れんだいこの戦後憲法体制賛辞論、護憲の論理考

 (最新見直し2013.10.20日)

Re:れんだいこのカンテラ時評217 れんだいこ 2006/09/23
 (れんだいこのショートメッセージ) 【れんだいこの「戦後民主主義」賛辞考】 

 2006.9.20日、小泉純一郎総裁の後継を決める自民党総裁選が行われ、安倍晋三官房長官(51)が第21代総裁に選出された。安倍は9.26日の臨時国会初日に第90代首相指名を受け、戦後最年少、戦後生まれでは初の首相として新内閣を発足させる予定である。その安倍は、戦後憲法と教育基本法の改正を公約としている。

 れんだいこはここで、安倍とは逆に「戦後民主主義」を賛辞してみようと思う。「戦後民主主義」とは、「戦後憲法秩序」と云い代えても良い。「戦後という時代の質」を捉え直そうと思う。同時に、戦後左派運動の陥穽を明らかにし、如何に虚妄な批判運動に堕してきたのか、よしんば擁護運動にシフトしていても掛け声倒れで受肉化を目指さなかったのかを指摘していきたいと思う。テーマが難しいので、何回も書き換えていくことにする。もし反対ないし批判意見があれば、それをこやしにして更に練っていこうと思う。御意の士よ、このれんだいこブログに列なれ。

 「れんだいこの「戦後民主主義」賛辞考
 (sengodemocracyco_sanbico.htm)

 2006.9.23日再編集 れんだいこ拝


【戦後民主主義論総論】

 今日右派系論者からは、民主主義、人権、「民主的」なるものの評判が良くない。八木秀次氏の「人権は『国民の常識』を超えるか」曰く、「これを突きつけられると誰もが黙り思考停止させられてしまう黄門様の印籠のような効果を持つ『魔語』と化している」と揶揄されている。ここでは、この謂いの正当性と問題性を検証してみたい。

 歴史的に観て、憲法秩序を基調とする「戦後民主主義」は、日帝の敗北によりもたらされた。このことは二つのことを意味している。一つは、人民闘争により戦前支配権力打倒の闘いを通じて勝ち取られたものではないということ。一つは、戦後のGHQ権力の発動によりもたらされた僥倖であったということである。戦後憲法が生み出される過程でのこの二つの特質が「戦後民主主義」の価値を落とし込めてきたように思われる。

 19世紀ドイツの法学者イェーリングは、「権利の為の闘争」の中で、概要「『権利』という概念の最も本質的な永遠の内在的要素は『闘争』である」と喝破している。つまり、「権利の生命は闘争」であり「勝ち取る」ものだと指摘していることになるが、この観点に照らせば、「戦後民主主義」は世にも珍しい「お上から与えられた」という生い立ちを見せていることになる。

 だがしかし、そういう陰りを持つ「戦後民主主義」ではあるが、その内実たるや世界史的価値を持って輝いている賢法であることはそのままに踏まえられねばならないのではなかろうか。戦後憲法は、近世の曙光を担ったルネサンス運動、以降の西欧市民革命、アメリカ独立運動、日本の明治維新、ソ連邦革命等々の流れの正統嫡出子として生み出されてきている点に偉大な価値を持っている。人類史が辿り着いた最新の市民社会法となっていることをもっと着目すべきだろう。

 それは恐らく戦後を規定する冷戦構造とも関係している。進駐してきたGHQ権力は、日本をして二度と西欧権力に立ち向かわせない、悲惨な戦争を起こさないという二面的ながらもかなり合理性のある歴史的意思に沿って戦前社会の軍事的統制的要素を排斥する諸規定を設けた。これはマッカーサー治世の歴史に特記すべき功績であった。今日この史実が、米日当局者双方から歴史的に埋没させられているのは皮肉なことである。

 この時、マッカーサーは、戦後日本をアメリカを盟主とする資本主義陣営に取り込むためであろうが新憲法策定を促し、そこに敵性国ソ連邦の憲法のそれよりもはるかに進んだ市民社会的諸規定を意図的に詠った形跡が認められる。最大の懸案は天皇制であったが、象徴制という離れ業で便宜的に解決せしめた。総合的に見れば、結果、最も秀でた民主憲法となり、この市民社会原理がその後の廃墟からの日本再建過程に果たした役割は特筆に価する。今日この観点が、我らが官僚独裁とその取り巻き知識人たちによって意図的に隠蔽されているのは犯罪的なことである。 

 「戦後民主主義」にまつわるこの両面の特性が複眼的に見られないまま、「戦後民主主義」はその後次第に形骸化せしめられてきた。戦後日本の権力構造は、政権与党自民党内の内ゲバ史に如実に反映している。自民党史とは、戦後たまさか保守本流となったハト派が隆盛し、その鬼才田中角栄が放逐されて以降次第に後退を余儀なくされ、元の木阿弥で戦前並みのタカ派系列によって乗っ取られる過程としてみなしうる。

 着目すべきは、読売新聞を筆頭とするメジャーマスコミがこの転換を後押ししてきていることである。もう一つ、社共的サヨ運動もハト派系列の金権腐敗には滅法厳しく、タカ派系列とは是々非々路線を敷いているという内通性がある。これを腐敗といわずして何と云おうか。

 かくて、「戦後民主主義」は、今や最終的解体過程に突入している。こたび2002.4月に上程された「有事法3法案」、「メディア規制3法案」策動は、明白に戦後憲法原理とは異なる別系統の論理によって貫かれており実質的な憲法改正となっている。小泉首相云うところの構造改革路線とは、反動的復古策動と対米隷属傾向が合体したものであることがますます明々白々となりつつある。曰く、郵政省の民営化、曰く、道路公団の民営化、曰く、石油公団の廃止、曰く、住宅金融公庫の廃止、曰く、奨学金制度の卑小化、曰く、自衛隊派兵あぁもううんざりだ。それらはなべて、「戦後民主主義」が保持していた歴史的高みからの転落であり、国策的に見ても益するものは何もなかろう。

 こうした状況にあって為すべきことは次のことであろう。「戦後民主主義」の負の面の強調に対してその論にかすめとられてはならない。むしろ、「戦後民主主義」の典拠である憲法がその後どう息づいてきたのか、はたまた形骸化させられたのかの実証的な考察を通じて、「戦後民主主義」の復権と再生へ向かうべきであろう。それが実践的に見て有効であるように思われる。


 なお且つ、憲法改正がしきりに云われ始めている昨今においては、あらためて憲法そのものの価値を見直して見ることが一刻も早く必要なのではなかろうか。護持に値するのか、そうではないのか、仮に改定が勢いとしても何を譲ってはならないのか、死守せねばならぬのはどこなのか、これらのことを確認する意味が極めて重要な局面に至っているように思われる。


 2003.7.31日再編集 れんだいこ拝


【政治局面の反動化考】
 政治局面は日増しに反動的方向へ流動化させられつつある。70年代の政治的経験を持つれんだいこには、この逆流が信じられないが、まさ夢になりつつある。一体、左派は何をしてるのか、れんだいこ自身にも鞭打って一喝されねばならない。

 
右派の改憲運動が次第に認知されつつあるが、それは左派の変調さと無能さによるジリ貧化により促進されているのではなかろうか。戦後日本の奇特性、そこから生み出された戦後憲法の特殊な質を認識しない愚昧さが通底しており、これが為、護憲運動を理論化し得ていないのではなかろうか。自主憲法制定論の内実は戦後憲法レイプ運動であり、これと攻勢的に闘うことが求められているにも関わらず駄弁運動に終始し過ぎているのではなかろうか。

 2001年4月末、小泉政権が誕生し、公の席であったかどうかはっきりしないが首相公選制を通じて憲法改正の先鞭をつけると宣言するにいたっている。興味深いことはマスコミ論調の変遷であり、かっての「危険な反動策動論」はすっかり影を潜め、今では止む無し論から一歩進んで当然論で後押ししようとしているやに見受けられる。

 
大東亜戦争の総括もそうであるが、この戦後憲法の評価についても総合的に為されているようには思われない。在るのは、非弁証的な右派の「占領下の押し付け憲法」論と左派の「絶対護持」論の云いっ放しである。少し違うのは、大東亜戦争については右派の見直し論が精力的であり、逆に戦後憲法については左派の方が熱心ということかと思われる。もっとも70年代の感覚で云えばそうであったという程度のことであるが。

 
れんだいこは、戦後憲法の内実の思想に言及せずのまま何でもかんでも民主的を付ければ用が足りている既成サヨ勢力の擁護論が、却って憲法の空洞化を促すことを危惧している。戦後憲法の意義について独特かもしれない観点を添えながら、以下順次考察していきたい。とはいえ、まだまだ未完です。


 2004.2.11日再編集 れんだいこ拝

Re:れんだいこのカンテラ時評285 れんだいこ 2007/05/02
 【れんだいこの戦後憲法プレ社会主義法論】

 明日5.3日は憲法記念日である。この日に際してれんだいこの観点を世にあらためて問いたくなったので披瀝しておく。現在、小泉-安倍と続く極悪戦後タカ派系の策動により憲法改正が政治日程化している。風雲急なりの感がある。戦後左派運動は、その面子にかけてこれを阻止せんとしている。れんだいこは思う。それは良かろう。問題は、どういう理論的構成で護憲せんとしているのかにある。

 れんだいこの青年時代の左派理論によれば戦後憲法はブルジョア法であり、いずれ革命的に改変されねばならないものであった。ならば、今なぜ護憲せんとするのか。これを整合せねばならない。改悪ゆえにか。然り、然りではある。しかし、それだけでは防御運動にしかならないのではなかろうか。れんだいこは、その姿勢では勝てないと思う。攻めて護ることこそ上策ではなかろうか。そこで考案したのが、「戦後日本国憲法は実はプレ社会主義法であった論」である。これは大いに検討されるに値すると自讃している。

 この観点は、中山みき研究、田中角栄研究、日本左派運動研究、日本神話研究の成果である。れんだいこの見立てるところ、戦後左派運動は本来、日本国憲法を史上稀なるプレ社会主義法と分別し、下手な革命論弄ぶよりあらゆる戦線に於いてその実質化運動に取り組むべきであった。そう見立てる理論的水準を獲得すべきであった。それができなかった。実際にはブルジョア法と見なし、その反動的本質を引き出すことに意味を持たせた。故に、擁護よりは粉砕を、評価よりは本質を見誤るななどと饒舌してきた。全ての党派がそう位置づけたかどうかまでは判らないが、少なくともプレ社会主義憲法と見立て、その積極擁護を担う党派がいなかったことだけは確かである。

 社共は護憲運動に取り組んだ。しかし、彼らの護憲運動もヌエ的なものでしかない。というのは、戦後憲法をブルジョア法と見なした上で、当面ブルジョア民主主義革命を目指すのだからして齟齬しない、その限りにおいて護憲するという消極的な護憲運動でしかなかった。実際には、革命論と離れた地平での反戦平和運動があり、これに依拠しての護憲運動であったようにも思われるが、革命理論上はそうなる。それにしても、戦後反戦平和運動の砦たる原水禁運動の不幸な分裂は許し難い。

 しかし、そういう捉え方では革命的護憲運動にはならない。真に望まれているのは、戦後憲法秩序をプレ社会主義と見なし、その受肉化を押し進め、更に社会主義法へと出藍させていく運動ではなかったか。プレ社会主義法と社会主義法の違いはどこにあるか、これも興味深いテーマではあるが、ここでは問わない。しかし、なぜこう説く党派がいなかったのだろう、解せないことである。

 こう捉えることにより、小泉-安倍政権の憲法改正に抗することができるのではなかろうか。小泉-安倍政権に典型的なことは、戦前タカ派とは一味違い、現代世界を牛耳る国際金融資本ネオシオニズムに丸ごと身売りしていることにある。先ほどの安倍ブッシュ会談の卑屈さを身よ。「アジアで傲慢、西欧に平身低頭」を又もや見せつけられた。今、ネオシオニズム派は、日本の資金と自衛隊を世界各地の紛争戦争地域へ注ぎ込もうとしている。その為には障害になる憲法を改正するよう指図している。この要請を受けて遮二無二憲法改正に向かっているのが舞台事情である。これが戦後タカ派の正体であり、愛国を唱えてみてもイチジクの派に過ぎない。

 小泉-安倍政権は、戦後秩序の中に痕跡する社会主義的要素を最後的に丸ごと改変せんとしている。その上で、企業も国家も外資に丸投げせんとしている。売国奴そのものである。ロッキード事件以降、角栄-大平連合が掣肘されて以来、こういう御仁が日本政界の上層部を占めるようになった。先ほど来日し老醜を露にしたキッシンジャー戦略の賜物である。これを誉めそやすマスコミもお先棒担ぎである。

 彼らは、戦後憲法の指し示す歴史的教訓に違背して、内治より外治を優先し、「アジアに傲慢、米英ユに卑屈」なる姿勢で、軍事防衛傾斜、公共事業抑制、優良企業乗っ取り促進、巨額な郵貯の引き出し、格差社会創出、教育政策の破壊、著作権万能等々に精出している。そういう意味での構造改革を目指しているが、それらは全て戦後のプレ社会秩序の破壊によるネオ・シオニズム奴隷国家化であり、一言で言えば反革命反動路線である。よって、我々が護憲せんとするのは、プレ社会主義の橋頭堡の擁護であり、改めての受肉化であり、この線よりの後退は許さないとする社会主義的精神によって為すべきではないのか。物事はかく判り易く打ち出すべきである。れんだいこ党は、護憲をかく理論付けし、その擁護に向かう。それにしてもそうなると、戦後左派運動の大いなる虚妄が見えてくることになる。

 れんだいこの「戦後民主主義」賛辞考
 ttp://www.marino.ne.jp/~rendaico/sengodemocracyco_sanbico.htm

 2007.5.2日 れんだいこ拝

【「戦後民主主義」を賛辞せよ】
 どうやら我々は、智に角が立ちすぎて、「戦後民主主義」を見誤ってきたのではなかろうか。特に、左派からの混乱が目に余るように思われる。誰もこの問題に取り組もうとしていないようにも見える。しゃあない、れんだいこが向かう。

 1945.8.15日、日帝の大東亜戦争は降伏で終わった。これにより第二次世界大戦は終了した。あの戦争の総括はまだできていない。あれは本当はいろんな意味のある戦争であった、れんだいこは今そう思いつつある。近現代史の革命と戦争の推進主体国際金融資本帝国主義ネオシオニズムの世界支配戦略との絡みを見ない歴史観は全く饒舌でしかない。戦後教育で教えられてきた第二次世界大戦観、戦前観は、せいぜい半分正しく半分以上歪められている。事象の本質を捉えず上っ面を撫でている。そのことの自覚がなさ過ぎる。そんな気がする。しかし、ここではそれを問わない。

 それはともかく、あれからまもなく半世紀を経ようとしている。この間歴史は、その後の冷戦時代、ソ連邦及びその衛星国の相継ぐ崩壊、米帝の一極覇権化、アラブ諸国の不穏化、9.11テロ、アフガン戦争、イラク戦争へと流れてきている。この通史の中で、日本は70年代をピークに未曾有の経済的発展を遂げた。それは、世界の羨望であった。それを支える政治体制が「戦後民主主義体制」即ち戦後憲法秩序であった。それを生み出した戦後政府与党のハト派政策は、「戦後民主主義体制の落とし子」であった。そう捉えたい。

 れんだいこが観るところ、「戦後民主主義体制」とは大きく見て次の10原理から構成されているように思われる。
 二度と戦争を起こさず、軍事紛争に関与せず、国際平和と協調に勤しむとする不戦制。その対価としての内治的な公共事業振興制。
 象徴天皇制、その対価としての主権在民制という戦後日本特有の統治システム。
 三権分立制、議会制民主主義、文民制、普通選挙による立憲国家主義。その対価としての治安権力化の抑制。
 国民の人命、文化的生活、民主主義的諸権利、基本的人権の尊重。その対価としての政治的文化的社会的活動の容認。
 中央集権制を維持しつつも地方自治の尊重。国土総合開発計画の年次化。
 基幹事業の官営とその監督下での民営による棲み分け事業、企業制。
 国債発行禁止による財政健全主義と予算の議会審議執行制。
 裕福層に対しては自由市場主義体制下での経済的活動を認め、もって資本主義的国家的繁栄を期す。その対価としての所得の累進課税。
 安心して働ける社会としての社会保障諸制度の創造。
10  教育の機会均等と産学協同、卒業後の社会的適正な人材登用制の確立。

 この10原理を基軸にして展開される法秩序体制が「戦後民主主義」と云うことができる。敗戦という重みによって戦前の支配権力が息の根を止められ、ファナティックな天皇制イズムとそれによる統制が崩壊した結果、代わりにやってきた社会システムであり、自由市場主義経済を基調にした史上随一の民主主義体制であった。そう捉えたい。

 この価値と意義をそろそろ対自化させても良い頃ではなかろうか。60年経って漸く見えてきたことがあるように思える。今最終的に失いつつあり、故に良いものは良いとして保全せねばならないものである。最初に確認しておきたいことは次のことである。特に、最近の社会主義市場経済制が注目されつつある折柄、それをいち早く導入していた「戦後民主主義」の価値は高い。

 ひょっとして、「戦後民主主義」の真価が発揮されたのは、米ソ冷戦体制に伴う日米安保体制による歪曲が始まるまでの僅か数年間だけであつたかも知れないが、プレ社会主義を充分に謳歌しており、それは「谷間に咲いた白百合、否世にも珍しい蓮華」であったのではなかろうか。その頃の我が国に現出した戦後社会体制つまり「戦後民主主義の日本」はどうやら、世界に珍しいユートピア国家であり得たのではなかろうか。

 2003.4.27日再編集、2007.5.2日再編集 れんだいこ拝

【大衆が「戦後民主主義」の価値を認め、インテリがこれを認めなかった暗愚を反省せよ】
 この「戦後民主主義」が如何にして生まれたのか。或る人は「押し付け」と云う。それは、然りである。だがしかし、れんだいこは云う。「戦後民主主義」の制作者及び導入者は、GHQのみならず、国際金融資本奥の院のみならず、日本の智者も関わっていた「三者形成」の可能性が強い。ならば、形式的には「押し付け」であっても内実的には必ずしも「押し付け」とは云えない。

 いずれにせよ、敗戦により、戦前権力は解体されあるいは蟄居を余儀なくされた。その間隙で「戦後民主主義」が導入されたことは疑いない。「戦後民主主義」は、我が国の歴史的伝統とも云える「お上の強権規制」の上に張り巡らされていた治安維持法的諸秩序を一挙に撤廃した。その結果、市場初のアナーキズム的自由・自主・自律的社会が自生し始め、その喜びが表出する大衆社会を現出した。これにより、日本人民大衆は抑圧されていた潜在能力を如何なく発揮し始めたのではないのか。

 戦後になって、額に汗すれば食える社会が生まれ、やがて住宅まで持てるようになった。我らの父祖は学歴がなくても実力さえあれば出世できるようになった。新時代に相応しい登用制度と云うべきか成り上がりが生まれ、我と思わん者は登竜門を叩いていった。日本列島各地に「社長オヤジ」が生まれた。かといって底辺の者が捨てられた訳ではない。何やら生活扶助が生まれ、最低限の社会福祉が用意されつつあった。子供を能力次第で大学へ行かせられるようになった。我々の祖父母はこのことを知り、貧しいながらも希望に胸を膨らませ勤労し始めたのではなかろうか。戦後日本の復興エネルギーの心因的要因はこの辺りにあったのではなかろうか。

 普通これを「ルネサンス」と云う。我が国では史上かって似たような流れが、戦国下克上時代、幕末維新期に立ち現れた。しかし、「戦後ルネサンス」の息吹は、過去のどれよりも広範総体的にして、しかも憲法的法治主義によってこれが担保されていたたという意味で稀有な経験となった。これほどのルネサンスは世界史上どこの国にも立ち現れていない優れものであった。つまり、世界中が指標にするに足りる内実を持っていたとさえ云えるものであった。してみれば、「戦後民主主義」とは、「戦前規制の撤廃下で、官民力合わせて、後先問わずとりあえず当面において人民大衆の活性化を是とする政策を創造し、次々と打ち出していった体制」と云えるのではなかろうか。

 しかし、こうした「戦後民主主義」は、復古派からは疎ましいものであったかも知れない。なぜなら、「戦後民主主義の下克上性」が戦前的な身分制秩序をどんどん解体していったからである。戦前秩序の機軸としてあった天皇制的統合的な芯を失ったからである。これに準じて「親の七光り的な単なる門地門柄的権威」が後景に退かされていったからである。もう一つ、余りにも経済主義オンリーであり、その価値観に馴染めなかったゆえにであろう、これについては是非論あろうが。この右派的なノスタルジーについては別途考察しようと思う。

 ここでは、いわゆる左派が「戦後民主主義」をどう捉え、これを如何に培養育成したか、あるいは形骸化させていったか、あるいは無理解のまま並走していったか、あるいは否定せんとしたか等々について考察してみたい。

 れんだいこの結論を先に述べれば、左派は、歴史的に見れば「まばゆいばかりの至宝体制」をそれとして判別できなかった。その取り扱い方を知らず、現実から学ぼうとせず、俗流マルクス主義の教科書的教条を無理矢理に現実に当てはめ、戦後憲法秩序をプレ社会主義体制として評価せぬまま否定すべきブルジョア秩序と規定し、反政府運動更に革命運動に挺身するというな逆対応に終始するという無能さを曝け出し続けた。あるいは元々のひねくれ精神によって単に斜交(はすか)い構えに身を持してきただけなのではないのか、こういう作風は今も現にそうなのではなかろうか、少なくとも理論レベルで真っ当に論じ得ていないのではなかろうか、いつの世でもインテリが陥り易い愚かさを演じ続けてきたのではなかろうか、という気がする。

 唯一我々の祖父母大衆がこの価値を認め、黙々と感謝してきた。闘い取る作風はなかったけれども、有り難いとご神体にしてきた、それには随分根拠があったのではなかろうか。語るインテリと語らざる大衆との乖離が横たわっていたが、本当に賢かったのは語らざる大衆の方だったのではなかろうか、そんな気がしてならない。というような観点から、語らざる大衆に無理やり語らせてみようというのが本稿の狙いである。共感の者は大いにこのサイトの充実を手伝うべしである。

 2003.4.27日再編集 れんだいこ拝

【「戦後民主主義」こそが「史上初のプレ社会主義的民主主義秩序」であったことを拝察せよ】
 「戦後民主主義」の良さが分からない者は、凡そオマンマ系の苦労を知らないものだろうと思う。生活の苦労を知らず、生きていくぐらいのことは当たり前にできると思っているボンボンには「戦後民主主義」のヌエ性が殊のほかお気に召さないようである。だがしかし、庶民大衆はやはり賢い。それがアメリカさんのプレゼントであろうが、人民大衆の闘いの蓄積によってもたらされたものであろうがなかろうが、実質的に「戦後民主主義」の機能するところのものがお陰があるのかないのか逸早く嗅覚で感じ取った。

 戦後の左派運動の革命主義の停滞はこのことを理解していなかったことに真因があるように思える。人民大衆が「戦後民主主義」の有り難さを噛み締めている折に、マルクス主義の文言を上っ面で愛でてブルジョア批判を繰り返し、革命論を機械的に振り回すだけの運動しか提起しなかったことにより、人民大衆がこれに反応しなかったのはけだし当然と云えよう。

 そういう左派運動の弊害として、彼らは権力を取る執念がなかった。日本左派運動が権力取りに向かったのは唯一、戦後直後の徳球-伊藤律指導下の日共運動だけであった。それも首尾よくは行かなかった。それ以外は、権力批判は繰り返すけれども権力取りに向かうことはなく、個別的な政治運動においても政治に責任を持つ姿勢を持ち合わせていない。良いことは云うけれどイザという時に役に立たない左派運動を延々と費消してきているに過ぎない。自活できる身分のインテリはそれで良いのかも知れない。

 この間、庶民大衆はむしろ政府自民党のハト派政治の方に靡いていった。「オマンマ問題に責任を持とうとしない体制批判論」なぞ基本的に無意味であるという庶民大衆の眼力のほうが鋭い、という構図ではなかろうか。「オマンマ問題に責任を持とうとしない体制批判論」を別の表現すれば、「地に足が着いていない体制批判論」とも言い換えることができる。多少褒め過ぎかも知れないが政府自民党のハト派政治はメシも多少の理想も何より政治責任を貫いた。そして護憲的であった。これに靡いた大衆の方こそ賢明ではなかったか。

 ここには解析せねばならない重要なことが横たわっているように思われる。「民主主義」そのものの評価如何が問われていたのではなかろうか。いわゆる革命主義的観点からすれば、「戦後民主主義」は「ブルジョア民主主義」であり、それは革命主義の敵対物であり、これに騙されてはならない統治制度として映ずる風がある。しかし、れんだいこは思う。この観点は間違いであり、「戦後民主主義」は「史上初のプレ社会主義的なもの」と看做して護持すべきであった。

 加えて、いわゆるプロレタリア民主主義は、ブルジョア民主主義よりもより実質的に民主主義的である必要があると認識すべきで、それも運動圏の中に常に「民主主義そのものの内実」を問うように培養し、自ら模範を示して行くべきと認識すべきで、過程の中に目的が入り込んでいなければならないと認識すべきで、そのように「戦後民主主義」を駆使していくべきではなかったか。日本左派運動には案外この観点が疎かにされているように見受けられる。

 要するに、「戦後民主主義」を、「西欧的なブルジョア民主主義」及び「ソ連邦型民主主義」以上の「史上初の実質民主主義にして社会主義秩序」に歩一歩近づいていたものと看做せばよかったのではないのか。だがしかし、「戦後民主主義」をこの観点から捉えられることは極めて稀である。れんだいこは、「戦後民主主義」を、世界の真性社会主義者なら称賛してやまないであろう「史上初のプレ社会主義秩序」と見立てるようになったが、もっと早く気づくべきであった。

 戦後憲法には、これを否定する各種条項も確かにある。天皇制の残存がそうであり、象徴天皇制の国事行為を見れば「史上初のプレ社会主義秩序」の範疇で捉えるには無理がある。しかし、さほど目くじらせねばならない文言であるとは思わない。象徴天皇制は、日本の本来の国情に合う規定だと思い直している。その他、在日外国人特に戦前の徴用で送られてきた朝鮮人及び中国人の帰国及び帰化及び待遇問題、出入国管理令等で不備な面がない訳ではない。

 しかし、不戦誓約と平和的国際協調路線の称揚、三権分立制、議会制民主主義制、文民制、地方分権制、自然的自由権、教育享受権、社会的生存権、不当刑罰の禁止等々からなる基本的人権の保障と尊重、抵抗権ともみなすべき結社・集会・争議権の公認、国家宗教の排斥等々は、それぞれが白眉な諸規定で構成されており、いわば「史上初のプレ社会主義秩序」足りえているのではなかろうか、少なくとも十分射程に入っていると拝察している。

 戦後日本国憲法の出現以来、人類は願うらくはこの水準からの後退は許されない。そういう画期的意義と栄誉を担っているのが戦後日本国憲法とこれを核として形成された法規群ではなかろうか。戦前も戦後も反動的支配階級はこのような法規群を疎ましく思う習性があり、改変を狙い続けてきている。こういう観点が欲しいように思われる。

 よしんば、右派が云うように愛国心、愛民族心が称揚されていないというのなら、果して憲法でそれを煽るのが正しいのかどうか疑問があると言い返したい。れんだいこは、愛国心、愛民族心はよほど重要と思っている。特にネオシオニズム派の魑魅魍魎跋扈が激しいご時世に於いては。しかし、愛民族心、愛郷土心、愛国心、つまるとこ国家の自律自存は自生醸造させていくべきではないのか。「戦後民主主義」こそそれに向いている諸制度ではなかろうか。  

 2006.9.24日再編集 れんだいこ拝

【日本左派運動が、「戦後民主主義受肉化」に失敗したことがそもそもの間違いである】
 戦後憲法を「史上初のプレ社会主義秩序」と見なすなら、戦後左派運動に課せられた課題は、その法秩序の内実化であり受肉化であった。戦後左派運動はこのように観点を据え、「戦後民主主義」を「金の卵」として認識し、左派運動はこれを錦の御旗にするべきであった。これが左派の眼力となるべきであった。かかる観点から日本土着型の助け合い精神に基づくコミューン、ソビエト、生産管理をあらゆる戦線に構築していくべきであった。それを運動圏の中の橋頭堡とすべきであった。

 不幸なことに、史実はそのように推移しなかった。右からのみならず左からも「ポツダム憲法」視され、その放擲が叫ばれた。左派を自称する者はその左派性に於いて更に饒舌に「形式的ブルジョア民主主義の典型」としてこれを批判し抜いてきた。つまり、「戦後民主主義」は左右両翼から十字架に架けられ続けて来たということになる。この間、遮二無二「戦後民主主義」の良さを享受しこれを護ろうとしてきたのは庶民大衆の側であった。そういう落差による「似非インテリのおしゃべり対真に賢い人民大衆の沈黙」が見られる気がしてならない。

 この間社共が一定の支持を受けてきたのは、この当たり前の見解に依拠してきたからであるように思われる。既成社共運動の批判から生まれてきた新左翼は、学生運動に於けるあの「ポツダム自治会論」を見よ、「戦後民主主義」を否定することで左翼性を見出そうとした。そういうこともあって、この間、護憲を旗印にしてきた社共のスタンスの方が却って共感を呼んだという経緯があるように思われる。言葉を持たない人民大衆は、社共対新左翼の構図では、本能的に社共運動の方に軍配を上げ、期待を託して支持して来た気配がある。

 しかし、れんだいこに云わせれば、社共は実のところは「戦後民主主義の受肉化」に向けてはさほど熱心ではなかった。社会党は長年の議会闘争、組合活動の中で保守体制に篭絡され、その政治的経済的おこぼれに執心してきた史実を見せている。後で述べるが、社会党のこの「馴れ合い」的習性は、政府与党権力がハト派に牛耳られている時はまだしも良かった。というか歴史的合理性があった。史実は、タカ派に乗っ取られた頃から「馴れ合い」を更に深めたから始末が悪い。あるいは、社共運動が在地性に根ざさず、何やら得体の知れない外国かぶれのイデオロギー即ちこれがネオシオニズムであるのだが、そのプロパガンダに馬乗りで弄んでいるに過ぎない弱脳本質が露呈し、幻滅を生んだ。

 社会党を典型とした左派運動のそういう政治に於ける無責任な在り方がやがて人民大衆に見抜かれ、最後的に党的解体を余儀なくされることになったのは致し方なかろう。その亡霊が今もあちこちをさまよっているが、スタンス運動からの脱却ができているであろうか。村山ー土井たかこ時代の社民党は、絵に描いたような「悪しき社会党らしさ」を引きずっていたのではなかったか。

 それに比べて、共産党は、社会党の保守体制内への篭絡化を拒否してきた点で評価されるものがある。しかし、この党の場合、度々指摘しているが1955年の六全協以来、有り得べからざる異邦人、旧権力内通ないしはネオシオニズムのスパイどもに党中央が占拠され、その系譜が今も長期安定政権を維持し続けて来ているところに問題がある。彼らは、平時では左派ぶるものの昂揚時ではいつも砂かけ役を引き受けている。戦後日本の左派運動の盛り上がりは、要所要所で日共反革命に堰止めされた経緯がある。彼らは、口先では「戦後民主主義を擁護」するものの、度重なる規約改悪を見れば良い、やっていることを見れば逸早い「戦後民主主義の変造」であり、その空洞化の尖兵でしかなかろう。日共はそういう変調さに侵され続けている。

 かの党内の民主集中制という名のもとでの統制指導、党員の愚民化指導、反対派排除主義、戦闘的左派団体への敵対主義は目を覆いたくなるほどのものがある。既に党内社会においては先取り的に「戦後民主主義の解体」を成し遂げているとみなすべきであろう。なぜかようなことになったのかにつき、れんだいこはしばしば言及しているが反応がない。戦前特高奥の院グループあるいはネオシオニズムと盟約していたスパイ集団宮顕ー野坂一派の潜入と彼らによる党中央掌握を許したことにそもそもの原因があると思われる。そして、その後継者不破の饒舌にやられ過ぎた。

 れんだいこのこの見立てが真実なら、六全協後の日共運動は総否定されねばならないことが自明である。実際は、にも拘わらず今日まで宮顕ー野坂一派の指導を許してきていることになる。日共取り巻き御用イデオローグの責任も含め厳しく指弾されねばならないであろう。同時に、党外へ出た者達も含め、日共批判から出自した新左翼の日共批判の理論的水準の低さも問われねばならないだろう。そういう意味に於いて、日本左派運動は全くの貧困下にあるという認識を共有すべきではなかろうか。れんだいこはそう見立てている。

 2006.9.24日再編集 れんだいこ拝

【自民党ハト派系こそが「戦後民主主義受肉化」に精勤した】
 そういう訳で、思いがけぬことに「戦後民主主義」の水準維持を念頭において活動してきた党派は何と、左派運動が目の仇にしてきた政府自民党の方であった。否正確に云うならば、そのハト派系であった。れんだいこは、現時点では、そこから出自した民主党、自由党のこれまたハト派系が辛うじて「戦後民主主義」の命脈を保たせようとしているのではなかろうか、という仮説を持っている。れんだいこは人生50有余年生きてみて、この連中こそ「戦後民主主義」にとって「民主主義的な機関運営主義」が最肝要なことを踏まえ、その実践政党として機能してきたという認識をするようになった。人民大衆の多くが自民党を支持してきたが、社共運動のマヌーバー政治に比して、その手法も含め自民党ハト派の責任政治こそ信に足りるとしてきたのではなかったか。

 そういう自民党の骨格を作ってきたのは、史実の表には出てきていないが田中角栄の功績がある。立証できないが、角栄はどうやら自民党結成時の規約作成に関わっていた可能性がある。その角栄は、人間という生き物の多様性、奥深さを悉皆した上で、相互に何が担保され、どう群れ合わせられるべきか、どこを規約化し且つせざるべきか、これらを踏まえて自民党規約を作った。角栄一人が為したとまでは云わないが、そういう可能性が強い。

 かくて、自民党規約の中にこそ、これまた世界に稀なる「民主主義的集中制に基づく機関運営主義」が担保されている。そうであるが故に自民党は、その上にたってまさに「自由自主自律」的な活動を展開し得てきた。長期安定政権与党として存立してきた自民党は、相対的では有るがその政治能力の高さ故に多くの国民から支持を受けてきた、と見なすのがれんだいこ史観である。その点で、小泉政権による官邸政治化は、暴挙以外の何物でもなかろう。これにエールを送り続けてきたマスコミの御用士は恥じ入って蟄居すべきである。

 実に、この点で、左派勢力は圧倒的に未だにお粗末の限りである。旧左翼も新左翼も、国際的にも国内的にも「民主主義的集中制に基づく機関運営主義」の素養さえないという肌寒い組織論にどっぷり浸かり過ぎている。つまり、「お山の大将型」であり、まだ大人になりきれていないと云わざるを得ない。未だにそういうサブい状況にあると云えるのではなかろうか。この点を衝かれることがあるが、事実だから反論しえまい。

 このことは、自民党、民主党、(自由党)を手放しで称賛しようというのではない。党派の寄り合い世帯性は良いのだが、このところ特にタカ派系の侵食が激しい。この場合のタカ派とはネオシオニズムの軍門に下った勢力を指している。自民党は、中曽根政権以来この傾向を強め、小泉政権以来頂点に達している。彼らは今、指導部をなべて一派で占拠しており、様々な理由を付けて憲法9条の不戦規定、国民の基本的人権の諸権利規定、三権分立制、議院内閣制等々の改悪に乗り出し、戦後憲法の内実を換骨奪胎空洞化させようとしている。それは明らかに日本溶解政策である。

 思えば、自民党系ハト派が戦後保守本流派として位置していた時代には、このタカ派勢力をうまくあやしつつ混在してきた。軽薄な評論士は自民党内のこの矛盾を見抜けず、戦後与党政党たる自民党を「戦後民主主義否定派」であるように評してきた。しかし、内実を見る限り、社共・新左翼政党の方が「戦後民主主義軽視派」であるような気がしてならない。だから、れんだいこ史観から見れば、世上の「戦後民主主義」を廻る抗争は捻れており、一言では表現し難しの観がある。

 2002.11.22日、2006.9.23日再編集 れんだいこ拝

【「戦後民主主義」の内実としての社会主義性】
 「視点」なるNHKの解説番組で、「日本は資本主義という名の社会主義で、中国は社会主義という名の資本主義だと言う人もいます」とコメントされていた。これをどう受け止めるかの問題であるが、案外と真実が言い当てられていると思うのがれんだいこ史観である。これについては、「在地型社会主義の研究」で言及する。

【「日米安保枠組み」と「戦後民主主義」の相克】
 その「戦後民主主義」は、冷戦時代の幕開けにより変質せしめられることになった。留意すべきは、戦後憲法を頂点とする法規群を改定するのではなく、新たに「日米安保の枠組み」を持ち込むことにより、「戦後民主主義」と「日米安保の枠組み」の二頭立てになったことである。この二頭立ては、時々の政治情勢に合わせてやじろべえ的に御せられることになった。これについては、「戦後政治論」で言及する。

【中核派の戦後憲法論考】
 中核派は、2007.5.14日付前進2294号1面に、「改憲投票法案参院特別委の採決弾劾 戦争と改憲の日本帝国主義打倒へ 教育4法改悪を絶対粉砕しよう」を掲載し、その中で戦後憲法のマルクス主義的規定を試みている。これを検証する。

 「労働者の嵐のような総決起」の見出しで次のように述べている。(何やら見出しが合わない。前段の「現行憲法は戦後革命の産物」の項で述べるのが相応しいと思うのだが)
 現行憲法は、日帝敗戦後の革命と反革命の激しい階級闘争の渦中で制定された。それはまさに労働者が日本帝国主義打倒に迫る闘いに決起した戦後革命の時代だった。日帝支配階級は、米占領軍の暴力装置にすがって労働者の闘いを弾圧し、他方で平和・基本的人権・主権在民の憲法を戦後日本の普遍的価値として押し出し、労働者の闘いを圧殺しようとした。労働者階級はこの総体と対決して闘った。

 1945年の敗戦直後から、労働者は失業と飢餓状態の中から生きるために労働組合を続々結成し、闘いを開始した。新聞、国鉄、全逓、海員、炭鉱、電産などで大争議が相次ぎ、労働運動が大高揚した。敗戦から1年後の46年8月、ナショナルセンターである産別会議と総同盟が結成され、12月には260万人を組織する全官公庁共闘が「吉田内閣打倒国民大会」を開き、労働闘争による内閣打倒を公然と主張した。そして翌年1月、400万人を結集した全闘は無期限ストを政府に通告する。2・1ゼネストだ。日本の労働者階級はわずか1年半で、ゼネストまでのぼりつめた。これが実行されれば鉄道、電信、電話、郵便、学校はすべて停止。日帝に決定的ダメージを与えることは必至だった。だが、マッカーサーの中止命令とそれに屈服した日本共産党の裏切りによって、闘わずして敗北した。

 敗戦直後の日本には、中国、朝鮮とともに、まぎれもなく革命情勢が存在した。生産管理闘争やゼネストの実力闘争を通じて、日本の労働者階級は、社会の主人公として革命に決起したのだ。それから約60年。労働者は再び、帝国主義のもとでは生きていけなくなった。支配階級の側も労働者階級を体制内化させたはずの現行憲法をもはや維持できない。これが現在の日本社会だ。今再び、憲法と革命をめぐり公然と階級闘争が闘われる時代に突入したのだ。
(私論.私見)
 この観点によると、戦後憲法は、高まり行く革命的情勢を沈静化させるために、いわば飴と鞭のアメ政策として導入されたということになる。しかしながら、この捉え方では、「今再び、憲法と革命をめぐり公然と階級闘争が闘われる時代に突入したのだ」と述べても、憲法擁護の理論は生まれない。再び、アメ政策の果実としての憲法に騙されるな論を生む下地を用意していることになろう。

 むしろ、全て解明できるものでもないが、憲法制定過程を検証して、世界史上の僥倖としてたまさかもたらされた世界随一のプレ社会主義憲法と捉えた方が革命的なのではなかろうか。故に、憲法の諸規定の内実を実践化させていく為の運動自体が、社会主義を準備する道になるのではなかろうか。憲法を錦の御旗として革命的に利用していくのが本来の指針だったのではなかろうか。実際には空しく背を向け続け、土壇場になって護憲の意義に気づいた。しかしならば、運動を生み出す理論を創造せねばなるまい。れんだいこの「戦後憲法プレ社会主義法」規定は検討されるに値する筈である。

 2007.5.15日 れんだいこ拝








(私論.私見)