1期 | 誕生、幼少、青年期 |
(最新見直し2006.4.25日)
(れんだいこのショートメッセージ) |
【誕生】 | |||
1889(明治22).4.20日、ヒトラーが、ドイツババリア地方との国境付近オーストリア北部の辺境ブラウナウ市(Braunau
Am Inn)に生まれる。父アロイス・ヒトラー(Alois・Hitler)、母クララ・ヒトラー。父アロイスが3度目の結婚で52歳のときに4人目に生まれた子であった。母の異なる兄アロイス2世と姉アンゲラがいた。「我が闘争」には次のように記されている。
父アロイスは、1837.6月にシュトローネスでアンナ・シックルグルーバーの私生児として生まれ、父親は確定されていない。このため後にヒトラーにはユダヤ人の血が流れているとの説を生むことになる。 ヒットラーの父方の祖父についても注目すべき見解がある。
父アロイスは学歴が無かったが勉学に励み出世を重ね、1875年からオーストリア・ハンガリー帝国の税関吏を務めており、家計は豊かだった。下層階級の出身から身を起こし立身出世を遂げた努力家であったことになる。1876年、アロイスは育ての親ネポムク・ヒードラーに一族の子として認知されたのを機に、シックルグルーバー姓をヒトラー姓に変える。 母クララは1860.8月生まれ。1885年、アロイスの三番目の妻となった。夫より24歳も若く読書好きな知的な女性であった。クララはアドルフを含めて6人の子を産んでいるがアドルフ、妹パウラ(Paula、1960年死去)の2人だけが成年に達した。 |
【ヒトラーの家系図】 |
ヒトラーの家系図は次の通り(「ホロコーストをめぐる戦い 【田中宇】 」より転載)。 |
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【幼年期】 |
1892年、3歳の時、父親の昇進により一家はドイツのパッサウ(パウサ)に移る。 1894年、弟エドムント(Edmund)が生まれる(1900年に死去)。 1895年、オーストリア、リンツ近郊のハーフェルトヘ移り、アドルフはリンツのフィシュルハム小学校に入学、成績は優秀だった。 1886年、妹パウラが生まれる。6歳の時、ハーフェルトに転居。 1895(明治28)年、フィシュルハムの公立小学校に入学。 1897年、ラムバッハに移る。転居・転校。 1898年、レオンディングに移る。 やがて、父は引退して年金生活開始するが、権威的な父とともに、最愛の母クララ、前妻の二人の兄と姉、そして弟、妹に囲まれてアドルフは賑やかでまた落ち着かない生活をする。 |
【少年期】 | |
1900(明治33)年、11歳の時、6月、小学校卒業。役人の職に就けたかった父親の反対を押しきり、リンツ上級実科(技術)学校に進学。「我が闘争」には次のように記されている。
少年時代のヒトラーは成績優秀とも不良とも云われており定かではない。不良派は、「二回の落第と転校を経験した劣等生であり、リンツの実業学校の担任の所見では『非常な才能を持っているものの直感に頼り、努力が足りない』と評されている」と記している。 少年期を向えやや内向的になり、「草木が唯一の友人」という孤独時代を過ごしたようである。ヒトラーは、「英雄は挫折と不遇の時代を送る」と後に弁明している。 |
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1901(明治34)年、12歳の時、「我が闘争」には次のように記されている。
そういうこともあってか、1901年から1902年にかけて落第している。 |
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1903(明治36)年、13歳の時、1.30日、父アロイスがガストフォーフ(宿屋)のヴィジンガーで酒を飲んでいて卒中で倒れ逝去した。死因は恐らくアルコールやタバコによる高血圧であろうと推測される。ヒトラーの禁酒・禁煙の遠因の一つになったのかもしれない。既に兄たちは父親と対立して家を出ていたので、一家の長男として遺産を相続した。 1904(明治37)年、14歳の時、シュタイル上級実科学校へ転校。 |
【元服期】 | |||||
1905(明治38)年、15歳の時、厳父を亡くした後は学業を放擲し、シュタイル上級技術学校を4学年で途中修了。芸術家志望のヒトラーは、結局15歳のとき別の中等学校に転校。ここでも数学や外国語などには全くやる気を示さなかった。酒を飲んで前後不覚となり、以後禁酒の誓いをたて生涯酒を飲まなかった。「我が闘争」には次のように記されている。
この頃のヒトラーは、画家となる事を夢見ており画業に専念する。気ままな青春時代を送り、ワーグナーの楽劇にも心を奪われる。次のように語っている。
「我が闘争」には次のように記されている。
この頃、母クラーラがガンに冒され、闘病生活を送ることになる。 |
【青春期】 | |
1906(明治39)年、17歳の時、4月〜6月、実業学校を中退した後、父の遺産により音楽家志望の友人アウグスト・クビツェクとオーストリアの首都ウィーン(Wien)に向う。ここに滞在し画家を志す。以降、数年間オペラ鑑賞、読書や絵画、建築に魅せられつつ気ままに過ごす。このころ唯一の友人として音楽家を目指していたAugust
Kubizekに出会う。このころドイツの歴史・神話やワグナーのオペラによって、ドイツ人中心の世界観を築き上げる。 「我が闘争」には次のように記されている。
これが、ヒトラーの美術・建築に対する審美観の原体験となり、後にナチス党大会や集会の演出に結実する。山崎太郎東京工業大学助教授の指摘するところに拠ると、「特に、最終場にドイツ芸術を賛美する言葉があるマイスタージンガーは、ニュルンベルクでの党大会の後に必ず上演された」とのことである。 |
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1907(明治40)年、18歳の時、10月、首都ウィーンの造形美術大学の試験を受ける。1次試験は合格したものの、二次試験のデッサンで落第。ヒトラーの自尊心は大きく傷つけられた。教授に作品を見せ不合格の理由をたずねた時に「風景や建築物には才能が見られる。君には建築家のほうが向いている」と助言を受ける。その画風は写実的ではあったものの独創性には乏しかったとされ、画題として人物よりは建築物や風景などを好んだ、と評されている。 「我が闘争」には次のように記されている。
年初からの母親Klaraのガンが、術後も容態が良くならず一時ウィーンを去る。懸命に看病に励んだが、既に手遅れでその年のクリスマスを待たずに死亡し、深い悲しみに浸る。 12.21日、母クラーラを亡くす(享年47歳)。 診察したユダヤ人医師・主治医のエドワード・ブロッホ博士によれば、その時のヒトラーを、「いくつかの臨終を見てきたが、彼(ヒトラー)ほどひどく打ちのめされたものを見たことがなかった」と伝えている。 この頃ヒトラーは、1年間彫刻家のもとに通っている。 |
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1908(明治41)年、19歳の時、9月、母親の死後、画家を志して再びウィーン美術大学を受験するが、再度不合格。美術大学への入学の夢は完全に閉ざされた。友人Kubizekは希望の学校に合格。ヒトラーは失意に陥る。 天涯孤独の身となった彼には、、オーストリア政府から月々25クローネの孤児恩給が支払われており、その恩給と母の残してくれたわずかな遺産がアドルフのウィーンでの生活の糧となる。このころ絵を描きながらウィーンを放浪。風景画や絵葉書などを画商(ユダヤ人とわざわざ記されている)に売り生計を立てていた、写実的な彼の絵画は建物の描写には優れた技能を発揮したが、人物画には関心を示さなかった。 |
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1909(明治42)年、20歳の時、12月、ホームレスの避難所に住むようになる。 | |
1910(明治43).2月、21歳の時、貧者のための家に住み、そこで数年を過ごす。ヒトラーは、ウィーンを去ろうとはしなかった。この芸術の都に未練を感じていたのか、貧しい者が多く住むシュートゥンパー小路の安アパートに住みつづける。 この頃のヒトラーは、貧窮ながらも気ままに暮らす。ウィーンでの生活は僅かばかりの両親の遺産と日銭肉体労働、自作の絵葉書の売り上げなどによって食いつないだ。こうしたヒトラーの作品は、同居人のReinhold Hanishを通じて販売された。Hanishは後にヒトラーのことをマスコミに語ったため1938年ヒトラーによって暗殺される。 食費を切り詰めてでも国立歌劇場オペラ座に通うほどリヒャルト・ワーグナーに心酔し、毎日図書館から多くの本を借りては独学する勉強家だった、と云われている。 この頃、ヒトラーは、「神々と英雄たちの伝説ー至宝のゲルマン神話」を愛読し、ドイツの歴史や神話、ニーチェ、ヘーゲル、フィヒテなどの哲学、美術などに関する豊富な知識と、ゴビノーやスチュワート・チェンバレンらの提起した人種理論や反ユダヤ主義などを身につけている。 チェンバレンは、概要「ギリシャ人が芸術と哲学を創造し、ローマ人が国家と法律の概念を誕生させたのに対し、ユダヤ人はイエスへの裏切り以来、文明にマイナスの影響しか与えていない」として批判していた。ヒトラーは、この時期、「歴史的反ユダヤ主義」に覚醒したということになる。 この頃のウィーン市長で反ユダヤ・親アラブ・社会主義者のカール・ルエーガー(Karl Lueger)を崇拝し、政治的関心を高めている。カール・ルエーガーは、次第に社会的進出し始めたユダヤ人を嫌悪し、公然と反ユダヤ主義を掲げ警戒を呼びかけていた。ヒトラーは、市長も入っていた「グイド・フォン・リスト協会」という反ユダヤ主義組織に入会している。この会の標章が鉤十字ー後にナチスのトレードマークとなる、ハーケンクロイツ だった。これは太陽の象徴であると同時に、アーリア人が支配する千年王国の栄光と純潔をあらわしていた。 「 ウィーンでの5年間」につき、「我が闘争」には次のように記されている。
ヒトラーの青春時代、次第に社会的な公的進出し始めたユダや人に対して、多民族国家オーストリア=ハンガリーにおけるドイツ民族至上主義と反ユダヤ主義的気運が盛り上がっていた。ゲオルク=フォン=シェーネラーとカール=ルエガーらが代表していた。1907年から1913年までのウィーン在住時にその傾向が強まっており、ヒトラーもこの思潮に影響を受けた。 とはいえ、「芸術的画家」を生業としていたヒトラーは、この時期ユダヤ人画商に自分の描いた絵の販売を委託しており、ユダや人排外主義に乗り出しているのではない。あくまで政治的思想としての「ゲルマン民族主義、反歴史的ヤダヤ主義」であったと解するべきであろう。 |
【青年期】 |
1913(大正2)年、24歳の時、ヒトラーは、オーストリア・ハンガリー帝国の徴兵を拒否するためウィーンを離れる決心をする。ヒトラーは既にこの時期、国家意思に正義の無いオーストリア軍隊で犬死するのはまっぴらご免という歴史感覚を確立していた。徴兵忌避者リストに載せられたアドルフは、何度も居場所を変え、足取りを消すために浮浪者収容施設に入ったりもするが、1913年、危険を察知しウィーンから逃亡する。 5月、ヒトラーは、ドイツのミュンヘンに向かい、シュライヒャー通り34番地の仕立て屋ポップ(ヒトラーは首相になってからもポップにスーツをつくらせている)のところに下宿している。ミュンヘンでもまた名所風景を描いて売るという生活をしている。他にも建築コンサルタント等を営んでいたと伝えられている。 ポップとは話仲間で、お茶の時間になるとポップの娘レーネルが給仕し、後に思い出を語っている。戦後、ジャーナリストのソフトン・デルマーが彼女に尋ねている。「ヒトラーは街娼を下宿に連れこんだことがありますか」。「一度もありませんわ」。「良く考えてみてください」としつこく聞くと、「ありません。」と断言して「女じゃなくて、本ならごっそりと持ち込んでました」。 |
1914(大正3)年、25歳の時、1.18日、オーストリア当局によって突き止められ、ミュンヘン治安警察によりオーストリア領事館に連行される。オーストリア領事に自らの惨めな生活を説く手紙を出し、徴兵の恩赦を請う。「2年もの間、私は不安と困窮以外の友を知らず、いつもつきまとう空腹以外の伴侶をもちませんでした云々」と長文の手紙を認めていた。 ザルツブルクで徴兵検査を受ける。身体虚弱のため不合格、徴兵を免れている。ヒトラーには、こうまでしてオーストリアの軍隊に入りたくない理由があった。ヒトラーはドイツの軍隊に入りたかった。このことが第一次世界大戦勃発時の異例のドイツ軍志願で証される。 |
この後は、「第一次世界大戦とドイツ軍兵役時代」
(私論.私見)