大韓航空機撃墜事件について
プロローグ
「例え1千年生きようとも、私はあの少女達の事を忘れない。私のこの膝の上で遊び、笑い、頬に口付けしたあの娘達。手を握り、投げキッスをしながら007便に乗り込んでいった少女達。愛らしい二人の少女、忘れようとしても忘れられるものではない。何故、あの少女達が犠牲にならなければならないのだ……」
こう語ったのは、ジェシー・ヘルムズ上院議員だと云う。大韓航空007便がソ連(当時)領空を侵犯し、撃墜されたあの事件についてのアメリカ上院での演説の一部という訳である。奇しくもヘルムズ議員は、アンカレッジのトランジット・ラウンジで007便の乗客と顔を合わせていた。彼が語ったグレンフェル家の娘、ステーシー(3歳)とノエル(5歳)の姉妹は、彼の機より14分早く飛び立つ問題の機に乗り込んでいった。1983年8月31日午後9時20分、その機はアンカレッジ空港を飛び立った。それが、最後に目撃された007便の乗客達の元気の姿だった。
ところが、それから8年後の1991年、11歳と13歳になったステーシーとノエルが、ハバロフスクの第三医科大学構内の孤児院から何処かへ連れ去られた事が判明した。なんと、姉妹は生きていたのである。
1章 早すぎた死亡宣告ーー大韓航空007便の乗員乗客達
(1) 誰も疑わなかった「007便」乗員乗客269名の死
●本当の謎は、何処にあったのか
1983年9月1日未明、ニューヨーク発アンカレッジ経由ソウル行きの大韓航空(KAL)007便ボーイング747ジャンボ機が樺太(サハリン)沖のモネロン島上空で、ソ連戦闘機のミサイル攻撃により撃墜され、乗員乗客合わせて269名が死亡ーー所謂”大韓航空機撃墜事件”を教科書風に述べると、おおむねこうなる。
16年目(1999年現在)を迎え、既に人々の記憶から遠くなった事件を何故今さら、と思う人もいるかもしれない。確かに、公式的には決着がつけられ、既に”過去の事件”とされている。しかし何年かおきに、思い出した様に、その謎がマスコミに姿を表して来る。
当初から、謎の多い事件であった。其れらの謎は、今の所謎のまま残されている。其れがジャーナリストの関心を呼ぶだろう。新しい所では、1998年10月に発行された『ボイスレコーダー撃墜の証言ー大韓航空機事件15年目の真実』(小山巌著・講談社)がある。同書の84ページにはこうある。
「この事件の最大の謎は、大韓航空007便が何故正規のコースを大きく外れ、事もあろうにソビエト領土サハリン上空に迷い込んだのかにあった」。
何故、007便は撃墜されなければならなかったのか。何故、日本人乗客28名を含む269名が犠牲にならなければならなかったのか。
私の見る所、事件の謎は、この点に集約されるようだ。即ち、米ソ冷戦構造の中で起こった悲劇、と言う訳である。当時のアメリカ大統領は、対ソ政策強硬派のタカ派として知られたレーガン、対するソ連共産党書記長は、KGB(国家保安委員会)議長を務めた事もあるアンドロポフ。東西両陣営が対峙し、8年後の1991年に起こるソ連崩壊等、誰もが予想だにしていなかった頃である。
但し、この本で私は、こうした大韓航空機事件の謎を追うつもりはない。世界を見る角度を変えてみれば、事件の首謀者は明らかであり、そこには謎はないからである。しかも、そこには事件を隠蔽しようとする明確な”意思”が働いており、虚偽が伝えられて来た事は確かなのである。
その最大のものが、「乗員乗客全員死亡」という”事実”である。これは動かしがたい事実とされているが、実はそうではない。何故、そうした事が行なわれているのか。今、私がこの事件を取り上げるのは、その”意思”が、「グローバル・スタンダード」等で大揺れに揺れている日本の今後のあり方にも繋がるからである。
●死亡宣告を下したシュルツ発表
「269人乗り大韓航空機、サハリン付近で不明」
事件の第一報を伝える朝日新聞第一面の見出しである(1983年9月1日夕刊)。「ソ連が着陸を強制?」「撃墜説や乗っ取り説も」と云う見出しも躍っている。記事を見ていくと、ソウル特派員報として、「韓国外務省一日午前10時半過ぎ、同日未明から行方不明になっていた大韓航空007便ニューヨーク発ソウル行きボーイング747機が『ソ連サハリン(ユジノサハリンスク空港と見られる)に強制着陸させられたとの第三国からの非公式通告を受けた』と発表した」と云う内容も見られる。この時点では、未だ乗員乗客の生存の可能性は残っていた訳だ。
しかし、一夜明けた9月2日の朝刊では、一転して「大韓航空機、ソ連が撃墜」という見出しに変わる。「迎撃、ミサイル発射」「269人全員が死亡」と。
これは、事件当日、アメリカ時間午前10時40分(日本時間では一日午後11時40分)のテレビ会見で、レーガン政権の国務長官ジョージ・プラッツ・シュルツが発表した内容に基づいていた。同長官は、007便は「ミグ23と見られるソ連軍機によって撃墜」されたと発表、「ミグ23とソ連軍地上局との無線交信を傍受していた事を明らかにする共に、『ソ連のパイロットはミサイルを発射し、目標は破壊されたと報告した』と(同長官は)述べた」(朝日新聞・1983年9月2日朝刊)
この公式発表が、事実上の乗員乗客の死亡宣告である。一日の午前3時29分に航空自衛隊のレーダーから、007便と見られる機影が消えてから20時間11分後の事である。
同一日の共同電によると、「デクエヤル国連事務総長は事件の推移を詳しく見守っている。民間人の命が失われた事を深く悲しんでいる」と、国連も、乗員乗客の死亡を”承認”している。
明けて9月2日、撃墜=機体破壊を信じて疑わなかったのがロンドンの保険業界で、朝日新聞9月3日の夕刊記事はこう報じた。「2日、ロンドンの保険業界筋が明らかにした所によると、007便の機体に対する保険金は最低3500万ドル(約88億円)になる。戦争リスクを含む全ての危険に対して掛けられたという」 又2日のタス通信は、その声明文の中で、「権限を与えられたタス通信は、ソ連指導部内で、人命が失われた事に対して遺憾の意が表明されている事を公表し」と述べている。9月6日になると、ソ連政府は、「罪の無い人々の死に弔意を表明し、その遺族、友人と悲しみを分かち合うものである」との声明を発表した。
●異常に早かった保険金の支払い
更に9月14日の朝日新聞朝刊によれば、「13日、ロンドンの保険会社スチュワート・ライトソン社は、007便の大韓航空機に掛けられていた戦時保険金2682万4000ドル(約65億円)を同日大韓航空に支払ったと発表した」
因みに、全日空広報マンによれば、この保険金の支払いは異常な早さだと云う。通常は、機体破損の”事故”から保険金がおりるまで数年は掛かる、と云うのがこの業界の常識なのだそうだ。
さて、ミサイルによって大韓航空機が撃墜され、破壊された事が、この保険金支払いによって”事実”となる。当然の事ながら、機内の人間が生存出来たとは考えられない。これで乗員乗客の死は完璧に認められた。
駄目押しは、ICAO(国際民間航空機関)が、83年12月、事件の当事国に配布した最終報告書だ。ICAOは国連の専門機関で1947年に設立され、世界の航空輸送の安全を図る機関である。現在185ヶ国が加盟しており、その調査結論は国際的な権威を持つと云われている。この事件の調査もICAOが担当総括した。その権威ある事故調査機関の結論は、「パイロットの操縦ミスが大韓機の撃墜に繋がった(全員死亡した)」である。
事件を巡って、激しい非難の応酬が米ソ間が飛び交った。「殺ったのはそっちだろう」。「007便が決められたコースを外れて飛行していたからだ」。「それにしても行き成り撃墜は酷い」。「いや、警告したのに、相手が無視したからだ」。実際は、もう少し体裁をつけた言い回しが用いられたが、煎じ詰めれば、こんなやり取りになる。そこでは、無論乗員乗客の存否等問題外だった。
こうして、事件発生から3ヶ月後の12月には、事件の真相は兎も角、269人は全員死んだとして手仕舞いされたのだ。
事件から3年後の86年8月23日、ニューヨーク・タイムズが翌月発売の月刊誌『アトランティック・マンスリー』の記事を紹介したが、ことは更なる駄目押しだった。大韓航空機撃墜事件は、ソ連が米軍偵察機と誤認したまま攻撃したものだった事、同機のソ連領侵入は乗員がINS(慣性航法装置)の操作を誤ったからだ、と云うその記事を執筆した人物は、元ニューヨーク・タイムズ紙の花形記者セイモア・M・ハーシュである。彼は事件に関する著書を纏め、日本でもその翻訳版が出版された。タイトルは『目標は撃墜された』(篠田豊訳・文藝春秋・1986年)。その中で、ハーシュはこう書いている。
「007便が攻撃を受けた時、乗客達は眠りに就いていたか、或いは眠ろうとしていただろう。最後の12分は、当に地獄だったに違いない。客室は、ミサイルの直撃を受けたにしろ、ミサイルの破片で破壊されたにしろ、減圧され、室温も急激に下がる。シートベルトをしたままミサイルか機体の破片で破壊されたにしろ、減圧され、室温も急激に下がる。シートベルトをしたままミサイルか機体の破片を受け即死した乗客。恐怖に震えながらそれを見つめる他の乗客。最初の一撃から生き残ってしまった人こそが、最も苦痛を味わった事だろう。……乗客の多くが最初のミサイル攻撃から生き残って毛布で身を包み酸素マスクで呼吸しながら、海へ落ちていった。やがて自分達が死ぬ事を知りながらーー」(セイモア・M・ハーシュ『目標は撃墜された』47〜48頁)
ハーシュも、大韓航空007便は破壊され乗員乗客は全員死んだ、と断定した一人だった。こうして269名の「死」は、推理の中でさえも、紛れもない事実として人々の胸の内に納まった。だが、これらの死亡宣告はいささか早すぎた。
(2) 乗客達のその後を”追跡”する
●シベリアでの、ある”接触”
1990年8月、3名の”追跡者”がモスクワから2000キロ離れたシベリアの寒村へと向った。彼等の目的は、北方民族のネネッツ(nenets)族の居住地域に住む一人の女性に接触する事にあった。
その女性は、撃墜された大韓航空機の乗客であるとの情報が入っていた。83年の事件後の彼女の足取りは、断片的にだが、辿られている。彼女には片腕がない。これは”撃墜”の時の負傷ではなく、アムール川(黒龍江)に近いシベリア鉄道ティンダ駅近くの収容所で、材木の伐採作業に従事させられていた時に、誤って機械で左腕の肘の辺りを切断したといわれている。それが1985年、事件があった83年から2年後の事である。
その後、彼女はタゾフスカヤ・クーバ湾に接するナホトカ村に移された。そこはヤーマロ・ネネッツ自治管区北部にあり、ネネッツ族の20〜30家族が住む小さな漁村である。一年の半分以上、太陽が出ない北極圏のその村は、他の地域とは全く隔絶されている。永久凍土を覆う深い針葉樹林帯(タイガ)に道路はない。一年間の殆どが陽光とは無縁で、万年雪が溶けないからだ。そこへの交通手段は、ヘリコプターが、汽船に限られていた。しかも汽船が使えるのは、夏の8月の一ヶ月間だけ、という極短い期間でしかない。
外から近付くのが困難だと云う事は、そこから外に出るのも又困難だという事である。適切な交通手段や武器等の装備なくしては、鉄道や幹線道路のある所に辿り着く前に、凍死するか、タイガに潜む獣達の餌食になるのがオチである。しかも、村を監視するKGBの人間もいる。
ウラル山脈の東に広がる広大なシベリアには、こうした天然の流刑地が幾らでもある。高度な解像度を誇る偵察衛星のカメラを持ってしても、それらの全てを把握する事は困難で、まして、そこに住む人まで特定するのは不可能であろう。間もなく21世紀になろうという今日でも、外部との接触を全く絶たれたそういう土地に放り込まれたら、社会的にはその存在が抹消されたも同然で、後は細々と命を繋いでいくしかない。
そんな村に住む1人の女性の行方が良く突き止められたものだが、その女性との”接触”が命懸けである事は間違い無かった。政府の許可証を持たずに、ヘリコプター等をチャーターする事は、恐らくソ連政府が完全に機能している時代だったら全く不可能だったろう。しかし、時代はゴルバチョフのペレストロイカ(改革)で官僚の統制が緩み、ソ連の体制そのものが崩壊に向っていたから、交通手段の確保はどうやら出来るようにはなっていた。
唯、何として村まで辿り着けたとしても、KGBの監視人が森林の奥から目を光らせている。社会全体が混乱しているとはいえ、KGBの鉄の規律は厳として守られている。若し、彼等と出会えば入城許可証を求められ、そこで面倒を起こせば、おそらくその場で射殺され、森の中に捨てられる事になる……。
最初、この追跡行を志願したものは誰もいなかった。生きて戻るのも危ぶまれる旅だからだ。しかし、命知らずの3人が志願して追跡は敢行された。二人のイスラエル人(ユダヤ人)と一人のロシア人がその勇気ある三人だった。2000キロ先にいる女性を確認する為に、彼等は飛行機、ヘリコプター、蒸気汽船、モーターボートを乗り継いでネネッツ族の村落に辿り付き、彼女と面談した。
●彼女は、誰だったのか
「ウォッカはないのか」
彼女を含めた村人達は、追跡者が持参した土産には何の関心も示さず、唯々ウォッカだけを欲しかった。彼等の主食は魚だが、その魚の一部を何を通過する蒸気船の船員に売って酒に変えていた。物々交換で手に入れたウォッカだけが、一年の内半年以上太陽が見られず、極寒が続く中で暮らす彼等の体全体を暖めてくれるのだ。
彼等と追跡者の間には会話も無く、沈黙が続いた。捜し当てたその女性は自分が誰なのかを知らなかった。記憶を喪失していたのである。自分の名前は勿論の事、生い立ちや、その後のあらゆる過去の出来事を何も覚えていなかった。これは、おそらく”治療”によるものだろう。この”治療”についても、後で述べる。
村人達は多少ロシア語を解したが、その口は重かった。KGBからお喋りを禁じられている事が、追跡者達にも分った。女性の顔は、既に地元の人々と良く似ていて、その表情は元々ネネッツ族生まれの人間のようにさえ見えた。こうして”接触”は終わった。追跡者達は無事生還出来たが、その女性が大韓航空007便の乗客である証拠は何も得られないままだった。彼女が、追跡者達と会った直後、KGBの手で何処かへ連れ去られた事を、後に追跡者達は知らされた。
●漏れてきた強制収容所からの情報
大韓航空機撃墜事件で”生存者”がいたとする話を私が耳にしたのは1994年頃だった。その3、4年前に、モスクワでKGB高官等と2週間程過ごす機会があった。それは、70年も続いたソ連体制が崩壊の危機から逃れられなくなっていた時期だった。”個人の勝手”がモスクワ市内の随所で一人歩きして、其れが街頭に溢れていた。食料等の生活物資が不足し、高騰した。公務員の給料は遅配が続き、彼方此方で不満の声が上がっていた。
「家族の為にも何とか食い扶持を確保しなければ」と筆者の知人であるKGB大佐は、スペインワインとソ連の木材の物々交換を考えていた。テーブルの右側には木材輸出許可申請書を置き、左側にワインの輸入許可書を置き、夫々の書類にサインをするのである。早い話が、自分で申請を出し、自分で許可を出す”自作自演の商売”である。「上の連中(ゴルバチョフ、KGB長官等の共産党大韓部)は何を考えているのやら」そう吐き捨てながら、彼はせっせとペンを走らせていた。
そうした状況を目の辺りにしていただけに、ソ連の分厚い壁の向こうに隠されていた秘密が漏れ出て来る事は十分に頷けた。だから、日本に住む知人が囁いてくれた追跡者達の活動には信憑性を覚えたのである。
追跡者達が大韓航空機撃墜事件の”生存者”達を巡る調査報道を本格的に始めたのは1989年からだが、実際には89年以前から情報が入って来ていたと云う。グラスノスチ(情報公開)の波が、加勢してくれた。彼等によれば、情報源は、ロシアン・マフィアやKGBの密告者達だと云う。ソ連政府に不満を抱く人達が内通して来たのだ。こうした”タレ込み”の中に、あの片腕を失った女性の存在も浮かんで来たのだった。
ところで、最も信頼出来る情報源は、ソ連各地にある強制収容所の囚人や看守達かもしれない。彼等は、”生存者”と極近い距離で生活し、その姿も見ている。追跡者達は、そうした情報源を”我々の地下チャンネル”と呼んでいた。
●生存者調査グループの本拠地イスラエルにあった
大韓航空007便の乗客の行方を追跡する調査グループの本拠地は、イスラエルのエルサレム市内にある。調査グループの指揮官の名は、アブラハム・シフリン。ソ連からイスラエルに移住して来たユダヤ人である。その調査機関は、「強制労働収容所・精神矯正収容所リサーチセンター」と名付けられている。
ソビエト・ロシアの20世紀は、監獄の時代だった。革命後のソビエトは、近代化を図る為に大量の労働力を必要とした。その労働力に見合う数の強制労働収容所を設け、効率の良い管理成果を証明した。革命政府特有の恐怖政治が、”監獄効果”を倍増させた。又、強制収容所では政治犯等の”洗脳”も行われた。だからこそ、エルサレムにあるリサーチセンターでは、「強制労働収容所」と「精神矯正収容所」とを上げている訳だ。
50余年前の第二次世界大戦中にソ連の全強制労働収容所で死んだロシア人の囚人は、1200万人。戦後も、今に至るまで、1000万人が収容所詰まり監獄に閉じ込められていると、複数の専門家は言う。
シフリンも、かってはこの囚人の一人だった。1953年に、スターリン暗殺未遂事件にかこつけたユダヤ人狩りで当局に逮捕されたシフリンは、レフォルトボ監獄の独房での体験を未だ強烈に覚えている。奥行き120センチ。横幅150センチの独房である。その独房の床は、12センチ程の深さの泥水で覆われていた。その中で、28日間、彼は殆どしゃがんで眠り続けた。ベッド無しのその独房では、壁に寄り掛かって寝るか、しゃがんで寝るしかなかったのだ。忘れようとて忘れられない記憶である。
この独房に収容される前は、シフリンは、モスクワのKGB本部にあるルビヤンカ監獄で25日間を過ごした。6人の尋問官が日夜交代で尋問に当たったから、シフリンには眠る間がない。直立不動の姿勢で、休憩時間もない取り調べに耐えた。気を失って倒れたりすると、その都度冷水を頭から浴びせられた。
レフォルド監獄から次のブトイルギー監獄に移され、シフリンは軍法会議の結果を待った。判決は死刑だった。罪状は、アメリカとイスラエルのスパイとされていた。 レフォルトボ監獄の死刑執行時刻は、毎日午後11時。シフリンは、来る夜も来る夜も耳を澄ませ、執行官の靴音に脅え続けた。が幸運にも死刑執行を免れ、25年の強制労働に減刑された。そして更に、5年の流刑と、5年間の市民権剥奪へと大幅に減刑された。
このシフリンの過酷な体験は、スパイ小説作家として有名なブライアン・フリーマントルの『KGB』でも紹介されている。尚、この『KGB』は、フリーマントルが1982年に出したノンフィクションで、日本では新潮社から出版されている。
こうして強制収容所と云う地獄から生還したシフリンは、イスラエルへと移住する。帝政時代からロシアには多くのユダヤ人が住みついていたが、ソビエト時代になってからもユダヤ人達は迫害を受けていた。イスラエルが建国されて以来、多くのユダヤ人がソ連を逃れて移住して来ている。
そのシフリンが理事長を務める「強制労働収容所・精神矯正収容所リサーチセンター」は、仰々しいその名称とは裏腹に、組織の構成員数や活動内容の詳細等は、明らかにされていない。
●マスコミには取り上げられなかった「シフリン・レポート」
「大韓航空007便の乗客は生存している」
日本に住む知人から囁かれたこの情報を、更に詳しく伝える新聞があった。アメリカにある基督教団体の機関紙『ミッドナイト・メッセンジャー』(1994年1・2月合併号)だ。そこには、93年までの追跡活動の顛末を纏めた「シフリン・レポート」が掲載されていた。
どんなメディアであろうと、そこで伝えられているものに接する時は注意を要する。何故、其れが取り上げられたのか。事実を伝える際に、何らかのバイアスが掛けられていないか。特に、宗教関係のメディアの場合、宗教団体特有の頭ごなしの主張やら助言等で、事実が大きく歪められてしまう事も多い。
しかし、くだんのミッドナイト・ジャーナルのシフリン・レポートの扱いは、勢い込む私に肩透かしを食らわせるかのようで、誠に素っ気無かった。つまり、その全文を掲載するのみで、コメント類はもとより、目を見張るような見出しも何も付け加えられていなかった。
007便の乗客が生存していたと云うニュースは、恐らく世界的なスクープの筈。各国の新聞や雑誌に大見出しで取り上げられても、少しも可笑しくはない。だのに、このシフリン・レポートをまともに取り上げたのは、一宗教団体の機関紙に過ぎないミッドナイト・メッセンジャーのみらしい。何故、世界のマスコミはシフリン・レポートを無視したのか。ともあれ、その詳細は後で綴る事にしよう。
●シフリンへの接触
ミッドナイト・メッセンジャーを読み、シフリンの調査グループへの私の興味は倍加した。93年以降の活動は続いているのか、それとも追跡は断念したのか。そうした現況を知る為にも、生存者情報を囁いてくれた先の知人の手を煩わせてシフリン宛に連絡した。モスクワのあの彼(KGB大佐)に確かめる方法もあった。だが、シフリンとやり取りを交わした後に、そうしたモスクワ当局からの情報入手は、シフリンを不愉快にさせるかもしれなかった。と同時に、モスクワの彼にも迷惑を掛けられない。そこで、接触はシフリンとの直接対話のみに絞る事にした。
しわがれて腹の据わったシフリンの太い声を受話器の向こうから聞かされるまで、5分も掛かった。それまでに、何人もの男達のドスの効いた低音が入れ代わり立ち代わり電話口に出た挙げ句に、漸くシフリンに取り次がれたからだ。シフリンが直接電話口に出ない理由は良く分る。声だけの電話では、相手が誰だか確認出来ないし、盗聴される懸念もあるからだ。シフリンのような活動をしている場合、一般人を装ったスパイ、詰まり情報機関の専門用語でいう所の「スリーパー」や「もぐら」の接近には常に気を配る必要がある。シフリン達の調査活動も、見るところ、人権擁護を謳うアムネスティ等と、その精神において何ら変わる所はなさそうだ。しかし、世間でいう”人道的行為”も、身を入れ過ぎると、楽は出来なくなる。
「(家内と一緒に東京に)行ってもいいが、お前が(エルサレムに)来い。但し、家の補修工事をしなくちゃならんから、来る時間はもう少し後の方がいい」。
シフリンは、電話口でそう呟いた。シフリンとの会話の詳細を明かす事は種々の事情から出来ないが、彼等の活動についての更なる情報を得る事は出来た。
●ソ連に”救出”された乗員乗客達
シフリン・レポートによれば、ミサイルによって攻撃された筈の大韓航空007便について、その機体処置、乗員乗客の扱いとその消息等、追跡者達が突き止めた”事実”は次のようなものである。
ソ連軍戦闘機によって攻撃された同機は、サハリンに接するモネロン島(海馬島)沖に着水。機体はほぼ無事で、そのまま沈みもせず、暗い波間に浮かび続けた。その洋上の機体に、KGBの沿岸警備艇が接近、機体の中にいた乗員乗客は、警備艇に乗り移った。無人になった機体は、深度の浅い海域へと警備艇に曳航され、そこで爆破され、海底に沈められた。
サハリン島のKGB基地の警備艇に乗せられた乗員乗客は、本土のKGB管轄C区域のソブガバン(シフリン・レポートではSovgavanと表記)基地へと、9月4日までに全員が運ばれた。沿海州のソビエツカヤガバニである。子供達は其処で両親と離され、成人男女も別々に分離された。グループ別にティンダに向けて移送された。あの3歳のスレテーシーと5歳のノエルは、ソブガバンに設けられた臨時の孤児収容所に他の子供達と収容された。同年10月を過ぎてから其処を出て、ウラジオストック、オムスク、バマウル(Bamaul)、そしてカザフ共和国(現カザフスタン)の孤児収容所へと送られた。
分離させられた成人男女が、ティンダ駅から何処の収容所へ送られたかは不明である。但し、成人男子の場合はアムール川奥地のタイガに散在する戦犯収容所に送られた可能性があった。
そこは第二次世界大戦、朝鮮戦争、そしてベトナム戦争の将兵や政治犯が戦犯として収容されている捕虜収容所である。所謂外国人捕虜収容所である事から、大韓航空機の成人男子乗員乗客が収容されているらしいという情報が、追跡者の現地友人から届いていた。
1993年夏に届いたその友人(2名)による追跡情報によれば、彼等は収容所に近付く為に、鉄道路(イルクーツク〜ハバロフスク間、バイカル・アムール鉄道)を使った。しかし、KGBと軍が管理するエロフェイ・パブロビッチ駅の検問所でこの地域への通行許可書を提示するよう求められた事から、二人はアプローチを変えてアムール川沿いの上流にあるブラゴベシチェンスク地域から侵入しようとした。しかし、ここでも再び検問に遭い、入域許可書を求められ、其れ以上の接近は断念せざるを得なかった。
地元民の話では、このタイガ地域を走る道路はないから、誰も問題の地域内に入り込む事は出来ないという。其れに、アムール川沿岸に住む住民でさえ、入城には特別許可証が必要で、手続きも面倒なのだという。
だが二人は、目的地域には間違いなく予想通りの収容所が存在する事だけは確認出来た。其処に特別な収容所があるらしいと云う情報は、ルーマニア国籍のドイツ人陸軍将校の尋問記録から齎されていた。この将校は、この地域の別な収容所に収監されていたが、1976年から77年に掛けて起きた大洪水にまぎれて収容所から脱出するのに成功し、中国、インド、スイス経由で祖国に生還した。その逃亡過程で、このアムール川沿いのタイガに管理厳重な秘密収容所があるのを知ったというものだった。その情報が確かなものである事を、この二人は確認した訳である。どれほど厳重に封印された秘密でも、其処に秘密が存在していると云う事までは隠し切れないのである。
●特別待遇を受けたマクドナルド議員
007便には、日本人28名を含む、16ヶ国269名の乗客がいたが、その中にローレンス(ラリー)・パットン・マクドナルド米下院議員(民主党)がいた。このマクドナルド議員の足跡も、シフリンの追跡グループは追っている。
マクドナルド議員は、ソブガバン基地に連行された他の乗員乗客とは異なり、KGBが特別に仕立てた飛行機でハバロフスク経由でモスクワに送られた。9月8日の事だった。市内のKGB監獄ルボヤンカで尋問を受けたが、この時同議員は「囚人(プリズナー)ナンバー3」と呼ばれていた。その後はかってシフリンも収容されたレフォルトボ収容所に収監された。
マクドナルド議員は、レフォルトボ監獄に数ヶ月間に亙って収容され尋問を受けた後、今度はモスクワ近郊のスハノーファーにあるKGBのダッカ(夏季保養所)に身柄を移された。その後、カザフ共和国のカラガンダ監獄へと移された。尋問は続くが、この頃にはKGB得意の”治療”が効いたのか、マクドナルド議員は自分が誰なのかを忘れてしまっていたようだ。
此れ等の情報をシフリンは、「KGB及びモスクワ・マフィアとコネクションがある某国情報部筋」から入手している。情報筋によれば、議員はカラガンダ監獄から、カラガンダに隣接する町テミールタウ北部にある小さな収容所に送られた。ここでの待遇は格別だったようだ。
”治療効果”と連日の尋問で心身衰弱したマクドナルド議員だが、カザフスタンの収容所では、毎日市内のレストランから運び込まれる食事を摂らされた。白いパンも食べ放題だった。二階にある完全隔離の部屋には、テーブルが一つとスプリング付きのマットレスが一台、他の調度品は何もないが、電球だけは一際明るいものに替えられた。但し、収容所の他の囚人達と顔を合わせても、会話は一切許されなかった。
1993年には、収容所看守からの情報も得た。その情報によれば、「看守は議員の姿をコンピュータ画面で見ていた。画面に映し出さ た米国人はマクドナルド議員に間違いなかった。議員はカラガンダ 監獄からライトバンで運ばれてい来た。厳重に封印された。茶封筒 には、議員のおそらくプロファイリングが入っていたようだ。議員は 毎週散歩するよう義務付けられていた。毎週一日だけカラガンダ監獄からKGBの担当官(将校)が来て尋問を続けた。担当官は 収容所の囚人全員の変化をテェック、囚人間の会話を厳禁した。毎度同じそれらの仕事が繰り返されている……」。
「1987年にはカラガンダ監獄からカザフのその小さな収容所へ護送される議員の姿が確認された。KGBの監視は徹底ぶりを極めていたから、その囚人(議員)は特別な虜囚に違いないと収容所内の誰もが密かに噂しあった。注目を集めていただけに議員の動向は把握しやすかった……」。
シフリン達は、議員とおぼしき人物の写真を看守から入手している。
●強制収容所で行われる”治療”の実態
マクドナルド議員や北極圏に住むあの女性が施された”治療”とは、一体何の事なのか。其れを知る為には、シフリンも経験したソ連の収容所事情を理解しておく必要がある。
「身の毛もよだつ」ーーフリーマントルはソ連の強制労働収容所の実態を、その著書『KGB』でそう表現し、その実情を以下の様に記している。
「(収容所の作業)ノルマは一日最低12時間制で、しばしば16時間まで延長された。ノルマを達成した囚人には800グラムのパンが配給される。達成出来なかった者は500グラムに減配された。又懲罰の一方法として食糧は更にカットされた。
300gは飢餓を意味する。囚人は潤滑剤のグリース、苔、それに幾ら悪臭を放ち、腐っていようと動物の死肉まで食べた。一日8時間の重労働に従う人間が摂取しなければならない最低の公認カロリーは、3100gから3900gである。1977年になっても、管理の厳しい収容所でさえ、一日平均の摂取カロリーは2600に過ぎなかった。懲罰を受けると2100、重懲罰は1300に減らされた。
スターリン時代に建てられたコルイマ収容所では、ビタミン不足による壊血病を防ぐ為、松葉や潅木種の柳の葉を漬けた水を飲まされた。シラミや害虫の繁殖もすごく、発疹チフスが続発した」(フリーマントル著・新庄哲夫訳『KGB』新潮社・1983年、206頁より)
一方、元英国情報部将校ジョン・コールマン博士は、1947年にアメリカ亡命を果たしたKGB工作員が漏らした情報だと断った上で、ソ連強制労働収容所の全体図を次の様に説明する。
「モスクワ周辺には、41の犯罪者収容所機関がある。この地区に は異なった段階の20の強制収容所がある。例えば、スハノボ、オ ビロフカ、ヤベモエ、それにルビヤンカ監獄等である。モスクワ市 内には10ヶ所の『精神病』監獄院がある。そこではどんな拷問方 法にも口を割らない囚人に口を開かせる方法が使われている。
監獄当局はそれを『治療』と呼び、強力な麻酔薬を使う手術や脳 の前葉切開手術で囚人を狂人にしてしまうやり方なのである。これらの精神病監獄院はクレムリンに近いエリアにある。西側の訪問者によるエリアへの立ち入りは厳禁されている。
女性と子供用の収容所は全部で119ヶ所ある。モスクワの南350キロの地域にあるオリヨール市にも子供用の強制収容所がある。内部の生活は苦しく、子供達は年齢や能力を超える手作業を強いられている。冬季には『検査』が頻繁に実行され、母子達は気温零下の下で、しかも夏服で長い間立ち続けるよう強制される。収容所の死亡率は年間約33%と云われる」(ジョン・コールマン著『ソ連強制収容所における人権』歴史情報研究所刊『歴史叢書』No16・1988年)。
収容所に用意されたものは、確実な死と過酷な環境である。そして、収容所の存在理由は、政治と宗教が絡む厄介な難問、それに労働力不足を解決する為であった。
大韓航空007便事件より5年前の1978年4月21日、所謂ムルマンスク事件が起こっている、これは、パリ発ソウル行き大韓航空902便がソ連領空を侵犯し、ソ連戦闘機のミサイル攻撃を受け、ムスマンスク近くの凍結した湖に強制着陸させられた、と云う事件である。007便のケースと良く似ているが、この時はアメリカ側も強制着陸させられた事を即座に発表した。着陸の衝撃で二名の乗客が死亡したものの、残りの乗員乗客は機長と航法士以外は3日後に送還されたのである。
このムルマンスク事件では、乗客の生存が明らかにされたのでソ連も好き勝手は出来なかったが、アメリカや国連から早々と死亡宣告を受けた今回の007便のケースは違った。今度ばかりはどうやら、乗員乗客は理不尽な運命を受け入れざるを得なかったようである。
その後、ソ連邦は崩壊し、体制は変わったかのように見えるが、今も尚この国の「人権」と云う言葉が死語に等しいと云う点では、何も変わっていないようだ。
●007便乗客収容作戦にあたった将軍は消えた
残念ながら、マクドナルド議員の現在の消息(1999年当時、今も自分は分らない!愛)は不明である。 しかし、1989年頃から本格調査を始めたシフリン達の手元には、大韓機は撃墜されず、洋上に緊急着水した、乗員乗客は救助され、収容所に分散収容された、等などの決定的証拠と目撃証言が、たっぷりと集まっていた。例えば、モネロン島に近いサハリン(島)の町、ネベリスクの複数の漁師達は、9月1日に洋上に着水した機体から乗員乗客達が救助される場面を繰り返し伝えて来ていた。
収容所で散々痛めつけられて来たソ連各地の収容所体験者、KGBから迫害されて来たユーラシア大陸の様々な諸民族、大都会のモスクワに住み党運営に不満を抱く者、職場や国家政策に不満を感じているKGB局員や監獄の看守、ロシアン・マフィア、007便のボイスレコーダーを回収した潜水夫、その回収船に乗船していた複数の国家調査委員会のメンバー等などが、情報を直接又は間接的に秘かにシフリンのセンターに知らせてくれた。こうした草の根からの第一次情報は、米ソ両政府当局がシフリン達の活動を感知する以前に殆ど入手ずみだった。
知るべき事を知ってしまったシフリン達に残された最後の宿題は、007便の生存者を例え一人でも救助する、その一点に尽きていた。しかしその一方で、シフリン達の身にも危機が忍び寄っている。例えば、大韓機の緊急着水から乗員乗客の収容、機体内キャビンの荷物処理等の一連の秘密作業を総指揮したロマネンコ将軍は、”自殺”に追い込まれている。将軍は、KGBがシフリン・グループの活動について情報管理する中で、現地情報がシフリン達に漏れ出てしまった事が明らかになり、その責任を負わされたのだろう。
CIAは「ロマネンコ将軍は収容所に隔離された」と主張しているが、シフリンの情報チャンネルによれば、将軍は東ベルリンのソ連大使館付き武官に栄転した後に同地で自殺しており、その事実は1992年9月のソ連紙コムソモルスカヤ・プラウダの紙面で確認されたと云う。
更に、ロマネンコ将軍に関する全ての情報がKGBのプロファイリング(コンピュータ管理された人物像)から削除されている、とシフリンは云う。これにより、ソ連軍部にロマネンコ将軍なる人物がいたと云う記録は、一切残らなくなった。つまり、そんな人物は、過去、全く存在しなかった事になったのである。将軍は、文字通り、何の痕跡も残さずに消されてしまったのだ。
イスラエルにいるシフリンとセンターのメンバー、それにロシアから情報を送り続ける市民等が、ロマネンコ将軍の二の舞いにならないと云う保障はない。007便乗客の追跡調査が命懸けだという理由はここにもある。
2章 伝えられなかった生存者情報ーー真実を明かされて困るのは誰か
(3)握り潰された「007便生存者情報」
●生存者を救出せよ
ミサイル攻撃で撃墜され、全員死亡とされた大韓航空(KAL)007便の乗客は、どうやら生存していた。 だが、ロシア側(市民や亡命者、それに移住者達)から齎される情報の確認活動は困難を極めた。先ず資金の問題があった。幾つかの機関や匿名のアメリカ人による資金援助等があったが、そうした支援金は直ぐに底をついた。しかし、ボランティアでシベリア大陸を歩き回る余裕のある人間など、エルサレム(シフリン)のリサーチセンターにはいない。ソ連からイスラエルへ政治亡命、難民移住するユダヤ系ロシア人は大勢いたが、例えば移動に私財の殆どをはたいてイスラエルの土を踏もうとする人達に、調査の為に回れ右をして戻ってくれ、とは、中々言いづらい。しかも、厳しい監視の目を盗んでソ連内で調査活動をする事は、悪くすれば死か強制労働収容所送りの危険性と隣り合わせである……。
そうした苦労を積み重ねて、生存者の確証を得て来たシフリン達にとって、次の課題は生存者の救出だった。だが、人間の救出作戦となると、幾ら”向こう”に協力者がいても、シフリン・グループのような”民間団体”の手には負えない。
最も効果的なのは、アメリカ政府を動かして生存者返還の交渉をさせる事、そして世界のマスコミを通じてソ連政府に圧力を掛ける事だ。シフリン達がこう考えたのは無理もない。007便のアメリカ人乗客は62名、内一人は下院議員である。生存情報が伝われば、アメリカもその威信を掛けて、ソ連当局に生存者の送還を迫るに違いない……。
シフリンが、乗員乗客生存調査事実を最初に訴えたのが、1990年。あのアメリカ上院議員ジェシー・ヘルムズ(共和党・ノースカロライナ州選出)に対してだった。ヘルムズ議員は、産経新聞が伝えるプロフィールによれば、「米保守派の大物」で、「ソ連、中国等共産主義国に対し常に強硬な立場を主張している人物。米国社会に根強い保守の潮流の代表的イデオローグであるばかりでなく、図抜けた政治資金収集力によって、議会内で強い影響力を保持している」(産経新聞1983年9月8日)
その大物ぶりは、「ヘルムズが独自に議会に提出した修正法案や決議案は1979年で39件、80年で44件、夫々の6割以上を成立させる事が出来た」(『財界』1983年4月5日号)事からも分るというものだ。
又、ヘルムズ議員は親イスラエル派としても知られていた。コールマン博士によれば、ヘルムズ議員は、「『イスラエルよ、我が祖国、正しくとも邪悪なりとも』と云う格言を信じるキリスト教根本主義者達から慕われていた」と云う(聖書を正しく読んでいない!愛)。しかも、ヘルムズ議員は当初、8月31日ニューヨーク発の問題の007便に塔乗を予約していた。9月1日から3日に掛けてソウルで開かれる米韓安保関係会議に出席する為であったが、同議員は数日前になって、31日ロサンゼルス発アンカレッジ経由ソウル行きの大韓航空015便に変更し、難を逃れていた。このヘルムズ議員に、シフリンはワシントンに訴える窓口として白羽の矢を立てたのである。
●渡された証拠
シフリンがヘルムズ議員に007便生存者情報を送った後、「この件を確認した」とヘルムズ議員側から伝えて来たのは1990年11月だった。そして、もっと詳細を知りたいと伝えて来たのが翌91年の5月だった。
ヘルムズ議員の側近幹部と称する3人の男達がエルサレムのシフリンを訪ねて来た。J・シェル博士、サリバン博士、そしてV・ヘディと名乗る人物達は、シフリンの調査結果を具に見聞した。ヘルムズ議員の協力を信じて疑わないシフリンは、その為に苦労してソ連から特別に招いた収容所看守2名を、証人として彼等と対面させる事までした。2名はその場で宣誓供述して書面を渡した。その時の事を、シフリン・レポートはこう伝えている。
「三人の幹部等は、大韓航空ボーイング747機のKAL007便 は大破せず緊急着水して乗員乗客等は無事生存している、とする我 々の主張を完全に納得した」
「我々は調査結果をヘルムズ議員に渡す以上、KAL007便から 269名(内合衆国市民63名)を誘拐する結果になったこの事件 を、上院公開聴聞会の議題としてヘルムズ議員が取り上げ、行政レ ベルで徹底調査するよう3人に依頼した」
「そういう調査をワシントン政府は早めに進めておくべきだった。しかし、本件に関しては、調査と名の付くものが唯の一度も行われなかった。飛行機事故発生直後に通常実行されるお決まりの調査で さえも……」
●そして、事件は握り潰された
ヘルムズ議員の3人の代理人が、007便乗客達の生存証拠類を持ってエルサレムを発って以来、シフリン達は、何時アメリカ議会がこの問題を取り上げるかと首を長くして待った。しかし、ワシントンでは一向にそうした動きは無く、ヘルムズ議員がこの件に関してなんらかの動きをした形跡も伝えられなかった。
更に奇妙な事があった。ヘルムズ議員の代理人達によるエルサレム訪問から暫くして、今度は、ワシントン・ポスト紙の編集者エリザベス・ラリー・ウェイマウス女史が、情報確認と取材を兼ねて、エルサレムのシフリンを訪ねて来た。ヘルムズ議員の紹介でシフリンに会ったウェイマウス女史は、記事発表を約束して、こちらもシフリンの手元から証拠資料をごっそりとアメリカへ持ち帰った。こちらの方も、ウェイマウス女史自身からは、なしのつぶてである。何時まで待ってもワシントン・ポスト紙には唯の一行も記事が載らなかった。
●妨害された記者会見
沈黙を続けるだけのワシントン政府と有力マスコミ機関の態度に立腹したシフリンが、事の発表を決意して記者会見を開いたのは1991年7月11日である。だが、誰も記者会見の会場には現れなかった。エルサレム市内の会見場で待つシフリンに届いたのは、誰かが直前に「記者会見は中止」とマスコミ各機関に触れ回ったと云う情報のみだった。
「我々の考えでは、このセンセーショナルなニュースが発表されれば、誘拐された人々(大韓航空007便の乗員乗客全員)の運命に世界の注目が集まり、心ある人々が立ち上がって、夫々の政府に犠牲者解放の為の行動を起こす筈であった」
「記者会見は、正体不明の連中の所為で開催出来なかった。連中は会見予定時刻の1時間前に我々が招待した新聞社、通信社、テレビ・ラジオ局等報道機関の全てに電話を掛けて、記者会見の中止を知ら せた。その結果、出席した所は一社も無かったのだ」
こうした奇妙な妨害工作にあっても、シフリン達は手を拱く事無く報道取材記者等に直接アプローチした。記者達はシフリンをインタビューし、喜んで発表すると約束して資料を持ち帰った。が、007便生存者の記事を発表したのは、一社も無かった。
●突如、007便事件を取り上げたソ連紙
頼りにしていたアメリカ議会やマスコミから、シフリン達の「007便乗員乗客の生存情報」は、こうして無視され、握り潰された。しかし、同時に事件を巡る環境は大変化していた。恐らく、シフリン達の一連の行動に慌てた連中がいたのである。その動きは、先ずソ連の新聞『イズベスチヤ紙』に掲載された。
「我々は269名の乗員乗客に死を宣告したまま、その家族に釈明すらしていない」同紙はこう詫びながら、「ソ連は大韓航空機を撃墜してもいい権利を有していたが、今や”追加情報”を世界に公表すべきだ」と。
記事掲載の理由は、「第二次大戦時のカチンの森事件が、実はナチスでは無くてスターリンの仕業だったとする真実をソ連が容認した其れに習って、007便事件の真実をソ連は公表すべきと考えた」
同紙が触れているカチンの森事件とは、第二次大戦中、ポーランド軍将兵一万数千名が通称カチンの森で、全員処刑(大量虐殺)された事件の事だ。当初、その虐殺者はナチス・ドイツ軍だと世界中に喧伝され、ナチス・ドイツの残虐非道さを非難する材料の一つにされた。しかし、後にソ連軍が虐殺した事が判明し、ソ連もしぶしぶ事実関係を認めるに至ったのである。このカチンの森事件の教訓を生かし、007便事件も同様にソ連は秘密を公開すべきだとイズベスチヤ紙は大見得を切ったのだ。
ゴルバチョフのグラスノスチ(情報公開)の波が、007便事件の極秘ファイルにまで及んだのだろうか。その記事には次のような一節もあった。「ボーイング機は丸事無傷のまま海底に横たわっており、ソ連の潜水夫が機体の下から上まで隈なく登り降りした」
これを読んだシフリンは言う。「イスベスチヤ紙は海底の機体が丸事残っていた等と言うが、その前の記事でも、その後の記事でも機体は大破してすっかり破壊されていたと主張したのに」と。
シフリンに皮肉られる様に、些かふらつき気味ではあったが、何故か翌1991年になると、イズベスチヤ紙は、独自調査だと断わりつつ、25回の連載を始めた。こちらの方は、シフリンが「記事は量り知れない程貴重だ。大胆な嘘と偽情報もあるが、其れまで秘密にされていた数多くの事実を同紙は提供した。記事にはソ連の公式見解とは完全に異なる目撃証言もあった」と評価する程だった。因みに、この連載を下に、同紙のアンドレイ・イーレッシュ記者が纏めたのが『大韓航空機撃墜、9年目の真実』(川合渙一訳・文藝春秋・1991年)である。
これらの記事では生存者については全く触れられていなかった。サハリン沖に沈んだ機体探索の模様は関係者の証言を下に詳細に触れられているが、KGBボードによる生存者救出については、一言も言及されていない。あくまでも、全員死亡の建前で通されている。しかし、事情を知らない者から見れば、ゴルバチョフのグラスノスチ(情報公開)の波がここまで及んだか、と思わせるに十分な内容だった。
何故か、この時期に、クレムリンの極秘ファイルから引っ張り出されたのが、他ならぬ大韓航空機事件だった。これが、事件環境の変化の一つである。
●CIA秘密報告書の驚くべき内容
事件から日が遠のくにつれ、どうやら逆に、事件は蒸し返されてきた。次に動いたのはCIAだった。1992年10月26日、韓国の国会で、国民党(当時)の孫世一国会議員が爆弾発言をした。孫議員は、その手に”CIAの秘密報告書”なる資料を掲げ、「大韓航空007便の乗客乗員がソ連の強制収容所で生きている」と訴えたのである。孫議員が手にしていたCIA秘密報告書は、78頁に及ぶもので、この爆弾発言の二ヶ月前に作成された事になっていた。その内容の一部を掻い摘んで記しておこう。
「事件発生時点で日本の自衛隊がキャッチしたレーダー記録を 入手した。同時にソ連側のレーダー記録も入手していた。両方の記録は一致していた。大韓機はソ連機の攻撃を受けた後、3万5000フィートの上空から、12分間を掛けて下降する様子を両方のレーダーはゼロポイントまで記録していた」。「CIAは、レーダー画面から機影が消えたと同時に、ソ連軍司令部が着水予想地点に沿岸警備隊の救助船8隻を向わせた事を知っていた」。 「CIAは、ソ連最高会議長アンドロポフが、KAL007便 のアンカレッジ離陸以後の動きに特別な関心を持っていた事を知っていた」。
「CIAは、ソ連が洋上のどの地点で捜索活動をしているかを知っていた」。「CIAは、機体が洋上に着水した4時間以内にKGBの沿岸 警備隊による機体の捜索活動が始った事を知っていた」。「CIAは、KGBが機体が民間旅客機である事を知った上で沈没させた事を知っていた」。「レーガン大統領とワシントン政府上層部が事件を知ったのは、発生後20時間後(筆者注:原文のまま)だった」。「事件の第一報がワシントンで受け取られたのは、ソ連機の攻撃4時間後だった」。
要するに、事件の一部始終をCIA=ワシントン政府は知っていた、という訳である。そして、”ソ連からの移民の証言”として、生存者がいる可能性についても触れていた。シフリン・レポートの随所を抜粋した”盗作”である。このCIA秘密報告書をシフリンも読み、そして仰天した。
「1983年9月の初期の段階で、007便が墜落せず、モネロン島付近の洋上に着水した事や、同機に乗っていた殆どの乗員乗客が救出され、ソビエト本土の収容所に連行された事実をCIAも掴んでおり、その事実を秘密報告書の中で認めている。これは驚くべき事だ。つまり、ソ連が懸命になって乗員乗客の無事を”隠す”作業に、ワシントン政府は加担しているのだ」と。
●日本のマスコミは、生存者情報をどう扱ったか
孫議員の爆弾発言のニュースは、日本にも伝えられている。唯、スクープ扱いはされなかった。唐突過ぎるし、9年も前の古い事件だからなのだろうか。読売新聞は、「KAL機撃墜生存者がいた!?」の見出しで、ソウル26日発、河田卓司記者による次の様な内容を報じた。
「83年9月に起きた大韓航空(KAL)機撃墜事件を巡り、韓国の国会本会議で26日、野党議員が『米中央情報局(CIA)の極秘文書によると、KAL機は海上に不時着し、生存者もいた可能性がある』と”爆弾質問”する一幕があった。同事件では乗員・乗客269名全員が死亡したとされ、エリツィン・ロシア大統領も今月中旬、韓国等に関連資料を伝達した際、生存者はいなかったと説明したばかり(筆者注:これに ついては後述)とあって、韓国政府関係者は9年ぶりの生存者説に首をひねっている。
質問したのは、野党民主党の孫世一議員。同議員は米CIAが2ヶ月前に作成したとする極秘文書を入手したとし、文書には(1)同機は被弾後12分間、螺旋形を描いて下降した等の状況証拠から、海上不時着に成功した可能性がある(2)ソ連からの移民達の証言によると、複数の生存者がおり、強制労働収容所に収容された可能性があるーーと記されていると述べた。
孫議員は同日、マスコミにも同文書の韓国語訳文を配布し、信頼性が高い情報だと主張しているが、韓国政府は『米国からそういう話は聞いていないし、生存者がいる可能性もないと判 断している』(外務省)と全面否定している」(読売新聞19 92年10月27日)
同じく朝日新聞も、読売と同様に、記事は”控えめ”だった。27日の紙面で、「大韓機事件でCIA報告書」と謳いつつ、ゴチック文字で「生存者の可能性指摘」としていながら、ソウル発の小田川興記者の一報を次のように紹介した。
「1983年9月にサハリン上空で起きた大韓航空機事件で、米中央情報局(CIA)が最近、極秘報告書を作成し、同機がサハリン沖に不時着し、生存者がいる場合、送還を求める『外交的な努力が必要だ』としており、日韓米の遺族等から抗議の声が上がる事も予想される。韓国民主党の孫世一・統一国際委員長が同日、韓国国会の対政府質問でこの報告書の内容を明かし、日韓米、ロシアの4ヶ国で共同調査団を作り、再調査するよう要求した。
CIA報告書によると、大韓機007便は83年9月1日未明、旧ソ連戦闘機のミサイルに被弾した後12分間、機長がコントロールして螺旋形を描いて下降した。航空機が不時着する場合と同じ航跡を描いた事などから、海上に不時着したと見るのが妥当だ、としている。更に旧ソ連から欧米に移民した住人等が『生存者達が強制収容所に収容された』と証言している事も明らかにした」(朝日新聞1992年10月27日)
朝日新聞はこの記事に続けて、モスクワ発ロイター電として、「ロシア対外情報局のスポークスマンが、(007便の生存者がいる可能性を)裏付ける情報はない、と言明した」という記事を載せている。
読売にしても朝日にしても、記事の内容は如何にも及び腰である。とはいえ、その理由は解らないではない。「マユツバ情報だけれども、韓国の国会議員の発言だから取り敢えずお知らせしておきます」と言ったトーンにせざるを得ないのは、孫議員がどうやってCIA”極秘”報告書を入手したのか、そこがはっきりしないからだろう。つまり、ニュースソースが情報機関にある事から、”裏切り”(確認)がしづらい。更には、日本人遺族に対する文責の重さも加わるから、深追いが出来なかったという事だろう。
●シフリン・レポートは、CIAからKGBへ流れた!?
ソ連のイズベスチャ紙の記事も、CIA秘密報告書も、シフリン・レポートを下敷きにしていた。その事をシフリンは確信している。つまり、こういう事になる。シフリンがヘルムズ上院議員やワシントン・ポストのウェイマウス女史に差し出した生存者資料は、当然、ワシントン政府筋にも伝わっているだろう。そのシフリン・レポートは、CIAからKGBへと密かに流されたのである。其れを受けてのイズベスチヤ紙の突然の”事件の真相”発表であり、CIA秘密報告書の作成、そして孫議員への”リーク”(意図された漏洩)なのだ。これらは、シフリン・レポートを全く無視しようとした米ソ両国が歩調を合せて行なった、事件の隠蔽作戦に他ならない。
しかし、ここまで読んで来た読者は、別な疑問を抱くかもしれない。つまり、シフリンは狂信的な反ソ主義者で、007便生存者の情報も、その妄想の産物ではないか、というものである。資料を渡されたヘルムズ議員やワシントン・ポスト紙が何ら反応しなかったのも、資料そのものがガラクタに過ぎなかったからではないか。記者会見が妨害されたというのも、彼の被害妄想に過ぎず、シフリンを取材した記者達も、道理が通用しそうにもない怨念まみれの彼に辟易しながらも、愛想笑いでその場を取り繕ったのではないか。まして、イズベスチヤ紙記事やCIA秘密レポートが、自分達の調査内容を下敷きにしていると云う主張は、誇大妄想もいい所だ……といった疑問である。
実際のところ、生存者救出を必死に訴えるシフリン・レポート等歯牙にもかけず、 「我々はシフリンよりも、エリツィンを信じる」と言い放ったワシントン政府高官もいる。後でも触れるが、エリツィン大統領も1992年に韓国とアメリカの政府代表に会い、「生存者はいなかった」と哀悼の意を表している。嘘に嘘を重ねているとして、ソ連・ロシアに対してシフリンは憤りを隠さないが、しかし、シフリンの言うそのロシアの”嘘”をアメリカを支持している限りはどうにもなるまい。
それに、シフリンがこうしたエピソードを公開すればするほど、シフリンの生存者情報に疑問を持つ人達(恐らく、その最大の理由は、シフリン・グループが世間的な権威性も何もない、世を拗ねた者達による一民間機関に過ぎない、と判断する人達)は、更に否定的な見方を強めるだけだろう。無論、そうやってシフリン達の007便生存者情報を、ありもしないデッチアゲだと考える方が気楽に生きて行ける事は確かだ。少なくとも、マスコミが伝える”権威”を信じて枕を高くして眠る事が出来る。
そのようにマスコミが厳正中立であると信じるのは個人の自由だが、これは余りにナイーブな見方である。マスコミは、そのお眼鏡に適った情報は伝えるが、それは世界のある一面に過ぎず、寧ろマスコミが伝えない事実の方が遥かに多いと考えるのも又自由である、とも言えるからだ。
ここでもう一度振り返っておこう。シフリンがヘルムズ議員に示した情報の中に、ソ連から招いた収容所看守2名の証言があった。宣誓供述をした上での証言である。基督教国での宣誓供述の重みは、日本人が想像する以上のものがある。単に「私は嘘を付きません」と口先だけで誓うのとは訳が違うのである。 その二名の看守は、共にヘルムズ議員の代理人の前で証言して数年以内に、イスラエルから国外へと消息を絶った。
(5)10年目に提出されたソ連の秘密資料
●浮かび上がって来た”米ソ対決”の真実
「人の噂も75日」というが、大韓航空007便撃墜事件も発生から7年余の歳月を経て、忘却と風化の中で消え掛っていた。其処へ突然、飛び出して来たのが同便の生存情報だった。この衝撃をワシントン政府がどの様に受け止めたかは、想像に難くない。生存者情報が事実なら、それまでの全員死亡宣言は色あせ、撃墜は嘘だった事になるからだ。
ミサイル発射ボタンを押したのはソ連側だったにせよ、当初、正当防衛を訴えていたソ連に、乗員乗客全員の死亡を逸早く告げてソ連を非難したのは誰だったのか。そして、その後に続く米ソの激しい非難の応酬は、一体何だったのか、と云う事になる。
アメリカは、事件当時のレーガン大統領からブッシュ大統領へ、ソ連はアンドロポフ書記長からゴルバチョフ書記長(1990年3月以降は、書記長から大統領へ)、そして1991年12月にソビエト連邦が消滅した後はエリツィン・ロシア連邦大統領へと、夫々政権担当者は代わっていたが、両政府とも、蒸し返された事件への対応からは逃れられなくなった。
そこで、国家の威信を掛けて取られた対応策が、”沈黙”と”無視”だった。しかも、アメリカ政府は、ソ連政府と密かに連携しつつ、時ならぬ翌フ襲来をやり過ごそうとした。「戯言には一切関知せず」と言う訳だ。
だが、そのやり方は失敗だった。生存者が存在する証拠類を握り締め、生存者の解放を求めるシフリン等の怒りを買い、彼等の真実を追うエネルギーの矛先をいっそう強く突付けられる破目に陥ったからだ。窮地から何とか抜け出そうともがく余り、両政府はもう一つの思わぬ失敗を招く。沈黙と無視、それに資料開示と云う”弁解”が、かえって逆に両政府間の秘めた関係と、事件の背後に潜む”真犯人”達を明かしてしまうのである。
●米ソ共同の”沈黙作戦”とは
第二次大戦後の世界は、自由主義陣営と共産主義陣営に二分され、所謂冷戦構造を執って来た。その中で米ソの関係は、”緊張”と”緩和”を繰り返していたが、大韓航空機事件は対ソ対決姿勢を強めるレーガン政権の下で起こった。即ち、問題の大韓機は、米ソ両大国が直接睨み会う北太平洋に迷い込んだが為に撃墜されたのであって、冷戦構造そのものがこの事件の”下手人”と云うストーリーが、人々の頭の中で出来上がっていた訳である。
しかし、このストーリーは”真相”とは程遠かった。例えば、ソ連は、アメリカ政府が自分自身も加担したこの犯罪に沈黙してくれる事を百も承知だった事を証明してくれる恰好の材料がある。1983年12月、ソ連国防相ウスチノフとKGB議長チェブリコフがアンドロポフ書記長に提出した報告書がそれである。
この報告書は長らくクレムリンの奥深くに秘匿されていたが、1992年10月14日、エリツィンのロシア政府から、韓国の蘆泰愚政府に引き渡された事件関係資料に含まれていたものだ。それが韓国の総合誌『月刊朝鮮』に紹介されたのが1996年新年号。ここにあげたのは、その『月刊朝鮮』から訳されたもので、長くなるが、その全文を紹介しよう。尚、この資料引き渡しの時に、先の孫韓国国会議員の爆弾発言を報道した読売新聞の記事の中で言及されていたように、「エリツィン・ロシア大統領も……生存者はいなかったと説明した」と言う訳である。
●明かされたアンドロポフ書記長への秘密報告書
<アンドロポフ(書記長)同志へ
報告の通り、9月1日、サハリン島地域で撃墜された韓国の旅客機(飛行ナンバー007便)のブラック・ボックス(飛行経路の記録と旅客機乗務員の対話録音)は、10月20日から30日に掛けて、日本海の180メートルの海底で発見された。その後、これは引き揚げられて暗号解読と翻訳の為にモスクワに移送された。専門家の分析の結果、発見された物体が上記に言及した南韓の飛行機と云う事が確認された。
ソ連国防部とKGBは、民間航空省と航空産業省の専門家を招聘して、録音の内容を暗号解読し、その解読内容を具体的に分析、研究した。飛行中に飛行機を統制する「慣性航法装置」と「羅針方位航法装置」(Navigation Magnetic System)は、良好な状態だった事が確認された。だが、飛行機の実際の飛行経路は、国際指定航路から660キロメートルも離脱してカムチャッカとサハリンを通過したのであり、これはブラック・ボックスから引き出した資料によって確認された。
飛行経路がソ連防空部隊によって統制される地域では、同防空部隊によって確認された旅客機の航路がブラック・ボックスに記録された実際の航路と一致した。国際指定航路から大きく離脱したと云う事を立証する全ての資料を持っているにも関らず、同旅客機の乗務員は5時間以上そのまま飛行して、その航路を修正してソ連領空から離れようとするいかなる措置も取らなかった。
明らかにされた様に、同機は「自動操縦装置(Autopilot)の羅針盤方位」に助けられて飛行した。更に「慣性航法装置」を自動操縦装置に連絡させる事もなく、同システムは国際指定航路から刻一刻と飛行場所を報告する為にだけ使用された。
同システムの資料を利用して、乗務員は定期的に、地上管制機関へ国際指定航路
にあるかのように自身の位置を偽って報告した。そうする事で、ソ連の何処かの飛行場が強制着陸されるようにアリバイを事前に準備した。
上記に指摘された点と乗務員の高い専門性、同機の飛行性能上の高い信頼性を考慮すると、南韓の旅客機がソ連領空に故意に進入した事は疑う余地がない。飛行機の録音機の資料と飛行機が撃墜されてからの米国行政府の行動を分析した所によると、我々は米情報機関が2重の目的を追求した大規模な政治挑発行為を具
体的に計画した事を確認する事が出来る。
第一に、同旅客機の領空侵害で、ベレート・スパイ衛星等から、極東での我々の防空システムについての資料を得ようとした。もし、同機が何の指示もなく、我が国の上空を通過出来た場合、米国人は極東での我々の防空システムのお粗末さについて宣伝をする意図を持っていた。
第二に、彼等は我々が飛行を阻止する場合、ソ連に対する大規模な反ソキャンペーンを展開する目的で、その事実を利用する考えであった。同機の挑発的で諜報的な性格と、そして米情報部が追求しようとした所を我々が暴露して、その挑発行為を通じて米国人が目的とする所を完全に阻止した。
米国がこの行為を具体的に準備したので、米国は彼等の行為を隠蔽する目的で、幾つかの事前措置を講じた。録音資料を分析した結果、同機が我が国領空を故意に侵犯した事を確認する証拠を発見したが、同機がスパイ行為を働いた事を直接説明する資料は得られなかった。
従って、飛行経路及び対話に関する客観的な資料を西側国家に伝達する場合、南韓の飛行機の目的について、ソ連と同じく西側諸国も又、自分達の立場を裏付ける為に同資料を利用する事が出来る。そして、反ソ宣伝の新たなキャンペーンと同じく排除する事が出来ない。
ICAO(国際民間航空機関)や録音を解読する意図がある国に録音資料を伝達しないのが良いだろう。そして、同録音がソ連にある事も、矢張り秘密にしなければならない。又米国・日本は、先に指摘された物体が我が国にある事を裏付ける証拠を持っている筈が無い。
今後その秘密を保全する為に必要な措置を我々は探った。同事件と関連した問題が派生する場合、9月6日付けのソ連政府声明で発表された立場を引き続き維持し、損害補償を一切拒否しなければならず、又挑発行為を計画した米政府に、犠牲者に対する責任を全て転嫁させなければならない。同意を望む。
D・ウスチノフ(国防相)M・チェブリコフ(KGB議長)
1983年12月>(『世界戦略情報”みち”』歴史修正学会 通巻第25号8〜9頁 KAL007便、ブラックボックス解説・安田正鷹編訳より)
●何故、秘密文書が明かされたのか
補足しておけば、このアンドロポフ宛の文中にある「9月6日のソ連政府声明」とは、次のような内容であった。
「要するにこの事件は、ソ連の戦略的重要地域での故意かつ 前もって計画された行動だった。この行動を唆した者達は、 結果がどうなるかを当然、認識していた筈だ。彼等は明らかに、民間機を使った大情報作戦を実施に移し、故意にその乗客達を死の危険に晒したのである。この航空機をソ連空域に向わせる為のデータがどうして機内のコンピューターに入力されたのか、誰にも解らないだろう、というレ ーガン声明程皮相な言葉を誰が想像出来るだろうか。
今回の領空侵犯は技術的な過ちではなかった。この航空機の乗客達は、この厚かましい犯罪の犠牲者となったのである。ソ連政府は罪の無い人々の死に弔意を表明し、その遺族、友人と悲しみを分かち合うものである。今回の悲劇の全責任は完全に米国指導者達である」(「朝日新聞」1983年9月 7日夕刊が伝えたソ連国営タス通信発表の大韓航空機撃墜事 件に関するソ連政府声明の要旨から抜粋)
この声明から3ヶ月後に、その声明文通りにソ連の立場をこれからも引き続き維持し、損害賠償等一切払うな、とウスチノフ国防相とチェブリコフKGB議長はアンドロポフ書記長に上申している訳だ。
つまり、事件当時のソ連上層部は、007便の乗員乗客達がKGBレポートによって”救出”された事実を、当然知っていた。にも関らず、アメリカ政府に追随して、007便の撃墜、即ち乗員乗客の全員死亡を”公認”したのが9月6日の声明だったのである。
政府声明で、一度乗員乗客の死亡を認めてしまっている以上、ソ連としてはもう引っ込みがつかない。こうなったからには、今後もアメリカと共同歩調を取る決断をせよ、と軍とKGBがアンドロポフに迫ったのがこの秘密文書だ、というのが私の見解である。
つまり、米ソ両政府は、ミサイル発射=機体破壊=撃墜と短絡した、というより、そのように情報が操作されて信じ込んだ世間の連想を逆手に取る事で、事件の真相をしめしあわせて隠蔽したのである。だからこそ、両政府は「全員死亡」を訴え続けるほかなくなったのだ。その陰謀振りは、ソ連政府が”公式”と称する資料からも説明出来る訳で、これぞ、当に皮相な口裏あわせである。この公式発表資料は、撃墜=全員死亡を信じ込ませようとする余りに、かえってその逆の”共犯事実”を説明してしまっているのだ。だからこそ、今更、生存者がのこのこと現れて来たら困る、とばかりに、米ソ両国の事件対応、つまり利害を一致させていたのである。
この機密文書は、先にも触れたように、事件から9年後の1992年10月14日に、ロシア政府から韓国政府に引き渡された事件関係資料に含まれていた。その前年の91年12月25日、ソビエト連邦は消滅、ゴルバチョフ大統領は退陣し、エリツィン大統領のロシア連邦が後を引き継いでいた。しかし、共産党独裁体制が崩壊し、新生ロシア政府に変わっても、この国の体質までがおいそれ変わる訳も無い。何事も秘密のベールに包むのが好きな体質も、勿論ロシア政府にちゃんと受け継がれている(プーチン大統領よ、被害者全員を釈放して、ロシア政府の威信を取り戻せ。旧ソ連との歴史を一切切り離せ!愛)。
そのソビエト=ロシア政府が秘密文書をしぶしぶ明らかにしたのは、”シフリン効果”にほかならない。シフリンが掴む生存者情報を、取り敢えず米ソ両政府は握り潰したものの、何時までもその情報を世界の目から隠し覆せるとは限らない。事件が思わぬ方向に蒸し返される中で、何らかの対応策を取る必要に迫られたソビエト=ロシア政府が目を付けたのが、この秘密文書の”公開”だったと云う訳である。
勿論、外に出した以上、この文書が何らかの形で公開される事は計算の上である。つまり、将来、真相が明かされた場合に備えた”保険”、即ち「自分達は正直に振る舞った」と云う”アリバイ作り”用資料なのである。実際、韓国の総合雑誌『月刊朝鮮』が、1996年新年号の別冊付属[現代史紙上博物館]で掲載した「現代史丸秘資料」125点の中で、この文書の全文を紹介したから、ズバリ、アリバイ効果はあった事になる。
●事件資料を西側に渡したエリツィンの狙いは、どこにあったのか
このソビエト=ロシア政府の”アリバイ作り”は、もう一つある。先に触れたように、1992年10月14日、ロシア政府は大韓航空機事件の資料を韓国政府に引き渡してているが、エリツィン大統領自らが手渡したその席に、アメリカ政府代表も同席、又同機から回収したブラックボックスはICAO(世界民間航空機間)に引き渡されている。
このエリツィン大統領の”英断”について、『ボイスレコーダー撃墜の証言』の著者・小山巌氏は、こう述べている。
「旧ソビエト連邦の崩壊は、絶対に出てこないと思われてい た大韓航空機撃墜事件の資料を歴史の闇から明るみに引き出 した事になる。エリツィン大統領は政権を握ると共に、国内 外の情報を手中に収め、恐怖政治の元凶となっていた秘密警 察組織=旧KGBの解体に着手、断行した。過去の負の遺産 清算するのが狙いとされたが、実態は権力闘争だった。
負の遺産の中でも特にアメリカから強く迫られていたのが、 大韓航空機撃墜事件の調査だった。エリツィン大統領は、… …当時、この事件がどう扱われたかを最重要課題としてサハ リン現地の再調査を命じた。其れと共に第一次資料であるブ ラック・ボックスの中身を引き渡し、全ての解析調査をIC AOに委ねる決断をした。政治的に中立なICAOに事件の原因究明を任せる事によって、世界に新生ロシアの透明性を強く印象付けるのが狙いだった」(同書113〜114頁)
当時、エリツィン・ロシア政府の動きに注目していた世界のマスコミは、みなこうした見方をしていた。つまり、非常に好意的に受け止めていたのである。しかし、ロシア政府は強かで、資料公開には次のような別の狙いも隠されていたのである。
この92年10月14日に、ブラックボックスと共にICAOに引き渡された資料の中に、攻撃機パイロットと基地司令官の会話記録があった。この資料の作成日は、事件発生当時の1983年11月28日。
前記小山巌氏の『ボイスレコーダー撃墜の証言』では、大韓機をミサイル攻撃したソ連戦闘機805号のパイロット・オシポービッチ中佐が”基地に戻ってから”総司令官アナトリ・コルヌコフ大佐との間で交わした会話を、その記録資料を引用して紹介している。
実際の記録にある会話の全体量は不明だが、小山氏の著書では、六つの質疑応答のみが紹介されている。この中で、私が興味を持ったのは、会話の最後のくだりである。実は、そのくだりが公開されれば、「生存者はいなかった」とエリツィン・ロシア大統領も主張するソ連政府のアリバイが成立する事になる。
問題の会話は、こうだった。
<コルヌコフ大佐「自身の眼で見た事、レーダーで確認した事を報告せよ。機関砲をどのように操作したか。そして、どのミサイルを発射したのか。熱追尾式か、レーダー誘導式か」。オシポービッチ「両方を発射しました」。コルヌコフ大佐「機関砲は発射したか」 オシポーピッチ「2連射しました。反応はありませんでした。目標は前と同じように飛行を継続しました」。コルヌコフ大佐「外観から機種は特定出来たか」。オシポービッチ「大型機に見えました。航空灯は点灯していました」。コルヌコフ大佐「爆発は確認したか」。オシポービッチ「爆発し、灯火が消えました。私は報告し、右に旋回、離脱しました」。コルヌコフ大佐「灯火は消えたのだな」 オシポービッチ「目標は撃墜されなかったのですか?」。コルヌコフ大佐「目標は消滅した。しかし、目標は何故かゆっくりと下降していった。行動が不能になったかしてモネロン島の空域で消滅した。今は誰にも解らないのだ」>(『ボイスレコーダー撃墜の証言』183〜184頁)
●栄転した現場責任者
攻撃した本人が「目標は撃墜されなかったのですか」と結束を尋ね、結果を知っている筈の当事者本人が、「今は誰にも解らないのだ」と答えている。「誰にも解らないのだ」と言わせているこの機密文書を、10年後に公表したその目的とは、私に言わせれば、新生ロシア政府がソ連の過去の”悪行”を反省したのでも何でもない。唯々、将来、事件の真実が発覚した場合に備えた、ソ連・ロシア政府によるもう一つのアリバイ作りなのである。
後に、コルヌコフはロシア空軍総司令官に任命される。1998年1月20日付でエリツィン大統領から新司令官に任命されたコルヌコフは、「私は撃墜(大韓機)を命令した。事件の思い出は辛いものだが、今でも(撃墜を命じた)決断は正しかったと確信している」と”過去”をコメントした。この談話を交えて伝える共同電(モスクワ発1月23日)によれば、コルヌコフは、総司令官就任までは、防空軍モスクワ軍管区司令官だったとある。
コルヌコフは僻地カムチャッカから、中心部モスクワ方面へと”栄転”していたのである。乗員乗客の収容や機体処理に当たったロマネンコ将軍が”存在しなかった存在”にされてしまったとは対照的に、である。
だから、コルヌコフが”つらい気分”になると言っても、彼が殊勝にも犠牲者達に哀悼の意を表している等と思ったら大間違いで、シフリン流に解釈すれば、撃墜し損なった部下を持った自分自身への悔しさに過ぎない。”軍人馬鹿”には、犠牲者や遺族への悲しみ等よりも、軍務に忠実だったかどうかが先決だ。それに栄達と引き換えに”過去の傷”を握り潰す事に、エリートは躊躇もせず、痛痒も感じない。コルヌコフ発言に見る通り、現在に至るまで白を切り通そうとするソ連・ロシア政府のこんな態度では、シフリンの追跡熱は冷しようもあるまい。
それは兎も角、ソ連・ロシア政府はアメリカ政府の出方を窺いながら、ICAOでの公開効果を計算に入れた上で、さりげなく布石を打った。つまり、この会話を交信記録に挿入させる事によって、謎を残した歴史的事件の”決定的な真実”を作り上げたのである。
勿論、エリツィン大統領は、アメリカからの圧力に屈して事件関係の秘密文書を出して来た訳ではないし、アメリカ側も、本気になって資料を出せと主張していた訳ではない。シフリン・レポートが巻き起こした嵐を避けようとした一連の茶番劇を、エリツィン・ロシア政府が利用して、「俺は正直者だ」と厚かましく述べ立てようとしただけなのである。
(6)積み重なる”不可解さ”
●事件は、はじめから不可解だった
「事件は始めから不可解な展開を見せていた」。事件発生から12年後に、大韓航空007便撃墜事件を振り返ってこう書くのは、三好徹氏である。読売新聞記者から作家に転じ、御自身で「可也の数の、所謂国際的な諜報小説を書いていた」という三好氏だけに、現在に至るも謎とされているこの事件の”不可解な部分”を極めて的確に纏めている。雑誌『文藝春秋』1995年1月号に『大韓航空機撃墜事件、今なお残る謎』と云うタイトルで発表されたその文章の一部を、ここで引用させて頂こう。
「9月1日の夕刊締切り段階で、各新聞は、ソウル情報を下に、同機がサハリンに 強制着陸させられたらしい事を伝えていた。このソウル新聞のソースは、韓国外務 省の説明によると『第三国からの非公式』通報だった。第三国がアメリカである事 は、この種のケースでは常識であった。ところが、その日の夕刻からテレビは一転して撃墜されたらしい事を伝え始め、二日の朝刊では完全にソ連戦闘機による撃墜に確定し、269人の全員死亡が確認された。
私の最初の疑問は、アメリカ(つまりCIAという事だが)はどうして韓国に誤った情報を伝えたのだろうか、という事だった。この謎は今持って解けていない」 「その他、今もって、どうしても不可解なのは、ソ連機がミサイルを発射し、『目標は破壊(撃墜)された』と報告したあと40秒後に大韓機のパイロットがSOSも発せずに成田を呼び出した事である。この事件に関する本が出ると手に入れて読んで来たが、これを合理的に説明した本を見た事がない」。
この文章で三好氏は、「防衛庁筋の意識的とも思われるマスコミ操作」にも触れている。例えば、ソ連戦闘機と地上局の交信記録を発表した際、パイロットが地上局に報告した数字に勝手に「高度」とか「メートル」の文字を付け加え、燃料の残量を伝える数字にまでそれを行なった上で、記者達に「ソ連機が大韓航空機の上下をグルグル乱舞しながら逃すまい、としているかのように説明」したと云う。「防衛庁がわざとミス・リードしたのか、彼等自身も間違ったのか、解らない」と三好氏は言うが、この事件での日本側の対応に不自然さがあった事は否定出来ない。
例えば、日本側では、稚内の航空自衛隊のレーダーサイトで捕らえた007便の航跡と、傍受したソ連戦闘機の通信内容等を分析し、事件から7時間後の9月1日午前10時過ぎには、防衛庁から後藤田正晴官房長官(当時)に「空対空ミサイルにより撃墜された」と伝えられ、中曽根康弘首相も説明を受けたと云う。しかし、「余りにも重大な内容」なのと、「高度の軍事機密である通信傍受能力をソ連側に察知されるのはまずい」との判断が働き、撃墜の公表は抑えられた。そして「米国と”緊密な連絡”(外務省)が繰り返され」、午後になって、「米国の対応や、ソ連の反応を待とう、との結論」になった。
この経緯については9月3日の各紙が報じているが、韓国外務省が「第三国からの情報によると、サハリンに強制着陸させられている」と発表した時、既に日本の政府筋は、”撃墜の確証”を掴んでいたにも関らず、其れを隠していたというのである。高度な政治的判断とやらが絡んでいたとはいえ、乗員乗客の生死を案じて一喜一憂していた家族の方達にとっては、いい面の皮だろう。
又、防衛庁はその時、自分達が掴んだ情報に相当な自信を持っていたようだ。撃墜時間について、防衛庁とアメリカの発表が9分間食い違っていたが、当時の空幕長は「当方のレーダーによるデータは、間違い無いと確信している」と語り、アメリカ国防総省筋の「撃墜したのはスホーイ15」という情報に対しても、「それは誤りで、撃墜したのはミグ23だ」と述べている(朝日新聞1983年9月3日朝刊)。三好氏の指摘する”ミス”等は些細なケアレス・ミスに過ぎないというわけか。
●アメリカは、何故黙っていたのか
又、事件発生から暫くして、様々な情報が伝えられるようになるにつれて、事件の複雑さが次第に露わになって来た。この事件で妻子を失った武本昌三は、アメリカに長期滞在しながら事件を調査して纏めた『疑惑の航跡』(潮出版社、1985年)で、次の三つの事を実感したという。
第一に、大韓機のソ連領空侵犯は、(INS[慣性航法装置]への飛行データのインプット・ミスといった)単なる”人為ミス”とは考えられない事。第二に、アメリカ政府は、同機の航路逸脱を最初から知りながら、一片の警告も発しなかった事。第三に、日米両国とも、持てる情報の一部を作為的に隠している事。
こうした疑問に対して、日本政府は、「米軍レーダーは、民間航空機の軌跡を追う事を任務とはしていない」という木で鼻をくくったような答弁をした。これでは、言い訳にすらなっていない。こうしたアメリカ側の不可解な対応事実を辿っていくと、アメリカ政府が、この事件に最初から”関与”して胡散臭さが伺えて来るのである。
●取り消された事件の第一報
その他、この事件での不可解な事は細かい所まで見ると山ほどある訳だが、1992年に作成されたと云われるCIAの秘密報告書、即ち韓国の孫世一国会議員が入手したあの秘密報告書の内容が、はしなくも胡散臭さならざるを得ないその理由を象徴的に漏らしている。
「レーガン大統領とワシントン政府上層部が事件を知ったのは、発生20時間後だ った。……事件の第一報がワシントンで受け取られたのは、ソ連機の攻撃4時間後 だった。……その第一報はいきなり取り消しになり、30分後に再発行された時に は、元の第一報が著しく改変されていた。……第一報の改変してから11日後まで続けられた」
そんな調子だったから、色々混乱していたのだろう。諜報機関の”奥の院”といわれ、アメリカの危機管理を一手にする最高機関NSA(国家安全保障局)もとんだドジを踏んでいる。1983年9月3日にNSAは、最終的と題した大韓航空機事件の報告書を纏め上げた。ソ連のレーダーが何時何分に大韓航空007便の機影を捉えたか等を知るのはお手のもの、最先端のハイテク技術を駆使するNSAだが、その報告書に、ソ連機の攻撃を受けた4分後の大韓機の高度は「500メートル」だった、と書いていたのである。レーダーが示していた高度は5000メートルだから、0が一つ欠けた単純なタイプ・ミスである。しかし、この誤りに気付かず、一ヶ月半も後になって、ようやくその数字を訂正したのである。
と云う訳で、日本の防衛庁がソ連機の燃料の残量まで、高度を示す数字だと受け取ったのは、NSAと同様の単純ミスだったのかもしれない。
付け加えておけば、007便の航跡の追跡やソ連機の無線交信の傍受等で防衛庁は盛んに自己アピールをはかったが、007便事件で日本が果たした役割は、いかほどのものだったか。防衛庁が得々として発表した”事実”にしても、乗員乗客の死亡宣告を下させた者達にとっては、「おー、そうかそうか、よくやったね」と云う程度のものであったに違いない。馬鹿げた謎が次々に生まれる所以なのである。
結局、日本は蚊帳の外に置かれたままだが、その国民になると、先の武本昌三氏のように、アメリカの影に怯え、”軍事機密”の厚い壁の前に立ちすくむしかない。同じ様に蚊帳の外に外されたのは、名目上の当事国である韓国の国民も同様である。自国の”民間機”が撃墜され、多くの同胞が犠牲者になったというのに、抗議の声を上げるぐらいで、それも米ソの沈黙の壁に跳ね返されてしまうだけだった。
●ニクソン元大統領は、007便に乗る筈だった
この事件が仕組まれたものであるが故に残る”不可解さ”の一つに、事前に、事件が起こる事を知っていた者がいた、と云う事実がある。007便の乗客の一人にラリー・P・マクドナルド下院議員がいたが、実はこの007便には複数のアメリカ人議員が塔乗を予約していた。が、マクドナルド議員以外は、塔乗便をずらしていた事が、事件直後に明らかにされている。マクドナルド議員を襲った過酷な運命ーー搭乗機が撃墜されて命を落とす、と云う事態は免れたものの、KGBによる厳しい尋問と”治療”で自分が誰なのかも分らなくなり、中央アジアの強制収容所での監禁生活ーーを彼等が逃れる事が出来たのは、不幸中の幸いだった。
もう一人のマクドナルド議員になり損ねた幸運な議員の一人に、ニクソン元大統領がいたと云う。これを伝える1983年9月25日の朝日新聞の記事をご紹介しよう。モスクワ支局発の記事の内容は次のようなものだった。
「ソ連領空を侵犯した大韓航空(KAL)機には、ニクソン元大統領も乗る事にな っていたが、出発直前に塔乗を取り止めた。これは事前に何らかの情報が告げられ ていたからに違いないーースパイ飛行説を主張し続けるソ連は24日、こんな”新 事実”を持ち出した。
同日付のソビエツカヤ・ロシア紙は、これまで西独クイック誌だけが伝えたというこの事実に注目し、これを引用しながら、ニクソンが予約していたのはKAL0 07便第一列B2席であり、この席は事故の犠牲になったマクドナルド米下議員 (民主)の席に近かった、と報じている。
又、ニクソン氏だけが塔乗を取り止めたのは、元大統領までを危険にさらすに忍 びなかった米特務機関の事前通告があった為に違いない、と見る西独平和活動家等 の発言を伝え、こうした見方に説得力を持たせようとして、大統領在任中の同氏と 米中央情報局(CIA)等の”親密な協力関係”を指摘している」
これに対してニクソン元大統領は、側近ニコラス・ルーウィ氏を通して、「KAL機は勿論、他の航空会社のソウル行きの便にも乗る予定は全くなかった」と、007便の予約取り消しを否定し、元大統領は「常時、国内外からの数百に上る招待を受けており、ソウルでの米韓相互防衛上約30周年記念会議への招待もその一つだったが、結局出席を断った」と云う。
●命運を分けた一本の電話
更に、あのジェシー・ヘルムズ上院議員と、同僚のスティーブン・シムズ上院議員も幸運の持ち主だった。ヘルムズ議員は、先述のように、シフリンが生存情報救出を求めてアメリカに接触をはかった相手であり、アメリカ保守派の大物である。シムズ議員も共和党員で、矢張り保守派有力議員。この二人が007便の予約を取り消した事を伝える産経新聞(1983年9月8日)は、9月7日に明らかになった事として、以下のように記している。
「両議員はソウルでの米韓安保関係会議(9月1〜3日)に出席の為、8月31日 ニューヨーク発の007便を予約していたが、国内の政治活動日程の都合により、 ”数日前になって”(議会筋)31日ロサンゼルス発のKAL015便に変更した と言う。……ヘルムズ議員等が出発直前に塔乗便を変更した事は、犠牲者の遺族の気持ち等を考えて公表が差し控えられて来たようだ。……撃墜後、ヘルムズ議員は直ちに米国務省に対し、同議員の塔乗予定とソ連軍機による撃墜との間に何らかの関わり合いがあるのではないかと調査を進めている。米議会筋は、ヘルムズ議員は米政権が対ソ融和を図ろうとする時に常に最大の阻止力になって来た事を指摘すると共に、同議員の”007塔乗予定”は韓国へ電話連絡されていた事からソ連側も知り得た筈だとし、”撃墜とヘルムズ議員塔乗予定との関係は、証明する事も出来ないが、同時にその可能性も排除出来ない。今後の真相 究明に当って配慮されるべき要素だ”とコメントしている」(全く勘違いしているが、その理由は、後で書くと思うが、簡単に言うと電話した人が犯人グループで、ヘルムズ議員は、イスラエル派だから助けられたと言っておくが!愛)
ヘルムズ議員等が乗り換えた015便のソウル到着予定時刻は、007便に遅れる事僅か27分で、給油地のアンカレッジには、両機が相次いで駐機している。このアンカレッジのトランジット・ラウンジで両機の乗客は一緒になり、ヘルムズ議員は、二人の娘を連れたグレフェル夫妻と話をかわし、ステーシーとノエルの幼い姉妹との忘れ難い運命の一時を過ごしたのである。
ヘルムズ議員やニクソン元大統領の下に、大韓航空007便の塔乗を見合わせるようにと云う連絡が、直前に入った事はほぼ間違いない筈だ。それは一本の電話だったとも言う。それが、ソビエツカヤ・ロシア紙がいうようにCIAからだったのか、其れとも別な筋からだったのか、そこまでの詮索はここではしないでおこう。しかし、007便に何かが起こる事を、事前に”知って”いた者達がいた事は確かなのである。その”忠告の電話”が掛って来なかったマクドナルド議員は、何も知らずに007便の機上の人となったのである。一体誰が、何故、”差別”したのだろう。
●マクドナルド下院議員が”消された”理由
何故、ニクソン元大統領やヘルムズ、シムズ上院議員に掛って来た電話が、マクドナルド下院議員にはなかったのか。民主党選出のマクドナルド議員は、反共主義者としても知られていた。1975年から事件が起きた83年まで、反共組織ジョン・バーチ協会会長と、ウェスタン・ゴールズ財団理事長職に就いている。尚、このジョーン・バーチ協会は、ある時期までではあるが、シフリン達の調査活動に資金的援助をしてくれた機関の一つである。
ソ連に対して強硬路線を取るレーガン大統領にとって、マクドナルド議員のような存在は好都合といえそうだが、実はそうではなかった。マクドナルド議員は、レーガン政権にとって目の上のコブだったのである(レーガン大統領は狙撃事件を受けた事実を忘れてはいけない。ゲイリー・アレン著 高橋良典訳『ロックフェラー帝国の陰謀』の高橋良典の解説では、「腹心の友」と書いてある。再度言うけれど、レーガン大統領は、暗殺未遂になった事を忘れないで欲しい。だから最終的に言い成りになってしまった。ローマ法王ヨハネ2世も暗殺未遂があった事を忘れないで欲しい!愛)。
同議員が、レーガン政府から目の仇にされていたと思われるその理由は、事件前年の82年1月27日に議会で演説したその発言内容にある、と私は思う。彼がアメリカ合衆国の”国連脱退”を叫んでいたからである。彼の政治姿勢を示したその発言内容の一部をご紹介しよう。
「国際連合は35年に亙り、その殆どを合衆国の納税者の負担によって、途方もな い陰謀に欲しいままに耽って来ました。その陰謀とは、我が共和国をソ連及び共産 系第三世界に支配される世界政府の奴隷となさんとする陰謀です(違う。本当はイ スラエルの奴隷になる目的で作られた。共産主義理論はイスラエルの奴隷にする目 的で作られている!愛)。この様にさんざん陰謀を欲しい侭にされて、責任ある役 人も心ある市民も、益々大勢が手を引きたいと思っているのであります……」(1 982年1月27日 議会議事録・発言補遺)
これまで国連憲章に反対票を投じたアメリカの議員は2名。その一人であるランガー上院議員が、この憲章(条約)が合衆国にとって多大なる危険に満ちていると警告したのは1945年7月だった。そして後年になって、ランガー議員と同様の態度を示したのが、このマクドナルド下院議員だった。
国際連合について、日本人の大多数が抱いているイメージは、”国際問題を解決し、平和維持の為の機関”というものだろう。実際、教科書を見ても、
「第二次世界大戦勃発後の1941年8月、イギリス首相チャーチルとアメリカ合 衆国大統領ルーズヴェルトの会談の結果、戦後の国際秩序と安全保障の原則を謳っ た大西洋憲章が発表され、……国際連合憲章は、45年4月、50ヶ国が参加した サンフランシスコ会議で正式に採択され、同年10月国際連盟に代わって、国際連合が発足した。
国際連合は、国際平和を維持し、経済・文化・教育の発展を助け、基本的人権を擁護し。紛争の原因を取り除く事を目的にした常設の国際機関であり、……国際連盟の非力を反省して、米・英・仏・ソ・中の5大国を常任理事国とする安全保障理事会を設置し、国際紛争解決の為に経済制裁・軍事行動を含む強力な権限を与えた。……国際連合はその目的を実行する為に、ユネスコ(国際連合教育科学文化機関)、 国際労働機関(ILO)、世界保険機関(WHO)等、幅広く活動する専門機関を持っている」(『詳説世界史』山川出版社・1995年)
と、殊更に”平和”や ”人権”を謳う説明がなされている(これは、第二次世界大戦の戦勝国が平和の国である事を前提している。それが正しいかどうかは、その後、直ぐにソ連共産主義問題で大量虐殺問題が噴出したのです。その前のロシア革命の残虐性や植民地問題を忘れている。そして、ナチスの虐殺問題も真実であったかどうか疑問を持たれている。本当に戦勝国が正義があったかどうか。基本的に負けた国は反共の国であったのです!愛)。
こうした教科書的知識しか持ちあわせていないと、マクドナルド議員が何故、国連反対を主張したのか、又、何故、それがレーガン政権にとって目障りなのかが、おそらく理解し難いだろう。先に引用したマクドナルド議員の演説にしても、チンプンカンプンに違いない。
だから、強引なこじつけのような印象を読者に与える事は承知の上で述べておくと、この82年1月の議会での演説が、マクドナルド議員の命取りになtったのである。ヘルムズ議員ならおくびにも出すまいその演説で、マクドナルド議員は、国連条約の反国家的犯罪性と煽動性を余すところなく暴露した。その為に彼の所には、8月31日ニューヨーク発大韓航空007便に乗らない方がいいと云う”忠告”が届かなかったのだ。だから、その経緯を表面的になぞれば、マクドナルド議員は、反国連加盟を叫ぶのを”忘れた”圧倒的な数の議員と議会を支配する不思議な”影の手”によって”虜囚”にさせられたのに等しい。
どうして、そう結論付ける事が出来るのか。その説明は非常に長くなるので、3章以降で詳しく触れていきたい。その過程で”差別化”の意味と、この事件の”真犯人”達の像も自ずと明らかになってくる筈だ。
●”生存者”情報に耳を貸せなかったヘルムズ議員の”事情”
こうした私の解釈からすれば、シフリンから007便生存者の情報を受け取ったヘルムズ議員が、この件に関して沈黙した理由が読者にも類推し易くなるだろう。 仮に、ヘルムズ議員が生存者情報を確実なものだと判断し、外交問題として議会に働き掛ける事を本気でシフリンに約束しても、生存者情報の内容が正確であればある程、その情報を公にする事が出来ないと言う、いわばパラドックスに陥るしかないからだ、というのが私の解釈である。
007便でマクドナルド議員と運命を分けたヘルムズ議員を、元ニューヨ−ク・タイムズ記者セイモア・ハーシュは、一章でも触れたその著書『目標は撃墜された』の中で、次のように書いている。
「ジェシー・ヘルムズ上院議員と云えば保守派の代表だが、今度ばかりはアメリカ 議会の大半の(筆者注:国連脱退等叫ばない)議員の心中を代表していた。ソウル から帰国後に上院で、アンカレッジのトランジット・ラウンジにおけるグレンフェ ル家の娘達(筆者注:ステーシーとノエル)との出会いについて万感の思いで語っ たのである。『例え1千年生きようとも、私は決してあの少女達の事を忘れない。 私はこのひざで遊び、笑い、頬に口付けをしたあの娘達。手を握り、投げキッスをしながら007便に乗り込んでいった少女達。愛らしい二人の少女、忘れようとし ても忘れられるものではない。何故、あの少女達が犠牲にならなければならないの だ』」(ハーシュ著『目標は撃墜された』50頁)
日本の雑誌『財界』では、1983年5月号で、「レーガン再出馬のカギを握る最年少補佐官」と題してヘルムズ議員を紹介している。筆者の阿部康典氏がニューヨーク・タイムズから引用した”データ”によれば、尊敬する人物として、ヘルムズ議員は、チャーチル(英元首相)、マッカーサー(元日本占領連合国軍最高司令官)、ビリー・グラハム牧師を上げている。又、好きな映画は『サウンド・オブ・ミュージック』『風と共に去りぬ』、好きなテレビ番組は『大草原の小さな家』、好きなスポーツはフットボール、好きな言葉は「神は貴方が勝つ事を望んでいるのではない。貴方がやってみる事を望んでいる」、好きな本は『聖書』と答えている。要するに、俳優のジョン・ウェインに象徴されるような、道徳的で頑固者、そして力持ちだが、心優しい、気のいい保守的アメリカ人である(『聖書』のイスラエルの歴史を見れば『サウンド・オブ・ミュージック』『風と共に去りぬ』、好きなテレビ番組は『大草原の小さな家』からほぼ遠い世界である!愛)。
このヘルムズ議員は、後に麻薬密輸組織カリ・カルテルのノリエガ打倒を訴え、ハーシュがそれを取材する事になるが、『目標は撃墜された』では、ハーシュはヘルムズ議員の事を「愛想が良くて紳士的」と形容している。要するに、天下の大物議員を気のいいおじさんでしかないと嘲笑しているのである。このハーシュが中々の曲者である事と、何故ヘルムズを見下すのかは、後の章で明らかになる筈だ。
実際、ヘルムズ議員はシフリンの期待に応える事は出来なかった。その理由が、007便搭乗機取り止めを忠告してくれた”命の恩人”、言い換えれば自分の命さえ左右出来る相手を敢えて裏切れない事にあったのか、或いは、もっと他にあったのか。それは解らないが、ヘルムズ議員が恐らく命懸けの逡巡をしている間に、シフリン達が調べ上げた生存者情報(シフリン・レポート)がCIAに”盗作活用”され、ソ連にまで流出しただろう(本当に基督教保守主義者であるならば、イエス様を憎んでいるシオニズムユダヤ教徒と仲良くなれる訳ではない。このシフリン・レポートを無視した事は、未だプーチン大統領は、マクドナルド議員を解放していないから、今も強制労働収容所の中で悲惨な生活を余儀なくされている状況である彼を見殺しに考えている人である。アメリカ国民よ、アメリカを心から大切にし、人類愛に燃えたマクドナルド議員を裏切り、世界を売ったヘルムズ議員を討て。勿論、公的活動で。只、ヘルムズ議員は”真犯人”の下っ端に過ぎない。プーチン大統領よ。本当に良心のあるロシアを作るならば、本当のテロ支援国家北朝鮮問題も真剣に考え、人類の良心の虜囚であるマクドナルド議員を釈放し、真の共産主義犯人を捕まえる必要があるのです。そして、007便の乗員乗客を無事に家族に帰還させる事が先決です!愛)。
●ゴルバチョフは、全てを知っていた
再び、1992年のCIA秘密報告書に戻ると、シフリン情報を黙殺もしくは否定しきれずに逆襲用(アリバイ用)に敢えて作成された文書とはいえ、全てが嘘で塗り固められているわけではない。人を騙すテクニックの基本の一つは、9割の真実の中に1割の嘘を紛れ込ませる事にあるという。この文書にも、CIAの本音らしきものが伺われ、中々に興味深い。
例えば、「国務省がソ連を刺激するのを恐れたので、米海軍はソ連領海内に情報探知装置の設置を控えて来た」と胸を張るその反面で、「CIA」による007便の事故調査は完全な失敗であり、007便を誤って撃墜したとするソ連の見解を鵜呑みにした」と自己批判もしてみせている。1970年代、即ちレーガンの前のジョンソン、カーター両大統領の時代に、CIAの秘密工作が次々に暴かれて世間から厳しい糾弾を受け、その組織が弱体化された過去への恨みを見え隠れさせた弁解弁明でもある。そして、報告書は論旨を拡大していく。
「この問題に関して、ソ連のペレストロイカ指導者達の間で行われた如く最近の議 論についていえば、ミハイル・ゴルバチョフは、そもそも初めから事の真相に十分 気付いていた。と云う訳で、1983年にゴルバチョフが果たしていたソ連指導部 に於ける役割を考慮すれば、彼はKAL007便に関するソ連の嘘と欺瞞に責任が ある事になる」等と、ゴルバチョフの事件関与に苛立ちを示しつつ、責任転嫁さえしているのである。
ゴルバチョフは事件当時ソ連共産党政治局員で、ユーリー・アンドロポフがソ連の最高指導者に育て上げようとしていた傑物と言われていた。そして、その2年後の83年、アンドロポフの死去に伴い、ソ連共産党新書記長としてソ連最高指導者の地位についている。
従って、CIA報告書が言うように、ゴルバチョフが大韓機事件の細部に亙る秘密を知り、政治局内で論じられた全ての情報を熟知していた事は、疑うべくもない。大韓機007便に生存者はいなかったと言うエリツィンが何処まで”真実”を知っているかは解らないが、ゴルバチョフが事の始まりから関与していた事は確かだろう。1990年にゴルバチョフはノーベル平和賞を受賞しているが、その受賞も、こうした内情を知る人達(KGBやCIA等の情報機関筋)には、とんだ茶番劇しか映らなかった筈だ。
●歴史の闇に葬られかけた”真実”
1991年12月、ヘルムズ上院議員に貴重な情報を託した後も尚、シフリンの追跡グループがKGBの厳しい監視の目を避けつつ大韓機の生存者の行方を追い求めていた時、米ソは奇妙な祝杯を交わしていた。
「ミハイル・ゴルバチョフが長年に亙って継続してきた世界平和への貢献と、彼の知性、洞察力、そして勇気に対し、私は彼に感謝の気持ちを述べたいと思います」
ジュージ・ブッシュ大統領(当時)は、12月26日に、モスクワでソ連全国民にそんな挨拶を送っていたのだ。その前日の12月25日、ゴルバチョフは、ソ連大統領の地位を退く事を発表していた。ソビエト連邦の消滅である。
破滅状態に陥ったソ連経済に慌てたウォール・ストリートの金融家達がモスクワに送った応援団が、TC(日米欧三極委員会。後出)のメンバー達だった。そのいわば団長役のブッシュにとって真に気掛かりだったのは、ソ連邦の消滅よりも、KGB体制の崩壊だったのではなかろうか。つまり、大韓航空007便撃墜事件の真相を永久封印する事で、CIAとKGBの絆を一層強固にしようとした合意がそこで交わされたのは間違いない。
政治的な混乱があっても、KGBが機能している限り、ソ連。ロシアの社会の秩序は曲がりなりにも保たれる。それならば、ソ連と言う国家が莫大な債務超過で破産しても、”会社更生法”を適用して再建築を図り、”投資家”達の権益を守る事が出来るーー奇妙な言い方に聞こえるかもしれないが、この時期にモスクワを訪れたブッシュ大統領の頭には、そうした計算があり、その為にも007便事件の欺瞞を隠し通そうと腐心したに違いない。
「ボリス・エリツィンを小馬鹿にているブッシュが、ゴルバチョフに”君は未だ主人(ソ連の)なのだ”と励ます訪ソ旅行」と、アメリカの作家ユースタス・マリンズはブッシュ(今のブッシュ大統領の親である元ブッシュ大統領!愛)訪ソの目的を婉曲にそう表現している。そのゴルバチョフは、KGBのゴッド・ファーザーだったアンドロポフの”秘蔵っ子”であり、直々の”愛弟子”だったから。KGBとの繋がりは深い。
生命を掛けて必死に追跡活動を続けるシフリン等にすれば、ブッシュ大統領がゴルバチョフにエールを送るのは、喩えて言えば、首を吊ろうとしている人の足を引っ張る行為に等しい。収容所を管理するKGBの監視が強化されれば、007便の生存者達の消息が益々掴み憎くなるからだ。
それだけに、共産主義体制崩壊の真っ只中にいた米ソ首脳には、8年前に起こった(1991年の米ソ首脳会談当時からの8年前の話!愛)007便事件の真相の隠蔽に必死だったのであろう。大韓航空機事件の”真実”は、微動する歴史の大渦に危うく飲み込まれ掛っていたのである。
●事件は未だ終わっていない
事件から13年が経過した1996年1月、事件関連のニュースが日本でもさり気なく伝えられた。同年1月18日付の毎日新聞によれば、「米最高裁、大韓機事故慰謝料認めず」の見出しでワシントン支局発として次のように報じられていた。
「米連邦最高裁は16日、1983年にサハリン沖で撃墜された大韓航空機の米国 人遺族が起こしていた家族慰謝料の支払いを求める訴訟で”家族の慰謝料は認められない”とする判決を言い渡した。米国の国内法により賠償額は”金銭上の損失” にかぎられるとの見解を示した」
最高裁の判決が出たと云う事は、”事件の終焉”が告げられた、と云う事である。こうして、幕が下ろされようとしていた1月16日、ソウル発の共同電はこう伝えていた。
「韓国SBSテレビは15日、米中央情報局(CIA)が最近、1983年の大韓 航空機撃墜事件に関する極秘報告書を纏め、同機がソ連戦闘機(当時)に狙撃された後、海への非常着水に成功し、乗客生存の可能性が高いとの見方を示した、と報じた。
同テレビによると、報告書は米国家安全保障局(NSA)等情報機関の資料を基に作成され『同機が非常着水を試みたのは明らか。成功した可能性が高く、生存者 がいたのはほぼ確実』と結論付けている。しかし、報告書の作成時期や、現在も生 存者がいるのかどうか等は一切不明。
報告書は生存者の根拠について、(1)同機が狙撃後、12分間飛行していた事実が米国の情報と日本のレーダー追跡で明らかになった(2)事故後8日間で残骸や遺体等は莫大な数の遺留品が跡形もなく蒸発した(3)ソ連が国際民間航空機関(ICAD)に引き渡した残骸76点に同機や乗客のものと推定出来るものが一つもないーー等を挙げている」(産経新聞1996年1月16日朝刊)
裁判記事と生存者の可能性に言及した事件の話題が、96年の1月16日に通信社を経由して同時発信されたのは、単なる偶然なのだろうか。しかも、ソウル発が伝える、生存者うんぬんを記した秘密報告書とは、その4年前の1992年に韓国の孫世一国民党議員が”発表”した、あのシフリン・レポートを”盗作”したCIA秘密報告書の全文が初公開されている。007便のブラックボックスを回収したと云う、”アリバイ用”の秘密報告書である。それらがこの時期にほぼ同時に公開されたのは、偶然の一致に過ぎないのだろうか。
おそらく、米連邦最高裁の判決で事件が人々の記憶に甦るのをシオに、再びシフリン等の証拠がアリバイ作りに使われた、と云う事だろう。但し、今回アリバイ作りを図ったのは、西側(CIA)からだった。事件の後始末は、公式な手続きとしては、こうして全て終わった。しかし、事件は、今もなお終わってはいないのである。
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