と新世界秩序(New World Order)の起源はイギリス革命(1641-1660)とそれに続く「名誉革命」(1688)にまでさかのぼる。
by A.M. Ramsay
(from his book, "The Nameless War"
1952)
"無名の戦争(The Nameless
War)"
A.M.ラムゼー大尉(1894‐1955)
アイザック・ディズレーリの「Life of Charles I(チャールズⅠ世伝)」(1851)は、当時のフランスのイギリス使節メルシオール・ド・サロン(Melchior
de Salom)の記録から得られる情報を基に驚くべき詳細に至るまで看破した仕事であった。
英国国教会とその古代の伝統に基づくブリティッシュ・キングダムを遠く垣間見ることから場面は始まる。 君主制(Monarchy)、教会、州、貴族、人々を義務的制裁で、厳粛に一つに結束させている一方で、
他方では、カルヴァン主義の不吉な兆候が鳴り響いていた。
カルヴァン(Calvin)、彼の名前はCauin(おそらくコーエンCohenとつづるフランス語からの派生)とつづり、大多数の革命の弁舌家を組織したフランスからジュネーブに来た。 そのかなりの数は、イングランドとスコットランドに損害を加えた。 かくして、宗教の情熱に覆われたまま革命の基盤を築いたのだ。
国境を流れるツイード川の両岸で、これらの扇動家は、「安息日(Sabbath)」を厳粛に遵守したうえで、すべての宗教と契約した。 アイザック・ディズレーリの言葉によれば、「国家は、安息日を守る人(Sabbatarians)と安息日を守らぬ人(Sabbath
breakers)に巧みに分けられた。」
「カルヴァンは」、ディズレーリは述べる、「安息日をユダヤ人の条例(神聖な人々に限られている)であると考えた。」
続けて述べたことは、これらのカルヴァン主義者が彼らの権限で国家を占拠したとき、「宗教が主に安息日厳守のみで成っているようだった。 まったく、英国議会は、ヘブライ教のラビの会社に変わった」。 その後、「1650年、国王処刑後、法は安息日の違反に対して処罰を負わせることで可決された」。
フランスの宗教改革者・
CUE THE PROLETARIAT:プロレタリアートの入れ知恵
この時に突然、シティの武装した「工作員(Operatives)」(間違いなく中世における『労働者workers』と同意義)の暴徒が現れ始めた。
ディズレーリから引用すると、
「彼らは、1万人に達すると言われていた ... 戦闘武器を所持していた。それは年間通して反乱を起こす民兵で、最低賃金でどんな破壊依頼も請け負っていたかもしれない
... 短剣と棍棒を所持した民兵が(シティから)出て行ったということは、連続して起こる暴動状態に長く置かれたにちがいないことは明らかだ。」
これらの武装した「労働者」の暴徒は国会議事堂と宮殿の危機的状況の両方ですべてを脅迫した。 正確には、後に、フランス革命における「神聖隊(Sacred
Bands)」と「マルセイユ義勇軍(Marseillais)」の雇用のひな形となった。
アイザック・ディズレーリは、これとフランス革命間の驚異的の類似性を、何度も何度も描いている。
特に新聞上での彼の特権は「もはや拘束がない」うえに、革命の小冊子とちらしを氾濫させていた。
「1640年から1660年まで」と、彼は書く。 「およそ30,000人が運動を起こすのに現われたようだ。」
そして、後で、「フランス革命の小冊子の収集品は、数量も豊富にあり、激しい情熱であったかのように、チャールズⅠ世時代のフランス側の系列のそばに現在展示されている。」
彼は続けて、「カーテンのうしろから誰が操ったのか、 ... 彼らに『ストラフォーディアンス(Straffordians)または国家の裏切り者』という嫌悪すべき烙印を押して、59人の一般人の正にその記録名簿を掲示した。
1st Earl of Strafford(1593 – 1641)
初代ストラフォード伯爵、チャールズⅠ世の側近
本当に、誰の手だったのか?
しかし、それほど知っていたディズレーリは、現在、その鉄のカーテンで覆いすそを控えめに引っ張っている。 そして、意外な事実の解明は、私たちに任せられる。
そうするために、ジューイッシュ・エンサイクロペディア(Jewish Encyclopedia:ユダヤ百科事典)、ゾンバルト著によるThe Jews
and Modern Capitalism(邦訳『ユダヤ人と経済生活』荒地出版社、1994)、のような別の仕事に目を向けなければならない。
Werner Sombart(1863 - 1941)
これらから、革命の主要な人物、クロムウェルを知ることになる。 彼はオランダに強力なユダヤ人の融資者と密接な関係にあった。 そして、マナセ・ベン・イスラエル(Manasseh
Ben Israel)から大金を実際、融資された。 一方で、「偉大なユダヤ人」と呼ばれたフェルナンデス・カルバハル(Fernandez Carvajal訳注:ポルトガル商人)は、新しい軍隊形式の請負業者の長だった。
イングランドのユダヤ人(The Jews in England)で、読んだことは、「1643年、イングランドにユダヤ人の大派遣団を連れてきて、彼らの再結集地は、ポルトガル大使デ・スーザ(マラーノ:隠れユダヤ人)の家だった。フェルナンデス・カルバハルは偉大な融資者と陸軍御用商人として、彼らの間で傑出していた。」
その前年の1月、シティにてすでに「工作員(Operatives)」と呼ばれた武装したギャングたちが引き起こした激しい暴動の首謀者5人のメンバーの逮捕を企てていた。
革命の小冊子はこのときにばらまかれた。 同様にディズレーリが私たちに言ったこと、「『おのおの天幕に帰れ、偉大なイスラエルよ』と不吉な暴動の叫び声をあげた。」 これの直後に、国王とその家族は、ホワイトホール宮殿から脱出した。
5人のメンバーと共に旗を携え武装した暴徒は、ウエストミンスターへの凱旋復帰をした。 舞台は、その時彼らの生みの親クロムウェルを持ち上げ、カルバハルと仲間のユダヤ人の出現の用意が整っていた。
(つづく)
【翻訳:タドン】
Isaac Disraeli (1766 – 1848)
ユダヤ人の文人・歴史家
息子の初世ビーコンズフィールド伯ベンジャミン・ディズレーリ(Benjamin Disraeli:1804-1881)は政治家。
イギリス首相になったユダヤ人。
テーマ:ヘンリー・メイコウ
ヘンリーメイコウのニューズレターから
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Iluminati Bankers Organized
the English Revolution
イルミナティ銀行家は、
イギリス革命を組織した(2)
March 9, 2012
WHO FUNDED CROMWELL? :
誰が、クロムウェルに資金を助成したか?
場面は、変わる。 イングランド大内戦(清教徒革命:The Civil
War)は成り行きの経過をたどった。時は、1647年。
ネイズビーの戦いで(議会軍は)大勝利し、(国王軍は)敗れた。 国王(チャールズⅠ世)は事実上の囚人であったがホームビーハウス(Holmby House)で賓客のように待遇された。
年9月3日の『Plain English(素顔のイギリス)』紙[脚注***]、に公開された手紙によると、
「博学な長老たちは、おそらくだれもが疑ったより非常に長い期間、存在していた。 アムステルダムにいる私の友人L. D.ヴァン・ヴァルケルト(L. D. van
Valckert)氏は、最近、私にミュールハイム・シナゴーグから抜粋した記事二つを手紙で送ってきた。彼らのことが掲載されている分厚い本には、ナポレオン戦争時のいくつかの章が消失していたが、最近ヴァン・ヴァルケルト氏が手に入れた。
それはドイツ語で書かれており、ミュールハイム・シナゴーク当局でやり取りされた手紙の抜粋が載っている。
彼が私に送ったなかに最初に入っていたのは、その受領された手紙である。
1647年6月16日。
O.C. (すなわち、オリバー・クロムウェル)から。
エベネツァー・プラット(Ebenezer Pratt)より
財政援助と引き換えに、イングランドにユダヤ人の入国を提言する。
しかしながら、これはチャールズが生きているうちは不可能である。
現存しない十分な根拠がないまま裁判なしで、チャールズは処刑できない。
したがって、彼の脱出を手伝う気持ちはあっても、チャールズが暗殺されることと、暗殺者を調達する準備とは関係ないことを忠告しておく。
以下のような返事が送られた。:
1647年7月12日。
エベネツァー・プラットよりO.C.へ。
よろしい、チャールズが脱出したとユダヤ人が認めたらすぐに、財政援助を与える。 暗殺とはあまりに危険だ。
チャールズは、逃げる機会を与えられるが、再び捕えられ、裁判で処刑が可能になる。支援は惜しまないつもりだが、裁判が始まらないうちから、交渉条件の議論は無用である。」
Lord Alfred Douglas (1870-1945)
脚注*** 『Plain English(素顔のイギリス)』紙は、ノースブリテッシュ出版社から発行され、故アルフレッド・ダグラス卿によって編集された週刊評論紙。
現在一般に公開されている情報をもとに、国王殺し側のその後の動きは、さらに冴えて目立ちはじめた。 1647年6月4日、コルネット・ジョイスに、秘密に従って行動するようクロムウェル自ら注意した。 ディズレーリによれば、フェアファクス総司令官にさえ知らされていないことは、500人の選抜された革命隊にホームビーハウスを襲わせて、国王を逮捕したことだ。
Cornet George Joyceによる国王逮捕。
ディズレーリによると、「その計画は、5月30日クロムウェル邸で開催された密会で取り決められたが、のちにクロムウェルは同意してないと偽っていた。」
この動きは、軍の突然の展開と同時におこった。 「平等(Levelers)」と「合理主義(Rationalists)」の台頭だ。
彼らの教義は、フランスの革命のそれだった。 実際、私たちが今日において共産主義として知っているものである。
国王殺しの大逆罪人らは、50人の議員が最終的に左翼におちつくまで、議会の「一掃(purged)」を4回おこなった。 後に残部(Rump)として知れわたった彼ら自身、まるで共産党員のようだった。
THE EXECUTION OF CHARLES I
:
チャールズⅠ世の処刑
余談はさておき、文字どおり1647年6月12日、ミュールハイム・シナゴーク(アムステルダム在)からのずるい提案は、その仕組まれた脱出が、処刑の口実として利用されなければならないというものだった。その年の11月12日に、ちょうどそのようなイベントが実行された。
ホーリスとラドロウは、この一連の過程はクロムウェルの戦略とみなした。
アイザック・ディズレーリの描写では、「ホームビー(Holmby)を強制退去の日からワイト島へ脱出するまでの国王は、すっかりクロムウェルのカモだったと、現代の歴史家は決定をくだした。」
Edmund Ludlow
(1617-1692) Denzil
Holles (1599 – 1680)
言うべきことはもうない。
クロムウェルはシナゴークからの命令を実行した、そして、疑似裁判を残すのみであった。
有利な地位につくための画策は、しばらくの間続いた。
そして、明らかになったことは、「一掃」された状態でさえ、議員の一部は国王と協定を結ぶことに賛成だったことだ。
1648年12月5日、下院は一晩中議論して、ようやく問題に決議した、「国王の譲歩は和解するに申し分ない。」
万一そのような合意が得られたなら、当然、クロムウェルは国王を再度襲撃してユダヤ人から与えられるべき所望の大金を、受け取れなかっただろう。 12月6日の夜、プライド大佐は、彼の指示で、「プライドのパージ」として知られている下院議員の最後で最も有名な「一掃(purge)」を実行した。 1月4日、50人の共産党員の残部議会(Rump)は、「最高権威(the supreme
authority)」を自らに授けた。
1月9日に、国王を裁判にかけると「高等法院」は宣告した。 その議員の3分の2は、軍出身の平等主義者(Levelers)だった。
アルジャーノン・シドニーは、クロムウェルに警告した: 「第1に、国王は法廷なしで裁判にかけられることができません。第2に、だれもこの法廷で裁判にかけられることができません。」 それを、ヒュー・ロス・ウィリアムソンは、著書チャールズとクロムウェル(Charles and
Cromwell:1946)に書いた。
そこに、「イギリスの法律家でないものが罪文書を作成したと見受けられた。 結局は、融通の利く外国人、アイザック・ドリスラウス(Isaac Dorislaus)に任せたのだ」という趣旨のことを、最後の仕上げの一筆に加えた。
Algernon Sidney (1623-1683)
イングランドの政治家、哲学者
Charles and Cromwell
Hugh Ross Williamson
(1901-1978)
言うまでもなく、アイザック・ドリスラウスは、「護国卿(Protector)」に報酬(blood
money)を支払ったカルバハルとマナセ・ベン・イスラエルなどの他の融資者のような、まさに同様の外国人だった。
訳注:Lord
Protector:護国卿,護民官 《共和政時代 Cromwell
父子の称号》.
(つづく)
【翻訳:タドン】
◆アイザック・ドリスラウスの暗殺事件現場。
Assassination of Dr Isaac Dorislaus, May
1649
Isaac Dorislaus[1595-1649]
http://blog.botanicalart.shop-pro.jp/?day=20111218
テーマ:ヘンリー・メイコウ
ヘンリーメイコウのニューズレターから
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the English Revolution
イルミナティ銀行家は、
イギリス革命を組織した(3)
March 9, 2012
三銃士
THE TRUE NATURE OF REVOLUTION :
革命の真相
ユダヤ人はキリスト教と国家の重大な脅威である、と断言した国策議会の分科委員会による強い抗議にもかかわらず、再びイングランに自由に上陸する許可がおりた。
ことによると、それらの抗議の結果で、実際、追放令が今日に至るまで決して廃止にならなかった。
アイザック・ディズレーリは書いた、「チャールズⅠ世下のイギリス革命」、「それは以前のどんなものとも違っていた ... その事件から、我々の歴史における革命の発達の段階を熟考する。」
その他より多くの出来事が、相似線上に事態が生じた、特にフランス革命がそうである。 1897年、シオン長老の議定書(Protocols of the Elders of
Zion)という形で非ユダヤ人の手におちた奇跡的出来事は、さらに重要な手掛かりとなる。
Protocols of the Learned Elders of Zion
First published in the year 1897
byフィリップ・スチェパーノフ(Philip Stepanov)
によってロシアで最初に発行され、身近な親友に配られた。
http://theoriesofconspiracy.com/2011/07/the-truth-about-the-protocols-of-the-learned-elders-of-zion-2.htm
その記録から、私たちはこの注目に値する文章を読んだ。
「フランス革命を忘れるな、その準備の極意は完全に我々の手による仕事だった故に有名なのだ。」[プロトコルNo.3(14)]
シオンの長老は一説をさらにふくらまして書くかもしれない、「イギリス革命とフランスの革命を忘れるな。 その極意は完全に我々の手による仕事だった故に有名なのだ。」
しかし、両方の王国を征服する難題は、まだ未解決のままだった。
スコットランドは、何はさておき王党派だった。 そして、チャールズⅡ世国王を公認した。
クロムウェル軍は、ユダヤ人の残忍さを分注されたジュネーブの支援者から助けを得て、スコットランドを循環して行進した。
しかし、スコットランドはまだ国王チャールズⅡ世と呼んでいだ。 国王は、スコットランドのためにキリスト教の長老教会派(Presbyterian)の形をさらに受け入れた。 そして、ゆっくりと、しかし着実に、イングランドの感覚は、スコットランドの観点に同調しはじめた。
クロムウェルの死後ようやく、ブリティッシュ全土は、イングランドの王座に王政復古を迎え入れた。
THE DUKE OF MARLBOROUGH
:
初代マールボロー公爵
その重大な局面(イギリス革命)でジェームズ(1633-1701)を見捨てた人々の中で主要な人物は、ジョン・チャーチル(初代マールボロー公爵)だった。
この公爵がオランダのユダヤ人金融家、ソロモン・メディナ(Solomon Medina:1650–1720)から1年間につき少なくとも6,000ポンドを長年受領していたと、ユダヤ百科事典(Jewish
Encyclopedia)から読み取れることは、興味深い。
first Duke of
Marlborough (1650-1722)
(チャーチル家の先祖)
「イングランド銀行」の建立と国債の制度に王室の同意が得られたとき、「名誉革命」の本当の目的はその数年後の1694年に成し遂げられた。
この憲章は、お金を鋳造するという王室の特権を匿名委員会に譲り渡した。 交換価値の基礎をゴールドに変えた。 そして、国家の税金の上に彼らのローンの担保をつけるという国際金融高利貸しが可能となった。 それは一部の統治者または支配者の疑わしい仕事の代わりに、すべて安全に前払いで手に入れられるということだ。
その時から、ユダヤ人がコントロールするゴールドの架空料金で全財産を最終的に換算するよう経済の仕掛けは始動した。 そして、ブリティッシュ民族の生得権だった実質資産である実り豊かな土地は尽きた。
SCOTLAND SHACKLED
:
囚われたスコットランド
イングランドとスコットランドの政治的および経済的な連合は、その後まもなく汚職の卸売りとともにスコットランドに押しつけられ、ほとんどの国や自治区からの正式な抗議を無視していた。
連合の本旨は、スコットランドのイギリス造幣局(Royal
Mint)を抑えて、「国債(National Debt)」に対する責任を押し付けることだった。
そのころには英国中を金貸しにしっかりつかまれていた。
それに対する危険性は、新しい共同議会の議員が、彼らの先祖伝来の精神で、この状況に遅かれ早かれ疑問を呈するということだった。
これに備えるために、したがって、党システムを新しく生み出したのだ。 本当の国家対応に失望させ、黒幕は分割して支配する法的権限が与えられる。 彼らの新たに確立した金融力を使って確実なものとした。 彼ら自身と彼らの方針が確実に注目され、勝利を収めるために、彼らの新聞、小冊子、預金口座から十分な支持がなければならない。
ゴールドは、すぐに、預け入れ金額の10倍でローンの基金になった。
言い換えると、100ポンドのゴールドは、1,000ポンドのローンの法的担保になり、100ポンドのゴールドが3%であれば、毎年30ポンドの年利をかせぐことができた。 それ以後、商業取引におけるいくつかの帳簿記入を保管するという貸し手の悩みがなくなった。
しかし、100ポンドの価値のある土地の所有者は、ことによると4%稼ぐためには、日中ひまなくさらに働かなければならなくなった。 この制度の終焉は、時間の問題だけである。
金貸しは、さらに大富豪になり、イングランドとスコットランドで土地を所有して農業を営む人々は、破産しなければならない。
この制度は、それがすべて完了されるまで容赦なく続いた。
金持ちに罰金を科すことによって貧しい者を助ける、というようなずる賢い宣伝によって偽善的にカモフラージュされた。 実際のところ、まったく違う。それは、大部分の地主階級に対する破壊計画とは、非ユダヤ人の所有者がユダヤ人の融資者とその取巻きにとって代わることだった。
(おわり)
【翻訳:タドン】
"無名の戦争(The Nameless
War)"‐1952
A.M.ラムゼー大尉(1894‐1955)
参考;
イギリスのユダヤ人
~ 英国ユダヤ人社会の歴史 ~
http://inri.client.jp/hexagon/floorA6F_he/a6fhe200.html
参考;
太田龍の時事寸評
ディズレイリとチャーチル
この二人の英国近現代政治家の本質についての日本人の全き無知。
平成十九年(二〇〇七年)六月三十日(土)
(第二千九十七回)
○クヌース著「シティーの帝国」。
第八章 自由党対保守党の戦争。
○これは、日本民族有志、必読の文章であるだろう。
○いはゆる「大英帝国」には、二人の主要政治家が居た、と言う。
○一人は、大英帝国の建設者、ディズレイリであり、
○もう一人は、そのディズレイリの原則と手法を受け継いだチャーチル(三百人委員会)であると。
○しかし、日本人は、ディズレイリについて、全くの無知にひとしい。
○無知、と言うよりも、日本の英国問題専門家は、ディズレイリを意識的、無意識的に、無視するのである。
○従って、日本人一般大衆にとって、ディズレイリなど、存在しないのである。
○ディズレイリについて、筆者(太田)は、
「ロスチャイルドの密謀」(成甲書房)の中で詳述した。
○また、前出著作で、ジョン・コールマン博士も、
ディズレイリとロスチャイルドの関係を、主たる論点の一つとして居る。
○ディズレイリは、政治家に成る前は、作家であり、
○政治家になったあとも、作家として、多くの著述を刊行した。
○日本の英国問題専門家には、ディズレイリのこの側面は、全く存在しない。
○クヌースの著述(一九四六年)のあと、英国でラムゼー大尉の「無名の戦争」が出版された。
○ラムゼー大尉のこの著作は、クヌースの「シティーの帝国」よりも、更に小著である。
○しかし、これは、日本民族有志には、必読である。
○「シティーの帝国」のあと、日本語版を日本義塾出版部から刊行したい。
○ラムゼー大尉は、前出著作の冒頭でディズレイリの父親の大著「チャールズ一世伝」の中の重要な一節を引用した。
○ディズレイリの父親は、英国に移住したユダヤ人作家である。
○ディズレイリの父親(アイザック)は、
○英国革命(クロムウェル革命)は、その後の一連の革命の第一幕であり、そしてその革命は未完である。
○と述べて居ると。
○ディズレイリの父親も、そして、ディズレイリ自身も実に良く、近代西洋史の実情、その深部に、通じて居る。
○そしてディズレイリの代表的政治小説、「コニングスビー」の中で、彼は、
○ハノーバー朝以後の英国の国家体制は、ヴェネチア共和国の憲法の丸写しである。
○と言う趣旨のことを述べた。
○ここのところは、コールマン博士も引用せず、言及せず、論評しない。
○他の著述家については言うだけ野暮、であろう。
○筆者は、「血塗られた英国王室」(雷韻出版、絶版)の中にその部分を引用した。
○要するに明治以降の何十万人居るか分らない無数の日本人英国問題専門家(学者、マスコミ人、作家など)は、
○英国史の本質を、なんにも知らない痴者の群れ、だったのである。
(了)