四元義隆の履歴(プロフィール) |
(最新見直し2008.3.19日)
(れんだいこのショートメッセージ) |
2004.8.14日 れんだいこ拝 |
【四元義隆(よつもと・よしたか)氏の履歴(プロフィール)】
四元氏の履歴は次の通り。 |
四元義隆(よつもと・よしたか) 明治四十一年(一九〇入年)鹿児島県生まれ。第七高等学校卒。東京帝大法学部中退。昭和七年(一九三二年)の血盟団事件に連座し入獄(懲役一五年)。昭和十五年(一九四〇年)恩赦で出款後、近衝文麿、鈴木貫太郎のプレーンとして活躍。農場経営を経て三十年(一九五五年)から田中清玄の後を継いで三幸建設工業株式会社社長に就任。 |
190(明治41)年、鹿児島県生まれ。松原小学校から鹿児島第二中学校(現・甲南高校)、やがて、第七高等学校(現・鹿児島大学)に進学。第七高等学校には、のちに血盟団事件の同志となる池袋正八郎が剣道部の主将として在学中だった。四元は、柔道部の主将として活躍する。腕は五段。剣道の腕前も相当なもので示現流で鍛えている。示現流は受け太刀なし。斬り込みのみの剣法で、飛びかかり、ひと太刀で上段から袈裟懸けにする必殺剣である。ただし、失敗したら、死ぬしかない。死ぬ覚悟で、相対する。 第七高等学校卒。 1928(昭和3).4月、東京帝大法科(現東京大法学部)入学(中退することになる)。四元義隆は東大法学部時代、法学博士・上杉慎吉(うえすぎけんきち)の主宰する国家主義団体・七生社の同人となった。上杉慎吉の教え子には他に岸信介がいる。 1933(昭和5)年、上杉の死後、安岡正篤(やすおかまさひろ)の私塾・金鶏学院に入り、その指導を受けた。金鶏学院は、安岡流の日本学を学び、日本の思想を勉強する塾であった。だが、ロンドン条約反対運動に従事しているとき、四元は安岡に不満を抱く。 この時、日蓮宗の僧籍を持つ井上日召と知り合う。海軍の士官連中のいた席で、井上日召が、突然言った。「四元、おまえ、示現流をやってみろ」。四元は、選ばれた木刀を持つや、さっそく立ち上がり、「ちぇすとッ!」と、猿のような、人間離れした示現流独特の凄まじい声を発し、木刀で切り込んで見せた。こうして在学中から右翼国粋主義思想を強め、井上日召(いのうえにっしょう)に傾倒する。四元は、日召の思想信念に心服し血盟団の同志となる。 昭和四年十月二十四日、ニューヨークのウォール彷の株式市場で大暴落。世界経済恐慌がはじまった。恐慌の嵐は、一週間も経たぬうちに日本を襲った。六年九月十九日には、活路を開くため、関東軍が奉天を占領、満州事変が開始された。 このような背景のもとに政党政治の腐敗が叫ばれていたが、日蓮宗の僧侶・井上日召は、日本の行き詰まり状態の根源を「政党・財閥及び特権階級互いに結託し、ただ私利私欲のみ没頭し国防を軽視し国利民福を思わず腐敗堕落の政策に依る」ものとみなした。そのため、財界、既成政党およぴ特権階級を、「一人一殺」をもって打倒.皇室中心主義を基調とする反資本主義的社会改革を行なわなければならない。そう考え、血盟団の同志による政財界要人暗殺計画″一人一殺″を実行せんと図った。 1932(昭和7).2.9日、血盟団の団員・小沼正が井上準之助元蔵相を暗殺。3.5日、血盟団の団員・菱沼五郎が団琢磨(だんたくま)三井合名理事長を相次いでテロり暗殺する。世に「血盟団事件」と云う。更に、牧野伸顕内大臣を暗殺する予定であった。3.11日、首謀者であった井上日召が自首し、血盟団は全員が検挙される。四元はこの血盟団事件に連座して逮捕された。四元義隆は学生組の中心的人物、参謀格として行動し、井上準之助射殺に成功した小沼に海軍のピストルを渡している。「一人一殺主義」を標榜する血盟団において、四元の担当するのは、大久保利通の息子であり内大臣であった牧野伸顕だったが、警戒が厳重であったため、暗殺することはできなかった。四元は同志の連絡統制に当たり、菱沼五郎に拳銃を渡すなど、各自が担当する暗殺計画を進行させた。 3.28日、血盟団員13名が起訴される。 1934(昭和9).11.22日、殺人罪で懲役15年の実刑判決を受け服役した。 この時、武装共産党中央委員長であった田中清玄が入獄してきた。彼は、獄中で母の自刃を知り、転向する。田中清玄は、当時の伊江朝睦所長に嘆願した。「このままだったら、ろくな人間にならない。『葛飾』という月一回の新聞の発行と、俳句の会・和歌の会、相撲部、野球と四つの部を許してほしい」。田中は、四元を立てて交渉させ、許可を得た。四元は、獄中梁山泊ともいうべき刑務所内で、雑誌発行などの総元締めをやっていた。雑誌には、左翼の連中の作品も掲載していた。左右を問わず採用したというのは、四元ならではのことであった。 四元は、獄中に山本玄峰老師を招き、講演をしてもらっている.老帥は、禅の大家で、血盟団事件の特別弁護をやった人物である。獄中は、いい座禅の修行になった。四元は、玄峰老師の弟子になることによって人生を変えていく。田中清玄もまたしかり。 1940(昭和15).年、他の血盟団員と同じく恩赦で出獄。その後、井上日召らと共に近衛陣営の中枢部に参画する。四元は近衛文麿元首相の書生を務める。 1944(昭和19)年、,翼賛壮年団理事となり、1945(昭和20)年からは近衛文麿の秘書や緒方竹虎のブレーンとして活躍する。 四元と三上阜(一九〇五〜七一年、元海軍中尉で五・一五事件の首謀者の一人。昭和十三年仮出所した後、翼賛体制青年連盟を結成)が、鈴木貫太郎邸に出向き、時局を話し合う。特高情報により警視庁が逮捕せんとする。続いて、師の山本玄峰(やまもとげんぽう)老師と共に鈴木邸に行き、終戦に関するやり取りをする。 この人物についての神話・伝説の類は少なからずある。「一匹狼の非利権右翼」といわれている。
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「阿修羅政治選挙8」に2005.2.1日付「南京虫」氏の投稿「政界の陰の実力者」四元義隆という男について 転載元は「行政調査新聞」の「重信房子は四元義隆と会っていた?」 米大統領選の当選者確定の日とされた昨年十一月八日午前、大阪府高槻市の路上で赤軍派の重信房子が逮捕され衝撃が流れた。ところがその後、重信が長期にわたり北京政府と密接な関係を持っていたことなどが明らかになってきている。さらに衝撃的な噂が流された。逮捕直前に重信房子が、四元義隆、後藤田正晴と会っていたというのだ。 |
(私論.私見)