ルネサンスとしての戦後民主主義&閉ざされた言語空間としての戦後民主主義考

 (最新見直し2010.09.071日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、戦後民主主義のルネサンス性、閉ざされた言語空間性の二面から考察しておく。良しも悪しくも、これが戦後民主主義の実像だったと云うことであろう。複合史観が必要な所以である。

 2010.9.7日 れんだいこ拝


【ルネサンスとしての戦後民主主義考】
 戦後の廃墟に立って夢想した復興精神とそれによって導き出された「戦後的なるもの」は、まさに日本史上に稀有な形で現われたルネサンスであった。政治家としてはその権化として田中角栄に結実した。その角栄を「ロッキード事件」で葬った時、「戦後的なるもの」が終わった。問題は、それを止揚せしめたのではなく、全く愚昧な建前社会方向にハンドルを切ったことにある。以降の社会の良き面は、「戦後的なるもの」の残滓であり、以降の社会の悪しき面は、それ以降の創造物である。それは一つに、戦前社会への回帰であり復古でしかない。それは一つに、米英ユ同盟的新秩序への屈服でしかない。この両派が野合しつつ、米英ユ同盟派の方が趨勢になりつつあるのが昨今の状況である。

 2003年の今日、「戦後的なるもの」はほぼ窒息し、「新秩序体制」が完成間近である。頑迷なる復古派が夢想した国家が漸く近づいたと安堵した時、よく見れば「米英ユ同盟派に組み込まれた新秩序体制」でしかなく、既に当の国家が溶解していたという、笑うに笑えない悲劇を通り越した喜劇がやってこようとしている。

 この観点から構築された抵抗史観がれんだいこ史観である。これを無視しようが、追ってこの論の正論ぶりが万力の重みで現実を照らし出すだろう。れんだいこにできることは、この観点から「戦後民主主義」を解析し、手向けることである。後は次の世代に任そう。

 考えてみれば、民主主義というのは何時の世でも理想である。その理想が我が日本の戦後直後に訪れていた。戦後直後の日本は、世界史的に珍しい蓮華社会であった。しかし、このことに気づいた者が少なかった。自称インテリ達はむしろ、蓮華社会を認めようとせずその虚構を衝くことに精出した。かくて、右からも左からも寄ってたかって揉みくちゃにされることになった。

 考えてみれば、旧社会党の戦後民主主義論こそ一等秀でた見地を保持していたのかも知れない。しかし、残念ながら、彼らは、それを思想として高めることが出来なかった。保守的な擁護運動に終始し、左右からの攻撃に防戦一方となり、容易に懐柔されるその種の運動しか組織し得なかった。

 それは失われて初めて見えてきたことである。ならば、そのことに気づいた時、我々は何をどうすべきか。それが問われているのだと思う。

 2003.1.30日、2004.11.15日再編集 れんだいこ拝

【閉ざされた言語空間としての戦後民主主義考】

 「阿修羅♪ > 政治・選挙・NHK94」の弥太郎氏の2010.9.7日付け投稿「神州の泉(高橋博彦) 小沢一郎こそ国難突破のキーマン!!」その他を参照する。

 政治評論家の江藤淳・氏が、著書「閉ざされた言語空間―占領軍の検閲と戦後日本」(文藝春秋文春文庫、1994.1月)で、戦後体制の基層的骨格としての「新たな検閲制」について言及している。次のように紹介されている。
 「さきの大戦の終結後、日本はアメリカの軍隊によって占領された。そしてアメリカは、占領下日本での検閲を周到に準備し、実行した。それは日本の思想と文化とを殱滅するためだった。検閲がもたらしたものは、日本人の自己破壊による新しいタブーの自己増殖である。膨大な一次資料によって跡づけられる、秘匿された検閲の全貌」。

 第2次世界大戦後におけるアメリカの日本に対する検閲についての調査報告であり、米国が戦後の日本で行った検閲について、アメリカに保存されていた一次史料をもとに、調査分析し、明らかにしている。ほとんどの主張に、アメリカやアメリカの検閲隊が収集した資料を提示しているので、説得力がある。

 その検閲は、新聞や雑誌はもちろん、私人の手紙にまで及んでいた。民間検閲支隊(CCD)によって新聞雑誌から私信に至るまで徹底的に日本人の言論が検閲され、そこから得られた情報を元に民間情報教育局(CI&E)ではラジオや学校教育を通じて日本人の思想改造とも言うべき宣伝工作が行われた。自由を標榜しているはずのアメリカは、日本を統治したとき、厳重な検閲システムをしいていたことが報告されている。

 そもそもポツダム宣言上では検閲の実施は疑義のあることであった。ポツダム宣言第10項が、「言論、宗教及び思想の自由ならびに基本的人権の尊重は確立せらるべし」と規定されているが、これを逸脱する巧妙な検閲であった。アメリカは治安を維持するためにだけ検閲をしていたわけでなかったことが本書では明らかにされている。アメリカが行った検閲は、日本が行った先の大戦に対する考え方を強制的に、そして無意識的に変革させよう(歪めよう)としたものだった。例えば、「大東亜戦争」という用語そのものが「太平洋戦争」ということばに置き換えられた。東京裁判とその報道も一方的な戦勝国側の論理と論法で断罪された。、東條英機元首相らA級戦犯に対する同情的な論調が、日の目を見ないように検閲していた。毒ガス以上の残虐兵器である原子爆弾を非戦闘員に使用した米国への日本国民の批判の目をそらせるために、日本軍を徹底的に悪者にしたてることに占領米軍は成功した。

 戦前から戦中にかけて日本でも検閲が行われていたが、それは国内法に基づくものであり、その法の存在は公にされていた。また、伏せ字の使用により、検閲されていたことを多くの国民が自覚することとなった。しかしGHQが行った検閲は、その事実を秘匿し、伏せ字や空欄の使用も認めなかったため、ほとんどの日本人は検閲済みの情報に接していたと言う自覚を持てなかった。この検閲は、「占領政策に不利な情報の流布を防止する」に止まらず、さらに自分たちの都合の良い情報を流し、史実の書き換えまでも行う、謀略工作に近いものだった。これに加担したマスコミの問題点を次のように指摘している。
 「巧妙な飴と鞭に、マスコミはアメリカの共犯者になっていったという。今日でもその影響は大きく、今だに私たちは「閉ざされた言語空間」にいると云う。「新聞は、連合国最高司令官という外国権力の代表者の完全な管理下に置かれ、その「政策ないしは意見」、要するに彼の代表する価値の代弁者に変質させられた。検閲が、新聞以下の言論機関を対象とする忠誠審査のシステムでtることはいうまでもない。かくのごときものが、あたえられたという『言論の自由』なるものの実体であった。それは正確に、日本の言論機関に対する転向の強制にほかならなかった」(p175)。


 してみれば、今日のマスコミの原型がここに見られると云うべきだろう。占領軍が去った後でも、自主規制という形で検閲の中身が残った。江藤氏は、占領軍が検閲の存在を秘匿していたため、検閲者と非検閲者の間で共犯意識が芽生え、自主検閲に向かいやすかったのではないかと云う。

 なお、もう一つの組織民間情報教育局(CI&E)によって行われた「ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム(戦争についての罪悪感を日本人の心に植えつけるための宣伝計画)」が稼働していた。その目的はSCAPの命令書によれば、「各層の日本人に、彼らの敗北と戦争に関する罪、現在および将来の日本の苦難と窮乏に対する軍国主義者の責任、連合国の軍事占領の理由と目的を、周知せしめること」とある。この目的を遂行すべく、日本軍の残虐行為が強調された『太平洋戦争史』の新聞連載をCI&Eが企画し、後にこれが学校での歴史教育の教科書となる。またラジオでも『真実はこうだ』という同様の主旨の番組が放送された。さらに、極東軍事裁判で最終論告と最終弁論を目前に控え、東條への共鳴や、広島への原爆投下についての非難の気運を危惧して、CI&Eはこのプログラムの強化を打ち出している。次のように目論まれている
b.一般的方法

一、超国家主義に対する解毒剤としての政治的情報・教育の強化。(現在までに大規模に実施され、現に実施されつつあるが、さらに一層強化された「プログラム」を展開中であり、承認をまっている。)
二、超国家主義運動の復活を示す、あらゆる具体的な動きを暴露し、細大もらさず報道すること。そして、そのことによってそれらの動きを支える謝った思想を指摘し、その不可避な結果を明らかにすること。
三、影響力のある編集者、労働界、教育界および政界等々の指導者とつねに連絡を密にすること。その際、全体主義国家に対する自由主義国家の長所を強調すること。
四、進歩的、自由主義的グループの組織発展を奨励すること。

 占領軍が去った後も、このプログラムが継続された。この目論見は成功し、日本ではいわゆる「自虐史観」が定着した。歴史考証抜きの「日本のアジア侵略論」が過度に強調され始めた。その延長線上に「南京大虐殺」、「従軍慰安婦」問題が喧争されるようになった。
 こうして、日本人の弱体化を使命とするGHQの占領統治時代、日本の表現空間、言語空間は徹底的に検閲が施され、戦前の大東亜戦争イデオロギーを一掃した。これにより、米国は日本国民の目を大東亜戦争の真相から覆い隠すことに成功した。大東亜共栄圏構想は妄想とされ、戦争贖罪(しょくざい)史観(WGIP)が植え付けられた。当初、かなりの抵抗があったようだが、苛烈な検閲や報道規制が敷かれ、占領軍の目にかなったことしか、表現ができなくなっていた。戦争も社会構造も、アメリカが正義であり、本来的な日本は悪であるという基本認識を日本人に植え付けることによって、日本人が再びアメリカに刃向かわないことと、戦後民主主義を受け入れてアメリカの眼鏡にかなう国家体制作りを進める方向性がもたらされた。アメリカ正義論が罷り通り、これを逸脱するあらゆる言論表現は徹底的に封じ込められた。これが占領撤退後も継承され、教育現場のみならず国政の性格まで規定されることになった。当時の検閲目的として、表面上は治安維持となっていたが、実際は日本人の内的意識における統治パラダイムを、伝統文化から切り離し、アメリカ式の民主主義体制に無理矢理鋳造し直すことにあった。戦後は、このようにスタートした。この戦後のいびつな言論空間が踏襲され、それは現在も続く。

 「閉ざされた言語空間」とは、わかりやすく言えば、言語表現上の強いタブーのことである。それは根幹にアメリカの正義を疑うことへの強い禁忌がある。この禁忌が戦争史観のみならず、政治家や官僚の基層的精神に拡張され今に至っている。この誤った基本を忠実に監視し、見守っているのが、現代マスコミである。そのために本物の愛国的知識人は日の目を見られないようになっている。

 CCDの出した「日本新聞遵則(日本出版法・Press Code for Japan)」は、次の十箇条から成り立っている。

第一条 報道は現に真実に則するを旨とすべし。
第二条 直接又は間接に公安を害するが如きものは之を掲載すべからず。
第三条 聯合国に関し虚偽的又破壊的批評を加ふべからず。
第四条 聯合国進駐軍に関し破壊的批評を為し又は軍に対し不信又は憤慨を将来するが如き記事は一切之を掲載すべからず。
第五条 聯合国軍の動向に関し、公式に記事解禁とならざる限り之を掲載し又は論すべからず。
第六条 報道は事実に即して之を掲載し、何等筆者の意見を加ふべからず。
第七条 報道記事は宣伝の目的を以て之に色彩を施すべからず。
第八条 宣伝を強化拡大せんが為に報道記事の些末事項を過当に強調すべからず。
第九条 報道記事は関係事項又は細目の省略に依って之を歪曲すべからず。
第十条 新聞の編輯に当り、何等かの宣伝方針を確立し、若しくは発展せしめんが為の目的を以て記事を不当に顕著ならしむべからず。

 これはかなり強引な十箇条で、米極東陸軍総司令部の内部資料においてさえ、次のように指摘されている。連合国軍隊の動向を報道することを禁じた第五条を除いて、禁止したいどんな記事についてもどんな理由でもつけることができ、かつそれを実際禁止できる合財袋のような十箇条から出来上がっていることが明らかである。

 占領軍による検閲が始まるとまもなく、日本政府による検閲を廃止する指令が出された。この措置によって、日本では、アメリカに都合の悪いことは一切書くことができず、日本政府に都合の悪いことはいくらでも自由に書けることになった。「アメリカに都合の悪いこと」とはどのようなことかが、検閲現場の指針を見るとよくわかる。

 削除または掲載発行禁止対象となるもの
1、SCAP−連合国最高司令官(司令部)に対する批判
2、極東軍事裁判批判
3、SCAPが憲法を起草したことに対する批判
4、検閲制度への言及
5、合衆国に対する批判
6、ロシアに対する批判
7、英国に対する批判
8、朝鮮人に対する批判
9、中国に対する批判
10、他の連合国に対する批判
11、連合国一般に対する批判
12、満州における日本人取扱についての批判
13、連合国の戦前の政策に対する批判
14、第三次世界大戦への言及
15、ソ連対西側諸国の「冷戦」に関する言及
16、戦争擁護の宣伝
17、神国日本の宣伝
18、軍国主義の宣伝
19、ナショナリズムの宣伝
20、大東亜共栄圏の宣伝
21、その他の宣伝
22、戦争犯罪人の正当化および擁護
23、占領軍兵士と日本女性との交渉
24、闇市の状況
25、占領軍軍隊に対する批判
26、飢餓の誇張
27、暴力と不穏行動の煽動
28、虚偽の報道
29、SCAPまたは地方軍政部に対する不適切な言及
30、解禁されていない報道の公表
 「ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム」その他を参照する。

 ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム(“War Guilt Information Program”、略称“WGIP”、ウォー・ギルト・インフォーメーション・プログラム[1]又はウォー・ギルト・プログラム或はウォー・ギルト・インフォメーション、戦争についての罪悪感を日本人の心に植えつけるための宣伝計画)とは、大東亜戦争太平洋戦争)後に連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP、以下GHQと略記)による日本占領管理政策として行われた政治宣伝

 昭和23年(1948年)2月6日付、「ウォー・ギルト・インフォーメーション・プログラム」との表題の文書がCI&E(民間情報教育局)からG-2(CIS・参謀第2部民間諜報局)宛てに発せられた。冒頭に「CIS局長と、CI&E局長、およびその代理者間の最近の会談にもとづき、民間情報教育局は、ここに同局が、日本人の心に国家の罪とその淵源に関する自覚を植えつける目的で、開始しかつこれまでに影響を及ぼして来た民間情報活動の概要を提出するものである。」とある。

 ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラムについて江藤淳は、その嚆矢である太平洋戰爭史という宣伝文書を「日本の「軍国主義者」と「国民」とを対立させようという意図が潜められ、この対立を仮構することによって、実際には日本と連合国、特に日本と米国とのあいだの戦いであった大戦を、現実には存在しなかった「軍国主義者」と「国民」とのあいだの戦いにすり替えようとする底意が秘められている」と分析[3]。また、「もしこの架空の対立の図式を、現実と錯覚し、あるいは何らかの理由で錯覚したふりをする日本人が出現すれば、CI&Eの「ウォー・ギルト・インフォーメーション・プログラム」は、一応所期の目的を達成したといってよい。つまり、そのとき、日本における伝統秩序破壊のための、永久革命の図式が成立する。以後日本人が大戦のために傾注した夥しいエネルギーは、二度と再び米国に向けられることなく、もっぱら「軍国主義者」と旧秩序の破壊に向けられるにちがいない」とも指摘してい

 また、「「軍国主義者」と「国民」の対立という架空の図式を導入することによって、「国民」に対する「罪」を犯したのも、「現在および将来の日本の苦難と窮乏」も、すべて「軍国主義者」の責任であって、米国には何らの責任もないという論理が成立可能になる。大都市の無差別爆撃も、広島長崎への原爆投下も、「軍国主義者」が悪かったから起った災厄であって、実際に爆弾を落した米国人には少しも悪いところはない、ということになるのである」としている。

 “WGIP”を主に担当したのはGHQの民間情報教育局 (CIE) で、“WGIP”の内容はすべてCIEの機能に含まれている[4][5]。当初はCIEに“War Guilt & Anti-Millitarist”(これまで「戦犯・反軍国主義」と訳されてきた)[6][7]、あるいは“War Guilt & Criminal”[8]という名称の下部組織(後に「課」)が置かれていた(1945年11月の組織改編で消滅)。

 “WGIP”は「何を伝えさせるか」という積極的な政策であり、検閲などのような「何を伝えさせないか」という消極的な政策と表裏一体の関係であり、後者の例としてプレスコードが代表的である。昭和21年(1946年)11月末にすでに「削除または掲載発行禁止の対象となるもの」として「SCAP-連合国最高司令官(司令部)に対する批判」など30項目に及ぶ検閲指針がまとめられていたことが、米国立公文書館分室所在の資料によって明らかである[9]プランゲ文庫保存のタイプコピーには、多少の違いがあるが同様の検閲指針として具体的内容が挙げられている。詳細はプレスコードを参照のこと。

 昭和20年(1945年)9月22日の降伏後ニ於ケル米国ノ初期ノ対日方針で米国はマッカーサーに対し「日本国国民ニ対シテハ其ノ現在及将来ノ苦境招来ニ関シ陸海軍指導者及其ノ協力者ガ為シタル役割ヲ徹底的ニ知ラシムル為一切ノ努力ガ為サルベシ」[10]と指令した。

 GHQは同10月2日、一般命令第四号に於いて「各層の日本人に、彼らの敗北と戦争に関する罪、現在および将来の日本の苦難と窮乏に対する軍国主義者の責任、連合国の軍事占領の理由と目的を、周知徹底せしめること」と勧告した[11]

 米国政府は連合国軍最高司令官に対し11月3日、日本占領及び管理のための降伏後における初期の基本的指令を発し「貴官は、適当な方法をもって、日本人民の全階層に対しその敗北の事実を明瞭にしなければならない。彼らの苦痛と敗北は、日本の不法にして無責任な侵略行為によってもたらされたものであるということ、また日本人の生活と諸制度から軍国主義が除去されたとき初めて日本は国際社会へ参加することが許されるものであるということを彼らに対して認識させなければならない。彼らが他国民の権利と日本の国際義務を尊重する非軍国主義的で民主主義的な日本を発展させるものと期待されているということを彼らに知らせなければならない。貴官は、日本の軍事占領は、連合国の利益のため行われるものであり、日本の侵略能力と戦力を破壊するため、また日本に禍をもたらした軍国主義と軍国主義的諸制度を除去するために必要なものであるということを明瞭にしてやらなければならない。(下略)」と命令した。[12]

 同12月8日、GHQは新聞社に対し用紙を特配し、日本軍の残虐行為を強調した「太平洋戰爭史」を連載させた。その前書は次の文言で始まる。「日本の軍国主義者が国民に対して犯した罪は枚挙に遑(いとま)がないほどであるが、そのうち幾分かは既に公表されてゐるものの、その多くは未だ白日の下に曝されてをらず、時のたつに従つて次々に動かすことの出来ぬ明瞭な資料によつて発表されて行くことにならう。(下略)」[13][14][15]

 それと平行し、GHQは翌9日からNHKのラジオを利用して「眞相はかうだ」の放送を開始した。番組はその後、「眞相箱」等へ名称や体裁を変えつつ続行された。昭和23年(1948年)以降番組は民間情報教育局 (CIE) の指示によりキャンペーンを行うインフォメーション・アワーへと変った。[16]

 昭和20年(1945年)12月15日、GHQは神道指令を発すると共に、以後検閲によって大東亜戦争という文言を強制的に全て太平洋戦争へと書換えさせ言論を統制した。

 昭和20年当時、米軍検閲官が開封した私信(江藤は「戦地にいる肉親への郵便」かという)は次のような文言で埋めつくされていた。

  • 「突然のことなので驚いております。政府がいくら最悪の事態になったといっても、聖戦完遂を誓った以上は犬死はしたくありません。敵は人道主義、国際主義などと唱えていますが、日本人に対してしたあの所業はどうでしょうか。数知れぬ戦争犠牲者のことを思ってほしいと思います。憎しみを感じないわけにはいきません」(8月16日付)
  • 「大東亜戦争がみじめな結末を迎えたのは御承知の通りです。通学の途中にも、他の場所でも、あの憎い米兵の姿を見かけなければならなくなりました。今日の午後には、米兵が何人か学校の近くの床屋にはいっていました。/米兵は学校にもやって来て、教室を見まわって行きました。何ていやな奴等でしょう! ぼくたち子供ですら、怒りを感じます。戦死した兵隊さんがこの光景を見たら、どんな気持がするでしょうか」(9月29日付)

 江藤は、「ここで注目すべきは、当時の日本人が戦争と敗戦の悲惨さをもたらしたのが、自らの「邪悪」さとは考えていなかったという事実である。/「数知れぬ戦争犠牲者は、日本の「邪悪」さの故に生れたのではなく、「敵」、つまり米軍の殺戮と破壊の結果生れたのである。「憎しみ」を感ずべき相手は日本政府や日本軍であるよりは、先ずもって当の殺戮者、破壊者でなくてはならない。当時の日本人は、ごく順当にこう考えていた。」と指摘した[17]

 GHQ文書(月報)には敗戦直後の様子が記されていた。「占領軍が東京入したとき、日本人の間に戦争贖罪意識は全くといっていいほど存在しなかった。(略)日本の敗北は単に産業と科学の劣性と原爆のゆえであるという信念が行きわたっていた」[18]

 こうした日本人の国民感情はその後もしばらく続き、CIEの文書はG-2(CIS)隷下の民間検閲支隊 (CCD) の情報によれば昭和23年になっても「依然として日本人の心に、占領者の望むようなかたちで「ウォー・ギルト」が定着してなかった」有力な証拠であると江藤は指摘する[19]。 また、このプログラムが以後正確に東京裁判などの節目々々の時期に合わせて展開していった事実は看過できないとも指摘する[15]

 東京裁判で東條英機による陳述があったその2箇月後、民間情報教育局 (CIE) は世論の動向に関して次のような分析を行っている。「一部日本人の中には(中略)東條は確信を持つて主張した、彼の勇気を日本国民は称賛すべきだとする感情が高まつてゐる。これは、東條を処刑する段になると東條の殉教といふところまで拡大する恐れがある。」「広島における原子爆弾の使用を『残虐行為』と見做す・・・最近の傾向」[14](昭和23年(1948年)3月3日附CIE局長宛覚書) こうした国民の機運の醸成に対しCIE局長は6月19日、民間諜報局 (CIS) の同意を得た上で、プログラムに第三段階を加える手筈を整え、情報宣伝に於ける対抗処置を取った。[20]

 実例 [編集]

  • 昭和20年(1945年)12月8日から、「太平洋戦争史」を全国の新聞に掲載させた。[15]
    • 「太平洋戦争史」は新聞連載終了後、中屋健弌訳で翌年高山書院から刊行された(発行日は4月5日と6月10日の2回)。
  • 昭和20年(1945年)12月15日 - GHQ、覚書「国家神道、神社神道ニ対スル政府ノ保証、支援、保全、監督並ニ弘布ニ関スル件」(いわゆる「神道指令」)[21]によって、公文書で「大東亜戦争」という用語の使用を禁止。
  • 昭和20年(1945年)12月31日 - GHQ、覚書「修身、日本歴史及ビ地理停止ニ関スル件」[22]によって、修身・国史・地理の授業停止と教科書の回収、教科書の改訂を指令。
    • 昭和21年(1946年)1月11日 - 文部省、修身・日本歴史・地理停止に関するGHQ指令について通達[23]
    • 昭和21年(1946年)2月12日 - 文部省、修身・国史・地理教科書の回収について通達[23]
    • 昭和21年(1946年)4月9日 - 文部省、国史教科書の代用教材として『太平洋戦争史』を購入、利用するよう通達[24][25]
  • 昭和20年(1945年)12月9日から、『眞相はかうだ』をラジオで放送させた。
    • 『眞相はかうだ』は番組名を変えながら、昭和23年(1948年)1月まで続けられた。[15][16]
  • 極東国際軍事裁判[15]
  • 昭和24年(1949年)2月、長崎の鐘にマニラの悲劇を特別附録として挿入させる。

 論評など [編集]

産経新聞』は次のように論じている。

占領期に連合国軍総司令部 (GHQ) が実施した「戦争についての罪悪感を日本人の心に植えつけるための宣伝計画」(ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム)は、今も形を変えて教育現場に生き続けている。~(中略)~文芸評論家の江藤淳は著書『閉された言語空間』の中で次のように書いている。 ~「いったんこの(GHQの)検閲と宣伝計画の構造が、日本の言論機関と教育体制に定着され、維持されるようになれば、(中略)日本人のアイデンティティと歴史への信頼は、いつまでも内部崩壊を続け、また同時にいつ何時でも国際的検閲の脅威に曝され得る」~ 6年前に自死した江藤の「予言」は、不幸にも現実のものとなろうとしている[26]

 高橋史朗明星大教授は、「東京裁判が倫理的に正当であることを示すとともに、侵略戦争を行った日本国民の責任を明確にし戦争贖罪意識を植えつけることであり、いわば日本人への『マインドコントロール計画』だった」と論じている[27]。一方、有山輝雄は『閉された言語空間』の新刊紹介で、第一次資料によって占領軍の検閲を明らかにした先駆的研究であるとしながらも「著者の主張に結びつけるための強引な資料解釈も随所に見受けられる。また、占領軍の検閲に様々な悪の根源を押しつける悪玉善玉史観になっているが、これは現在の政治状況・思想状況への著者の戦術なのであろう」と評した[28]

 鈴木正人埼玉県議会議員は、「我が国は、さきの大戦による敗北以来、先ほども触れさせていただきましたが、占領軍のある種の国民洗脳教育であり、戦争への罪悪感を日本人の心に植えつけさせるための宣伝計画、ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラムが見事なまでに成功し、日本は当時の戦勝国に二度と刃向かうことのないように、国柄や歴史伝統文化のほとんどを否定する宣伝教育によって徹底したしょく罪意識を持たされてしまった結果、日本国民は国の防衛安全保障について深く考えないようになってしまいました」と定例会で発言している[29]

 シカゴ・サン紙の特派員だったマーク・ゲインは、「眞相はかうだ」のリハーサルをNHKのスタジオで見学した際、ラジオ放送や新聞の続き物について「私が困惑するのは、その政治性である」と批判した[30]

 山本武利早稲田大学教授は江藤淳の占領研究について、占領軍の検閲方針を示した第一次資料をGHQ関係資料によって検証した先駆的な仕事であると評価した[31]

 日本基督教団手束正昭牧師は、2007年 - 2009年のキリスト教系月刊誌『ハーザー』の連載記事で、大東亜戦争における日本悪玉論はウォー・ギルト・インフォメーション・プログラムの洗脳によるものであるとの見解を発表し、日本悪玉論が日本の宣教を妨げると主張している。

 日本は、占領軍GHQに、どう洗脳されたか?
 WGIP(War Guilt Information Program)を検証する。
 http://nishimura.trycomp.net/works/010-1.html

 GHQの郵便検閲を振り返って 横山陽子さんに聞く
 http://nishimura.trycomp.net/works/010-2.html






(私論.私見)