4期 | ナチス党再建から第三帝国誕生に至るまで |
この前は、「ナチス党入党からミュンヘン一揆失敗まで」
(れんだいこのショートメッセージ) |
1925年(大正14)年、36歳の時 |
【ヒトラーらがナチス党再建、ナチス党の最高指導者に就任】 |
2.27日、ヒトラーは、地下活動をしていたメンバーと合流し、ミュンヘン蜂起を行った同じビアホール(当時ビアホールは政党の集会場所として一般的に使用されていた)で、党の再建集会を実施。 ヒトラーはナチス党を再建し、合法政党として再出発させた。ナチス党の最高指導者に就任。再結成後のナチ党は、戦術を非合法的武装闘争から合法的大衆運動に転換し、選挙を通じて議会で多数派を形成し合法的に権力を奪取する方針の下、ヴェルサイユ体制や経済状況に対する国民の不満を味方に勢力を拡大していく。 ナチ党の選挙戦術は大衆にアピールする強烈なイメージを前面に押し出し、理性ではなく感情に訴えるもので、膨大な量のビラ・ポスター配布や、ラジオによる活発な政見放送など、今日の選挙戦のさきがけとなるものだった。また厳格な統制に従う突撃隊の行進による宣伝、街を埋め尽くす赤を基調としたポスターなどは視覚的なイメージで大衆に直接訴えかけた。1920年の末から1930年代の初めまで、ヒトラーはナチス党党首として精力的に活動する。 ヒトラーの演説は精力的に行われたが、これを恐れた政府はヒトラーの公開演説を2年間禁止する。しかたなく彼は党の組織固めに力を注ぐ。この時期党組織は攻撃部、建設部の2系列に編成されたいくつかの局、党本部を中心に全国に広がる大管区、小管区、細胞からヒトラーユーゲント、婦人団といった下部にまで効率的でヒトラーの統制が行き届くように編成され、政権獲得に大きな役割を果たす。 |
【6、ナチス党再建からヒトラーが首相に就任するまでの歩み】 |
【大統領選】 |
大統領選挙が実施された。ブルジョア保守派や中道派、社会人民党などの幅広い支持を得るパウル・フォン・ヒンデンブルクとカトリック中央党のマルクスと共産党のテールマン(Ernst
Thaelmann)が争い、ヒンデンブルグ 14,655,766、マルクス 13,751,615、テールマン 1,931,135という結果となった。 |
【ヒトラーがオーストリア国籍を離脱】 |
3月、出所後ヒトラーはオーストリア当局に国籍喪失の依頼書を提出した。すぐに認められ、オーストリア国籍を離脱した。かかった費用は7.5シリング。これから以降ドイツ国籍を取得するまで7年間ヒトラーは無国籍者となる。 |
【ヒトラー親衛隊創設される】 |
この年、ナチス党の準軍事組織としては既にエルンスト・レームに率いられた突撃隊(SA)があったが、ヒトラー個人を警護するために突撃隊をから選抜された隊員たちによって親衛隊(Schutzstaffel
シュッツシュタッフェル、SSと略される)が結成された。 親衛隊は、ナチス党の準軍事組織として活動していくことになり、選りすぐりのエリートが選抜された。軍団として戦闘に参加した「武装親衛隊」(Waffen-SS)と、人種政策などを行なった「一般SS」(Allgemeine-SS)の二つがある。 1932年以前、SSはブラックタイおよびドクロの徽章を備えた黒いキャップを除いて、SAと同じ制服を着用していた。その後黒の制服、そして開戦直前にフィールドグレイ制服を採用した。ドイツの大衆は暴力的だったSAと比較して統制のとれたSSを賞賛した。SSのモットーは「忠誠は我が誇り」(「Meine Ehre heist Treue」)。親衛隊員には、体(左の腋下)に血液型をコード化した入れ墨があった。親衛隊員は優秀な存在であり、万一の場合には他の兵士に優先して輸血を受ける権利がある、という指導部の思想の為である。 歴代の親衛隊長官は次の通り。ユリウス・シュレック Julius Schreck(1925年-1926年)、ヨーゼフ・ベルヒトート Joseph Berchtold(1926年-1927年)、エルハルト・ハイデン Erhard Heiden(1927年-1929年)、ハインリヒ・ヒムラー Heinrich Himmler(1929年-1945年)、カール・ハンケ Karl Hanke(1945年) |
1926年(昭和1)年、37歳の時 |
ゼークトが罷免される。ヒンデンブルグ大統領とそりがあわず罷免された。ゼークトは、ヒンデンブルグとはゴルリッツ突破戦以来の遺恨のせいかソリがあわず、ウィルヘルム皇太子閲兵事件を機に参謀総長(統帥部長官)を退いた。
【ヒトラーがナチス党内左派を屈服させる】 |
この頃、ナチ党のバンベルク指導者会議が開かれ、ナチス党第二の実力者グレゴール・シュトラッサーはヒトラーに屈服、以後は党の全国組織指導者として彼の路線に従う。ヒトラーは、党内左派最大の実力者グレゴール・シュトラッサーとの権力闘争に勝利しする。 |
9.8日、ドイツ、国際連盟加盟。
12.12日、 連合国軍事監視委員会、ドイツからの撤退を決定。
ミュンヘン一揆でヒトラーが入獄していた間、レームは解散を命令されたSAを「フロントバン」の名称で隊員を集め、以前より隊員数を増やしていた。合法活動に転換したヒトラーからSAに穏健な政治活動を求められたレームは反発し、1926年、南米ボリビアへ去り軍事顧問に就く。
1927年(昭和2)年、38歳の時 |
1928(昭和3)年、39歳の時 |
4月、ゲッベルスを党宣伝部長に任命。
5月、国会選挙。ナチス党は、得票率2.6%、12議席の獲得にとどまった。
8.27日、 パリ不戦条約(ケロッグ・ブリアン協定)調印。
12月、ヒトラーは自分のボディガード部隊の編成をユリウス・シュレックに命じ、後に親衛隊(SS、Schutz Staffel)としてレームの率いる突撃隊(SA)とは別の軍事組織として発展してゆく。
1928年頃からソ連ではスターリンの権力が磐石となり、資本主義第3期論が唱えられるようになった。これは資本主義が第3期の没落期にはいり、社会民主主義はその延命に手を貸す最悪の政治集団だと言うものだった。当時の主張は、「ナチスは社会民主党の破壊を狙っているからプロレタリア革命の先駆けである」に代表される。テールマンはモスクワに盲従した。このドイツ共産党の自主性の喪失は戦間期ドイツの歴史に複雑な影響を与えていくことになる。
【この頃のナチス党員数】 |
ナチス党の党員数は、1925年に2万7000人、1926年に4万9000人、1927年に7万2000人、1928年に10万8000人と着実に増大していった。 |
1929(昭和4)年、40歳の時 |
【親衛隊の長官にハインリヒ・ヒムラーが就任】 |
1.6日、ヒトラーは、親衛隊の長官としてハインリヒ・ヒムラーを任命。ヒムラーは、彼の片腕ラインハルト・ハイドリヒと共に組織を強化した。280人に過ぎなかった親衛隊員数は1932年末までに5万2千人に増加、一年後には20万9千人に膨れあがった。1934.6.30日の「長いナイフの夜」と呼ばれる粛清によって突撃隊指導部が壊滅した後、7.20日に親衛隊は突撃隊から独立してますます勢力を増した。 |
6.7日、ヤング案発表 (ドイツ賠償金支払い問題)。 ヤング案は保守派・NSDAP・在郷軍人団体・農業団体、つまり左翼政党以外のほとんどが反対した。産業界では未曾有の大不況は社会政策(現代の社会政策はまさにワイマール共和制がお手本を示していたのだが)の行き過ぎと批判していた。左翼の側も共産党(KPD)が社会民主党(SPD)をファシズムの同盟者として糾弾するなど分裂していた。 ヤング案は最終的に承認され、ヴェルサイユ条約によるドイツ監視機構はほとんど撤廃された。シュトレーゼマン死後ヒンデンブルク大統領や軍部のシュライヒャー将軍ら保守派は、SPDと手を切り、議会主義の終焉と権威主義政府の樹立というまさに逆コースをたどり始める。そして軍備拡張の機会を伺うようになる。 |
10月、ハインリッヒ・ホフマン(Hoffmann,Heinrich)の紹介で新入社員のエヴァ・ブラウンと出会う。
【世界大不況に突入】 |
10.24日、米国ニューヨーク株式市場(ウォール街)の株の大暴落に端を発した世界大不況に突入。その影響を敗戦国ドイツはより痛烈に受けていくことになる。 ワイマール共和国の政権を担当した社会民主党や中央党は有効な対策を取れず、30年から32年にかけてミュラー、ブリューニング、パーペン、シュライヒャーと内閣が交代し、議会政治が麻痺する。1932年の失業者は610万人を数えるようになる。ワイマール体制を徹底批判するナチス党への支持が増していくことになった。 |
1930(昭和5)年、41歳の時 |
2.23日、党員ホルスト・ヴェッセルが共産党員ヘラーに殺害される。ゲッベルスはヴェッセルを殉教者に祭り上げ、盛大な葬儀を行って共産党に対する憎悪を煽り立てた。ヴェッセルの詩『旗を高く掲げよ』には曲がつけられ、『ホルスト・ヴェッセル・リート』という名で党歌になった。 |
3月、大連合政府が倒壊した後、帝政復活を目標とするカソリック系のブリューニング政府が樹立されるが、この内閣は少数内閣のためと政権のデフレ政策による失業者の増大や社会政策の後退政策ならびに給与引き下げ断行に政策が国民の不満を増幅させ、たちまち国会解散に追い込まれる。
【ナチス党が第二党に躍進】 |
9.9日、総選挙が行われ、ナチ党が107議席、1200万票、得票率18.3%を得て社会民主党に次いで第二党にまで躍進。ヒトラーは、ヴェルサイユ体制や1929年以後の世界大恐慌に伴う深刻な経済不況と失業に対する国民の不満を利用して勢力を拡大した。 30年代前半は各政党の準軍事組織どうしの抗争で、街頭はさながら内戦状態に陥っていた。左右のそうした組織は、自己の隊列を組んで互いに行進の場所を奪い合っていた。Gobbelsは言う。「街頭はとにかく現代の政治の特徴だ。街頭を支配しうるものは、大衆を征服できる。従って、大衆を制するものが国家を征服するのだ」。 |
ヒンデンブルク大統領はパーペンに組閣させる。貴族中心の国会議員ゼロで組閣されたハーベン内閣では、国民の信頼を得るのには程遠く、逆に共和国への国民の信頼は急速に地に落ち、強力な政権待望論が彷彿(ほうふつ)するところなる。
1930(昭和5)年、1924年に採択された「支払い期限の延長とアメリカ資本の導入」を骨子とするドーズ案を修正した「賠償額の軽減や年賦支払い方式」を定めた案(いわゆるヤング案)には、左翼政党以外のほとんど団体、すなわちナチ党を含む保守派・在郷軍人団体・農業団体が反対したが、最終的に承認され(世界恐慌により実行不能となった)、これでヴェルサイユ条約によるドイツ監視機構はほとんど撤廃されることになる。
【ナチス党と共産党の共同行動】 |
1930年頃、ワイマール共和国の末期、ナチスと共産党の共同行動が見られている。ベルリンの借家人組合のストライキ。ベルリン東部の労働者地区。この時、ナチスと共産党は共闘を組んだ。この両者の組織が交じり合うことはないが、非常に似た運動方針をとり、また共同戦線を張ることが少なくなかった。そのうえ共闘はしばしば共産主義者からナチス党員へもちかけられた。反面両者が社会民主党と組むことはなかった。 |
1930年からスターリンは資本主義の全般的危機論を発表し、社会主義の祖国ソ連防衛のためと武装蜂起に備え、ドイツ共産党にその準備を強要した。この頃から相当の活動資金がソ連から提供された。各国共産党(コミンテルン支部)は具体的武装蜂起準備を開始した。このため1930年から1933年にかけてどの国の共産党も大混乱に陥った。ワイマール共和国は武装蜂起を扇動する政党にたいしても取り締まる術をもたなかった。
1930年、SA第9中隊がベルリンで党管区を占拠し、ゲッベルスの解任を求める事件が起き、レームの指導力を必要としたヒトラーは彼をボリビアから呼び戻し、再びSA最高指導者にした。
1931(昭和6)年、42歳の時 |
9.18日、ヒトラーの政治生命を脅かす事件が起きる。ミュンヘンのアパートで、ヒトラーが姉のアンゲラから預けられ、面倒を見ていたヒトラーの姉の子すなわち姪のアンゲラ・ラウバル(姉と同名・通称ゲリ)がヒトラーの銃で自殺した。しかもヒトラーがゲリを殺したと疑われる状況になったいた。ヒトラーはこの19歳下の姪に恋愛感情を抱いていたとも言われ、大きな精神的ショックを受ける。またこのスキャンダルを政敵が利用すれば政治生命を断たれかねない状況であった。 結局、ヒトラーは自殺時に現場にいなかったことが証明されたが、しばらくヒトラーは悲しみにくれることとなった。ゲリの自殺の動機は、ヒトラーの子を身ごもったからとも、別の青年に求婚されて困っていたとも、すでにヒトラーと交際していたエヴァ・ブラウンがヒトラーに宛てた手紙を上着から見つけだし、嫉妬のあまり衝動的に拳銃で胸を打ったなどの説があるが、動機は永遠に謎となるであろう。 |
【ナチス党が国家人民党・鉄兜団などとハルツブルク戦線を結成】 |
10月、いまや一大政治勢力となったナチスは、国家人民党・鉄兜団などとハルツブルク戦線を結成し、工業界、農業界、軍部の有力者と提携を深める機会を得た。 |
【エルンスト・レームが突撃隊総司令官に復帰】 |
1923年のミュンヘン一揆後、南米に亡命していたナチス党の武装組織・突撃隊(SA)の創始者エルンスト・レーム(Ernst Roehm)がヒトラーの命で帰国、突撃隊総司令官(SS保安諜報部(SD)指揮官)に復帰した。 |
【ロスチャイルドが本格的なナチス育成政策に入る】 |
12月、シュローダー男爵をリーダーとするドイツの著名な実業家12名からなるナチスを応援する友愛会が結成された。この後、ロスチャイルドの扶桑機関であるハリマンのブラウン・ブラザーズ商会とシュローダー商会が共同でヒトラーに本格的な援助をしていくことになる。 |
この年、ナチス党の大宣伝開始、党員150万人以上になる。
1932(昭和7)年、43歳の時 |
【ヒトラーがドイツ国籍を正式に取得】 |
ヒトラーがドイツ国籍を正式に取得。 |
1月、ヒトラーは、デュッセルドルフの工業クラブで、工業家たちをまえにして熱烈な反民主主義・反共産主義の演説を行った。こうしてナチス躍進の社会的基盤をなしていた新旧中間層、失業者、青年層に加えて、大工業家や大地主層の支援を獲得していった。保守的・右翼的勢力や政府は、共産党の進出に対抗できる勢力としてナチスを利用しようとした。しかしナチスの真の狙いは,これらの勢力と提携して勢力を伸ばしつつも、あくまで一党独裁体制の樹立にあった。
【ヒトラーが大統領選に出馬】 |
2.22日、ヒトラーは、資本家からも援助を受けて共和国大統領選に出馬する。現職の第一次世界大戦の英雄パウル・フォン・ヒンデンブルク大統領、共産党テールマン、国家人民党ディスターベルクと争う。準備段階ではツェツペリン伯爵の後継者として知名度の高かったフーゴ・エッケナーをヒトラーの対抗馬として与党候補に推す動きがあったが政治経験の無さと、高齢のヒンデンブルグが再出馬を決意したこともあり、事実上ヒトラー対ヒンデンブルグの対決となる。ヒンデンブルクは、ヒトラーが一兵卒として参加した第一次世界大戦のドイツ軍最高司令官だった。 選挙戦では健康不安のあるヒンデンブルグは1回も選挙演説をせず、ヒトラーは航空機を駆使し、精力的に地方遊説をこなした。ナチス党は、大規模な宣伝戦を実施し、バイエルンだけで800万のパンフレット、1200万の新聞号外、100万の絵葉書を配布する。ゲッベルスは「ヒンデンブルグに敬意を、ヒトラーに投票を」のスローガンを叫び、宣伝を展開した。 4.10日、結果は、保守派のヒンデンブルグ1865万票、ヒトラー1339万票。どちらも過半数を取れなかったため4月決選投票が行われる。ヒンデンブルグ1935万票、ヒトラー1341万票。ヒトラーは敗れる。ヒトラーはヒンデンブルクに敗れたものの30%の票を獲得しており、第二回の決選投票でも37%の得票を得ている。 |
4.13日、ブリューニング首相とグレーナー国防相・内相は過激なSAとSSの活動を禁止。しかし、NSDAPの勢力は侮りがたいものになっており、中央党、国家人民党などの保守、右派は勢力を伸ばしてきた共産党に対抗するためNSDAPとの連携を模索するようになる。
5月末、ブリューニング首相は、失業者に仕事を与えて、ユンカー(土地貴族)の農園に植民させる政策を取ろうとするが、これを嫌ったユンカーの意を受けたヒンデンブルグに解任される、先にグレーナーも辞任に追い込まれていた。国防相シュライヒャーは、中央党右派のフォン・パーペンを自分の意のままになる人物と見て、ヒンデンブルグに推挙し首相につける。中央党を除名されNSDAPの支持を頼むパーペンは、SA、SSの活動を解禁する。
7.20日、パーペンは社会民主党の牙城だったプロイセン州のオットー・ブラウン首相(社会民主党)を罷免。プロイセン州を中央政府統治にする。
7月、ローザンヌ会議で、ヴェルサイユ条約の賠償金の大幅な減額(30億マルクもしくは支払を猶予)に成功するが、ヒトラーはヴェルサイユ条約自体の破棄が出来なかったと攻撃。復古王政主義だったパーペンは憲法改正で政党、議会を解散し権威国家を作ろうとする。議会は共産党の提出した不信任案を可決。
議会運営に自信を無くしたパーペンは、ヒンデンブルグにヒトラーの首相指名を進言するが、ヒトラーを「ボヘミアの伍長」(オーストリア出身をボヘミアと勘違いしていたか、よそ者という蔑称の意味か)と軽蔑していたヒンデンブルグは拒否する。シュライヒャーと路線の違いが表面化したパーペンは辞任させられ、後任にはかねてNSDAPに気脈を通じ、ブリューニング、グレーナー追い落としの黒幕だった国防相のシュライヒャーが任命される。シュライヒャー自身は首相指名を求めず、背後で陰謀を巡らすつもりであったが大統領に首相指名されてしまった。
【総選挙で、ナチス党が大躍進し第1党となる】 |
7.31日、総選挙が行われ、ナチス党が大躍進し、230議席、得票数100万票超、得票率37.4%(←18.2%)を獲得、ドイツ国会第1党となった。(ただし過半数には達しなく、共産党も89議席を獲得して躍進する) ヒトラーは、大統領選挙では惜敗したものの、議員選挙では激しいプロパガンダと積極的遊説によってナチ党を国会の最大政党に押し上げた。 |
ヒンデンブルク大統領(85歳)とシュライヒャー将軍ら保守派は、ヒトラーの要求を拒否して保守派の傀儡(かいらい=あやつる操り人形)政権を任命、社会民主党(SPD)との連携を解消して、軍備拡張の道をたどり始める。
シュライヒャーはNSDAPの分派を図り、ナチス党第二の実力者にしてナチ党組織局長グレゴール・シュトラッサーがシュライヒャー内閣への副首相として入閣。これをめぐりヒトラーやヘルマン・ゲーリングと対立、党内のすべての役職を退く。
11月、ベルリン交通局労働組合のストで、社会民主党を敵にNSDAPと共産党が共闘(ゲッベルスの独断とも)。これにより、ナチス党は、実業界からの献金が途絶えることになる。
【二度目の総選挙で、ナチス党が党勢を足踏みさせる】 | |
11.7日、パーペン内閣の下で総選挙。この時のナチ党は196議席、得票数100万票超、得票率33.1%。前回より34議席・200万票を失った。 オーバーシュレージェンの小村ポテンパでの攻撃隊隊員による共産党シンパ殴打事件で、ゲーリングやヒトラーがSA隊員への同情的発言を行ったため国民の反感を買ったと見られる。 アドルフは飛行機を使って、精力的にドイツ各地で選挙運動を展開した。その水面下で「突撃隊(SA)」と「親衛隊(SS)」が対立勢力に鉄拳を加えていた。この頃のヒトラーの応酬話法。
パーペンの辞任を受けてシュライヒャーが首相となった。 |
【7、ヒトラーの首相就任から「第三帝国」誕生までの歩み】 |
1933(昭和8)年、44歳の時 |
1月、ヒトラーは、銀行家や実業界の有力者と秘密会合を持ち、共産党の進出に危機感を持った彼らの支持を取り付けることに成功する。ナチス党は、この実業界との和解で再び献金を受ける事ができた。
分派工作でヒトラーの恨みを買ったシュライヒャーは、今度は社会民主党と組もうとするがこれまでの右派的な姿勢から社会民主党に拒否される。大統領権限による議会解散と、総選挙の延期をヒンデンブルグに頼むが拒否され辞任する。
【ヒトラーがワイマール共和国首相に任命される】 |
ヒンデンブルグ大統領は、首相をパーペンおよびシュライヒャーと代えたが、ナチス勢力を押さえることはできず、政局が行詰まる。再びパーペンがヒトラーをヒンデングルグに推挙する。ヒンデンブルグは、伍長あがりのヒトラーを元帥の自分が任命するのを屈辱と感じ、ヒトラーの首相指名を拒んだが、秘書役の子息にまで説得され遂に側近らの説得を受けてヒトラーを首相に任命する。ヒンデングルグは、「ヒトラーのごとき人物を首相に任命する不愉快な義務を負う破目になった」。 1.30日、シュライヘル内閣の総辞職に伴い、ヒンデンブルク大統領はヒトラー(44歳)をワイマール共和国首相に任命する。正午ごろ新政府の宣誓式でヒトラーは右手を上げて大統領の前で宣誓を行った。「私はドイツ国民の福祉のために力を尽くし、ドイツ国民の憲法と法律をまもり、私の義務を履行し云々」。その夜NSDAPのSA、SS、ヒトラーユーゲントの首相就任を祝う松明(たいまつ)行列がブランデンブルグ門から首相官邸に行進した。党員ばかりでなく市民もこの若い43歳の新首相に新時代への期待をかけ行進に加わった。 副首相にパーペン、外相フォン・ノイラートが留任、国家人民党のアルフレート・フーゲンベルクと鉄兜団ゼルテが入閣。ナチス・右翼勢力の連立政府としてヒトラー・パーペン内閣が成立した。かくて遂にナチ党は政権与党となった。新内閣11閣僚の内、ナチス党党首ヒトラーが首相、ナチスナンバー2のゲーリングが無任所大臣兼国会議長、内務大臣ウィルヘルム・フリックとなった。その他多数の党員が議員となって構成された国会はナチスの独壇場であった。 保守派は、ヒトラーを取り込んで利用し政権を強化したつもりであったが、それは甘すぎた。かって社会民主党を憎みNSDAPと共闘さえしたドイツ共産党も、ヒトラーを過小評価する誤りをおかした。 政権側になったヒトラーは異能の才を発揮する。ヒトラーが政権の座に就いた当時のドイツは、政党間の争いで半内戦の状態あり、失業者は560万人以上の最悪の状況であった。ヒトラー政権は「国民革命」と称して、州・自治体の権力を突撃隊(SA)などを使って掌握し、大都市のほとんど市長をナチ党員に交代させていった。プロイセン州の内務大臣を兼務していたゲーリングを通じて警察にSSやSAの隊員を送り込み警察を掌握、さらにSS、SA、共闘関係の右翼団体「鉄兜団」員などで警察予備隊を創設。 1930年から32年にかけてミュラー、ブリューニング、パーペン、シュライヒャーと内閣が目まぐるしく交代し、そのため、世界大不況に対して有効な手段を講ずることが出来ず、議会政治が麻痺し、大統領ヒンデンブルクの非常権限で首相指名を受け、統治を行う有様であった。有権者はワイマール体制を批判するナチス党を支持していくようになり、ヒトラーの首相任命は、合法的手段によって遂に政権を獲得したことになる。ヒトラーはまずはじめに、国内の政敵を弾圧する行動をとる。 2.1日、首相となったヒトラーが国会を解散する。 |
【トロツキーの分析】 | ||
2.5日、トロツキーは、ヒトラーの首相任命直後のこの日、「決断を前に」(トロツキー著作集 1932―33下、柘植書房)と題して次のように書いている。
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【ベルリンの国会議事堂放火事件が発生。ヒトラーが共産党を大弾圧】 |
2.24日、ベルリンの共産党本部を捜索、主要党員を逮捕する。 2.27日、ヒトラーの首相就任から1カ月後、ベルリンの国会議事堂放火事件が発生。犯行はどうやらオランダ人共産主義者の単独によるものだったが真偽不明。犯人については諸説あるが、現場に駆けつけた内相ゲーリングは合流したヒトラーの姿をみるや、即座に大声で断言したという。「間違いなくこれは共産党の仕業ですぞ、首相。議事堂内で最後に目撃されたのは共産党の議員です」。ヒトラーはこう明言したと云う。「我々は鉄拳をもってして人殺しのペストを粉砕しなくてはならなん」(「ヒトラー 権力掌握の二〇ヵ月」、グイド・クノップ・著、高木玲・訳/中央公論新社)。 ヒトラーは、共産党の仕業と決めつけ党員をいっせいに拘束、共産党への徹底的な弾圧に乗りだした。 2.28日、国会議事堂炎上事件の翌日、ヒンデンブルク大統領の署名を経て、大統領の非常権限(憲法48条)発動で、国民の基本的人権と市民的自由権を大幅に制限する、「国民と国家を防衛するための大統領緊急命令」(「民族と国家のための大統領令」)を発布した。こうして、ワイマール憲法の基本的人権を停止し、政敵の自由な拘束が行えるようにした。「強制的ナチ化(Gleichshaltung)」が進行していくことになる。突撃隊によるプロレタリア闘争諸団体への弾圧・解体運動が促進した。 3.3日、共産党の最高指導者テールマンが逮捕された。 |
3.4日、ルーズベルトがアメリカ合衆国大統領に就任。
【総選挙で、ナチス党が大躍進】 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
3.5日、総選挙。もはや「自由選挙」とは程遠いものであった。選挙は、ナチスの武装部隊による武装襲撃や流血の惨事が繰り広げられる異常な状況で行なわれた。 ナチス党は288議席(得票率43.9%)を獲得し、1932年11月の総選挙時より得票数で600万票近く、得票率で10ポイント、議席数で100近くも増大させる大躍進を遂げた。但し単独では過半数に達し得ず、国家人民党(52議席、得票率8.0%)と連立を組むことで国会の過半数を制した。社民党は1932年11月の総選挙時とほぼ同数の120議席を得た。共産党は大弾圧の中で100議席(得票率16.9%)から81議席(得票率12.3%)に減少した。これによって、ついに強力なヒトラー政権が成立した。 サイト「ヒトラーの勝利」 は次の図表を作成しているのでこれを拝借転載する。
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【ヒトラー首相が、共産党を非合法化させる】 | |
3.8日、総選挙の「勝利宣言」を出したヒトラー政権は、選挙直後の3.8日、共産党の議席の剥奪(はくだつ)宣言を発布して、共産党を国会から排除した。 3.9日、 ドイツ共産党、社会民主党を非合法化、解散させる。その党員を吸収して第二次世界大戦の敗戦までドイツで唯一最大の政党であり続けた。3.3日、共産党の最高指導者テールマンを逮捕する。 ヒトラーは、政権獲得後、共産党を徹底弾圧した。これは、共産党の背後にユダヤの陰を見ていたことによる。社会民主党の活動家も強制収容所に入れられたが多くは短期間で釈放されたのに比して共産党員は大半が殺害された。 テールマンはヒトラー権力掌握後直ちに逮捕され収容所に入れられた。1933年ごろ、日本人記者がナチス党歌のホルストベッセルを歌わせられている服役中のテールマンを目撃している。そしておそらく収容所内で殺害された(「その後のドイツ共産党」)。 国会でドイツ社会民主党の党首から「迫害」を批判されたヒトラーは、こう反論したという。
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3.14日、ゲッベルスを国民啓蒙宣伝大臣に任命。
【ヒトラー首相が、反対派の徹底弾圧始める】 |
3.22日、最初の強制収容所となるダッハウ強制収容所が設立され、反対派の徹底弾圧が始まる。 |
【ヒトラー首相の経済政策】 |
ヒトラーが、シャハトを登用しその政策をとるとドイツ経済は一挙に蘇生した。 同年、ベルリン・モーターショーに出席。モーターショーで高速道路(アウトバーン)の建設を発表、自動車を国民の手の届くものにすることを宣言。モーターショー開催から3カ月後、フェルディナント・ポルシェと会談、国民車構想を示し、その設計を依頼。 国民車構想を打ち出し、「自動車が富裕階級のものである限り、国民を貧富の2階級に分ける道具にしか過ぎない、自動車は国民大衆の物でなければならない」と、当時は金持ちしか持てなかった自家用車が労働戦線(DAF)への990マルクの積み立てで労働者にも買えると夢を掻き立てた、これは戦争のため実現しなったが、フェルディナント・ポルシェ博士の試作車は戦後のフォルクスワーゲン・ビートルにつながる。 |
【「全権委任法」獲得で、ヒトラー独裁体制確立する】 | ||
3.23日、クロール・オペラ・ハウスで開かれたドイツ議会が、「全権委任法」を上程した。憲法改正によらず大統領権限を侵さない限り、ヒトラーに自由に法律の制定を認めるという向こう4年間ヒトラーに「白紙委任状」を認める全権委任法であった。即ち行政府に議会の同意なしに立法権を与える権能が与えられるものであった。採決の結果、441対94(賛成:ナチス党、中央党、人民党、国家党、反対:社会民主党)で可決。81議席を持っていた共産党は既に非合法化されている。この時の社会民主党オットー・ヴェルズの反対演説が国会でヒトラーへの最後の抵抗となる。議長ゲーリングが結果を宣言、ヒトラー、NSDAP党員が起立し、党歌「ホルスト・ヴェッセル」を斉唱、「ジークハイル」の叫びが議場に響いた。これによりヒトラーは独裁権を獲得、ヒトラー独裁体制確立した。ヒトラー政権は、すでに圧倒的多数を握り形骸化しつつあった議会に最後の鉄槌(てっつい)を加え、議会の議決なしにいかなる法律でも成立させることを可能な体制を確立した。この法律は4年間の制限が付いていたが、第3帝国の崩壊まで機能し続けた。
この法律の成立により、20世紀を代表する民主主義的憲法を意味したワイマール憲法は事実上停止状態に陥り、ワイマール共和政は崩壊する。共産党なきあと、法案に反対したのは社会民主党だけであった。しかし同党は、ナチス独裁に反対する本格的な闘争を何一つ組織しなかったばかりか、5月1日のメーデーにはナチスの「国民労働デー」を祝ってパレードするよう訴えたことにみられる迎合的態度に終始し、結果的にヒトラーの独裁政権を補完する役割を果たした。 つまりヒトラーは、1月30日の成立から6ヶ月、総選挙からわずか4ヶ月で独裁体制を確立することに成功したことになる。議会の機能を停止させナチ党独裁体制をしき、公然と人権侵害を行い民主制の原則を否定したナチズム的バーバリズム(barbarism=野蛮な行為)は、ここに極まったわけであるが、かような非民主的政治体制(ファシズム)が、民主憲法(政治)の中から生まれたとこもまた事実であった。 |
【ヒトラー政権が、社会民主党を非合法化する】 |
ヒトラーは、共産党についで社会民主党を非合法化した。社会民主党は「全権委任法」に反対した唯一の党であったが、この党はナチス独裁に反対する本格的な闘争を何一つ組織しなかった。続いて国家人民党をナチスに吸収した。その他の政党は,相次いで自発的に解散した。7月5日のカトリック系中央党の解散が最後となりナチス独裁体制が完成することになった。 |
【ヒトラー・ユーゲントの組織化】 |
「第二次世界大戦下のヒトラー・ユーゲント」参照。 突撃隊(SA)の青少年部に過ぎず、団員数もごく僅かであったヒトラー・ユーゲント(Hitler-Jugend 以下 HJ と略記)が、ナチ党青少年指導者(Reichsjugendfuehrer der NSDAP)シーラハBaldur von Schirachの「国民社会主義労働者党が今や唯一の政党なのであると同様に、HJも唯一の青少年組織でなければならない」との観点から、各青少年諸団体の禁止措置、HJへの吸収へと向う。 4.5日、シーラハは、HJ部隊を動員して、当時各青少年団体の団員およそ500から600万人を擁していたベルリンの「ドイツ青少年団体全国委員会」13)Der Reichsausschuss der deutschen Jugendverbaende(以下「全国委員会」と略す)の事務所を襲撃し、機関の指導権を奪取する。以降、シーラハは、他のすべての青少年団体の情報を入手して他団体排斥に利用し、ユダヤ人と社会主義系青少年団体を「全国委員会」から締め出した。 6.17日、ヒトラーはシーラハをドイツ帝国青少年指導者 Jugendfuehrer des Deutschen Reichesに任命する。6.24日、シーラハは、就任に当たっての決意を次のように表明している。「200万人のドイツ民族同胞は,大戦争の戦場で諸君のために斃れた。200万人の死者たちは,その生涯で最も辛い時期に熱望し,感じ取っていたことを諸君がかき消してしまわないことを求めている。それゆえ我々は前線の伝統の担い手となるのである!」。 |
【ヒトラー政権が、ユダヤ人の公職追放政策に踏み出す】 |
4.7日、ユダヤ人が公職追放される。これがユダヤ人弾圧のはしりとなる。 |
【ヒトラー政権が、ゲシュタポ発足させる】 |
4.23日、ヒトラー独裁政権成立とともにナチス独裁体制を補完する反対勢力弾圧機関として秘密国家警察(Geheime
Staatpolize、略称ゲシュタポ・Gestapo)がまずプロイセン州で創設され、その後全国的に組織された。ルドルフ・ディールスは、プロシア州警察から招かれた初代長官。 初めは突撃隊(SA)のちには親衛隊(SS)と協力して共産党、社会民主党、ユダヤ人、そのほかナチ体制に批判的な知識人などに対して拷問やテロあるいは強制収容所送りなどによって激しい弾圧を加えていった。さらに、1938年初めのブロンベルク事件やフリッチュ事件のように卑劣な陰謀によってナチ体制に対して独立性を保持しようとする陸軍の将官の失脚さえはかった。秘密国家警察としてはソヴィェトのゲー=ペー=ウーがこれとともによく知られており、むしろゲシュタポの設立にあたってはゲー=ペー=ウーがモデルとされたといわれている。 4.26日、ヘルマン・ゲーリングが長官に就任。 |
【 ヒトラー政権が、ナチス入党停止令を公布】 |
5.1日、 ヒトラー、ナチス入党停止令を公布。 |
【ヒトラー政権がメーデー襲撃】 |
5.1日、メーデーのこの日、社会民主党は、ナチスの「国民労働デー」を祝ってパレードするよう訴えた。この迎合的態度こそ社会民主党の何たるかを証左しているように思われる。 5.2日、メーデーの翌日のこの日、ナチス政府は、ナチス突撃隊と親衛隊を使って全国の労働組合総同盟の建物や事務所を武装占拠し、組合幹部を一斉に検挙した。ドイツ各地の労働組合事務所が襲われ、多くの組合員が逮捕され、解散を強制された。その後、労組はドイツ労働戦線に吸収されるなど、「強制的同一化(Gleichshaltung)」と呼ばれる、あらゆる団体組織のナチへの統合政策を遂行。 |
【ヒトラー政権が焚書政策】 |
5.10日、ナチス党は、言論統制の一環として、ナチスに反する思想、ユダヤ人が執筆した書物を、「反ナチス的書物」として焼くという、いわゆる焚書を全国規模で行った。宣伝大臣ヨーゼフ・ゲッベルス(37歳)とナチス党青年学生同盟の主導で、「非ドイツ的・反ナチス的」な書籍を焼くという「焚書」がベルリン大学を始め、各地で行われた。 対象になったのはカール・マルクス(共産主義)、レマルク(反戦小説)、トーマス・マン(民主主義)、ジークムント・フロイト(精神分析、ユダヤ人)、ハイネ(詩人、ユダヤ人)、アルベルト・アインシュタイン(学者・ユダヤ人)など退廃的とされたものとユダヤ人の著作。学生たちは熱狂し、「マルクスを焼け、フロイトを焼け、ハイネを焼け」というスローガンを叫び、焼かれる書物の炎のまわりで歌い踊ったと伝えられている。 ちなみにこの焼かれた本の中に、ハイネの詩集があった。その中に、次の一節があったのは、運命の皮肉であろう。「書物を焼く者は、いずれその炎で自身をも焼くであろう」。その12年後にナチスは戦火の中で滅んでいった。 |
5.17日、 ヒトラー、「大平和演説」。
5月、ドイツ中央銀行総裁のヒャルマー・シャハト博士が、アメリカに出向き、ルーズベルト大統領と会見し、長期債務の利子述べ払い交渉をした。結果的に米国のユダヤ系銀行からの融資を引き出した。これが、ドイツの戦争準備の為の資金となった。
6.22日、ヒトラー、社会民主党の活動を全面的に禁止。 最後に残ったカトリック中央党も7.5日、自主解散。こうして「一つの民族、一つの帝国(Reich)、一つの総統」というスローガンが完全に現実のものとなっていった。この劇的な過程において、共産党も社会民主党もついに本格的な闘争を組織することはしなかった。ブルジョア政党も積極的にナチスの権力掌握と共産党弾圧に協力した。そしてそのあげくに、政治の舞台から一掃されたことになる。
【ナチス党の一党独裁体制敷かれる】 |
7.14日、ヒトラー、新政党の結成を禁止。ナチスを唯一の合法政党とする法律が発布された。ナチスの一党独裁が成立した。ヒトラーの対抗勢力は共同して抵抗せず、個々に撃破されていった。当初ナチス党と連携的関係にあった、中央党(カトリック政党)、人民党、国家党などの中道、右派も力を失い自発的解散を強いられる。 この事態は、ドイツにおけるスターリニズムと社会民主主義とブルジョア民主主義の最終的破産を確認したことになる。ヒトラーに抗議し、収容所に送られたドイツの牧師マルティン・ニーメラーの次の言葉が残されている。「ナチスが共産主義者を弾圧した時、共産主義者でない自分は行動しなかった。ナチスは次に社会主義者を弾圧した。社会主義者でない自分は抗議しなかった。ナチスは、学生やユダヤ人に弾圧の輪を広げ、最後に教会を弾圧した。牧師の自分は立ち上がった。時すでに遅かった。『抗議するには誰のためではない、自分のためだ』」(2004.8.8日付朝日新聞−「風 ロンドンから-外岡秀俊」から)。 |
7.20日、政教協約(コンコルダート)調印。バチカン(ローマ・カトリック教会)と協定が結ばれ、カトリックは信教の自由を認められる。宗教そのものを認めない共産主義より、教会はヒトラーを選択したことになる。この協力は第3帝国崩壊後まで続き多くの戦犯容疑者が教会の助けで脱出している。
夏、ドイツ経済省とユダヤ機関が、「振替協定」を締結した。これにより、ユダヤ人が国外移住の際に、外貨及び資産の持ち出しが可能になった。1939.9月にこの運用が禁止されるまで続いた。この協定により、数千人のユダヤ人がパレスチナに移住し、1400万英ポンド相当のドイツ工業製品がパレスチナに流入した。
10.14日、ドイツ、ジュネーブ軍縮会議・国際連盟からの脱退を表明。
ヒトラーは、労働者の組織化、地位向上にも力をつくし「歓喜力行団」(Kdf)を作り労働者へ安価に旅行、演劇、映画、コンサートなどの福利厚生を提供した。
1933年から1945年までナチ党の組織は政府の組織とほとんど同一視され、党の組織であった大管区、管区、支部、細胞、班はそのまま国家の行政区分になった。鉤十字の党旗は国旗となり、『ホルスト・ヴェッセル・リート』は第二の国歌のように全国で歌われた。党の組織は生活の全てに浸透し、労働・教育・余暇など私生活の隅々までナチズムによって支配されていた。第二次世界大戦では防空や保安なども担当し、大戦末期には義勇兵団「国民突撃隊」の母体にもなっている。
1934(昭和9)年、45歳の時 |
4.11日、 ヒトラー、軍首脳と洋上会談。
6.14日、ヒトラーは、ヴェネツィアでイタリア統領ベニート・ムッソリーニと初会見。ムッソリーニはこのときヒトラーを「道化者」と評している。
6.22日、社会民主党がクーデター容疑で活動禁止される。
【ヒトラーとレームが対立】 |
ヒトラーが政権を獲得すると武装した対抗勢力はいなくなり、失業者を吸収し250万を擁すまでに強大化したSAは、ヒトラーと対等に話すレームの強烈な個性もありヒトラーの統率が効かなくなりつつあった。レームは、「灰色(国防軍の制服色)の岩は褐色(SAの制服色)の濁流に呑み込まれなければならない」と、SAが正規軍である国防軍にとって替わることを主張していた。 |
【レーム粛正事件、「長いナイフの夜」】 |
6.30日、15年来の同士であったSAのエルンスト・レーム隊長以下幹部をクーデター(一揆)企図の容疑で逮捕した。ミュンヘン郊外のバート・ヴィース・ゼーの温泉で、SS部隊とヒトラーが自ら拳銃を手に宿泊していたレームらSA幹部を逮捕。レームには自決を求めるが、応じずシュタデルハイム収容所でテオドール・アイケらSSに翌日射殺される。同時に多数のSA幹部も各地で逮捕、殺害される。 レームは、ヒトラーに対して正面向かって諫言を言えた数少ない一人であった。この粛清(レーム事件)は、レームがヒトラーの権威を脅かすことを恐れたヒトラーと航空相へルマン・ゲーリング(41歳)やナチ党の武装組織である親衛隊(SS=Schutzstaffel)全国指導者はハインリヒ・ヒムラー(34歳)によって行なわれた。 6.30−7.2日、いわゆる「長いナイフの夜」によって突撃隊長エルンスト・レームを初めとするSA党内外の政敵をSS隊員による非合法的手段で逮捕拘禁、処刑していった。こうして、80人以上を殺害することで決着をつけた(レーム粛正事件)。実際には200名以上が殺害されたという。 前首相のシュライヒャー夫妻、ナチス党第二の実力者で、同党左派の流れを代表するグレゴール・シュトラッサー(Gregor Strasser)、1923年のミュンヘン一揆で苦杯をなめさせられた、元バイエルン州総督カールらも、レーム事件の際にゲシュタポに捕らえられ、裁判を経ずに射殺された。 元首相のパーペンは危ういところで助命された。 レームの後任には内通していたハノーバーSA管区長ビクトール・ルッツェが任命された。この粛正によってSAは事実上消滅し、代わって粛正を実行した親衛隊(SS)がNSDAPの戦闘組織の中心になる。この後も、黒い制服にルーン文字の稲妻の記章を付けたSSはヒトラーへ絶対の忠誠を誓い、恐るべき恐怖を歴史上に残すことになる。ブロンベルク国防相は軍からシュライヒャー、ブレドウ(前官房長)ら犠牲者が出たものの粛正を称賛、ヒトラーは身内を切り捨てたことで国防軍の支持も獲得し、内外の敵を一掃したのである。6月30日から7月2日に行われた事は「国家の正当防衛」として合法化された。 政敵を一掃し、独裁体制を固める。約85名が犠牲となった。この事件で、ヒトラーは逆に国民の支持を獲得している。それはまさに実行力を強烈に印象付けた、つまりやれる男という評価を得たわけである。 ヒトラー政権は、シャハト(Horace Greeley Hjalmar Schacht 1877〜1970)財政下の好景気と最先端を行く新しい時代の党というイメージとがあいまって、世論の主導的な立場にある中間層、特に若者や大学生の間に熱狂的支持を得て、確実に勢力を拡大する。 |
8.2日、ヒンデンブルク大統領が老齢の為死去する。
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「ヒトラーの勝利」で、トロツキーのヒトラー観、が示されている。れんだいこがこれを評する。 トロツキーは、気の利いたセリフを作るのが上手い。「ベルサイユ条約によってドイツは、拘束服を支給されぬまま、狂気の館に変えられてしまった」とか「ファシズムという『絶望の党』の勝利が可能となったのは、もっぱら、社会主義という『希望の党』が権力を握れなかったからである」とかは如何にも文芸評論センスの高い知的言辞である。しかし、政治指導者の言辞としては問題があろう。なぜなら、政治は評論することではないから。実に、トロツキーの限界はこの辺りに認められるのではなかろうか。 社会民主党に対して次のように批判している。概要「独特の保守的限界を有していた社会民主党は、ホーヘンツォレルン家の陸軍元帥であったヒンデンブルクと親和し、大統領選でヒンデンブルクに投票した。労働者は闘うことを望んだが、労働者の闘争を抑制した。こうして、社会民主党はヒンデンブルクを通してファシストを権力に呼び寄せたばかりでなく、ファシストが段階をおってクーデターを遂行するのを可能にした。社会民主主義がファシズムと同様に、プロレタリア革命に反対してブルジョア体制擁護の立場に立っていることは疑いようがない」。 ドイツ共産党に対して次のように批判している。概要「ドイツ共産党の政策は徹頭徹尾誤っていた。スターリンは、社会民主主義者と国家社会主義者は『ファシズムの2つの変種』であり、『対立する極ではなく双生児』であると見立てた。しかし、これは間違っている。国家社会主義は社会民主主義の否定を使命としている。ならば、共産党と社会民主党との防衛的統一戦線を構築することが必要であった。だが無能な指導者たちはこのアプローチを拒否した。労働者は、計画も展望も与えられず、分断され無防備のまま置かれた。この立場はプロレタリアートの士気を阻喪させ、ファシズムの自信を強めた。これは、ドイツ共産党の無能を証している」。 これに対して、トロツキーは、早くよりファシズムの脅威を警告し、社会民主主義の保守的役割、共産党の伝統的指導の無能さがファシズムを増長させているとして批判してきた。1931.4月、コミンテルン執行委員会においてドイツ共産党の公式指導者テールマンが、「ヒトラー恐れるに足らず」論を述べていることを凡愚見解の見本として、「ブルジョア民主主義が崩壊しつつある中、ファシストは、2つの労働者政党のかくなる無能な指導者どもに助けられて権力に就くことができたのである」と批判している。 しかし、相手に手厳しいトロツキーの評論が、自分の見解の杜撰さの批判に向うことはない。トロツキーは、ナチス党に対して次のように見立てている。概要「ヒトラーの政治的軍隊は、公務員、事務員、商店主、商人、農民といった、中間的で不安定なあらゆる階層の連中によって構成されている。社会的意識の点から見れば、彼らは吹けば飛ぶような塵あくたにすぎない。ヒトラーは、ビスマルクやヴィルヘルム2世の力をもってしてもなしえなかった社会民主党及び共産党の根絶を引き受けている。共産主義者を強制収容所で『教育』することを宣言している。ヒトラーが、そのまったくの反議会主義にもかかわらず、社会の場でよりも議会の場ではるかに強力であるというのは、一種の逆説である」。 トロツキーのこの見立ては歴史的に見て正確だろうか。「ドイツ労働者階級は、数の上でも文化的にも社会主義を実現するに十分な水準に達していたが、党の指導者たちが無能であることが明らかとなった」として批判するのなら、トロツキーの指導に拠れば如何なることが出来るのかを証さねばならない。 れんだいこに云わせれば、「彼らは吹けば飛ぶような塵あくたにすぎない」なる見立ては、テールマンの「ヒトラー恐れるに足らず」論と五十歩百歩のように聞こえる。「ヒトラーが、そのまったくの反議会主義にもかかわらず、社会の場でよりも議会の場ではるかに強力であるというのは、一種の逆説である」と見なすのではなく、歴史に実際に起こったことであるならその要因を検証していく方がマルクス主義的だろう。トロツキーのそれは半マルクス主義にして半評論的政治論であるように聞こえて仕方ない。 2004.10.30日 れんだいこ拝 |
この後は、「第三帝国時代から第二次世界大戦突入までの歩み」
(私論.私見)
「国際情勢の鍵はドイツにある」(トロツキー/訳 西島栄)