第二次世界大戦の初期の特徴は、ヒトラーが自らあれほど攻撃していたはずの共産主義者ソ連と手を組んだことにあった。“卑しいユダヤ人”と“呪うべき共産主義者”をこの世から消すはずの独裁者が、1939年8月23日(開戦9日前)に「ドイツ・ソ連不可侵条約」を結び、さらに翌年2月11日には「ドイツ・ソ連通商協定」によって、ソ連から石油・貴金属・穀物の供給を受けたのである。ヒトラーを助けたのが共産主義であった。 |
5期 | 第三帝国時代から第二次世界大戦突入までの歩み |
更新日/2020(平成31→5.1栄和元年/栄和2).1.18日
この前は、「ナチス党再建から第三帝国誕生に至るまで」
1934(昭和9)年、45歳の時 |
【8、「第三帝国」誕生から第二次世界大戦突入までの歩み】 |
【ヒトラーが総統に就任】 |
8.19日、ヒトラーは、ヒンデンブルク大統領の死に伴い大統領の職を兼任し、「総統(Fuhrer
und Reichskanzler)にして首相」に就任した。国民投票で89.93%の圧倒的賛成でヒトラーの総統就任を信任した。国防軍はヒトラーへの忠誠を誓った。 中世の神聖ローマ帝国(962−1806年の第一帝国)、近代のビスマルク・ドイツ帝国(1871−1918の第二帝国)に次ぐ「第三帝国」(Das Dritte Reich)を成立させ、ヒトラーは、初代君主となった。 |
【ナチス党第6回党大会】 |
9.4日、ナチス党の第6回党大会が開かれ、まさに「意志の勝利」となった。党の団結と権力の掌握を優れた演出で印象づけた。 |
【ヒトラーの経済政策】 |
1934年に帝国経済相にドイツ帝国銀行(ライヒスバンク)総裁ヒャルマール・シャハトが任命され、シャハトの経済手腕は経済の再建に大きな成果をもたらした。国内には組織された反対勢力はなくなった。ロスチャイルド系のブラウン・ブラザーズ商会率いるハリマンの裏保証付融資が始まり、ヒトラーは、その資金を最初は土木工事、鉄道建設、運河、高速道路等の社会基盤整備に投入した。公共事業の増加によって経済が活況を呈し、1934.12月には失業者は26万人まで減少した。 同年 ベルリン・モーターショーで国民車構想を発表。ヒトラーの考え方には合理主義と科学万能主義があった。 |
【ヒトラーの再軍備政策】 |
ヒトラーは、再軍備に乗り出す。第1次大戦型の塹壕対峙という方法は時代遅れだとヒトラーはいち早く気づいた。1934年の知られざる時、ヒトラーは孤独に機甲師団の創設を決断した。この決断により第1次大戦でどうしても破ることのできなかった敵、フランスを45日間で打倒した。 |
【国際連盟、ジュネーブ軍縮会議を脱退】 |
10.14日、ドイツが、「軍備の平等を認めないのはドイツへの差別である」との大義名分で国際連盟脱退、ジュネーブ軍縮会議を脱退した。この行動はヒトラーのあからさまのヴェルサイユ体制への宣戦布告であった。 |
1935(昭和10)年、46歳の時 |
ヒトラーは、懸案の外交に本格的に取り組む。
【ザール地方が住民投票でドイツに帰属】 |
1月、ヴェルサイユ条約により国際連盟の管理下におかれていたドイツのザール地方の住民投票を行い、圧倒的賛成でドイツに帰属することとなった。 |
【再軍備宣言】 |
3.16日、ヒトラーは、再軍備宣言を行い、徴兵制の実施と空軍力の保持を明らかにした。これは明らかなヴェルサイユ条約違反であった。 4.11日、イギリス、フランス、イタリアの3国はドイツの再軍備に対し「ストレーザ戦線」の形成で対抗する。さらにフランスはソ連と同盟を結び、ソ連は反ファシズムの「人民戦線」を提唱、チェコスロバキアと同盟を結びドイツは包囲された形になる。 |
5.28日、 エバ・ブラウン自殺未遂。
【英独海軍協定】 |
6.18日、ドイツの再軍備宣言の3か月後、英独海軍協定が結ばれた。内容としては、ドイツ海軍は公式に英国海軍の35%の艦船の戦力保有を、潜水艦についてはイギリスの45%までの保有が認められた。当時のイギリス海軍艦艇の総排水量は124万トンであったので、その35%は、43万トンとなり、また、ヴェルサイユ条約で定めたドイツ海軍艦艇の総排水量は10万8千トンであったので、約4倍の海軍力を保有する事が可能となった。ヴェルサイユ条約では潜水艦の保有は認められなかったから、イギリスは自ら同条約を反故にしたことになる。 イギリスはこの協定を、フランスの事前通告なしに行った、いわゆる抜け駆け行為であり、ヴェルサイユ条約を戦勝国イギリスが自ら破り、ドイツの再軍備を暗に認める結果となった。背景には、過酷なヴェルサイユ条約にイギリスが同情的であったこと、また、この協定によってドイツの軍拡路線に歯止めがかかると読んでいた。しかし、その目論見は脆くも崩れ去ることになる。 |
【「ニュルンベルク法」(ユダヤ人迫害の法制化)を布告】 |
9.15日、ドイツ国公民法と純潔保護法(「ニュルンベルク法」)を布告。これにより、 ドイツ系ユダヤ人の市民権を剥奪及びほとんどの職業から締め出し、アーリア人との結婚を禁止した(アーリア人と1/4より血が濃いユダヤ人との結婚を禁止)。これによりユダヤ系企業が撤退を余儀なくされた。 |
10月、イタリアのベニト・ムソリーニがエチオピア(アビシニア)に侵攻。
【ヴェルサイユ条約破棄】 |
10.21日、 ドイツが、国際連盟脱退に続いてヴェルサイユ条約を破棄した。 |
11月、国際連盟はイタリアへの経済制裁を決議。当初オーストリア問題をめぐって対立していたヒトラーとムソリーニは連携関係となっていく。ヒトラーは経済制裁を受けたイタリアに戦略物資を供給。イタリア軍は近代装備の無いエチオピア軍相手に苦戦し戦車、航空機、毒ガスまで投入してようやく翌1936.5月、首都アジスアベバを陥落させ、エチオピア皇帝ハイレ・セラシェはイギリスに亡命。「ストレーザ戦線」は早くも崩壊した。
1936(昭和11)年、47歳の時 |
【領土拡大政策その1、ドイツ軍がラインラントに進駐】 |
ヒトラーは着々とナチズムに基づく「大ドイツ」の復活を企図していく。その最終目的は「我が闘争」によれば、東方における「生存圏」の獲得であった。名目はそうであろうがドイツ帝国主義による新覇権争奪戦であった。
3.7日、ヒトラーはロカルノ条約で定められた非武装地帯ラインラントに侵入、領土拡大の野心をむき出しにした。ラインラント地方は、ロカルノ条約条約によってドイツ領土でありながら、非武装地帯とされていた。軍部は反対したがイタリアのエチオピア侵攻への国際連盟の弱腰からヒトラーは賭けに出る。英仏列強の弱腰を見抜いての行動であり、実際、英仏列強からの軍事的な制裁は行われなかった。しかし、進駐したドイツ軍は僅かな兵力(当初3個大隊)で、内心はヒトラーはフランス軍の攻撃を恐れていた。フランス軍がヴェルサイユ条約・ロカルノ条約違反を口実に攻撃すれば撤退するしかなかったからである。後年ヒトラーは、「進駐後の48時間は、私の生涯で最も神経を消耗した」と言ったという。 |
7月、ドイツ・オーストリア協定が結ばれ主権尊重・内政不干渉を唱えたが、秘密協定ではオーストリアNSDAPの代表を政権に就けることを要求していた。
【ヒトラーがスペイン内戦に介入】 |
1936.7月−1939.3月にかけてスペイン内戦が発生。これによりスペイン第二共和政が崩壊、人民政府と軍部・右翼勢力との内戦となった。ドイツ・イタリアがこれに介入し、その支持を得たフランコ将軍による独裁体制が確立する。 7.18日、スペインの共和国政府(人民戦線政府)に対し、カナリア諸島に左遷された元参謀総長フランシスコ・フランコ将軍ら軍部は反旗を翻した。当初はスペイン本国の反乱軍は鎮圧され、アフリカの植民地モロッコでフランコが指揮する3万7千の部隊を本国に輸送できるかが内戦の帰趨を左右する。制海権は政府側が握っており、フランコ側は航空輸送によらなければ、本土に展開できなかった。 ヒトラーとムソリーニはフランコ支援を決意、7.25日、輸送機をモロッコへ送り込む。さらに空軍、陸軍の義勇兵部隊「コンドル軍団」や戦車を投入、イタリアも陸軍や空軍を介入させた。共和国側はフランス、イギリスの不干渉政策から両国の支援は得られなかったが、ソ連の軍事顧問、戦車、戦闘機。各国の義勇兵からなる「国際旅団」の支援を受け内戦は国際代理戦争の様相を呈する。 スペイン内戦はドイツの新型兵器や戦術の実験場となり、特に再建間も無いドイツ空軍に貴重な経験となった。コンドル軍団のバスク地方都市ゲルニカ爆撃の悲劇は37.4.26日である。フランコは苦戦したものの次第に政府軍を圧迫、人民戦線政府の内部抗争もあり38年にはソ連の軍事顧問と「国際旅団」が引き揚げ、39.1月フランコはカタルーニャ地方に攻勢をかける、3月にはマドリードを占領。75年に死去するまでスペインを独裁統治した。 |
【ベルリンオリンピック大会】 |
8.1日−8.16日、第11回ベルリンオリンピック大会開催。国家元首であるヒトラーが開会を宣言。巨費を投じた競技施設と五輪史上初の選手村、開会式に始まる大会期間中の華麗な演出、戦前最後となった同オリンピックは現代オリンピックの原型であり、戦前最後となった同オリンピックは、ヒトラーの大会とさえいわれた。 1916年の第6回ベルリン大会は、開催直前に始まった第一次世界大戦により開催されなかった。ヒトラーは政権掌握とともにオリンピックの誘致に乗り出し、念願のオリンピックを開催したことになる。第11回ベルリン大会後の1940年第12回ヘルシンキ大会及び1944年第13回ロンドン大会も第二次世界大戦のため中止されている。いずれも中止の理由は戦争による。ちなみに、第12回は当初東京が開催地とされていたが、のちに返上したためフィンランドのヘルシンキで開催されることになっていた。ちなみに1948年第14回ロンドン大会では、第二次世界大戦の責任を問われて日本とドイツは招待されていない。 |
NSDAPの絶好の宣伝となった。テレビ中継、記録映画はこの大会から始まった。記録映画「オリンピア」(邦題・「民族の祭典」「美の祭典」)の監督に抜擢されたのは、既に34年の党大会記録映画「意志の勝利」でヒトラーから評価された、女優レニ・リーフェンシュタールである。ちなみに、この時期のユダヤ人迫害は一時的に停止された。 ヒトラーは、1934年のナチス党大会の記録映画で実績があった新進の映像芸術家レニ・リーフェンタールに命じ、ベルリン大会の記録映画を撮らせている。オリンピック最初の公式記録映画「オリンピア」(邦題:「民族の祭典」「美の祭典」)は、映画のテーマを「スポーツの美と力」とし、映像的にも極めてすぐれた作品を作り上げている。 |
この大会で初めて聖火リレーが行われた。聖火リレーに使われたトーチは、ドイツ最大の兵器製造会社クルップ社によって製造された。ベルリン五輪に於いてユダヤ人の参加はナチス政権によって拒否された。大会の開会式には10万人の観衆が詰めかけ、右手を掲げて「ハイル・ヒトラー!」と叫び、ヒトラー自身が世界に向けて開会宣言をした。 |
10.25日、スペインへの介入は独伊の関係を緊密化させ、イタリア外相・ガレアッツォ・チアノ(ムソリーニの娘婿)がドイツのベルリン訪問、「ローマ・ベルリン枢軸」を構築した。
【日独防共協定調印】 |
11.25日、 日独防共協定調印。 |
12月、ムソリーニが「ローマ・ベルリン枢軸(Asse)」という表現を使って結束を宣明した。
ラインハルト・ハイドリヒがゲシュタポの長官およびハインリヒ・ミュラーが作戦部長になった。第二次世界大戦中に、ゲシュタポは約4万5千人に拡張した。それはヨーロッパ占領地域を支配しユダヤ人、社会党員、同性愛者および他のものを識別することを支援した。ニュールンベルク裁判では、全組織が起訴され、人間性に対する犯罪の有罪判決を下された。
1937(昭和12)年、48歳の時 |
【ドイツ空軍、ゲルニカ(スペイン)爆撃】 |
4.26日、 ドイツ空軍、ゲルニカ(スペイン)爆撃。 |
【ドイツ帝国が、「大ドイツ芸術展」を開催】 |
7.18日、ミュンヘンで「大ドイツ芸術展」を開催。翌日、付近の会場で「退廃芸術展」を併せて開催した。前者はNSDAPの推奨する写実、自然主義的な人物、風景などの「見て分かる」絵画、彫刻などを展示した。人物はアーリア人の優越性を表現するギリシャ調の彫刻、ルネッサンス期風絵画。女性は北欧神話などを題材とした健康的な表現が推奨され、写実的な裸体画であっても、均整の取れた女性美を表現したものが展示された。 ヒトラーお気に入りの画家で、帝国造形美術院総裁アドルフ・ツィーグラーの神話に因んだ裸体画は、陰で「ドイツ恥毛の巨匠」などと揶揄された。「退廃芸術」とされたものは、極端に変形された人物、風景など「見て分からない」抽象芸術、「ドイツ表現主義」など。同性愛、黒人、ジプシーなどを美しく描いたものはアーリア人の優越性への挑戦とされた。また写実的であっても戦争の悲惨な現実を描いたものは、愛国の英雄を辱め国防義務の忌避へつながる政治的退廃とされた。 また「退廃芸術展」には精神病院の患者が描いた絵画が一緒に展示され、芸術家たちが精神病と同一かそれ以下であると定義した。排斥された芸術家はユダヤ人作家はもちろん、パウル・クレー、オスカー・ココシュカ、エルンスト・バルラッハ、ケーテ・コルヴィッツなど。NSDAP党員だったエミール・ノルデも原色を多用した作風だったため弾圧された。 また美術館やユダヤ人から持ち出されたゴッホ、ピカソ、ゴーギャン、モディリアーニなどの作品が外国に売却された。一部はヒトラーの黙認でゲーリングの個人コレクションとなった。 「退廃芸術展」はモダン・アートを観賞する最後の機会となり、入場者は5カ月で200万を数えた。ウィーン時代自然主義画家を目指したヒトラーに、流行の表現主義芸術は手痛い報復を受けた。さかのぼって、ヒトラーが政権を獲得した33年には、工作教育、形態教育の一体を志向した総合芸術学校「バウハウス」(1919年ユダヤ人建築家ヴァルター・グロピウスがワイマールに創設、25年デッサウへ移る)が左翼的として、解散させられている。また、ヒトラーが心酔していたワーグナー(ワーグナー自身も反ユダヤ主義者だった)のオペラは大々的に上演され、バイロイト音楽祭は国民啓蒙の舞台となった。 |
9月、ムソリーニがドイツを訪問した。ムソリーニはヒトラーの歓待を受けSSの整然とした行進やドイツ軍の演習に魅了され、さっそく自国の軍隊にドイツ軍の行進「鵞鳥ステップ」を取り入れた。
【日独伊防共協定調印】 |
11.6日、イタリアが「日独防共協定」(反コミンテルン協定)に加入し、日独伊防共協定を調印した。 |
1938(昭和13)年、49歳の時 |
【ヒトラー、軍の統帥権掌握】 |
2.4日、
ヒトラー、軍の統帥権掌握 (国防相、国防軍最高司令官兼任。陸軍司令長官を解任)。 国防軍の2人の元帥フォン・ブロンベルクを女性問題で、フォン・フリッチュを同性愛スキャンダルを理由に解任、2人はヒトラーの対外進出に反対していた。ヒトラーは自ら国防軍最高司令官になり、国防省を廃止し国防軍最高司令部(OKW)長官にウィルヘルム・カイテル、陸軍総司令官にフォン・ブラウヒチュを就け、多くの将軍をヒトラー派に入れ替えた。 |
【領土拡大政策その2、オーストリア併合】 |
ラインラント侵入に成功したヒトラーは、懸案の自身の出身地であり、同じ民族のオーストリアの併合に向った。ドイツとオーストリアの併合はヴェルサイユ条約で禁止されていた。第1次大戦で敗北したハプスブルク帝国の版図は連合国によって解体され、オーストリアは内陸の小国にされた。ハンガリーの農業地帯とチェコスロバキアの工業を失ったオーストリアの経済は苦境にあり、1931年にドイツとの関税同盟を結ぼうとするがフランスの妨害を受けて撤回を強いられた。 しかし、オーストリアとドイツの統合を警戒していたイタリアがドイツと接近したため、オーストリアの独立は危機に瀕する。すでに1933年、社会主義者とオーストリアのNSDAP勢力を弾圧していた民族主義的なオーストリア首相、エンゲルベルト・ドルフスが襲われ負傷。翌1934.7.25日にはNSDAP勢力がクーデターを計画、陸軍の制服で変装したクーデター派は首相官邸でドルフスを銃撃し、放送局を占拠した。クーデターは鎮圧されたものの、重傷を負ったドルフスは死亡するという事件が起きていた。 この時はドイツの強大化をかねて警戒し、個人的にもドルフスと親しかったムソリーニが激怒し、(その日ムソリーニはドルフスの夫人と会食していた)4個師団をオーストリア国境ブレンネル峠に派兵、ヒトラーを牽制した。ヒトラーはいったん引き下がる。 2月、ヒトラーが、オーストリア首相フォン・シューシュニックに、オーストリアNSDAP指導者ザイス・インクヴェルトを内相につけ、オーストリアNSDAPを合法化し、逮捕されていた党員を釈放するよう要求。 2月半ば、ヒトラーは、オーストリア首相シュシニクをベルヒテスガルテン山荘に呼びつけオーストリア併合を強要した。これに対し、帰国したシュシニクはドイツによるオーストリア併合を避けるため、国民投票の手段に訴えようとした。しかし、ドイツはこの動きを封じるため、3.11日に事実上の最後通告を発し、翌日3.12日午前8時、急ぎオーストリアへ軍事侵攻した。オーストリアは抵抗せず、無血にうちに成功した。シュシニクは亡命し、代わりに首相となった親独派の内相ザイス=インクヴァルトは、この軍事進駐を要請の形で容認した。 3.13日、 ザイス=インクヴァルト首相が合併法を作成し、大統領ウィルヘルム・ミクラスに承認を迫った。大統領は署名を拒否したが、その代わりに辞任して、一切の大統領権限を委託する旨の親書を、首相に手交した。全権委任された首相はヒトラーと署名し、即日発効した。その内容は次のの通り。 第一条 オーストリアはドイツ帝国の一州である。第二条 ドイツ帝国との再統合を確認するための秘密自由国民投票が、4月10日日曜日に行われる。 第三条 国民投票の結果は多数決による。 第四条 本法の施行に必要な準備は政令によって定められる。第五条 (一)本法は公布の日から発効する。 (二)政府が本法の施行を主管する。 「ドイツ帝国とオーストリア共和国の再統合に関す法律」の署名により、正式にオーストリアはドイツによって併合され、地図から抹消された(「ドイツ、オーストリア併合(アンシュルス=Anschluss=併合)」)。 かつての大ドイツ帝国を復活すべく、近隣のドイツ系住民が多数を占めている領土の割譲を要求するようになった。その最初のターゲットとなったのがオーストリアだった。このオーストリアはドイツと同じドイツ人の国家であったため、併合に抵抗がないものと当初から予想されていた。 オーストリア国内のナチス党員の協力なバックアップのもと、ドイツ軍は国境を越え、無血で併合した。ヒトラーはオーストリアに入り、少年時代を送ったリンツ市の市庁舎バルコニーから演説。その時のオーストリア国民は熱狂的にヒトラーを歓迎したが、その前日に反対勢力は突撃隊の粛清によって抹殺させられていた。 3.14日、ヒトラーは、ウィーンで市民の歓喜の中、かつて不遇の青春を送った街の英雄広場を前にドイツとオーストリアの支配者として凱旋演説を行った。 「我々がオーストリアに来たからといって怯える事はない。我々が貴方たちを指導するであろう」。ヒトラーはオーストリアへ入城を果たし、故郷に錦を飾った。大衆の歓声は割れんばかりのものだった。ヒトラーは、故郷の併合をドイツ帝国の復活と喜び、そしてオーストリアをオストマルクと改称させた。 合併の可否を問う国民投票は両国で99%以上の賛成を得た。 |
【フォルクスワーゲン生産工場(ファーラースベーン近郊)起工式】 |
5月、フォルクスワーゲン生産工場(ファーラースベーン近郊)起工式。ポルシェ設計の乗用車を「Kdfワーゲン」と命名。他方、戦車などの戦闘車両を迅速に展開させるためにドイツ国内を縦横に走る高速自動車道「アウトバーン(Autobahn)」を建設、また、一般大衆でも購入可能な比較的安価な国産車の製造を命じ、大衆車フォルクスワーゲン(Volkswagen)を誕生させた。 |
5.27日、日本青少年ドイツ派遣団出発。8.16日、ヒトラー・ユーゲント30人が横浜に到着。
8月、ヒトラーの命令で、 ニュルンベルクのユダヤ教シナゴーグが破壊された。さらに同年11.9日には全国のシナゴーグが燃やされた。
ウィーン・ロスチャイルド家の当主ルイスが逮捕された。ドイツを離れてアメリカを訪れていたマックス・ワーバーグがとうとう帰国不能となって、さしものワーバーグ銀行が閉鎖された。
【領土拡大政策その3、チェコスロバキアのズデーテン地方の割譲を要求】 | |
領土拡張を目論むドイツは次にチェコスロバキアに狙いを定めた。チェコスロバキアは、第1次大戦後の民族自決の結果生まれた国家で、同国にはズテーテン地方(明確な画定はなく、同国の外周部をさす)にドイツ系住民350万人がドイツとオーストリアの敗戦で取り残されていた。他にもチェック人、スロバキア人、ウクライナ人を含む多民族国家となっていた。 ゲッベルスは同地方のドイツ系住民が迫害をうけていると盛んに宣伝し、同地のNSDAP組織も盛んに騒乱を煽っていた。チェコスロバキアは武器産業が発展しており小火器はもちろん自動車、戦闘機、戦車を生産でき、軍隊も一応の規模を保持していた。また国境には要塞を建設しており、ドイツの侵略には英仏と共に武力で対抗する決意であった。 ヒトラーは、ズテーテン地方の割譲をチェコスロバキアに強要したが、チェコスロバキア政府はこれを断固として拒否し、動員令を発令し戦争を辞さない姿勢をとった。フランスとソ連(当時)はそれぞれ1924年、1935年にチェコスロヴァキアに対する援助条約を結んでいたので、ズデーテン・ドイツの問題が大きな戦争に発展する危険が生まれた。 ヒトラーは戦争を覚悟し、軍部に「緑作戦」と称する作戦計画を作らせチェコ攻撃を1938.10月以降と定めた。ヒトラーは、ゲッペルスに次のように述べている。
9.14日、イギリス政府のチェンバレン英首相・ネヴィル・チェンバレンが、ドイツ政府に平和的解決のための緊急会談を申し入れるためミュンヘンへ。 9.15日、チェンバレン英首相、ミュンヘン到着。ヒトラーとチェンバレンの会談でチェンバレンはチェコスロヴァキアからズデーテン地方を分離することに同意し、イギリス帰国後閣議でも同意を取り付ける。 9.18日、イギリスとフランス両政府首脳はロンドンで会談し、いかなる代償を払っても戦争を避け、チェコスロヴァキアに「ズデーテン地方をドイツに割譲」という英仏共同提案を受諾させることを話し合った。 9.19日、ベネシュ・チェコスロヴァキア大統領、英仏共同提案を拒否。 9.20日、クロフタ・チェコスロヴァキア外相、英仏共同提案を拒否。ベネシュ大統領はソ連公使にソ連の意向を打診するが、満足いく協力を得ることができなかった。 9.21日、ベネシュ大統領、英仏両国公使の訪問を受け、英仏提案受諾を強要される。 9.22日、チェンバレン英首相がチェコ政府の同意を取り付けて再びヒトラーと会見した。ところがヒトラーは更に要求をつり上げ、ハンガリーとポーランド両国、チェコスロヴァキア政府にそれぞれ自国人が居住する地域の割譲を要求。チェコスロヴァキアのホッジャ内閣辞職。 9.24日、ドイツ政府はチェコスロヴァキア政府に対しズデーテン地方の割譲を要求。いよいよ戦争が避けられなくなったことを悟ったフランスが軍動員令を発する。 9.25日、イギリスとフランスは会談し、「フランスがチェコスロヴァキアとの条約義務で対独戦開始の場合、イギリスはフランスを支援する」ことを確認。 9.26日、チェコスロヴァキア、国民総動員令を発する。イギリス、外務省が明確に参戦の意思を表明。ルーズベルト米大統領、「直接利害のある国家は会談をすべき」と発表。 9.27日、イギリス、軍動員令を発し、学童疎開なども始める。ユーゴスラヴィアとルーマニアはハンガリーに対し「チェコスロヴァキアを攻撃した場合、両国は軍事行動に出る」と警告を発する。イタリア、国境に軍隊を移動開始。 9.29日、チェンバレンはなお戦争回避を図り、イタリアのムソリーニに仲介を依頼、英独仏伊4カ国の首脳会談(ミュンヘン会議)開始。戦争拡大をおそれたヨーロッパ列強は、戦争回避の方法を模索し、イタリアの仲介でミュンヘンでチェコ問題を話し合った。参加国はイギリス(ネヴィル・チェンバレン首相)、フランス(エドアール・ダラディエ首相)、ドイツ(アドルフ・ヒトラー総統)、イタリア(ベニト・ムッソリーニ首領)。当のチェコスロバキアは蚊帳の外だった。 会議はヒトラーが主張するチェコスロバキアへの軍事侵攻をどう食い止めるかがテーマだったが、終始、「チェコスロバキアのズデーテン地方にはドイツ人が多く住んでいることから、ヒトラーは「ズテーテン地方ではドイツ人が迫害されている。ドイツ語すら使用が許されていない。分割してドイツに併合しなければならない」と主張するヒトラーの独壇場となり、また戦争回避を望む英仏の思惑もあって、この会議で取り決められたミュンヘン協定には、チェコスロバキアの国家主権・領土保全を条件に10.10日までにドイツへのズデーテン地方割譲を認めるというヒトラーの主張がそのまま盛り込まれた。しかし、この協定は、当事国チェコスロバキア(エドワルド・ベネシュ大統領、この時、参加が許されず、会議の隣室で結果を待つ身であった)と、隣国の大国ソ連抜きで行われたこと(このことは後に英仏と、ソ連、チェコスロバキアの間に大きなしこりとなって影響していく)、なにより英仏の譲歩的な態度がヒトラーを増長させる結果となった。イギリスやフランスの弱腰を見たヒトラーは、ズデーテン地方だけでなく、チェコ全域を軍事侵攻・占領し、地図上から消した。さらにヒトラーはポーランドに侵攻し第2次世界大戦につながる。 9.30日、チェンバレン英首相、隣室で待っていたチェコスロヴァキア代表に結果を報告。領土割譲を英仏から強いられたチェコスロバキアは当てにしていた国際的な支援の道が絶たれたことに落胆し、この要求を受け入れた。これは、同様に領土拡張の野心を持った近隣諸国、ポーランド、ハンガリーを刺激し、チェコスロヴァキア政府に自国民が多数を占める地方、ポーランドはテッシェン地方(1938.8月併合)、ハンガリーは南部スロヴァキア(1938.11月併合)とルテニア地方(1939.3月併合)の割譲を要求した。これに対し、チェコスロヴァキア政府は抗することもできず、唯々諾々とこれを認めてしまう。 チェンバレン英首相、ヒトラーの私邸を訪ね、ドイツ・イギリス共同の不可侵宣言を発表し「平和確保のためのドイツ・イギリス関係の維持」との共同声明を発表。チェコスロヴァキア新首相シロヴィー、ミュンヘン協定を受諾。 9.30日、ヨーロッパ列強(英仏独伊)4ヶ国によってチェコスロバキア問題が話し合われ、ミュンヘン協定が成立し、8項目からなる協定書、付属協定、3つの付属宣言が9.29日付けで署名された。チェコスロヴァキアのズデーテンラントをドイツへ割譲することが決定された。ミュンヘン会議終了。 10.1日、ドイツ軍、ズデーテン地方に進軍。チェコは英仏の支援がなければ単独でドイツに対抗できず、産業の中心だったズテーテン地方を失う。 チェンバレンは戦争を回避した英雄として帰国し、空港では群衆が「平和の使徒」を歓迎した。チェンバレンはドイツの勢力をソ連に向けさせ、時間を稼ぐ間に自国の軍備を整えようとした。しかしこの宥和政策は戦争への時間稼ぎをしたにすぎず、平和を求めるあまり戦争を招来した歴史上のいい例となった。 ドイツ参謀総長フォン・ベックらはチェコ侵攻に異議を唱え辞職。後任のフランツ・ハルダーは緑作戦を作る一方、全面戦争となった場合ヒトラーへのクーデターを計画していたが、ミュンヘン会談によってヒトラーが外交で勝利を得たため実行の名分を失った。 |
【ポーランド交渉】 |
残るドイツ旧領土はポーランドである。ポーランドは第1次大戦前にはロシア、プロイセン、オーストリアなどに18世紀に国土を分割されロシア革命で1918年、独立。ソビエト政府がドイツ帝国と単独講和を結ぶと、1920年、侵攻してきた赤軍を撃退し、ヴェルサイユ条約で各国に独立を認められた。しかし敗北した旧ドイツ領土とウクライナ地方を多く取り込むこととなり、特にダンチヒ(現グタニスク)を含む海への出口はポーランド回廊と呼ばれ、これによってドイツは本国と東プロイセン(現ロシア領カリーニングラード)が分断されてしまっていた。 10月、既に1934年にドイツ・ポーランド間に不可侵条約が結ばれていたが、リーベントロップ外相がポーランドのユーゼフ・ベック外相にダンチヒの返還を求める。ポーランドはチェコの例を見ておりイギリス、フランスとの同盟を盾に要求を断固拒否する。 |
【「水晶の夜」(クリスタル・ナハト)事件】 |
11.7日、フランスのパリにあるドイツ大使館で、ユダヤ人青年ヘンシェル・グリーンスパンが大使と誤認した書記官フォン・ラーツを銃撃する事件が起きた。グリーンスパンは両親がドイツから追放されたため報復を決意してドイツ大使を狙っていた。ラーツは皮肉にもゲシュタポから注意人物と見られていた、 |
【ナチスにより、ユダヤ人の財産没収が決定される】 |
11.12日、ナチスにより、ユダヤ人の財産没収が決定された。ゲーリングは、ユダヤ人の資産は接収すべきで、無秩序な破壊を行ったとして経済計画担当者の立場からゲッベルスを非難した。 |
【最初のヒトラー暗殺計画未遂】 |
この頃、ドイツ国防陸軍大将・ルートヴィヒ・ベック、ヴィルヘルム・カナリス提督を中心に最初のヒトラー暗殺計画。ウィッツレーベン予備役元帥も参加表明していた。カナリス大将は、1945年に銃殺刑に処されている。 |
12.1日、法令で指導者シーラッハのもとに全ドイツの青少年男女(男子10〜18歳,女子10〜21歳)が強制的にヒットラー・ユーゲントに編入され、宣伝相ゲッベルスの強力な統制下におかれてナチス=ドイツの青少年思想教育とりわけ戦争準備のためのそれにおいてきわめて大きな役割を演じた。
1939(昭和14)年、50歳の時 |
1.20日、「水晶の夜」をあるクリスマス・パーティで非難した経済相・ドイツ中央銀行総裁H・シャハト解任。シャハトはヒトラーを政権獲得以前から支持していたが、再軍備計画に伴う財政出費に異議を唱えていた。シャハトが解任されると、帝国銀行の理事もNSDAP党員2人を残して辞任した。後任にはヴァルター・フンクが任命された。
3月、ウェルナー・フォン・ブラウンらのA-4ロケット研究を視察。
【領土拡大政策その4、チェコスロヴァキアの解体】 |
3.14日、ドイツの支持でスロバキアのヨセフ・ティソーが独立を宣言し、ドイツに保護を求める。ベネシュは辞任するとイギリスへ亡命。スロバキアの分離に対し、チェコ大統領エミール・ハーハは軍隊にスロバキアへの進撃を準備させ、戒厳令を発令した。しかしこれはヒトラーの思うつぼだった。列車でドイツに入り深夜ヒトラーに会見したハーハは、攻撃の恫喝で心臓発作を起こし、チェコの独立を放棄する宣言に署名。ゲーリングは「プラハのような美しい街を爆撃しなければならないのは残念だ」とハーハに語ったが、実際にはその時刻は霧のためドイツ軍機の離陸は不可能であったという。 3.15日、ドイツ軍、チェコのプラハに武力進駐。同日午後、ヒトラー自身も自動車を連ねてプラハに入った。 3.16日、ヒトラー、チェコスロヴァキアのボヘミア・モラビアの保護国化宣言。チェコスロヴァキアは解体され、スロバキアは保護国になり、残る領土はポーランド、ハンガリーが併合する。 ヒトラーは、チェコスロヴァキア大統領ハーハをベルリンに呼びつけ、チェコスロヴァキア政府に対し、ボヘミア、モラヴィア地方をドイツ領とする協定への署名を強要し、署名されない場合は、チェコスロヴァキアの首都プラハを空襲すると脅した。ヒトラーによって周到に仕組まれた国内の民族運動で国内の統一も失われ、ズデーテン要塞地帯を失い丸裸となったチェコスロヴァキア政府はこれに抗することはできず、大統領ハーハは署名し、3.15〜16日、ドイツ軍はチェコに進駐した。5.16日、ベーメン・メーレン地方はドイツ保護領に、9.1日、ベーメン・メーレン地方がドイツに併合され、チェコスロヴァキアは地図から消滅した。 チェコの軍事産業は無傷でヒトラーの手に渡りチェコ製の兵器はドイツ軍によって第2次大戦で使われる。ドイツ軍のプラハ進駐はスラブ系住民には侵略であり、武力抵抗は無かったが抗議の意思表示をする者も見られた。これまで旧領土の回復と、ドイツ民族の統合をスローガンにしてきたヒトラーの「花の戦争」はチェコ解体で終わりこれ以降は侵略となる。 また第3帝国の崩壊後ズテーテン地方のドイツ系住民は財産没収の上追放され、多数が虐殺される悲劇を生む。 |
【領土拡大政策その5、ポーランドにダンチヒ割譲を要求】 |
3.21日、 ドイツ、ポーランドにダンチヒ割譲を要求。3.26日、 ポーランド拒否。 |
【領土拡大政策その6、メーメル(リトアニア)併合】 |
3.23日、ドイツ、メーメル(ヴェルサイユ条約でリトアニアに割譲されていた、バルト海沿岸の都市)併合。 |
4月、ヒトラーはポーランドとの不可侵条約を破棄、同日にイギリスとの海軍条約をも破棄する。
5.19日、フランス、ポーランド軍事協定締結。英仏はソ連ともポーランド防衛の協定を結ぼうとするが失敗する。ヒトラーはチェコの時と同じくポーランドを攻撃しても英仏は介入しないと見ていた。しかしソ連の出方は予想できなかった。ヒトラーのイデオロギーからは「共産主義」の総本山ソ連は宿敵である。しかし今は両面作戦となるソ連との戦争は避けたかった、ヒトラーは外相リーベントロップにスターリンへの親書を持たせモスクワへ派遣する。
スターリンにしてみても、自ら30年代後半から行った赤軍の大粛正の結果、軍隊が弱体化しドイツと戦う力は無かった。また英仏に対してもドイツの勢力をソ連に向けさせようとする政策に不信感を覚えていた。たとえ英仏と組んでも、チェコ問題の弱腰から両国は頼りにならず、それならソ連にも勢力圏の取り分を認めるヒトラーと今は組んでおくべきだと判断した。ヒトラーの政権獲得以前の独ソは共にヴェルサイユ体制から疎外されていたため、1922.4月、ラパロ条約を結び外交関係を締結、双方の第1次大戦の賠償を放棄、軍事交流をおこなっていた。
ドイツはソ連のリーペック基地でヴェルサイユ条約で禁止されていた空軍の訓練を行い、カザンでは戦車の研究をした。ソ連はドイツから生産技術などを学んでいた。ヒトラーが政権を獲得すると共産党を弾圧し、両国の軍事協力は停止する。しかしポーランド侵攻を前に現段階ではソ連との衝突は避けなければならない。
【独伊が「鉄の同盟」調印】 |
5.22日、独伊軍事同盟(鋼鉄協約)調印(「鉄の同盟」)。 |
【独ソ不可侵条約締結】 | |
8.23日、モスクワで独ソが、独ソ不可侵条約締結。有効期限10年間。宿敵と見られていた両国の提携は西側諸国に衝撃を与え、フランス首相ダラディエは、「新聞記者のでっちあげではないか…」と外相に問い掛けた。 満州でソ連と武力衝突を繰り返していた日本では平沼首相が「欧州情勢は複雑怪奇…」と辞任した。独ソ不可侵条約の秘密議定書では互いの勢力圏を定めていた。ポーランドのブレスト・リトフスク以東、エストニア、ラトビア、リトアニア(北部国境)のバルト3国、フィンランドをソ連の勢力領域としていた。 8.24日、英仏はポーランド援助条約に調印するが、もはや抑止力とはならなかった。 |
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「反米嫌日戦線「狼」(美ハ乱調ニ在リ)」の「2006.1.4日付け戦争屋 英首相チャーチル」(http://www.irib.ir/Worldservice/japaneseRADIO/news.sun.htm)は、次のように記している。
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この年、ハイドリヒがゲシュタポ(国家秘密警察)とSD、刑事警察機構を統合した国家保安本部(RSHA)長に着任した。
8月、大作曲家を誕生させたメンデルスゾーン商会が8月に消滅した。こうしてロスチャイルドの牙城が次々と閉鎖されていった。その直後、ドイツがポーランドに侵攻し、第二次世界大戦がはじまった。 |
【領土拡大政策その7、ドイツ軍がポーランド侵攻】 |
ヒトラーは、膨張政策を着々と進め、ポーランド回廊を巡ってポーランドと対立していたが、遂にポーランドを攻撃、宣戦の布告はなかった。 8.31日、ドイツのウライウィツクにある放送局がポーランド兵に襲撃される事件があった、しかしこれはSSのハイドリヒが計画した自作自演で、放送局を占拠して反ドイツのスローガンを叫んだのはポーランドの軍服を着たSS隊員で、射殺されたのはポーランドの軍服を着せられた強制収容所の囚人だった。この作戦でポーランド軍の軍服を調達したのはオスカー・シンドラーである。 9.1日、ヒトラーはポーランドの攻撃を理由に赤髭(バルバロッサ)作戦発動。ドイツ軍がポーランド侵攻。ドイツ軍はヒトラーの指示に従いポーランド国境を破った。ドイツ軍がポーランドへなだれ込んだと同時に、ヒトラーは大歓声と共に宣戦を布告。第一次世界大戦の二の舞を踏まない事、国民の向上を声高く叫んだ。ポーランドはドイツとロシアにより再編成されることになった。 ダンチヒでは親善訪問中のドイツ軍艦がポーランド軍陣地を艦砲射撃し、陸戦隊を上陸させ市内を制圧した。 ドイツ軍はハインツ・グデーリアンの戦略思想を具体化した戦車の集団投入と機動力を生かして、伝統的に騎兵重視のポーランド軍を圧倒。空軍はスペイン内戦の経験から編み出した急降下爆撃でポーランド軍を戦闘配置につかせる前に猛爆する。攻撃自体は奇襲であったがポーランドも戦争は時間の問題として軍備を増強し数値上の兵力はほぼ互角だったが、機甲部隊は軽装甲1個旅団しかなくドイツの装甲6個師団、軽装甲4個師団とは大差があった。そのうえドイツ軍の快進撃の前にポーランド軍は予備役の動員を行う時間も無かった。戦車はドイツ1号戦車(機銃のみ)、2号戦車(20ミリ砲)、3号戦車E型(37ミリ)、チェコ製38t(37ミリ)、数は少ないが4号戦車(75ミリ)など3195両。ポーランドは装甲車両総計で約1000両で7TP(37ミリ)、原形の英ヴィッカース製6t戦車と合わせて約150両、仏製ルノーR35(37ミリ)が約50両、小型戦車TKが約400両、内数十両は20ミリ砲を装備していた。空軍力においてもドイツ戦闘機Bf109が最大速度560Km/h、開戦時保有1056機に対しポーランドのPZL・P11cは固定脚で390Km/h、他の戦闘機を併せても159機とされる。 ワルシャワ陥落。ドイツ軍の機動力は凄まじいの一言に尽きた。「電撃作戦(Blitzkrieg)」開始。この頃から日本でも電撃的〇〇という言葉が多用されるようになる。ポーランドは幾日も耐える事なく、赤軍とドイツ軍に蹂躙され、ワルシャワの包囲を抵抗する間も無く許してしまう。ヒトラーは包囲され、爆撃されるワルシャワを凝視して、次の戦争の事を考えていた。 実際にポーランドを攻撃したドイツ軍は陸軍5個軍、45個師団。北方軍集団(ボック上級大将)は北方から第4軍、東プロイセンから第3軍がポーランド回廊を挟撃して、ワルシャワ、ブレスト・リトフスクに向かう。南方軍集団(ルントシュテット上級大将)はドイツ東部とスロバキア方面から8、10、14軍が侵攻した。空軍は第1、4航空艦隊1450機(戦闘機550機、爆撃機880機)が出撃。ポーランド軍はドイツ軍の革命的な戦略思想に翻弄され、早くも7日にはワルシャワまで押しまくられる。 ナチスは、シレジアン・アメリカ社の炭鉱を接収した。これに対し、ブッシュの義父のバート・ウォーカーとハリマンはナチス・ドイツと秘密交渉に入り、ブッシュをヒトラーの元へ送った。結果、ナチスとハリマン・シンジケートがポーランド鉱山の共同経営することになった。 |
【英仏がドイツに宣戦布告】 |
9.3日、英仏はヒトラーの予想に反し、ポーランドからの全部隊の撤退を求める最後通牒を発した上、ついにドイツに宣戦する。9.17日、第4軍、グデーリアンの第19装甲軍団が、ブレスト・リトフスクで、南方から侵攻してきた14軍と連絡し、ポーランドの残存兵力を包囲。同じ17日にはソ連軍が東からポーランドに侵攻、ポーランドは2大陸軍国に東西から挟撃される。ポーランド分割を定めた秘密議定書の存在は前線司令官には知らされていなかったため、驚いたドイツ軍とソ連軍の間に一時戦闘が起きた。 9.27日、英仏の救援はなく、包囲されたワルシャワが陥落。9.28日、独ソが「国境・友好条約」を締結しリトアニアのソ連領域入りと、ポーランド分割を協定し、再びポーランド人は国家を失う。9.29日、ワルシャワ北西のモドリン要塞も降伏。生き残った兵はルーマニアに逃れ政府はイギリスに亡命した。 ドイツ軍の損害は戦死1万0572名、戦傷者3万522名、戦車217両、航空機285機。 |
「ロスチャイルド家の代理人チャーチルの反撃」によると、次のように記されている。
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この後は、「第二次世界大戦緒戦期、中盤期までの歩み」
(私論.私見)