日共批判の多面性考

 この考察もしておかねばなるまい。今日代々木共産党(以下、日共と呼ぶ)が様々な角度から悪し様に云われている。これを仔細に見れば、大きく二つの観点から云われている。問題は、この両見解は「水と油」の関係に位置しているのに、双方が検証しようとしないことにある。それでは全く日共批判の野合では無いのか。そういう燻りがずっとれんだいこにはある。れんだいこはそういう野合には与しない。そういうこともあって、れんだいこの日共批判のスタンスを明らかにしておきたい。


【「右派系からする『即自』的日共批判」】
 まず確認しておくことは、マルクス主義と日共の関係についてである。右派系批判派はある時にはマルクス主義の理論批判を通じて日共批判へと繋げる。今度は逆に日共批判してマルクス主義批判へと向かう。この場合、マルクス主義と日共の連続性を前提にしているが、つまり日共がマルクス主義の忠実な実践党として見なした上での批判をしていることになる。れんだいこに云わせれば、これは全く事実にそぐわない。仮にこれを、へ―ゲル論理学的見地から「『即自』的日共批判」の段階としよう。

 あちこちでこの見地から為されている日共批判を散見する。れんだいこに云わせれば、ナンセンスにして幼稚な勉強不足段階の批判と見なせる。この段階の批判の特徴は、1・マルクス主義の暴力革命論批判、2・マルクス主義のプロレタリア独裁理論批判、3・これらに関連して史上に現れたスターリンの大粛清を始めとする体制批判、4・日共の過去の活動での武装闘争批判から始まり、もう少し先へ進むと、5・マルクス主義の哲学批判、6・マルクス主義の経済学批判、7・マルクス主義の「民主集中制」的組織論批判その他諸々へと向かう。

 宗教諸派のマルクス主義的唯物論に対する理解の「只物論」的捻じ曲げ、右派系団体によるマルクス主義的国際主義に対する偏狭祖国防衛主義からの捻じ曲げ、政権与党によるマルクス主義的革命論に対する体制護持見地からする誹謗等々もこの段階にあると云えよう。

 これら諸批判のどこがオカシイのかと云うと、日共の歴史に対する無知蒙昧さにある。マルクス主義の実践党として日共を位置付けるという観点が既にあまりにもナンセンスであることが判明しているというのに、未だにこれに固執して現下日共党中央の変調特質に無理解のまま批判している。「己を知り彼を知る」のが高次認識の始まりであるとすれば、この原則から大いに逸脱していると云える。要するに、何らかの利害があってそういう為にするおざなり批判を万年繰り返しているに過ぎないということになる。

 事実、このレベルの批判に対しては、日共はことごとく対応を完了している。「1・マルクス主義の暴力革命論批判」に対しては議会主義路線への転換を云い、「2・マルクス主義のプロレタリア独裁理論批判」に対しては議会制民主主義の遵守を云い、「3・史上に現れたスターリンの大粛清を始めとする体制批判」に対しては「ソ連崩壊して良かった」論を云い、「4・日共の過去の活動での武装闘争批判」に対しては「50年問題」の積極的清算を論証し、「5・マルクス主義の哲学批判」に対しては極力穏和的な理解の仕方を披瀝し、「6・マルクス主義の経済学批判」に対しては修正資本主義の見地からの構造改革路線、更に最新の市場経済論を対置し、「7・マルクス主義の『民主集中制』的組織論批判」に対しては漸次改善中ないしは結社の自由に属することと云う。

 これに対し、右派系批判派は、「そういうソフト路線の衣の下に鎧が隠されている。騙されてはならない」としたり顔で再批判する。そう思いたいからそう指摘しているだけで、現下日共党中央が実際ににソフト路線へ転換していることの分析をしようとしない。あるいは、現下党中央の転換は認めても全組織の転換が為されていないという危惧からそう主張しているのかも知れない。この限りでのみ唯一論拠があると云えようが、現下日共党中央は既に50年近く執行部を占拠し続けており、目下の党員はこの系譜の者で一色になっていると考える方が正確だろう。

 れんだいこに云わせれば、右派系批判派とその批判に応えて漸次マルクス主義の右傾化へと歩を進める現下日共党中央は良いハーモニーを奏でている。表向きの対立をよそに既に深いところで協調している。一朝事有ればその時の対応の仕方でこのことが判明するだろう。


【「教条主義的左派系からする『対自』的日共批判」】
 次の批判の類型分析に入る。今度は主として新左翼からの日共批判に入る。新左翼と云っても一様ではないが、まずはマルクス主義教条派の見地からの批判の分析から入る。マルクス主義教条派は、「『即自』的日共批判」と丁度メタルの裏合わせの関係にあり、丁度真反対から日共の修正主義ぶりを批判する。「『即自』的日共批判」が「右」から為されるのに対し、「左」から為すという関係にある。仮にこれを、へ―ゲル論理学的見地から「『対自』的日共批判」段階としよう。

 この見地から為されている日共批判は次の通りである。1・暴力革命論から議会主義路線への転換に対するマルクス主義からの逸脱であるとする批判、2・プロレタリア独裁理論批判から議会制民主主義線への転換に対するマルクス主義の修正であるとする批判。つまり、「『即自』的日共批判」に対する日共流対応をことごとく誹謗するという構図になっている。こうなると、日共はいずれにせよ批判される訳だ。

 3・史上に現れたスターリンの大粛清を始めとする体制批判」に対しては、ここが右派系批判派と少々違うところであるが、トロツキズムの観点からスターリズム批判に移行する。ところが、4・日共の過去の活動での武装闘争批判に対する「50年問題」の積極的清算の論証に対しては、奇妙なことに論旨がはっきりしない。むしろ、「50年問題」当時党中央を指導した徳球―伊藤律の批判に手厳しい派もあり、この問題に関しては当時の宮顕対応を支持している形跡さえある。

 5・マルクス主義の哲学理解に対してもその極力穏和主義的捻じ曲げを批判し、6・マルクス主義の経済学理解に対しても修正資本主義の見地からする構造改革路線、更に最新の市場経済論称揚を逸脱として批判する。ところが、7・マルクス主義の「民主集中制」的組織論については、奇妙なことに論旨がはっきりしない。むしろ、「民主集中制」的組織論を更なる擁護するという見地の派も見られる。

 宗教諸派のマルクス主義的唯物論に対する理解の「只物論」的捻じ曲げ、右派系団体によるマルクス主義的国際主義に対する偏狭祖国防衛主義からの捻じ曲げ、政権与党によるマルクス主義的革命論に対する体制護持見地からする誹謗等々については、日共の反論の弱さを突く程度で、日共に代わって弁論するという風でも無い。

 これら諸批判のどこがオカシイのかと云うと、日共の歴史に対する一知半解さにあり、あまりにも現下党中央の特異特質に対して無理解ということにある。「己を知り彼を知る」のが高次認識の始まりであるとすれば、この原則から大いに逸脱していると云える。要するに、何らかの利害があってそういう為にする批判を万年繰り返しているに過ぎないように見える。

 ここで問題となるのは、日共のマルクス主義教条派批判ぶりである。この時日共は、右派系批判派に対するソフトスマイルぶりとはうって変わって強面(こわもて)調に変貌する。右派系批判派が投げかけるマルクス主義批判の論点を踏襲し、これに「輪をかけた論」をマルクス主義教条派に投げつける。加えて、トロツキズムへの悪態をこぼしおどろおどろしい「反革命批判」で立ち向かう。今日ではさすがにこの論法は通用せず、替わりに編み出されてきたのが科学的社会主義論である。トロツキズムへの検討をあくまで回避しつつ依然として我々こそが正しい科学的見地に立っているという自画自賛の手前味噌論を繰り広げる。ご都合主義極まれりと云うべきであろう。


【「社民主義系からする『向自』的日共批判」】
 次の批判の類型分析に入る。今度は主として社民主義系の見地からの批判の分析から入る。社民主義系には元々の西欧民主主義を重視する流れと最近のマルクス主義転換派の流れの二派があるように思われる。いずれにしても社民主義派は、「『即自』的日共批判」、「『対自』的日共批判」とトライアングルな関係にあり、又別の角度から日共を批判する。特に、日共理論のソフト理論の不徹底さと「民主集中制」組織論とのちぐはぐさぶりを批判する。仮にこれを、へ―ゲル論理学的見地から「『向自(見直し)』的日共批判」段階としよう。

 この見地から為されている日共批判は次の通りである。1・マルクス主義の暴力革命論から議会主義路線への転換を擁護しつつその不徹底さの批判、2・マルクス主義のプロレタリア独裁理論批判から議会制民主主義線への転換を擁護しつつその不徹底さを批判する。つまり、この間の日共流対応をことごとく半端性故に非難するという構図になっている。こうして見るといずれにせよいろんな角度から批判される訳だ。

 社民主義系は、「3・史上に現れたスターリンの大粛清を始めとする体制批判」に対しては、ここがマルクス主義の教条主義的批判派と少々違うところであるが、トロツキズムの観点を媒介させること無くスターリズム批判に移行する。ところが、4・日共の過去の活動での武装闘争批判に対する「50年問題」の積極的清算の論証に対しては、宮顕―不破系の現下日共党中央の対応を支持している。むしろ、「50年問題」での宮顕式総括を是認し、当時党中央を指導した徳球―伊藤律に手厳しく批判を加える。

 5・マルクス主義の哲学理解に対しては更に穏和主義方向から批判し、6・マルクス主義の経済学理解に対しても修正資本主義の見地からする構造改革路線、更に最新の市場経済論称揚見地から批判する。7・マルクス主義の「民主集中制」的組織論については、「民主集中制」的組織論からの脱却を迫る。これについては、いわゆる「ブルジョア民主主義」的組織論の見地に立っている。

 宗教諸派のマルクス主義的唯物論に対する理解の「只物論」的捻じ曲げ、右派系団体によるマルクス主義的国際主義に対する偏狭祖国防衛主義からの捻じ曲げ、政権与党によるマルクス主義的革命論に対する体制護持見地からする誹謗等々については、日共の反論とほぼベースを同じくする。

 社民主義系の諸批判のどこがオカシイのかと云うと、こちらも日共の歴史に対する一知半解さにあり、あまりにも現下党中央の特質に対して無理解ということにある。「己を知り彼を知る」のが高次認識の始まりであるとすれば、この原則から大いに逸脱していると云える。要するに、何らかの利害があってそういう為にする批判を万年繰り返しているに過ぎないように見える。

 ここで問題となるのは、日共の社民主義批判ぶりである。この時日共は、「『即自』的日共批判」派が投げかける批判の論点とマルクス主義教条派への批判の論点を器用に使い分ける。この時炙り出されるのは、日共党中央を掌握している自負からする「勝てば官軍」論理である。本来、ここにはマルクス主義の現代的適用という創造的課題がいくつもあるが、どれ一つまともに検討せず、時代順応のみ刻印しつつある。実際には、日共党中央の見解は社民主義をより一層深めており、その組織論において「民主集中制」に固執するのかどうかという差であるように思われる。


【「れんだいこからする日共の『止揚』批判」】
 さて、大まかに日共批判の諸観点を見てきたが、どこがどう違うのだろう。これにつきれんだいこ観点より解析を試みることにする。まずマルクス主義に対する姿勢であるが、本質的なところを述べればれんだいこのスタンスはマルクス主義を高く評価しつつ、マルクス主義の藍より出でて青にならんとしているところに特徴がある。この意味では、「『即自』的日共批判」派のマルクス主義批判と通ずるところは無い。次に、教条派に対しては共に検証しよう、社民主義転換系に対してはその転換方向の吟味をせねばならないというスタンスにある。こういう観点に立つ時、残念ながら既成のどの派とも一致する面が無い。

 付言すれば、マルクス主義の概念を正確にする必要があると思われる。全体の骨格と肉付の部分とその他の部分を立体構造的に明らかにする必要があるように思われる。次に、そのマルクス主義のどの部分が主であり従であるのか、変容させていくことは構わないとしてどこが譲れないところなのか、こうした観点からの考察が為されないままに議論を積み重ねても生産的でないように思われる。

 次に、日共との関係を明らかにせねばならない。「『即自』的日共批判」派は、日共をマルクス主義の実践党とみなす。マルクス主義教条派は、日共をスターリズムへの変質党とみなす。社民主義転換系は、日共の組織面の硬直性を最後の外皮としてなじる。この点でも、れんだいこ観点は相容れるところが無い。

 れんだいこの日共批判は、現下党中央つまり「1950年分裂」時以降次第に力をつけ、1955年の六全協で指導部を掌握し、以来今日まで党中央で在り続ける宮顕−不破系を異邦人による奪権と見なしている。従って、マルクス主義の実践党とみなす「『即自』的日共批判」派とはそもそも見解が真っ向から異なる。スターリズムへの変質党とみなすマルクス主義教条派に対しても、それは宮顕−不破系の異邦人性から目を隠すことに資するだけの的外れ批判とみなす。別の言葉で言い換えれば、宮顕−不破系の異邦人性はスターリズム的視点からの批判以前の段階で要求されるべき批判であるべきところ、ここを免罪しスターリズム批判に流し込んでいるという批判のエセ性を問題にしたい、という観点を持っている。

 社民主義転換系にしても特殊宮顕−不破系の異邦人性への追求が弱い。むしろ、「『即自』的日共批判」派のマルクス主義の実践党とみなす観点を受容しており、そのマルクス主義の開明的変容度が狭いから駄目だ論に立脚しているように思える。れんだいこ観点は、マルクス主義の実践党とみなさないということと、「マルクス主義の開明的変容度が狭いから駄目だ論」ではなく、マルクス主義を巧妙に換骨奪胎させつつ際限の無い投降主義へ意図的に向かわせようとしている故に駄目だ論に立脚している。そういう違いがある。

 実際には、社民主義転換系も左右の両勢力から構成されている。マルクス主義転換派の左派とは観点の共通性はあるが、マルクス主義をどのようなものとして把握するのかという点において、またどのような方向で現代的創造を図るのかという方向性において、日共宮顕−不破系党中央のエセ性認識において、一致するところが無い。なぜなら、難しく語るが、かような明白な課題に対して正面から論を起し解こうとしているように見受けないから。相変わらず昔取った杵柄(きねづか)で今も撞いているだけのようにしか見えない。

 社民主義転換系の右派とは視点が異なり過ぎる。社民主義転換系右派の理論はマルクス主義とは似て非なるものであるという認識をしている。但し、社民主義転換系右派がブルジョア民主主義の形式性を認め実質民主主義の深化へ向かうのなら共通するところが出てくるように思われる。この場合、ルネサンス論を媒介せずには済まないであろう。

 今や存在しないので非常に難しいが、日共批判及びマルクス主義再考というテーマに対する考察は、少なくとも徳球―伊藤律系の運動が存在しているという仮定の上で、共同しつつ批判の権利を認め合うという関係の中においてこそ生きてくるのではなかろうか。現実的に存在しないところで、マルクス主義再考というテーマに取り組むには非常にレベルの高い抽象能力が必要とされ、為に取り組む者も少な過ぎるということになっているのではなかろうか。

 以上、れんだいこのスタンスを明らかにしたが、要約すれば次のように云える。マルクス主義を史上高く評価し、その後の史的経験及び諸科学の発展の成果を吸収して新マルクス主義あるいはマルクスという名の形容を取り外しても良いが何らかの新思想を創造せねばならないという観点に立っている。この時、マルクス主義をどのように止揚させるのか。巷にあるのは右派系であり教条であり、れんだいこの模索する方向とは違う、ということになるであろうか。

 最後に。日共宮顕―不破系の理論的特質の考察もしておこうと思う。
国際主義不団結の促進  日共路線は、国際左派運動に対する分断主義の固定化路線を採用していることに認められる。常に右派的潮流を称揚し、この流れを持ち込み不団結の促進を図る。
現状規定の反動的狙い  日共路線は、意図的に無茶苦茶な現状規定論に立脚している。日共によると、日本はアメリカ帝国主義に従属した反独立国でしかない。その意図せんとすることは、従って当面する方向が民族独立型の民主主義革命にあるとして、真の狙いは社会主義革命を志向させないというところにある。
「二つの敵論」の狙い  日本の従属規定の延長線上で「二つの敵論」を弄ぶが、けったいなことにアメリカ帝国主義との闘いが要求されている時に国内問題へ目を向けさせ、国内の独占資本との闘いが要求されている時にはアメリカ帝国主義の闘いへ目を向けさせるという具合に三枚舌で饒舌多弁する。
議会専一主義  日共は、議会主義を重視し「人民的議会主義論」なるもので理論化しているが、要するに議会専一主義であり大衆闘争、組合運動、学生運動をそのくびきに置こうとする体制内化運動でしかない。
青写真不要論  日共は、青写真不要論を公然と唱え、人民大衆の意識を常に混沌の中に置こうとする。マルクス自身が青写真不要論を唱えていたなどとご都合主義的に言辞を引用してたぶらかしている。マルクス自身が凡そ青写真を求めて労作していたし、現実にその指導するインターナショナル運動で青写真を掲げていたという衆知の事実さえ捻じ曲げる。
悪質な詭弁話法  何といっても「宮顕の戦前リンチ事件」に象徴されるように、常に戦う分子と団体に照準を合わせた排斥運動を展開し、クロをシロと言い含める詭弁をオンパレードしている。善隣学生会館事件、部落解放運動、新日本文学界事件、その他諸々に「宮顕の戦前リンチ事件」での歪曲話法が持ち込まれ、常に運動が非生産的に攪拌される。その他北方領土問題に見られるように右翼も顔負けのご都合論を掲げ得々と饒舌する。
愚民化党員教育  あらゆる角度から党員を愚民化させ、党中央方針への忠実なコピー化を強いる。党史についても殆ど教えず、時々の見解についての集団的討議の作風はさらさら無い。
警察的党内統制  党中央から末端に至るまで組織の全てに警察的な治安秩序網を張り巡らし、日常的に党員を監視している。その方向は、左派人士の台頭を許さないという角度からのものである。
 もういいだろう、というような次第である。

 2002.9.5日 れんだいこ拝


【「日共党員の党中央『盲従』批判」】
 このタイトルの観点から、日共党員の党中央『盲従』ぶりを批判する稿が要ると思った。今や、生態学的に興味あるとさえ云えるように思われる。(以下、略)





(私論.私見)