2004年02月08日
朝日1月7日付けは次のように報じている。
「抗争巻き添え、組長が賠償 暴対法改正案を国会提出へ 指定暴力団(24団体)の対立抗争や内部抗争で一般人が巻き添えになった場合、組長ら組織のトップに損害賠償責任を負わせる規定を盛り込んだ暴力団対策法の改正案が7日、まとまった。これまでは責任を追及しても、事件の実行犯と組長が「指揮監督関係」にあったかどうかなどの立証責任が被害者側に課せられ、被害救済は進まなかった。警察庁はこの規定が、抗争の抑止にもつながると期待している。19日開会予定の通常国会に提出する。
(略)
現行でもピラミッドの頂点にいる組長らを民法上の「使用者」として賠償を請求できる。しかし民法上、使用者の責任が問われるのは、その組織が通常行う「事業」に限定されており、対立抗争が「事業」と言えるかどうかは、裁判所の判断が分かれている。また、末端組員と代表者とが「指揮監督関係」にあったことや、対立抗争に至るまでの意思決定過程、抗争と言えるかどうかについても、被害者側に立証責任があり、被害救済の道は険しかった。」
こうして「組長らに過失がなくても賠償責任を負わせることができ、「末端組員が暴走した」という言い訳はできなくなる。」というものだそうだ。もちろん、このような法改正で、天皇に過失がなくても賠償責任を負わせることができ、「軍部が暴走した」という言い訳ができなくなるわけではないが、この立法が妥当なものであるとすれば、いかなる犯罪であれ、組織的な犯罪の場合、その組織の責任者は、具体的な指揮監督を立証できなくても、組織の構成員が犯した犯罪に連帯して責任を負わなければならないという一般論を承認しなければならないだろう。
しかし、正義の恣意的な適用を厭わない現状では、米国とその同盟国が正義というブランドを独占しており、彼らが正義の裁定者となっている以上、暴対法を支える法の理念が、大衆のなかで「常識」として支持されるようになればなるほど、暴力団の次にはテロリスト集団と欧米や日本で呼ばれている組織、さらには宗教の原理主義や極左過激派という名称でくくられてる集団などに関しては、比較的容易に指揮監督の立証抜きに組織の責任者を処罰できるようになるだろう。(そういえばオウムの麻原裁判の経緯でも、マスメディアは裁判の長期化をひたすら批判し続け、立証よりも生け贄を要求するような感情論を扇る傾向が強い)
いうまでもないことだが、「指揮監督」の具体的な立証なしに検挙が可能になるというのは、伝統的な物書きに限らず、bloggerにとってもかなり致命的だろう。今でも、犯罪と小説や映画の筋書きが似ていたとか、被疑者が「XXの作品に影響された」とか供述しただけで、あたかも作家も実行者と同罪かあるいはそれ以上にいかがわしいとみなされる風潮がある(マスメディアがこうした風潮を扇っているのに、メディア自身は決していかなる犯罪への加担も認めない)。正義が恣意的に濫用される戦時であればなおさら、戦時に抗う言葉はそれ自体が国家の安全を脅かす「暴力」に嵩上げされて叩かれるかもしれない。天皇の戦争犯罪、ブッシュのそれ、そして小泉の共犯が法廷の前には引きずり出されるのは、こうした文脈で語られる組織犯罪の摘発や正義の濫用の延長線上にはないことだけはたしかだ。私たちは法を支える民衆の「意思」や「常識」それ自体を根本から組み直さなければ、権力者たちの国家犯罪を裁くことはできないに違いない。正義は回復されるのではなく、一から創造しなければならない。
久しぶりに書いたら超長くなってしまった。
Posted by toshi at 02:47
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2004年01月02日
2004年01月01日
イラクの「自由」と「民主主義」?
フセイン政権が労働運動を厳しく弾圧してきたことはよく知られている。米国の占領統治でもこの実態は全く変っていないようだ。『Progressive』2003年12月号(ただし以下の紹介は紙版)にSaddam's
Labor Laws, Live On by David
Baconという記事が載っている。フセイン政権では、大多数の労働者は国営企業で働く公務員労働者であり、団結権と団体交渉権を禁じられていた。デイビット・ベーコンによれば、イラクは戦前からラディカルな労働運動の歴史があったという。第一次大戦後、のイギリスによるイラク統治が6年続き、労働運動が続くが、イギリスはこれを弾圧し、王政を敷く。58年まで王政が続くが、この間労働組合は非合法だった。58年に王政が倒され組合が合法化されるが、63年に、CIAの後ろ楯を得てバース党がカッセム政権を倒して政権につき、77年サダム・フセインが権力を握り、87年の法律で再び労働組合とラディカルな政治運動が非合法化された。こ87年の法律を米軍占領権力は廃棄せず、事実上法律の効力が継続している。
昨年(2003年)6月に、労働者民主労働組合連合(英語では、the Workers Democratic Trade Union
Federation)が結成され、12の主要産業の組合の再結成が計画されている。その後労働運動は徐々に力を得つつあるものの、占領政権はフセインの87年法を改正する気配はない。他方で、米軍による「解放」は労働者の生活を解放するものではなかった。労働力の7割がいまだに失業状態にあり、しかも賃金は低水準の一方、物価は上昇傾向にあるため生活は極めて厳しい。
労働運動を非合法状態に放置している理由についてベーコンは二つの理由を挙げている。一つは、いうまでもなく、労働者の抵抗を弱め、労働力コストを削減するためだ。もう一つは、国営企業の多くは今後民営化される予定がある。イラク国内資本にはこうした国営企業を買収する余力はなく、外国資本が買い取ることになる。民営化をスムーズに進めるためには労働者の団結権は障害だというわけだ。ベーコンの取材に応じた精油所のマネージャーは、民営化されれば3000人の労働者の半数を解雇しなければならないだろうと述べている。先進国のように解雇やレイオフがあっても失業保険の給付という保障はイラクにはない。「もし今労働者を解雇すれば、私は彼らとその家族を殺すことになる」とマネージャーは述べている。
イラク戦争は、旧ソ連、東欧の社会主義の崩壊と同様、西側の資本にあらたな投資のための市場の機会を与えるための破壊行為だ。国家を解体し、国営企業を潰してこれを外国の資本が乗っ取る。労働コストを最小限に抑えるためには、労働者を保護する立法は当然じゃまになる。
ベーコンは次のような労働組合の活動家の言葉を紹介している。「彼らはわれわれに資本主義を再度押し付けようとしている。だから、われわれがやらなくちゃならないのは、出来る限り民営化を阻止することだ。そして、我々労働者の福祉のために闘うことなんだ」
民営化反対は、フセインかブッシュかという二者択一の色眼鏡しか持たない西側や日本のメディアにはあたかもフセインシンパの反動のように見えるが、決してそうではない。フセイン政権と米国占領軍の両方がともに押し付けている労働者の権利の抑圧と闘うという二者択一の選択肢そのものを覆すものだ。資本主義の復興と拡大を目指す米国に労働者の権利問題を解決できるはずがないのだ。民営化反対は、反グローバル化の運動のなかで共通に主張されているものでもあることにも注目する必要があるだろう。公務員という特権的な労働者貴族の自己保身と揶揄されがちだが、こうした揶揄は、民間の労働者や失業者などの生活権を保護して公務員並に引き上げようとする労働者の要求を押さえ込もうとするものだ。。むしろ、これ以上資本はいらない、資本主義はもうごめんだ、資本の分け前を民衆の手に取り戻そうという声でもあるのだ。イラクに資本主義が広がれば広がるほど、イラクも又反資本主義運動のグローバルな連鎖から逃れられなくなるだろう。
Posted by toshi at 03:51
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2003年12月31日
債権放棄とイラクの資本主義的再建
30日の新聞各紙は29日の小泉とベイカー元国務長官との会談で、日本政府がイラクへの公的債権を大幅に放棄する意向のあることを報じている。
『日経』はこの会談を一面トップで伝えているように、非常に関心が高い。日本のイラクへの経済的な復興支援はすでに公的資金による支援50億ドル(二年目以降の35億ドルは有償)で米国に次いで第二位、三番目のサウジが10億ドルだから『日経』のいうように日本の援助は「突出」している。さらに、これに加えて債務帳消しを約束させられたわけだ。最終的には債権放棄の規模がどのくらいになるかはパリクラブでのヨーロッパ諸国を交えた債権国会議で決まる。
イラクの経済復興は、世界第二位の産油国のイラクをグローバルな資本主義の体制のなかに埋め込む作業を意味している。しかもこの作業については、米国と欧州諸国で利害が一致していない。欧州やロシア、そして日本はフセイン政権への多額の債権を保有している。欧州諸国は主として武器輸出代金とのことだが(欧州もテロリストと呼ばれたイラクを軍事的に支援し続けてきたわけだが)、日本の債権は電力施設などの社会インフラ向けだという。債権の放棄は、経済的な関係を一旦白紙に戻すことを意味し、これは債権国がもつ経済的な支配を排除することを意味する。つまり、欧州、ロシア、日本の経済的な支配力を抑制して米国主導で構築されるであろう来年6月のイラク新政権(米国かいらい政権と呼ばれるに違いないが)は、これら債権国に縛られることなく、新たな国際的な経済復興援助の枠組を再構築できるというわけだ。要するに、米国が経済的な覇権をイラクに築くための重要な布石がこの債権放棄である。日本政府は、米国の要求を飲むことによって占領軍に優先的に割り当てられる富の配分にあずかろうというこんたんだろうが、日本の資本側は政府のこの読みは甘いと感じている。『日経』のトーンもむしろ日本政府の突出した米国追従に対して警戒を示しており、「世界第二位の石油埋蔵量をもつイラクの『将来の収入』まで各国に率先して放棄するのか、という批判もある」と資本の危惧を代弁している。
戦争は、ある種の資本の本源的蓄積の手段だ。イラク戦争は、イラクをグローバルな資本主義の秩序に構造的に埋め込むために、社会インフラと政治権力の暴力的な解体を伴うものだった。今回の戦争が石油目的であることは誰もが知っている。かつての本源的蓄積が、重商主義が必要とした羊毛という資源のために、農民が土地を追われ、やがて都市のプロレタリアートを形成したとすれば、現代では石油のために民衆が駆逐され、戦争と内戦の難民となって国境を越え、グローバルシティの下層プロレタリアートとなる。
戦後復興は、イラク人政権の成立とこの政権を支える国外の復興援助の枠組の確定、そしてこれらをもとにしてIMFなどが復興のための経済プログラムを策定することで実行されるという。破壊された民衆の生活を回復するための唯一の選択肢はこの資本主義としての復興であり、IMFと米国が事実上この計画の主導権をとる体制を整えつつある。欧州と国連がこれに対してある種の牽制的な役割を果たすとしても、これらの枠組のどこにも資本主義へのオルタナティブは見い出せない。
他方で反グローバル化の運動はますます反資本主義という考え方を受け入れるようになっている。資本主義ではない開発のオルタナティブの可能性を探らねばならないという切実な思いが特に第三世界の民衆には強い。かつての社会主義のプロジェクトは敗北したが、しかしそのことは資本主義が最後の楽園となったことを意味するのでもなければ、マルクスが試みた資本主義の搾取の構造が間違いであったというわけでもない。むしろ、資本主義のグローバル化はますます貧富の差を拡大し、内戦と武力紛争、民族差別や宗教上の対立を激化させてきた。市場経済にこれらの問題を解決できる能力がないことは何度も指摘されてきたことだ。(ぼくはポランニーを思い出す)
イラクの復興は民衆による復興のオルタナティブという問題と密接に関わる重要な実験場になりうる。IMF、世銀、国連、多国籍企業、先進国政府が唯一と考える資本主義的な復興プログラムに対してどのようなオルタナティブを提起できるか。民衆の闘争の中から新たな創造力--資本の価値増殖ではなく民衆の価値創造力--がどのように形成できるか、これが今後のイラクを、さらには米国が狙うパレスチナや中東への覇権と対抗する重要な鍵になると思う。西側のメディアはゲリラやレジスタンスを自爆テロのようなセンセーショナルでテレビ映えのする出来事でしか捉えていないが、民衆の力はそんなもんじゃないだろう。
Posted by toshi at 03:02
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