れんだいこの戦後体制論

 更新日/2019(平成31→5.1栄和改元).6.18日

 (目下、書き替え中)

 (れんだいこのイントロショートメッセージ)
 戦後体制の歴史的な読み間違いが様々なひづみを生んでいることに気づかされる。そういう意味で戦後体制論を練ろうと思う。こういう考察は最も高等な頭脳を要するので、れんだいこ一人の手ではおえない。ではあるが、れんだいこ以外にこう問う者が居ないようなので先鞭をつけざるを得ない。この論考が為になったと一人でも云ってくれれば本望である。以下、れんだいこ見立てによる戦後体制論を開陳する。諸賢の批評を請う。平易に書きたかったが、妙に難しく書いてしまった。これは、れんだいこがまだ咀嚼できていないことを意味する。時間をかけてでも書き直し続けたい。 

 2010.10月前後、郵政不正事件の不正捜査により捜査側の責任者である現役の幹部検事即ち大阪地検特捜部の主任、副部長、部長がイモヅル式に逮捕されると云う前代未聞の事態が勃発した。れんだいこは、この事件を奇果とさせて、より根本的に「検察の正義」を問うてみたい。「従来式の検察の正義」の虚構を暴き、時代に照応する「新たな検察の正義」を敷き直したい。「従来式の検察の正義」は、これまで余りにも多くの有能政治家を訴追し過ぎ、逆に極悪の腐敗政治家に対して寛容であり過ぎた。その定向進化が「郵政不正事件の不正捜査」であり、遂に証拠物の改竄まで手を染めさせるに至ったのではなかろうか。その根は深く、大阪地検特捜部の主任、副部長、部長の三人粛清で事が了えられるものではない。捜査がどのように進展し終息するのか分からないが、関係者の処罰だけで済ますのではなく、これを良い機会として「従来式の検察の正義」にメスを入れるべきではなかろうか。

 こう問う時、立ちはだかるのが戦後体制論である。この問いに真剣に向きあうことからのみ「新たな検察の正義」が生まれよう。日本の法学、政治学は昔よりこういう法哲学的、政治哲学的考察を得手としていないように思われる。以下の「れんだいこの戦後冷戦体制論」が一石を投じることができれば本望である。「始めに結論ありき」で臨む端から悪意を持つ雇われシオニスタンには幾ら説教しても無駄である。が、中には深い考えもなくシオニスタンの主張するところの「政治とカネ問題訴追こそ正義の第一歩」の影響を蒙り、勘違いしたまま角栄を叩き小沢を叩き正義ぶる愚か者も居るだろう。こういう者の蒙を開き、角栄擁護、小沢擁護の者には正義の確信を与えようと思う。れんだいこの自負通りになれば幸いである。

 2010.10.12日 れんだいこ拝 


 プロローグ
 2010.5月頃の現下の菅政権ではなく鳩山政権時代の話である。鳩山政権の前原国交相が旗振り役となって、日本の新幹線リニアモーターカー技術を米国その他世界へ向けて売り込もうとする官民一体の輸出交渉ぶりが伝えられた。他にもベトナム振興策としての日本の道路、建物、原子力発電技術等の大型インフラ事業輸出の動きも伝えられている。れんだいこは原子力発電に反対であるからしてその売込みを評価しないが、それはともかくとして日本の技術資源の涵養とその国策輸出政策を支持する。但し、憲法精神に則っての国際協調政策の範疇にタガ嵌めしておきたい。

 そこで思い浮かべることがある。その昔の1970年代に於ける田中政権時代、田中角栄首相は逸早く資源外交、技術外交、為替差益調整外交に着手していた。マスコミが今になって「前原外交」を持ちあげるのなら、角栄外交こそ先駆的功績として見直すべきではなかろうか。史実は、立花隆の金権批判に始まるロッキード事件勃発により角栄政治全否定の論調を創り出し、そういう見方が今日まで至っている。前原国交相は反角栄派陣営に列なる御仁であるが、偶々前原国交相時代に廻り合わせたにせよ、角栄政治没後30数年後にして再び「国策技術資源輸出外交」へと軌道を戻したことを評価したい。我々はそろそろ、こういうことをも通しても角栄政治の再評価をせねばならないのではなかろうか。

 そういう思いから、過去書きあげ、そのままにしている「れんだいこの戦後冷戦体制論」(「第二次世界大戦直後の世界新秩序としての戦後冷戦体制考」)を書き直して見ることにする。いきなり結論では理解し難いと思われるので順を追って積み上げて行くことにする。但し、これを詳論し始めるとキリがないのでスケッチ風に纏めることにする。我々はどうやら智に角が立ちすぎて、「戦後民主主義を含む戦後体制」を見誤ってきたのではなかろうか。特に、左派からの混乱が目に余るように思われる。しかして誰も云いっ放しで、この問題に取り組もうとしていないようにも見える。しゃあない、れんだいこが向かう。
 1945.8.15日の日帝の降伏により第二次世界大戦は終了した。あれから半世紀を経た。この間歴史は、戦後直後の冷戦時代、1990年前後のソ連邦及びその衛星国の相継ぐ崩壊、その後の米帝の一極覇権化、その後のアラブ諸国の不穏化へと流れてきている。この通史の中で、日本は70年代をピークに未曾有の経済的発展を遂げた。それを支える政治体制が「戦後民主主義体制」であった。

 「戦後日本の『民主主義』体制」は大きく見て次の5原理から構成されていた。これを概括すれば、1・不戦の誓い(二度と戦争を起こさず、軍事紛争に関与せず、国際平和と協調に勤しむ)。2・主権在民下の議会制民主主義による立憲国家。3・自由市場主義体制下での経済的繁栄。4・人命、人権、社会保障の尊重と充実。5・地方自治の尊重。つまり、「戦後日本の『民主主義』体制」とは、この五項を機軸にして展開される法秩序と社会の実現を目指す体制であったと云うことができよう。

 この価値と意義をそろそろ対自化させても良い頃ではなかろうか。50年経って漸く見えてきたことがあるように思える。最初に確認しておきたいことは次のことである。戦後の我が国に現出した社会体制つまり「戦後民主主義体制」はどうやら、世界に珍しいユートピア的であり得たのではなかろうか。敗戦という重みによって戦前の支配権力が息の根を止められ、変態的近代天皇制イズムとそれによる統制社会が崩壊した結果、替わりにやってきたのは自由主義経済を基調にした史上随一の市民主義的民主主義体制であった。それは、その後にやってきた米ソ冷戦体制の「谷間に咲いた白百合、否世にも珍しい蓮華」であったのではなかろうか。この観点は、つい先ほど亡くなった小室直樹氏のそれである。れんだいこは、いたく感銘した覚えがある。

 そこには、敗戦により歴史的伝統とも云える精緻狡猾なお上規制が張り巡らされていた諸秩序が一挙に撤廃された結果、その喜びを胸に、廃墟からの再建に向けて貧しいながらものびのびと額に汗する大衆社会が現出していた。労働と能力が適正に認められ、社会全般に新秩序形成へ向けての合理的な登用制度(これを下克上とも云う)が成り立っていたのではないのか。れんだいこの家系で云えば、江戸期までは寺小屋の師匠をするなどいわゆる庄屋階層の知識人であったが、明治維新以来の変動で没落し、父母共に尋常高等小学校までしか進めなかったのに比して、その子供たちが能力次第で大学へ行ける時代になった。父母は、これを励みに労働に勤しむことになった。これを良き時代と云わずして何と云おうぞ。

 普通これを「ルネサンス」と云う。我が国では有史上かって似たような流れが、戦国下克上時代、幕末維新期に立ち現れた。しかし、「戦後ルネサンス」の息吹は、過去のどれよりも総体的広範にしてしかも法治主義によってこれを担保したという意味で稀有な経験ではなかったか。しかも、これほどのルネサンスは、世界史上どこの国にも立ち現れていない優れものであった。つまり、世界中が次の時代の指標にするに足りる内実を持っていたとさえ云えるものであろう。端的に云えば、「後先問わず、とりあえず当面において、人民大衆の活性化を是とする政策体系で推進・構築された体制」と云えるだろうか。

 しかし、こうした「戦後民主主義体制」は旧体制派からは疎ましいものであった。なぜなら「戦後民主主義体制の下克上性」が戦前的な身分制秩序、権益をどんどん解体していったからである。戦前秩序の機軸とも云うべき変態的近代天皇制が蟄居させられ、彼ら云うところの統合的な芯を失ったからである。これに準じて「非実力主義的な単なる門地門柄的権威」も又後景に退かされたからである。もう一つ、経済主義オンリーな価値観に馴染めなかったゆえにであろう、これについては是非論あろうが。この右派的なノスタルジーについては別途考察しようと思う。

 ここでは、いわゆる左派が、もう一つ加えて検察が、「戦後民主主義体制」をどう捉え、これを如何に培養育成したか、あるいは形骸化させていったか、あるいは無理解のまま並走していったか、あるいは否定せんと敵視したか等々について考察してみたい。
 れんだいこの結論を先に述べれば、左派は、歴史的に見れば「まばゆいばかりの至宝体制」に目をくらまされ、その取り扱い方を知らず、現実から学ぼうとせず教科書的教条を無理矢理現実に当てはめるような対応に終始するという無能さを曝け出し続けてきたのではないのか。あるいはひねくれ精神によって単に斜交(はすか)いに身を持してきただけなのではないのか。こういう作風は今も現にそうなのではなかろうか。少なくとも理論レベルで真っ当に論じ得ていないのではなかろうか。いつの世でもインテリが陥り易い愚かさを演じ続けてきたのではなかろうか、という気がする。左派が左派なら検察も然りで、戦後の経済主義最優先価値観による経済権益活動のもたらす新モラルを法的判断することができず、昔堅気の封建的尺度で「検察の正義」を振り回し、経済権益活動を規制して行くことを良しとし過ぎたのではなかろうか。

 れんだいこが何を云いたいのか。それは、戦後の経済主義最優先価値観による政治を押し進めてきた戦後ハト派系政治家を必要以上にイジメすぎたのではなかろうか、と問いたい訳である。その筆頭が田中角栄であった。「戦後民主主義体制」の歴史的正の意味を最も的確に把握理解し、体現し、歴史に真に偉大な貢献をした田中角栄が訴追された。「戦後民主主義体制」の歴史的意味を捉え損なった頭脳の者が、寄ってたかって田中角栄を諸悪の元凶視し、角栄を葬ることこそ正義としてきた。これは卑大なる悲劇なのではなかろうか。

 唯一我々の祖父母大衆が「戦後日本の『民主主義』体制」の価値を認め、黙々と感謝してきた。闘い取る作風はなかったけれども、有り難いとご神体にしてきた、それには随分根拠があったのではなかろうか。その土壌に咲いた角栄出世譚を今太閤と評し囃(はや)し畏敬した。このことには随分根拠があったのではなかろうか。語るインテリ達と語らざる大衆との乖離が横たわっていたが、本当に賢かったのは語らざる大衆の方だったのではなかろうか、そんな気がしてならない。というような観点から、語らざる大衆に無理やり語らせてみようというのが本稿の狙いである。以下、この謂いを論証する。共感の者は大いにこのサイトの充実を手伝うべしである。

 2003.4.27日再編集 2010.10.12日再編集 れんだいこ拝

1、戦前史俯瞰考
 戦前の日本政治は、幕末維新から語られねばならぬ。その功罪は両面あるが、功の面で云えば、アジアで唯一、否世界でも唯一の、国際金融資本帝国主義ネオシオニズムによる世界植民地化攻勢の波に抗して、民族と国家を自立自存せしめた自主独立革命(回転運動)を成功裡に押し進め得たことにあると思われる。正確にはネオシオニズムを政権中枢内に呼び込んだ面もあるので「半ば自立自存国」と評しておこう。こうして日本は日本式近代化革命に着手した。この功績は世界史上に燦然と輝いていると評されるべきであろう。

 その端緒が幕末維新であった。通説の歴史学では一括して明治維新とみなしているが、幕末維新と明治維新との間には質の違いが見て取れるので識別されるべきである。れんだいこ史観は、日本に於ける幕末維新をフランス革命、アメリカ独立革命、ロシア10月革命より以上に高く評価する。そういう革命を、如何にも日本的な和戦両様両面から完遂したことを称賛したい。思えば、フランス革命、アメリカ独立革命、ロシア10月革命が共に国際金融資本帝国主義ネオシオニズムが糸を引く操られた革命であるのに比して、日本の幕末維新は日本伝来の縄文的頭脳のイニシアチブの下で遂行した。ここに大きな質の違いが認められるように思う。

 幕末維新は、大政奉還、王政復古号令、内戦、江戸城無血明け渡しを経て明治新政府を創出して以降、明治維新に替わる。新政府は、1・徳川幕藩体制に代わる天皇制国家体制への転換。2・欧米式議会制民主主義を指標とする新国家秩序の模索。3・富国強兵による日本独立化、不平等条約の見直し。4・官民共同の殖産興業による産業革命。5・文明開化による西欧文明摂取。これらの諸政策を矢継ぎ早に押し進めた。世界史上、国際金融資本帝国主義ネオシオニズムによる世界植民地化攻勢の波にこれほど有能に処し得た国は他にない。

 但し、新政府は、その政権内部にアジア共同体論に繋がる自立自存派と国際金融資本帝国主義ネオシオニズム派が拮抗しており、諸政策の肝要な局面でことごとく暗闘し始めた。前者を西郷隆盛が、後者を大久保利通が代表する。共に薩摩系であるので、この時期までは薩摩派が最高権力者であったことになる。この間、中国の清帝国、朝鮮の李王朝はいずれも「上からの近代化」に取り組みつつネオシオニズムの侵略に抗戦するが失敗する。その限りで、日本の明治維新は、極東アジアに於ける一人勝ちの様相で近代化革命に邁進して行った。

 新政府は次第に自立自存派とネオシオニズムの抗争を絶対矛盾化させて行った。その過程で自立自存派が次第に形勢を悪くし、最終的に明治新政府から一斉に下野し、いわゆる「士族の反乱」を引き起こし、幕末維新の継続革命に向かった。しかし、いずれも個別分散的反乱に留まり、個別的であるが故に個別的に鎮圧された。この間、幕末維新の最高貢献者として象徴的な権威を持っていた西郷隆盛は動かなかった。その西郷が、「各地の士族の反乱の失敗」を見届けた後、最後の総決算として「西南の役」に向かう。半分は西郷派の意思であり、残りの半分は時代の要請であったと思われる。

 その「西南の役」で西郷派が敗れることにより、自立自存派は最後的に掃討されることになった。これにより日本式武力革命の線は消えた。非武闘派の自立自存派は自由民権運動による政府批判に向かうことになった。このことは同時に、以降、明治維新権力がネオシオニズム派の天下となったことを意味する。こうして、幕末維新と連動しない明治維新の一人歩みが始まることになる。西郷亡きあと大久保の一人天下となったが、その大久保が刺殺される。後継したのは長州の伊藤博文であった。以降、長州派が最高権力を握り、これに反西郷薩摩派が組み込まれ、その他諸藩の能力者が登用され官僚制度を構築して行った。この段階からの明治維新は、ひたすら欧米列強に伍しアジアの盟主としての日本帝国主義化を目指すと云う名目での国際金融資本帝国主義ネオシオニズムの徒党化に向かう。これ以降の日本政治は、ネオシオニズムに操られながら世界史の激動下に身を委ねて行くことになる。軍部派勢力が政局を動かし始め、財閥と結託しながら植民地政策を押し進めることになる。

 その軍事的膨張政策の果てに待ち受けていたのは米帝国主義と雌雄を決する聖戦であった。これを国際金融資本帝国主義派から見れば、「豚は太らせて食う」仕上げでしかなかった。国際情勢を嗅ぎ分けし始めた日帝は大東亜共栄圏を構想することで対抗し、第二次世界大戦勃発に際しては日独伊三国軍事同盟でもって米英仏連合国軍と戦った。結果、一敗地にまみれる。1945.8.15日、全面降伏する。これが幕末維新、明治維新の終幕となった。戦前史をかく寸評了解したい。

2、戦後史俯瞰考
 第二次世界大戦後の世界新秩序は、第一次世界大戦、第二次世界大戦を通じて、国際金融資本ネオシオニズムの世界支配を阻む勢力が一掃されたと云う意味に於いてネオシオニズム派の一人勝ち天下となった。但し、ネオシオニズムの世界支配戦略は巧妙で、これを表立てせず裏から政府を操る方策で支配する。且つ政府派と反政府派の両方を操る両建て支配で補完する。こういう支配を特徴とするので、「ネオシオニズムによる世界支配」は気づきにくい。これが長年の「ユダヤの政治支配の知恵」と云われるものである。

 そういうネオシオニズムの知恵としての両建て支配世界支配戦略が結晶化したのが冷戦である。戦後世界は、片方を米帝国主義を筆頭とする資本主義世界、他方を1917.10月革命以来建国革命を押し進めてきたソ連邦を盟主とする共産主義世界に二極化し、両陣営による世界再分割抗争が始まる。この二大陣営は、第二次世界大戦の甚大な被害に規定されて次なる世界戦争に訴える気力も余力もなく、政治、経済、文化の全領域での影響力を競い合う体制間対峙政策を採用していくことになった。この世界支配を冷戦構造と云う。しかし、この「冷戦」的対立は、ネオシオニズムの常用する二頭建ての競争演出による巧妙な統治方法であったかも知れぬと云う仮説から再検証されねばならない。戦後体制の歴史的意味をかく了解したい。

 こうした世界新秩序の流れの中で、敗戦国日本はひたすら「焦土からの復興」に向かうことになる。連合国軍(GHQ)の最高司令官としてマッカーサー将軍が来日し占領統治が始まる。米ソが虚虚実実の駆け引きで「新生日本」の取り込みを図るが、あらゆる面で有能であったのは米帝国主義の方であり、戦後日本を手玉に取り、欧米流民主主義を名目とした実はネオシオニズムを扶植しながら懐柔して行くことに成功する。戦後日本の歴史的位置づけをかく了解したい。

3、核兵器登場の史的意味考
 「戦後冷戦体制論」において、「核兵器登場の史的意味」が顧慮されることが少なすぎるように思えてならない。そこで、以下、れんだいこが試論を提供しておく。

 第二次世界大戦後の世界の対立構図は、「米ソを両頭目とする冷戦対立」となった。この構図は戦後直後より始まり、1991.12月、ソ連邦が崩壊するまで続くことになる。ところで、片方の頭目のソ連邦の崩壊が世界情勢の危機を深めたり、新戦争を特段には引き起こさなかったことの裏意味を顧慮せねばならない。このことと第二次世界大戦後以来2010年現在まで65年余にわたって同様の規模以上での戦争が引き起こされていないことを考えると、第二次世界大戦世界は世界的規模での最終戦争であった観が深い。この歴史眼を養わなければ、今後の展望も見えてこないのではなかろうか。

 もはや世界戦争は起らない。絶対とは云わないが、そういう蓋然性が高い。その要因は奈辺にあるのか。れんだいこ史観は、米国で逸早く達成された原子爆弾の製造成功を最大の要因に挙げたい。核兵器と云われるこの新兵器の威力は、我が国の広島、長崎に投下された実例で遺憾なく証明された。その後ソ連でも製造に成功した。以降、米ソ両超大国による核兵器の保有が世界破滅戦争を現実的に予期させることにより、それまでの戦争形式を根本的に変えたと見立てることができるように思われる。この歴史眼を養わなければ、その後の歴史の流れが掴めないのではなかろうか。

 ちなみに、1958(昭和33).4.15日付け参議院・内閣委提出資料「核兵器及び通常兵器について」では次のように説明されている。核兵器及び通常兵器については、今日、国際的に定説と称すべきものは見出しがたいが、一般的に次のように用いられているようである。
 核兵器とは、原子核の分裂又は核融合反応より生ずる放射エネルギーを破壊力又は殺傷力として使用する兵器をいう。 
 通常兵器とは、おおむね非核兵器を総称したものである。

 従って、

 サイドワインダー、エリコンのように核弾頭を装着することのできないものは非核兵器である。 
 オネストジョンのように核・非核両弾頭を装着できるものは、核弾頭を装着した場合は核兵器であるが、核弾頭を装着しない場合は非核兵器である。
 lCBM、IRBMのように本来的に核弾頭が装着されるものは核兵器である。

 もとへ。最終兵器としての核兵器の登場が戦争形式を根本的に変えたということを正当に認識しなければ、第二次世界大戦以降の歴史構図が読めないのではなかろうか。米ソ超大国はその後の度重なる実験で核兵器の性能を更に向上させていった。皮肉なことに、その破壊力の向上を達成すればするほど現実の使用を困難にさせ、戦争抑止の作用を強めていくことになった。つまり、爆弾としての最終兵器たる核兵器の発明が世界戦争抑止の最大の道具となった、このことの持つ世界史的意義が大きいのに案外と無視されているように思われる。

 思えば、フルシチョフの「平和共存と平和的移行」政策の観点は、この世界史の質的転換を見据えての歴史的卓見であったのではなかろうか。その真意は恐らく、際限のない軍事費投入という国家財政圧迫の構図からの脱却を意図していたのではないかと思われる。フルシチョフ史観は評価されることなくむしろ専ら批判される傾向でのみ論ぜられてきているが、軍事的緊張と膨張からの訣別を企図する「当時に於ける卓見と挫折の解明」こそ歴史家が為さねばならないことのように思える。これについては別のところで論ずることにする。

 1950年の朝鮮動乱、1960年代のベトナム戦争、その他の大戦争下にあっても、結局のところ核兵器は使用されずに今日まで至っている。れんだいこに云わせれば、何かしら第二次世界大戦以前と以降の「戦争の質が変わった」のであり、戦後の戦争は字義通りの意味での戦争らしくなくなった観がある。

 もっとも最近ではミニ核兵器ないし同種兵器(原子力発電の放射能廃棄物から作られる劣化ウラン弾)の開発が進められつつあり、戦術核兵器として特殊地域使用の現実性が増しつつあるからして抑止の面の効用にのみ着目する訳にも行かなくなりつつある。戦術核兵器の登場が新たに世界史を変える可能性があるが、これについてはここでは触れない。

 「戦争の質が変わった」ことについてその他の要因として考えられることは、人類が数多の戦争経験から深く学び、敗戦国も戦勝国も二度と悲惨な戦争を起こさないと深く決意せしめ、それぞれ各国内部に平和持続意思が確立されたことにあると思われる。第二次世界大戦後、民族解放闘争と云われる諸国家の独立が嵐のように進んだが、その最大のベトナム戦争であれ人民大衆により選出される正統政府を争う形で推移しており、勝利した側が敗者の民族ジェノサイドに向かったそれではない。

 こうした認識から外れるものがあるとすれば、パレスチナでのイスラエルによる対アラブ戦争であろう。アラブ勢力の抵抗闘争が封ぜられない限り、危機が深まれば深まるほどイスラエル-米英軍によるアラブ諸国家ジェノサイドがあり得そうである。事実は、初期に於けるイスラエルの絶対的優位は次第に相対化させられており、次第にアラブ側の抵抗力が増し始め優位へと反転移行しつつあるように思われる。予断は許されない。

 それはともかくとして、第二次世界大戦後の世界の対立構図は、「米ソを両頭目とする冷戦対立」の時代となった。このことが何を意味するのか、ここを読み取らなければ歴史が見えてこない。述べたように恐らく社会の質が変わったと認識すべきではなかろうか、かく観点を据えて、以下その解読に向かう。れんだいこ史観の本領である。

 2004.5.5日再編集 れんだいこ拝


4、第二次世界大戦後の防衛と戦争の質の転換考
 「冷戦時代」は、諸国家に軍事戦争の意義を三義的にさせたのではなかろうか。更に、軍事戦争の中身も情報戦争のウェイトを大きくしているように思われる。代わって一義的になったのは通商貿易戦争である。二義的になったのは技術開発戦争である。これはいずれも経済戦争に関連している。その他四義的には文化面での競合も為されているように思われる。かく戦後世界は、それまでの戦争の様相を変えて踏み出したのではなかったか。軍事のみに依拠する戦争絶対時代から、軍事でも政治でも経済でも文化でも総合的多角的に争う戦争時代に転換したのではなかろうか。

 このことは次のことを意味する。僥倖にも、戦後日本は戦後憲法によって
「軍備放棄・非武装中立的国際平和希求・国際協調路線」なる内容から構成される「非軍事宣言」を宣明した。憲法前文は次のように詠っている。
 「日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたって自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によって再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する」。
 「日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ」。

 この「非軍事宣言」は、日本国憲法憲法九条で次のように具体的に規定された。
 第2章 戦争の放棄(CHAPTER II. RENUNCIATION OF WAR)  
 第9条(Article 9)【戦争の放棄,軍備及び交戦権の否認】 .
1.日本国民は,正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し,国権の発動たる戦争と,武力による威嚇又は武力の行使は,国際紛争を解決する手段としては,永久にこれを放棄する。
 Aspiring sincerely to an international peace based on justice and order, the Japanese people forever renounce war as a sovereign right of the nation and the threat or use of force as means of settling international disputes.
2.前項の目的を達するため,陸海空軍その他の戦力は,これを保持しない。国の交戦権は,これを認めない。
 In order to accomplish the aim of the preceding paragraph, land, sea, and air forces, as well as other war potential, will never be maintained. The right of belligerency of the state will not be recognized.
  
 この「非軍事宣言」は、当時の国際情勢に於いて決して絵空事ではなかった。これを評価するのに次の四面からの考察が必要であるように思う。
 
 一つは、戦後の覇者となった米帝を頭目とするネオシオニズムによる1・
「二度とアングロ・サクソンに刃向かってこない狙いでの日帝の軍事及び統治機構の解体」であった。戦前の日帝の好戦性、野蛮性は今日から見ても非難されるに値するものの、文明史的には、近世以降唯一アングロ・サクソン列強即ち真の支配者である国際金融資本帝国主義ネオシオニズムによる世界分割支配に抗し得た非白色系の対抗的国家の創出であった。勝者となったネオシオニズムは当然ながら敗者の息の根を止めるべき軍事機構の解体を目指すことになった。このセンテンスで「非軍事宣言」を理解する必要があろう。従って、これを「国体の骨抜き」として指弾する我が国の民族派右翼の理論は、その限りにおいては正しいと云うことになる。

 次に、もう一つの側面から考察する必要がある。二度の世界大戦を通じての戦争の惨禍を前にして、2・
「人類の叡智としての不戦の誓い」が時代のニューマになり、この精神が結実したという流れがある。直接的に最も被害を受けた世界の人民大衆は強くこれを希求した。戦後直後の日本を政治指導したGHQのマッカーサー将軍とその配下のニューディーラー派はこのニューマを読み取った歴史的には極めて珍しい「英明な統治者」であったように思われる。但し、戦後我が国の左派運動圏では、アメ帝論に災いされてマッカーサー将軍の治世を「英明な統治者」的に評価する観点が弱いように思われる。

 ちなみに、昭和天皇の概要「朕は、平和国家を確立して人類の文化に寄与せんことを冀(こいねが)い日夜しん念措かず云々」(1945.9.4日、第88回臨時帝国議会での「開院式の勅語」)も又、英明な指針でもあったように思われる。この時、幣原喜重郎首相談話でも平和主義に徹して新日本を建設する意向が表明されている。この「目の当たりにした戦争の悲惨さからの決別センテンス」で「非軍事宣言」を理解する必要があろう。

 しかし、この二面における「非軍事宣言」は戦後の歴史の波間に揉まれていくことになる。「戦後民主主義」はGHQの主導によって押し付けられ、その運命もアメリカの意思次第に左右されていくことになった。スイスの実体詮議はさておき、かくて「東洋のスイス化的戦後日本ルネサンス」は束の間で水泡に帰した。その後のGHQの政策転換によって、戦後日本はアメリカを盟主とする反共政策に組み込まれ、以降その同盟国としてパートーナーシップと云う名の傭兵化体制に変質させられて行く。「日米安保と日本の再軍備」が促されその後年々強化され、80年代初頭の中曽根政権の登場で一挙に加速し、2000年代初頭の小泉政権へと至り更に加速された。

 ところで、見落とされがちであるが、「非軍事宣言」にはもう一つの歴史的意味があったのではなかろうか。それは、帝国主義のいずれの国においても異常に軍事費が突出し、国家予算の5割強を占めるような事態に陥り、それが国内の人民大衆の生活基盤を圧迫し、内治の失政のはけ口としていわゆる植民地政策を余儀なくさせられていったという歴史の流れに対する深い反省からもたらされていたのではないのか。戦後の名宰相となった吉田茂は、敗戦直後の書簡に概要「軍なる政治の癌(がん)切開除去ができるなら、この敗戦必ずしも悪からず」と記しているが、国家財政を蝕む軍事予算の突出に対する真摯な反省の弁を述べているのではなかろうか。

 国家予算において軍事費の割合を突出させてはならない、願うらくは3・
「軍事費を計上しないで済むような国家造り」が瞬間風速的に理想となり、何と戦後日本はその実験国家としての歩を歴史に刻んだのではなかったか。「非軍事宣言」には、理想主義的過ぎるとはいえ決して疎かにできない深い哲理があったと云うべきではなかろうか。だがしかし、この指針は上述したような理由で脆くも崩れ、日本の再軍備が画策されていくことになった。戦後日本は、1980年代の中曽根政権誕生までは「防衛費予算をGNP全体の1%枠に納める」という軽武装国家として存立し続けてきた。軍事費がGNP全体の2割を超し中には5割を越すような諸国家が存在する中で稀有な芸当をしてきたといえる。当然のことながら兵役義務から解放された珍しい国家ともなって今日まで経過してきている。

 これは偶然にも、「冷戦時代」の時代的意味を本質において理解し実践してきたということになるのではなかったろうか。経済成長一辺倒に傾斜させて軌跡の復興を遂げた日本が賞賛を得ているのは、この4・
「国家の軽武装による経済的活路戦略」の秀逸さに対して為されているのではなかろうか。かく評価されている当の日本がこのことの価値を認めていないように思われる。

 
2003.7.22日再編集 れんだいこ拝

5、思潮としての主権在民式議会制民主主義制度の普及考
 「冷戦時代」を素直に読み解けば、第一次、第二次と続いた世界大戦の抑止体制であったことが分かる。この体制は曲がりなりにも機能してきたように思える。この「冷戦時代」のもう一つの特質に、「思潮としての主権在民式議会制民主主義制度の普及」が挙げられるように思える。

 この思潮は、日本国憲法前文に次のように見事に表現されている。この前文から導き出された諸制度は実体となって今日に続いている。
 「ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであって、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する」。

 興味深いことは、戦後日本は、GHQ内ニューディーラーの影響もあって、本国アメリカのそれよりも敵国ソ連のそれよりも歴史の歯車を一歩進めたかのような民主的諸制度を生み出していることである。今日判明していることは、敗戦国となったとはいえ潜在能力の高い戦後日本の取り込みを廻って米ロが確執し、米国陣営が「狡猾な妥協政策」で日本に世界一進んだ民主的諸制度を移植したという経緯が認められる。かくて、戦後日本は、冷戦時代の思潮を直接的に反映した最高先進国になりえていた。ここも注目を要するところであるが、当の日本がこのことの歴史的価値を認めていないように思われる。

 この両面にわたっての位置付けが、戦後日本国憲法に次のように宣言されている。
 「日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する」、「われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであって、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる」。

 この宣言は、その後歴史の波間にもまれて機能しなくなっていくが、この宣言がなされた時においては確かな実在力を持ちえていた。政治力で次第に機能していかなくされたとはいえ、ひとたび形成された実在力は人民大衆の間に根を下ろし成長していくことにもなる。してみれば、戦後日本とは、「冷戦時代の谷間に咲いた百合の花にして蓮華国家」であった。

 確かにこれは理念であり、そのようなものを憲法として条文化することが適切かどうか旧常識では理解でき難いところであろう。しかし、視点を変えれば、社会の向かう方向を憲法で明示することはむしろ進んだ手法であるようにも思われる。現実の後追い成果をのみ確認条項化すべきだ論の方がナンセンスかも知れない。

 付言すれば、2003年小泉首相は、イラクへの自衛隊派兵問題で、憲法前文の「国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ」を饒舌しながら正当化を試みていた。これに異論を唱えた者は議員はおろかマスコミにも居ない。云う方も云う方だが、丸め込まれる方も方であろう。憲法前文の該当個所は、「軍備放棄、非武装中立的国際平和希求、国際協調路線」的努力を率先垂範することを通じて「国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ」という国是の披瀝である。それは、大東亜戦争の当事国として日本が世界に誓った決意であり、反省と教訓の賜物でもあった。この前提を無視して、事もあろうにイラクへの自衛隊派兵合理化の為に引用し、誰もこれを訝らないとは。この国の政治は死んでいる。

 2003.7.22日再編集 れんだいこ拝

6、戦後日本の脅威の富の蓄積考
 戦後日本の政権担当者及び官僚は、以上のような特質を持つ「第二次世界大戦後社会の歴史的質の転換」を正確に理解し、この認識に基づいて1970年末代までは極めて有能な舵取りしてきていたことになる。敗戦から50年代初頭頃の吉田首相時代の経済復興優先政策、1960年代前半の池田首相時代の高度経済成長政策、1960年代半ばから1970年代前半の佐藤首相時代のその継承、その後を継承した1970年代前半の田中首相時代の列島改造政策と日中国交回復による中国市場の開拓、途中三木、福田時代を挟むが1970年代後半の大平、鈴木首相時代のその継承は、「戦後精神」の見事な舵取り手綱裁きであったことになる。

 この間、日本左派運動は何時如何なるときも政府に対する抗議運動、抵抗闘争にのみ一辺倒してきたが、それはマルクス主義の読み誤りに基づく無為な運動でしかなかったと思われる。戦後日本は、ある意味では、「共産主義者の宣言」に盛られた青写真の唯一の実践国家であった。従って、左派運動が為すべきことは、蓮華国家としての実を挙げるような政治責任運動の組織化であったように思われる。この観点に照らす時、左右両派とも大いなる反省を要するのではなかろうか。皮肉なことに、戦後体制派の方が本能的に正しく時代を受け止め、左派のほうがマンネリしている。いわゆるネジレが認められる。但し、戦後体制派の右派運動の本質は当局迎合型であったので、そういう右派運動は排斥すべきものとして映ったとして何ら問題はない。

 2003.8.5日付け毎日新聞の神谷万丈氏の「日本の自画像 平和国家」は次のように述べている。この指摘は貴重であるように思われる。
 「経済大国となった国は遠からず軍事面でも大国化を志向するというのが、従来の国際政治の常識だったが、日本は、これまで30年以上も、そうした予想を裏切り続けてきた。軍隊大国ではない平和主義的な大国の存在可能性を身をもって示してきた日本の選択は、それ自体として世界平和への顕著な貢献であり、対米軍事依存の持続化による外交的自立性の制約といった代償を考慮に入れても、基本的には決して間違ったものではなかった」。

 この頃蓄えられた我が日本の国家としての原資は世界史に記録されるべき富の蓄積をしていたのではなかろうか。今この富が音を立てて崩れ過ぎたが、これは決して偶然起ったことではない。世の事象の結果には原因と理由がある。本来、学者の研究とは、こういうところに目が行かなければならない。れんだいこ史観によれば、「売り家と唐様で書く三代目」達の跋扈により、自ら浪費しあるいは教唆勢力により蝕まれた結果に他ならない。世の実相を知らぬままのボンボン系の空威張り愚者が政治を司るとかような目に遭うのは歴史の教えるところである。

 これを例証するとも思える次のような見解に出くわしたので引用しておく。野矢テツヲ氏の「NMDに関する田中外相の見解(1)」は次のように指摘している。軍事費膨張の裏にあるカラクリを見事に切開しているように拝察させていただく。
 「旧ソ連は米国のGDPの約半分以下の状況下で、米国とほぼ同規模の軍事支出を行って対抗するという決定的誤りを犯したため経済的破局を招き、ソ連邦そのものの崩壊を引き起こした。米国はこの成功経験を、中国に対して再び応用しようとしている」。

7、「戦後冷戦構造」と我が国における公共事業の相関スケッチ考
 こうした国家原資の開拓は公共事業の積極推進による内需拡大によって担われてきたように思われる。公共事業は、軍事に代わる国家的事業(プロジェクト)であり、それは軍事的外冶よりも内治を優先させる政策であった。政府が社会基盤を整備し、民間がこの受益に預かり、納税で応えるという構図で富の循環的蓄積がなされていった。それは、軍事国家から社会基盤整備国家への変容であった。これを土建国家と云いなす者が居るが、「土建」を賎称的に云う者は云う者の知性こそ賎されるに相応しいと弁えるべきだろう。同じような趣旨で海外援助も注目されるが、公共事業に比較して小規模なそれであるので考察は割愛する。付言すれば、戦後日本は、平民宰相として知られている戦前の原敬首相が随喜して涙するような時代となりえていたのではないかと思われる。

 公共事業の実績とその予算規模を見れば凄まじい。以下これを図示すると次のようになる(資料只今模索中)。この政策自体は評価されこそすれ、今日のように悪しく云われるべきことではなかろう。

 ところが、福田蔵相―首相時代の頃より公共事業資金の調達方法が変化していることに気づく。公共事業の資金調達として建設国債、財政投融資関連事業費が毎年毎年予算計上されてきた。いつの頃から常態化したのかこれを図示すると次のようになる(資料只今模索中)。

 これらは「当初オズオズ、次第に大胆、今や打出の小槌」で積極財政してきた結果、2001年現在の日本の発行済み国債666兆円、都道府県地方債***兆円、財投事業債***兆円という気の遠くなる超債務国家として突出する国家に至った。

 この背景には、公共事業が今や官僚-民間企業体との利権の巣窟に腐敗せしめられてしまった事情がある。その様は、戦前の軍部と財閥の結託の様と酷似している。こうして戦争と対極の形で役目を引き受けてきた内需拡大政策、その牽引役としての公共事業が腐敗し、今や岐路に立たされている。

 さて、こうした状況を踏まえて、我々は公共事業観をどう確立保持していくべきであろうか。民主党、共産党は公共事業の見直しからその予算の半額削減まで主張し始めている。共産党によれば社会保障事業費より以下の線に押さえ込みたい意向のようである。果たして正論足りえているであろうか。


 これに加えて新たな難題が発生してきているのが現代である。「冷戦時代」の経済戦争的特質は、各国に過当とも云える競争を強いた結果、環境破壊、複合汚染による自然破壊、人間破壊を促進しつつある。文明の発展が地球自然の生態系に取り返しのつかない被害を与えつつある。これまでの安直な進歩主義史観が今や岐路に立たされている。

8、戦後政治家の役割の変化考その1、軍事戦争から経済戦争化
 さて、以上の認識から教えられる興味深いことは、各国のトップリーダーの役割の変遷である。戦後に至るまでの各国の大統領、元首、首相は、全て対外戦争、国内治安上でのいわば軍人的な戦争指導者であり、そうした能力が問われてきた。通説の歴史書は、この観点からの宰相論を説くことを得手としている。ところが、戦後の指導者にはむしろ「商工」的な国家代表としてのセールスマン的能力が問われてきたのではなかったか。ここの質的転換を理解しないと、あたら惜しくも戦後の大統領、元首、首相を有能な故に罪を被せ裁くと云う愚挙を犯すことになる。

 これには次のような事情がある。戦後は経済戦争時代に入ったことを受けて、私企業体制下の社会いわゆる資本主義社会では、独占寡占企業体の役割と貢献度が大きくなったことを意味する。独占寡占企業体は、巨額税収から雇用まで国家に寄与する度合いが大きい。今や国運に重大な影響を行使しており、それら企業の存続、発展、相互の競争は、国家と一蓮托生的なファクターになってきている。

 このことが、当然の如く大統領、元首、首相から官僚に至るまで経済戦争の一端を担わせていくことになった。戦後世界に立ち現れた外交における「大統領、元首、首相から官僚まで巻き込んだセールスマン、密使、特使」化の現象の由来がここにある。外交に立ち現れた質的転換から戦後の戦争の意味、意義が変わったという事態を理解できないと、現実に進行している外交交渉の流れが掴めない。我が国の外交で云えば、日米同盟化の選択、日中国交回復、現在進行中の日露交渉、日朝交渉は全てこのセンテンスから評価されねばならないであろう。

 このことを理解すると、1970年代の日米欧に発生した疑獄事件(アメリカでのウォーターゲート疑獄から一連の過程、日本のロッキード事件、欧州での***事件)は、かなり冤罪的であったことが判明する。それを無条件で擁護しようというのではない。戦後の時代の構図が生み出した「選良の働き手を旧式観点から処罰した非」を問うてみたい訳である。

 これらの権力者の奢りは奢りとして、行き過ぎ、不用意はなじられるべきであろうが、彼等を突き動かした戦後という時代の要請に応えた働きは、我々が旧式常識で考えているよりはよほど真っ当なものではなかったかということが云いたいわけだ。

 ソ連邦の崩壊は、この観点から説明することが可能なように思われる。つまり、欧米資本主義国家が経済戦争を仕掛けて、それらの国の指導者がその最先端で資本活動の権益確保の役割を果たしつつある時、ソ連邦諸国家の指導者及び官僚達は旧態然とした軍事国家的権益にとらわれたままであり、経済権益活動に対してはただ呆然と指をくわえて為す術をもたなかった。その数十年の無為の経過が、資本主義国家の経済的発展に明らかに遅れを取らせ、相対的に国家建設を失敗せしめたのではなかったか。

 ソ連邦圏に普遍的に立ち現れた官僚制社会主義は、この新戦争に明らかに不向きであった。産業基盤の活性化に対して有効な手法ではなかったということである。かくて、ソ連邦を盟主とする共産圏諸国家は戦後型戦争に負けた。遅ればせながらこのことに気づいたロシア国民をしてソ連邦を崩壊せしめ、国家再生の為の新しい皮袋を用意せしめたのではなかったか。


 これを逆に観れば、このことを冷徹に理解しているアメリカとは如何に偉大な国家であろうか。何がアメリカをしてかく情況の認識をさせ、常に時代の最先端でのパイオニア的成功を持続させ続けているのであろうか、非常に興味のある課題であると云える。しかし、れんだいこのこの考察は専らクリントン時代に当てはまるように思える。後のブッシュ政権はこうした意義を歴史の中に見出して居らず、唯一覇権国家としての驕りに安住し奢侈しているように見える。いずれ帳尻を合わす為のツケがアメリカ自身に被さってくるだろう。

 付言すれば、我が日本の戦後は本質において、敗戦の廃墟から田中角栄-大平ラインの頃まで何と与野党相補しながら賢明に政局運営してきたことであろうかに思いを馳せざるを得ない。逆にいえば、戦後の転換を領導し始めた中曽根以降小泉政権にいたるここ数十年の過程はこうした意義を歴史の中に見出しす能力を持って居らず、ただ単にそれまでの国富的蓄積に安住し奢侈しているように見える。一言でいえば正真正銘のタワケ族でしかない。

Re:れんだいこのカンテラ時評その150 れんだいこ 2006/03/16
 【戦後政治家の役割の変化考その2、経済戦争の実態】

 2006(平成18).3.16日、毎日新聞12版の「苦戦の仏、歓喜の英」は、れんだいこの「戦後は本質的に軍事から経済戦争へ転換した」観点を補強している。記事の要旨を確認し、れんだいこ見解を述べる。

 世界最大の産油国サウジアラビアは、このところの石油値上がりによる収益増で国防に向かいつつあり、為に戦闘機等の兵器売り込み商戦が加熱している。米国、英国、仏国が国家の威信を賭けて兵器売り込みに注力している。サウジは、これまで米国一辺倒であったところ、昨2005.7月に英国のブレア首相とリード国防相が相次いで訪サウジし、戦闘機売却の覚書を交わした。

 2006.3.4-6日、仏国のシラク大統領が、国防相や主要軍事企業のトップを引き連れて訪サウジし、「航空、軍事、エネルギー、石油分野でサウジと協力したい」と売り込んだが、契約調印なしの帰国を強いられる結果となった。「シラク大統領がサウジでの商談に失敗」と報ぜられている。

 れんだいこが注目するのは、国家の最高指導者たる大統領や首相自らが率先して企業の販促活動を公然露骨に担っていることである。この事象をどう受け止めるべきであろうか。これを違憲違法となじるのは余りにも道徳的過ぎよう。むしろ、戦後の世界構造が、経済戦争を廻って抗争しているという観点から、その実態を見て取るべきではなかろうか。

 これを思えば、戦後の一時期まで保守本流を形成した政府自民党のハト派の朝野挙げての経済重視、国際的インフラ整備援助路線は、特に他の諸国が軍事的競争にかまけている間のその政策は、英明な政策ではなかったか。この時期、日本は、石油産出国のサウジ、イラン、イラクに対する非イデオロギー的援助をしており、親日的国家関係を生み出してきた。韓国、中国との関係に於いても然りであった。この政策は、1970年代に田中派-大平派連合により最盛期を迎え、その後の国家的隆盛を導いた。

 ところが、ロッキード事件を奇禍として、次第に田中派-大平派連合が解体蟄居させられ、代わりにそれまで脇役に甘んじてきたタカ派の福田-中曽根連合が登壇してきた。このグループは、世界最強権力である国際金融資本の御用聞きとして言い成り政治をし続け、1980年代から今日までの20数年間で戦後日本が蓄積してきた国富をすっかりはたいてしまった。

 この状況下で、国債の更なる累積過重化、軍事予算出費化、憲法改正による自衛隊の海外派兵合法化を策しつつある。これを評する側が、国際情勢の緊迫を論拠にしてエールを贈り続けている。しかしながら、戦後日本の国防は、さる日の敗戦により米英ユ軍の指揮下に置かれて育成されておるからして、どんなに国防力を増しても日本の真の国防にはならない、むしろ危険と災禍を招くのが関の山だというのに。

 れんだいこは思う。そういう実態を承知で国防費の増加、憲法改正による自衛隊の海外派兵合法化は、国内優良企業の外資売り渡し、国家資産ないし資金ないし技術の民営化という名の外資化とあいまって売国奴政策以外の何物でもなかろう。これを押し進めるものを仮にシオニスタンと命名すれば、今や国家上層部はシオニスタンばかりである。情けないことになってしまった。

 ポスト小ネズミ問題が何故に注目されないかその理由は明らかであろう、誰がなってもシオニスタンではないか。民主党が何故に色褪せてきたのかその理由はあきらかであろう、党首-幹事長以下若手のその多くはこれまたシオニスタンではないか。ジャーナリズムの政治論調が何故に面白くないのかその理由は明らかであろう、どの社もますます競ってシオニスタンぶりを露骨にしているからではないのか。

 れんだいこ今、サイトのトップページにイエズス会考を掲げている。
 (http://www.marino.ne.jp/~rendaico/nihonchristokyoshico/top.htm)
 興味深いことは、戦国時代末期、キリスト教を装ってシオニスト系イエズス会宣教師がやってきたが、織田-豊臣-徳川の三政権は賢くも彼らの胡散臭さを見抜き、他の諸国の被植民地化を尻目に堂々と撃退したことである。思想的にも武力的にも策謀に於いても負けなかったということである。

 我々は今この元一日に思いを馳せるべきではなかろうか。

 第二次世界大戦直後の世界新秩序「戦後冷戦体制」考
 (http://www.marino.ne.jp/~rendaico/daitoasenso/sengodemocracy_reisentaisei.htm)
 
 2006.3.16日 れんだいこ拝

9、独占・寡占企業体の役割と貢献度の現段階考
 2002..8.14日付けの地元新聞に興味ある次のような記事が掲載されていた。「大企業は国家並み経済力」との見出しで、「世界的な大企業の売上などを国内総生産(GDP)とみなして国家と比較すると、トップから百位までに29社が入ることが12日、国連貿易開発会議(UNCTA)の調査で分かった。UNCTAは多国籍業などの2000年の売上高を基に、給与や税引き前の利益などを考慮してGDP相当額を算出。各国のGDPと比較した」とある。

 その結果、企業のトップは米石油大手エクソンモービルの630億ドルでチリに次ぐ45位、次に米自動車のゼネラル・モーターズが47位。日本企業では、トヨタ自動車が59位、その他日立製作所など10社がトップ百に名を連ねた。又、世界のトップ企業百社の売上などの合計は200年には世界全体のGDPの4.3%を占め、1990年の3.5%から大幅に増加していることも判明した、とある。

【企業のGDP相当額と国家のGDPの比較】
順位 国名/企業名 金額(単位:億ドル)
米国 98.100
日本 47.650
ドイツ 18.660
44 チリ 710
45 エクソンモービル 630
46 パキスタン 620
47 ゼネラル・モーターズ 560
48 ペルー 530
55 フォード・モーター 440
56 ダイムラークライスラー 420
57 ナイジェリア 410
58 ゼネラル・エレクトリック(GE) 390
59 トヨタ自動車 380
60 クウェート 380
73 日立製作所 240
76 松下電器産業 220
77 三井物産 200
80 ソニー 200
81 三菱商事 200
91 伊藤忠 180
94 ホンダ 180
96 日産自動車 180
97 東芝 170
98 シリア 170
(ジュネーブ共同)

 これを思えば、現代の多国籍企業は国家並みの実力と影響力を持ち、その傾向をますます強めつつあるということが分かる。

10、現代帝国主義論のスケッチ
 「戦後の冷戦構造」の史的考察には、もう一つ考察せねばならないことが残されている。何かというと、「現代帝国主義の戦略の変容」に関する考察である。既に述べたように、軍事科学の発達による原水爆時代の到来によって従来の戦争方式が大きく転換されたという視点を確立せねばならない。もっとも理論上はいつでも核ボタンを押すことができる訳だから核戦争の危機が回避された訳ではない。だがしかし、最終の最終局面においてのみ使用されるべきだとする自制が働き、超大国によるカウンターパワーして機能しているように見える。

 代わりに各国家が競うのは通商貿易戦争である。しかも、多国籍企業の出現、金融資本のグローバル化等々により今や、レーニン時代の国家単位に識別する「帝国主義論」が古典化されたことを確認せねばならない。それは「帝国主義」規定が不能になったという意味ではない。現代帝国主義がどのように変容し一層の発展を遂げたのかという観点からの考察が新たに要するということである。留意すべきは、案外とこの観点からの考察のないままに既成左派が蟷螂の斧的な理論と実践に耽っている面がない訳ではないように思われる。

 結論を急ぐために、以下現代帝国主義の戦略・戦術の特徴を列挙してみたい。現代帝国主義は、ソ連邦崩壊以降「アメリカの一人勝ち覇権国家」として立ち現れており、その内実は、国家としてのアメリカとそれを支えるユダヤ系国際資本の合体を盟主としている関係上、アメリカ及びユダヤ系国際資本の戦略・戦術とほぼ同義になるのでこれを考察する。

 その一つは、金融的な経済的政治的支配である。アメリカ及びユダヤ系国際資本は、かっての直接的植民地統治手法より転じて間接的金融支配を世界グローパルに行い始めたのではなかろうか。国家間の政府保証融資あるいは国連機関の援助、更には有力独占資本体等を通じて、当該国の財政及び開発援助という名の金融支配による間接統治を得手とし始めているのではなかろうか。

 レーニンの「帝国主義論」は、国内外の金融資本のマンパワー化を解明したが、今やそうした資本が国家を超えて多国籍企業へと転化成長しつつあり、実質的に見て各資本ごとに世界への影響をますます強めている時代として分析し直さねばならないのではなかろうか。

 アメリカ及びユダヤ系国際資本は、その冷厳な現実政治分析によっては当該国を金融破産せしめ、傀儡政府による再建まで乗り出している。アジア、アフリカ、中近東、南アメリカ等々いわゆる後進国はほぼこの戦略戦術によって牛耳られている。この現実も又解明されねばならないであろう。

 その一つは、軍事的な政治的経済的支配である。(これは世界各国への軍事基地の活動実態分析となる)

 その一つは、産業的な経済的政治的支配である。(これは多国籍企業の活動実態分析となる)

 その一つは、文化的な社会的支配である。(これは風俗、文化、芸術、オリンピック等々の活動実態分析となる)

 その一つは、国際機関的な政治的支配である。(これは国連及びその他国際組織の活動実態分析となる)

 最後にしておくべきことがある。それは、何ゆえ「国家としてのアメリカとそれを支えるユダヤ系国際資本」が一人勝ちし得たのか、その強さの分析である。ある意味では各国は学ばねばならない、徒に批判するだけでは蟷螂の斧運動にしかならないであろう。

(2002.4.20日 れんだいこ拝)

11、戦後冷戦体制崩壊後の事象考
 1989年ベルリンの壁崩壊後徐々に冷戦構造が氷解した。以降、各国は、大規模な軍縮政策をとった。それはある意味で戦後日本の総路線であった「軽武装、経済発展」国家への改造であった。しかし、そのために軍需産業体が窮地に追い込まれることになった。アメリカにとっての軍事予算とは日本における公共事業費のようなものである。

 この軍需産業体の動向が注目されねばならない。その後、地域紛争が多発していくが、その原因は軍需産業体の兵器ビジネスにこそ真の原因があるように思われる。この軍事産業と石油産業が合体し、イスラエル膨張主義を唱えるシオニズム及びその配下の秘密警察モサドがその後の世界を動かしつつある、ように見受けられる。

  米議会は4兆8千億円(400億ドル)の軍事追加予算を認めた。2002年会計年度の国家防衛予算は、40兆9300億円(3289億ドル)にのぼり、当初予算案より更に2兆2900億円(184億ドル)増額されたのにさらに上乗せをした。ちなみに日本の防衛費は5兆円で、世界第二位の金額で軍事産業の上得意となっている。米国は、日本に軍資金の提供を求め、兵器の購買を迫っている。これに、三菱重工や三井造船、日揮等の三菱・三井財閥が絡んでいる。シオニズムの支援のために有事立法の制定、自衛隊の海外派兵を求めている。

 「軍事国家化に変貌するブッシュ政権の真実」より。

12、日本再生のシナリオ考
 以上の考察より為される結論は、日本の目下の政治状況に極めて有益な観点を生む。中曽根系小泉内閣は、2002.4月、いわゆる軍事・治安立法の法案化を策し始めたが、この法案を待遇する論拠としてれんだいこの上述の「戦後冷戦構造論」、「現代帝国主義論」は役立つものと自負する(未完成ではあるが)。

 その一つの反対論拠は、中曽根系小泉内閣の軍事・治安立法必要論は、かなりアナクロな世界観に立脚しているのではないのかということである。又別の反対論拠は、中曽根系小泉内閣の軍事・治安立法必要論は、現代帝国主義への一層の下僕化であり、決して我が国の国益にはならないということである。

 又別の反対論拠は、現下の不良債権処理名目での国債乱発による国家負債の雪達磨化は、日本の国家的民族的解体を視野に入れての罠であり、これに乗ぜられてはならないということである。但し、この場合、国債乱発を止めれば良いという単純なことではなかろう。如何に賢明に経済的再建を得るのかという課題の模索が待ち受けているということである。その処方箋を自前で生み出さない限り、日本は今や国家存亡の危急にあると云える。

 2002.4.21日 れんだいこ拝




(私論.私見)