頭も手足も腐敗<本澤二郎の「日本の風景」(4487)
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2022年06月27日 jlj0011のblog
2022年6月27日記
(東芝製品・サントリー・トヨタ不買運動の会代表・反骨の政治評論家・日本記者クラブ会員)
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<元町長・渡邉修男が見た腐りきった地方自治=程遠い民主主義> |
安倍晋三の腐敗はただ事ではない。頭が腐った日本の地方自治もひどい。元町長の渡邉修男さんの体験記を、安倍追及に人生をかけている市民活動家の仲村さんが、自宅に郵送してきた。彼は以前、旧動燃のもんじゅ西村謀殺事件関連資料を自宅に届けてくれ、その結果として日本最大の闇組織「原子力ムラ」の存在を暴くことに成功した。
記録映画「チェルノブイリハート」をYoutubeで見れば、政府・原子力ムラが蓋をして、やり過ごしているフクシマ東電放射能問題を暴露できるだろう。渡邉元町長体験記を目にすると、地方自治の腐敗もひどい。54基もの原子力発電所にも圧倒されるが、札びらで自由自在に設置されてきた原発現場だけでなく、それ以外のすべての地方自治においても、市民のための首長もいなければ、地方議員も存在しない!
わが故郷の房総半島も、フクシマの放射能汚染物を不法投棄されていても、その結果、将来は水も飲めない、農耕も出来なくなるという、人間が生きられないことが100%想定されるというのに、千葉県も袖ヶ浦市も警察も議会・議員もソッポを向いている。渡邉さんは理解できるだろう。
埼玉県騎西町を初めて知った。ここで2年半、渡邉さんは町長を務めた。4年は続かなかった。細かい事実関係は、理解できないが、要は役場や議会に巣食う腐敗人に対する心遣いがなかった、そのために引きずり降ろされた。改革の旗がアダとなってしまった。
地方での生々しい生きた教訓から「安倍の逮捕はない」と認識しているという。案の定、期待した林真琴検事総長も成果を出すどころか、安倍同様逃げ回って辞めてしまった。新任の甲斐という人物も同じことになろう。鍵を主権者が握っている。日本の民主主義は、いまだ確立していない。腐っているのである。
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<1993年12月に埼玉県騎西町の政争を記録=犬の遠吠え?> |
埼玉県は首都圏に属する。田舎町とはいえ、情報が途絶えている場所ではない。役所の職員もいれば、町民を代表する議員もいる。体制は立派な民主の地方自治だ。
公務員は公僕・全体の奉仕者だが、現実は違う。親分子分のような腐った組織が存在しているのだろう。それは議会もしかりだ。1期目の首長は、それらとの肩たたきに終始する。渡邉町長はそれを排除した。それが正義の町政と認識していたのだが、悪は行動を起こした。そしてその罠にはまってしまった。
これこそが、日本の地方自治なのだ。役所は民主・公僕の観念などないに等しいのである。ないものねだりの町長は、内部からの偽りの証拠で自爆する。それにぶら下がる新聞記者だった。 |
<国政が乱れると列島全体が腐る=拙著「房総半島の闇」を連想> |
筆者は以前、行政ものを取材したことがある。「霞が関の犯罪」(リベルタ出版)は厚労省役人の不正を暴いたものだが、途中で右翼が登場してブレーキをかけてきた。官僚と右翼暴力団の人脈の存在に驚かされた。もう一つは「房総半島の闇」(データハウス)だ。
ここにきて役所のデータ改ざんが厚労省から、国交省でも発生していたことが判明した。官僚が腐ると、政治はそれ以前からだ。特に安倍・清和会の腐敗は、途方もないものばかりだ。
中央が腐ると、地方は待ってましたとばかり、何もしなくなる。利権に首を突っ込む。議員も役人も利権アサリに走る。国が破れてきている証拠で、隣国を笑える状態ではない。 |
(私論.私見) |
ここまでの論調は良い。 |
<「地鎮祭」の文字も飛び出す神道国家主義文化の日本象徴> |
渡邉本を読んでいて、驚いたことは原始宗教行事のはずである「地鎮祭」という言葉が見つかった。太古の迷信に相当すると信じられている神社神道の行事を、公的機関が現在も行っているのである。 |
(私論.私見) |
本澤二郎氏の社会、歴史、宗教認識が戦後のGHQテキスト通リのものであることに驚かされる。本澤氏は、地方自治が「原始宗教行事のはずである地鎮祭」を行っている事に「驚いた」ようだが、私は、地鎮祭を「太古の迷信に相当すると信じられている神社神道の行事」即ち原始宗教行事として排斥せんとする本澤氏の日本神道論にこそ驚く。公的機関であろうが民間のものであろうが、危険が背中合わせにある工事の安寧と、工事される対象物の完成とその後の役目の安寧を願ってどこが悪かろう。各国各民族はそれぞれがそれぞれのやり方でやっており、それを無用とする感覚の方がオカシかろう。 |
日本を崩壊させた元凶は、ヒロヒトだけではない。日本人の心と精神を羽交い絞めにした国家神道の罪は、万死に値する。300万人の若者の命を奪った罪が、消えることはない。それが現在も、となると、中央も地方も原始のしがらみのなかで、蠢いていることになり、現代人は反吐が出る。 |
(私論.私見) |
本澤氏は、「日本人の心と精神を羽交い絞めにした国家神道の罪」と言いなしている。この論調によれば、明治維新以降に確立された近代的天皇制とそれ以前に形成されていた歴史的天皇制との識別ができておらず、国家神道そのものを断罪していることになる。要するに宗教否定論であるが、そういう政治思想はGHQテキスト通リのものであり、それにかなり被れていることが分かる。 |
安倍・田布施のしきたりが、今も地方で生きていることに驚愕するばかりだ。この世にいい宗教が存在するのであろうか。個々人が決めることであって、公的な組織・機関では許されない。日本国憲法の政教分離の立場であろう。 |
(私論.私見) |
本澤氏は唐突に「安倍・田布施のしきたり云々」と述べている。本澤氏の「安倍・田布施のしきたり」論をもっと確認したいところである。今一般に論ぜられている「安倍・田布施のしきたり」論はGHQテキストに親和的なものだが、本澤氏のそれは、見て来たように本澤氏自身がGHQテキストと親和的なのに、同類の「安倍・田布施のしきたり」については排斥しようとしている。論旨がやや不一致ではなかろうか。「この世にいい宗教が存在するのであろうか」と問うている。この問いは「この世にいい宗教はない」の確信を含意させている。その上で、「個々人が決めることであって、公的な組織・機関では許されない」と云う。ちょっと待て、この世にいい宗教が存在しないと云うのであれば、個人と公的な機関の間に隔壁を設ける必要はなかろう。本澤氏は「日本国憲法の政教分離の立場であろう」と云いなして正当化している。私が思うに、本澤氏の政教分離論は政教分離の政治的意味に対する満展開論であり、本来の政治的災禍を招く恐れのある政教一致の禁止を旨とする政教分離論とはかなり隔絶していると思う。もっとも、本澤氏的受け取りが通説ではあるが。 |
憲法を敵視する今の自民党と公明党・維新などが先行する目下の参院選挙であることを考えると、日本の前途は悔しいが明るくない。渡邉本が犬の遠吠えに終わらないことを祈りたい。 |