生涯の概略履歴 |
(最新見直し2008.9.23日)
(れんだいこのショートメッセージ) | ||
ヒトラーの生涯履歴を検証する。それはヒトラー批判の前にその人の人となりを知るためである。れんだいこが概略を見て思うことは、ヒトラーの「狂気」とは一般に受け止められているような意味での「狂人的狂気」ではないということである。そういうものではなくて、「ヒトラーの狂気」とは、当時支配的裏権力、支配的思潮になりつつあった国際ユダヤ支配勢力の狡知に暴力的に立ち向かったその種の「歴史的狂気」では無かったか。結果は誰もが周知しているところである。 れんだいこは、「毒には毒をもって処するヒトラー的手法」を良しとはしない。しかしながら、「ヒトラー的手法」が当時の時代における歴史的な流れに対するリバンド的反応であったこと、とどの詰まりその反乱は悲劇に終わったことは何となく分かるような気がする。 ところで、田中角栄はヒトラー的「歴史的狂気」を持つでもないのに、その手法は全く合法的であったのにそれでもヤラレタ。彼らのシナリオ、手綱から外れた有能さは容認しないということだろう。逆に言えば、今政治家である御仁どもは彼らのシナリオ、手綱内にある凡庸さ、あるいは凶状持ち故に愛好されているということでもあろう。 ところで、「アドルフ・ヒトラー」の管理人氏は次のように述べている。
れんだいこも同感である。ヒトラーを特段に肯定する必要も否定する必要も無い。要は、歴史を歴史的に見る眼があれば良いだけの簡単な話である。歴史を道徳的に見ようとする見せようとする自称インテリの詐術史観の芽を潰せば真実が見えてくるだけのことだろう。 2004.10.14日 れんだいこ拝 |
【 アドルフ・ヒトラー(Adolf Hitler、1889.4.20-1945.4.30)】 |
20世紀ドイツに輩出した稀代の政治家にして独裁者。国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)党首、ドイツ共和国首相(在任 1933−1934)・ドイツ第三帝国総統(在任 1934−1945)。首相となってからは独裁的権力を握って侵略政策を進め、第二次世界大戦を引き起こした。日独伊三国枢軸同盟の下で緒戦は優位に進んだが、次第に英仏米ロの反ファシズム同盟に押され、結局ドイツは敗北し、これに伴い自殺した。 身長172cm、菜食主義者、好物はチョコレート。 部屋にはフリードリヒ2世(大王)の肖像画を掲げていた。 |
【1、誕生から青年期までの歩み】 |
【誕生】 |
1889(明治22).4.20日、ヒトラーが、ドイツババリア地方との国境付近オーストリア北部の辺境ブラウナウ市(Braunau Am
Inn)に生まれる。父アロイス・ヒトラー(Alois・Hitler)、母クララ・ヒトラー。父アロイスが3度目の結婚で52歳のときに4人目に生まれた子であった。「我が闘争」には次のように記されている。「ライン河畔のブラウナウがまさしくわたしの誕生の地となった運命を、幸運なさだめだと考えている」。
父アロイスは税官吏で、元々は下層階級の出身であったが、出身からすれば最高に近い出世を遂げた努力家であった。母クララは三番目の妻で、夫より24歳も若く読書好きな知的な女性であった。後に弟Edmund(1900年死去)、妹Paula(1960年死去)が誕生する。 |
【幼年期】 |
やがて、父は引退して年金生活開始するが、この権威的な父とともに、最愛の母クララ、前妻の二人の兄と姉、そして弟、妹に囲まれてアドルフは賑やかでまた落ち着かない生活をする。 3歳の時、パウサに転居。6歳の時、ハーフェルトに転居。1895(明治28)年、フィシュルハムの公立小学校に入学。3年生の時、ラムバハに転居・転校。 |
【少年期】 |
1900(明治33)年、11歳の時、6月、小学校卒業。リンツの技術(実科)学校に進学。役人の職に就けたかった父親の反対を押しきりリンツ上級実科学校に入学した。「我が闘争」には次のように記されている。概要「当時ようやく11歳になったわたしは生まれて初めて反抗せざるを得なかった。
古典学校か実科学校かの進路をめぐって、父とわたしの計画が対立するにつれて問題は深刻になっていった。12歳の時、父は次のように云って怒った。『美術家になるだと。駄目だ。わしの目が黒いうちは断じて認めん!』」。 少年時代のヒトラーは成績優秀とも不良とも云われており定かではない。不良派は、「二回の落第と転校を経験した劣等生であり、リンツの実業学校の担任の所見では『非常な才能を持っているものの直感に頼り、努力が足りない』と評されている」と記している。 少年期を向えやや内向的になり、「草木が唯一の友人」という孤独時代を過ごしたようである。ヒトラーは、「英雄は挫折と不遇の時代を送る」と後に弁明している。 |
1901(明治34)年、12歳の時、「我が闘争」には次のように記されている。「わたしは好きなこと、とりわけ自分で画家として後に必要と考えたことを全部学んだ。この点で無意味と思えることやその他の興味ないことはわたしは徹底して怠けた」。そういうこともあって、1901年から1902年にかけて落第している。 |
1903(明治36)年、13歳の時、1.30日、父アロイスがガストフォーフ(宿屋)のヴィジンガーで酒を飲んでいて卒中で倒れ逝去した。死因は恐らくアルコールやタバコによる高血圧であろうと推測される。ヒトラーの禁酒・禁煙の遠因の一つになったのかもしれない。既に兄たちは父親と対立して家を出ていたので、一家の長男として遺産を相続。 |
【元服期】 |
1905(明治38)年、15歳の時、厳父を亡くした後は学業を放擲し、シュタイル上級技術学校を4学年で途中修了。芸術家志望のヒトラーは、結局15歳のとき別の中等学校に転校。ここでも数学や外国語などには全くやる気を示さなかった。酒を飲んで前後不覚となり、以後禁酒の誓いをたて生涯酒を飲まなかった。「我が闘争」には次のように記されている。「
完全に落ち込んだ。わたしは生きている限り二度と再び飲酒しないことを神かけてちかったのである」。 この頃のヒトラーは、画家となる事を夢見ており画業に専念する。気ままな青春時代を送り、ワーグナーの楽劇にも心を奪われる。「我が闘争」には次のように記されている。「我々は、芸術家ワーグナー(Richard Wagner)をこの上なく偉大だと感じる。なぜなら、彼はその全作品の中で基礎的な国民気質すなわちドイツ人気質を表現したからである。わが国民はそのことを熱望していたのである」。 この頃、母クラーラがガンに冒され、闘病生活を送ることになる。 |
【青春期】 |
1906(明治39)年、17歳の時、4月〜6月、実業学校を中退した後、父の遺産によりオーストリアの首都ウィーン(Wien)に向い滞在し画家を志す。数年間オペラ鑑賞、読書や絵画、建築に魅せられつつ気ままに過ごす。このころ唯一の友人として音楽家を目指していたAugust
Kubizekに出会う。このころドイツの歴史・神話やワグナーのオペラによって、ドイツ人中心の世界観を築き上げる。 「我が闘争」には次のように記されている。「宮廷博物館の画廊を見学に行ったが、何と博物館そのものに圧倒されてしまった。毎日早朝より夜更けまで名所と言う名所は全て見て回ったが、何と言っても建物だけがわたしの心を捕らえて離さなかった。何時間もオペラ劇場の前に立ち、リング通りの全てがまるで千一夜物語の中にいるように、わたしの心に魔法をかけるのだった」。これが、ヒトラーの美術・建築に対する審美観の原体験となり、後にナチス党大会や集会の演出に結実する。 |
1907(明治40)年、18歳の時、10月、首都ウィーンの美術大学の試験を受ける。1次試験は合格したものの、二次試験のデッサンで落第。ヒトラーの自尊心は大きく傷つけられた。教授に作品を見せた時に「風景や建築物には才能が見られる。君には建築家のほうが向いている」と助言を受ける。その画風は写実的ではあったものの独創性には乏しかったとされ、画題として人物よりは建築物や風景などを好んだ、と評されている。 「我が闘争」には次のように記されている。「 もちろんその道は厳しかった。というのは私ががこれまで技術学校への反抗心から怠けてきたことが,今になって大きく響いてきたからだ。美術学校の建築科に入るには工学系の建築学校を出ていなければならず、さらにそこに入るには中等学校の卒業試験を終了することが必要だった。私はにはそれら全てが欠けていた」。 年初からの母親Klaraのガンが、術後も容態が良くならず一時ウィーンを去る。懸命に看病に励んだが、既に手遅れでその年のクリスマスを待たずに死亡し、深い悲しみに浸る。 12.21日、母クラーラを亡くす(享年47歳)。 診察したユダヤ人医師・主治医のエドワード・ブロッホ博士によれば、その時のヒトラーを、「いくつかの臨終を見てきたが、彼(ヒトラー)ほどひどく打ちのめされたものを見たことがなかった」と伝えている。 |
1908(明治41)年、19歳の時、9月、母親の死後、画家を志して再びウィーン美術大学を受験するが、再度不合格。美術大学への入学の夢は完全に閉ざされた。友人Kubizekは希望の学校に合格。ヒトラーは失意に陥る。 1909(明治42)年、20歳の時、12月、ホームレスの避難所に住むようになる。 1910(明治43).2月、21歳の時、貧者のための家に住み、そこで数年を過ごす。 この頃のヒトラーは、貧窮ながらも気ままに暮らす。ウィーンでの生活は僅かばかりの両親の遺産と日銭肉体労働、自作の絵葉書の売り上げなどによって食いつないだ。こうしたヒトラーの作品は、同居人のReinhold Hanishを通じて販売された。Hanishは後にヒトラーのことをマスコミに語ったため1938年ヒトラーによって暗殺される。 食費を切り詰めてでもオペラ座に通うほどワーグナーに心酔し、毎日図書館から多くの本を借りては独学する勉強家だった、と云われている。 この頃、ドイツの歴史や神話、ニーチェ、ヘーゲル、フィヒテなどの哲学、美術などに関する豊富な知識と、ゴビノーやチェンバレンらの提起した人種理論や反ユダヤ主義などを身につけている。21歳の時、政治への関心を高め、当時のウィーン市長で反ユダヤ・アラブ主義者のKarl Luegerを崇拝している。 「 ウィーンでの5年間」につき、「我が闘争」には次のように記されている。「この5年間、はじめにわたしは臨時雇いの労働者として、次はけちな画工としてパンを、それも毎日の空腹を満たすのに一度も十分でなかったパンを稼がねばならなかった。当時のわたしにとって、空腹は忠実な友であり、片時もわたしから離れることのない。どんなことでもわたしと誠実に分かち合う唯一の友であった。わたしが本を読むたびに空腹はわたしの関心をかき立てた。歌劇場に行けば数日間もわたしにつきまとった。毎日がこの非常なる友との闘争であった 」。 |
【青年期】 |
1913(大正2)年、24歳の時、ヒトラーは、オーストリア・ハンガリー帝国の徴兵を忌避するため、ドイツのミュンヘンに向かい、シュライヒャー通り34番地の仕立て屋ポップ(ヒトラーは首相になってからもポップにスーツをつくらせている)のところに下宿している。ミュンヘンでもまた名所風景を描いて売るという生活をしている。他にも建築コンサルタント等を営んでいたと伝えられている。 ポップとは話仲間で、お茶の時間になるとポップの娘レーネルが給仕し、後に思い出を語っている。戦後、ジャーナリストのソフトン・デルマーが彼女に尋ねている。「ヒトラーは街娼を下宿に連れこんだことがありますか」。「一度もありませんわ」。「良く考えてみてください」としつこく聞くと、「ありません。」と断言して「女じゃなくて、本ならごっそりと持ち込んでました」。 |
1914(大正3)年、25歳の時、1.18日、ミュンヘン治安警察にオーストリア領事館に連行される。オーストリア領事に自らの惨めな生活を説く手紙を出し、徴兵の恩赦を請う。ザルツブルクで徴兵検査を受ける。身体虚弱のため不合格、徴兵を免れている。 6.28日、サラエボ事件 (オーストリア皇太子夫妻暗殺事件)発生。7.5日、ドイツが、オーストリアの対セルビア強硬策支持を約束。 |
【この頃のドイツ】 |
ドイツ(独逸)は、962年から1806年まで神聖ローマ帝国(第1帝国)の主要部を構成したが、多くの領邦国家が分立していた。 1871(明治4)年にバルト海南岸に臨む、ウィスラ川下流域からネマン川下流域に至る地方のプロイセンを中心として22の君主国と3つの自由市の統一により連邦国家ドイツ帝国を建設した。 プロイセン王を皇帝として、首相のビスマルク(Otto von Bismarck 1815〜1898)が近代国家ドイツ帝国(第2帝国=ビスマルク・ドイツ帝国)の礎石を敷いた。ビスマルクは、社会主義を弾圧する一方、社会保険制度を採り入れ、いわゆる「飴(あめ)と鞭(むち)」政策を遂行し、「鉄血〔兵器と人血〕宰相」といわれた。 |
【第一次世界大戦勃発】 |
7.28日、オーストリア、セルビアに宣戦布告、第一次世界大戦が勃発。
8.1日、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世がロシアに対する動員令を発令。ヒトラーはこの時、ミュンヘン・オデオン広場での政府支持を叫ぶ群衆に正装で加わる(ハインリッヒ・ホフマンが撮影した写真が残っている)。その二日後、ヒトラーはドイツ軍に志願し入隊する。 8.3日、ドイツ、ベルギーへの侵入開始 (対仏宣戦布告)。8.4日、 イギリス、ドイツに宣戦布告。8.23日、対独参戦 (宣戦布告)。8.26日、 タンネンベルクの戦い (〜08/30)。9.5日、英仏露3国、ロンドンで単独不講和を宣言。9.5日、 マルヌの戦い (〜09/12/西部戦線膠着)。 |
【2、第一次世界大戦にドイツ軍に従軍、その兵役時代】 |
ヒトラーはオーストリアの兵役は拒否したが、ドイツ帝国の兵役には進んで志願し、バイエルン国王・ルードヴィヒ3に手紙を書き、オーストリア国籍のままドイツ帝国陸軍に志願、ドイツ陸軍第1バイエルン歩兵連隊に配属される。こうして
第1次世界大戦に従軍する。 |
1915(大正4)年、26歳の時、連隊本部伝令兵。 |
1916(大正5)年、27歳の時、10月、ソンムにおいて砲撃で吹き飛ばされ足を負傷、ヴィーデマン中尉に救助されれる。野戦病院に入院、ベルリンに後送される。ヴィーデマン大尉(昇進していた)に原隊復帰希望の書簡を送る。 |
1917(大正6)年、28歳の時、3.15日、 ロシア二月革命 (皇帝ニコライ2世退位、ロマノフ朝滅亡)。4.6日、アメリカ、対独参戦。
3月、バイエルン第16歩兵連隊に復帰。春季攻勢準備のためアラスに移動。7月、イープルでの戦闘に参加。 11.7日、ロシア十月革命 (ソビエト政権成立)。 |
1918(大正7)年、29歳の時、3.3日、ブレストリトフスク条約調印 (ソビエト政府、独墺と講和)。
8.4日、ヒトラーは、一般兵士(歩兵)としては異例な栄誉ある第一等鉄十字勲章を授与された。終生彼はこの勲章を大事にし、勲章を佩用する機会があるときは終生この勲章のみを左胸に佩用した。しかし昇進は伍長までに留まり、当時の上官はその理由として協調性の不足をあげている。ドイツ国籍を持っていなかった為という説もある。 10.14日、塹壕でイギリス軍の毒ガス攻撃を受け、一時的に失明し、パーゼヴァルクの陸軍病院入院。1ヶ月近く失明状態が続く。 11.3日、ドイツ・キール軍港の水兵反乱。この反乱を契機に、労働者の蜂起が起こり、11.9日、 ドイツ11月革命。多数派社会民主党のエーベルトが臨時政権を樹立して皇帝や諸王侯を追放、第2帝国は崩壊する(ドイツ「11月革命」)。11.10日、 皇帝ヴィルヘルム2世、オランダ亡命。 11.11日、第一次世界大戦終結。 ヒトラーは、終戦の知らせを聞いたときは毒ガスによる負傷で野戦病院におり、視力は間もなく回復したものの、喉の負傷による声の変化は戻らなかったため後の演説にみられる独特の野太い声になった。 退院したヒトラーはバイエルン第2歩兵連隊に配属、後にミュンヘンの第7師団に移る。彼は、兵士たちを煽動し、共産主義の浸透を防止するためのプロパガンダ任務を言い渡された。 |
【ドイツ労働者党結成される】 |
1919(大正9)年、30歳の時、1.5日、バイエルン州都ミュンヒェンで、錠前師アントン・ドレグズラーとスポーツジャーナリストのカール・ハラーによって「ドイツ労働者党(ナチス)」が結成された。 結成当初は第一次世界大戦におけるドイツ帝国の敗北とそれにともなう革命に紛然とする世相に乗じた、わずか40名程度の泡沫政党に過ぎなかった。その母体であったトゥーレ協会の会員には、ナチ党初期のイデオローグとして活躍したアルフレート・ローゼンベルク、ディートリヒ・エッカートや、のちに副総統となるルドルフ・ヘスなどがおり、協会の異教的神秘主義・反ユダヤ主義はナチ党の思想に大きな影響を与えた。 |
【ベルサイユ条約締結される】 | ||||||||
1月、ドイツ中部、チューリンゲン州の小都市のワイマール(18・19世紀にヘルダー・ゲーテ・シラーらの文化人が集まり、ドイツ精神文化の中心となった)で、国民議会が開かれ、ヴェルサイユ条約を受諾してドイツの国際的地位を確定するとともに、新憲法(ワイマール憲法)を制定し、共和制の基礎を築いた。ワイマール共和国が誕生した。 1.18日、パリ講和会議開催 (〜06/28/首席全権:西園寺公望)。6.28日、ドイツ代表団がパリのヴェルサイユ宮殿『鏡の間』でベルサイユ条約調印 (北京政府、調印拒否)。 ベルサイユ条約は、敗戦国としてのドイツに対する懲罰的過酷かつ屈辱的な内容を盛っており、これが後のナチス台頭の一因となり、さらには第二次世界大戦の遠因ともなった。主な内容は次の通り。
ベルサイユ条約の結果、ドイツは、軍備の禁止、領土の喪失、巨額の賠償金請求という当時の意識における「三重苦」を受け、このことが多くのドイツ人を屈辱として受け取らせた。 |
【ワイマール共和国の誕生】 |
7.31日、 ワイマール憲法成立。1919年から1924年まで、社会民主党のエーベルトが大統領を勤める。この間は、ワイマール三党、社会民主党・カトリック中央党・民主党が議会多数派を占めた。後者二党は第2次大戦後統合新発足し、現在のキリスト教民主同盟である。カトリック中央党はワイマール共和国で特別の地位を占めた。 |
【3、第一次世界大戦敗戦から「ドイツ労働者党」入党、党首就任までの歩み】 |
【「ドイツ労働者党」入党前のヒトラーの動き】 |
この頃、ヒトラーは、歩兵第2連隊(ミュンヘン、シュヴァーヴィンク)で調査、情報関係の仕事に就く。教育将校育成講習を受講。マイル大佐の推薦で、情報教育将校(エージェント)となるためミュンヘン大学のセミナーに参加し、フォン=ミュラー教授に師事している。バイエルン第7師団(ミュンヘン)政治局啓発課の政治教育将校となる。ヒトラーはこの期間、軍からプロパガンダの教育を受けつつ相当の書物を読破している、と伝えられている。
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【「ドイツ労働者党」入党】 |
9.12日、ヒトラーが「ドイツ労働者党 (DAP、Deutche Arbeiter
Partei)」の集会に参加する。一人の党員がババリア地方とオーストリアとが合併して新たな国家をつくるべきだと演説した。これに対し、オーストリアに反感を持つヒトラーは激しく反発しいきなり演説をぶった。それを見ていた党幹部のアントン・ドレクスラーは彼に好感を持ちパンフレットを渡した。ヒトラーはそのパンフレットを持ち帰って読み、大きな共感を感じた。 その数日後入党する。党員番号7。当時、「ドイツ労働者党」は当時50名程度の小政党であったが、その理念に共感し入党することになった。ヒトラーは党の幹部として迎えられ、彼もこの小さな政党に参加して政治への一歩を進む決意をした。 「我が闘争」には次のように記されている。「二日間思い悩み、熟慮の末、ついに一歩を踏み出す決意を固めるに至った。それはわたしの人生で最も重要な決意であった。こうしてわたしはドイツ労働者党の党員登録を済ませ、番号7と記された仮の党員証を受け取った」。 |
【入党後のヒトラーの歩み】 |
10.16日、ミュンヘン、ホフブロイハウスでドイツ労働党の大衆集会が開かれた。この時、ヒトラー自身、自分が大衆の前で演説する才能があることに気が付く。ヒトラーが30分ほど演説すると、集まった百人ほどのの聴衆はたちまち彼の演説のとりこになった。そして、多額の寄付を集めることができた。 ヒトラーの演説能力は高く、いきなり頭角を現し始める。その主張はベルサイユ条約の打破、反ユダヤ主義であったが、次第に聴集は増えていった。党は当時の民主制・共和制に不満な軍人や元軍人を中心に拡大していった。ヒトラーの扇動的な演説によって多くの党員が獲得され、、党はヒトラーの演説の人気を中心に拡大していくことになった。「我が闘争」には次のように記されている。「わたしは30分話をした。そして、わたしが以前から、よくわからないが、ただ内心で感じていただけのことが、今や現実によって証明された。わたしは演説ができたのだ。30分後、小さな部屋に集まった人々は深く感動させられたのである」。 1920(大正10)年、31歳の時、1.10日、国際連盟発足 (日本、理事国として加盟/提唱国アメリカ不参加)。 2.24日、ドイツ労働者党はミュンヒェンのホフブロイハウスで開かれた党大会に2000人を集め、綱領を公開した。 この頃、ヒトラーは、軍を除隊して党務に専念するようになる。ヒトラーの演説能力は高く、エルンスト・レーム大尉やディートリヒ・エッカートらの支持もあって、ヒトラーは党内での勢力を拡大していく。 |
【「25カ条綱領」作成】 |
2.24日、ヒトラーはこの間、アントン・ドレグズラード、フェーダーと共に党綱領の整備に取り組んできたがこの日、「25カ条綱領」を発表した。ヒトラーは、共産主義者を含む2千人もの大衆を前に演説し、約4時間近くの集会は大成功に終わった。 この時発表された「25カ条綱領」は、反ブルジョワ・反ユダヤ・国粋主義的主張及び土地・産業の国有化・福祉政策の推進など社会主義的な要求も加味されていた。社会主義的条項はのちにグレゴール・シュトラッサーら党内左派の主張する社会主義革命の根拠となったが、資本家からの献金による党勢の拡大を重要と考えるヒトラーらは綱領を無視し、反対派を粛清していくことになり、綱領は有名無実化していく。 |
【「国家社会主義ドイツ労働者党の25カ条綱領」(「25カ条綱領 説明・意味・定義」)】 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
「25カ条綱領」は次の通り。
党の指導者は、上記の条項が各人の生活に必要とされるならいつでも徹底的に実行されることを期待する。 |
【ドイツ労働者党の党的能力引き上げに尽力】 |
またヒトラーの発案で党章の図案が募集され、歯科医クローンの提案した鉤十字(ハーケンクロイツ、Hakenkreuz)に修正を加えたものが党章・党旗として制定された。
「国家社会主義者として、われわれは、われわれの旗にわれわれの綱領を見る。赤に運動の社会主義思想を、白に国家主義思想を見、ハーケンクロイツにアーリア人の勝利のために戦う使命を見る」(ヒトラー)。 同じ頃、週刊紙「ミュンヒェナー・ベオバハター」を買い取り、機関紙フェルキッシャー・ベオバハター(民族観察者)として創刊している。これらの政党運営手法は敵である共産党を範としたものであり、ナチ党の無定見な性質を表していると言える。しかし原則にこだわらないこれらの手法により、ナチ党は急進的な泡沫政党から大衆政党へと急成長を遂げていくことになる。 |
【ドイツ労働者党がナチス党に党名改称】 |
4.1日、ドイツ労働者党(DAP)が党名を国家社会主義ドイツ労働者党(NSDAP、National Sozialistische Deutsche Arbeiter Partei、通称ナチス、Nazis)と改める。しばしば略称として用いられるナチとは社会党の略称ゾチにあわせたものだが、党員は普通正式名称を用い、省略する場合はNSDAPを用いた。また党員を指す言葉として「国家社会主義者」が使われたが、単に「社会主義者」ということもあり、党員同士に呼びかけるときも同志・党同志などの用語が用いられるなど社会主義的な雰囲気が強かった。 年末には党員はついに3千人まで拡大した。 |
【突撃隊(SA、Sturmabteilung)結成】 |
1921(大正11)年、32歳の時、1.4日、突撃隊(SA、Sturmabteilung)が正式に設立された。マイア大尉の後任エルンスト・レームの支援で軍から指揮官を提供されていたが、その一人で第一次大戦の空の英雄へルマン・ゲーリング元空軍大尉がSA司令官に起用された。ゲーリングは後に帝国元帥にまで昇進しヒトラーのNo.2にのしあがる。
8月、レームが「体育スポーツ局」を設立。 10月、「体育スポーツ局」(SA)が突撃隊に改称され、左翼勢力との乱闘における主力となっていく。突撃隊は、ナチス党の準軍事的組織で、ヒトラーの権力掌握に重要な役割を果たした。その制服から「褐色のシャツ」と呼ばれ、後に「黒シャツ」と呼ばれた親衛隊と区別された。 |
【ナチス党内でヒトラーを廻り内紛】 |
6月末、NSDAPでヒトラーを廻って内部抗争が勃発している。議長ドレクスラー派が、ヒトラー追い出しの反乱を企図した。ドレクスラーらは南バイエルンにあったドイツ社会主義者党との協調を主張しヒトラーの独裁力が弱まることを期待した。ヒトラーは7.11日、いきなり辞任通知を送付した。7.13日、ディートリッヒ・エッカートが和解のための仲裁に乗り出した。7.14日、ドレクスラーは全面降伏した。内容はヒトラーに独裁的権限を与え議長に就任するというものだった。7.26日、ヒトラーは再入党した。党員番号は3680。 7.29日、党特別集会を前にして、ヒトラーは、独裁権をもった第一委員長ポストを要求し、当日出席したミュンヘン支部党員から圧倒的な支持を受ける。 |
【4、ヒトラーがナチス党党首に就任、「ミュンヘン一揆」までの歩み】 |
【ヒトラーがナチス党党首に就任】 |
7.29日、ヒトラーはナチス党の党首となる。ヒトラーは、持ち前の弁舌を駆使し、急速に支持者を増やしていく。 |
9月、バイエルン首相カールが辞職し、貴族出身で外交官育ちのヒューゴ・グラフ・レルヒェンンフェルト−ケーフェリングが後釜に就任。NSDAP(ナチス)の格好の好餌となった。
【ヒトラー率いるナチス党が、反対派の集会に暴力的介入し始める】 |
9月、ヒトラーは仇敵であるバイエルン分離主義者バラーシュタットの開催する演説会をSAを率いて急襲した。バラーシュタットは重傷を負い、ヒトラーはとにかくバラーシュタットの演説は阻止したとして引き上げた。バラーシュタットは直ちにヒトラーを告訴した。 1922(大正12)年、33歳の時、1月、ヒトラーに対する公判が開かれ、ヒトラーは3ヶ月間の拘留を宣告された。ヒトラーは1922.6.24日から7.27日までミュンヘンのシュターデルハイム刑務所に実際に収監された。 |
4.16日、 ラッパロ条約調印。これにより独ソが国交回復した。ラッパロ条約の中味は現在に至るも詳細は不明であるが、参謀本部における打ち合せの段階では、連合軍がライン川を越えて攻勢に出た場合、エルベ川の線で防禦にまわり、赤軍の来着を待つという大胆なものであった、と伝えられている。
ヒトラーが、ケーニッヒプラッツでSAの大デモ行進を成功させる。愛国社会同盟や自由主義同盟の結成に際して中心的な役割を果たした。この頃のヒトラーは後期にみられるような共闘拒否方針でなかった。
【イタリアのムッソリーニがクーデターを成功させる】 |
10月、ベニート・ムッソリーニが「ローマ進軍」によるクーデターで政権獲得。イタリア国軍はそれを防ごうとしたが、国王が鎮圧を拒否したため、ムッソリーニのファシスト政権が樹立された。 このことがドイツの政局に影響を与え、バイエルンから進軍しベルリン政府を打倒しようという考えに拍車をかけていくことになる。 |
【ドイツのバイエルンに不穏な空気がみなぎり始める】 |
バイエルンは、ラテナウやエルツバーガーの暗殺者の根拠地となり、ベルリン政府が座視できないところまでに右翼急進化していた。暗殺事件に対抗してベルリンのウィルト政府は反テロリズム法を施行しようとするが、バイエルンのレルヒェンフェルト政府はこの施行を延期してしまう。 ベルリン政府の圧力が強まるなかでクーデター計画がバイエルン政府、軍、擬似軍事団体の間で練られて行った。擬似軍事団体で有力なのはBund Bayern und Reich(バイエルン帝国同盟)で、これはピッティンガーとレームの指導下にあった。そして政党軍事団体としてはSAが最大で、すでにバイエルンではクーデター勢力としてナチスが最大の潜在勢力を占めるに至っていた。 11月、バイエルンのレルヒェンフェルト首相は辞職、クニリングが代わって地位についた。同時にバイエルン南部では右翼団体の統一組織として愛国社会同盟が結成され、北部ではドイツ民族自由主義同盟が作られた。そしてバイエルンに移住したル−デンドルフが両者をとりもった。 これに対する理論的意思統一なきまま事態は「ミュンヘン一揆」へと進行して行く。「1922年、秋の政変」と云われる。 |
【フランスがルール地方占領】 | ||
1923(大正13)年、34歳の時、 1.11日、
フランスはドイツが賠償の支払いに応じないことを理由にして、フランス軍がベルギー、ルール地方を占領した。ルール占領にたいしてクーノを首相とする共和国政府は消極的抵抗方針を採った為ワイマール共和国は難しい立場に立たされた。 大統領のエーベルトは<事実上ゼークトによる政権樹立を依頼したが、ゼークトは軍の政治にたいする中立・独立というドイツ参謀本部の伝統に従いこれを拒否、左右両翼にたいする弾圧強化を進言した。しかし政治不関与とするにはあまりにもドイツをとりまく情勢は厳しく参謀本部(統帥部隊務局)の政治担当としてシュライヒャーを重用するに至った。 |
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[共産党の対応]
共産党は、社会民主党とフランス双方を激しく批判した。ところが共和国の中枢をなす社会民主党はマルクス主義政党だから外交方針=軍事方針を保有しない。相手に強制されたものを除いて、全方位外交を言うにすぎなかった。ところが、ゼークトのソ連政策が社会民主党の全方位外交に合致するものだった。ところがその軍事的側面については社会民主党は理解を拒絶した。 |
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[ヒトラーの「臥薪嘗胆」的対応]
ヒトラーは、フランス帝国主義の強権政策とそれに引き換えドイツのワイマール共和国政府の弱腰政策を鮮やかに対比的に浮き彫りさせている。しかし、即時的な抵抗を組織するのでは無く、「来る日」に備え、強いドイツ作りへの一路邁進を指針させていた。 このヒトラーの主張は、当時の国防軍と共産党のそれとハーモニーした。ワイマール共和国国防軍の参謀総長にしてワイマール共和国の影の支配者にして「ヒトラーのミュンヘン一揆と共産党のチューリンゲン蜂起鎮圧の最高責任者」・ゼークトは、フランス軍と交戦しようにもベルサイユ体制下の10万人では戦えず、戦時動員のための予備兵力として国家主義政党の擬似軍事団体に期待した。バイエルンで最大のSAを率いるヒトラーと国防軍の腹の探り合いが始まった。これがミュンヘン一揆までのバイエルンの政治基調となる。他方で同盟国としてソ連に期待した。 |
【ヒトラーと国防軍総帥ゼークトが初会談】 |
3月、レームの紹介でヒトラーとゼークトの初会談。ナチス党指導者のヒトラーと国防軍の最高指揮官ゼークトの見解の摺り合わせが為されたが、フランスのルール占領への対抗策、国際情勢観等々で平行線を辿った。この会談のあと、ゼークトは妻に「二人の目指している方向は一緒だ。ただ取ろうとしている道が違う」と語った、と伝えられている。この4時間の会談は二人だけで行われ、余人を交えなかった為、真相は分からない。ハンフステーングルによると、ヒトラーにたいしゼークトは最後に「これでお互いにこれ以上話すことはなさそうですね」と言った、と伝えられている。 ちなみに、ゼークトは、「戦争は他の手段による政治の継続である、という言葉は現在では公理となっている。それゆえにこれは危険である。次のこともこれと同じくらい正しいのだ。戦争は政治の破産である」との名言を残している。 |
【1923年メーデーを廻る左右両翼の動き】 |
5.1日、ミュンヘンの1923年のメーデーは左右両翼の激しい対立が予想された。この日は労働者の祭典だが、ミュンヘンの国粋団体(フェルキッシュ団体)にとっては、ミュンヘン革命を打倒した記念日だった。前日、ヒトラー、レーム、ゲーリング、ウェーバー、クリーベルらによって、労働者の集会参加者を襲撃することが決められた。 メーデー当日、SAを中心とする擬似軍事組織は続々と北部のオーベルビーゼンフェルトに集合した。レームは司令官を無視して軍の武器庫を開放し小銃と機関銃が配られた。レームはロッソウの支持を得るべく朝から交渉に臨んだ。 ロッソウの態度は硬かった。昼過ぎ、レームは国防軍の1個分隊に護衛されながら、ヒトラーと面会し、軍の協力を得ることは不可能だと告げた。ウェーバー、シュトラッサーらはあくまで武装を続けることを主張したがヒトラーは最後に折れた。武器はそのまま武器庫に返却された。左翼のデモも無事終了した。これはヒトラーにとり重大な政治的打撃だった。夜、サーカスクローネで行われた演説会では全く精彩を欠いていたという。 |
5.5日、連合国側が、賠償金1320億金マルクの支払計画受諾をドイツに要求。マルクはがた落ちになり、ドイツはデフォルト(債務不履行)を宣言する。
【ヒトラーの山篭り】 |
6月−7月、ヒトラーはこの打撃からなかなか立ち直れず、ベルヒテスガデンのホテルに引きこもった。ヒトラーはその後も困ったときの山ごもりを繰り返す。この間ヒトラーを訴追する動き、またレームのバイロイトへの異動をめぐった動きがあったがいずれもバイエルン政府とりわけフランツ・ギュルトナー法相の宥和的態度により救われた。 |
【3人組(カール、ロッソウ、警察長官・ザイサー)の台頭】 |
8.11日、フランスのルール占領が続くなか、社会民主党はクーノ政権に見切りをつけ、シュトレーゼマンが首班に指名された。シュトレーゼマンは翌月クーノのとったフランスのルール占領策に対抗する消極的対抗をとりやめ賠償の支払いを再開した。 これにたいしバイエルン政府が過激な反応を行った。全権をバイエルン独立の旗手カールに与えるとともに軍司令官のロッソウはベルリンの要求した辞任を拒んだ。そして場合によってはベルリンの犯罪者を滅ぼすため、進軍すると呼号し始めた。 |
【ヒトラー、3人組と共闘】 |
ヒトラーはこの時、他の擬似軍事団体と強調方針をとった。そして未だバイエルン国防軍の擬似軍事団体を担当していたレームの助力もあって。SAをドイツ戦闘同盟に加入させることに同意し、その政治的リーダーとして指名された。 ヒトラーは原則として軍と警察の支持を受けるすなわち少なくともバイエルンの内務省を抑えねば、暴力による権力奪取は成功しないとみていた。この時NSDAPにいてヒトラーの側近だったショイブナー・リヒターも9.24日、ドイツ戦闘同盟の行動計画を起草にあたり、それを明記している。しかしヒトラーはこれまで直接行動を訴えており、このような混乱のなかで決起を否定することは最早不可能だった。一方3人組は、違うことを考えていた。まず国防軍の支持を得て、ベルリンに右翼政権を樹立しその支持のもとでバイエルンを独立させようというものだった。 このころナチ党はミュンヘンを中心に党員数3万5千人で、バイエルン州では有数の政党になっていた。もともとバイエルン州は伝統的に独立志向が強く反ベルリンの空気があった。 |
【ドイツ共産党がハンブルクで武装蜂起】 |
以前の武装蜂起の立役者ラデックを召還しトロツキーの主導下、再度武装蜂起を追求し世界革命の端緒とすることが決められた。共産党党首ブラントラーもモスクワで11月中旬蜂起を誓った。 10.20日、ゼークト参謀本部の動きは更に速く、国防軍をザクセンに出動させることを決定した。これに驚いたブラントラーは10.21日、ザクセンとチューリンゲンでゼネストを指令した。しかし国防軍は月末までにザクセンの中心都市ドレスデンを占領し、共産党員の捕縛を開始した。 |
【3人組が「ベルリン進撃」呼びかける】 |
10.24日、ロッソウは擬似軍事団体のリーダーに「ベルリンに進撃しよう。」と呼びかけた。ゼイサーは11.3日、ベルリンでゼークトと協議を重ねた。ゼークトの回答は単純なものだった。「いかなる暴力的政府転覆の企てにも国防軍は反対する。」と。ロッソウはヒトラーと会見し直接行動は2・3週間待つように申し入れた。3人組はベルリンの強硬姿勢にトーンダウンを開始していた。 11.6日、ヒトラーはクリーベル(Kampfbundのリーダー)、ウェーバー(Bund Oberlandのリーダー)、ショイブナー・リヒター、ゲーリングと謀り、11.8日、ビュールゲルブロイケラーで開かれる3人組みの演説会に介入し決起することを決めた。 |
【5、「ミュンヘン一揆」からナチス党再建までの歩み】 |
【ミュンヘン一揆】 |
11.8日、革命5周年に当たるこの日、党勢を拡大したナチ党は、バイエルン総督カールらをまきこんで軍部のルーデンドルフ等と共にミュンヒェンで政権獲得を目指してクーデターを起こす(「ミュンヘン一揆」)。 午後8時半、ビアホール・ビュールゲルブロイケラーでのバイエルン国記念集会でカールの演説中、ヒトラーが先頭にたった突撃隊が現れた。機関銃をホールの真ん中に据え付け、ヒトラーはいきなり長椅子に立ち、ブローニング軍用拳銃を天井に発射し、「国民革命が宣言された云々」と叫んだ。 ヒトラーはそこにいた3人組を別室によび協力を要請し、3人組は協力を約束した。ヒトラーはホールに戻り、革命の目的は3人組と対決することではなく、ベルリンに巣食うユダヤ人政府と11月の犯罪者に向けられたものだと説明した。そこにいた観衆は快哉を叫んだ。午後9時半ちょうど1時間後、ヒトラーは3人組とルーデンドルフと互いに握手し成功を祝った。 外ではレームが一隊を率いて、バイエルン陸軍省を占拠していた。また、エッサーに率いられたいた一隊はレーベンブラオケラーに集合して待機していた。しかしヒトラーの成功はここまでだった。午後10時、工兵隊が抵抗の様子を示しているという報告をうけ、ヒトラーは自ら説得に出向いた。その間にルーデンドルフは、「紳士の約束を信じて」3人組にビュールゲルブロイケラーからの帰宅を許す。 3人組はベルリンと連絡をとりゼークトの討伐意思が固いことを知る。翌日11.9日午前2時55分、ラジオを通して、3人組の一人ロッソウが一揆に反対するとの放送が流れた。午前5時ヒトラーはビュールゲルブロイケラーに戻ると、すぐさま一揆が失敗したことを悟った。 そこからの方針は決まっていなかった。ルーデンドルフは占拠している陸軍省までデモをかけたらどうかと提案した。これは国防軍がルーデンドルフに発砲することはなく、また国防軍と右翼擬似軍事団体の関係を考えれば味方になるとの判断に基づいていた。 |
[ヒトラー逮捕、ナチス党解散させられる]
11.9日、ヒトラーは逮捕され、ランズベルク刑務所に投獄される。 |
11.15日、ドイツ、レンテンマルク発行開始 (→インフレ収束)。
【「ヒトラー裁判」】 |
1924(大正13)年、35歳の時、2月、ミュンヘン国民法廷が開かれヒトラーの裁判が始まる。ミュンヘン一揆の失敗により、ヒトラーの政治生命は断たれたかに思われたが、ヒトラーは法廷をも自己宣伝の舞台として利用し、ヒトラーの名がさらに広く知られることになる。この裁判の過程で、ヒトラーは「十一月の犯罪者」、「ユダヤ人の政府」、「臆病と腐敗のベルリン体制」、「エーベルト化され堕落したドイツ」などと政治宣伝を行った。 ルーデンドルフ、カップ、エアハルトと誰もが越えられなかった挫折の壁をヒトラーだけは乗り越えることができた。ヒトラーはこれまでバイエルンの地域政治家だった。それがミュンヘン一揆以降は自然に全国政治家となった。結果的に、「ミュンヘン一揆」の敗北は「災い転じて福」となった。 この時の裁判で、ヒトラーは意表を衝く対応を見せた。3人組(カール、ロッソウ、警察長官・ザイサー)が、一揆の責任から免れようとしてヒトラーに責任転嫁させる論を主張していたのを逆手にとり、全責任は自分にあると堂々と認めた上で「ミュンヘン一揆」の革命的正当性を陳述した。ドイツ国民がヒトラーを裁判の途中から英雄視し始めた。 ヒトラーは後日(1934年11月8日、ミュンヘン)次のように述べている。「カップ一揆の公判で責任者は全て政治的責任から免れようとして何も関与せず、何も知らないと述べた。これがブルジョワ世界を破壊した。彼らは自分の行動が正しいという勇気に欠けていた。自分たちはワイマール共和国を粉砕するつもりだった、と公言する勇気に欠けていた。成功、失敗が決定的ではない。結果について責任をとる勇気と英雄精神が必要なのだ。」 ヒトラーの法廷陳述は次の通り。概要「ミュンヘン一揆における指導者(少なくとも軍事的指導者)はルーデンドルフであり、私自身はドラマーに過ぎない」、「もし今日私が革命家として裁かれるとするならば、それはドイツ革命にたいする反革命としてである。1918.11月の犯罪者にたいして国家反逆などありようはずがない。一揆のさい、国家反逆を考えたこともなかった。そして、もしそうだとするなら一緒の席にいたものがどうして裁かれないのか?もし国家反逆を企てていたとするなら数え切れない人々が考えていた。私自身はドイツ人民に最良ことを望む、最良の人間だと感じていた」。 ヒトラーは結審の前に裁判長にワイマール共和国法の枠内で革命を実行すると発言した。史実、その後の足取りは合法的権力獲得闘争に向うことになる。 |
[ミュンヘン一揆裁判決下される]
4.1日、ミュンヘン北部の旧歩兵学校(下士官訓練所・その時は小学校)の校舎で「ミュンヘン一揆」の首謀者・ヒトラー、ペルネ、ウェーバー、フリック、クリーベル、ルーデンドルフ、ブリュクナー、レームらに判決が言い渡された。ヒトラー、ウェーバー、クリーベル、ペーナーは国家反逆罪により5年の禁固(未決拘留4ヶ月と2週間を算入、罰金200金マルク)、ルーデンドルフは無罪の判決が言い渡された。 |
[ヒトラー服役]
ヒトラーは5年の禁固刑に処され、ミュンヘン郊外南部のランズベルク刑務所の収容された。ヒトラーは囚人とは思えないような好待遇を受けて過ごす。 |
[ヒトラー強制送還の動き]
その後、オーストリア国籍のヒトラーのオーストリアへの強制送還を廻って争いが起こっている。警官4人(全員元兵士と言う)が殺されたミュンヘン警察当局はヒトラーの拘禁延長及びオーストリアによる執行猶予期間中の身柄引き受けをあくまで追求した。ヒトラーの弁護士は、刑務所内の行動が善良であることを理由に裁判所に執行猶予の嘆願を提出している。警察=検察(検察官シュテングライン)は、この動きに反対し更に執行猶予があればオーストリアに強制送還すべきだと主張した。オーストリア地方法務局はオーストリア国籍のヒトラーの身柄を引き受けることを約諾していた。ところが1924年5月、オーストリア首相ゼイペルが突然介入、オーストリア軍に従軍せず、ドイツ軍に従軍したヒトラーは受け入れられないと回答した。バイエルン行政当局はこの件で閣議も分裂したが、オーストリアが受け入れない以上、送還は不可能となった。 |
[ヒトラーが「我が闘争」を口述執筆]
ヒトラーは既に著名人となっていて、独房の鍵はかけられず、訪問者との面会も自由という特別待遇を受けた。差入れの本も自由でヒトラーは少なくとも1日2冊の本を読んだという。(ヒトラーは第2次大戦末期に至るまで1日1冊の読書を日課としていた) 獄中でヒトラーは著書「我が闘争(Mein Kampf)」の執筆をしている。口述筆記で、供に投獄されていた側近のルドルフ・ヘスがタイプライターでタイプした。 |
[ナチス党左派・グレゴール・シュトラッサーが一足早い活動開始]
この間、党内左派の中心人物で、ヒトラーとしばしば衝突したナチス党第二の実力者グレゴール・シュトラッサー(Gregor Strasser)は党首ヒトラーより先に出獄して元党員を組織した。次第に党内左派の実力者として台頭、北部の党組織をまとめ上げる。また、その秘書で後にナチ党のプロパガンダを担当するヨーゼフ・ゲッベルスはこのころ活動を始めている。
8.29日、ドイツ議会、ドーズ案を承認 (賠償金支払い問題)。アメリカのドーズを長とする委員会が1924年に採択された「支払い期限の延長とアメリカ資本の導入」を骨子とするドーズ案。このドーズ案によってアメリカから支援を受け、見返りに賠償の支払いを開始する。
12月、ナチス党は国会選挙で大敗した。ミュンヘン当局は安堵感に打たれヒトラーを釈放することに決定した。
【ヒトラー釈放され、すぐさま活動開始】 |
12.20日、禁錮5年刑を宣告されていたが僅か9ヶ月で釈放される。写真家のホフマンと印刷所のミュラーがベンツをかって出迎えた。1時間半後、ヒトラーはティエルシュ街のアパートに到着した。昨年の11月8日、家をあけ翌年のクリスマスの前に戻れたことになる。愛犬のアルザス種のシェパード、ブロンディだけが待っていた。そして部屋のなかは全国から郵送された同情の品物で埋まっていた。 出獄後、ヒトラーはすぐさまナチス党再建運動に乗り出す。ミュンヘン一揆のヒトラー自身の発言では、ドイツの指導者(少なくとも軍事的指導者)はルーデンドルフでありヒトラー自身はドラマーに過ぎないとしたが、出所後は独裁を要求する総統(フューラー)の地位を要求するようになった。ルーデンドルフとの関係は急速に悪化して行く。 |
【ヒトラーらがナチス党再建、ナチス党の最高指導者に就任】 |
1925(大正14)年、36歳の時、2.27日、ミュンヘン蜂起を行った同じビアホール(当時ビアホールは政党の集会場所として一般的に使用されていた)で、党の再建集会を実施。ヒトラーはナチス党を再建し合法政党として再出発させた。ナチス党の最高指導者に就任。再結成後のナチ党は、戦術を非合法的武装闘争から合法的大衆運動に転換し、選挙を通じて議会で多数派を形成し合法的に権力を奪取する方針の下、ヴェルサイユ体制や経済状況に対する国民の不満を味方に勢力を拡大していく。 ナチ党の選挙戦術は大衆にアピールする強烈なイメージを前面に押し出し、理性ではなく感情に訴えるもので、膨大な量のビラ・ポスター配布や、ラジオによる活発な政見放送など、今日の選挙戦のさきがけとなるものだった。また厳格な統制に従う突撃隊の行進による宣伝、街を埋め尽くす赤を基調としたポスターなどは視覚的なイメージで大衆に直接訴えかけた。1920年の末から1930年代の初めまで、ヒトラーはナチス党党首として精力的に活動する。 |
【6、ナチス党再建からヒトラーが首相に就任するまでの歩み】 |
[大統領選]
大統領選挙が実施された。ブルジョア保守派や中道派、社会人民党などの幅広い支持を得るパウル・フォン・ヒンデンブルクとカトリック中央党のマルクスと共産党のテールマン(Ernst
Thaelmann)が争い、ヒンデンブルグ 14,655,766、マルクス 13,751,615、テールマン 1,931,135という結果となった。
共産党は総得票の7%しか獲得できず国民の支持を得ることに失敗した。マルクスはカトリック中央党出身でワイマール三党支持。またワイマール共和国の共産党は社会民主党と激しく対立した。共産党の支持基盤はもし社会民主党が組織労働者だとすると、失業者だった。社会民主党は「ボルシェビキは浮浪者によって結成された軍国主義団体だ」と機関紙で公言した。
ヒンデンブルグが第2代ヴァイマル共和国大統領就任。ヒンデンブルグ=シュトレーゼマン外交は親英仏路線をとり、西部国境安定策を打ち出す(ポーランドを中心とする脅威、または東部国境の回復を考えた)。
この問題は実はドイツが外交上選択肢を持ちうることから発生している。すなわちベルサイユ条約でいかに外交上の地位と軍事について制限されようともドイツはヨーロッパで大国であることに変わりがない。
【ヒトラーがオーストリア国籍を離脱】 |
3月、出所後ヒトラーはオーストリア当局に国籍喪失の依頼書を提出した。すぐに認められ、オーストリア国籍を離脱した。かかった費用は7.5シリング。これから以降ドイツ国籍を取得するまで7年間ヒトラーは無国籍者となる。 |
総選挙。ナチス党は608議席中12議席しか獲得できなかった。
8月、シュトレーゼマンによる「ヤング案」受諾。
10.16日、 ロカルノ条約仮調印。12.1日、正式調印。
【ヒトラー親衛隊創設される】 |
この年、ナチス党の準軍事組織としては既にエルンスト・レームに率いられた突撃隊(SA)があったが、ヒトラー個人を警護するために突撃隊をから選抜された隊員たちによって親衛隊(Schutzstaffel
シュッツシュタッフェル、SSと略される)が結成された。 親衛隊は、ナチス党の準軍事組織として活動していくことになり、選りすぐりのエリートが選抜された。軍団として戦闘に参加した「武装親衛隊」(Waffen-SS)と、人種政策などを行なった「一般SS」(Allgemeine-SS)の二つがある。 1932年以前、SSはブラックタイおよびドクロの徽章を備えた黒いキャップを除いて、SAと同じ制服を着用していた。その後黒の制服、そして開戦直前にフィールドグレイ制服を採用した。ドイツの大衆は暴力的だったSAと比較して統制のとれたSSを賞賛した。SSのモットーは「忠誠は我が誇り」(「Meine Ehre heist Treue」)。親衛隊員には、体(左の腋下)に血液型をコード化した入れ墨があった。親衛隊員は優秀な存在であり、万一の場合には他の兵士に優先して輸血を受ける権利がある、という指導部の思想の為である。 歴代の親衛隊長官は次の通り。ユリウス・シュレック Julius Schreck(1925年-1926年)、ヨーゼフ・ベルヒトート Joseph Berchtold(1926年-1927年)、エルハルト・ハイデン Erhard Heiden(1927年-1929年)、ハインリヒ・ヒムラー Heinrich Himmler(1929年-1945年)、カール・ハンケ Karl Hanke(1945年) |
1926年(昭和1)年、37歳の時、ゼークトが罷免される。ヒンデンブルグ大統領とそりがあわず罷免された。ゼークトは、ヒンデンブルグとはゴルリッツ突破戦以来の遺恨のせいかソリがあわず、ウィルヘルム皇太子閲兵事件を機に参謀総長(統帥部長官)を退いた。
7.3日、このころ、多くの州でヒトラーの演説は禁止されていたが、チューリンゲン州では許されていた。このため同州ヴァイマールで第二回党大会を開催。この時の党大会で、4月に受けいれたヤング案を「ドイツ国民奴隷計画」だとして反対。突撃隊2万名以上が大デモンストレーションを決行した。当初は秩序だった行動で好評を得ていたが、次第にSPDやKPDの左翼の防衛組織や施設を攻撃したり、無秩序な暴力行為がエスカレートし、ニュルンベルクは無法地帯となっていく。
【ヒトラーがナチス党内左派を屈服させる】 |
この頃、ナチ党のバンベルク指導者会議が開かれ、ナチス党第二の実力者グレゴール・シュトラッサーはヒトラーに屈服、以後は党の全国組織指導者として彼の路線に従う。ヒトラーは、党内左派最大の実力者グレゴール・シュトラッサーとの権力闘争に勝利しする。 |
9.8日、ドイツ、国際連盟加盟。
12.12日、 連合国軍事監視委員会、ドイツからの撤退を決定。
1927年(昭和2)年、38歳の時、。
1928(昭和3)年、39歳の時、5月、国会選挙。ナチス党は、得票率2.66%、12議席の獲得にとどまった。
8.27日、 パリ不戦条約(ケロッグ・ブリアン協定)調印。
1928年頃からソ連ではスターリンの権力が磐石となり、資本主義第3期論が唱えられるようになった。これは資本主義が第3期の没落期にはいり、社会民主主義はその延命に手を貸す最悪の政治集団だと言うものだった。当時の主張は、「ナチスは社会民主党の破壊を狙っているからプロレタリア革命の先駆けである」に代表される。テールマンはモスクワに盲従した。このドイツ共産党の自主性の喪失は戦間期ドイツの歴史に複雑な影響を与えていくことになる。
【この頃のナチス党員数】 |
ナチス党の党員数は、1925年に2万7000人、1926年に4万9000人、1927年に7万2000人、1928年に10万8000人と着実に増大していった。 |
【親衛隊の長官にハインリヒ・ヒムラーが就任】 |
1929(昭和4)年、40歳の時、1.6日、ヒトラーは、親衛隊の長官としてハインリヒ・ヒムラーを任命。ヒムラーは、彼の片腕ラインハルト・ハイドリヒと共に組織を強化した。280人に過ぎなかった親衛隊員数は1932年末までに5万2千人に増加、一年後には20万9千人に膨れあがった。1934.6.30日の「長いナイフの夜」と呼ばれる粛清によって突撃隊指導部が壊滅した後、7.20日に親衛隊は突撃隊から独立してますます勢力を増した。 |
6.7日、ヤング案発表 (ドイツ賠償金支払い問題)。
ヤング案は保守派・NSDAP・在郷軍人団体・農業団体、つまり左翼政党以外のほとんどが反対した。産業界では未曾有の大不況は社会政策(現代の社会政策はまさにワイマール共和制がお手本を示していたのだが)の行き過ぎと批判していた。左翼の側も共産党(KPD)が社会民主党(SPD)をファシズムの同盟者として糾弾するなど分裂していた。
ヤング案は最終的に承認され、ヴェルサイユ条約によるドイツ監視機構はほとんど撤廃された。シュトレーゼマン死後ヒンデンブルク大統領や軍部のシュライヒャー将軍ら保守派は、SPDと手を切り、議会主義の終焉と権威主義政府の樹立というまさに逆コースをたどり始める。そして軍備拡張の機会を伺うようになる。
8.6日、(〜08/31/ヤング案・ラインラント撤兵問題)。
10月、ハインリッヒ・ホフマン(Hoffmann,Heinrich)の紹介で新入社員のエヴァ・ブラウンと出会う。
【世界大不況に突入】 |
10.24日、米国ニューヨーク株式市場(ウォール街)の株の大暴落に端を発した世界大不況に突入。 |
1930(昭和5)年、41歳の時、2.23日、党員ホルスト・ヴェッセルが共産党員ヘラーに殺害される。ゲッベルスはヴェッセルを殉教者に祭り上げ、盛大な葬儀を行って共産党に対する憎悪を煽り立てた。ヴェッセルの詩『旗を高く掲げよ』には曲がつけられ、『ホルスト・ヴェッセル・リート』という名で党歌になった。 |
3月、大連合政府が倒壊した後、帝政復活を目標とするカソリック系のブリューニング政府が樹立されるが、この内閣は少数内閣のためと政権のデフレ政策による失業者の増大や社会政策の後退政策ならびに給与引き下げ断行に政策が国民の不満を増幅させ、たちまち国会解散に追い込まれる。
【ナチス党が第二党に躍進】 |
9.9日、総選挙が行われ、ナチ党が107議席、1200万票、得票率18.3%を得て社会民主党に次いで第二党にまで躍進。ヒトラーは、ヴェルサイユ体制や深刻な経済不況と失業に対する国民の不満を利用して勢力を拡大した。 30年代前半は各政党の準軍事組織どうしの抗争で、街頭はさながら内戦状態に陥っていた。左右のそうした組織は、自己の隊列を組んで互いに行進の場所を奪い合っていた。Gobbelsは言う。「街頭はとにかく現代の政治の特徴だ。街頭を支配しうるものは、大衆を征服できる。従って、大衆を制するものが国家を征服するのだ」。 |
ヒンデンブルク大統領はパーペンに組閣させる。貴族中心の国会議員ゼロで組閣されたハーベン内閣では、国民の信頼を得るのには程遠く、逆に共和国への国民の信頼は急速に地に落ち、強力な政権待望論が彷彿(ほうふつ)するところなる。
1930(昭和5)年、1924年に採択された「支払い期限の延長とアメリカ資本の導入」を骨子とするドーズ案を修正した「賠償額の軽減や年賦支払い方式」を定めた案(いわゆるヤング案)には、左翼政党以外のほとんど団体、すなわちナチ党を含む保守派・在郷軍人団体・農業団体が反対したが、最終的に承認され(世界恐慌により実行不能となった)、これでヴェルサイユ条約によるドイツ監視機構はほとんど撤廃されることになる。
【ナチス党と共産党の共同行動】 |
1930年頃、ワイマール共和国の末期、ナチスと共産党の共同行動が見られている。ベルリンの借家人組合のストライキ。ベルリン東部の労働者地区。この時、ナチスと共産党は共闘を組んだ。この両者の組織が交じり合うことはないが、非常に似た運動方針をとり、また共同戦線を張ることが少なくなかった。そのうえ共闘はしばしば共産主義者からナチス党員へもちかけられた。反面両者が社会民主党と組むことはなかった。 |
1930年からスターリンは資本主義の全般的危機論を発表し、社会主義の祖国ソ連防衛のためと武装蜂起に備え、ドイツ共産党にその準備を強要した。この頃から相当の活動資金がソ連から提供された。各国共産党(コミンテルン支部)は具体的武装蜂起準備を開始した。このため1930年から1933年にかけてどの国の共産党も大混乱に陥った。ワイマール共和国は武装蜂起を扇動する政党にたいしても取り締まる術をもたなかった。
1931(昭和6)年、42歳の時、9.18日、ミュンヘンのアパートで、ヒトラーが姉のアンゲラから預けられ、面倒を見ていたヒトラーの姉の子すなわち姪のアンゲラ・ラウバル(姉と同名・通称ゲリ)がヒトラーの銃で自殺したのである。しかもヒトラーがゲリを殺したと疑われる状況になったいた。ヒトラーはこの19歳下の姪に恋愛感情を抱いていたとも言われ、大きな精神的ショックを受ける。またこのスキャンダルを政敵が利用すれば政治生命を断たれかねない状況であった。 結局、ヒトラーは自殺時に現場にいなかったことが証明されたが、しばらくヒトラーは悲しみにくれることとなった。ゲリの自殺の動機は、ヒトラーの子を身ごもったからとも、別の青年に求婚されて困っていたとも、すでにヒトラーと交際していたエヴァ・ブラウンがヒトラーに宛てた手紙を上着から見つけだし、嫉妬のあまり衝動的に拳銃で胸を打ったなどの説があるが、動機は永遠に謎となるであろう。 |
【ナチス党が国家人民党・鉄兜団などとハルツブルク戦線を結成】 |
10月、いまや一大政治勢力となったナチスは、国家人民党・鉄兜団などとハルツブルク戦線を結成し、工業界、農業界、軍部の有力者と提携を深める機会を得た。 |
【エルンスト・レームが突撃隊総司令官に復帰】 |
1923年のミュンヘン一揆後、南米に亡命していたナチス党の武装組織・突撃隊(SA)の創始者エルンスト・レーム(Ernst Roehm)がヒトラーの命で帰国、突撃隊総司令官(SS保安諜報部(SD)指揮官)に復帰した。 |
この年、ナチス党の大宣伝開始、党員150万人以上になる。
【ヒトラーがドイツ国籍を正式に取得】 |
1932(昭和7)年、43歳の時、ヒトラーがドイツ国籍を正式に取得。 |
1月、ヒトラーは、デュッセルドルフの工業クラブで、工業家たちをまえにして熱烈な反民主主義・反共産主義の演説を行った。こうしてナチス躍進の社会的基盤をなしていた新旧中間層、失業者、青年層に加えて、大工業家や大地主層の支援を獲得していった。保守的・右翼的勢力や政府は、共産党の進出に対抗できる勢力としてナチスを利用しようとした。しかしナチスの真の狙いは,これらの勢力と提携して勢力を伸ばしつつも、あくまで一党独裁体制の樹立にあった。
【ヒトラーが大統領選に出馬】 |
2.22日、ヒトラーは、資本家からも援助を受けて共和国大統領選に出馬する。現職の第一次世界大戦の英雄パウル・フォン・ヒンデンブルク大統領、共産党テールマン、国家人民党ディスターベルクと争う。選挙戦では健康不安のあるヒンデンブルグは1回も選挙演説をせず、ヒトラーは航空機を駆使し、精力的に地方遊説をこなした。ナチス党は、大規模な宣伝戦を実施し、バイエルンだけで800万のパンフレット、1200万の新聞号外、100万の絵葉書を配布する。 4.10日、結果は、保守派のヒンデンブルグ1865万票、ヒトラー1339万票。どちらも過半数を取れなかったため4月決選投票が行われる。ヒンデンブルグ1935万票、ヒトラー1341万票。ヒトラーは敗れる。ヒトラーはヒンデンブルクに敗れたものの30%の票を獲得しており、第二回の決選投票でも37%の得票を得ている。 |
【総選挙で、ナチス党が大躍進し第1党となる】 |
7.31日、総選挙が行われ、ナチス党が大躍進し、230議席、得票数100万票超、得票率37.4%(←18.2%)を獲得、第1党となった。(ただし過半数には達しなく、共産党も89議席を獲得して躍進する) |
ヒンデンブルク大統領(85歳)とシュライヒャー将軍ら保守派はヒトラーの要求を拒否して保守派の傀儡(かいらい=あやつる操り人形)政権を任命、社会民主党(SPD)との連携を解消して、軍備拡張の道をたどり始める。
ナチス党第二の実力者にしてナチ党組織局長グレゴール・シュトラッサーは、シュライヒャー内閣への副首相として入閣。これをめぐりヒトラーやヘルマン・ゲーリングと対立、党内のすべての役職を退く。
【二度目の総選挙で、ナチス党が党勢を足踏みさせる】 |
11.7日、総選挙。この時のナチ党は196議席、得票数100万票超、得票率33.1%。前回より34議席・200万票を失った。 オーバーシュレージェンの小村ポテンパでの攻撃隊隊員による共産党シンパ殴打事件で、ゲーリングやヒトラーがSA隊員への同情的発言を行ったため国民の反感を買ったと見られる。 |
【7、ヒトラーの首相就任から「第三帝国」誕生までの歩み】 |
【ヒトラーがワイマール共和国首相に任命される】 |
1933(昭和8)年、44歳の時、 ヒンデンブルグ大統領は、首相をパーペンおよびシュライヒャーと代えたが、ナチス勢力を押さえることはできず、政局が行詰まる。遂に側近らの説得を受けてヒトラーを首相に任命する。 1.30日、シュライヘル内閣の総辞職に伴い、ヒンデンブルク大統領はヒトラー(44歳)をワイマール共和国首相に任命する。 ナチス・右翼勢力の連立政府としてヒトラー内閣が成立した。かくて遂にナチ党は政権与党となった。党首ヒトラーが首相、ナチスナンバー2のゲーリングが国会議長、内相フリックとなった。その他多数の党員が議員となって構成された国会はナチスの独壇場であった。 ヒトラーが政権の座に就いた当時のドイツは、政党間の争いで半内戦の状態あり、失業者は560万人以上の最悪の状況であった。ヒトラー政権は「国民革命」と称して、州・自治体の権力を突撃隊(SA)などを使って掌握し、大都市のほとんど市長をナチ党員に交代させていった。 |
【ベルリンの国会議事堂放火事件が発生。ヒトラーが共産党を大弾圧】 |
2.27日、ベルリンの国会議事堂放火事件が発生。犯行はどうやらオランダ人共産主義者の単独によるものだったが真偽不明。 ヒトラーは、共産党の仕業と決めつけ党員をいっせいに拘束、共産党への徹底的な弾圧に乗りだした。そうした下で、国民の基本的人権と市民的自由権を大幅に制限する、「国民と国家を防衛するための大統領緊急命令」(「民族と国家のための大統領令」)を発布。こうして、「強制的ナチ化(Gleichshaltung)」が進行していくことになる。突撃隊によるプロレタリア闘争諸団体への弾圧・解体運動が促進した。 |
3.4日、ルーズベルトがアメリカ合衆国大統領に就任。
【総選挙で、ナチス党が大躍進】 |
3.5日、総選挙。もはや「自由選挙」とは程遠いものであった。選挙は、ナチスの武装部隊による武装襲撃や流血の惨事が繰り広げられる異常な状況で行なわれた。 ナチス党は288議席(得票率43.9%)を獲得し、得票数で600万票近く、得票率で10ポイント、議席数で100近くも増大させる大躍進を遂げた。連立相手の国家人民党52議席(得票率8.0%)と合わせて国会の過半数を制した。(共産党は100議席・得票率16.9%から81議席・得票率12.3%に減少した)。 ヒトラーは大統領選には敗れたものの続く国会議員選挙では激しいプロパガンダと積極的遊説によってナチ党を国会の最大政党に押し上げた。 |
【ヒトラー首相が、共産党を非合法化させる】 |
3.8日、総選挙の「勝利宣言」を出したヒトラー政権は、選挙直後の3.8日、共産党の議席の剥奪(はくだつ)宣言を発布して共産党を国会から排除した。 3.9日、 ドイツ共産党、社会民主党を非合法化、解散させる。その党員を吸収して第二次世界大戦の敗戦までドイツで唯一最大の政党であり続けた。3.3日、共産党の最高指導者テールマンを逮捕する。 ヒトラーは、政権獲得後、共産党を徹底弾圧した。これは、共産党の背後にユダヤの陰を見ていたことによる。社会民主党の活動家も強制収容所に入れられたが多くは短期間で釈放されたのに比して共産党員は大半が殺害された。 テールマンはヒトラー権力掌握後直ちに逮捕され収容所に入れられた。1933年ごろ、日本人記者がナチス党歌のホルストベッセルを歌わせられている服役中のテールマンを目撃している。そしておそらく収容所内で殺害された(「その後のドイツ共産党」)。 |
【ヒトラー首相が、反対派の徹底弾圧始める】 |
3.22日、最初の強制収容所となるダッハウ強制収容所が設立され、反対派の徹底弾圧が始まる。 |
【ヒトラー首相の経済政策】 |
ヒトラーが、シャハトを登用しその政策をとるとドイツ経済は一挙に蘇生した。 同年、ベルリン・モーターショーに出席。モーターショーでアウトバーンの建設を発表、自動車を国民の手の届くものにすることを宣言。モーターショー開催から3カ月後、フェルディナント・ポルシェと会談、国民車構想を示し、その設計を依頼。 |
【「全権委任法」獲得で、ヒトラー独裁体制確立する】 | ||
3.23日、ドイツ議会が、「全権委任法」を上程した。憲法改正によらず大統領権限を侵さない限り、ヒトラーに自由に法律の制定を認めるという向こう4年間ヒトラーに「白紙委任状」を認める全権委任法であった。
この法律の成立により、20世紀を代表する民主主義的憲法を意味したワイマール憲法は事実上停止状態に陥り、ワイマール共和政は崩壊する。共産党なきあと、法案に反対したのは社会民主党だけであった。しかし同党は、ナチス独裁に反対する本格的な闘争を何一つ組織しなかったばかりか、5月1日のメーデーにはナチスの「国民労働デー」を祝ってパレードするよう訴えたことにみられる迎合的態度に終始し、結果的にヒトラーの独裁政権を補完する役割を果たした。 つまりヒトラーは、1月30日の成立から6ヶ月、総選挙からわずか4ヶ月で独裁体制を確立することに成功したことになる。議会の機能を停止させナチ党独裁体制をしき、公然と人権侵害を行い民主制の原則を否定したナチズム的バーバリズム(barbarism=野蛮な行為)は、ここに極まったわけであるが、かような非民主的政治体制(ファシズム)が、民主憲法(政治)の中から生まれたとこもまた事実であった。 |
【ヒトラー政権が、社会民主党を非合法化する】 |
ヒトラーは、共産党についで社会民主党を非合法化し、国家人民党をナチスに吸収した。その他の政党は,相次いで自発的に解散した。 |
【ヒトラー政権が、ユダヤ人の公職追放政策に踏み出す】 |
4.7日、ユダヤ人が公職追放される。これがユダヤ人弾圧のはしりとなる。 |
【ヒトラー政権が、ゲシュタポ発足させる】 |
4.23日、ヒトラー独裁政権成立とともにナチス独裁体制を補完する反対勢力弾圧機関として秘密国家警察(Geheime
Staatpolize、略称ゲシュタポ・Gestapo)がまずプロイセン州で創設され、その後全国的に組織された。ルドルフ・ディールスは、プロシア州警察から招かれた初代長官。 初めは突撃隊(SA)のちには親衛隊(SS)と協力して共産党、社会民主党、ユダヤ人、そのほかナチ体制に批判的な知識人などに対して拷問やテロあるいは強制収容所送りなどによって激しい弾圧を加えていった。さらに、1938年初めのブロンベルク事件やフリッチュ事件のように卑劣な陰謀によってナチ体制に対して独立性を保持しようとする陸軍の将官の失脚さえはかった。秘密国家警察としてはソヴィェトのゲー=ペー=ウーがこれとともによく知られており、むしろゲシュタポの設立にあたってはゲー=ペー=ウーがモデルとされたといわれている。 4.26日、ヘルマン・ゲーリングが長官に就任。 |
【 ヒトラー政権が、ナチス入党停止令を公布】 |
5.1日、 ヒトラー、ナチス入党停止令を公布。 |
【ヒトラー政権が、メーデー襲撃】 |
5.2日、メーデーの翌日のこの日、ドイツ各地の労働組合事務所が襲われ、多くの組合員が逮捕され、解散を強制された。ナチス突撃隊と親衛隊を使って全国の労働組合総同盟の建物や事務所を武装占拠し、組合幹部を一斉に検挙。その後、労組はドイツ労働戦線に吸収されるなど、「強制的同一化(Gleichshaltung)」と呼ばれる、あらゆる団体組織のナチへの統合政策を遂行。 |
【ヒトラー政権が、焚書政策】 |
5.10日、ナチス党は、言論統制の一環として、ナチスに反する思想、ユダヤ人が執筆した書物を、「反ナチス的書物」として焼くという、いわゆる焚書を全国規模で行った。宣伝大臣ヨーゼフ・ゲッベルス(37歳)とナチス党青年同盟の主導で、反ナチス的な書籍を焼くという「焚書」がベルリン大学を始め、各地で行われた。対象になったのはカール・マルクス(共産主義)、レマルク(反戦小説)、トーマス・マン(民主主義)、ジークムント・フロイト(精神分析、ユダヤ人)、ハイネ(詩人、ユダヤ人)、アルベルト・アインシュタイン(学者・ユダヤ人)など退廃的とされたものとユダヤ人の著作。学生たちは熱狂し、「マルクスを焼け、フロイトを焼け、ハイネを焼け」というスローガンを叫び、焼かれる書物の炎のまわりで歌い踊ったと伝えられている。 ちなみにこの焼かれた本の中に、ハイネの詩集があった。その中に、次の一節があったのは、運命の皮肉であろう。「書物を焼く者は、いずれその炎で自身をも焼くであろう」。その12年後にナチスは戦火の中で滅んでいった。 |
5.17日、 ヒトラー、「大平和演説」。
6.22日、ヒトラー、社会民主党の活動を全面的に禁止。 最後に残ったカトリック中央党も7.5日、自主解散。こうして「一つの民族、一つの帝国(Reich)、一つの総統」というスローガンが完全に現実のものとなっていった。
【ナチス党の一党独裁体制敷かれる】 |
7.14日、ヒトラー、新政党の結成を禁止。ナチスを唯一の合法政党とする法律が発布された。ヒトラーの対抗勢力は共同して抵抗せず、個々に撃破されていった。当初ナチス党と連携的関係にあった、中央党(カトリック政党)、人民党、国家党などの中道、右派も力を失い自発的解散を強いられる。 「ナチスが共産主義者を弾圧した時、共産主義者でない自分は行動しなかった。ナチスは次に社会主義者を弾圧した。社会主義者でない自分は抗議しなかった。ナチスは、学生やユダヤ人に弾圧の輪を広げ、最後に教会を弾圧した。牧師の自分は立ち上がった。時すでに遅かった。『抗議するには誰のためではない、自分のためだ』」=ヒトラーに抗議し、収容所に送られたドイツの牧師マルティン・ニーメラーの言葉(04年8月8日付『朝日新聞』−「風 ロンドンから-外岡秀俊」から)。 |
7.20日、政教協約(コンコルダート)調印。
10.14日、ドイツ、ジュネーブ軍縮会議・国際連盟からの脱退を表明。
1933年から1945年までナチ党の組織は政府の組織とほとんど同一視され、党の組織であった大管区、管区、支部、細胞、班はそのまま国家の行政区分になった。鉤十字の党旗は国旗となり、『ホルスト・ヴェッセル・リート』は第二の国歌のように全国で歌われた。党の組織は生活の全てに浸透し、労働・教育・余暇など私生活の隅々までナチズムによって支配されていた。第二次世界大戦では防空や保安なども担当し、大戦末期には義勇兵団「国民突撃隊」の母体にもなっている。
1934(昭和9)年、45歳の時、4.11日、 ヒトラー、軍首脳と洋上会談。
6.14日、ヒトラーは、ヴェネツィアでイタリア統領ベニート・ムッソリーニと初会見。ムッソリーニはこのときヒトラーを「道化者」と評している。
6.22日、社会民主党がクーデター容疑で活動禁止される。
【ヒトラーとレームが対立】 |
1933年末より1934年にかけてナチスの突撃隊(SA)と国防軍との対立が尖鋭化していた。この頃、レームが、ヒトラーの政権掌握後、突撃隊を中心とした新たな軍隊の創設を試み、ドイツ国防軍との当面の提携を重視するヒトラーやゲーリングと対立。ハインリヒ・ヒムラーからの圧力で、ゲシュタポ長官ゲーリングがSSにゲシュタポのコントロールを与えることに合意した。 |
【レーム粛正事件、「長いナイフの夜」】 |
6.30日、15年来の同士であったSAのエルンスト・レーム隊長以下幹部をクーデター(一揆)企図の容疑で逮捕、80人以上を殺害することで決着をつけた(レーム粛正事件)。レームは、ヒトラーに対して正面向かって諫言を言えた数少ない一人であった。この粛清(レーム事件)は、レームがヒトラーの権威を脅かすことを恐れたヒトラーと航空相へルマン・ゲーリング(41歳)やナチ党の武装組織である親衛隊(SS=Schutzstaffel)全国指導者はハインリヒ・ヒムラー(34歳)によって行なわれた。 6.30−7.2日、いわゆる「長いナイフの夜」によって突撃隊長エルンスト・レームを初めとするSA党内外の政敵をSS隊員による非合法的手段で逮捕拘禁、処刑していった。政敵を一掃し、独裁体制を固める。約85名が犠牲となった。この事件で、ヒトラーは逆に国民の支持を獲得している。それはまさに実行力を強烈に印象付けた、つまりやれる男という評価を得たわけである。 ナチス党第二の実力者で、同党左派の流れを代表するグレゴール・シュトラッサー(Gregor Strasser)もレーム事件の際にゲシュタポに捕らえられ、裁判を経ずに射殺された。 ヒトラー政権は、シャハト(Horace Greeley Hjalmar Schacht 1877〜1970)財政下の好景気と最先端を行く新しい時代の党というイメージとがあいまって、世論の主導的な立場にある中間層、特に若者や大学生の間に熱狂的支持を得て、確実に勢力を拡大する。 |
8.2日、ヒンデンブルク大統領の死去。
【8、「第三帝国」誕生から第二次世界大戦突入までの歩み】 |
【ヒトラーが総統に就任】 |
8.19日、ヒトラーは、ヒンデンブルク大統領の死に伴い大統領の職を兼任し、「総統(Fuhrer
und Reichskanzler)にして首相」と呼ばれるようになった。国民投票で89.93%の圧倒的賛成でヒトラーの総統就任を認めた。国防軍はヒトラーへの忠誠を誓った。 中世の神聖ローマ帝国(962−1806年の第一帝国)、近代のビスマルク・ドイツ帝国(1871−1918の第二帝国)に次ぐ「第三帝国」(Das Dritte Reich)を成立させ、ヒトラーは、初代君主となった。 |
9月、ナチス党の党大会が開かれ、まさに「意志の勝利」となった。
[ヒトラーの経済政策]
同年 ベルリン・モーターショーで国民車構想を発表。ヒトラーの考え方には合理主義と科学万能主義があった。
[ヒトラーの再軍備政策]
ヒトラーは、再軍備に乗り出す。第1次大戦型の塹壕対峙という方法は時代遅れだとヒトラーはいち早く気づいた。1934年の知られざる時、ヒトラーは孤独に機甲師団の創設を決断した。この決断により第1次大戦でどうしても破ることのできなかった敵、フランスを45日間で打倒した。
【ヒトラーがスペイン内戦に介入】 |
ヒトラーがスペイン内戦に介入。スペイン内戦とは、1936.7月−1939.3月にかけてスペインで起きた人民政府と軍部・右翼勢力との内戦。これによりスペイン第二共和政が崩壊、ドイツ・イタリアの支持を得たフランコ将軍による独裁体制が確立する。 |
【国際連盟、ジュネーブ軍縮会議を脱退】 |
10.14日、ドイツが、「軍備の平等を認めないのはドイツへの差別である」との大義名分で国際連盟脱退、ジュネーブ軍縮会議を脱退した。この行動はヒトラーのあからさまのヴェルサイユ体制への宣戦布告であった。 |
【ザール地方が住民投票でドイツに帰属】 |
1935(昭和10)年、46歳の時、1月、ヴェルサイユ条約により国際連盟の管理下におかれていたドイツのザール地方の住民投票を行い、圧倒的賛成でドイツに帰属することとなった。 |
【再軍備宣言】 |
3.16日、ヒトラーは、再軍備宣言を行い、徴兵制の実施と空軍力の保持を明らかにした。これは明らかなヴェルサイユ条約違反であったが、英仏列強はこれを黙認した。 |
5.28日、 エバ・ブラウン自殺未遂。
【英独海軍協定】 |
6.18日、ドイツの再軍備宣言の3か月後、英独海軍協定が結ばれた。内容としては、ドイツ海軍は公式に英国海軍の35%の艦船の戦力保有を、潜水艦についてはイギリスの45%までの保有が認められた。当時のイギリス海軍艦艇の総排水量は124万トンであったので、その35%は、43万トンとなり、また、ヴェルサイユ条約で定めたドイツ海軍艦艇の総排水量は10万8千トンであったので、約4倍の海軍力を保有する事が可能となった。ヴェルサイユ条約では潜水艦の保有は認められなかったから、イギリスは自ら同条約を反故にしたことになる。 イギリスはこの協定を、フランスの事前通告なしに行った、いわゆる抜け駆け行為であり、ヴェルサイユ条約を戦勝国イギリスが自ら破り、ドイツの再軍備を暗に認める結果となった。背景には、過酷なヴェルサイユ条約にイギリスが同情的であったこと、また、この協定によってドイツの軍拡路線に歯止めがかかると読んでいた。しかし、その目論見は脆くも崩れ去ることになる。 |
【「ニュルンベルク法」(ユダヤ人迫害の法制化)を布告】 |
9.15日、「ニュルンベルク法」(ユダヤ人迫害の法制化)を布告。 ユダヤ人の市民権を剥奪及びほとんどの職業から締め出し、アーリア人との結婚を禁止した(アーリア人と1/4より血が濃いユダヤ人との結婚を禁止)。 |
【ヴェルサイユ条約破棄】 |
10.21日、 ドイツが、国際連盟脱退に続いてヴェルサイユ条約を破棄した。 |
【領土拡大政策その1、ドイツ軍がラインラントに進駐】 |
1936(昭和11)年、47歳の時、ヒトラーは着々とナチズムに基づく「大ドイツ」の復活を企図していく。その最終目的は「我が闘争」によれば、東方における「生存圏」の獲得であった。名目はそうであろうがドイツ帝国主義による新覇権争奪戦であった。
3.7日、ヒトラーはロカルノ条約で定められた非武装地帯ラインラントに侵入。英仏列強の弱腰を見抜いての行動であり、実際、英仏列強からの軍事的な制裁は行われなかった。しかし、内心はヒトラーはフランス軍の攻撃を恐れ、後年ヒトラーは、「進駐後の48時間は、私の生涯で最も神経を消耗した」と言ったという。 |
【ベルリンオリンピック大会】 |
8.1日−8.16日、第11回ベルリンオリンピック大会開催。巨費を投じた競技施設と五輪史上初の選手村、開会式に始まる大会期間中の華麗な演出、戦前最後となった同オリンピックはまたヒトラーの大会とさえいわれた。
ちなみに、この時期のユダヤ人迫害は一時的に停止された。 ヒトラーのさらなる政権の基盤強化と対外的に平和を望むというアピールに利用されたのが1936年8月の第11回ベルリンオリンピック大会だった。巨費を投じた競技施設と五輪史上初の選手村、初の開会式の聖火式や聖火リレー、初のテレビ中継大会など、期間中の華麗な演出はまさに現代オリンピックの原型であり、戦前最後となった同オリンピックは、ヒトラーの大会とさえいわれた。 記録映画「オリンピア」(邦題・「民族の祭典」「美の祭典」)の監督に抜擢されたのは、既に34年の党大会記録映画「意志の勝利」でヒトラーから評価された、女優レニ・リーフェンシュタールである。ちなみに、この時期のユダヤ人迫害は一時的に停止された。 |
10.25日、イタリア外相チアノ、ベルリン訪問 (ローマ・ベルリン枢軸)。
【日独防共協定調印】 |
11.25日、 日独防共協定調印。 |
ラインハルト・ハイドリヒがゲシュタポの長官およびハインリヒ・ミュラーが作戦部長になった。第二次世界大戦中に、ゲシュタポは約45,000人に拡張した。それはヨーロッパ占領地域を支配しユダヤ人、社会党員、同性愛者および他のものを識別することを支援した。ニュールンベルク裁判では、全組織が起訴され、人間性に対する犯罪の有罪判決を下された。
【ドイツ空軍、ゲルニカ(スペイン)爆撃】 |
1937(昭和12)年、48歳の時、4.26日、 ドイツ空軍、ゲルニカ(スペイン)爆撃。 |
【日独伊防共協定調印】 |
11.6日、日独伊防共協定調印。 |
【ヒトラー、軍の統帥権掌握】 |
1938(昭和13)年、49歳の時、2.4日、 ヒトラー、軍の統帥権掌握 (国防相、国防軍最高司令官兼任。陸軍司令長官を解任)。 |
【領土拡大政策その2、オーストリア併合】 |
2月半ば、ヒトラーは、オーストリア首相シュシニクをベルヒテスガルテン山荘に呼びつけオーストリア併合を強要した。これに対し、帰国したシュシニクはドイツによるオーストリア併合を避けるため、国民投票の手段に訴えようとした。しかし、ドイツはこの動きを封じるため、3.11日に事実上の最後通告を発し、翌日3.12日午前8時、急ぎオーストリアへ軍事侵攻した。オーストリアは抵抗せず、無血にうちに成功した。シュシニクは亡命し、代わりに首相となった親独派の内相ザイス=インクヴァルトは、この軍事進駐を要請の形で容認した。 3.13日、 ザイス=インクヴァルト首相が作成し、大統領W・ミクラスに承認を迫った。大統領は署名を拒否したが、その代わりに辞任して、一切の大統領権限を委託する旨の親書を、首相に手交した。全権委任された首相はヒトラーと署名し、即日発効した。その内容は次のの通り。 第一条 オーストリアはドイツ帝国の一州である。第二条 ドイツ帝国との再統合を確認するための秘密自由国民投票が、4月10日日曜日に行われる。 第三条 国民投票の結果は多数決による。 第四条 本法の施行に必要な準備は政令によって定められる。第五条 (一)本法は公布の日から発効する。 (二)政府が本法の施行を主管する。 「ドイツ帝国とオーストリア共和国の再統合に関す法律」の署名により、正式にオーストリアはドイツによって併合され、地図から抹消された(「ドイツ、オーストリア併合(アンシュルス=Anschluss=併合)」)。 かつての大ドイツ帝国を復活すべく、近隣のドイツ系住民が多数を占めている領土の割譲を要求するようになった。その最初のターゲットとなったのがオーストリアだった。このオーストリアはドイツと同じドイツ人の国家であったため、併合に抵抗がないものと当初から予想されていた。 オーストリア国内のナチス党員の協力なバックアップのもと、ドイツ軍は国境を越え、無血で併合した。その時のオーストリア国民は熱狂的にヒトラーを歓迎したが、その前日に反対勢力は突撃隊の粛清によって抹殺させられていた。 「我々がオーストリアに来たからといって怯える事はない。我々が貴方たちを指導するであろう」。ヒトラーはオーストリアへ入城を果たし、故郷に錦を飾った。大衆の歓声は割れんばかりのものだった。ヒトラーは、故郷の併合をドイツ帝国の復活と喜び、そしてオーストリアをオストマルクと改称させた。 |
【フォルクスワーゲン生産工場(ファーラースベーン近郊)起工式】 |
5月、フォルクスワーゲン生産工場(ファーラースベーン近郊)起工式。ポルシェ設計の乗用車を「Kdfワーゲン」と命名。他方、戦車などの戦闘車両を迅速に展開させるためにドイツ国内を縦横に走る高速自動車道「アウトバーン(Autobahn)」を建設、また、一般大衆でも購入可能な比較的安価な国産車の製造を命じ、大衆車フォルクスワーゲン(Volkswagen)を誕生させた。 |
5.27日、日本青少年ドイツ派遣団出発。8.16日、ヒトラー・ユーゲント30人が横浜に到着。
【領土拡大政策その3、チェコスロバキアのズデーテン地方の割譲を要求】 |
領土拡張を目論むドイツは、ドイツ系住民が多数住むズテーテン地方の割譲をチェコスロバキアに強要したが、チェコスロバキア政府はこれを断固として拒否し、動員令を発令し戦争を辞さない姿勢をとった。また、フランスとソ連(当時)はそれぞれ1924年、1935年にチェコスロヴァキアに対する援助条約を結んでいたので、ズデーテン・ドイツの問題が大きな戦争に発展する危険が生まれた。 9.14日、イギリス政府、ドイツ政府に平和的解決のための緊急会談を申し入れるため、チェンバレン英首相、ミュンヘンへ。9.15日、チェンバレン英首相、ミュンヘン到着。ヒトラーとチェンバレンの会談でチェンバレンはチェコスロヴァキアからズデーテン地方を分離することに同意し、イギリス帰国後閣議でも同意を取り付ける。9.18日、イギリスとフランス両政府首脳はロンドンで会談し、いかなる代償を払っても戦争を避け、チェコスロヴァキアに「ズデーテン地方をドイツに割譲」という英仏共同提案を受諾させることを話し合った。 9.19日、ベネシュ・チェコスロヴァキア大統領、英仏共同提案を拒否。9.20日、クロフタ・チェコスロヴァキア外相、英仏共同提案を拒否。ベネシュ大統領はソ連公使にソ連の意向を打診するが、満足いく協力を得ることができなかった。9.21日、ベネシュ大統領、英仏両国公使の訪問を受け、英仏提案受諾を強要される。9.22日、ハンガリーとポーランド両国、チェコスロヴァキア政府にそれぞれ自国人が居住する地域の割譲を要求。チェコスロヴァキアのホッジャ内閣辞職。 9.24日、ドイツ政府はチェコスロヴァキア政府に対しズデーテン地方の割譲を要求。フランス、軍動員令を発する。 9.25日、イギリスとフランスは会談し、「フランスがチェコスロヴァキアとの条約義務で対独戦開始の場合、イギリスはフランスを支援する」ことを確認。 9.26日、チェコスロヴァキア、国民総動員令を発する。イギリス、外務省が明確に参戦の意思を表明。ルーズベルト米大統領、「直接利害のある国家は会談をすべき」と発表。9.27日、イギリス、軍動員令を発し、学童疎開なども始める。ユーゴスラヴィアとルーマニアはハンガリーに対し「チェコスロヴァキアを攻撃した場合、両国は軍事行動に出る」と警告を発する。イタリア、国境に軍隊を移動開始。 9.29日、ミュンヘン会議開始。戦争拡大をおそれたヨーロッパ列強は、戦争回避の方法を模索し、イタリアの仲介でミュンヘンでチェコ問題を話し合った。参加国はイギリス(ネヴィル・チェンバレン首相)、フランス(ダラディエ首相)、ドイツ(アドルフ・ヒトラー総統)、イタリア(ベニト・ムッソリーニ首領)。 会議は終始、ヒトラーの独壇場となり、また戦争回避を望む英仏の思惑もあって、この会議で取り決められたミュンヘン協定には、チェコスロバキアの国家主権・領土保全を条件にドイツへのズデーテン地方割譲を認めるというヒトラーの主張がそのまま盛り込まれた。しかし、この協定は、当事国チェコスロバキア(この時、参加が許されず、会議の隣室で結果を待つ身であった。)と、隣国の大国ソ連抜きで行われたこと(このことは後に英仏と、ソ連、チェコスロバキアの間に大きなしこりとなって影響していく)、なにより英仏の譲歩的な態度がヒトラーを増長させる結果となった。 9.30日、チェンバレン英首相、隣室で待っていたチェコスロヴァキア代表に結果を報告。領土割譲を英仏から強いられたチェコスロバキアは当てにしていた国際的な支援の道が絶たれたことに落胆し、この要求を受け入れた。これは、同様に領土拡張の野心を持った近隣諸国、ポーランド、ハンガリーを刺激し、チェコスロヴァキア政府に自国民が多数を占める地方、ポーランドはテッシェン地方(1938.8月併合)、ハンガリーは南部スロヴァキア(1938.11月併合)とルテニア地方(1939.3月併合)の割譲を要求した。これに対し、チェコスロヴァキア政府は抗することもできず、唯々諾々とこれを認めてしまう。 チェンバレン英首相、ヒトラーの私邸を訪ね、ドイツ・イギリス共同の不可侵宣言を発表し「平和確保のためのドイツ・イギリス関係の維持」との共同声明を発表。チェコスロヴァキア新首相シロヴィー、ミュンヘン協定を受諾。 9.30日、ヨーロッパ列強(英仏独伊)4ヶ国によってチェコスロバキア問題が話し合われ、ミュンヘン協定が成立し、8項目からなる協定書、付属協定、3つの付属宣言が9.29日付けで署名された。チェコスロヴァキアのズデーテンラントをドイツへ割譲することが決定された。ミュンヘン会議終了。 10.1日、ドイツ軍、ズデーテン地方に進軍。 |
【最初のヒトラー暗殺計画未遂】 |
この頃、ドイツ国防陸軍大将・ルートヴィヒ・ベック、ヴィルヘルム・カナリス提督を中心に最初のヒトラー暗殺計画。ウィッツレーベン予備役元帥も参加表明していた。カナリス大将は、1945年に銃殺刑に処されている。 |
1939(昭和14)年、50歳の時、1.20日、ドイツ中央銀行総裁H・シャハト解任。
3月、ウェルナー・フォン・ブラウンらのA-4ロケット研究を視察。
【領土拡大政策その4、チェコスロヴァキアの解体】 |
3.15日、ドイツ軍、チェコに武力進駐。 3.16日、ヒトラー、チェコスロヴァキアのボヘミア・モラビアの保護国化宣言 (チェコスロヴァキアの解体)。ヒトラーは、チェコスロヴァキア大統領ハーハをベルリンに呼びつけ、チェコスロヴァキア政府に対し、ボヘミア、モラヴィア地方をドイツ領とする協定への署名を強要し、署名されない場合は、チェコスロヴァキアの首都プラハを空襲すると脅した。ヒトラーによって周到に仕組まれた国内の民族運動で国内の統一も失われ、ズデーテン要塞地帯を失い丸裸となったチェコスロヴァキア政府はこれに抗することはできず、大統領ハーハは署名し、3.15〜16日、ドイツ軍はチェコに進駐した。5.16日、ベーメン・メーレン地方はドイツ保護領に、9.1日、ベーメン・メーレン地方がドイツに併合され、チェコスロヴァキアは地図から消滅した。 |
【領土拡大政策その5、ポーランドにダンチヒ割譲を要求】 |
3.21日、 ドイツ、ポーランドにダンチヒ割譲を要求。3.26日、 ポーランド拒否。 |
【領土拡大政策その6、メーメル(リトアニア)併合】 |
3.23日、ドイツ、メーメル(リトアニア)併合。 |
【独伊が「鉄の同盟」調印】 |
5.22日、独伊軍事同盟(鋼鉄協約)調印(「鉄の同盟」)。 |
【独ソ不可侵条約締結】 |
8.23日、独ソ不可侵条約締結。 |
この年、ハイドリヒがゲシュタポ(国家秘密警察)とSD、刑事警察機構を統合した国家保安本部(RSHA)長に着任した。
【領土拡大政策その7、ドイツ軍がポーランド侵攻】 |
膨張政策を着々と進め、ついに、ポーランド回廊を巡って、ポーランドと対立。 9.1日、ドイツ軍がポーランド侵攻。赤髭(バルバロッサ)作戦発動。ドイツ軍はヒトラーの指示に従いポーランド国境を破った。ドイツ軍がポーランドへなだれ込んだと同時に、ヒトラーは大歓声と共に宣戦を布告。第一次世界大戦の二の舞を踏まない事、国民の向上を声高く叫んだ。ポーランドは今やドイツ軍とロシア軍の好き放題できる地と化していた。 ワルシャワ陥落。ドイツ軍の機動力は凄まじいの一言に尽きた。「電撃作戦(Blitzkrieg)」開始。この頃から日本でも電撃的〇〇という言葉が多用されるようになる。ポーランドは幾日も耐える事なく、赤軍とドイツ軍に蹂躙され、ワルシャワの包囲を抵抗する間も無く許してしまう。ヒトラーは包囲され、爆撃されるワルシャワを凝視して、次の戦争の事を考えていた。 |
【10、第二次世界大戦緒戦の優位期】 |
【第二次世界大戦開始】 |
同盟を結んでいたイギリス、フランスもドイツに宣戦布告。これによって第二次世界大戦を開始する。 |
開戦当初は「電撃戦」が効を奏し、戦局はヒトラーの思うとおりに運び、一時、ナチの占領下もしくは親独政権下におかれた地域は、中立国(スイス、スウェーデン、トルコ)を除くヨーロッパ大陸部のほぼ全域に及んだ。
9.3日、英仏、対独宣戦布告。開戦当初は「電撃戦」が奏効し、戦局を有利に運んだが、対ソ戦の失敗・アメリカの参戦等により、戦局が次第に悪化。
9.17日、 ソ連軍、ポーランド東部に侵攻開始。 独ソ間で「ポーランド分割」。
【ナチスの迫害と虐殺】 |
その過程で、ポーランドのアウシュビッツに監獄が開かれる。ユダヤ人、シンティ・ロマ(いわゆるジプシー)、ロシア人・ポーランド人・セルビア人などのスラヴ人、精神障害者、身体障害者、同性愛者、ナチスに抵抗する人々に対する言語に絶する迫害と大虐殺(破壊と殺戮)を行った、とされている。 |
1940(昭和15)年、51歳の時、4.9日、ドイツ軍、ノルウェー侵攻開始、無血占領。 ドイツ軍、デンマーク無血占領。
5.10日、ドイツ軍、西部戦線に総攻撃開始。
5.10日、イギリスで、チャーチル内閣成立。
5.13日、オランダ、ロンドンに亡命政権樹立。
5.27日、イギリス軍、ダンケルク撤退開始 (06/04 撤退完了)。
6.10日、イタリア、英仏に宣戦布告。
【ドイツ軍、パリ入城】 |
6.14日、ドイツ軍、パリ入城。6.18日、 ド・ゴール将軍、自由フランス委員会設立 (ロンドン)。6.22日、フランス(ペタン政府)降伏。国土の3分の2をドイツが占領。 |
【ヒトラーが国防軍最高司令官に就任】 |
7.31日、ヒトラーは国防軍最高司令官に就任し、作戦面でも戦争の最高指導者となる。 |
9.7日、ドイツ空軍、ロンドン爆撃開始。
【日独伊三国軍事同盟調印】 |
9.27日、日独伊三国軍事同盟調印。 |
10.12日、 ヒトラー、英本土上陸作戦(あしか作戦)中止を決定。
10.23日、ヒトラー・フランコ(スペイン統領)会談。
11.12日、ヒトラー・モロトフ(ソ連外相)会談 (ベルリン)。
12.18日、 ヒトラー、ソ連侵攻作戦(バルバロッサ作戦)準備を指令。
12月、第二次世界大戦開始時までにSSの隊員数は25万人に上り、その中からSS戦闘師団(SS-VT)が組織された。この頃、SS-VTは武装親衛隊に改名された。一方、一般SSは国防軍や武装親衛隊の補充に人員を取られ、終戦時には4万人程度の弱小組織になってしまう。また実行部隊と呼ばれる部隊はウクライナなどのドイツ占領地域において、劣等民族とされた住民を徹底的に殺戮した後にドイツ人を入植させてナチズムに基く人種政策を実行した。
第二次世界大戦末期ドイツの敗色が濃厚になると、連合国による非人道的行為への追及を恐れたSS指導部はアルゼンチンを拠点としてオデッサ(Organisation Der
Ehemaligen
SS-Angehorigen―「元SS隊員の組織」の頭文字)と呼ばれる逃亡者支援ネットワークを組織した。
「オデッサ」は教皇庁や米軍諜報機関などとのコネクションを使って「ラットライン」と呼ばれる逃亡ルートを築き、絶滅収容所へのユダヤ人移送責任者だったアドルフ・アイヒマンや、アウシュビッツで人体実験を行った「死の天使」ヨーゼフ・メンゲレ、ゲリラ攻撃を受けた報復にローマ市民400人の殺害を命じた大尉エーリッヒ・プリーブケ、「リガの屠殺人」と称された強制収容所長エドゥアルト・ロシュマンなど多くの戦犯が、これによってニュルンベルク裁判の追及を逃れてラテンアメリカに渡った。
1940年にはオランダ・ベルギー、ノルウェイ・デンマーク・長年の宿敵フランスを武力により占領。
1941(昭和16)年、52歳の時、3.5日、 ヒトラー、「対日協力」を指令。
3.27日、ユーゴ、反独クーデター。
3.27日、 松岡・ヒトラー会談。
4.6日、 ドイツ軍、ユーゴ・ギリシア侵攻開始。
4.13日、 日ソ中立条約調印。
4.23日、ギリシア軍、ドイツに降伏。
5.10日、ヘス事件。
【ドイツ軍が独ソ不可侵条約を破り、ソ連に侵攻】 |
6.22日、ドイツ軍が独ソ不可侵条約を破り、ソ連に侵攻。モスクワ攻略作戦(台風作戦)発動(「独ソ戦開始」)。緒戦はドイツの圧勝であったが、「冬将軍」などの気象条件の悪化により、ソ連を打倒できなかった。 ヨーロッパの大半を手中に収めたナチスドイツは1941.6月、独ソ不可侵条約を破棄してソ連領内に電撃的に侵攻、スターリンをあわてさせる。独ソ戦の始まりである。戦局は当初ドイツ側が優勢で、前線はモスクワ近郊まで迫っていた。しかし例年より早く訪れた(ナポレオンを敗退させた)「冬将軍」でドイツ軍の進撃は鈍り、さらに翌年9月からシベリアから投入されたソ連軍の精鋭部隊による総攻撃にあい(スターリングラード〔現ヴォルゴグラード〕の攻防)、約5ヶ月にわたる激戦で、ドイツ軍の最精鋭部隊20万は壊滅、戦局はソ連有利に傾き始める。やがてソ連軍は反撃に転じ、ナチ占領以下のソ連領内はもとよりポーランドやバルカン半島にも進撃を始める。 |
6.22日、コンピエーヌでのフランスとの休戦協定調印に出席。6.23日、パリを訪れる。エッフェル塔、廃兵院、ノートル・ダム寺院、オペラ座、モンマルトルの丘等を訪問。ナポレオン1世の棺を見学(棺の上に帽子を置き感慨深げに見守ったと伝えられる)。レ=アルの商品取引所の円屋根を指して、「あれは取引所だろう」と指摘したと言われる。オペラ座についても抜群の知識を有し、建築された当時の楕円形ホールの存在を指摘したと言われる。(あまりにパリについて詳しいので、パリを訪れたのは一時期パリに在住していたヒトラーの異母兄であったとする影武者説もある)
8.2日、アメリカ、対ソ経済援助開始。8.14日、大西洋憲章 (米英共同宣言)。
【アウシュヴィッツ収容所でのユダヤ人絶滅政策稼動】 |
9月、アウシュヴィッツ〔Auschwitz ポーランド南部の都市オシベンチムのドイツ名。1939年9月3日にドイツによって占領され、その約1ヶ月後の10月8日に「第3帝国」に統合され、アウシュビッツになった〕で、毒ガスによる虐殺実験か行われた、とされている。以来、アウシュビッツ収容所だけで150万人の命が奪われ、ユダヤ人犠牲者は総計すれば600万人に及ぶ、と伝えられている。この数は、第2次大戦中の日本の戦死・行方不明者〔軍人・軍属〕240万人〔一般市民・原爆被害者を含める約310万人〕に比しても驚愕すべき虐殺数である。 |
10.2日、ドイツ軍、モスクワ攻略作戦(台風作戦)発動。
12.5日、ソ連軍、対独反攻開始。
独ソ戦の形勢が不利になると作戦の細部にまで介入するようになり、参謀本部との関係は悪化した。また1941年12月にはユダヤ人の組織的殺害(ホロコースト)を指示したとも言われる。
12.6日、 ヒトラー、モスクワ攻撃放棄を指令 (撤退開始)。
12.8日、 ヒトラー、モスクワ攻撃放棄を指令 (撤退開始) 。
1941(昭和16)年、陸軍最高司令官兼任。
【日独伊が対米宣戦布告】 |
12.11日、日本の真珠湾攻撃に呼応する形で独伊、独伊が対米宣戦布告。演説では「 我々は戦争に負けるはずがない。我々には三千年間一度も負けたことのない味方が出来たのだ。」と日本を賞賛しアメリカに宣戦を布告した。しかしドイツにとって日本の参戦はあまりに遅く、いまや負担を増すばかりの同盟に、ヒトラーは不快の念を側近に密かに打ち明けている。 |
1942(昭和17)年、53歳の時、8.22日、 ドイツ軍、スターリングラード猛攻撃開始 (スターリングラード攻防戦)。
10.3日、A-4ロケットの打ち上げ成功。
11.8日、連合軍、北アフリカ上陸開始。
11、第二次世界大戦一進一退期 |
11.19日、ソ連軍、スターリングラードで反撃開始。
1943(昭和18)年、44歳の時、2.2日、スターリングラードのドイツ第6軍、全軍降伏。
3.13日、東部戦線のスモレンスクを視察したヒトラーを爆殺しようとヘニング・フォン・トレスコウ少将が計画した。副官のファビアン・フォン・シュラーブレンドルフ中尉に爆弾入りのリキュールの瓶をヒトラーの搭乗機に持ち込ませたが、雷管に不具合が生じたため爆発せず失敗、爆弾は密かに回収され計画は明るみに出なかった。
7.7日、ウェルナー・フォン・ブラウン、ヴァルター・ドルンベルガー将軍らを総統司令部に呼び出し、1942(昭和17)年10月3日のA-4ロケットの記録映画を見る。この時、「なぜ諸君の仕事が信じられなかったのか。1939(昭和14)年にこのロケットを持っていたら、今回の戦争は起こらなかった」とつぶやいたと伝えられる。
7.10日、連合軍、シシリー島上陸 (ハスキー作戦)。
7.25日、 ムッソリーニ逮捕。 バドリオ政権成立。
9.8日、イタリア、無条件降伏。
9.10日、ドイツ軍、ローマ占領。9.12日、
ドイツ軍特殊部隊、ムッソリーニ救出。9.15日、ファシスト共和政府樹立 (首相:ムッソリーニ)。
9.15日、日独共同宣言。
1944(昭和19)年、55歳の時、1.20日、ソ連軍、レニングラード解放。
6.6日、連合軍、ノルマンディー上陸作戦開始 (オーバーロード作戦)。
東側でのソ連軍の猛攻に遭遇している一方でドイツは、西側からアメリカ軍を主力とした連合国軍が反攻作戦にさらされる。その本格的な反撃が1944年6月6日のノルマンディー上陸作戦であった。さらに1943年に降伏していたイタリアなど地中海方面からも連合国軍は上陸、ナチスドイツは3方面から完全に包囲され、その敗北は決定的なものとなる。
6.15日、ドイツ軍、V1ロケットでロンドン爆撃開始。
1943年のクルスクの戦いを境にソ連が次第に優勢となり、1944.6月の米英加軍のフランスのノルマンディー上陸作戦成功により、二正面作戦を強いられたドイツは次第に崩壊していく。
大戦末期のヒトラーの生活は「狼の巣」と名づけた総統地下壕にこもって昼夜逆転の生活を送りながら、新兵器の開発によるフリードリヒ大王のような奇跡の大逆転に望みをつなぐ日々だった。
7.20日、クラウス・シェンク・フォン・シュタウフェンベルクによる暗殺未遂事件が起こり、数人の側近が死亡・負傷したがヒトラーは奇跡的に無傷だった。 ヒトラー暗殺計画失敗。ドイツ国防軍の士官によってクーデターが計画された。計画の首謀者は陸軍大佐クラウス・フォン・シュタウフェンベルク。ルートヴィヒ・ベック大将、エーリッヒ・フェルギーベル中将、ヘニング・フォン・トレスコウ少将を始めとする多くの将官、元ライプチヒ市長カール・ゲルドレール、アルフレッド・デルプ神父が参加し、エルヴィン・フォン・ウィッツレーベン元帥やギュンター・フォン・クルーゲ元帥も含まれていた。
ヴァルキューレ作戦と名付けられた計画は東プロシア、ラステンブルクの司令部「ヴォルフスシャンツェ(狼の巣)」で、シュタウフェンベルクがヒトラーの座席付近に時限爆弾を仕掛け殺害し、次にベルリンで蜂起軍を指揮する予定だった。新政府の布陣はベックが国家元首、ゲルドレールが首相に就任予定であった。
シュタウフェンベルクとヴェルナー・フォン・ハエフテン少尉によって爆弾は予定通り仕掛けられたが、予期せぬ状況で失敗した。当日の気温が高かったため、地下室で行われる予定の会合は地上で行われた。さらにシュタウフェンベルクは二個の爆弾のうち一個しか仕掛けることが出来なかった。また、爆弾の入ったアタッシュケースが邪魔だと言うことで移動させられた上に会議用テーブルが遮蔽物となり、四人が死んだがヒトラーは爆風から守られ奇跡的に生き残った。
シュタウフェンベルクとハエフテンはベンドラー街にある国防省の共謀者に会うためにベルリンに飛んだ。シュタウフェンベルクはベルリンでヒトラーの生存を知り作戦の失敗を悟った。蜂起軍を指揮する予定だったフリードリヒ・オルブリヒト将軍はヒトラーの死に確証が持てなかったため行動しなかった。
軽傷で済んだヒトラーは、その日の深夜ラジオで演説し、暗殺者と黒幕の粛清に乗り出すことを宣言した。シュタウフェンベルク大佐、オルブリヒト将軍、アルブレヒト・メルツ・フォン・クイルンハイム大佐およびハエフテン少尉は、ベルリンの国防省の中庭で銃殺された。ベック大将は自決した。現在ベルリンの国防省跡には彼ら五人の名を刻んだ記念碑が建っている。エルヴィン・ロンメル元帥は計画への関与を疑われ、自殺を強要された。ヒトラーは4,000名に及ぶ計画への関係者を処刑し、そのうちの何名かはベルリンのプレッツェンジー刑務所でピアノ線で吊された。トレスコウ少将を含む6名が自殺した。マンシュタイン元帥は余暇に出ていたため、難を逃れた。彼の副官がトレスコウ少将の従兄弟であり、計画のほぼ全容を知り得ていたからである。この暗殺未遂に対するヒトラーの復讐は、大戦終結直前の1945.4月まで続けられた。
10.11日、ソ連軍、ドイツ国境を突破。
10.14日、ロンメル、服毒自殺。
12、第二次世界大戦敗色期 |
1945(昭和20)年、56歳の時、1.30日、ヒトラーはこの日のラジオ演説を最後にしており、以降はやめている。
2.4日、ヤルタ会談。2.11日、ヤルタ協定 (スターリン、対日参戦を約束)。
3月、「ドイツは世界の支配者たりえなかった。ドイツ国民は栄光に値しない以上、滅び去る他ない」と述べ、連合軍の侵攻が近い地域の全生産施設を破壊するよう「焦土命令」または「ネロ指令」と呼ばれる命令を発するがこれは軍需相アルベルト・シュペーアによってほぼ回避された。
4月、ベルリンに追い込まれる。
4.5日、ソ連、日ソ中立条約の不延長を通告。
4.22日、 ソ連軍戦車隊、ベルリン市街に突入。
4.27日、エヴァ・ブラウンと結婚。
4.27日、ムッソリーニ逮捕 (04/28 銃殺)。
4.30日、首都ベルリンへのソ連軍侵攻を目前にして、愛人エヴァ・ブラウンと結婚。その翌日総統官邸地下壕において妻エヴァ・ブラウンと共に自殺した。遺体が連合軍の手に渡るのを恐れたヒトラーの遺体はガソリンをかけて焼却されたため、その死亡は証言によって間接的に確認されただけだった。ひどく損壊した遺体はソ連軍が回収し、検死もソ連軍医師のみによるものだったため西側諸国にとっては不可解な部分が残り、後にヒトラー生存説が唱えられる原因となった。
【ヒトラー自殺】 |
5.1日、総統官邸に突入したソ連軍が遺体を発見。5.8日、ヒトラー直属の歯科技工士、カーテ・ホイザーマンによってヒトラーとエヴァ・ヒトラー(エヴァ・ブラウン)の遺体が確認される。遺体は解剖後、歯や頭蓋骨の一部を写真撮影をし、ベルリン北部の町に埋葬された。再確認のために再び発掘され、歯だけが取りはずされてモスクワへ運ばれる。ソ連軍防諜部隊(スメルシュ)の駐留地移転に伴い、7回改葬される。8回目は旧東ドイツのマグデブルクにあったソ連軍防諜部隊基地のコンクリートで固めた裏庭に埋葬されたが、基地が東ドイツに返還されることになり発掘される。 |
【ドイツ、無条件降伏】 |
5.7日、 ドイツ、無条件降伏 (ベルリン陥落)。 |
【ナチス党解散させられる】 |
1945年ドイツが連合軍に降伏するとナチ党は事実上解散、同年9.10日には法律によって禁止され、「犯罪的な組織」と認定された。現在もドイツ国内では「反ナチ法」によって、出版物・装備品復刻、礼式を真似るなど賛美につながる一切の行為が禁じられている。 |
7.7日、ポツダム会談 (〜08/02)。
8.8日、ソ連、対日参戦 (08/09 満州侵攻開始)。
【 ニュルンベルク国際軍事裁判】 |
1945.11.20日、 ニュルンベルク国際軍事裁判開廷 (〜46/10/01)。 1946.10.01日、 ニュルンベルク国際軍事裁判判決。 10.15日、ゲーリング(ドイツA級戦犯)自殺。 |
【 その後の出来事】 |
1970(昭和45).3.13日、ユーリ・アンドロポフKGB議長が、ヒトラー夫妻とヨーゼフ・ゲッベルス一家の遺体10体を完全に焼却し、遺灰を空中散布することをレオニード・ブレジネフ最高会議議長に提案。4月5日未明、極秘計画「アルヒーフ(古文書)」遺灰の空中散布を実施。 |
(私論.私見)