四元義隆の人物評

 (最新見直し2008.3.19日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 以下、「★阿修羅♪ > 歴史02」の「四元義隆・田原総一朗対談、「戦後五十年の生き証人」が語る 中央公論1996年4月」(http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/211.html)より引用転載。れんだいこ風に書きなおした。

 2004.8.14日 れんだいこ拝


【鈴木貫太郎評】

 鈴木貫太郎(1867〜1948年、海軍大将。昭和4年に予備役編入後、侍従長兼枢密顧問官・議長として昭和天皇に長く仕える。昭和二十年四月、小磯国昭内閣の後を受けて首相となり、本土決戦を唱える軍部を抑え、二度の御前会議という非常手段で日本を終戦に導いた)を高く評価している。とある日の次のようなエピソードを披露している。

 「玄峰老師が真先に言われたのは、『こんなばかな戦争はもう、すぐやめないかん。負けて勝つということもある』ということでした。鈴木さんも『もうひとつの疑いもなく、すぐやめないかんでしょう』と、意見が一致したんですょ。その帰り、車の中で玄峰老師は、『もう大丈夫だ。こういう方がおるかぎり、日本は大丈夫だ』と言いましたね」。 
 「鈴木貫太郎総理は、とにかくずば抜けた総理でした。なぜ、僕がこんなに鈴木さんのことを言うかというと、今の日本を見ていると、戦時中の日本の軍国主義が行くところまで行ったときとそっくりだからなんだ。表面上は違うけれど、日本人全体が盲目状態に陥ったという点で同じなんですね。このままでは日本はどうなるか、という心配は、五十年前よりも奥が深いんじゃないか。そういう国家の危機に際して必要なのは、優れた人による『ワンマンルール』なんですよ。これは吉田茂さんの時代に、アメリカのシュレジンガーという学者が唱えた言葉で非常に流行ったけれども、鈴木さんは吉田さん以上に『ワンマンルール』の人だった」。

【吉田評】

 吉田首相を高く評価している。次のように評している。

 「(田原・吉田さんが首相としていちばん苦労したのはどんな点ですか。) アメリカのことでしょう。アメリカの圧政というか行き過ぎに対抗しつつ、上手に操縦し、日本を再建した。あの人はチャーチルと対等になれる人だ。アメリカ人の気質なんてあの人からみたら小さいですょ。人間の器が違う」。
 「岸内閣末期にパリにいた吉田さんを訪ねたことがあった。一緒に帰るわけにはいかないから、二、三日ずらして帰った。吉田さんをオルリー空港まで見送りに行ったんだが、赤い絨毯の上を歩いてゆく後ろ姿が本当に堂々としていた。背の低いずんぐりした人だが、日本を代表する人だと思ったね。池田勇人や佐藤栄作とは格が違っていた」。

【岸評】
 岸首相に対して距離を保っていた。次のように評している。「(田原 岸信介さんも嫌いだとか。そうだ」。

【池田評】
 池田首相との実懇ぶりを語っている。次のように述べている。
田原  先にお話に出た岸内閣の末期、四元さんはパリで吉田さんと会われた際、次の後継総裁をどうするか、話し合ったそうですね。
四元  出しゃばるつもりはなかったのですが、僕は池田勇人とは仲がよかった。佐藤とも仲がよかったんだが、二人はライバル関係にあった。で、池田が、パリで吉田さんに話をしてもらえないかと頼んできたんだ。次の総裁は池田だと僕も思っていたから、引き受けた。そのとき、「佐藤のところをどうしようか」とわざと言った。すると池田が「行かんでもいいんじゃないですか」と言ったが、僕はあえて佐藤のところに行った。「今夜、吉田さんに会いにパリに行く」と言ったら、佐藤は驚いていた。そして、「それは要するに、吉田の爺さんに、(後継者を誰にするかという)処方箋を書いてもらいに行くんだな」と言った。「そうだ」と答えた。
そこで佐藤が「それが四元処方箋にならんように頼むよ」と言った(笑)。僕は笑い飛はして「ばかなことを言いなさんな。吉田さんは、他人の言うことを聞くような人じゃないが、しかし、俺は自分の信ずるところは言う」と言った。すると、佐藤は「それは、結構」と言った。見直したな。あのとき佐藤のところに行かなかったら、その後の佐藤と俺との友情は続かなかっただろうね。で、吉田さんから外務省に「ヨツモト、コイ」と電報を打ってもらって、すぐにパリに飛んだ。
田原  どんな話をしましたか。
四元  後継は池田がいいんじゃないか、ということだ。吉田さんも「そのとおり」と、一言も反対しなかった。
田原 で、池田さんは後継総裁になるわけですが、池田さんが首相になって、日本の政治が大きく変わります。岸さんや鳩山さんは憲法を改正して再軍備しょうと言っていましたが、池田さんからは、「憲法改正」を言わなくなりました。
四元  それだけ池田が現実派だということですょ。僕も現実派だよ。憲法なんて上手に使えばいいんです。都合の悪いところだけ直せばいい。
田原   でも四元さんはもともと民族派、いわば右翼出身でしょう。憲法改正派かと思っていましたが。
四元  いや、僕は右翼じゃないです。あえて言えは、右のさらに右、左のさらに左。
田原  憲法は改正しないほうがいいと思ってますか。
四元  今はもう、いじらなくてもいいでしょう。

【佐藤評】
 佐藤首相について次のように述べている。
田原  で、池田さんの後の佐藤内閣は戦後最長内閣ですね。
四元  やっばり頭がいいんですな。中曽根よりはるかに頭がいい。
田原  頭がいいというのは……。
四元   先が見えるということでしょうね。頭のいい、悪いは一緒に食事をすればわかる。うまいものを食わして昧のわからん奴は頭が悪い。竹下は味がわかるな。彼は頭が悪くない。中曽根は頭がよくない(笑)。
田原  味がわからない(笑〕
四元  佐藤のほうがまだいいですね。
田原  そこが中曽根さんの魅力かもしれませんね。
四元  でも、もう魅力なくなったんじゃないかな。
田原  だめですか。
四元  佐藤孝行のような悪い奴を信用しているようではね。佐藤栄作との話で面白い話がある。僕が吉田さんに岸のことを「糞土の牆(しょう)はぬるべからず」と言ったことを、彼が大蔵大臣になったときに話したら、佐藤は「焚き物ぐらいにはなるだろう」と言ったよ(笑)。彼も負け惜しみが強いから。でも、実の兄貴だからね、僕も悪いことを言ったよ。

【田中、大平評】

 田中首相に対して距離を保っていた。次のように評している。

田原  佐藤さんの後継総裁の田中角栄さんですが、たいへん力のあった政治家だと思いますが、四元さんはだめだそうですね。
四元  彼も私心の塊だからね
田原  会ったことはありますか
四元  まだ彼が土建屋出身の代議士だったころ、橋本龍伍(自民党衆歳院議、橋本龍太郎の父)が自分の弟分のようなことを言って紹介してきた。
田原  どんな印象でした?
四元  何もないな。少なくとも魅力は感じなかった。あるとき鹿児島で若い経済人たちと議論したことがあったんだが、僕が『あんな奴はすぐ刑務所行きだ』と言ったんです。2〜3年たって、僕の言うとおりになった〔笑〕。

 こんなことがあったょ。田中が三十代で郵政大臣になったころ、吉田さんが僕に『だれか、若い、いい代議士がいないか。田中角栄なんてちょっといいんじゃないか』と言うから、僕は『自分のことしか考えない、ろくでもない奴です』と言い切った。それから吉田さんは二度と田中の話を僕の前でしなくなった。

 その年の暮れ、僕のところにへんな鮭が送られてきた。開けてみたら、田中が吉田さんさんに送った鮭が転送されてきたんだ。『吉田さんも田中を卒業したかな』と大笑いした。以後、吉田さんは田中のことをぜんぜん口にしなかった。まあ、ああいう太っ腹な人だから、持ってきてくれた金は平気で使ったかもしれない。

 田中という総理を作った責任は佐藤栄作にあると思うけれども、岸の跡目を継いだ福田赳夫がしっかりしていたら、田中は出られなかったでしょうね。佐藤内閣の末期に、僕は『後継はどうするつもりだ』と聞いたことがある。すると佐藤は『福田』と答えた。昭和四十六年に福田を外務大臣にしたのも、彼を総理にする用意なんだ、と。そのくらい佐藤は一生懸命、福田を後継にしょぅとした。

 福田が凡才じゃなかったら、必ず総理になれたほずです。福田は総裁選で田中に負けた後、毎日新聞に『敗軍の将、兵を語る』という連載を書いた。それを読んで、僕は福田と会って『あなたは、田中に負けたのは中曽根が自分の陣常に来なかったからとか、佐藤栄作がもう少しがんばってくれたら、と書いているが要するに福田赳夫がだめだから負けたんじゃないか。それ以外には何もない。それがわからなけれは、政治家として成り立たない』と言った。福田は頭を下げて、上げられない様子だったね。完全無欠な人間はいない。だが、自分の弱さがわからないような奴には、本当の強さもわからない。何もないくせに自惚れだけが強い。だから人のせいにする。ともかく、佐藤は田中を後継にとは夢にも考えていなかった。そのことをいちばん知っていたのも田中だった。

 佐藤栄作は後継首班に大蔵官僚出身の福田赳夫を望んだが、田中は、昭和四十七年の総裁選で、候補となっていた大平正芳、三木武夫との連合を組み角福戦争と呼はれた激しい選挙に勝利した。それでも、だれも福田が負けるとは思わなかった。僕も福田総理実現のため一生懸命やった。で、結局負けた。大平正芳とかが、田中を担いだりしたからでもあるんだ。

 大平も、田中と同種類の男ですが、利口ではあった。大平と話したことがあったんですが、中国は『井戸を掘った人のことは忘れない』なんて言って、田中が日中友好の大恩人だとされていた。ところが真相を大平に聞くと、そうじゃないんだ。田中角栄は、途中で脅迫状などが来たりして、怖くなって『もうやめようか』と言い出した。それを大平が『どんなことをしても日中国交回復はやらねばならん。これで命を捨てようや』と言ったんだそうだ」。

【鈴木評】

【中曽根評】

 中曽根首相に対して次のように評している。四元氏は「中曽根のご意見番」的地位にあった。

田原 中曽根康弘さんも四元さんにいろいろ相談をされたようですが、世間では中曽根さんは世渡りのうまい風見鶏と言われています。本当はどうなんですか。
四元  難しい質問だな…。
田原  鳩山さんや河野さん、岸さんよりはいいと思っているのですか。
四元 そういいとは思っていません。能力はある。現に六年間、内閣が続いたんだから。それは後藤田正晴と伊東正義が支えたからなんだが、あの二人を使ったのは、やはり中曽根だからだよ。
田原  具体的に、中曽根さんにどんな忠告や進言をされました?
四元  しょっちゅうした。「私心をなくせ」ということをね。
田原  中曽根さんが全生庵で坐禅を組むようになったきっかけは、四元さんの進言だそうですね。
四元  そう、僕が坐らせた。彼が自民党総裁に決まったその日の夜、あそこで十二時まで三時間くらい坐った。僕と稲葉修、それから僕と一緒に服役していた古内栄司という男と四人で。初めての人が、三時問も坐るということは大変なことですよ。で、終わった後、お茶を飲んでいろんな話をした。
田原  どんな話をされましたか。
四元  忘れたな。坐った後だから生臭い話はしなかったよ。
田原  ところで四元さんは、中曽根さんの後継者は安倍晋太郎さんがいいと考えていたとか。
四元  彼は惜しいことをしましたね。彼が生きていたら、今の政治はずいぶん違ったものになっていたと思います。

 竹下が中曽根学校の創立を提案‥」には、もっと詳しく次のように記されている。

 政界に隠然たる力をもつ謎の男

 東京・台東区の谷中墓地にほど近い所に全生掩という禅寺がある。中曽根はこの庵で一咋年十一月二十日の夜。総理大臣に決定する五日前、座禅を組んだ。総裁予備選のまっただ中であった。その夜八時ごろ、血盟団事件の中心的人物であった古山栄一が全生庵に行った。古内は、やはり血盟団事件の同志であった四元義隆に頼まれて行ったわけである。しはらくして、中曽根と中曽根の派の長老である稲葉修が来た。

 古内は、四元から「中曽根さんに何か話してくれ」と頼まれた。四人で庫裏(くり)の別室へ行き、お茶を飲んだ。古内は、中曽根に言った。「日本の本当の意味の首相になるには、小我を捨て、超人にならんとする覚悟でやれ」。

 九時になると、四人そろって座禅を組みに本堂へ行った。それから十一時まで、二時間座禅を組んだ。平井玄恭禅師の指導で、四人が座った。座り方は、正面向かって左側に、中曽根と稲葉。右側に四元と古山が座った。つまり2人がそれぞれ対面する格好であった。四人は黙々と座ったままだった。一時間たち、十時になると、玄恭が、重々しい声を発した。「径行(ちんしん)」。四人とも座禅をやめ、本堂の中を歩きだした。黙々と十周ぐるぐるまわった。やがて、ふたたぴ十一時まで座禅を組んだ。

 同じころ四元は、中曽根の件でかつて″財界四天王の一人と謳われた日本興業銀行相談役・中山素平に会っている。四元は、中山に会い、頼んだ。「どうしても中曽根は、行革をやらなけれほならない。ついては、第二臨時行政調査会の土光敏夫会長をぼくは知らないので、紹介してほしい」中山は、すぐに土光に会えるよう段どりをつけた.四元はさっそく土光に会った。四元は、土光に頼んだ。「中曽根に、きちんと行革をやるよう土光さんから叱咤激励してほしい」。四元は、「大事は軽く、小事は重く」の葉隠れ精神をあらわす言葉が好きである。中曽根に行政管理庁時代を忘れ、行革をないがしろにしてはいけない、ということを徹底させようとしたのであろう。

 鈴木派の衆議院議員・加藤紘一によると、四元は、田中角栄を除けば、すべての総理大臣経験者に、直接電話をかけられる人物だという。そ心だけ政界には隠然たる力がある。四元が政界で現しい人を順番にあげると、最近では、一に中曽根、二に福田赳夫、三に鈴木善幸、その次が、故大平であった。とくに中曽根を、自分の息子のように可愛がっているという。

 読売新聞に「中曽根さんの一日」という欄がある。それをめくると、四元が、昨年は、二度官邸を訪ねていることがわかる。最初は、一月六日。「午後二時十分、四元義隆・三幸建設代表取締役」となっている。この日、二時三十分まで面談している。二度目は、一月十六日、午前九時だ。今年も、三月三日、九時三十分に官邸を訪問している。

 四元と四十年来の親交のある元・毎日記者の永淵一郎によると、四元と中曽根は、しょつちゅう会っている。新聞に出る以外にも、何度か非公式に会っているという。「用件があれば、二人ほ電話で連絡をとり合う。一カ月に数回は会っていますょ。それだけ中曽根は、四元さんを頼りにしている。精神的なものだけじゃない。政治的な判断も仰いでいる。なにしろ、四元さんは、戦前の近衛文麿内閣以来、戦後は、吉田茂、池田勇人、佐藤栄作の相談役を務めてきている。政治の表裏をつぶさに見てきている。政治は、、なにより経験がモノを言う世界ですからね。たとえは、右か左か、という場合、論理では決着がつかない。ところが四元さんは、禅的判断もあるから、明確に決断する。そういうところを、中曽根は頼りにしている」。

 竹下が中曽根学校の創立を提案‥」を参照する。次のように記されている。

 四元は、中曽根と歩んできた過去をふり返りながら、訥々と語った。「中曽根を注目しだしたのは、河野一郎が死んでからだ。ぼくは、河野のところへなんか行くんじゃない、やめろ、といったんだけどね。中曽根はいうことをきかなかった。ぼくは、河野一郎が嫌いでね。若いころだったら、叩き殺してやるよ。河野派の連中は、児玉を大先生と呼んでいる。みんな、金をくれるから偉いと思ってるんだ。

 中曽根は、昔から芸者の評判がえらく悪かった。芸者が、ばくに言うんだ。『四元先生、どうして中曽根さんをかわいがるの? あの人は、性格に裏表があって、先生とは違う。先生のお座敷では、きちんとしてるけど、ほかのお座敷ではひどいのよ』。古い芸者は、みんなそう言っとった。本人は、総理になろうと思っとったかもしれないが、そういう評判がたつような男だから、誰もそうは見とらんかった。ぼくだけだよ。ここ数年、中曽根が総理になると言ってきたのは。風見鶏の角もだんだんとれてきた。だんだんばくの言うとおりになってきたよ。

 佐藤栄作が、言っとった。中曽根がいいとね。佐藤内閣時代、中曽根は運輸大臣だったが、そのころ佐藤はばくに言った。「やがて中曽根は、大物になる。格好もいいし」。「そうか、格好か」と、僕は言った。「ここの筍(たけのこ)は、かならずこの竹藪から出る」。ばくは、佐藤の目を信じた。岸なんかより、佐藤のほうがよっぽど先が見えていたね。

 しかし、中曽根は、度胸がある。いよいよとなったら、やる男だ.人間は、誰でもそうなんだけど、もともとやれる素質がある。容易ならんことをやれるんだ。ただいまでも、まだフラフラしている。だから、目を離せない。何ペん言っても、わからん。中曽根は、風見鶏と名づけられるや、すぐに勝海舟や、西郷南洲だって、風見鶏だ』と弁解した。そのとき、ここへ中曽根と稲葉修の二人を呼んだ。中曽根にはっきり言ったよ。

 風見鶏というのは、信頼されないということだ。あんたが、風見鶏じゃないから言うんだ。つまらんこと弁解するな!」そう怒ったんだ。そしたら、中曽根は半年ぐらい寄りつかんかった」。

  1982(昭和57).11.20日、中曽根が総理になる前のこの日、四元と一緒に全生庵で座禅を組んだ。このことに関して次のように述べている。

 「わたしから誘ったんだ。あとは、一人で一週間に一度は行ってるようだ。十一月二十日が、ひとつの契機になったことは間違いない。中曽根がああして座禅を組めるのは、本物の証拠だ。四時間もぶっつづけで座っていたから、彼は何かに触れたんじゃないか。人間というのは、結局自分の何かを味わうということなんだ。そうした体験は、消えない」。

 四元は、児玉嫌いであった。他方、中曽根と児玉の関係は深い。その中曽根と四元の関係について次のように述べている。

 「中曽根がいちはんこたえたのは、児玉との関係だ。鬼頭史郎というれいの判事補が、三木にニセ電話をした。中曽根と田中角栄の話が出た。あのころの中曽根は、生きた顔してなかった.蒼い顔してたな。中曽根に言ったよ。『人間は、精神修養しても、いざというときには、なんにもならぬ。人間とは、そういうもんや。覚悟したらいい。地金でいくしかないんだ』だから地金は、磨いておかなくちゃいけない。しかし、中曽根は、いまでもばくの前では、児玉の話はいっさいせんね」。

 中曽根と田中角栄の関係について、次のように述べている。

 「田中角栄は、あれだけの力を持ってるから仕方がない。が、二人は、おたがいに信用していない。知恵くらべになる。田中は、中曽根を風見鶏だと思ってるし、中曽根は、田中をろくでもないやつだと見ている。おれは、中曽根が総理になったとき、中曽根に言ったんだ。絶対、鈴木や田中に頭を下げるな。その必要はない』中曽根も、それで自信をつけたようだな。総理に決まって、ひととおり組閣が終わると、中曽根は言ったよ。『たいしたことありませんよ』とね。つまり田中をひっくるめて言ってるんだ。度胸あるょ。ようやくそれぐらいの肚ができてきた。田中というのは、愚連隊というか、ゴロツキだね。金で人を動かす選挙マシーンだ。その程度の男だ。ほかに、何も能力がない。これからは、中曽根と田中の勝負だ」。


 「いま政局の先行きの見通しを一番はっきり持っているのは、宮沢蔵相だ。同日選後のことでは鈴木善幸氏に相談せすに決めたんだろう。竹下幹事長は現実に柔軟に対応して首相を支えた。両君とも政治指導者としての信頼感を築きかけている。安倍総務会長は少し違っていた。やはり福田赳夫氏に甘えていたのだろう。三人にいいたいのは、オレなら中曽根総理のあとを十分やれるという自信を、うぬぼれでなく、はっきりハラに持てないと後は継けない、ということだ」。

 作家・大下英治氏のインタヴュー記事のようである。これを転載しておく。
 七百年の歴史を誇る北鎌倉・臨済宗円覚寺派の本山円覚寺内にある蔵六庵の一室。四元義隆は、この俺の主である。四元は、肥前藩出身の政治家で外務卿として活躍した副島種臣(蒼海)の書を背にし、古めかしい卓を前に陣羽織を着て座っていた。眉毛は太く、郷土鹿児島の先輩西郷隆盛と似ていなくもない。がっちりした体は、人を圧倒する迫力があった。武骨な大きな手が印象的であった。昨年四月の桜の花の散る時期であった。
木下  「昭和最後の黒幕」「中曽根総理の陰の指南役」といわれ、謎に包まれた存在の四元義隆に、わたしは訊いた。「中曽根総理は、田中角栄との今後の関係をどうすべきでしょうか」。
四元

 「たしかに、いちはん大事なのは、田中をどうするかだ。このまま総選挙になると、駄目だ。少なくとも、田中との関係はきっぱりしないといけない。田中曽根内閣じゃ駄目だ。ます、内閣改造をやるべきだ。田中曽根内閣から中曽根内閣に移行すべきだ。そうして選挙をやれば、三百議席はとれる。それからが、本当の自民党総裁としての度量が試される。選挙をやって、数をとれはいい。あとは、中曽根の度胸だけだ。大転換する方策はある。そして、本当はそれこそ、田中を救うことだ。田中は、まだ闇将軍としてろくでもないことをして評判を落としている。むしろ、田中離れしてやったほうが、田中は救われるのだ。それが、中曽根にはわかっておらん。中曽根の知恵が上まわれば、田中を救うことはできる。自民党のこれからは、中曽根と田中の勝負だ。もし必要とあれば、ぽくは、いつでも田中に会う用意がある」。

しかし、中曽根総理は、四元の言うように田中離れをすることはできなかった。結果は、昨年十二月の第三十七回総選挙で、自民党は解散時の二百八十六から二百五十に議席を激減させた。自民党の大敗は、十月十二日の田中角栄のロッキード判決の影響であった。

こうした自民党大敗のなかで、非主流の福田赳夫、河本敏夫派を中心に、中曽根総理の責任を追及する声が高まった。とくに、田中問題について、中曽根首相が選挙中、「リンリ、リンリと、鈴虫みたいに騒ぐ」と、世論を逆なでするような発言をしたことなどに、あらためて党内から批判の火の手が上がった。そのような厳しい状況のなかで、引きつづき政権担当に意欲を然やす中曽根総理は、選挙直後の十二月二十三日の党最高顧問会議で「田中元首相の影響排除」の総裁声明を出し、批判の矛先をかわした。

 が、その後、今年の四月十一日、田中派の二階堂進(元幹事長)を党副総裁に指名。″声明″の空文化がすすんだ。この二階堂副総裁の、指名は、中曽根の再選工作の一つとも言われている。

 中曽根の一連の動きに、田中派は、早々と中曽根再選支授を打ち出した。これにより、中曽根再選は確実なものとなった。田中は、なぜ中曽根を担ぎつづけるのか。

政界では常識だが、田中はロッキードで無罪判決をかちとり、再度総理総裁の座に返り咲くことを真剣に考えている。そのためにも、世代交代につながるような動きには、警戒を強めている。世代交代すれは、自分の返り咲きの目はなくなる。

 いっぼう中曽根とすれは、再選されたあとは、党規約により三選はない。もうあとがないとなれば、中曽根も逆に開きなおる。四元の言いつづけてきたように、「田中離れ」をふくめた独自性を強めてくる可能性がある。

 中曽根は、最近、「戦後政治の総決算」ということを強調している。保守傍流でタカ派の中曽根は、敗戦後、第九条に象徴される平和憲法下での経済第一主義の日本政治の歩みに、強い不満を持っている。 

政権を担当し、これまでの戦後政治の流れを総決算し、自民党の保守政治をこれまでの経済中心主義から、政治中心主義に流れを変えるのが、中曽根の目標であり、本音だと言われている。それだけに、再選を果たしたあと、中曽根が正面から彼独自の″中曽根政治″色を強める可能性が強い。それほ、″改定″であり、″軍拡″への道につながる可能性も強い。中曽根は、政治中心主義の第一走者に自分を位置づけようとしている。 そのときこそ、「除の指南役」としての四元義隆の存在が、中曽根にとってより大きくなる。


英知あるリーダー、出でょ

田原 これからの日本の政治を背負って立つ人について聞きますが、たとえば、河野洋平さんはどうですか。

四元 だめですね。

田原 小沢一郎さんは、どうですか。

四元 話にならない。

田原 お会いになったことは…。

四元 ない。

田原 橋本龍太郎さんはどうですか。

四元 彼のことは、小さいときから知り過ぎとるぐらいだが、大臣になっても官僚はついて来るが、本当の人は、ついて来ないな。

田原 加藤紘一さんは。

四元 だめだな。彼も若いときは、伊東正義と一緒に育てようとしたんだがね。

竹下がリクルート事件で辞める前、伊東正義総理大臣待望論が出た。そのとき、竹下と伊東が会って話したらしいんだが、竹下は総裁の件は何も言わず、こう言ったそうだ。総理というものは本当に親しい幕僚、子分がなくてはならない。伊東さんは、加藤紘一 一人だけだ。後藤田に至っては、その一人もいない、と。要するに、田中や中曽根が総理になれたのは、やはり金だけではなくて、ついて来る人がいたからだ。ついて来る人がいなくては、やはり総理の器ではないということだ。

田原 これからの若手では、だれが有望ですか。

四元 いちばん期待するのは武村(正義)だな。安倍晋太郎の長所は、一目みて直感で人を見抜くところだったけど、武村君も、そういうところがある。彼は代議士になってすぐ安倍の派に入ったんだが、一、二年で安倍は彼を重用するようになった。伊東正義も、いちばん可愛がったのは加藤じゃなくて武村だった。

田原 細川護煕さんは。

四元 しばらく会ってないけれど、いま悩んでいる最中みたいだね。リーダーの資格はおおいにあると思う。武村君も彼に惚れ込んでいたけれど、小沢の隔離策にやられた。彼らが二人一緒になっていたら強いからね。

田原 ところで先日の統一地方選挙で、東京・大阪の知事に無党派の青島幸男氏、横山ノック氏が当選しました。これをどう受け取っていますか。

四元 青島さんは堂々たるものですね。ただし、彼は政治家でも何でもない。芝居の役者だ。一方は漫才師。政治家は何をしておるか、ということだな。

田原 どうして、こんな結果が出たんですかね。

四元 政治がだめだからです。政治が悪いから、政治がなくなったからだ。

田原 たしかに自民党の長期単独政権が終わった後、政治ほ混迷しています。その最大の原因は何ですか。

四元 いまの政治は、いちばん大事なものを失っているんじゃないかな。金よりも大事なものがあることを知らないから、政治家が金の亡者になるんだ。

田原 それは具体的にほ何ですか。

四元 「道」といってもいい、「神」といってもいい、「真理」といってもいい、「最高の道徳」といってもいい。とにかく人間としていちばん大事なものを失っている。そういうものを失うと、金と暴力と権力だけが支配するようになる。これは政治家だけじゃない。「人」が堕落しているから、オウム真理教や暴力団が出てくる。日本が悪くなっているのは、日本人自身に大きな責任があるんだ。

今の日本には、そのために生き、そのために死んでもいいというものが何もない。

さっき「狂人走不狂人走」と言ったけれども、やはりリーダーが間違うと国家全体が間違うということだ。ドイツのヒトラーしかり、日本の東條しかり。会社でも、社長がよくなれば会社は必ずよくなる。ましてや国のような大きな組織の場合、まずトップがよくならなければだめなんだ。

田原 では、リーダー、首相になる人物の条件とはなんですか。

四元 今西錦司さん、いちばん親しかった偉い哲学者(専門ほ生物学・進化論)で、京都に行く度に会っていた人ですが、彼は三つの条件をあげている。一つほ「生まれつき人に好かれること」。二番目は「責任をとりきること」。逃げる奴はだめだ。三つ目は「先が見えること」。

田原 リーダーの堕落と日本人全体の堕落には、相関関係がありますか。

四元 あります。だから怖いんだよ。民主主義の大原則とは「of the people,by the people,for the people」で、選んだ側に責任があるわけだ。しかしやはりリーダーの責任も重い。わかりやすく言うと、リーダーが品が悪い人だと、国全体が品が悪くなる。池田勇人でさえ訪仏したとき、ド・ゴールから「トランジスターラジオの販売人みたいだ」と言われたそうだけれども、吉田茂だったら絶対にそんなことほ言われない。
 

よく制度疲労とよく言いますが、そんな馬鹿なことほない。制度は法律で作ったものであって、生き物ではない。もし疲労しているとすれば、それは政治家という「人」が原因なんですょ。他に原因などない。そこがわからなければ、本当の危機というものはわからないんじゃないでしょうか。政治は観念論でほ絶対によくならない。いいリーダーを出すことが大切です。たしかにいいリーダーには必ず優秀な幕僚がいて、社会が彼らを支持するから政拾をリードできるわけだが、突き詰めていけば一人なんです。

ただ、一人の立派な人間がいても、今の日本ではなかなか出てこられないのが心配ですね。今西錦司さんには、学界外に中曽根をほじめ多くのファンがいたけれども、肝心の生物学界はみんなあの人を無視した。今西さんは日本の学者を馬鹿にしていたけれども、わかりますょ。

 中山素平さんという、日本興業銀行の今日を作った、優れたリーダーがいるでしょう。日本興業銀行この前の、ハブルでだいぶ恥ずかしいことをやった。僕は中山さんに「これほ、あなたの責任だ」と言ったんだ。すると彼が言うにほ、彼が頭取を辞めて会長になったとき、代表権も断って、経営には一切ノータッチにした。きれいな辞め方をしたわけだ。興銀の連中ほ本当に中山さんを完全にたな上げにしたな。ばかばかりだから相談にもいかなかった。だからああいう醜態を招いたんですよ。

 昭和六十年の春、第一次中曽根内閣のとき、今は亡き胡耀邦に会うべく、中曽根総理の信書を中国へ行った。その前に、京都で今西教授と貝塚茂樹教授を訪ねた。そのとき、今西教授はこういった。「今や、哲学も宗教も今日の危機を救う力はない。核兵器を使い合って人類はついに滅びるだろう」と。また、貝塚教授は「こういう恐るべき兵器(核兵器)できてしまった上は、人類ははもはや戦争なんかというばかなことはしないだろう」と言った。僕は、この2人の碩学の二つながら真実だと思う。底知れぬこの危機を、人類の英知は必ず克服するだろう。

 山本玄峰老師が「無門関提唱」でこう言っている、「現代の世界各国の指導者は、いわは亡者頭のような者だ」と。 

僕はこう思う、「偉人なる政治家、宗教家が今日期待される時はない。今日のこの深刻な危機を救うべき英知のリーダー、出でよ」。 





(私論.私見)