江田理論考

 (最新見直し2011.02.03日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 れんだいこのツイッターで、「clarte1」氏より2011.1.31日付けで「江田五月氏の父親、故江田三郎氏はれんだいこ史観ではどのように位置づけられるのでしょう。社会党を出たあたりで怪しい一派に組み込まれたのか? 菅氏の出自とも関連しますね。ブログに書いてください」と要請があった。これに対し、「これは難しい且つ興味深い考察です。今はコメントできませんが、論評を温めております。問題は、旗揚げ直後になくなったことで運動の中身がいまいち分からないことです」と応えておいたが、気になるので今書きあげることにする。何しろ準備不足であるが、叩き台にでもなれば、ないよりはよかろう。

 2011.02.03日 れんだいこ拝


【江田三郎の概要履歴】
 れんだいこのツイッターで、「clarte1」氏より2011.1.31日付けで「江田五月氏の父親、故江田三郎氏はれんだいこ史観ではどのように位置づけられるのでしょう。社会党を出たあたりで怪しい一派に組み込まれたのか? 菅氏の出自とも関連しますね。ブログに書いてください」と要請があった。これに対し、「これは難しい且つ興味深い考察です。今はコメントできませんが、論評を温めております。問題は、旗揚げ直後になくなったことで運動の中身がいまいち分からないことです」と応えておいたが、気になるので今書きあげることにする。何しろ準備不足であるが、叩き台にでもなれば、ないよりはよかろう。まず江田三郎の履歴を確認しておく。れんだいこは共産党史は検証しているが社会党史は追跡していない。いずれしてみたいと思うが、時間がないので「ウィキペディア江田三郎」その他を参照する。

 1907(明治40).7.29日、岡山県御津郡建部町にて、うどん・そばの製造卸業者の長男として生まれる。朝鮮・京城(現在のソウル)の善隣商業学校、神戸高等商業学校(現神戸大学)、東京商科大学(現一橋大学)に進学。1931年、大学を中退して郷里に戻り農民運動の指導者となった。1937年、岡山県議会議員に当選。1938年、第2次人民戦線事件に連座して検挙され服役。出獄後は葬儀会社につとめたり、中国で開拓事業に従事する。ここまでが戦前の概要履歴である。以降は戦後編となる。

 1946年、日本に引き揚げ日本社会党に入党。1950年、参議院議員に初当選。1951年、左右分裂後は左派社会党に属し、左派社会党の日刊機関紙として「社会タイムス」を創刊。社会タイムス社の専務として経営に参画する。この時の経営経験、感覚が後の江田ビジョンに繫がった可能性がある。1958年、組織委員長。1960年、書記長。60年安保闘争直後の浅沼稲次郎委員長の暗殺事件後は委員長代行として1960年総選挙を指揮する。

 江田は、この頃から構造改革論に傾斜し始めた。構造改革論とは、イタリア共産党のグラムシやパルミロ・トリアッティが提唱した非ボリシェヴィキ型平和革命論であり、当時の西欧左派運動を席巻しつつあった。トリアッティは、論文集「社会主義・民主主義」(イタリア政治研究会編)で、「マルクス主義の現代的形態」を提示し、民主主義の拡大、社会主義への道の多様性の承認、全人民の闘争の連続性、改良の積極的評価、議会重視などを通してあらゆる社会の構造の改革を推し進め、それによって社会主義を実現すると説いていた。江田は、この構造改革論を礼賛し社会党の路線の軸に据えようとした。これによると、戦後体制を是認し、その改革を積み重ねることによって社会主義を実現しようとする穏和的な平和革命論であった。これに対し、党内左派の労農派マルクス主義派の社会主義協会が反発し、党内実力者の鈴木茂三郎、佐々木更三らも構造改革論反対を唱え進展しなかった。

 1962年、栃木県日光市で開かれた党全国活動家会議で講演した際、日本社会党主導で将来の日本が目指すべき未来像として、1・アメリカ並みの生活水準、2・ソ連並みの生活保障、3・イギリス並みの議会制民主主義、4・日本に於ける日本国憲法の平和主義を挙げ、これらを総合調整して進む時、大衆と結んだ社会主義が生まれるとするいわゆる江田ビジョンを打ち出した。しかし、社会党内では、マルクス主義から逸脱する右派系理論として批判され、江田は書記長を辞任して組織局長に転じた。その後は、河上派、和田派と構造改革派を形成しながら、佐々木派との権力闘争を戦っていくことになる。

 1963年、総選挙の際に江田が衆議院議員に転じようとした際、和田と同じ選挙区(旧岡山1区)から出馬しようとしたことから和田の怒りを買い、旧岡山2区から出馬した。1966年、委員長選挙において僅差で佐々木更三に敗れ、その後何度も委員長選挙に挑戦したが遂に委員長となることはなかった。1967年、副委員長。1968年に再び書記長に返り咲く。1969年総選挙では、社会党は140議席から90議席へと議席数を激減させる大敗を喫した。

 1970年、委員長選挙でまたも敗れた江田は公明党、民社党との社公民路線によって政権を獲得することを主張し、共産党をも加えた全野党共闘を主張する成田知巳委員長らと対立した。1976年、社公民路線を推進するため、当時公明党書記長だった矢野絢也、民社党副委員長だった佐々木良作ら両党の実力者とともに「新しい日本を作る会」を設立する。これが社会主義協会系の活動家たちの逆鱗に触れた。同年12月、第34回衆議院議員総選挙で落選。明けて1977年の党大会では社会主義協会系の活動家たちからつるし上げられるなどした。この結果、江田は社会党改革に絶望して離党する。但し、離党届か受け付けられず除名処分を受けた。

 その後、菅直人とともに社会市民連合(社会民主連合の前身)を結成し、その年の参議院全国区選挙への立候補を表明したが、公示直前に肺癌が末期化して急逝し、代わりに息子の江田五月が急遽出馬して、第2位で当選した。

 荒畑寒村は次のように評している。「本当の改革というのはいつも少数派だ。今の社会党の中で社会主義のことを真剣に考えているのは江田君だけだ。私と君とは立場が違うけれど、君の行動を理解し、支援するよ」。「江田はこの会談の模様を、その後くり返し語っている。よほど嬉しかったのであろう」と評されている。同じように江田理論を評価した政治家に田中角栄が居る。1968(昭和43).12月、佐藤政権の下で二度目の自民党幹事長となった角栄は取り囲んだ新聞記者たちに真顔で次のように評している。「自民党はいつまでも政権を握っていられるとは限らない。社会党では江田が一番恐い。江田を委員長に立ててきたときは、もしかすると自民党は負けるかもしれない」(塩田潮「江田三郎 早すぎた改革者」、 文藝春秋」)。

 「ウィキペディア江田三郎」の末尾は次のように記している。「江田は日本の社会主義運動を高度経済成長による日本社会の変化に適合させようとした優れた政治家であり、社会主義思想家であるが、江田の思想に関する研究は未だ不十分なままであり、今後の研究が期待される」。れんだいこは、この評が気に入っている。これによれば、戦後日本の高度経済成長路線を理論的に是認しており、この姿勢の下で日本型の新社会主義論を創造せんとしていたことになる。案外と、このタイプの政治家が居ない。その稀有な一人として江田が位置しており、ここが評価される所以だと思っている。

 2011.2.4日 れんだいこ拝


【江田理論の再検証その1、江田理論の意義考】
 菅政治と江田政治がどの程度結びつくのかは別問題であるが、ここらで菅政治の源流を為している社民連運動を確認しておくのも一興だろう。もっとも、社民連運動史には興味がない。あるのは、社民連運動の草分けであった江田三郎の政治理論の方である。江田は社民連運動立ち上げ直後の奔走下で急逝したので、江田式社民連運動の実践なるものは存在しない。残されているのは社民連運動草創時の江田理論即ち「江田ビジョン」であり、その解析のみが対象となる。一応こう構図化しておく。

 1977年、江田は、社会党右派系の流れで社民連運動を創出した。1977年と云えば、ロッキード事件の喧騒下で政界が大きく揺れていた頃である。これを俯瞰すれば、そのサマは、1960年の60年安保闘争時に民社党が生まれた状況に似ている。そういう意味で、社民連運動を第二民社党運動と位置づけることができるように思われる。この頃、民社党は結党以来の資本の御用聞き運動が食傷され、頭打ちの限界を露呈し始めていた。要するに使い物にならなくなったと云う訳である。こうして、体制奥の院は民社党を見限り、その代替物として新たな右派運動を欲し始めていた。この期待に応えようとしたのが江田式社民連運動であった。民社党運動、社民連運動にナベツネの影が見えるので、そう断じても間違いなかろう。ナベツネ派のヒモつき資金がどの程度動いたのかは定かではないが、民社党の結成過程事例になぞらえれば大いにあり得るように思われる。

 そういう意味で、江田理論を一蹴し批判排斥することは容易い。が、ここではこの方面のイカガワシサは問わない。問うのは、その江田理論が片鱗的に示していた見識の先見性の方である。江田は、1977年時点でマルクス主義運動の時代的齟齬を確認し、決別し、従来式組織論、運動論、情勢分析論に捉われない新たな左派運動ないしは市民運動を展望していた。その先見性を高く評価したい。と同時に、不即不離的に合わせ持っていたその限界を同時的に把握したいと云うのが、れんだいこ史観である。この営為は、今まで誰も為し得ぬまま今日に至っている理論的不備ではないかと思っている。思えば、戦前の解党派、転向派の論理もたな晒しにされており、実践的に急務であるのにこういうところの理論活動が為されていない。

 江田式社民連運動の嫡出子として菅政治が生まれており、時の首相として采配している今、その菅政治が驚くほどの従順さで国際金融資本帝国主義の走狗ぶりを発揮している今、そもそもの江田理論を再確認し、菅政治が江田理論から必然的にもたらされているものなのか、江田式市民主義運動を標榜しつつ実は菅自身の個性により卒倒すべき更なる右傾化へ舵を切っているのか、この辺りを確認してみたい。そういう観点から、以下、江田理論を解析して行くことにする。

 江田理論は、サイト「社民連十年史」で確認できる。れんだいこは、「戦後政治史検証」の「1977年当時の主なできごと」で、当時の時系列の中で確認している。

 「社民連十年史」(http://www.eda-jp.com/books/usdp/)
 「戦後政治史検証」(http://www.marino.ne.jp/~rendaico/rekishi/sengoseijishico/index.htm)
 「1977年当時の主なできごと」(http://www.marino.ne.jp/~rendaico/rekishi/sengoseijishico/1977.htm)

 江田理論の理論的構成の検証は後で行うとして、ここでは江田理論の先見性を確認しておきたい。繰り返すが、江田理論は、1977年時点で、最終的にマルクス主義を見限り、それに代わる新たな左派運動理論を模索し始めていたところに値打ちが認められる。この言は、二面から考察されるに値する。一つは、江田がマルクス主義をどう見限ったのかと云う面である。もう一つは、どういう新たな運動を展望していたのかと云う面である。以下これを問うが、その前に確認しておくべきことがある。それは、江田が、なぜマルクス主義を見限ったのかの問いである。実は、ここに江田理論の値打がある。これを解いてみる。

 れんだいこ推理であるが、江田は、当時の日本左派運動各派が共通して理論化していたところの「戦後日本=ブルジョア体制論」に異見を持ったのではなかろうか。れんだいこは、この嗅覚がすばらしいと評しようとしている。最も好意的に評すると、江田は、新旧左翼が戦後民主主義体制の位置づけを廻って百人百様のブルジョア体制論にシフトしている折柄、逸早く戦後日本体制の質的高みを是認し、この観点から左派理論の立て直し再構築を視野に入れ、その理論的創造を引き受けようとしていたのではなかろうか。存外これは重要なことで、日本左派運動史上に於ける功績ではなかろうかと思っている。分かり易く云うと、戦後日本の体制は否定されるべきものではなく擁護されるべきではないかとの問いである。

 これをもう少し説明しておく。戦後日本は、戦前日本の支配者が大東亜戦争に敗戦したことから始まる。戦後直後、旧勢力一掃の狙いもあって日本左派運動が合法化され、併せて獄中共産党員の一斉釈放もなされたところから、そもそものお墨付きを与えたGHQの思惑を超えて一気に燎原の火の如くの広がりを見せていくことになった。但し、その左派運動は次第に分裂を深めて行き、急進派の共産党系と穏和派の社会党系の二大潮流が創られ、そのそれぞれ内部が更に左派、中間派、右派に分岐すると云う展開となった。ここに分裂好きの左派運動と云う体質が確認できる。それは、保守派の大同団結ぶりと対照的であった。そして、最終的に戦後革命は流産する。その後、共産党内の宮廷革命政変で急進派の徳球系が放逐され、穏和系の宮顕系が党中央を牛耳ることになった。以降、似ても似つかぬ共産党運動即ち日共運動なるものが現出し今日に至っている。社会党、共産党系の穏和化に抗する形で革共同が生まれ、それを更に急進化させた形でブント(共産同)が生まれた。そのそれぞれ内部が更に左派、中間派、右派に分岐した。

 そうではあるが、これらの日本左派運動各派には共通して「戦後日本=ブルジョア体制論」にシフトしていたと云う特徴が認められる。その上で、即社会主義革命論、段階式社会主義革命論に分岐していた。或いは暴力革命論、平和革命論を廻っても分岐していた。大きく云えば、革命理論の差ではなく戦略戦術の差でしかなかった。しかしながら、そういう規定はマルクス主義教本のステロタイプななぞりでしかなく、生きたマルクス主義による分析ではなかった。ここにもしマルクスがおりエンゲルスがおり、れんだいこと膝詰め擦り合わせすれば、「戦後日本=プレ社会主義論」を獲得していたであろう。つまり、戦後日本はプレ社会主義体制として是認されるべきであったところ体制否定に向かうと云うボタンの掛け違いから始まった。ここに戦後日本の左派運動のそもそもの間違いがあると看做すのがれんだいこ史観である。

 この点で、江田理論は、戦後日本に対するマルクス主義系各派のブルジョア体制論規定、それに伴う各派の戦略戦術的革命論に対して、これを疑惑し脱却を図ろうとしていた。れんだいこには、これが江田理論の大いなる理論的功績のように見える。問題は、この時、江田理論がどのような戦後日本規定、革命論を生みだそうとしていたのかにあるが、今ひとつはっきりしない。はっきりしていることは、先行して生まれた民社党とは一味違う運動を展望していたことである。民社党は春日一幸委員長に典型的なように反共論的要素が強く、自前の規定、革命論を創造するのではなく、徒なアンチ左派運動を主眼としていた。これが為に自前の社会主義論を創造することができず、結局のところ資本側の走狗としての労働運動しか生みだすことしかできなかった。その点で、江田理論は、民社党の轍を踏まないとして自前の規定、革命論を創造する意欲を保持していた。ここに民社党運動との差が認められるように思われる。もっとも、これをどの程度強く意思意欲していたのかは定かではない。そういう可能性があったという程度に理解したい。そういう程度の戦後体制論、革命論でしかなかったが、江田理論が唯一、その方面の理論的探求に乗り出そうとしていたのは功績ではなかろうか。

 れんだいこは、現在のれんだいこが当時の江田と相まみえたとしたら、江田理論がドグマ的マルクス主義によらず自主自律的なマルクス主義の創造的適用を意欲していたことを賞賛したい。その上で更に次のように示唆したい。戦後日本はプレ社会主義体制であり、この体制は打倒されるべきではなく、むしろそのプレ社会主義的秩序を護持成育発展せしめるよう内在的永続革命に向かわねばならない。よって、徒な体制転覆型の革命論を唱えるに及ばず、或いは安逸な批判運動で事足りる裏取引専門の万年野党運動に没するべからず、むしろ積極的に体制内に入り込み戦後民主主義の質の出藍を期すべきである。その為に、戦後民主主義が選挙洗礼による代議員政治を指針させているのなら選挙戦を重視し、多数派を目指すべきであり、政党運動的には政権与党として責任政治を担うべきである。これが日本左派運動に課せられた政治責任である云々。

 だがしかし、日本左派運動の与党政治責任論即ち政権奪取論は戦後革命流産とともに塩漬けにされ、ひからびた状態にある。これを右派的にであれ再興せしめんとしたところに江田理論の隠れた意義があった。これがれんだいこ眼力である。これが、「戦後日本=ブルジョア体制論」から導き出される指針である。この指針を廻って、江田理論との喧々諤々をしてみたいが叶わぬ舞台設定でしかない。実際の江田理論は戦後日本プレ社会主義論を掲げている訳ではない。但し、それに接近している点で値打ちがある。れんだいこ理論は、戦後日本プレ社会主義論に基づく左派理論であり、江田理論は同右派理論であると云う相似と差異が認められるように思う。この場合の右派、左派は相互に対立排斥しあう関係ではなく補完しあえる。かくて共同戦線関係に入ることが可能な間柄となる。れんだいこは、江田理論が真面目なものであれば、こういう話し合いができたかどうか分からないが可能性はあったと思う。そのように位置付けている。

 こうなると、そういう左派運動の低迷をよそに自力的発展を示していた戦後保守系ハト派の政治運動をどう評価するべきかと云う問題にも遭遇することになる。れんだいこ史観によれば、戦後保守系ハト派の元祖としての吉田政治はともかく、これを後継した池田―(佐藤)-田中―大平―鈴木の1960年代から80年代までの20年間の政治は、自民党内タカ派との拮抗関係をうまく御しながら、戦後日本のプレ社会主義体制護持派の政治だったのではなかろうかと云う見立てになる。この政治とどう親和し且つ競合するのかが江田理論に課せられていた理論的課題だつたのではなかろうか。これをうまく調御できれば、戦後保守系ハト派の政治運動と最も激しく闘う日共運動との鮮やかな違いを生み出すことができ、社会党の再生にも繫がったのではなかろうか。そういう興味が湧く課題が待ち受けている。

 江田が急逝することなくもう少し延命しておれば、江田理論のその辺りを確認できた筈である。歴史は皮肉なことに、その最も見たかった「その後の江田理論の展開」を見れぬままに閉じることになった。江田亡き後の江田理論としての社民連運動十年史を刻むことになったが、江田理論の胚胎していた芳醇さを切り捨て駄弁的な市民主義運動に堕して行くことになった。今日、菅首相が堂々と居直るところの「反角栄政治が私の政治活動の第一歩」なる矮小型社民連運動へと流し込まれて行くことになった。こうして、江田理論そのものが一抹のうたかたの線香花火にされたまま歴史に遺されている。残念なことと思う。

 2011.2.3日 れんだいこ拝

【江田理論の再検証その2、江田理論の構造】
 では、江田理論の各論はどのようなものなのだろうか。この構造を確認しておく。一つは、江田がマルクス主義をどう見限ったのかと云う面、もう一つは、どういう新たな運動を展望していたのかと云う面の両面から炙り出してみたい。江田理論は、実践的には社会党の長期低落傾向に対する江田式構造改革論ともいえるものとして打ち出された。江田新党結成辞さずの不退転の姿勢で臨み、実際に離党し「社会市民連合」を発足させた。いよいよこれからと云うところで急逝した。従って、江田理論とその後の社民連運動史とは一致しない。し以下、これを確認しておく。1977.1.12日に江田社会党副委員長が中執委に提出した江田意見書、3.26日の離党にあたって3.31日の公開討論会講演開かれた市民参加の道等を参照する。

 理論その1として、教条主義的マルクス主義路線との決別、既成の社会主義論に対し「新しい社会主義」を掲げんとしていた。その論拠として次のように述べている。「マルクス主義的階級分析論はもはや古い」、「単一の党が国民過半数の支持を獲得できる時代はすぎ去り、多党連合による政権奪取こそ目指すべきである」、「私はこれからの日本の進むべき道について、古い社会主義のイデオロギーをのりこえた、新しい社会主義の道を提言してまいりました」。

 理論その2として、「戦後社会党の時代はすでに終わった」として社会党の改革を訴えていた。どうあるべきかにつき、戦後日本の民主主義体制を是認し、改良的改革による革新、連合体的自主組織を理想とする体制派リベラルの結集、「組織の中央集権的性格、労働(組合)運動偏重主義を排し生活者の党を目指す」等々志向していた。次のように述べている。「要約すれば、議会制民主義の堅持と徹底した分権と自治、ルールの確立されたなかでの市場機構の活用、計画的な資源配分と農業漁業の振興、公共的な保証体系の確立、公害と安全についてのきびしいルールの設定、文化的な創造の自由の保証などが、欠かせないことです。当然のことながら、政党もこれに適応した政策をもつとともに国民不在ともいわれる現在の組織や運営について、根幹にふれた改革を迫られているのであります。未組織労働者でも零細業者でも、誰もが自由に参加でき、意見を述べあい、話しあいのなかで政策を創り出す組織であり、中央本郎が大きな権限を持って命令や強制をするのでなく、個人や各種の集団がタテではなくヨコにつながる、いうならば、統制委員会ではなく調整委員会が持たれる連合の組織であるべきだと思います。これこそ私が社会党にあって果たしえなかった『開かれた党』の実現であります」、「のびのびした自由な社会主義、私個人でいえば構造改革論以外に、人間の顔をした社会主義をめざしたい。小型社会党になってはいけない。市民のワイワイ、ガヤガヤの自由なエネルギーに依拠しなければならないと思ってます」。

 理論その3として、日共をマルクス主義政党としたうえで次のように批判している。「成田委員長の推進する全野党共闘路線は間違いである。年を経過したにもかかわらず、四野党の足並みは一致ではなく、分離の方向に進んできたことを冷静にうけとめなければならない。ネックは共産党にある。この党がいかに柔軟な路線を表明しようと、民主集中制をとるイデオロギー政党であり、党内にさえ民主主義が生かされない独善の党である限り、この党を加えての連合は不可能だということを認識しなければならない。これはすでに、世界的に実証されてきたことであり、共産党とは閣外協力が限界だということである。わたくしは日本における現実的な革新的連合政権の構想に、共産党とはともに天を戴かずという態度をとれというのではなく、遠い将来は別として、現段階においては、前述のように対処することが壁につき当たっている社会党の政権構想に窓をあけることができると確信する」。

 この点では、日共式共産党運動をマルクス主義とは似て非なるものと断じているれんだいこ史観とは違うが、日共式共産党運動の胡散臭さを感じとっている点で評価したいと思う。

 理論その4として、中産階級論を媒介しての「革新中道路線」を生み出し、これを論拠として「保守に代る新しい連合政権樹立」を提唱していた。次のように述べている。「多党連合時代に適合する社会党の再生を目指すべきである」、「これまで安易に使われてきた『統一戦線』という用語も刷新する必要があるように思う。統一戦線という語は、前衛政党(共産党)を中心としてその周りに諸勢力を結集するという、同心円型の戦線として歴史的に定形化された概念である。われわれが目ざす連合はそうではなく、実際上何れかの党が要(カナメ)党としての役割を担うにしても、少なくとも理論的には、同格の複数の政党がいて、互いに協力しあう関係でなければならない。したがって『統一戦線』という用語よりも『連合』がその呼び名にふさわしいと思う」、

 理論その6として、政権を取り、政権与党としての責任政治を引き受けることを欲していた。次のように述べている。「こうした考え方にたって、政権構想を早急に具体化しなければならず、そのためのリーダーシップは、野党第一党である社会党に責任があると思う」、「この多数派を、政治の場で実現するのがわれわれ政党の役目である。そのため、第一に、先進国型の自由と民主主義に基礎をおき、漸次的改革をめざす社会主義勢力(党と労働組合)が核となり、第二に、革新的ないしリベラルな諸党派、諸勢力、市民、知識人、中間層等を含む進歩的連合を形成することである。われわれはそれを革新中道連合と呼ぶ。より正確には、社会党が中心的な勢力として加わるという意味で革新・中道連合である。もし今回の選挙にあたり、そうしたリベラル保守をも含む革新・中道連合構想が具体的に明示されていたなら、新しい政権誕生の道が一挙にひらかれたかもしれない。野党各党バラバラの抽象的政権構想では、なんの迫力も持ちえなかったのである」、「自由な社会主義を追求する。市民の自主性にもとづく運動を進める。そういう人々がタテの関係でなしに、各々が対等であり平等であるというヨコの関係で、新しい政治集団をつくっていく。批判の側にまわるだけではなくて、つくる側にまわらなければいけない。自民党的札勘定の離合集散(マネタリー・アニマル)ではなく、社会党・共産党的イデオロギー・アニマルのどちらも排する」。

 理論その7として、無党派層の取り込みを意欲していた。次のように述べている。「現代は、わが国だけでなく、世界のどこもが大きな転換に直面し、惰性でつづいた時代に区切りをつけねばならぬときであり、政治も、世界的に連合時代をむかえております。だが、わが国の革新の側は、こうしたことに正面からの対応ができず、国民の魅力をつなぎえておりません。参議院選挙にしても、保革逆転ではなく、自民一党支配から、新自由クラブを加えた保守二党支配となる公算がつよく、いま革新の側にとって最大の課題はふえつづけている支持政党なし層を、いかにしてこちらにひきつけるかであります。社会党は最大野党であり、この党をそうしたことのできる党に変える可能性がないとはいえませんが、時間のかかることです。それはそれとして追求しながら、別の角度から支持政党なし層を結集することが、緊急を要する課題であります。私が「新しい日本を考える会」に参加したのも、このことを考えたからなのです。私は社会党改革に取り組む同志の行動に共感しつつも、支持政党なし層の結集のために裸でとびだし、社会党の外から、党改革を迫っていく決意なのです」。

 理論その8として、市民派運動の取り込みを意欲していた。次のように述べている。「菅君は三十歳だという。私の下の息子よりも年が若い。たしかにゼネレーションのちがいはある。討論のなかでも、たとえば社会主義についての評価などで、この違いを感じた。だが、若者の特性は社会と時代の流れに身をゆだねるのではなく、自らの熱情によって変革の意志を具体的な行動でぶつけていくことであるだろう。私の青春時代にはそれが社会主義であったし、そのまま現在にいたっている。菅君たちにとっては、社会主義というイデオロギーよりも、アクティブな市民派として直接的な行動にたちあがることの方が、より社会変革の意図を具体化することに直結しているのであろう。社会主義を心情としてとらえても意味はないと批判されて、「クールだな」と感じつつも、イデオロギーを教条的にとらえて自己満足している青年よりもきわめてラジカルな青年達だという印象を受けた社会主義に魅力がなくなっている現在、イデオロギーでそれをおしつけるよりも、現実の社会変革の方向と行動を具体化することによって再生することの必要性を、新鮮な印象とともに痛感したしだいである」。

 「社会党のなかでよく言われたのは、革命をおこなうのは労働者階級なのであって市民ではない、ということであった。たしかに、現代社会において労働者は大きな位置をしめている。だが、労働者という概念で現代の革新指向の人々をすべてくくることができるであろうか。私はそうは思わない。というのは、労働者自身も第三次産業労働者が五〇%をこえ、第二次産業労働者もブルーカラーへとかわってきている。労働の質の変化は、労働者の意識的変化と結びついている。また、公害反対闘争やさまざまの市民闘争のラジカルな提起は、これまでの労働組合運動の質を問いなおしてきている。こうしたことから、総評も「国民春闘」を提起し、生活闘争をおこなわざるをえない状況になってきている。アクティブな市民の登場が求められているのは、このような状況変化によってだけではない。それは、日本における市民社会の成立がきわめて遅れているからに他ならない。社会主義のモデルがソ連型であってはならないということについては、大方の共通認識となってきているといってよい。だとするならば、日本における市民社会の成立が、社会主義へむけた過渡期社会との関連できわめてクローズアップされざるをえない。民主主義についても単なるスローガンではなく、参加民主主義とか直接民主主義という提起があり、具体的な運動展開がされていることは、市民社会の形成へむけての動きに他ならない。民主主義が、社会主義者による単なる戦術的スローガンから、市民社会と結びつき、社会主義社会への戦略的な位置が与えられるときにはじめて、圧倒的多数者が参加する社会建設が可能となるのである。こうして、いまや市民の役割は、既成の教条的な左翼や利益団体のエゴを打破するとともに、新たな社会を建設する主要な勢力なのである。私はこうした観点から、社会市民連合が市民派の大々的な登場の舞台になることにかけたのであった」。

【江田理論の再検証その3、江田ビジョンのなれの果てとしての菅政治考】
 以上、江田理論を確認した。俄かづくりなので後に書き換え書き足しが必要であろうが、いつしか得心しておきたい江田理論であった。これを催促してくれた「clarte1」氏に感謝申し上げる。さて、最後は、「江田ビジョンのなれの果てとしての菅政治考」をしておかねばならない。

 2009衆院選での政権交代で鳩山政権が登場し、これを菅政権が後継し現在に至っている。菅政権は、本来は江田ビジョンとのすり合わせを始発としている筈であるが、本人は「ロッキード事件における政治とカネ問題が私の政治活動の原点」と云いなしている。本人の感覚ではそうなのであろうが、そうであればあるほど、江田ビジョンとは隔絶していると云うべきであろう。江田ビジョンは、戦後保守系ハト派の戦後日本指導の能力を評価し、その次の在るべき姿として日本型社会主義を憧憬していた。戦後保守系ハト派の総帥たる角栄が、その江田ビジョンに手強さを感じる言辞を遺していたことを確認した。このことは、角栄政治と江田政治が歩調を合わせることができる間柄であったことを示唆していないだろうか。

 そう思えば、反角栄政治を政治原点とする菅政治が何と江田ビジョンと隔絶しているかが分かろうと云うものである。その菅が同盟したのは何と戦後保守系タカ派の中曽根-小泉政治の方であった。その背後に国際金融資本帝国主義グループが控えており、その操りを嬉々として受け入れピエロ役を演じているのが菅政治である。これが社民連運動のなれの果ての姿であり、我々は今、眼前にしている。一々の政策を挙げてもキリがないので止すが、要するに国策不況政治、財政放漫政治を二輪車として日本溶解街道へひた走っている。特に最近は消費税増税、環太平洋連携協定(TPP)が喧しいが、その企みは日本経済、企業の破産誘い込みにある。これが分かっていながら請け負うのは尋常ではない。れんだいこが、菅派がネオシオニズム系の秘密結社員であることを疑う所以である。日本相撲協会の解体策動もアヤシイ。よってたかって日本的なるもの破壊工作が仕掛けられていると読まねばならないと思う。ここは菅政治を確認するところではないので、これぐらいにしておく。

 2011.2.4日 れんだいこ拝





(私論.私見)