ブレア政権考

 (最新見直し2007.5.14日)

Re:れんだいこのカンテラ時評290 れんだいこ 2007/05/12
 【ブレア政権考】

 2007.5.11日、在任10年を超え戦後2番目の長期政権(1997年、43歳で英国首相に就任)となっていた英国のトニー・ブレア首相(54歳)が6.27日に退任すると発表した。昨年9月の党大会で「1年以内の退陣」を表明していた。ブレア首相はかくて任期中途での辞任表明を余儀なくされた。政権発足後に70%に達した支持率が最近は20%台に低迷しており、党内の求心力も失っていた。

 我々は、ブレア政権をどう評するべきだろうか。商業新聞は相も変わらず愚昧な社説を開陳しているのでれんだいこが急所を押さえておく。

 1994年、労働党のホープとしてブレアが党首に選ばれ、ニューレーバー(新しい労働党)を標榜し、従来の社会民主主義から市場経済を重視する「第3の道」を唱えた。親ネオ・シオニズム路線と云えるが、1997年の総選挙で地滑り的勝利を収め、18年ぶりに保守党からの政権交代を実現、2001年の総選挙でも勝利した。2005年の総選挙では議席を減らしたものの単独過半数を維持し、英労働党史上初めて3期連続で政権を担ってきた。

 こういう経緯を持つブレア政権であるが、れんだいこは、労働党政権が現代世界を牛耳る国際金融資本の走狗となり、米国ブッシュのネオ・シオニズムに同調する政策を採ったことに注目する。日本政界はこれまで、西欧流民主主義の模範としての二大政党制を「政治の鏡」としてきた。民主党の政権交代論と二大政党制論はこの延長上のものである。しかしながら、英国政治史に於いて労働党政権が保守党政権と本質的に何ら変わらない政策を採ったことに着目せねばなるまい。

 ブレア政権は、二大政党制による政権交代論が幻想に過ぎないことを証したのではなかろうか。いわゆる「保守対革新」は虚妄で、政治を政治屋によるゲーム化させるものでしかないことをあからさまにした。こうなると、二大政党制の幻想を打ち破ったことにこそ、ブレア政権の史的功績があると云うべきだろう。

 このことは、日本現代政治史に次のことを語る。民主党は現在、自民党政府に変わる政権与党たらんとして営為努力している。小沢民主党は今や次第に陣地を広げつつある。小沢民主党が、与党化による責任政治を目指していることは良いとして、自民党と何ら代わらない政治に堕する危険性を詮索せねばならない。兆候は既に有る。民主党若手のその殆どが憲法改正派であり、自民党若手のそれと何ら変わらないかもしくはより急進主義的である。鳩山−岡田−前原ラインがこれに相当する。

 今れんだいこが民主党に期待するのは、ネオ・シオ二ズムの徒党と堕した自民党政治と決別し、民族と国家に責任を負い、能うる限り護憲的多元的な世界協調及び国際平和創出に向けての政治である。はっきり云えば、戦後のハト派政治の復権である。あの時代の日本は奇跡的な経済成長と真の国際貢献を遂げてきた。現在の世界にも残る親日感情は、この時代に培われたものである。内外共にそれほど善政を敷いてきたという感覚が欲しい。

 れんだいこは、あの頃の政治を在地型社会主義政治と判じているので、一応これを「左バネ」とすると、「左バネ」の利いた民主党でなければ何ら意味が無いことをブレア政権史が教えたと受け止めている。政権交代大いに結構であるが、アバウトでよい我々は戦後保守本流のハト派政治を再興するというタガをはめねば、政権盗りそのものはゲームでしかなくなろう。ブレア政権が反面教師としてそのことを教えたと思っている。

 日本戦後政治史はところが、1980年代初頭の中曽根政権の登場以来、ハト派とタカ派の主客が逆転し、現在はタカ派一辺倒の時代になっている。このタカ派は戦前的な皇国史観に基づくタカ派ではない。英国のサッチャー、ブレア政権同様のネオ・シオニズムの御用聞き政治を行う戦後的タカ派である。今世界中にこういうタカ派が養殖されている。彼らは愛国ポーズを執るが根っからの売国奴でありが故のものであり、愛国気取りはイチジクの葉に過ぎない。中曽根−小泉を見よ。

 よりによって、この二人が靖国神社参拝で物議を醸した。韓国、中国の海外が反発し政治問題化したが、そして例によってウヨサヨの議論が飛び交ったが言論商品の類いのものでしかない。霊学的に見ると本当は靖国の英霊が騒いだのではないのか。それはそうだろう。大東亜戦争の英霊は、鬼畜米英と闘った。日帝の兵士として倒れたが、その心情は二度と戦争の無い国を願って祖国に殉じたものである。ところがどうだ。中曽根−小泉は、自衛隊を今度は、英霊が闘った当の相手の鬼畜米英と組んでその配下軍としてイスラム・レジスタンスと闘わそうとしている。これは手品である。英霊が怒るのも無理は無かろう。れんだいこはそう解釈している。

 もとへ。ブレア政権は、1999年のユーゴスラビア空爆で、人道上の理由で他国の主権国家を武力攻撃できる、というブレア・ドクトリンを掲げた。2001.9・11同時多発テロ後は、ブッシュ政権の対テロ戦争に同調し「特別な関係」を築いた。アフガンのタリバン政権懲罰名目でのアフガン戦争に率先し、2003年、「英米同盟の堅持」を外交の最優先課題として党内の反対論をも振り切って、米国とともにイラク戦争に参戦した。最大時4万6000人を派兵し、いまも7100人が駐留する米国に次ぐ兵力を派兵している。戦死英兵は142名。

 ところが、あにはからんや。イラクは混迷し、英軍撤退完了の見通しはない。一体、ブレア政権は、この間の戦争政策で幾らの国費を注ぎ込んだのだ。はっきりさせて国民に弁じて見よ。「小さな政府とか大きな政府」とかが馬鹿らしい論議となろう。その英国は日本の数年先を走っており、日本は今それを真似しようとしているが、民族系企業のその優良な部分が既にハゲタカファンドに食われている。賢明なる英国民が怒るのも無理は無かろう。

 日本のマスコミ各社はこういう史実を知りながら触れない。ネオ・シオ二ズムの報道管制に上目を遣いながら当たり障り無いブレア政権退陣社説を掲げて糊塗している。言論の自由よりは御身保全第一というのは分からないでもないが腰抜け過ぎる。少しは言論の歴史責任と云うのを弁えよ。この程度のどこかの部分のことは書かないと論説とは云えまい。

 2007.5.12日 れんだいこ拝

【ブレア政権誕生秘史】
 「阿修羅戦争版92」の戦争屋は嫌いだ氏の2007.5.13日付投稿「ブレア政権の背後に潜む暗黒の世界(ジョン・スミス前労働党首の急死)」は、ブレア政権誕生秘史を証言している。これを転載しておく。

 先週木曜日BBCの政治討論番組Question Timeで常に興味深い場面を目撃した。

 LibDemのキャンベル党首が「ジョン・スミス党首のuntimely(早すぎる死)によって労働党党首となったブレア氏が、」と言った瞬間、隣に座っていたピーター・マンデルソン(現EU通商代表、ブレア政権の陰の立て役者で赤楯のエージェントだと専らの噂がある)が反射的にギクッとして、目を剥いて頭を40度ほどキャンベルの方角にずらし、それから元に戻した。実に0.3秒ほどの出来事であったが、これで従来から感じていた「ジョン・スミス暗殺説」は間違いないと確信した。

 ジョン・スミスは心臓麻痺で急死(享年55才)したと言われているが、心臓が弱かったわけではない。むしろ頑健なタイプであった。スミスの急死によってブレアは40そこそこで労働党党首に抜てきされたのである。逆に言えばスミスが死去しなければブレアにチャンスがなかったであろう。と言うのも労働党本流のスミスは穏健篤実で人望があり、保守党関係者からも尊敬されていたぐらいで、次の総選挙でスミス政権の誕生はほぼ間違いないとされていたのである。

 当時の年齢から言ってスミス首相が誕生した場合、最低10年間の長期政権となり、当時の時点で英米のネオコンが画策していた中東(イラク)侵略のシナリオは大幅に狂ったことであろう(落下傘で降りてきたブレアとちがって、スミスの支持基盤からすれば侵略戦争に加担することはほとんど不可能だったに違いない)。要するに何十兆の利権とネオコンの21世紀世界戦略にとって、邪魔者だったのである。どこが実行部隊だったかは今更いうまでもない。

 ピーター・マンデルソンは少なくともこのシナリオを関知していたのだろう。こういう場面での潜在意識の発露は、どうやってもごまかすことはできない。キャンベルをはじめとして政界通の間では、おそらく公然たる事実となっているに違いない。わざわざ「早すぎる死」という皮肉ととれる形容をしたのはマンデルソンへの当てこすりだったのだろうと察する。

 ちなみにイラク侵略に大反対して閣僚を辞任したロビン・クック(次のイラン侵略計画に対する巨大な障害となったであろう)がやはり都合良く心臓麻痺で急死したのは一昨年のことであった。





(私論.私見)