アメリカ史における唯一の内戦
南北戦争は1861年から65年にかけて行われたアメリカの内戦。アメリカ合衆国(United States of America)を構成する州がそこから脱退して独自の軍事組織をつくり、合衆国軍と激突したアメリカ史における唯一の内戦。内戦の直接のきっかけになったのは1860年11月の大統領選挙。その選挙で当選した人物は共和党のエイブラハム・リンカーン。彼の前に敗北した民主党の政治家たちは怒り、その現実を受け入れようとせず、当時彼らの影響下にあった南部諸州を合衆国から「離脱」させると称し、アメリカ連合国(Confederate
States of America)なる新国家を樹立したと宣言してアメリカ合衆国に攻撃をしかけた。こうして始まったのが南北戦争。 |
350万人は、自由も財産もない黒人奴隷
南北戦争の原因は黒人奴隷制度の是非。温暖湿潤で農業に適した米南部の地には、当時見渡す限りの綿花プランテーションが広がっていた。綿紡績業は鉄道や鉄鋼業と並ぶ、18~19世紀の産業革命の立役者となった産業の一つだった。綿花は、当時の白人文明圏で作れば作るだけ売れた高級産品で、かつそれは寒冷なヨーロッパでは育たない作物でもあったので、米南部には莫大な富が流れ込むことになった。南部人たちはその広大な綿花プランテーションをより効率的に運営していくため、自分たちの地にアフリカからの黒人奴隷を導入していくことになった。
南北戦争開戦前夜、米南部には約900万の人口がいたが、そのうちの350万人は自由も財産もない黒人奴隷。一方のアメリカ北部は、南部に比べ寒冷な気候風土を持つ地域で、綿花の栽培などには適していなかった。黒人奴隷を必要とするような産業もなく、自営農業や商工業によって、人々の生活は支えられていた。1789年に始まったフランス革命以降、奴隷制廃止はヨーロッパのトレンドになっていく。19世紀半ばごろまでに、イギリスやフランス、プロイセンなどで奴隷制は禁止されており、南北戦争前夜の白人文明圏においてアメリカは国レベルで奴隷制を廃止していない珍しい国家になっていた。 |
奴隷制の存続の可否を問う選挙の結果は…
1860年の大統領選は、このアメリカにおける奴隷制の存続の可否を問う選挙になった。共和党は1854年に結成された当時の新党だったが、結党当初から明確に「奴隷制反対」を打ち出しており、北部を主な支持基盤にしていた。一方の民主党は、1828年に結成された、全国に基盤を持つ政党で、伝統的に南部の奴隷農園主たちから多くの支持を集めていた。選挙を前にして民主党は北部民主党と南部民主党に分裂。ほぼ自滅のような形で大統領選に敗れた。南部民主党は、奴隷制反対を唱える共和党の大統領(リンカーン)が誕生したという事実を受け入れようとしなかった。1860年の12月から、サウスカロライナ州を皮切りとし、南部民主党が支持基盤とする南部諸州が次々と「合衆国から脱退する」といって「独立」を宣言していった。
1861年4月12日、サウスカロライナ州サムター要塞での軍事衝突から南北戦争は始まった。内戦は丸4年にわたって続き南部の敗北に終わる。その戦いの中で約60万人もの人々が命を落とした。アメリカが第2次世界大戦で出した戦死者数は40万人、ベトナム戦争では5万人ほど。南北戦争は実はアメリカが経験した「史上最大の戦争」でもあり、アメリカ人たちにとってのインパクトも絶大。独立戦争によって大英帝国を退け、自由と民主主義に立脚した「人類の理想の国家」として生まれたはずのアメリカ合衆国が、内部の人種問題の結果に分裂し、史上最大の戦死者を出したというその事実は、多くのアメリカ人の心に強い衝撃を与え、深い傷をも残した。
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一部の金持ち階級だけが政治も経済も牛耳る社会
ところで、南北戦争前夜のアメリカ南部において、黒人奴隷の売買価格は1人あたり、現在の日本円に換算すると数百万~1000万円くらい。奴隷とは実はこのような「高級資産」であり、南部人だからといって誰でも気軽に所有できるものではなかった。先ほど、南北戦争前夜の米南部の人口を約900万人と説明したが、そのうち奴隷を所有していた層は30万人ほどであったと言われている。共産主義の父にして『資本論』の著者、カール・マルクスは、当時の米南部に関して「少数者の寡頭支配」体制だとし、奴隷だけでなく貧乏な白人すら「ローマの最も衰亡した時代の平民のそれとのみ比較しうるほどの」、ひどい生活状態に置かれていたと指摘している。このように、南北戦争のアメリカ南部とは、奴隷制という人種差別体制と、富の集中によって起こった寡頭支配により、民主主義国家とはほとんど言えないような、一部の金持ち階級だけが政治も経済も牛耳る社会となっていた。彼らはまさにその既得権益を確保するため、「奴隷制反対」を訴える共和党の大統領当選を認めず、「合衆国からの離脱」を強行し、そして自ら合衆国軍に大砲を撃ちかけて、未曽有の内戦、南北戦争を引き起こすことになった。その意味で南北戦争とは、いわば「セレブの反乱」だった。
「第1次南北戦争」前夜の状況
南北戦争勃発直前の1861年3月4日、合衆国大統領に就任したエイブラハム・リンカーンは、その就任演説で次のように訴えた。
「憲法上の制限と制約とによって抑制されている多数、これは常に輿論と人々の感情の慎重な動きに従って順次に変化してゆくのでありますが、これこそ自由なる国民の唯一の君主であります。この多数を斥ける者はとりもなおさず無政府とか独裁制におもむく者であります。全員一致は不可能であります。少数派の支配を永久的な措置とすることは、まったく容認しがたいことであります。そこで多数決主義を斥ければ、残るものはなんらかの形における無政府制ないし専制主義だけとなります」(『リンカーン演説集』岩波文庫より) |
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