ポツダム宣言考 |
(最新見直し2015.05.23日)
(目下、書き替え中)
(れんだいこのイントロショートメッセージ) |
戦後体制の歴史的な読み間違いが様々なひづみを生んでいることに気づかされる。そういう意味で戦後体制論を練ろうと思う。こういう考察は最も高等な頭脳を要するので、れんだいこ一人の手ではおえない。ではあるが、れんだいこ以外にこう問う者が居ないようなので先鞭をつけざるを得ない。この論考が為になったと一人でも云ってくれれば本望である。以下、れんだいこ見立てによる戦後体制論を開陳する。諸賢の批評を請う。平易に書きたかったが、妙に難しく書いてしまった。これは、れんだいこがまだ咀嚼できていないことを意味する。時間をかけてでも書き直し続けたい。
2010.10月前後、郵政不正事件の不正捜査により捜査側の責任者である現役の幹部検事即ち大阪地検特捜部の主任、副部長、部長がイモヅル式に逮捕されると云う前代未聞の事態が勃発した。れんだいこは、この事件を奇果とさせて、より根本的に「検察の正義」を問うてみたい。「従来式の検察の正義」の虚構を暴き、時代に照応する「新たな検察の正義」を敷き直したい。「従来式の検察の正義」は、これまで余りにも多くの有能政治家を訴追し過ぎ、逆に極悪の腐敗政治家に対して寛容で有り過ぎた。その定向進化が「郵政不正事件の不正捜査」であり、遂に証拠物の改竄まで手を染めさせるに至ったのではなかろうか。その根は深く、大阪地検特捜部の主任、副部長、部長の三人粛清で事が了えられるものではない。捜査がどのように進展し終息するのか分からないが、関係者の処罰だけで済ますのではなく、これを良い機会として「従来式の検察の正義」にメスを入れるべきではなかろうか。 こう問う時、立ちはだかるのが戦後体制論である。この問いに真剣に向きあうことからのみ「新たな検察の正義」が生まれよう。日本の法学、政治学は昔よりこういう法哲学的政治哲学的考察を得手としていないように思われる。以下の「れんだいこの戦後冷戦体制論」が一石を投じることができれば本望である。「始めに結論ありき」で臨む端から悪意を持つ雇われシオニスタンには幾ら説教しても無駄である。が、中には深い考えもなくシオニスタンの主張するところの「政治とカネ問題訴追こそ正義の第一歩」の影響を蒙り、勘違いしたまま角栄を叩き小沢を叩き正義ぶる愚か者も居るだろう。こういう者の蒙を開き、角栄擁護、小沢擁護の者には正義の確信を与えようと思う。れんだいこの自負通りになれば幸いである。 2010.10.12日 れんだいこ拝 |
「日本の戦争を「間違った戦争」とさえ言えぬ首相、戦争法案を提出する資格なし、党首討論、志位委員長の発言」。
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「★阿修羅♪ > 政治・選挙・NHK185」のかさっこ地蔵氏の2015 年 5 月 31 日付投稿「ニッポンの新常識 ポツダム宣言は「無条件降伏」ではない 日本政府は条件付きで降伏した 日本共産党最大の悲願は天皇撤廃」。
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れんだいこのカンテラ時評№1257 投稿者:れんだいこ 投稿日:2015年 6月10日(水)20時52分2秒 |
2015自共党首討論の和気藹々考 遅まきながら、2015.5.20日の安倍晋三首相と日本共産党の志位和夫委員長の党首討論を論評しておく。実に興味深いやり取りをしているので魚拓文にしておこうと思う。実際のやり取りは、「2015.5.21日付けしんぶん赤旗」の「日本の戦争を「間違った戦争」とさえ言えぬ首相、戦争法案を提出する資格なし、党首討論、志位委員長の発言」で確認することができる。 党首討論は、志位(委)が安倍(首)の大東亜戦争観を尋ねるところから始まっている。一般的にどう思うかではなく、「過去の日本の戦争は間違った戦争という認識はありますか」と誘導質問的に問うている。安倍(首)は次のように答えている。概要「戦争の惨禍を二度と繰り返さずの不戦の誓いを心に刻み、戦後日本は平和国家としての歩みを進めてきたことを踏まえつつ世界の繁栄や平和に貢献することを決意しています」。 志位(委)は概要「答えになっていない」と評し、続いて「戦後の日本は1945年8月、ポツダム宣言を受諾して始まりました」と前置きしてポツダム宣言の中身に言及している。即ち、特に第6項の「世界征服企図戦争論」、第8項「カイロ宣言認定の侵略論」の規定を採り上げ、両宣言共に大東亜戦争を「間違った戦争だとしている」とした上で、「総理はこの認識をお認めにならないのですか」と迫っている。これに対し安倍(首)が次のように返答している。概要「私はまだ、その部分をつまびらかに読んでおりませんので承知はしておりません。今ここで直ちにそれに対して論評することは差し控えたいと思います」。 これに対し、志位(委)は「ポツダム宣言の認識を認めるのか認めないのか」と折り畳むように尋ねている。安倍(首)は次のように返答している。概要「ポツダム宣言を受け入れて戦争を終結させた。日本はこれを受け入れることによって終戦を迎え平和国家としての道を歩き始めることになった訳です」。志位が次のように難詰している。概要「戦後の国際秩序は日独伊3国の戦争は侵略戦争だったという判定の上に成り立っております。ところが総理は侵略戦争はおろか間違った戦争だともお認めにならない」。返す刀でこう結んでいる。概要「そういう歴史判断の暗い総理が日本を海外で戦争する国につくり変える戦争法案を出す資格はない。撤回を強く求めます」。 何となく志位の攻めが功を奏しているように思える。世評も断然、志位の方に軍配を上げている。しかし、れんだいこは別の見方をしている。これが云いたい為に本ブログを書き付けつつある。志位質疑を好評するとすれば、他の論者が気の抜けたビールのような党首討論しかしていないのに比して、多少なりとも意味のある質疑応答をしたと云う点においてである。つまり形式要件においてである。中身を採点すると面貌が変わる。結論から述べれば、両者共に由々しき政治家失格識見を披露している。これを仔細に見れば、斬られたはずの安倍の方がかかと一枚残しており、斬ったはずの志位の方が再起不能的脳震盪に見舞われる予感がある。これを確認しておく。 安倍の由々しき政治家失格的識見ぶりは無能力と無責任に帰す。中曽根、小泉以来の更なる軍事防衛国家化へ向けての日本大改造を手掛けている最中の当事者である首相が、戦後日本始発の国際テーゼに対して「不詳」と公言することが許されるのかどうか。普通は有り得てならない失言であり、実際にそうであれば失態と云うより現下の戦争法案は出直しが当然であろう。しかも、安倍は、この無知を無知と痛痒していない能天気さをも晒している。今や安倍のこの能天気さは国内のみならず世界でもお笑いの域であり、知らぬは当人ばかりなりの感がある。その意味で、この答弁を引き出した志位質疑は重要なポイントを上げたことは相違ない。 ところが、志位は、安倍を斬るのに、その論旨が志位自身を切り刻んでいる感がある。即ち、この質疑を通じて、共産党の委員長たる志位がポツダム宣言を丸呑み、錦の御旗の絶対正義としていることを判明させている。しかしながら、そのような態度が本来の共産党のものであろうか。ポツダム宣言は戦勝国側の手になるものであり、もっと端的に言えば国際ユダ屋側のものである。こたびの党首討論は、志位がその国際ユダ屋戦後テーゼの忠実な教徒ぶりを満天下に晒したことになる。れんだいこは、ここに異様さを見て取っている。もっとも当の志位は無痛のようである。前委員長・不破のフリーメーソン史観を忠実に継承しているだけのことと嘯いているのかもしれない。 こうなると、舞台裏を見れば、右と左と云うポジションは違えども両者は案外と国際ユダ屋同盟仲間なのではなかろうか。通りで党首討論が剣呑にならず和気藹々質疑で終始した訳である。もう少し詳しく述べれば、両者とも国際ユダ屋に飼われている仲間であり、右からのそれが安倍(自公民)、左からのそれが志位(社共)と云うことになるのではなかろうか。れんだいこは、国際ユダ屋論を獲得して以来、これを否定するより肯定する事象ばかりが目についてくる。即ち、この観点より総洗いざらいすれば歴史の深層の真相がよほど見えてくるのではなかろうかと思っている。誰か共認せんか。 |
(私論.私見)