戦後憲法の制定過程について(ニ)GHQ案の検証

 (最新見直し2013.1.6日)

 関連サイト戦後政治史検証

 (れんだいこのショートメッセージ)
 戦後憲法をして、「法学的素養もないケーディスが1週間足らずで書き上げたもの」という説は本当だろうか。れんだいこは、ケーディスがマッカーサーになろうとも、そういう通説は受け入れ難い。なぜなら、戦後憲法の構成と各条文を読めば、かなり高度な出来映えを見せているからである。こんなものが一朝一夕にできる訳がなかろう。

 となると、考えられることは、殆ど出来上がっていた草案が在り、それを大急ぎで最終的な詰めの検討し、その期間が「僅か1週間であった」とみなすべきではなかろうか。それを「1週間足らずで書き上げた」と受け取るのは、余りにも推理不足ではなかろうか。且つ、「殆ど出来上がっていた草案」は誰ないしはどういうグループによって作成されていたのだろうか、関心が止まない。そんなこんなを検証してみたい。

 2006.9.22日 れんだいこ拝

戦後憲法「押し付け論」の検証@、前置き れんだいこ 2003/12/06
 れんだいこは、小泉のやること為す事逐一気に食わない。こういう極悪首相が世論調査で高支持率を得ている風潮が情けない。案外と、マスコミの執拗なプロパガンダにより意図的に作りだされているものでしかないのではないのか、国民は既に辟易、反吐感情に陥っていると見るのが真相ではないのか、と思うのだが。一体、新聞社の世論調査の仕組みは本当に適正なのか、その仕組みをきちんと説明してみたまえ、信に足りるものかどうか「説明責任」を果たせ、案外とエエカゲンなものなのではなかろうか、という疑念が消えない。

 2003年現在、小泉政権の下で「憲法改正」が政治日程化しつつある。彼らの論拠は、概要「戦後憲法は米国を盟主とする占領軍により『押し付けられたもの』であるから日本人自身の手になる『自主憲法』を制定し直さねばならない」、「戦後憲法は、欧米流個人主義的自由主義に道を開くことにより、日本民族固有の統一と団結精神を解体し、アイデンティティを喪失せしめるところに眼目がある。この非を早急に是正せねばならない」と云うところにあるようである。

 専ら中曽根派がこういう史観を弄び、これを政治使命として今日まで推進係りを務め、今や結実しつつある。本サイトは、この論及びその流れの是非を検証して見たい。れんだいこには、自主憲法派のこの論に近時の政治おぼこ連中が安易に丸め込まれているように見え、それは愚挙であることを論証して見たい。

 一番肝心なところをここに書き付けておく。自主憲法制定派は、「日本民族固有の統一と団結精神を復古させ、アイデンティティを回復せしめる」運動として憲法改正を政治日程化しつつあるが、当の中曽根―小泉系譜の自主憲法制定派が誰よりも、現代史を牛耳る米英「ユ」連合派の提灯太鼓持ちつまりエージェントになり下がっている史実を如何にせん。おかしいではないか。愛国者ぶっているが、連中こそ率先した売国派ではないのか。自主憲法制定運動は、この矛盾の中で進行しつつあるということが確認されねばならない。政治おぼこ連中は、ここでハタと考え込まねばならない。

 自主憲法制定派の真実は、イデオロギーを仮装せしめた利権派ではないのか、という観点からの凝視が欲しい。この粉飾を暴き、1・真の愛民族心、愛国とはどういうものか、2・その際日本国憲法はどう評価されるべきか、3・もしこれが改訂されるならどういう方向でのみ許されるのか、4・自主憲法制定派の改訂が如何にこの基準から逸脱しているのか、5・この落差がどこから発生しているのか等々について論及して見たい。

 「戦後憲法の制定過程について(二)GHQ案の検証」
 daitoasenso/sengodemocracy_kenpo_ghqann.htm

 2003.12.6日 れんだいこ拝


【日本国憲法の成立過程考その1、国内的対応】
 戦後憲法(日本国憲法)は、GHQにより押し付けられた論が普及している。れんだいこは、これを否定しない。問題を正面から引き受けようとしない半身構えの護憲派の一部は、「そうではない。戦前以来の日本人民大衆の闘争成果が反映している論」を微に入り細に入り針小棒大的に主張しているが、「大枠として、GHQにより押し付けられた論」の方が史実に合っている、と思うから。ここで問われるべきは、「押し付け如何」の問題は従であり、GHQに押し付けられたものであろうが、「中味がどうなのか」の精査こそ憲法論の主たる関心事となるべきではなかろうか。

 しかも、従的意義しか持たない「押し付け論」も手放しでは認められない。この過程には、押し付けた側のGHQよりも押し付けられた側の日本政府側の方にも随分問題があった、と認められるからである。このことに付きコメントしてみる。戦後憲法は、史実に照らせば、いきなりGHQにより押し付けられたものではない。制定をせかしたのは史実として、その際の順序として、ひとたびは日本国政府の手に委ね、「内からの創出」を催促した経緯がある。マッカーサーが「回顧録」の中で、概要「降伏後、私はまず日本側指導者に告げたことの一つは、明治憲法を改正してほしいということだった。だが、私はアメリカ製の日本憲法を作って押し付けるという方法は採用しなかった」と述べている通りである。つまり、当初から押し付けようとしたのではなく、「日本人自力の草案づくりに配慮していた」ということになる。

 この経過は「戦後憲法の制定過程について(一)経過」に記した。これを概略する。GHQの意向を受けて、松本蒸治国務相を憲法専任大臣とする「憲法問題調査会」が設置された。三ヶ月の作業をかけて作成された松本案は、旧憲法を部分的に焼き直ししたものに過ぎず、天皇の統治権の温存はじめ旧態依然たるものでしかなかった。政府系の御用的動きに対して、民間からも自主的に提言が為されていった。しかし、GHQは満足しなかった。政府案のみならず民間案に対しても物足りなかった。

 民政局(GS)ホイットニー局長は、政府改正案に対し、「極めて保守的な性格のものであり、天皇の地位に対して実質的変更を加えてはいません」と批判した上で、概要「憲法改正案が正式に提出される前に指針を与える方が賢明ではなかろうか。我々の受け容れがたい案を彼らが決定してしまって、それを提出するまで待った後、新規巻き直しに再出発するよりも、戦術として優れている」との意見をマッカーサー総司令官に述べ、GHQ草案作成に着手していくことになった。
(私論.私見) 政府案の頑迷保守性について
 新憲法は世に「押し付け憲法」と云われているが、この経過を見れば、ひとたびは日本政府の手になるものが促され、それがあまりにも頑迷保守的であり役に立たなかった、ということであろう。この観点を確立しておく必要がある。その際の「役に立たなかった」理由は様々な角度から考えられるが。

【日本国憲法の成立過程考その2、GHQ対応】

 マッカーサー元帥は、政府案の愚昧さを確認するや急遽、自前のGHQ草案の着手に乗り出すことになった。とてもではないが使えなかったからであると思われる。

 1946.2.3日、マッカーサー元帥は、民政局ホイットニー局長に指示を与え、急遽民政局メンバー20人の下書き作成により草案が作成され、これが討議されるという経過となった。ケーディス陸軍大佐を委員長とする運営委員会がつくられ、ハッセー中佐、ラウエル中佐を交え、分野ごとの小委員会と合同会議を積み重ねることとした。

 この時マッカーサーは、次のような「三項目の必須条件」を指示していた。

天皇制の取り扱い条項  天皇が国家元首の地位として認められ、皇位の継承は世襲される。但し、天皇の義務と権限は立憲的制約の中に置かれ、国民の意思に応じたものであること。
戦争放棄条項  自衛権も含む戦争の放棄。国家の権利としての戦争行為を放棄する。日本は紛争解決、及び自衛のためでさえも、その手段としての戦争を放棄する。国の安全保障のためには、現在世界に生まれつつある高い理念、理想による。陸・海・空軍は、決して認められない。又、いかなる交戦権も与えられない。
封建制度の廃止  封建制度は廃止される。皇族以外の爵位は現存のものに限り一代以上に及ばない。今日以降、貴族特権は政府もしくは民間機関において何らの権力を持たない。国家予算はイギリスの制度を見習う。

 ゲーンの「ニッポン日記」が次のように記している。

 概要「厳秘のうちに事が進められた。第一ホテルの一室で非公式な会議が開かれ、新憲法の総括的な輪郭が描き出された。その翌日、ホイットニー准将は、部下全部を会議室に召集し、『これはまさに歴史的な機会である。私は今諸君に憲法制定会議の開会を宣言する』と厳かに云った。日本側によって準備された草案の全ては、全く不満足なものでしかなく、総司令官は今や介入する必要があると感じられるに至った。

 かくて我が民政局は、新憲法を起草すべき命を受けることになった。元帥が期待する三原則は、一、日本は戦争を永久に放棄し、軍備を廃し、再軍備しないことを誓う。一、主権は国民に帰属せしめられ、天皇は国家の象徴と叙述されること。一、貴族院制度は廃止され、皇室財産は国家に帰属せしめられることであり、かく指示された」。
(私論.私見) 「マッカーサーの三項目必須条件指示」について
 この「必須条件」の意味は大きい。マッカーサーはこれを、自国米政府にご都合主義的に指示したのか。それも一理あり、この観点からの考察もされねばならない。しかし、れんだいこはそうのみは考えない、歴史的僥倖があったと考える。マッカーサーは当時、トルーマン後の次期大統領の有力候補であった。司令官としての日本における統治の成功を手土産に帰国して、一気に大統領の座に上り詰める腹があった。それを思えば、GHQの占領政策はマッカーサー的日本統治の成功を重視しており、その限りにおいて日本国ないし日本人にとっては誠に有り難い「善政」が敷かれることになった。ここにマッカーサー的統治の本質がある。

 れんだいこは、マッカーサー善政論に立っており、こう捉えない世の諸々の見解と議論する用意がいつでもある。戦後左派運動は、「マッカーサー統治に於ける諸矛盾」を弁証法的に論じていない。それは余りにもおぼこ過ぎる。というか経文批判しており、頭脳が貧困過ぎよう。

 「マッカーサー的善政」はその第一に、第一次世界大戦後にドイツに科した膨大な戦時賠償がナチスの台頭を促したとする教訓から報復的手段に拠らなかったことに認められる。日本国及び人民にとってこれも僥倖であった。第二に、植民地主義的政策に拠らず、日本政府を再建させ、極力日本人自身の手による戦後再建を試みさせたことに認められる。これも、日本国及び人民にとって僥倖であった。第三に、その際の再建の眼目は、歴史的に形成されている日本人勤労大衆の素晴らしい諸能力を認め、その諸能力発揮の基盤形成に資する日本再建計画に着手したことに認められる。

 特に、この第三項が注目に値する。これこそ真に日本国及び人民にとって僥倖であった。マッカーサーは親日的であった。それは単に皇室評価というだけのものではない、日本国の歴史を認め愛していた風がある。且つ、直近の第二次世界大戦で日本軍と闘ったが、その戦闘過程で、日本人民大衆の素晴らしい諸能力を見て取り、「ある種の畏敬」さえ覚えさせていた観がある。マッカーサーにとって、日本人は、白色系以外の人種にしてはじめて見る評価に足りる民族であった。国家形成能力としては中学生並みの頭脳しか持ち合わせていないが、指導の仕方一つで大きな潜在能力を持つ国民であることを察知していた観がある。

 この素晴らしき日本人が何ゆえに国政を誤り、その能力が生かされていないのか、その国民的特性を踏まえその阻害要因を除去することこそマッカーサー施政のもう一つの眼目であった。ここを身て取らねばならない。そういう観点に立つマッカーサーが見た日本は、戦前日本の国家体制はあまりにいびつなものであった。1・天皇制絶対的権力、2・財閥支配、3・軍部支配、4・国民生活全般に網の目の如く覆う統制的制度のしがらみ等々の「行き過ぎ」が問題として映った。これらの支配から脱却させ、欧米式民主主義の移入により日本人民の諸能力を開花させる、それは日本国民の利益に叶う、ひいては米国の日本同盟化の利益に叶う。これがマッカーサーの日本再建計画の眼目的観点であった、ように思われる。

 マッカーサー元帥の「三項目の必須条件指示」の背景には、上述のような観点と論理的帰結があったものと思われる。問うべきは、問われるべきは、このマッカーサー的観点の是非であろう。これを思えば、ここのところの是非を問わず、「手続き論的押し付け論」を声高にするのは方手落ちと云うべきであろう。「手続き論的押し付け論」は従の問題でしかないのではないのか、これがれんだいこ史観である。

 しかも、日本政府自身の新憲法策定を促していた経緯を見るならば、「手続き論的押し付け論」は結果的にそうなったものでしかない。良し悪しはともかく、当時の政府の頭脳があまりにもひどい旧態依然とした旧憲法の焼き直ししか提示出来なかったことに規定されて、マッカーサー憲法が登場してきたのであり、そのマッカーサー憲法の意図するところ「日本人勤労大衆の素晴らしき諸能力の引き出し」にあったとするなら、「手続き論的押し付け論」は形式的にはそうであったとしても、為にする批判でしかない、ということになるのではなかろうか。


 2006.9.22日 れんだいこ拝

 【GHQ草案メンバーについて】
 田中英道氏は、「日本国憲法は共産革命の第一段階として作られた」(2006.11月号正論所収論文)の中で次のように述べている。
 「日本案に満足できなかったマッカーサーが、2.3日にGHQの民政局長ホイットニーを呼び出し憲法草案の作成を命じた。ケーディス大佐、ハッセー中佐、ラウエル中佐らが集まったが、そこには憲法の専門家はいなかったし、1週間という短い期間しか与えられなかった。ホイットニー民政局長にしても、大学時代に法律を学んだが、フィリピンの戦争まで財政の弁護士をやっていた人物であったに過ぎない。しかしその思想はルーズベルトのニューディール政策を支持する民主党左派の『隠れ共産主義者』といってよい。後に反共主義者のウィロビーと対立しており、民政局次長ケーディス大佐もまた弁護士であった人物であるが、やはりニューディーラーで左翼でウィロビーと対立しており、憲法に左翼的路線を導入させることでは一致していた」。

 この論は、これはこれでよろしい。問題は、「隠れ共産主義者の戦後日本再生青写真」の出来不出来にこそあるのではなかろうか。そこを問わなければ、形式批判に過ぎまい。れんだいこは、世界史上突出して稀有な良性憲法をもたらしたと見立てている。田中英道氏が更に思索すべきは、然りか然りでないのかであろう。この分析まで向かわねば半端な有害的役割しか果たすまい。

【ラウエル中佐の働き】
 田中英道氏は、「日本国憲法は共産革命の第一段階として作られた」(2006.11月号正論所収論文)の中で次のように述べている。
 「その中のラウエル中佐は注目すべき人物であった。憲法研究会の鈴木安蔵を知っていたし、日本のことも研究していた。スタンフォード大学やハーバード大学卒業後、カリフォルニアで弁護士をやっていたが、シカゴ大学で日本の政治制度の研究をしていた。この人物こそ、鈴木安蔵の憲法研究会案を英訳させて回読させ、GHQの憲法草案に取り入れたのであった(小西豊治「憲法『押し付け』論の幻」、講談社現代新書、2006年)。鈴木安蔵が共産主義者であり、ノーマンも共産党員であった。ラウエル中佐もその意向を取り入れたから、当然その憲法草案に影響を与えずにはおかないだろう」。
(私論.私見) 鈴木安蔵について
 田中英道氏は、「鈴木安蔵の果たした役割」について言及している。これは値打ち物の指摘である。

【民政局に勤務していた女性職員ベアテ・シロタ証言】
 「★阿修羅♪ > 政治・選挙・NHK186」のrei 氏の2015 年 6 月 12日付投稿「【戦後70年】極秘で起草、徹夜の議論=敗戦が生んだ「革命」憲法」を参照する。
 旧連合国軍総司令部(GHQ)が入っていた第一生命日比谷本社=4月22日、東京都千代田区。「短い期間で連合国軍総司令部(GHQ)において、25人の方々によってつくられたのは間違いない」。首相安倍晋三は3月6日の衆院予算委員会で、現行憲法についてそう指摘した。現人神(あらひとがみ)だった天皇を「国の象徴」に、軍国日本を「平和国家」に変えた日本国憲法。1947年の施行後、一度の改正も行われず国民の間に定着した一方、改憲派が「素人が8日間でつくった」と批判する憲法は、どのように誕生したのか。(敬称略。肩書は当時)

 ◇極秘指令

 46年2月4日、東京都心のGHQ本部。民政局に勤務していた女性職員ベアテ・シロタは約20人の同僚と共に、局長ホイットニーの呼び出しを受けた。「これは極秘だ」と前置きされ、「マッカーサー元帥(連合国軍最高司令官)の命令で新しい日本の憲法草案をつくる」と告げられた。既に日本政府が改憲準備を進めていると知っていたシロタらは驚いた。ジープで東京の図書館を回り、各国の憲法を集めた。条文起草は分担された。シロタは朝から晩まで資料を読み、女性の権利に関する条文を書いた。GHQ草案は、1週間ほどで完成した。2012年に89歳で死去したシロタは、当時22歳。他のスタッフも若く、憲法の専門知識はなかった。憲法改正は不可避と覚悟していた幣原喜重郎内閣は45年、憲法問題調査委員会を設置して準備を始めていた。マッカーサーはなぜ、日本政府の改正作業を待たずに部下に起草を命じたのか。理由の一つは国際情勢だ。極東国際軍事裁判(東京裁判)が46年5月に迫る中、ソ連やオーストラリアが「天皇を訴追せよ」と圧力を強めていた。占領政策遂行に天皇の権威を必要としていたマッカーサーは、日本の民主化を印象付ける憲法案を公表し、圧力をかわそうと考えた。しかし、2月1日付毎日新聞がスクープした憲法問題調査委員会の試案は、「天皇は君主」と明記するなど、明治憲法を踏襲した内容だった。マッカーサーは失望し、GHQが「手本」を示す必要を痛感したとされる。ホイットニーは2月13日、東京・麻布の外相官邸で憲法問題担当相の松本烝治と面会。「日本政府の改正案は受け入れられない」として、GHQ草案に沿って作り直すよう指示した。同席した外相吉田茂は手渡された草案を読み、「革命的」だと感じた。GHQとの修正協議は3月4日に始まった。「3、4時間で終わると思ったが、最初からいろんな議論があった。特に天皇制についての議論が長かった」。通訳として加わっていたシロタは、00年に出席した参院憲法調査会でこう証言した。肉の缶詰をつっつきながらの会議は夜を徹して継続。2日後、日本政府はGHQ草案を基にした憲法改正草案要綱を発表した。

 ◇9条発案者の謎

 日本占領中にマッカーサー元帥が使ったGHQ本部の執務室。幣原喜重郎首相ら当時の日本側要人との会談が行われた。=1995年9月23日、東京・千代田区の第一生命本社。GHQが、草案作成過程で、日本の民間団体「憲法研究会」の案を参考にしたことは有名だ。「統治権ハ国民ヨリ発ス」と国民主権を掲げ、天皇を「国家的儀礼」をつかさどる存在に位置付けた同案は、GHQ草案の原型とも言えるが、「戦争放棄」に関する条項は見当たらない。では、憲法9条は誰の発案だったのか。定説ではマッカーサーだ。毎日が報じた試案に落胆した彼は2日後、GHQ草案の指針となる3原則を部下に提示。それには「自衛を含む戦争の放棄」も含まれていた。一方、マッカーサー自身は後に、9条は首相幣原のアイデアだったと米議会で証言。回想記では幣原の申し出に「腰が抜けるほど驚いた」と述懐している。幣原はこの件に関し沈黙を守ったが、「46年1月24日にマッカーサーと二人きりで話した際に進言した」と、亡くなる少し前に側近に語ったとされる。これに対し、戦争放棄についてマッカーサーに話したものの、「憲法に入れるとは言わなかった」と幣原が語ったとするGHQ側の証言もある。憲法制定過程に詳しい獨協大名誉教授の古関彰一は「幣原が貢献しているとすれば9条1項(戦争放棄)だが、問題になっているのは2項(戦力不保持)で、この条文を入れたのはマッカーサーだ」と分析する。発案者は幣原かマッカーサーか。真相は今も謎のままだ。50年5月、朝鮮戦争が始まる約2カ月前にマッカーサーは衆院議長の幣原と再会した。「憲法制定に当たり、幣原君は一切の戦力を放棄すると言われた。私は50年早過ぎる議論という気がした。しかし、この高まいな理想こそ、世界に範を示すものとして深い敬意を払ったのであるが、やはり早過ぎた」。パイプをくわえ、冗談交じりに話すマッカーサーを見て、幣原はただ苦笑していたという。(2015/05/14)

 「★阿修羅♪ > 憲法3」の skywater 氏の2012 年 11 月 04 日付投稿「殆ど知られていなかった日本国憲法成立の経緯 今、問われる日本人の思慮と覚悟 (地球文明研究会)」を参照する。
  <注釈:昭和天皇が平和憲法9条の原点ー発想者たり得る証拠資料>

 ●〔勅語 昭和21年3月6日〕
 昨5日、内閣総理大臣を宮中に召され、左の勅語を下賜せられたり。『朕さきにポツダム宣言を受諾せるに伴い、日本国政治の最終の形態は、日本国民の自由に表明したる意思により決定せらるべきものなるに顧み、日本国民が正義の自覚によりて、平和の生活を享有し、文化の向上を希求し、進んで戦争を放棄して、誼を万邦に修むるの決意なるを想い、すなわち国民の総意を基調とし、人格の基本的権利を尊重するの主義に則り、憲法に根本的の改正を加え、もって国家再建の礎を定めんことをこい願う。政府当局、それよく朕の意を体し、必ずこの目的を達成せんことを期せよ』。この勅語の下賜は、日本政府とGHQの激論の末、新憲法の『最終草案要綱』が完成した前日にあたる。

 ●〔国運振興の勅語 一部抜粋 昭和21年1月1日〕
 この人間宣言で有名な年頭の詔書には、平和主義に徹すべきことが繰り返し強調されている。『・・・朕はここに誓いを新たにして国運を開かんと欲す。すべからくこの御趣旨に則り、旧来の陋習を去り、民意を暢達し、官民拳げて平和主義に徹し、教養豊かに文化を築き、もって民生の向上を図り、新日本を建設すべし。大小都市の被りたる戦禍、罹災者の艱苦、産業の停頓、食糧の不足、失業者増加の趨勢等はまことに心を痛ましむるものあり。然りといえども、我国民が現在の試練に直面し、かつ徹頭徹尾文明を平和に求むるの決意固く、よくその結束を全うせば、独り我国のみならず全人類の為に、輝かしき前途の展開せらるることを疑わず。それ家を愛する心と国を愛する心とは我国において特に熱烈なるを見る。今や実にこの心を拡充し、人類愛の完成に向かい、献身的努力をいたすべきの秋(=時)なり・・・』。

 新憲法成立の経緯に関しては、日米双方の代表者が自身の回想記や自伝で詳述している。
 ●〔マッカーサー回想記 昭和39年 朝日新聞社〕
 『昭和21年1月24日正午、幣原喜重郎首相はマッカーサーの事務所を訪れて会談した。幣原は「新しい憲法にはいわゆる非戦条項を含めることを提案したく、日本にいかなる軍事機構をも禁ずるようなものにしたい」と語り始めた。「そうすれば、旧軍部は再び権力を握る手段を奪われ、世界は日本が再び戦争を行う意思を決して持たないことを知る。日本は貧乏な国で軍備に金を注ぎ込む余裕はない。残されている資源はすべて、経済を活性化させるのに使うべきだと思う」と述べた。元帥は息も止まるほど驚いた。長年「戦争は諸国間の紛争を解決する手段として時代遅れである」と元帥自身感じていた。6つの戦争に参加し、何百という戦場で戦ってきた元帥は「私の戦争への嫌悪感は原子爆弾の完成で最高潮に達していた」と語ると、今度は幣原が驚く番だった。彼は涙を流しながら、「世界は私達を、非現実的な夢想家としてあざけり笑うでしょうが、百年後には預言者と呼ばれることでしょう」と語った』。

 ●〔幣原喜重郎自伝「外交50年」 昭和26年 読売新聞社〕
 『あの憲法の中に、未来永劫戦争をしないように政治のやり方を変えた。戦争を放棄し、軍備を全廃して、どこまでも民主主義に徹する見えざる力が私の頭を支配した。よくアメリカ人が日本へやってきて、新憲法は、日本人の意思に反して、総司令部から迫られたのではないかと聞かれるが、私に関する限りそうではない。誰からも強いられたものではない』

*以上、憲法前文及び9条に謳われる戦争放棄と平和主義の遵守は、日本国の特異な立場を背景に、その必要性を痛感する日米両代表の奇しき出会いによって実現した、人類の至宝ともいうべき貴重なものであることが推察される。しかしながら、この成立経緯を、当の日本でもいまだに多くの人々が知らないままである。むしろ、これは日本の牙を抜くために押しつけられた現実性の伴わない理想論に過ぎないもので、独立国家にふさわしい憲法に改変しなくてはならないという風潮が拡大しつつある。この一文は、旧来の認識で突き進もうとする昨今の政党政治の指針と、諸外国へも影響し得る国の未来目標を抜本的に見直すための参考資料としてまとめたものである。 以上          

 06. 2012年12月09日 23:23:36 : EGlDjE6FHU
 ヒットラ−の日本観より。

●山崎三郎氏(独協大学教授)の『ユダヤ問題は経済問題である』には、面白い逸話が紹介されている。かつて満州重工業の総裁であった鮎川義介氏が、ドイツを訪れてヒトラーに面会した時のことである。ヒトラーは鮎川氏に対し、次のような意味のことを語ったという。「貴方の国が如何に努めてみても、我がドイツのような工作機械は作れないだろう。しかし、ドイツがどうしても日本にまね出来ないものがある。それは貴方の国の万世一系の皇統である。これはドイツが100年試みても、500年間頑張っても出来ない。大切にせねば駄目ですよ……」。

 これはヒトラーが、日本の天皇を崇敬しているというより、君民一体の理想的な国家形態を伝統的に継承している日本に対して、率直に敬意の気持ちを表わしたものであろう。「君主政治」を完全に近い形で実現している国は、当時では日本だけであった。外国、とくにヨーロッパの王朝の場合、国王はたいてい飾り物的な意味合いが強かった。また国王は往々にして圧政をしき、国民と対立関係にあった。しかし日本の場合、天皇は国民を慈しみ、国民は天皇を敬愛するという、欧米人にとっては甚だうらやましい関係が、ごく自然な形で成り立っていたのである。
※ この「君主政治」と対極をなすものが、主権在民を置く民主主義であるが、ヒトラーは民主主義の欺瞞性を鋭く見抜いて批判していた。

 09. 恵也 2013年2月09日 15:40:28 : cdRlA.6W79UEw : oz0b4IdCxE
>>06 GHQのハ−バ−ド出の将校が即席で作成したはず。

 日本国憲法を即席で、10日くらいで作ったという話はデマだよ。民生局で中心になって活躍したホイットニーは、マッカーサーがオーストラリアに逃げて指揮していた頃から憲法の検討をしていたという話を残してます。白洲次郎氏もそんな話をしてる。だからこそあれだけの統一性を全文で持ってるわけだし、70年近くも変更されないで耐えれたわけだ。俺は憲法9条のおかげで、日本はアメリカの戦争である朝鮮戦争やベトナム戦争アフガン戦争に巻き込まれずに済んだと考えてます。韓国には憲法9条がなかった為に5000人くらい戦死し数万人の負傷者を出し
今も苦しんでる負傷者さえ居られます。それだけ偉大な力を憲法9条は持ってる。

ーーーーー引用開始ーーーーーー
 白州は「週刊新潮」の回想の中で、マッカーサーがオーストラリアの地で日本本土侵攻作戦を開始した時に、すでに新憲法草案は着手されていたと推測していた。白州によれば、新憲法が公布されると、政府はこれを記念して「銀杯一組」を作り、関係者に配ったという。白州がその銀杯をホイットニーに届けた際に、ホイットニーはこの贈り物を喜んだ。そして、「ミスター・シラス、この銀杯をあと幾組もいただきたいんだが・・・」と言いだした。その日、ホイットニーの部屋には、ケーディス以下何人かのスタッフが詰めていたが、彼の言う幾組という数字は、このスタッフの数をはるかに上回っていた。白州はその点を問いただすと、ホイットニーはつい口を滑らせたのである。「ミスター・シラス、あの憲法に関係したスタッフは、ここにいるだけではないんだ。日本に来てはいないが、豪州時代にこの仕事に参加した人間が、まだほかに何人もいるんだよ」
 http://www.yorozubp.com/0408/040818.htm


【日本国憲法の成立過程考その3、GHQ対応の背景にあったもの】
 こうして「マッカーサー・ノート」に則って、GHQ民生局がGHQ草案をつくりあげていくことになった。その背景事情には、翌1946.2.26日に開かれる予定の極東委員会発足前にアメリカ主導で事をまとめておきたいという米国側の腹づもりがあった。この時の中心メンバーであったケーディス大佐は次のように回顧している。
 「当時、対日理事会が発足しそうな周囲の情況から、憲法改正は急がねばなりませんでした。しかし日本側の保守的政治家は、なかなか頭の切り替えが出来ず、私たちは終始、改正を急がせるような刺激を与えねばなりませんでした」。

 つまり、新憲法制定には国際事情が絡んでいた。ソ連を含む対日理事会(ACJ)、極東委員会(FEC)がいずれ憲法改正問題にも関与してくることが明らかな状況にあり、これらの委員会が本格的に活動することになれば、法理論上憲法改正もこの委員会で行われることになる可能性があった。それは、アメリカの対日政策上様々な不都合が予想された。

 極東委員会の第一回会合が2.26日に持たれるという情報が入ってきていた。そうなると、ソ連.オーストラリアの意向が天皇を戦争犯罪人として訴追し、日本の天皇制を廃止するよう要求する構えでもあったので、天皇制を温存して活用する意向を固めつつあったアメリカの対日政策上不都合が予想された。結果的に極東委員会を通じてソ連が影響力を行使してくることが懸念された。

 こうした事情から、「アメリカ本国におきましては極東委員会が発足する前に、新憲法という既成事実を作ってしまいたいと決意を固め」、SWNCCは、マッカーサーに早急に日本国憲法作成の指示をした。この本国の意向とマッカーサーの意欲が合体して米国リードで新憲法が大急ぎで作られることになった。こうしてアメリカ側が先手を打って新憲法作成をアメリカ主導で急ごうとすることになった。

 つまり、新憲法制定の背景には、日本取り込みを廻ってソ連との激しい確執があった、ということになる。このことは、日本人民にとってこれまた僥倖であった。なぜなら、作成される新憲法は、ソ連の進出を根底的に牽制する為にもソ連憲法に比しても遜色ない人民的諸権利が擁護されたものでなければ状況に合致しなくなったからである。こうした観点から、「平和的民主的人権保障的新憲法」の作成が急務となった。

【日本国憲法の成立過程考その4、二週間でGHQ草案作成は本当か。どう解するべきか】
 この仕事は、2.4日から12日まで夜を日についで二週間ですっかりかたづいた。ジョージ.アチソン、ホイットニー、ケーディス、日本側からは内閣法制局長官入江俊郎、佐藤達夫同局部長らが喧喧諤諤しつつ詰めていったと伝えられている。2.12日、マッカーサー司令官の承認を得て確定された。

 この経緯に付き、次のような批判が生まれている。
 「占領軍民政局の21人(憲法の専門家1人もいない)のアメリカ人が、英文でたった1週間でアメリカ、ソ連憲法を適当につぎはぎして作ったものです」。

 中曽根の「憲法改正の歌」は次のように云う。

 1.嗚呼、戦いに打ち敗れ 敵の軍隊進駐す 平和民主の名の下に  占領憲法制定し 祖国の解体図りたり 時は終戦6ヶ月(中略)

 5.この憲法ある限り 無条件降伏続くなり マック憲法守れるは マ元帥の下僕なる・・・・・(略)

 れんだいこのカンテラ時評bP249  投稿者:れんだいこ  投稿日:2015年 3月 8日
 夜に昼に継ぐ戦後憲法制定作業考その1

 戦後憲法論を廻って、改憲派が論拠にしている一つが「GHQにより押し付けられた論」である。これについては別稿で確認する。本稿では、もう一つの「夜に昼に継ぐ僅か一、二週間で戦後憲法が生み出された論」を検証する。これを仮に「15日間作成憲法」と命名する。

 3.6日、安倍首相が、この戦後憲法「15日間作成憲法」観点から衆院予算委員会答弁で次のように述べている。「短い期間で連合国軍総司令部(GHQ)において25人の方々によってつくられたのは間違いない。こういう過程でできたから変えていく、ということについて議論するのは当然のことだ」。

 他にも「新憲法草案作業は憲法の専門家1人もいない占領軍民政局の21人のアメリカ人によりたった1週間で作成された。アメリカ、ソ連憲法を適当につぎはぎして作った代物である」なる説が流布されている。こういう通説は本当だろうか。歴史の検証に耐えられるのだろうか。

 れんだいこは、この通説は精査されていない雑な見方と判じたい。半分本当で半分正しくないと解するのを相当としたい。そもそも通説は、戦後憲法制定作業期間を「僅か1週間とも2週間」としてドラマチックに仕立てているが漫画的過ぎるのではなかろうか。そういう理解は漫画頭脳に相応しい漫画的受け取りに過ぎないのではないのか。

 実際に創り出された戦後憲法の構成、諸規定、その特徴等を見るのに、「僅か一、二週間で一から生み出された」ようなものには到底思えない。実際は、用意周到に練られたグランドデザインとしての原案が既にあり、その最終稿確定検討に要した期間が「僅か1週間とも2週間」ではなかったか。即ち「最後の細部のツメに要した期間」と受け取る。

 ここでこのことを格別に論ずる理由は、この時の原案がよほど用意周到に練られた草案であったことを確認したいからである。戦後憲法論に於いてこのように論ぜられることが少ないが、それは意図的故意にキモの部分を避けているからに過ぎない。

 一説に、アメリカ側よりする戦後日本の人民大衆的取り込み策として、ソ連憲法にも増して優位な民主主義憲法を打ち出す必要があり、この意を挺して日本人を含む知日派の複数メンバーが最高の頭脳を駆使して草案化し原案を作成したとの説がある。こう見なす方がまだしも正確なのではなかろうかと思う。

 但し、れんだいこが窺う真相はもっと凄い。実は、日本の戦後憲法策定に当たっては、どういう経緯によってか分からないが、第二次世界大戦後の歴史事情に鑑みたいわば理想主義派が隙間的に登場し、この連中が戦後憲法の骨格を作成し草案化し、それを当時のGHQ内ニューディラー派の民政局GS(ガバメント.セクション)」が引き受けて戦後憲法作成に指導能力を発揮したと解している。この流れに関わるインテリジェンスが「戦後日本の青写真」を作り、憲法はかくあるべしの理想主義的見地から作成されたように解している。彼らの登場、その策定物としての戦後憲法そのものが歴史の僥倖による賜物であった。

 付言しておけば、戦後憲法は手放しで礼賛できるものではない。当然のことながら戦勝国側の対日支配に有利な戦後日本作りの為の諸規定が仕掛けられている。但しそれだけではないところに素晴らしさがある。日本及び日本人民をこよなく愛し、その歴史を知っていた者による伝統的な縄文社会主義的日本作りのベクトルも働いている。両者の思惑が混交して成文化されているのが戦後憲法であると了解したい。そこには、戦後日本再生に関わる「偉大なる智者の推敲」が働いているように見える。誰がこれを為したのか。恐らくこれは永遠の秘密のヴェールに包まれるのだろうと思われる。そういう知恵が随所に入っているのが戦後憲法である。

 「偉大なる智者の推敲」は、戦勝国側の利益と縄文社会主義のどちらを主にしているか。れんだいこには、前者を従として後者を主としているように思える。してみれば、昨今の改憲の動きとは、従とされた戦勝国側の利益を主とせしめ、縄文社会主義的観点からの規定を排斥する為の策動と思える。

 こう見て取ることにより、改憲派の素性がよく見えてくる。日本を愛するという割には少しオツムの弱い、利にさとい、手前の立身出世に有利となれば日本を売り渡すことに何の逡巡もない連中ばかりであることが分かる。この連中がこぞって原発再稼動派であることも興味深い。原発利権族と改憲族はよほどハーモニーしているのだろう。

 【「夜に昼に次ぐ戦後憲法制定作業」についてその1補足】
 「阿修羅雑談専用23」の兼好法師(2)氏の2007.3.17日付け投稿「現行の日本国憲法は日本人が草案」に次のような興味深い投稿がなされているので転載しておく。

 今まで、日本の現行憲法は、アメリカのGHQが作成して日本に採用させたものだと思っていた。しかしそれは誤りであることを知った。日本の現行憲法の草稿を作成したのは「鈴木安蔵」という民間の日本人であった。

 映画「日本の青空」という鈴木安蔵の半生を描いた日本国憲法誕生の真相に迫る映画が製作されている。制作費が足らず、まだ完成していない模様だ。北朝鮮拉致被害者の映画や硫黄島の戦いの映画や戦艦大和の映画の製作はできるのに、日本国憲法誕生の真相に迫る映画は制作費が集まらないとは。。。

 アメリカのGHQは日本占領後、日本政府に対して、明治憲法に代わる、アメリカが認めることの出来るような、新しい憲法を作成するように指示した。しかし日本政府が提示した憲法草案は明治憲法の焼き直しでしかなかった。

 詳しいことはフォローしてないが、憲法学を学んでいた民間人の「鈴木安蔵」は、現行の日本国憲法の草案を作成し、それをGHQに渡し、ほとんど手直しされることもなく、認められた、というのが真相らしい。鈴木安蔵の憲法草案に「象徴天皇」「国民主権」「基本的人権」の、現行憲法の基礎となる条文が既に含まれていて、文言もほとんど変わっていないらしい。鈴木安蔵は戦時中、治安維持法違反で、刑務所に服役していたようだ。。。

 安部晋三首相を初めとする右派鷹派の改憲論者がよく口にする、改憲の理由は、「現行の日本国憲法は、戦争に負けてアメリカから押し付けられたものであり、日本人の手によって作られたものでない。これでは自国に誇りが持てないから、日本人の手で作った憲法が必要だ」。

 だが、日本国憲法誕生の真相は、日本人の「鈴木安蔵」が草案を作成し、それをGHQが英訳し、ほとんど手直しすることなく、日本政府に渡したのだから、現行の日本国憲法は決してアメリカから押し付けられたものでなく、日本人の手によって作られたもので、上記の改憲論者の改憲の理由は理由になっていない。国民投票法案の選挙でも、憲法改正法案の選挙でも、私は反対票を投じる。


 これは貴重な話しである。れんだいこは、鈴木安蔵がそういう役割をしたのかどうか特定できないが、こよなく日本を愛し、良く知る者が日本国憲法作成に関与していたことは疑いないと思っている。この見地からの考証が更に深められねばならない。

 補足すれば、憲法研究会案が「現行の日本国憲法の草案を作成し、それをGHQに渡し、ほとんど手直しされることもなく、認められた」ほどGHQ草案のモデルとなったにせよ、GHQ草案として出てきたときには、憲法第9条の武装放棄条項が詠われていた。これはさすがの憲法研究会も驚いた。憲法第9条にはそういう値打ちがあるということになる。

 更に、憲法研究会案は一体誰が起草したのかが詮索されねばならない。鈴木安蔵グループだとして、彼らが創案したのか下敷きにしたものがあったのか精査せねばならない。「基本的に国産憲法と言っても良い憲法」と断定するのは早かろう。


 2007.3.17日 れんだいこ拝

 夜に昼に継ぐ戦後憲法制定作業考その2
 2006.11月号月刊誌「正論」の田中英道・東北大学名誉教授「日本国憲法は共産革命の第一段階としてつくられた」は、れんだいこの見立てを補強している。これを引用する。次のように述べている。
 「大東亜戦争開始から終戦までのルーズベルト大統領によってつくられた『日本計画』が最近のアメリカ国立公文書館の新資料で明らかにされた。戦後の日本の憲法もGHQが作成したというより、それ以前のОSSからの方針の結果である、と見た方がいいということが明らかになった。私たち日本人は、大東亜戦争のアメリカ側の責任者がマッカーサーであると考え、その言動に注目しているが、実を云えば、彼を指名したのはルーズベルトであり、彼が組織したОSSの方が、主要な力を持っていたためである。ただ、この組織は戦後後任のトルーマン大統領によって解散されたから、日本人には余り知られていないが、マッカーサーは、ほとんどこの組織の路線を踏んだと思われる」。
 「ワシントンの国立公文書館でОSSの機密文書が再調査されたことにより、この組織がいかに日本に対日情報や戦略を行ってきたかが分かってきた。これらの文書は、その左翼的な傾向が如実で、戦後この組織を受け継いだ、反響組織と云われた名高いCIAとはまるで正反対の組織であった」。
 「加藤氏はОSSが、憲法に於ける『象徴天皇制』を指示したのが、1942年の早い段階でのОSSの『日本計画』文書によってであることを強調しているが、それが軍部との亀裂を生じせしめる日本への謀略から出ていることを批判していない。それが天皇を象徴とするという新しい憲法にまで影響を及ぼしたと指摘しているものの、ОSSが戦後、GHQにまでつながり、憲法全体にまで影響していたことが考察されていないのである」。

 田中教授の指摘の真意を要約すれば、概要「日本国憲法は、マッカーサー憲法ではなく、ОSS憲法と云うべきである」ということになろう。この観点からの研究が為されておらず、そういう意味で「田中教授の指摘」は値打ちがある。

 2006.10.5日 れんだいこ拝

【日本国憲法の成立過程考その5、「マッカーサー草案開陳時の驚き」について】
 1946.2.13日、「GHQ」によって纏められた新憲法草案が政府当局者に開陳されることになった。日本側は憲法問題調査委員会委員長松本国務大臣、吉田茂外務大臣、終戦連絡事務局参与(次長)白州次郎の3名に通訳長谷川元吉、「GHQ」側は民政局ホイットニー局長、同次長ケーディス、ダウェルら4名が一同に会した。「最大のヤマは、---そう、2.13日---吉田外相が住んでいた外務省の官邸での会合でした」とケーディス大佐に回顧されている秘密会談が持たれた。

 お互いの憲法草案を見せ合い議論する場となっていたが、実際には「GHQ」草案が松本.吉田の目の前に置かれ目を通すよう指示された。「日本政府から提出した憲法改正案は、総司令部にとって、受け容れられない。そこで、総司令部でモデル案をつくった。これを渡すから、その案に基づいた日本案を急いで起草してもらいたい。暫く庭を散歩してくるから、その間に案文を読むように」。草案は今日の憲法にある通りの大変革的な内容になっていた。「天皇象徴制」、「戦争廃止.武力使用の放棄」、「一院制議会」と記されており、松本と吉田の二人は目を見合わせて白黒させたと伝えられている。あまりにも急進的な国情に合わぬ未だかってみたことのない条項案が連ねられていたからであった。

 吉田外相は、第一条の「天皇は国のシムボル(Symbol)とする」との案を見て、「これはとんでもないものを寄こしたものだと思った」(「回想十年」)。

 ホイットニー局長は次のように申し渡した。
 概要「マッカーサー元帥はこの程度以下の案はいかなるものも全然考慮に入れない。この草案の精神に反せぬ限りのささいな修正には応ずるであろう」。
 「現在、連合国内では天皇を戦犯とすべきだという意見が大勢を占めている。もし、天皇を存置しようと考えるならば、一刻も早くこの草案を元にした日本側の改正案を立ち上げるべきだ。この草案の諸規定が受け入れられるならば、天皇は安泰になるだろう」。

【日本国憲法の成立過程考その6、「GHQ」草案の新憲法化の動きについて】
 こうした経過を経て、「GHQ」草案が下敷きの新憲法作成が急がれていくことになった。実際には翻訳であったと思われる。この経過で、「GHQ」による「天皇の身柄を人質に取った強制」があったのか、あくまで「日本側の賛同した自発的意思」が伴っていたものなのか今日でも定かではない。はっきりしていることは、新憲法の理想的精神について、幣原首相とマッカーサー元帥との間で白熱共鳴のやり取りが為されている史実があることは確かである。

 但し、第9条の「武装放棄」については、幣原はマッカーサー元帥に、マッカーサー元帥は幣原の発案としてお互いが譲り合っている。「羽室メモ」は、次のように証言している。
 概要「幣原はさらに、世界の信用をなくした日本にとって、二度と戦争は起こさないということをハッキリと世界に声明することが、ただそれだけが敗戦国日本の信用を勝ち得る唯一の堂々の道ではなかろうかというようなことを話して、二人は大いに共鳴した」。

 幣原首相は次のように述べたと伝えられている。
 「中途半端な、役にも立たない軍備を持つよりも、むしろ積極的に軍備を全廃し、戦争を放棄してしまうのが、一番確実な方法だと思う」。
 「旧軍部がいつの日か再び権力を握るような手段を未然に打ち消すことになり、又日本は再び戦争を起こす意思は絶対無いことを世界に納得させるという、ニ重の目的が達せられる」。
(私論.私観) 新憲法の「押し付け」問題について
 戦後憲法を押し付けられたと見るかどうか議論が分かれているが、明治憲法が日本人自らの判断で取捨選択して作成した経過に比べて、新憲法がほとんど「GHQ草案」を下敷きにして翻訳した歴史的経過を思えば「押し付けられた」と受け止めるほうが正確かと思われる。

 とはいえ、予想以上に評判が良く、地下に水が染み入る如く受け入れられていったという経過をどう見るのかという観点抜きにこれを強調することは片手落ちというべきではなかろうか。思えば、明治憲法制定前に様々の試案が作成されており、このたびの新憲法の各条項はこうした系譜から見直すことも可能であろう。とすれば、外形的押し付け論に拘ることは不毛とも考えることができるように思われる。問題は、内在的欲求としてあったものであれ、確かにイギリス−フランス的諸革命の如く人民大衆が血であがなって獲得したものではなく、敗戦という旧支配秩序の崩壊の隙間で外在的にもたらされたということであろう。

 それ故、今日次のような論調が生まれている。中西寛京都大学教授(国際政治)は、2000.9.6日付け読売新聞の「憲法論議へ新提案」で次のように述べている。

 「現行憲法が主権者の意思の発露としては重大な疑念が有ることは否定できない。その内容の多くは、軍事力の放棄も含めて、当時の日本人の多数の意向に従ったものであったと云える部分は確かにある。しかし、憲法典のような根本的な法規についてはその内容のみならず、手続きはやはり重要な意味を持つ。占領という異常な状況下で、自由な議論を経ることなく制定された憲法には出自に疑問があると云わざるを得ない。それ故、より正当な手続きを経た憲法を制定する、ないしは現行憲法を改定するという欲求は自然なものと云えるだろう」。

 その他、右派系論調に次のようなものがある。

 戦後憲法を「占領下の押しつけ憲法」として次のように云う。
 「日本の平和憲法は日本民族骨抜き、二度と立ち上がれぬようにするために占領軍民政局の21人(憲法の専門家1人もいない)のアメリカ人が、英文でたった1週間でアメリカ、ソ連憲法を適当につぎはぎして作ったものです」。
 「占領軍による憲法の押し付けは、当時国際法で厳重に禁じられていましたから、作業は全くの極秘に進められました。そして、『これを受け入れなければ天皇の身体の保障をすることはできない!』と占領下の日本政府に脅迫して押し付けたのです。ですから時の政府は涙をのんで受け入れたのです。その英文憲法の翻訳に当たった白洲氏はその悔しさを『“今ニ見テイロ”ト言ッタ気持チ抑ヘ切レスヒソカニ涙ス』と日記に書き残しています。その後、占領政策の言論統制によりマインドコントロールされた国民は平和憲法と賛美しています」。

 後日、吉田茂がマッカーサー氏と会った時、マッカーサー氏が言った言葉として次のように伝えられている。
 「日本は未だにあの憲法か。あの憲法では15年以内に日本は内部より亡ぶとはアメリカ人の見方である。アメリカに遠慮せず早く改憲したらよろしかろう」。

 この「マッカーサー発言」の真偽は分からない。論の内容以前の問題として史実考証的に見てかなり重要であるから出典を明示すべきだろう。

 この右派調見解の「占領下の押しつけ憲法論」が間違いだと云うのではないが、そういう経緯にせよ与えられた戦後憲法の内実論議をせぬのは為にする批判でしかなかろう。れんだいこはむしろ、マッカーサー憲法の草案の作成者こそ詮索したい。これを独りで為したのか複数で為したのか不明であるが、よほど日本の国情に通じ、日本の未来百年の設計に明るい智者が関与していたのではないか推理している。恐らく、戦前左派運動に関わった者にして国際的視野を持つ者にして、単に外国被れではない愛国愛民族主義者であった稀有な人物が関与しているのではなかろうか。れんだいこには、「占領下の押しつけ憲法論」を云々するよりもはるかに興味深い「歴史の闇の覗き」となっている。

 2006.9.23日再編集 れんだいこ拝




(私論.私見)