戦後内閣制=内閣一体制について

 (最新見直し2006.3.24日)

 こたびの鳩山首相による普天間基地移転問題に於ける「福島大臣罷免」について、憲法第66条第3項の「内閣は、行政権の行使について、国会に対し連帯して責任を負ふ」の規定を持ち出して、「福島消費者・少子化担当相、辞任すべきだった論」、「福島元担当相の行為は、違憲的論」が為されているので、ホンマカイナぁと云う観点から意見しておく。

 戦後憲法では、「第五章 内閣(CHAPTER V. THE CABINET)」として第65条から第75条まで11条にわたって規定している。このうち格別に確認すべきものとして首相権限論、文民論、内閣一体論がある。これを愚考しておく。前二者については別稿で考察するとして、ここでは内閣一体論について愚考する。

 内閣一体規定については、第66条3で「内閣は、行政権の行使について、国会に対し連帯して責任を負ふ」、第68条1で「内閣総理大臣は、国務大臣を任命する。但し、その過半数は、国会議員の中から選ばれなければならない」、第68条2で「内閣総理大臣は、任意に国務大臣を罷免することができる」、第72条で「内閣総理大臣は、内閣を代表して議案を国会に提出し、一般国務及び外交関係について国会に報告し、並びに行政各部を指揮監督する」、第74条で「法律及び政令には、すべて主任の国務大臣が署名し、内閣総理大臣が連署することを必要とする」、第75条で「国務大臣は、その在任中、内閣総理大臣の同意がなければ、訴追されない。但し、これがため、訴追の権利は害されない」とあり、この辺りが関係すると思われる。

 これらの規定を個別的且つ総合的に確認することが求められる。云うまでもないことであるが、国の最高法規たる憲法は法の原則を指針的に網羅規定することを特質としている。これを逆に云えば、逐一箸のあげおろしまでは細かく定めていない。従って、逐条の規定の正確な解釈と文意を総合的に把握する必要がある。時には行間まで読まねばならないことがある。これを踏まえて、こたびの鳩山首相による福島大臣罷免をどう窺うべきであろうか。通常の判断の他に連立内閣による他党の大臣であると云う要素が加わっているので、解釈の幅が広がることは避けられない。というか、諸規定を更に精緻に読みとらなければならなくなる。

 これによると、首相には第68条1で大臣の登用権、同2で罷免権があるので、「福島大臣罷免」自体には咎がないことになる。つまり首相権限の範疇ということになる。問題は、第68条2の「任意に国務大臣を罷免することができる」の「任意」の基準であろう。「任意」とは「好き勝手」の意ではなく、「然るべき事由があれば首相権限に於いて」と云う意味であろう。いずれにせよ、「福島大臣罷免」自体は合憲と云うことになる。

 これを大臣の側から見る必要がある。すると、第66条3で「内閣は、行政権の行使について、国会に対し連帯して責任を負ふ」とあり、これを内閣一体化原則と云うが、各大臣がこの規定にどこまで縛られるかと云う問題が検討されねばならないことになる。これを子細にみると、第74条で「法律及び政令には、すべて主任の国務大臣が署名し、内閣総理大臣が連署することを必要とする」とあり、「主任の国務大臣と内閣総理大臣の一体化」は原則化されていることが分かる。となると、主任の国務大臣と内閣総理大臣は連署責任で一体化を要件とされていることになる。ということは、「主任の国務大臣と内閣総理大臣の連署」のものを、「主任外の国務大臣」が署名拒否できる余地がどこまで認められるのかと云う別問題が残されていることになる。これに対する明文規定がないことを考えると、「或る幅」が認められていると解するべきではなかろうか。なぜなら、「全閣僚の一致」が要件ならば、そのように規定すべきだからである。

 してみると、内閣一体規定は、明文上は内閣一体の「原則」であって、原則以上の絶対的拘束力を持つものではないということになるのではなかろうか。原則であるからには例外が認められるべきということになろう。これまで、この種の問題が起こらなかったのは一党内閣であったこと、首相の指導力の賜物であったこと、各大臣の連帯服務能力に負っていたと考えられる。ところが、ここ近年の日本の政党政治は連立内閣を常態化させている。連立内閣でも自公政権時には「全閣僚の一致」で経緯していたのではあるが、それは必ずしも褒められることでもないように思われる。小泉政権時の自衛隊のイラク武装派兵に際しては署名拒否する大臣が出てきてもよさそうなところ、そういう事態が発生しなかっただけのことであろう。

 こたびのように首相見識そのものが右往左往し、首相自らが連立協定に違背してまで政策変更するような場合、これに対する抵抗が生まれ「全閣僚の一致」が崩れるのは致し方ないのではなかろうか。と云うことは、首相は大臣罷免できるが、首相の側に落ち度のある大臣罷免ということになり、さてこれをどう政治的に了解すべきかと云うことになる。結論から言えば、首相権限あり、大臣署名拒否には正当理由ありの「双方咎めなし」ということになるのではなかろうか。但し、正常である訳ではないので、それに伴う政治責任は互いに発生しようということになる。つまり、政局経緯こそが解決処方箋ということになる。

 付言すれば、「福島消費者・少子化担当相、辞任すべきだった論」、「福島元担当相の行為は、違憲的論」は筋違いの批判であるということになる。この立論を為す者は、首相権限絶対論、全閣僚の首相服務論と云う別種の法を唱えていることになる。そういう風に憲法改正したいのは分かるが、戦後憲法は世界に冠たる良質なものであり、そういう風には規定していない。法治主義を唱える者はすべからく憲法を遵守せねばなるまい。憲法を遵守しない者がテロリスト退治を声高にして軍事費を更にお手盛りする傾向があるが、憲法テロリストにテロリスト退治を云う資格があるだろうか。これをれんだいこ見解としたい。

 2010.5.31日 れんだいこ拝





(私論.私見)