米国史における陰謀事件考

 (最新見直し2005.6.12日)

 (れんだいこのショートメッセージ)


 「支配者が好んで使う「陰謀論」という事実隠蔽の呪文(櫻井ジャーナル、2021.01.21)」参照。
 https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202101210000/

 「阿修羅♪ > 国際30」の「赤かぶ 日時 2021 年 4 月 04 日」投稿「ベトナム戦争に反対
すると宣言して殺されたキング牧師(櫻井ジャーナル)
」参照。
 アメリカは原爆の開発を目的とするマンハッタン計画を秘密裏に進めらていた。

 1944年、アメリカのマンハッタン計画をを統括していたアメリカ陸軍のレスニー・グルーブス少将が、ポーランドの物理学者ジョセフ・ロートブラットに対し、計画は最初からソ連との対決が意図されていると語ったという。(Daniel Ellsberg, “The Doomsday Machine,” Bloomsbury, 2017) 

 1945年7月16日、アメリカの好戦派が核兵器を手にした。その日、ニューメキシコ州にあったトリニティ(三位一体)実験場でプルトニウム原爆の爆発実験を行い、成功した。副大統領から大統領に昇格していたハリー・トルーマンは原子爆弾の投下を7月24日に許可し、広島と長崎へ投下された。

 1945年8月30日、ローリス・ノースタッド少将が、グルーブス少将に対して核攻撃に関する報告書を提出した。そこにはソ連の中枢15都市と主要25都市を核兵器で攻撃すると書かれていた。9月15日付けの文書ではソ連の主要66地域を核攻撃で消滅させるには204発の原爆が必要だと推計。そのうえで、ソ連を破壊するためにアメリカが保有すべき原爆数は446発、最低でも123発だという数字を出した。(Lauris Norstad, “Memorandum For Major General L. R. Groves,” 15 September 1945)

 1957年、軍の内部でソ連に対する先制核攻撃を準備しはじめた。(James K. Galbraith, “Did the U.S. Military Plan a Nuclear First Strike for 1963?”, The American Prospect, September 21,19 94)

 この年の初頭、アメリカ軍はソ連への核攻撃を想定したドロップショット作戦を作成、300発の核爆弾をソ連の100都市で使い、工業生産能力の85%を破壊するとしている。(Oliver Stone & Peter Kuznick, “The Untold History of the United States,” Gallery Books, 2012) テキサス大学のジェームズ・ガルブレイス教授によると、リーマン・レムニッツァー統合参謀本部議長やSAC司令官だったカーティス・ルメイを含む好戦派は1963年の後半に奇襲攻撃を実行する予定​​だったとしている。
 こうした核攻撃計画の前には大きな障害が存在した。ジョン・F・ケネディ大統領である。この大統領はイスラエルの核兵器開発にも強い姿勢で臨み、通貨の発行権を政府が取り戻そうとし、巨大資本の横暴も規制しようとしていた。支配層の内部ではケネディに対する怒りが渦巻いていたわけだが、その怒りは1963年11月22日に解消された。ケネディ大統領がテキサス州ダラスで暗殺された。キング牧師が殺される5年前のことである。

 ケネディはベトナムからのアメリカ軍を引き上げる決断して好戦派を怒らせるが、その前から支配者たちとの関係は悪かった。アレン・ダレスCIA長官、リーマン・レムニッツァー統合参謀本部議長、カーティス・ルメイSAC司令官を含む軍や情報機関の好戦派はソ連や中国への先制核攻撃を計画していた。
 このケネディ大統領暗殺を調査するために委員会が編成される。委員長はアール・ウォーレン判事、委員はリチャード・ラッセル上院議員、ジョン・クーバー上院議員、ヘイル・ボッグス下院議員、ジェラルド・フォード下院議員、アレン・ダレス元CIA長官、ジョン・マックロイ元世界銀行総裁がいた。そして主席法律顧問はリー・ランキン。

 アレン・ダレス元CIA長官は、第2次世界大戦中からOSSで破壊活動を指揮、ケネディ大統領にCIA長官を辞めさせられている。ジョン・マックロイ元世界銀行総裁は、世界銀行の総裁を経てドイツの高等弁務官としてナチスの大物たちを守った履歴を持つ。ジェラルド・フォード下院議員は、J・エドガー・フーバーFBI長官に近かった。主席法律顧問のリー・ランキンはCIAとFBIにつながっていた。この委員会にまともな調査を期待することは無理だ。

 1964年10月12日、リー・ハーベイ・オズワルドが単独で行ったとする報告書をこの委員会が出した3週間後、ケネディ大統領と親密な関係にあったマリー・ピンチョット・メイヤー女史が散歩していた際に射殺された。銃弾の1発目は後頭部、2発目は心臓へ至近距離から撃ち込まれていた。この女性が1958年まで婚姻関係にあったコード・メイヤーはCIAの幹部として秘密工作に関わっていた人物だ。ケネディ大統領が暗殺された直後、マリーは友人でハーバード大学で心理学の講師をしていたティモシー・リアリーに電話し、泣きながら「彼らは彼をもはやコントロールできなくなっていた。彼はあまりにも早く変貌を遂げていた。・・・彼らは全てを隠してしまった」と語ったという。(Timothy F. Leary, “Flashbacks,” Tarcher, 1983)

 その後、多くのジャーナリストや研究者が事件を調査、ウォーレン委員会とは違う結論に到達した人が少なくない。単独犯行は無理であり、組織的に実行された可能性が高いということだ。そうした調査結果を封印するために使われ始めたのが「陰謀論」である。その後、どのような出来事でも組織的な権力犯罪という主張が出てくると「陰謀論」という呪文が唱えられる。支配者が定めた枠組みの中で生きようとする人は、どのような「立ち位置」を演出していようと、この呪文を受け入れる。
 1964年、リンドン・ジョンソン政権がベトナムへの本格的な軍事侵略を始めた。7月30日、南ベトナムの哨戒魚雷艇が北ベトナムの島、ホンメとホンニュを攻撃、31日にはアメリカ海軍の特殊部隊SEALsの隊員に率いられた20名ほどの南ベトナム兵がハイフォンに近いホンメ島のレーダー施設を襲撃した。この襲撃に対する報復として、北ベトナムは8月2日、近くで情報収集活動をしていたアメリカ海軍のマドックスを攻撃したと言われている。

 リンドン・ジョンソン大統領は議会幹部に対し、公海上にいたアメリカの艦船が北ベトナムの攻撃を受けたと説明、8月7日にアメリカ議会は「東南アジアにおける行動に関する議会決議(トンキン湾決議)」を可決した。この決議を受けて1965年2月から北ベトナムに対する本格的な空爆、ローリング・サンダー作戦が始まる。しかし、戦争は泥沼化する。

 1967年、CIAが特殊部隊と連携してから秘密工作を始める。NSCに所属していたCIAのロバート・コマーはこの年の5月にDEPCORDSとしてサイゴン入り。6月には彼の提案に基づいてCIAとMACV(ベトナム軍事支援司令部)は共同で極秘プログラム「ICEX(情報の調整と利用)」を始動させた。これはすぐ「フェニックス・プログラム」へ名称変更になる。この秘密工作の実働チームとしてCIAは1967年7月にPRU(地域偵察部隊)を組織する。SEALsの隊員だったマイク・ビーモンによると、PRUは殺人やレイプ、窃盗、暴行などで投獄されていた囚人たちが中心メンバーで、フェニックスは「ベトコンの村システムの基盤を崩壊させるため、注意深く計画されたプログラム」だという。

 1967年4月4日、マーチン・ルーサー・キング牧師が、暗殺される丁度1年前のこの日、CIAがベトナムで住民虐殺プロジェクトを始める直前、ニューヨークのリバーサイド教会で「ベトナムを憂慮する牧師と信徒」が主催する集会があり、主催者は「沈黙が背信である時が来ている」と訴えていた。その訴えにキング牧師は賛意を示した上で、「なぜ私はベトナムにおける戦争に反対するのか」という話をしている。大半のアメリカ国民はベトナム戦争の悲惨な現実から目をそらし、自分自身を欺いていると指摘、そうした偽りの中で生きることは精神的な奴隷状態で生きることを意味すると牧師は語り、ベトナム戦争に反対すると宣言している。この段階でキング牧師は人種差別だけでなく、そうした差別を生み出す政治経済的な仕組みに目を向け始めていた。しかし、ロン・ポール元下院議員によると、​キング牧師の顧問たちは牧師に対してベトナム戦争に焦点を当てないよう懇願していた​という。そうした発言はリンドン・ジョンソン大統領との関係を悪化させると判断したからだ。「公民権運動」という枠組みの中で発言し、行動しようと顧問たちは考えたのだろうが、そうしたアドバイスを牧師は無視した。人種差別も侵略戦争も根源は同じ。つまり資本を握る富豪が大多数の労働者を支配する仕組みそのものを問題にしなければならない。支配者は逆に、人びとの目をそうした問題からそらさせる必要がある。「労働者階級」を「白人下層中産階級」と呼ぶようになったとニューヨーク誌が指摘したのは1969年4月14日号だ。労働者を人種で分断させようということだろう。

 1968年3月、MACV司令官はウィリアム・ウエストモーランドからクレイトン・エイブラムズへ交代、11月にはコマーの後任としてウイリアム・コルビーがサイゴンへやって来た。その8カ月前、3月にミ・ライ(ソンミ村)事件が引き起こされているが、これもフェニックス・プログラムの一環だった。(Douglas Valentine, "The Phoenix Program," William Morrow, 1990)

 コルビーは1973年9月からCIA長官を務めているが、その際にフランク・チャーチ上院議員が委員長を務める特別委員会でCIAの秘密工作について詳しく説明している。「1968年8月から1971年5月までの間にフェニックス・プログラムで2万0587名のベトナム人が殺され、そのほかに2万8978名が投獄された」とも証言。CIAで秘密工作を実行していた人びとはこの証言に激怒した。同僚を怒らせる証言をした一因は、彼がCIA長官に就任する5カ月前にひとり娘で戦争に反対していたキャサリンが死んだことが影響している可能性がある。

 1968年2月、「テト攻勢」でアメリカ国民はベトナムでアメリカ軍が苦戦している実態を知ることになる。CIAの秘密工作で戦況を好転させることはできなかったことになる。キング牧師が殺されたのは、その2カ月後のことだ。

 キング牧師が暗殺される直前、3月16日にロバート・ケネディ上院議員が1968年の大統領選挙に出馬すると宣言、同月31日にジョンソンは大統領選挙からの離脱を宣言した。ロバートはキング牧師と親しく、そのキングを副大統領候補にすると言われていた。
 1968年4月4日、マーチン・ルーサー・キング牧師がテネシー州メンフィスのモーテルで射殺された。

 支配者は権力犯罪が個人的なものであり、構造的なものではないと被支配者に信じさせようともしている。「ベトナムにおける政策決定の歴史、1945年 - 1968年」というタイトルの報告書を有力メディアへ渡したダニエル・エルズバーグは宣誓供述書の中で、キング牧師を暗殺したのは非番、あるいは引退したFBI捜査官で編成されたJ・エドガー・フーバー長官直属のグループだと聞いたことを明らかにしている。エルズバーグにその話をしたブラディ・タイソンはアンドリュー・ヤング国連大使の側近。エルズバーグは国連の軍縮特別総会で親しくなったという。タイソンは下院暗殺特別委員会に所属していたウォルター・ファウントロイ下院議員から説明を受けたとしているが、ファウントロイ議員はその話を否定している。(William F. Pepper, “The Plot to Kill King,” Skyhorse, 2016)
 6月6日、キング牧師が殺された2カ月後、ロバート・ケネディが、カリフォルニア州ロサンゼルスのホテルで殺されている。ケネディ上院議員の60センチメートル以上前を歩いていたサーハン・サーハンが犯人だとされているが、検死をしたトーマス・ノグチによると、議員には3発の銃弾が命中、致命傷は右耳後方のもので、銃口は1インチ(2.5センチメートル)以内の距離にあった。残りの2発は議員の右脇に命中していた。これらが全て正しいとするなら、上院議員の60センチメートル以上前方を歩いていた人物が、議員の右後方の至近距離から銃弾を発射したことになる。これがアメリカ流の「ファクト」だ。







(私論.私見)