3期 | ナチス党入党からミュンヘン一揆失敗まで |
(最新見直し2006.1.23日)
この前は、「第一次世界大戦とドイツ軍兵役時代」
(れんだいこのショートメッセージ) |
【共産党「スパルタクス団」が弾圧される】 |
1月、政権を担った社会民主党フリードリヒ・エーベルトは右翼勢力と共闘、社会民主党から分派した共産党「スパルタクス団」を義勇兵団の兵力で鎮圧。カール・リープクネヒトとローザ・ルクセンブルクが殺害される。 |
【共和国最初の選挙とその後の情勢】 |
共和国最初の選挙では、社会民主党は4割の議席を獲得し、共和国は首都の混乱を避けてワイマールに議会を開く。しかし首都ベルリンをはじめドイツ各地で共産勢力との武力衝突が続く。 |
【「ドイツ労働者党」入党前のヒトラーの動き】 |
この頃、ヒトラーは病院から退院し、歩兵第2連隊に配属される。後にミュンヘンの第7師団に移る。ミュンヘン、シュヴァーヴィンクで調査、情報関係の仕事に就く。教育将校育成講習を受講。マイル大佐の推薦で、情報教育将校(エージェント)となるためミュンヘン大学のセミナーに参加し、フォン=ミュラー教授に師事している。政治理論などの速成教育を受け、バイエルン第7師団(ミュンヘン)政治局啓発課の政治教育将校となる。ヒトラーはこの期間、共産主義革命の浸透を防止する為の理論武装、そのプロパガンダ教育を受けつつ相当の書物を読破している、と伝えられている。
|
【「ドイツ労働者党」入党】 |
9.12日、ヒトラーが「ドイツ労働者党 (DAP、Deutche Arbeiter Partei)」の集会に参加する。講演の後自由討論に参加した時、或る党員がババリア地方とオーストリアとが合併して新たな国家をつくるべきだと演説した。これに対し、オーストリアに反感を持つヒトラーは激しく反発しいきなり演説をぶった。それを見ていた「ドイツ労働者党」の創設者にして党幹部のアントン・ドレクスラーは彼に好感を持ち入党を誘い、パンフレットを渡した。ヒトラーはそのパンフレットを持ち帰って読み、大きな共感を感じた。ヒトラーの上官カール・マイヤ大尉は活動資金を渡しヒトラーの入党を許した。 かくて、集会参加の数日後入党する。党員番号7(555番の実質55番目とする説もある)。当時、「ドイツ労働者党」は当時50名程度の小政党であったが、その理念に共感し入党することになった。ヒトラーは党の幹部として迎えられ、彼もこの小さな政党に参加して政治への一歩を進む決意をした。 「我が闘争」には次のように記されている。「二日間思い悩み、熟慮の末、ついに一歩を踏み出す決意を固めるに至った。それはわたしの人生で最も重要な決意であった。こうしてわたしはドイツ労働者党の党員登録を済ませ、番号7と記された仮の党員証を受け取った」。 |
【入党後のヒトラーの歩み】 |
この頃の「ドイツ労働者党」は、ヒトラーの言よれば、「実際には7人の委員から成り、それで全党を代表していたわれわれの小さな委員会は、小人数のカード・クラブの首脳部以上のものではなかった」。 10.16日、ミュンヘン、ホフブロイハウスでドイツ労働党の大衆集会が開かれた。この時、ヒトラー自身、自分が大衆の前で演説する才能があることに気が付く。ヒトラーが30分ほど演説すると、集まった百人ほどのの聴衆はたちまち彼の演説のとりこになった。そして、多額の寄付を集めることができた。こうして、ヒトラーは、宣伝担当の委員に抜擢される。 ヒトラーの演説能力は高く、いきなり頭角を現し始める。その主張はベルサイユ条約の破棄、ベルサイユ体制の打破、反ユダヤ主義、中央政府ワイマール共和国の批判、労働者の生活向上を眼目としていた。政治の混乱や失業、賠償金の支払による高率のインフレに苦しむ聴衆が次第に増えていった。党は当時の民主制・共和制に不満な軍人や元軍人を中心に拡大していった。ヒトラーの扇動的な演説によって多くの党員が獲得され、、党はヒトラーの演説の人気を中心に拡大していくことになった。「我が闘争」には次のように記されている。「わたしは30分話をした。そして、わたしが以前から、よくわからないが、ただ内心で感じていただけのことが、今や現実によって証明された。わたしは演説ができたのだ。30分後、小さな部屋に集まった人々は深く感動させられたのである」。 ドイツ労働者党の創設メンバーで、詩人で劇作家でもある元軍人のディートリッヒ・エッカルトは、アドルフがただものではないことを見抜いた。「みんなヒトラーについていけ。奴は踊る。しかし、その曲をオーダーしたのは私だ」 と述べている。 若き指導者ヒトラーは既に、ミュンヘンの地元紙に「反ユダヤ主義を掲げる党の指導者は、恐ろしく狡猾な大衆煽動家」と酷評されている。しかし、ヒトラーのビアホール、サーカス場での演説は聴衆に感銘を与え、ぞくぞくと入党を誘った。その中には後にナチスの宣伝相となるヨーゼフ・ゲッベルスもいた。 |
1920年(大正10)年、31歳の時 |
1.10日、国際連盟発足 (日本、理事国として加盟/提唱国アメリカ不参加)。
2.24日、ドイツ労働者党はミュンヒェンのホフブロイハウスで開かれた党大会に2000人を集め、綱領を公開した。 この頃、ヒトラーは、軍を除隊して党務に専念するようになる。ヒトラーの演説能力は高く、エルンスト・レーム大尉やディートリヒ・エッカートらの支持もあって、ヒトラーは党内での勢力を拡大していく。ヒトラーは、党勢拡大に消極的であったドレクスラーを説得し、活発な宣伝活動を続け、党員を獲得していく。 |
【「25カ条綱領」作成】 |
2.24日、ヒトラーはこの間、アントン・ドレグズラード、フェーダーと共に党綱領の整備に取り組んできたがこの日、「25カ条綱領」を発表した。ヒトラーは、共産主義者を含む2千人もの大衆を前に演説し、約4時間近くの集会は大成功に終わった。 この時発表された「25カ条綱領」は、反ブルジョワ・反ユダヤ・国粋主義的主張及び土地・産業の国有化・福祉政策の推進など社会主義的な要求も加味されていた。社会主義的条項はのちにグレゴール・シュトラッサーら党内左派の主張する社会主義革命の根拠となったが、資本家からの献金による党勢の拡大を重要と考えるヒトラーらは綱領を無視し、反対派を粛清していくことになり、綱領は有名無実化していく。 |
【「国家社会主義ドイツ労働者党の25カ条綱領」(「25カ条綱領 説明・意味・定義」)】 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
「25カ条綱領」は次の通り。
党の指導者は、上記の条項が各人の生活に必要とされるならいつでも徹底的に実行されることを期待する。 |
【党章「鉤十字(ハーケンクロイツ)」の採用】 |
ヒトラーは、ドイツ労働者党の党的能力引き上げに尽力した。ヒトラーの発案で党章の図案が募集され、歯科医クローンの提案した鉤十字(ハーケンクロイツ、Hakenkreuz)に修正を加え、「赤字に白い円、その中に黒い鉤十字」が党章・党旗として制定された。
「ドイツよ目覚めよ」のスローガンと褐色の制服(旧帝国軍のアフリカ派遣軍の軍服がたまたま多く手に入ったため)で整然とした行進を行っていくようになる。 「国家社会主義者として、われわれは、われわれの旗にわれわれの綱領を見る。赤に運動の社会主義思想を、白に国家主義思想を見、ハーケンクロイツにアーリア人の勝利のために戦う使命を見る」(ヒトラー)。 |
【右翼義勇軍エーアハルト海兵旅団の反乱】 |
3.12日、政府から解散を命じられたエーアハルト海軍大尉の指揮する右翼義勇軍エーアハルト海兵旅団がベルリンへ進撃。政府はドレスデンに逃れ、ベルリンでは東プロイセン州総督グォルフガング・カップが新政府を宣言した。共和国政府と労働者団体はゼネストで抵抗し、3.17日、カップと海兵旅団はベルリンから引き揚げた。 |
【ドイツ労働者党がナチス党に党名改称】 |
4.1日、ドイツ労働者党(DAP)が党名を国家社会主義ドイツ労働者党(NSDAP、National Sozialistische Deutsche Arbeiter Partei、通称ナチス、Nazis)と改める。しばしば略称として用いられるナチとは社会党の略称ゾチにあわせたものだが、党員は普通正式名称を用い、省略する場合はNSDAPを用いた。また党員を指す言葉として「国家社会主義者」が使われたが、単に「社会主義者」ということもあり、党員同士に呼びかけるときも同志・党同志などの用語が用いられるなど社会主義的な雰囲気が強かった。 年末には党員はついに3千人まで拡大した。 |
1921年(大正11)年、32歳の時 |
【突撃隊(SA、Sturmabteilung)結成】 |
1.4日、突撃隊(SA、Sturmabteilung)が正式に設立された。マイア大尉の後任エルンスト・レームの支援で軍から指揮官を提供されていたが、その一人で第一次大戦の空の英雄へルマン・ゲーリング元空軍大尉がSA司令官に起用された。ゲーリングは後に帝国元帥にまで昇進しヒトラーのNo.2にのしあがる。
ヒトラーは、党の組織を軍隊風に編成した。「突撃隊(SA)」に手をまっすぐに伸ばす特別な敬礼を教えた。 8月、レームが「体育スポーツ局」を設立。 10月、「体育スポーツ局」(SA)が突撃隊に改称された。当時、左右それぞれが相手側の集会の妨害に執心していたが、突撃隊が左翼勢力との乱闘における主力となっていく。 突撃隊は、ナチス党の準軍事的組織で、ヒトラーの権力掌握に重要な役割を果たした。その制服から「褐色のシャツ」と呼ばれ、後に「黒シャツ」と呼ばれた親衛隊と区別された。 |
【ナチス党内でヒトラーを廻り内紛】 |
6月末、NSDAPでヒトラーを廻って内部抗争が勃発している。党内左派・議長ドレクスラー派が、ヒトラー追い出しの反乱を企図した。ドレクスラーらは南バイエルンにあったドイツ社会主義者党との協調を主張しヒトラーの独裁力が弱まることを期待した。 7.11日、ヒトラーは、いきなり辞任通知を送付した。自分を党第1委員長にし独裁的権限を与えなければ復党しないと宣言した。7.13日、ディートリッヒ・エッカートが和解のための仲裁に乗り出した。7.14日、ドレクスラーは全面降伏した。内容はヒトラーに独裁的権限を与え議長に就任するというものだった。7.26日、ヒトラーは再入党した。党員番号は3680。 7.29日、党特別集会を前にして、ヒトラーは、独裁権をもった第一委員長ポストを要求し、当日出席したミュンヘン支部党員から圧倒的な支持を受ける。 |
【4、ヒトラーがナチス党党首に就任、「ミュンヘン一揆」までの歩み】 |
【ヒトラーがナチス党党首に就任】 |
7.29日、ヒトラーはナチス党の党首となる。ヒトラーは、持ち前の弁舌を駆使し、急速に支持者を増やしていく。このころ幹部となるエルンスト・レーム、ヘルマン・ゲーリング、ハインリヒ・ヒムラー、ルドルフ・ヘス、ヨセフ・ゲッベルスが党に参加してくる。1922年になると党員は3万を擁するようになった。 |
9月、バイエルン首相カールが辞職し、貴族出身で外交官育ちのヒューゴ・グラフ・レルヒェンンフェルト−ケーフェリングが後釜に就任。NSDAP(ナチス)の格好の好餌となった。 |
【ヒトラー率いるナチス党が、反対派の集会に暴力的介入し始める】 |
9月、ヒトラーは仇敵であるバイエルン分離主義者バラーシュタットの開催する演説会をSAを率いて急襲した。バラーシュタットは重傷を負い、ヒトラーはとにかくバラーシュタットの演説は阻止したとして引き上げた。バラーシュタットは直ちにヒトラーを告訴した。 |
【機関紙の創刊】 |
12月、反ユダヤ系新聞週刊紙「ミュンヒェナー・ベオバハター」を買い取り、機関紙「フェルキッシャー・ベオバハター(民族観察者)」として創刊している。ディードリヒ・エッカートが編集長を務め、後にアルフレート・ローゼンベルクに引き継がれる。 これらの政党運営手法は敵である共産党を範としたものであり、ナチ党の無定見な性質を表していると言える。しかし原則にこだわらないこれらの手法により、ナチ党は急進的な泡沫政党から大衆政党へと急成長を遂げていくことになる。 |
1922年(大正12)年、33歳の時 |
1月、ヒトラーに対する公判が開かれ、ヒトラーは3ヶ月間の拘留を宣告された。ヒトラーは1922.6.24日から7.27日までミュンヘンのシュターデルハイム刑務所に実際に収監された。
4.16日、 ラッパロ条約調印。これにより独ソが国交回復した。ラッパロ条約の中味は現在に至るも詳細は不明であるが、参謀本部における打ち合せの段階では、連合軍がライン川を越えて攻勢に出た場合、エルベ川の線で防禦にまわり、赤軍の来着を待つという大胆なものであった、と伝えられている。
ヒトラーが、ケーニッヒプラッツでSAの大デモ行進を成功させる。愛国社会同盟や自由主義同盟の結成に際して中心的な役割を果たした。この頃のヒトラーは後期にみられるような共闘拒否方針でなかった。
6.24日、ユダヤ人外相ラーテナウが暗殺された。
【イタリアのムッソリーニがクーデターを成功させる】 |
10月、ベニート・ムッソリーニ(1883年に生まれ、1920年にファシスト党を組織し「統領」(ドゥーチェ)に就任。ヒトラーよりも年長で先輩格にあたる)が「ローマ進軍」によるクーデターでイタリア史上最年少の39歳で国王から首相に指名されて政権獲得。イタリア国軍はそれを防ごうとしたが、国王が鎮圧を拒否したため、ムッソリーニのファシスト政権が樹立された。 このことがドイツの政局に影響を与え、バイエルンから進軍しベルリン政府を打倒しようという考えに拍車をかけていくことになる。 |
【ドイツのバイエルンに不穏な空気がみなぎり始める。その一、バイエルンの歴史】 |
「アドルフ・ヒトラーその1」を参照する。 統一ドイツ帝国誕生前のドイツでは、皇帝ヴィルヘルム1世、宰相ビスマルクが率いるプロイセンが最強国で、ミュンヘンのあるバイエルン州は、プロイセンに次ぐ王侯国であった。バイエルン国王ルートヴィヒ2世(政治より芸術を好みワーグナーのパトロン、築城に熱中し廃位され謎の水死を遂げた事で知られる)は、1866年の普墺戦争(プロイセン対オーストリア戦争)でオーストリア側に付き敗北している。1870〜71年の普仏戦争(プロイセン対フランス戦争)の際には、どっちつかずなあいまいな政策を取り、結局はプロイセンとの同盟により参戦した。 フランスを破ったプロイセン宰相ビスマルクは、ドイツ統一に慎重なルートヴィヒ2世に圧力をかけ、財政援助を与え、自治権を認める代わりにプロイセン皇帝ヴィルヘルム1世をドイツ帝国皇帝に推戴させる親書をしたためさせた。こうして、1871.1月、ホーヘンツォレルン王朝のプロイセンを主体としたドイツ帝国が成立し、プロイセン皇帝ヴィルヘルム1世がドイツ皇帝に即位する。即位式は占領下のフランス・ヴェルサイユ宮殿で行われた。 バイエルンはドイツ帝国に編入されたが、ヴィッテルスバッハ王朝の国王を擁し高度の自治権を持っていた。第1次大戦の末期にドイツ帝国の敗色が濃くなると、バイエルンの指導者は、連合国との単独講和を図っている。1918.11月、ベルリンより先に革命が発生し、国王ルートヴィヒ3世は退位させられた。独立社会民主党(左翼系)のクルト・アイスナーが共和国を宣言した。バイエルン州、プロイセン州などはワイマール体制下でも独自の行政、司法権を持ちさらに軍隊も保持していた。 1919.2月、アイスナーは右派貴族に暗殺され、アドルフ・ホフマンを首相にレーテ(労働者兵士農民評議会・ロシア語のソビエト)と社会民主党の左翼連立政権が出来た。 4.6日、右派のバイエルン議会とレーテの対立からホフマン内閣が崩れ、ホフマンは北部のバムベルクで名目上の政府を維持した。 4.7日、独立社会民主党とレーテの政権が出来(「バイエルン・レーテ共和国」)、マルクス主義共産党は反対勢力になる。 4.13日、右派トゥーレ協会がレーテにクーデターをしかけ、これを武装を整えていたマルクス主義共産党が鎮圧し、「レーテ共和国」を宣言。武装組織、労働者赤衛軍を組織した。 ホフマンはこれを鎮圧しようとするがバムベルク政府軍は赤衛軍との戦闘に気が乗らず。赤衛軍は南バイエルンに進出した。ホフマンは中央政府の援軍を要請する。ベルリンの国防大臣ノスケはフォン・エップ大佐に志願兵部隊を編制させ、バイエルンの境界の北チューリンゲンでトゥーレ協会の助力で訓練をしていた。この部隊にはレームも参加している。 中央政府軍、エップ志願兵部隊、バイエイルン西の州ヴュルテムベルクの部隊は5月1日ミュンヘンを包囲、市街戦のすえ4日占領した。この際市民に多数の犠牲者が出た。 5.1日、モスクワのメーデーでソ連のレーニンは「ソビエト・バイエルン」の万歳を叫んだが、マルクス主義共産党政権は短命で壊滅した。バイエルン州には反動から、より右翼的な気運が広がった。 このような歴史的背景、当時の事情から、バイエルン州には反中央政府の気運が満ちていた。 |
【ドイツのバイエルンに不穏な空気がみなぎり始める。その一、バイエルンの反政府運動】 |
バイエルンは、ラテナウやエルツバーガーの暗殺者の根拠地となり、ベルリン政府が座視できないところまでに右翼急進化していた。暗殺事件に対抗してベルリンのウィルト政府は反テロリズム法を施行しようとするが、バイエルンのレルヒェンフェルト政府はこの施行を延期してしまう。 ベルリン政府の圧力が強まるなかでクーデター計画がバイエルン政府、軍、擬似軍事団体の間で練られて行った。擬似軍事団体で有力なのはBund Bayern und Reich(バイエルン帝国同盟)で、これはピッティンガーとレームの指導下にあった。そして政党軍事団体としてはSAが最大で、すでにバイエルンではクーデター勢力としてナチスが最大の潜在勢力を占めるに至っていた。 11月、バイエルンのレルヒェンフェルト首相は辞職、クニリングが代わって地位についた。同時にバイエルン南部では右翼団体の統一組織として愛国社会同盟が結成され、北部ではドイツ民族自由主義同盟が作られた。そしてバイエルンに移住したル−デンドルフが両者をとりもった。 これに対する理論的意思統一なきまま事態は「ミュンヘン一揆」へと進行して行く。「1922年、秋の政変」と云われる。 |
1923年(大正13)年、34歳の時 |
【フランスがルール地方占領】 |
1.11日、 フランスとベルギーはイギリスの反対を押しきり、ドイツがヴェルサイユ条約の賠償の支払いに応じないことを理由にして、ドイツのルール地方を占領した。「2年以内に200億、21年までに1,320億マルク」を口実に、ルール工業地帯の工場を接収し炭坑から石炭を持ち去り、公金、企業の労賃を差し押さえた。 ルール占領に対して、ヴィルヘルム・クーノ首相ら共和国政府は武力によらない「消極的抵抗」を指示した。しかし、ドイツ人民大衆は、公務員に占領軍への服従を禁じ、ルール地方では労働者がゼネストで対抗した。労働者のデモ隊とフランス軍が衝突し死傷者が出た。NSDAP党員アルベルト・シュラーゲターは鉄道の破壊工作を行い実力で占領に抵抗したが、逮捕されフランス軍事法廷で銃殺された。NSDAPは、抵抗の英雄と称賛していった。 生産の中心地帯のストはドイツ国内経済にも打撃を与え、ストで蒙った経済的損失をドイツ政府は各人に補償したため、ヴェルサイユ条約賠償金の支払と併せてインフレは高進し、マルク紙幣の価値は暴落した。8月のマルクの対ドル・レートは1ドル=110万マルクだったが、11月には1300億マルクとなる。1日換算ではマルクの価値はその日の内に1000分の1になることになる。消極的抵抗方針を採った為ワイマール共和国は難しい立場に立たされた。 大統領のエーベルトは<事実上ゼークトによる政権樹立を依頼したが、ゼークトは軍の政治にたいする中立・独立というドイツ参謀本部の伝統に従いこれを拒否、左右両翼にたいする弾圧強化を進言した。しかし政治不関与とするにはあまりにもドイツをとりまく情勢は厳しく参謀本部(統帥部隊務局)の政治担当としてシュライヒャーを重用するに至った。 |
【共産党の対応】 |
共産党は、社会民主党とフランス双方を激しく批判した。ところが共和国の中枢をなす社会民主党はマルクス主義政党だから外交方針=軍事方針を保有しない。相手に強制されたものを除いて、全方位外交を言うにすぎなかった。ところが、ゼークトのソ連政策が社会民主党の全方位外交に合致するものだった。ところがその軍事的側面については社会民主党は理解を拒絶した。 |
【ヒトラーの「臥薪嘗胆」的対応】 | ||
ヒトラーは、フランスのルール占領に対し「臥薪嘗胆」方針を呼びかけた。ヒトラーの5.4日付演説は次の通りである。
ヒトラーは、フランス帝国主義の強権政策とそれに引き換えドイツのワイマール共和国政府の弱腰政策を鮮やかに対比的に浮き彫りさせている。しかし、即時的な抵抗を組織するのでは無く、「来る日」に備え、強いドイツ作りへの一路邁進を指針させていた。 このヒトラーの主張は、当時の国防軍と共産党のそれとハーモニーした。ワイマール共和国国防軍の参謀総長にしてワイマール共和国の影の支配者にして「ヒトラーのミュンヘン一揆と共産党のチューリンゲン蜂起鎮圧の最高責任者」・ゼークトは、フランス軍と交戦しようにもベルサイユ体制下の10万人では戦えず、戦時動員のための予備兵力として国家主義政党の擬似軍事団体に期待した。バイエルンで最大のSAを率いるヒトラーと国防軍の腹の探り合いが始まった。これがミュンヘン一揆までのバイエルンの政治基調となる。他方で同盟国としてソ連に期待した。 |
【ヒトラーと国防軍総帥ゼークトが初会談】 |
3月、レームの紹介でヒトラーとゼークトの初会談。ナチス党指導者のヒトラーと国防軍の最高指揮官ゼークトの見解の摺り合わせが為されたが、フランスのルール占領への対抗策、国際情勢観等々で平行線を辿った。この会談のあと、ゼークトは妻に「二人の目指している方向は一緒だ。ただ取ろうとしている道が違う」と語った、と伝えられている。この4時間の会談は二人だけで行われ、余人を交えなかった為、真相は分からない。ハンフステーングルによると、ヒトラーにたいしゼークトは最後に「これでお互いにこれ以上話すことはなさそうですね」と言った、と伝えられている。 ちなみに、ゼークトは、「戦争は他の手段による政治の継続である、という言葉は現在では公理となっている。それゆえにこれは危険である。次のこともこれと同じくらい正しいのだ。戦争は政治の破産である」との名言を残している。 |
【1923年メーデーを廻る左右両翼の動き】 |
5.1日、ミュンヘンの1923年のメーデーは左右両翼の激しい対立が予想された。この日は労働者の祭典だが、ミュンヘンの国粋団体(フェルキッシュ団体)にとっては、ミュンヘン革命を打倒した記念日だった。前日、ヒトラー、レーム、ゲーリング、ウェーバー、クリーベルらによって、労働者の集会参加者を襲撃することが決められた。 メーデー当日、SAを中心とする擬似軍事組織は続々と北部のオーベルビーゼンフェルトに集合した。レームは司令官を無視して軍の武器庫を開放し小銃と機関銃が配られた。レームはロッソウの支持を得るべく朝から交渉に臨んだ。 ロッソウの態度は硬かった。昼過ぎ、レームは国防軍の1個分隊に護衛されながら、ヒトラーと面会し、軍の協力を得ることは不可能だと告げた。ウェーバー、シュトラッサーらはあくまで武装を続けることを主張したがヒトラーは最後に折れた。武器はそのまま武器庫に返却された。左翼のデモも無事終了した。これはヒトラーにとり重大な政治的打撃だった。夜、サーカスクローネで行われた演説会では全く精彩を欠いていたという。 |
5.5日、連合国側が、賠償金1320億金マルクの支払計画受諾をドイツに要求。マルクはがた落ちになり、ドイツはデフォルト(債務不履行)を宣言する。
【ヒトラーの山篭り】 |
6月−7月、ヒトラーはこの打撃からなかなか立ち直れず、ベルヒテスガデンのホテルに引きこもった。ヒトラーはその後も困ったときの山ごもりを繰り返す。この間ヒトラーを訴追する動き、またレームのバイロイトへの異動をめぐった動きがあったがいずれもバイエルン政府とりわけフランツ・ギュルトナー法相の宥和的態度により救われた。 |
【3人組(カール、ロッソウ、警察長官・ザイサー)の台頭】 |
8.11日、フランスのルール占領が続くなか、社会民主党はクーノ政権に見切りをつけ、シュトレーゼマンが首班に指名された。シュトレーゼマンは翌月クーノのとったフランスのルール占領策に対抗する消極的対抗をとりやめ賠償の支払いを再開した。 これにたいしバイエルン政府が過激な反応を行った。全権をバイエルン独立の旗手カールに与えるとともに軍司令官のロッソウはベルリンの要求した辞任を拒んだ。そして場合によってはベルリンの犯罪者を滅ぼすため、進軍すると呼号し始めた。 |
【ヒトラー、3人組と共闘】 |
ヒトラーはこの時、他の擬似軍事団体と強調方針をとった。そして未だバイエルン国防軍の擬似軍事団体を担当していたレームの助力もあって。SAをドイツ戦闘同盟に加入させることに同意し、その政治的リーダーとして指名された。 ヒトラーは原則として軍と警察の支持を受けるすなわち少なくともバイエルンの内務省を抑えねば、暴力による権力奪取は成功しないとみていた。この時NSDAPにいてヒトラーの側近だったショイブナー・リヒターも9.24日、ドイツ戦闘同盟の行動計画を起草にあたり、それを明記している。しかしヒトラーはこれまで直接行動を訴えており、このような混乱のなかで決起を否定することは最早不可能だった。一方3人組は、違うことを考えていた。まず国防軍の支持を得て、ベルリンに右翼政権を樹立しその支持のもとでバイエルンを独立させようというものだった。 このころナチ党はミュンヘンを中心に党員数3万5千人で、バイエルン州では有数の政党になっていた。もともとバイエルン州は伝統的に独立志向が強く反ベルリンの空気があった。 |
【ドイツ共産党がハンブルクで武装蜂起】 |
以前の武装蜂起の立役者ラデックを召還しトロツキーの主導下、再度武装蜂起を追求し世界革命の端緒とすることが決められた。共産党党首ブラントラーもモスクワで11月中旬蜂起を誓った。 10.20日、ゼークト参謀本部の動きは更に速く、国防軍をザクセンに出動させることを決定した。これに驚いたブラントラーは10.21日、ザクセンとチューリンゲンでゼネストを指令した。しかし国防軍は月末までにザクセンの中心都市ドレスデンを占領し、共産党員の捕縛を開始した。 |
【3人組が「ベルリン進撃」呼びかける】 |
10.24日、ロッソウは擬似軍事団体のリーダーに「ベルリンに進撃しよう。」と呼びかけた。ゼイサーは11.3日、ベルリンでゼークトと協議を重ねた。ゼークトの回答は単純なものだった。「いかなる暴力的政府転覆の企てにも国防軍は反対する。」と。ロッソウはヒトラーと会見し直接行動は2・3週間待つように申し入れた。3人組はベルリンの強硬姿勢にトーンダウンを開始していた。 11.6日、ヒトラーはクリーベル(Kampfbundのリーダー)、ウェーバー(Bund Oberlandのリーダー)、ショイブナー・リヒター、ゲーリングと謀り、11.8日、ビュールゲルブロイケラーで開かれる3人組みの演説会に介入し決起することを決めた。 |
【5、「ミュンヘン一揆」からナチス党再建までの歩み】 |
【ミュンヘン一揆】 |
11.8日、ヒトラーが右翼的なミュンヘンのバイエルン政府の主導権奪取を決意。革命5周年に当たるこの日、党勢を拡大したナチ党は、バイエルン総督カールらをまきこんで軍部のルーデンドルフ等と共にミュンヒェンで政権獲得を目指してクーデターを起こす(「ミュンヘン一揆」)。 午後8時半、バイエルン州政府幹部がビアホール・ビュールゲルブロイケラーでのバイエルン国記念集会を開催し、州総督フォン・カールの演説中、ヒトラーが先頭にたった突撃隊が現れた。機関銃をホールの真ん中に据え付け、ヒトラーはいきなり長椅子に立ち、ブローニング軍用拳銃を天井に発射し、「国民革命が宣言された云々」と叫んだ。 ヒトラーは、ヒトラーをドイツの首班、バイエルン摂政にカール、ドイツ警察大臣にフォン・ザイサー(バイエルン警察大臣)、ドイツ国防大臣にフォン・ロッソウ(バイエルン国防軍司令官、ベルリン政府からは罷免されたが地位に留まっていた)、ドイツ国防軍を第1次大戦の英雄ルーデンドルフ将軍が指揮するという「国民政府」計画に賛同させ、クーデターはいったん成功する。そこにいた観衆は快哉を叫んだ。午後9時半ちょうど1時間後、ヒトラーは3人組とルーデンドルフと互いに握手し成功を祝った。 ヒトラーはそこにいた3人組を別室によび協力を要請し、3人組は協力を約束した。 ヒトラーはホールに戻り、革命の目的は3人組と対決することではなく、ベルリンに巣食うユダヤ人政府と11月の犯罪者に向けられたものだと説明した。ヒトラーは、カールやロッソウが計画していたものの実行に躊躇していた「ベルリン進撃」を実行させようとする。このためクーデターは3人の協力を必要とした。カールらはバイエルンの独立派だったが、ヒトラーは独立には反対していた。ベルリンでは中央党グスタフ・シュトレーゼマン首相がマルク安定を優先し、ルール地方の占領に対しての抵抗を中止しておりカールや右翼から批判されていた。 外ではレームが一隊を率いて、バイエルン陸軍省を占拠していた。また、エッサーに率いられたいた一隊はレーベンブラオケラーに集合して待機していた。しかしヒトラーの成功はここまでだった。午後10時、工兵隊が抵抗の様子を示しているという報告をうけ、ヒトラーは自ら説得に出向いた。その間にルーデンドルフは、「紳士の約束を信じて」3人組にビュールゲルブロイケラーからの帰宅を許す。 そこからの方針は決まっていなかった。ルーデンドルフ将軍は占拠している陸軍省までデモをかけたらどうかと提案した。これは国防軍がルーデンドルフに発砲することはなく、また国防軍と右翼擬似軍事団体の関係を考えれば味方になるとの判断に基づいていた。 |
【ヒトラー逮捕、ナチス党解散させられる】 |
11.11日、ヒトラーは逮捕され、ランズベルク刑務所に投獄される。ルーデンドルフも逮捕され、ゲーリングはオーストリアへ逃亡した。 |
11.15日、ドイツ、レンテンマルク発行開始 (→インフレ収束)。
1924年(大正14)年、35歳の時 |
【「ヒトラー裁判」】 |
2月、ミュンヘン国民法廷がミュンヘン陸軍士官学校で開かれ、ヒトラーの裁判が始まる。この時の裁判で、ヒトラーは意表を衝く対応を見せた。3人組(カール、ロッソウ、警察長官・ザイサー)が、一揆の責任から免れようとしてヒトラーに責任転嫁させる論を主張していたのを逆手にとり、全責任は自分にあると堂々と認めた上で「ミュンヘン一揆」は国家を救うため愛国心から行ったものであると革命的正当性を陳述した。ドイツ国民がヒトラーを裁判の途中から英雄視し始めた。 ミュンヘン一揆の失敗により、ヒトラーの政治生命は断たれたかに思われたが、ヒトラーはこの法廷弁術によりヒトラーの名がさらに広く知られることになる。ヒトラーは法廷を自己宣伝の舞台として利用し、この裁判の過程で、「十一月の犯罪者」、「ユダヤ人の政府」、「臆病と腐敗のベルリン体制」、「エーベルト化され堕落したドイツ」、「ベルリン中央政府は国民への裏切り者」などと述べ続け、政治宣伝を行った。 結果、ヒトラーの名声が高まり、逆にカールらの大衆への人気が凋落した。ルーデンドルフ、カップ、エアハルトと誰もが越えられなかった挫折の壁をヒトラーだけは乗り越えることができた。ヒトラーはこれまでバイエルンの地域政治家だった。それがミュンヘン一揆以降は自然に全国政治家となった。結果的に、「ミュンヘン一揆」の敗北は「災い転じて福」となった。 ヒトラーは後日(1934年11月8日、ミュンヘン)次のように述べている。「カップ一揆の公判で責任者は全て政治的責任から免れようとして何も関与せず、何も知らないと述べた。これがブルジョワ世界を破壊した。彼らは自分の行動が正しいという勇気に欠けていた。自分たちはワイマール共和国を粉砕するつもりだった、と公言する勇気に欠けていた。成功、失敗が決定的ではない。結果について責任をとる勇気と英雄精神が必要なのだ。」 ヒトラーの法廷陳述は次の通り。概要「ミュンヘン一揆における指導者(少なくとも軍事的指導者)はルーデンドルフであり、私自身はドラマーに過ぎない」、「もし今日私が革命家として裁かれるとするならば、それはドイツ革命にたいする反革命としてである。1918.11月の犯罪者にたいして国家反逆などありようはずがない。一揆のさい、国家反逆を考えたこともなかった。そして、もしそうだとするなら一緒の席にいたものがどうして裁かれないのか?もし国家反逆を企てていたとするなら数え切れない人々が考えていた。私自身はドイツ人民に最良ことを望む、最良の人間だと感じていた」。 ヒトラーは結審の前に裁判長にワイマール共和国法の枠内で革命を実行すると発言した。史実、その後の足取りは合法的権力獲得闘争に向うことになる。 |
[ミュンヘン一揆裁判決下される]
4.1日、ミュンヘン北部の旧歩兵学校(下士官訓練所・その時は小学校)の校舎で「ミュンヘン一揆」の首謀者・ヒトラー、ペルネ、ウェーバー、フリック、クリーベル、ルーデンドルフ、ブリュクナー、レームらに判決が言い渡された。ヒトラー、ウェーバー、クリーベル、ペーナーは国家反逆罪により5年の禁固(未決拘留4ヶ月と2週間を算入、罰金200金マルク)、ルーデンドルフは無罪の判決が言い渡された。 |
[ヒトラー服役]
ヒトラーは5年の禁固刑に処され、ミュンヘン郊外南部のランズベルク刑務所の収容された。ヒトラーは囚人とは思えないような好待遇を受けて過ごす。 |
[ヒトラー強制送還の動き]
その後、オーストリア国籍のヒトラーのオーストリアへの強制送還を廻って争いが起こっている。警官4人(全員元兵士と言う)が殺されたミュンヘン警察当局はヒトラーの拘禁延長及びオーストリアによる執行猶予期間中の身柄引き受けをあくまで追求した。ヒトラーの弁護士は、刑務所内の行動が善良であることを理由に裁判所に執行猶予の嘆願を提出している。警察=検察(検察官シュテングライン)は、この動きに反対し更に執行猶予があればオーストリアに強制送還すべきだと主張した。オーストリア地方法務局はオーストリア国籍のヒトラーの身柄を引き受けることを約諾していた。ところが1924年5月、オーストリア首相ゼイペルが突然介入、オーストリア軍に従軍せず、ドイツ軍に従軍したヒトラーは受け入れられないと回答した。バイエルン行政当局はこの件で閣議も分裂したが、オーストリアが受け入れない以上、送還は不可能となった。 |
【ヒトラーが「我が闘争」を口述執筆 】 |
ヒトラーは既に著名人となっていて、独房の鍵はかけられず、訪問者との面会も自由という特別待遇を受けた。差入れの本も自由でヒトラーは少なくとも1日2冊の本を読んだという。(ヒトラーは第2次大戦末期に至るまで1日1冊の読書を日課としていた) 獄中でヒトラーは著書「我が闘争(Mein Kampf)」の執筆をしている。口述筆記で、供に投獄されていた側近のルドルフ・ヘスがタイプライターでタイプした。「我が闘争(Mein Kampf)」の内容については、「」で論ずることにする。 |
【ナチス党左派・グレゴール・シュトラッサーが一足早い活動開始】 |
この間、党内左派の中心人物で、ヒトラーとしばしば衝突したナチス党第二の実力者グレゴール・シュトラッサー(Gregor Strasser)は党首ヒトラーより先に出獄して元党員を組織した。次第に党内左派の実力者として台頭、北部の党組織をまとめ上げる。また、その秘書で後にナチ党のプロパガンダを担当するヨーゼフ・ゲッベルスはこのころ活動を始めている。 |
8.29日、ドイツ議会、ドーズ案を承認 (賠償金支払い問題)。アメリカのドーズを長とする委員会が1924年に採択された「支払い期限の延長とアメリカ資本の導入」を骨子とするドーズ案。このドーズ案によってアメリカから支援を受け、見返りに賠償の支払いを開始する。
12月、ナチス党は国会選挙で大敗した。ミュンヘン当局は安堵感に打たれヒトラーを釈放することに決定した。
【ヒトラー釈放され、すぐさま活動開始】 |
12.20日、禁錮5年刑を宣告されていたが僅か9ヶ月で釈放される。写真家のホフマンと印刷所のミュラーがベンツをかって出迎えた。1時間半後、ヒトラーはティエルシュ街のアパートに到着した。昨年の11月8日、家をあけ翌年のクリスマスの前に戻れたことになる。愛犬のアルザス種のシェパード、ブロンディだけが待っていた。そして部屋のなかは全国から郵送された同情の品物で埋まっていた。 出獄後、ヒトラーはすぐさまナチス党再建運動に乗り出す。ミュンヘン一揆のヒトラー自身の発言では、ドイツの指導者(少なくとも軍事的指導者)はルーデンドルフでありヒトラー自身はドラマーに過ぎないとしたが、出所後は独裁を要求する総統(フューラー)の地位を要求するようになった。ルーデンドルフとの関係は急速に悪化して行く。 |
この後は、「ナチス党再建から第三帝国誕生に至るまで」
(私論.私見)