2期 | 第一次世界大戦とドイツ軍兵役時代 |
(最新見直し日2005.6.21日)
この前は、「誕生、幼少、青年期」
(れんだいこのショートメッセージ) |
1914.6.28日、サラエボ事件 (オーストリアの皇位継承者である皇太子夫妻暗殺事件)発生。7.5日、ドイツが、オーストリアの対セルビア強硬策支持を約束。 |
【この頃のドイツ】 |
ドイツ(独逸)は、962年から1806年まで神聖ローマ帝国(第1帝国)の主要部を構成したが、多くの領邦国家が分立していた。 1871(明治4)年にバルト海南岸に臨む、ウィスラ川下流域からネマン川下流域に至る地方のプロイセンを中心として22の君主国と3つの自由市の統一により連邦国家ドイツ帝国を建設した。 プロイセン王を皇帝として、首相のビスマルク(Otto von Bismarck 1815〜1898)が近代国家ドイツ帝国(第2帝国=ビスマルク・ドイツ帝国)の礎石を敷いた。ビスマルクは、社会主義を弾圧する一方、社会保険制度を採り入れ、いわゆる「飴(あめ)と鞭(むち)」政策を遂行し、「鉄血〔兵器と人血〕宰相」といわれた。 |
【第一次世界大戦勃発】 |
7.28日、オーストリア、セルビアに宣戦布告、第一次世界大戦が勃発。
8.1日、オーストリアと同盟するドイツ皇帝ヴィルヘルム2世がロシア、フランスに宣戦布告、動員令を発令する。ヒトラーはこの時、ミュンヘン・オデオン広場での政府支持を叫ぶ群衆に正装で加わる(ハインリッヒ・ホフマンが撮影した写真が残っている)。その二日後、ヒトラーはドイツ軍に志願し入隊する。 8.3日、ドイツ、ベルギーへの侵入開始 (対仏宣戦布告)。8.4日、 イギリス、ドイツに宣戦布告。8.23日、対独参戦 (宣戦布告)。8.26日、 タンネンベルクの戦い (〜08/30)。9.5日、英仏露3国、ロンドンで単独不講和を宣言。9.5日、 マルヌの戦い (〜09/12/西部戦線膠着)。 |
【「ラーテナウの予言」】 | |
フリーメーソンの一員で、第一次世界大戦後にドイツ外相になり暗殺されるという履歴を見せるラーテナウは、第一次世界大戦勃発に際して次の如く予言した。
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【2、第一次世界大戦にドイツ軍に従軍、その兵役時代】 |
【ヒトラーがドイツ帝国軍人志願】 |
ヒトラーはオーストリアの兵役は拒否したが、ドイツ帝国の兵役には進んで志願し、バイエルン国王・ルードヴィヒ3世に手紙を書き、「国民と国家のために、いつでも死ぬ覚悟をしております」と認め、オーストリア国籍のままドイツ帝国陸軍に志願する。 晴れてドイツ軍の兵士となったヒトラーは、ドイツ陸軍第1バイエルン歩兵連隊に配属される。9週間におよぶ厳しい訓練を経て、第16予備歩兵連隊に配属される。 10月、イギリス、ベルギー軍と戦火を交えている西部戦線のフランドルに向かう。こうして 第1次世界大戦に従軍する。ヒトラーは伝令兵として勇敢に戦闘に参加、伝令兵は砲撃で電話線が切断されると、塹壕を回って命令を伝える危険度の高い任務であった。 12月、上官のヴィーデマン中尉とマックス・アマン軍曹の推薦で鉄十字功第2級勲章を授与される。伍長に昇進。クリスマスに部隊でただ一人家族から何も送られてこない彼に同情した戦友たちが募金した10マルク金貨を贈られるが固辞している。 |
1915年(大正4)年、26歳の時 |
連隊本部伝令兵。
1916年(大正5)年、27歳の時 |
10月、フランス北部ソンムにおいて砲撃で吹き飛ばされ足を負傷、ヴィーデマン中尉に救助されれる。野戦病院に入院、後ベルリンの病院に移送される。ヴィーデマン大尉(昇進していた)に原隊復帰希望の書簡を送る。
1917年(大正6)年、28歳の時 |
3.15日、 ロシア二月革命 (皇帝ニコライ2世退位、ロマノフ朝滅亡)。4.6日、アメリカ、対独参戦。
3月、バイエルン第16歩兵連隊に復帰。春季攻勢準備のためアラスに移動。
7月、イープルでの戦闘に参加。敵兵を何人も捕虜にする等勇敢な戦いを認められる。
11.7日、ロシア十月革命 (ソビエト政権成立)。
1918年(大正7)年、29歳の時 |
3.3日、ブレストリトフスク条約調印 (ソビエト政府、独墺と講和)。
5月、連隊賞状を受ける。
6月、マルヌの戦いで、伝令の途中フランス兵4人を捕虜にする。
8.4日、ヒトラーは、一般兵士(歩兵)としては異例な栄誉ある第一等鉄十字勲章を授与された。この勲章は通常、将校にしか与えられないものでヒトラーの階級(伍長勤務上等兵)での受賞は異例の栄誉であった。終生彼はこの勲章を大事にし、勲章を佩用する機会があるときは終生この勲章のみを左胸に佩用した。
しかし昇進は伍長までに留まり、当時の上官はその理由として協調性の不足をあげている。ドイツ国籍を持っていなかった為という説もある。
10.14日、塹壕でイギリス軍の毒ガス攻撃を受け、一時的に失明し、パーゼヴァルクの陸軍病院入院。1ヶ月近く失明状態が続く。
11.3日、戦況の悪化とロシア革命の影響のもとで、ドイツに革命が起る。ドイツ・キール軍港の水兵反乱。この反乱を契機に、労働者の蜂起が起こり、11.9日、 ドイツ11月革命。多数派社会民主党のエーベルトが臨時政権を樹立して、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世や諸王侯を追放、第2帝国は崩壊する(ドイツ「11月革命」)。11.10日、 皇帝ヴィルヘルム2世が退位、オランダに亡命、休戦。
【ドイツ側の敗北で、第一次世界大戦終結】 |
11.11日、第一次世界大戦終結。事実上ドイツとオーストリア・ハンガリーの同盟国側が敗北で大戦終結。オーストリア・ハンガリー帝国も皇帝カール1世が退位、亡命。600年を超えるハプスブルク帝政が終わった。 |
【ドイツの敗因について】 | |||||
第1次大戦では国民は肉親を失い物資や食料の不足に苦しんだが、ドイツ本土は戦場にならず、そのためドイツ軍はなお戦闘力を持っていたこともあり戦闘での敗戦意識が希薄であった。終戦後、フォン・ヒンデンブルグ元帥(参謀総長・タンネンベルグ戦でルーデンドルフ将軍と共にロシア軍に大勝、後の大統領)は、次のように語った。
ドイツ国内には、「背後の裏切り」によってドイツが負け、国内のユダヤ人が背後からナイフで突き刺したためであるとする観念「背後からの一突き(Dolchstoss)」論が広まった。その裏切り者としてユダヤ人や共産主義者が挙げられていた。(この方面の研究はもっと為されないといけないと思われる)。 フリードリツヒ・フライシャー中佐は、第一次世界大戦に於けるドイツの敗因について次のように述べている。
ルーデンドルフ将軍は、次のように述べている。
この「証言」に対し、次のように反論ならぬ反論が為されている。
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【ドイツの第一次世界大戦敗戦がヒトラーに与えた影響】 |
ヒトラーは、終戦の知らせを聞いたときは毒ガスによる負傷で野戦病院におり、視力は間もなく回復したものの、喉の負傷による声の変化は戻らなかったため後の演説にみられる独特の野太い声になった。「我が闘争」によれば、このときヒトラーは敗北の屈辱に震え、祖国の誇りを取り戻すために政治家を目指すようになったという。 |
1919年(大正8)年、30歳の時 |
【ドイツ労働者党結成される】 |
1.5日、バイエルン州都ミュンヒェンで、錠前師アントン・ドレグズラーとスポーツジャーナリストのカール・ハラーによって「ドイツ労働者党(ナチス)」が結成された。 結成当初は第一次世界大戦におけるドイツ帝国の敗北とそれにともなう革命に紛然とする世相に乗じた、わずか40名程度の泡沫政党に過ぎなかった。その母体であったトゥーレ協会の会員には、ナチ党初期のイデオローグとして活躍したアルフレート・ローゼンベルク、ディートリヒ・エッカートや、のちに副総統となるルドルフ・ヘスなどがおり、協会の異教的神秘主義・反ユダヤ主義はナチ党の思想に大きな影響を与えた。 |
【ベルサイユ条約締結される】 | ||||||||
敗北したドイツは帝政が崩壊し、混乱を極めた。
1.18日、パリ講和会議開催 (〜06/28/首席全権:西園寺公望)。6.28日、ドイツ代表団がパリのヴェルサイユ宮殿『鏡の間』でベルサイユ条約調印 (北京政府、調印拒否)。 ベルサイユ条約は、敗戦国としてのドイツに対する懲罰的過酷かつ屈辱的な内容を盛っており、これが後のナチス台頭の一因となり、さらには第二次世界大戦の遠因ともなった。主な内容は次の通り。
ベルサイユ条約の結果、ドイツは、軍備の禁止、領土の喪失、巨額の賠償金請求という当時の意識における「三重苦」を受け、このことが多くのドイツ人を屈辱として受け取らせた。 ドイツ政府はアメリカ大統領ウッドロー・ウィルソンの14カ条の休戦提議により休戦交渉を行ったが、ヨーロッパの連合国は、ドイツに対しより懲罰的なヴェルサイユ条約の受託を要求した。特に国内が戦場となり150万の死者を出したフランスは、ウィルソンの無賠償主義に対し事実上支払い不能な多額の賠償金の取り立て、ドイツに対し一方的な軍備の制限を要求。さらに、戦争責任をドイツの侵略行為にすべて負わせ、皇帝ら戦争犯罪者を連合国の法廷に引き渡すことを要求、承認させた(前皇帝は亡命しており、引き渡しは実際には行われなかった)。 戦争を犯罪と規定する国際法は例がなかったが、ドイツは連合国との交渉の余地は与えられず、国民は屈辱感から共和国の政治家「11月の犯罪者」への攻撃と、反ユダヤ主義になびいた。ヴェルサイユ条約に署名したマティアス・エルツベルガーをはじめ独立社会民主党党首ハーゼ、元外相ヴァルター・ラーテナウらが条約への協力派と見られ相次いで暗殺されることになる。 |
【ワイマール共和国の誕生】 |
ヴァイマル・ライヒ憲法が、フーゴ・プロイスによって起草され、7.31日、ドイツ中部、チューリンゲン州の小都市のワイマール(18・19世紀にヘルダー・ゲーテ・シラーらの文化人が集まり、ドイツ精神文化の中心となった)で、国民議会が開かれ、ヴェルサイユ条約を受諾してドイツの国際的地位を確定するとともに、フーゴ・プロイス草案を修正のうえ全文181条からなる新憲法「ヴァイマ−ル憲法」(Weimarer
Reichsverfassung、略称WRV)を制定した。8.14日、公布・施行。これにより共和制に基礎を置くヴァイマ−ル共和国が誕生した。 小党濫立の機能麻痺に陥ったため危機を招き、フリードリヒ・エーベルト大統領のあとを継いだヒンデンブルク政権では不信が進み、大恐慌となると大統領制となり、ナチスの台頭をもたらすこととなった。現在のボン基本法は、不信任は建設的でなければならないなどヴァイマル憲法の反省の上に立っている。
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この後は、「ナチス党入党からミュンヘン一揆失敗まで」
(私論.私見)