◇極秘指令
46年2月4日、東京都心のGHQ本部。民政局に勤務していた女性職員ベアテ・シロタは約20人の同僚と共に、局長ホイットニーの呼び出しを受けた。「これは極秘だ」と前置きされ、「マッカーサー元帥(連合国軍最高司令官)の命令で新しい日本の憲法草案をつくる」と告げられた。既に日本政府が改憲準備を進めていると知っていたシロタらは驚いた。ジープで東京の図書館を回り、各国の憲法を集めた。条文起草は分担された。シロタは朝から晩まで資料を読み、女性の権利に関する条文を書いた。GHQ草案は、1週間ほどで完成した。2012年に89歳で死去したシロタは、当時22歳。他のスタッフも若く、憲法の専門知識はなかった。憲法改正は不可避と覚悟していた幣原喜重郎内閣は45年、憲法問題調査委員会を設置して準備を始めていた。マッカーサーはなぜ、日本政府の改正作業を待たずに部下に起草を命じたのか。理由の一つは国際情勢だ。極東国際軍事裁判(東京裁判)が46年5月に迫る中、ソ連やオーストラリアが「天皇を訴追せよ」と圧力を強めていた。占領政策遂行に天皇の権威を必要としていたマッカーサーは、日本の民主化を印象付ける憲法案を公表し、圧力をかわそうと考えた。しかし、2月1日付毎日新聞がスクープした憲法問題調査委員会の試案は、「天皇は君主」と明記するなど、明治憲法を踏襲した内容だった。マッカーサーは失望し、GHQが「手本」を示す必要を痛感したとされる。ホイットニーは2月13日、東京・麻布の外相官邸で憲法問題担当相の松本烝治と面会。「日本政府の改正案は受け入れられない」として、GHQ草案に沿って作り直すよう指示した。同席した外相吉田茂は手渡された草案を読み、「革命的」だと感じた。GHQとの修正協議は3月4日に始まった。「3、4時間で終わると思ったが、最初からいろんな議論があった。特に天皇制についての議論が長かった」。通訳として加わっていたシロタは、00年に出席した参院憲法調査会でこう証言した。肉の缶詰をつっつきながらの会議は夜を徹して継続。2日後、日本政府はGHQ草案を基にした憲法改正草案要綱を発表した。
◇9条発案者の謎
日本占領中にマッカーサー元帥が使ったGHQ本部の執務室。幣原喜重郎首相ら当時の日本側要人との会談が行われた。=1995年9月23日、東京・千代田区の第一生命本社。GHQが、草案作成過程で、日本の民間団体「憲法研究会」の案を参考にしたことは有名だ。「統治権ハ国民ヨリ発ス」と国民主権を掲げ、天皇を「国家的儀礼」をつかさどる存在に位置付けた同案は、GHQ草案の原型とも言えるが、「戦争放棄」に関する条項は見当たらない。では、憲法9条は誰の発案だったのか。定説ではマッカーサーだ。毎日が報じた試案に落胆した彼は2日後、GHQ草案の指針となる3原則を部下に提示。それには「自衛を含む戦争の放棄」も含まれていた。一方、マッカーサー自身は後に、9条は首相幣原のアイデアだったと米議会で証言。回想記では幣原の申し出に「腰が抜けるほど驚いた」と述懐している。幣原はこの件に関し沈黙を守ったが、「46年1月24日にマッカーサーと二人きりで話した際に進言した」と、亡くなる少し前に側近に語ったとされる。これに対し、戦争放棄についてマッカーサーに話したものの、「憲法に入れるとは言わなかった」と幣原が語ったとするGHQ側の証言もある。憲法制定過程に詳しい獨協大名誉教授の古関彰一は「幣原が貢献しているとすれば9条1項(戦争放棄)だが、問題になっているのは2項(戦力不保持)で、この条文を入れたのはマッカーサーだ」と分析する。発案者は幣原かマッカーサーか。真相は今も謎のままだ。50年5月、朝鮮戦争が始まる約2カ月前にマッカーサーは衆院議長の幣原と再会した。「憲法制定に当たり、幣原君は一切の戦力を放棄すると言われた。私は50年早過ぎる議論という気がした。しかし、この高まいな理想こそ、世界に範を示すものとして深い敬意を払ったのであるが、やはり早過ぎた」。パイプをくわえ、冗談交じりに話すマッカーサーを見て、幣原はただ苦笑していたという。(2015/05/14)