頭山満の履歴(プロフィール) |
更新日/2021(平成31→5.1栄和改元/栄和3).2.17日
(れんだいこのショートメッセージ) |
ここで、頭山満の生涯履歴を確認しておく。 2004.8.21日 れんだいこ拝 |
(まだまだ未整備です。とりあえず仮打ったてしとこ。この派の人は著作権なんて野暮なことは云わないよねぇ)
【頭山満の履歴(プロフィール)と玄洋社(げんようしや)活動】 (「玄洋社記念館案内」) 1855(安政2)-1944(昭和19)年。福岡を中心として活動した民族主義団体「玄洋社」の実力者、フィクサー。号は立雲。 |
福岡城下西新町に、筒井家に生まれる。福岡藩の出身。14歳の時、頭山家に養子に出され、以後頭山満となる。 幕末志士により明治維新が成就した。しかし新政府内は混乱した。そういう中で廃刀令、俸禄の廃止等を通じて士族が解体され、これらが原因となって「士族の反乱」が各地で発生した(「明治維新の史的過程考(1)(明治維新から西南の役まで)」参照)。福岡の箱田六輔などは江藤新平の佐賀の乱の鎮圧後、鹿児島の私学校、高知の立志社に倣って矯志社を組織した。頭山満もこの矯志社に投じて、萩の前原一誠、薩摩の篠原国幹らとの連携を保っていた。 1876(明治9).10月、萩の乱が起こり、神風連の乱が起こった。この過程で、福岡の不平士族も決起し、箱田六輔、進藤喜平太、頭山らは萩の乱に投じようとしたが、事前に洩れて逮捕投獄される。 翌1877(明治10)年、西郷隆盛の反乱、西南戦争が勃発した。しかし鎮圧された。矯志社の幹部・越知彦四郎などが呼応して福岡で兵を挙げたが失敗して斬罪に処せられる。矯志社は立ち直れぬほどの大打撃を受けた。 頭山は、西南戦争後出獄し、愛国社の国会開設運動に加わる。 西南戦争後、頭山は2度、鹿児島を訪れている。次のように伝えられている。「武村(現在の鹿児島市武)にあった西郷宅の門をたたき、『先生に会いに来た』。留守番役をしていた学者川口雪蓬は『西郷は死んだ』と追い返そうとした。しかし、頭山は『身体は死んでも、精神は生きている』と食い下がり、西郷の愛読書を持ち帰った。江戸後期の陽明学者大塩平八郎の『洗心洞箚記(せんしんどうさっき)』で、西郷の書き込みがあった」(引用元失念、失礼します。判明次第書き付けますのでご容赦をば)。 西郷軍に合流していた福岡藩の士族の一部は、内乱鎮定後結社化する。開墾社が設立される。 |
1878(明治11)年秋、頭山は、箱田六輔・平岡浩太郎らと向陽社を結成する。箱田六輔を社長とした。向陽社は、箱田六輔、進藤喜平太、頭山満、平岡浩太郎ら若き情熱に充ち活気に溢れた精鋭たちの胆力と知力が渾然一体となって発足した。これらはすべて高場乱の門下生である(高場は玄洋社の源流であるとして、現在なお、玄洋社記念館にその肖像画が保存されている)。 共感していた西郷を失い、武力による新政府打倒に挫折した頭山らは、「反政府」の新たな旗印として自由民権を掲げる。土佐の立志社と同じく、落魄士族を中心とする自由民権運動団体となった。この頃は国会開設運動など、民権論者として活動した。他方、世界の時勢は、アジアへの欧米列強の圧力は日増しに強まり、朝鮮半島でも旧体制を変革しようとの動きが出ていた。向陽社は、この時流に呼応し、征韓論や反政府的思想を説いた。 頭山は、筑前共愛会の活動にも加わる。 |
1879(明治12).12月、向陽社は玄洋社と改名された。玄洋社は、「戦前期に隠然たる勢力を持った国家主義・大アジア主義団体」と評されている。 初代社長に平岡浩太郎を選び、福岡に本部を置いた。結局、頭山は終生、玄洋社の会長となることはなく、また生涯公職につくこともなかった。立場上、後見人を貫いたが、しかし頭山は常に玄洋社を代表する右翼の巨頭であった。 玄洋社は、「第一条 皇室を敬戴すべし」、「第二条 本国を愛重すべし」、「第三条、人民の権利を固守すべし」の三憲則を基幹とし、国内では祖国日本の真の独立という大目標を目指して、自由民権の普及に献身、憲法の新設、国会の開設に奔走した。祖国の国力の伸張に奔走する一方、屈辱的外交条約の破棄、アジア主義に基くアジア民族の自決独立の援助に勇往邁進していった。 その後の玄洋社は、自由民権運動から転じ、天皇主義・国権主義に傾斜していきナショナリズム運動を展開していった。アジアの解放という壮大な構想の下での大アジア主義を提唱し始め、中華民国の辛亥革命支援をはじめとして数々の奔放多彩な活動を展開していく。大きく観て、自由民権運動から派生した右派的潮流の流れに属する。 一方で、玄洋社は新聞事業にも手を出してゆく。頭山が福陵新報(福陵とは福岡のことである)を創設し、明治31年、「九州日報」と改称し、さらに昭和17年、「福岡日日新聞」と合同して「西日本新聞」となる。 1885年(明治18年)、福沢は日刊紙「時事新報」を創刊し、アジア観の集大成「脱亜論」を載せた。「我が国は隣国の開明を待って亜細亜を興す猶予なし。西洋の文明国と進退を共にし、亜細亜東方の悪友を謝絶するものなり」。この福沢の脱亜論と頭山の興亜論が微妙なハーモニーを奏でていくことになる。 玄洋社発足当初は、箱田六輔、頭山満などが中心メンバーであったが、次第に大陸浪人として著名な内田良平(のち黒龍会会長)、杉山茂丸(政界浪人)など多数が参加していた。時にはテロリズムによって政界を揺さぶり、対外硬政策をとらせようとしばしば動いた。 その一方で、多くの社員が大陸へわたり、裏面工作や謀略工作、時には馬賊と行を共にする社員もざらであったという。日露戦争後、満蒙問題が大きくなるに連れて彼ら大陸浪人は関東軍と共同し、ときに関東軍の手先のようにして働いた。なお、その為の金は九州の炭坑からあがる収益でまかなわれていたといわれる。 国内の玄洋社自体は、内田良平が黒龍会を設立したことによって大陸浪人結社としての側面を後退させたが、それでも日本国内の国粋主義活動の源泉であり、同時に政界のフィクサー的存在として隠然たる勢力を持っていた頭山満のために長く維持された。 |
1889(明治22)年、伊藤内閣の外相として不平等条約改正にあたっていた大隈が、玄洋社社員で頭山の片腕・杉山茂丸に爆弾を投げつけられ右脚を失うという事件が発生した。杉山は、この条約改正が国辱的であるとして大隈をテロった。(一方、来島の大隈重信襲撃事件の取材では、現代の価値観から、是非を判断することの難しさを痛感した。欧米列強による半植民地化につながる恐れがあった条約改正案に対し、国民的な反対運動が起きた。明治天皇自ら乗り出したが、大隈の方針が覆せないとわかった時、来島は命を投げ出して止めようとした、ともある。この関係が分からない) 玄洋社はこの事件により不気味なテロ団体としてむしろ影響力を強めていった。玄洋社は九州のみにとどまらず次第に中央政界にも勢力を扶植していくことになる。 |
頭山の活動の中で、注目すべきは、アジア諸国の独立活動家との交流と、在野志士として外交運動に明確に関わり続けたことである。独特の大アジア主義の立場をとり、朝鮮の開化派金玉均、孫文、インドのラス・ビハリボースなどの亡命政治家を援助する他方で、条約改正問題では最も強硬に排外主義的民族主義運動をおこした。その資金は、筑豊炭田に代表される北九州の鉱工業から出たと言われる(頭山自身、平岡とともに炭坑を経営していた)。 また、日清戦争前すでに対露同志会に加わって日露開戦を主張するなど、つねに日本の対外進出を計り、強硬外交を唱えた。日清戦争時には天佑侠団、日露戦争時には満洲義軍という大陸浪人による結社を派遣し、日本のアジア進出に積極的な一役を買った。頭山は、こういった活動を通して自己の影響力を拡大していった。 日清・日露両戦争時には政界の裏面で暗躍し、第1次松方内閣の選挙干渉への協力、大正期の宮中某重大事件では皇室尊崇の考えの下に、長州閥の元締・山県有朋に反対するなど多面的な政治活動を行った。政治資金などを豊富に集め、軍部・財閥・官僚を結ぶ位置を占めた。 |
玄洋社は次第に国家主義的団体的色彩を強め、その後の右翼団体の源流となった。黒竜会、浪人会、大日本国粋会、関東国粋会など国家主義を標榜する団体のほとんどはこの玄洋社の系統につながっている。玄洋社は、テロ行為を含めて黒幕として恐れられ、なかでも頭山は右翼の大物として敗戦時の解散まで君臨しつづけた。 その貢献力は明治末期には既に東南アジア各国に有名となり、各国の政治家が続々と玄洋社を訪れている。なかでも中国革命に於ける玄洋社の存在は大きく、以後第二次世界大戦終了直後まで日中和平工作を継続していた政治結社は玄洋社を除いて他にない。 頭山は、大正後半頃から表立った活動はしなくなったが、家長選挙制度を訴えたり、アメリカ排日移民制度に反対したりしている。頭山は長命し、ほとんど神秘的な印象すらあるが、昭和十九(1944)年十月、静岡県御殿場で長い生涯を閉じる。芝増上寺でおこなわれた葬儀は、葬儀委員長広田弘毅、副委員長緒方竹虎、参列するのは荒木貞夫、松井巌根、有田八郎など錚々たる顔ぶれであったという。 参列したひとりである、老政客・古島一雄(頭山とおなじく、アジアの独立革命家を支援した犬養毅の政友)は、かつて頭山の別荘から同志に宛てた手紙の中で、故人についてこう評する。「窓を排すれば富士目前に迫り、内に在れば立雲(頭山のことである)端座山の如し、天下人間英霊の気悉く此内に満つ」。 頭山の遺骨は崇福寺の玄洋社墓地(福岡市博多区千代)、頭山家の菩提寺・円応寺(同市中央区大手門)、東京・青山墓地に分骨された。峰尾は青山墓地で一緒に眠っている。 |
玄洋社は、多彩かつ豊富に人材を輩出した。頭山満、箱田六輔、平岡浩太郎、進藤喜平太、杉山茂丸、内田良五郎、来島直喜、香月恕経、奈良原到、内田良平など枚挙にいとまがない。さらに玄洋社の流れをくんで大成した逸材も山座円次郎、広田弘毅、中野正剛、緒方竹虎など目白押しである。 |
1944.9月、第十代目の玄洋社社長に進藤一馬氏が就任した。広田弘毅、緒方竹虎、安川第五郎ら先輩たちの推挙によった。進藤氏は最初は固辞していたが、「頭山の『そっちが一番の適任者。万事よろしくやってくれ。広田、緒方らによく相談して』の言葉で腹を決めた」とのこと。玄洋社社長は進藤氏が最後となる。 1945.6.19日、福岡大空襲で玄洋社の社屋は焼失。孫文の書も、大隈重信を襲撃した来島恒喜が着ていたモーニングコートも灰と化した。 連合国軍総司令部(GHQ)の指令で玄洋社は解散。一馬は公職を追放され、「超国家主義団体のリーダー」として逮捕された。 東京・巣鴨の拘置所で、3階にいた広田が階段を下りて運動場に行く途中、1階の一馬の部屋の前に立った。鉄格子に駆け寄った一馬に、「心配ない。君のことはよく説明しておいた」と手短に告げて立ち去った。「いくら調べても玄洋社が好戦主義の秘密結社とする証拠は出てこなかった。それで釈放された」と云う。進藤一馬は、「実際の玄洋社は昭和11年からは財団法人となり、政治結社としての実践団体ではなかった。柔道場明道館だけがかろうじて維持されていた」と回顧している。 2年8か月の獄舎生活から解放された一馬は、先人たちの名誉回復に動き出す。1952年、福岡正剛会、翌年、頭山立雲会を設立。中野正剛記念碑を建立し、広田の銅像建設期成会の会長を務めた。 1978年、玄洋社記念館落成。館報第1号に一馬は、こう記している。 「(社長就任から)わずか一年数か月後に解散を余儀なくされ、大任を果たせなかったことを何とかして償いたいと願い、記念館設立に一念発起しました」とのこと。 進藤氏は、衆議院議員、前福岡市長を務め、平成4.11月89歳で没した。その進藤氏のが奔走で創設されたのが玄洋社記念館。玄洋社記念館は、資料の収集、展示、研究会、講演会の開催、先覚の顕彰・慰霊祭の実施、広報紙発行などの事業を行っている。 |
参考資料:「立雲翁の面影」(非売品、明道館)、「国史大事典」、および玄洋社記念館(福岡市舞鶴)所収の諸史料、『玄洋社々史』明治文献http://kyushu.yomiuri.co.jp/genyou/genmain.htm |
【歴史学者ハーバート・ノーマンの頭山評】 | |
以下、「頭山満と玄洋社」その他を参照する。 戦後、カナダ人歴史学者ハーバート・ノーマンは、獄中下の共産主義者の釈放に尽力したことで知られている。そのノーマンの「頭山満と玄洋社」に向ける視線は厳しい。カナダ人歴史学者ハーバート・ノーマン「福岡こそは日本の国家主義と帝国主義のうちでも最も気違いじみた一派の精神的発祥地として重要である」として、危険な軍国主義者団体として捉えている。ノーマンの目には、玄洋社は、「旧式の膨張主義圧力集団」(「日本における特定政党・団体・結社の解散」)と映っていた。 太平洋戦争中の44年に発表した論文「玄洋社―日本帝国主義の源流」の前書きでは、「日本帝国主義、反動の重要な邪悪な役割を演じてきた」「(戦後も)彼らは再び日本軍国主義復活の先ぽうとなる恐れがある」とし、強い警戒感を抱いていたことがうかがえる。 頭山満らが、アジア各地の革命家、独立運動家らを支援したことについても否定的。孫文らを厚遇したのは、日本の利益につながることを期待していたとした。フィリピンのアギナルド、インドのラス・ビハリ・ボースらについては、「無節操な冒険者、安価な出世主義者、政治的山師など自国でも無用な、歓迎されない連中ばかりをつかんだのである」と書く。 著作は敗戦後、翻訳、紹介され、ノーマンの描いた玄洋社、頭山のイメージが定着していった観はいなめない。「歴史学者ハーバート・ノーマンは玄洋社を国家主義の源流とした 玄洋社の名が、連合国軍総司令部(GHQ)の文書に記されている。1946年(昭和21年)1月4日付の「ある種類の政党・協会・結社その他の団体の廃止に関する覚書」。GHQの最高司令官マッカーサーはこの日、「軍国主義指導者」の公職追放とともに、「超国家主義団体」に解散指令を発した。団体リストには、27団体の名前が並び、8番目に玄洋社。「Dark Ocean Society」と英訳されている。この方針の策定に深くかかわったのが、カナダ人の歴史家で外交官ハーバート・ノーマンと言われる。一時、GHQに籍を置き、マッカーサーとも親しかった。 ノーマンの履歴は、「解散指令導いた外交官」に次のように記されている。
|
【玄洋社とムスリム運動の接点】 | ||
「玄洋社とムスリム」を参照する。
|
|
【頭山満の言行録】 | ||
頭山は終生、西郷隆盛を尊敬し、西郷の言葉「敬天愛人」を座右の銘にした。ちなみに、中野正剛は自刃の際、机上に「大西郷全集」を広げ、進藤一馬も強い尊敬の念を抱いていた。 頭山は、「大西郷遺訓」講評で次のように述べている。
頭山の次のような言葉も伝えられている。
玄洋社は1人1派的なネットワークで繋がっていたところに特徴があった。福岡市博多区千代の玄洋社墓地にある先亡霊塔には「殺身成仁(身を殺し仁をなす)」と、頭山の力強い筆遣いの文字が刻まれている。玄洋社の原点がここにあったということであろう。西欧主義に傾斜する風潮に対し、理屈や能書きではなく、西郷的な生き方に憧憬し、そういう頭山を精神の支えとする者達の自然な結社として玄洋社活動が続いた。そういうところから、「彼らが目指したものは、近代合理主義に立脚した国づくりではなく、西郷が夢見た『もうひとつの日本』だったように思える」と評されている。 「ひとりでいても淋(さび)しくない人間になれ」。頭山は玄洋社の若い人たちにこう言った。単に孤独に打ち勝てというのではなく、自ら光を放つ人間になれ、という意味だったという。 頭山が重視したのは、「理論ではなく心情」であり、その心情は、在野精神に貫かれており、「時代背景や出会いが違えば、無政府主義者になっていたかもしれない」とも評されている。 |
(私論.私見)
【頭山満の履歴(プロフィール)と玄洋社(げんようしや)活動】(「玄洋社記念館案内」)
1855(安政2)-1944(昭和19)年。福岡を中心として活動した民族主義団体「玄洋社」の実力者、フィクサー。号は立雲。 |
福岡城下西新町に、筒井家に生まれる。福岡藩の出身。14歳の時、頭山家に養子に出され、以後頭山満となる。 幕末志士により明治維新が成就した。しかし新政府内は混乱した。そういう中で廃刀令、俸禄の廃止等を通じて士族が解体され、これらが原因となって「士族の反乱」が各地で発生した(「明治維新の史的過程考(1)(明治維新から西南の役まで)」参照)。福岡の箱田六輔などは江藤新平の佐賀の乱の鎮圧後、鹿児島の私学校、高知の立志社に倣って矯志社を組織した。頭山満もこの矯志社に投じて、萩の前原一誠、薩摩の篠原国幹らとの連携を保っていた。 1876(明治9).10月、萩の乱が起こり、神風連の乱が起こった。この過程で、福岡の不平士族も決起し、箱田六輔、進藤喜平太、頭山らは萩の乱に投じようとしたが、事前に洩れて逮捕投獄される。 翌1877(明治10)年、西郷隆盛の反乱、西南戦争が勃発した。しかし鎮圧された。矯志社の幹部・越知彦四郎などが呼応して福岡で兵を挙げたが失敗して斬罪に処せられる。矯志社は立ち直れぬほどの大打撃を受けた。 頭山は、西南戦争後出獄し、愛国社の国会開設運動に加わる。 西南戦争後、頭山は2度、鹿児島を訪れている。次のように伝えられている。「武村(現在の鹿児島市武)にあった西郷宅の門をたたき、『先生に会いに来た』。留守番役をしていた学者川口雪蓬は『西郷は死んだ』と追い返そうとした。しかし、頭山は『身体は死んでも、精神は生きている』と食い下がり、西郷の愛読書を持ち帰った。江戸後期の陽明学者大塩平八郎の『洗心洞箚記(せんしんどうさっき)』で、西郷の書き込みがあった」(引用元失念、失礼します。判明次第書き付けますのでご容赦をば)。 西郷軍に合流していた福岡藩の士族の一部は、内乱鎮定後結社化する。開墾社が設立される。 |
1878(明治11)年秋、頭山は、箱田六輔・平岡浩太郎らと向陽社を結成する。箱田六輔を社長とした。向陽社は、箱田六輔、進藤喜平太、頭山満、平岡浩太郎ら若き情熱に充ち活気に溢れた精鋭たちの胆力と知力が渾然一体となって発足した。これらはすべて高場乱の門下生である(高場は玄洋社の源流であるとして、現在なお、玄洋社記念館にその肖像画が保存されている)。 共感していた西郷を失い、武力による新政府打倒に挫折した頭山らは、「反政府」の新たな旗印として自由民権を掲げる。土佐の立志社と同じく、落魄士族を中心とする自由民権運動団体となった。この頃は国会開設運動など、民権論者として活動した。他方、世界の時勢は、アジアへの欧米列強の圧力は日増しに強まり、朝鮮半島でも旧体制を変革しようとの動きが出ていた。向陽社は、この時流に呼応し、征韓論や反政府的思想を説いた。 頭山は、筑前共愛会の活動にも加わる。 |
1879(明治12).12月、向陽社は玄洋社と改名された。玄洋社は、「戦前期に隠然たる勢力を持った国家主義・大アジア主義団体」と評されている。 初代社長に平岡浩太郎を選び、福岡に本部を置いた。結局、頭山は終生、玄洋社の会長となることはなく、また生涯公職につくこともなかった。立場上、後見人を貫いたが、しかし頭山は常に玄洋社を代表する右翼の巨頭であった。 玄洋社は、「第一条 皇室を敬戴すべし」、「第二条 本国を愛重すべし」、「第三条、人民の権利を固守すべし」の三憲則を基幹とし、国内では祖国日本の真の独立という大目標を目指して、自由民権の普及に献身、憲法の新設、国会の開設に奔走した。祖国の国力の伸張に奔走する一方、屈辱的外交条約の破棄、アジア主義に基くアジア民族の自決独立の援助に勇往邁進していった。 その後の玄洋社は、自由民権運動から転じ、天皇主義・国権主義に傾斜していきナショナリズム運動を展開していった。アジアの解放という壮大な構想の下での大アジア主義を提唱し始め、中華民国の辛亥革命支援をはじめとして数々の奔放多彩な活動を展開していく。大きく観て、自由民権運動から派生した右派的潮流の流れに属する。 一方で、玄洋社は新聞事業にも手を出してゆく。頭山が福陵新報(福陵とは福岡のことである)を創設し、明治31年、「九州日報」と改称し、さらに昭和17年、「福岡日日新聞」と合同して「西日本新聞」となる。 1885年(明治18年)、福沢は日刊紙「時事新報」を創刊し、アジア観の集大成「脱亜論」を載せた。「我が国は隣国の開明を待って亜細亜を興す猶予なし。西洋の文明国と進退を共にし、亜細亜東方の悪友を謝絶するものなり」。この福沢の脱亜論と頭山の興亜論が微妙なハーモニーを奏でていくことになる。 玄洋社発足当初は、箱田六輔、頭山満などが中心メンバーであったが、次第に大陸浪人として著名な内田良平(のち黒龍会会長)、杉山茂丸(政界浪人)など多数が参加していた。時にはテロリズムによって政界を揺さぶり、対外硬政策をとらせようとしばしば動いた。 その一方で、多くの社員が大陸へわたり、裏面工作や謀略工作、時には馬賊と行を共にする社員もざらであったという。日露戦争後、満蒙問題が大きくなるに連れて彼ら大陸浪人は関東軍と共同し、ときに関東軍の手先のようにして働いた。なお、その為の金は九州の炭坑からあがる収益でまかなわれていたといわれる。 国内の玄洋社自体は、内田良平が黒龍会を設立したことによって大陸浪人結社としての側面を後退させたが、それでも日本国内の国粋主義活動の源泉であり、同時に政界のフィクサー的存在として隠然たる勢力を持っていた頭山満のために長く維持された。 |
1889(明治22)年、伊藤内閣の外相として不平等条約改正にあたっていた大隈が、玄洋社社員で頭山の片腕・杉山茂丸に爆弾を投げつけられ右脚を失うという事件が発生した。杉山は、この条約改正が国辱的であるとして大隈をテロった。(一方、来島の大隈重信襲撃事件の取材では、現代の価値観から、是非を判断することの難しさを痛感した。欧米列強による半植民地化につながる恐れがあった条約改正案に対し、国民的な反対運動が起きた。明治天皇自ら乗り出したが、大隈の方針が覆せないとわかった時、来島は命を投げ出して止めようとした、ともある。この関係が分からない) 玄洋社はこの事件により不気味なテロ団体としてむしろ影響力を強めていった。玄洋社は九州のみにとどまらず次第に中央政界にも勢力を扶植していくことになる。 |
頭山の活動の中で、注目すべきは、アジア諸国の独立活動家との交流と、在野志士として外交運動に明確に関わり続けたことである。独特の大アジア主義の立場をとり、朝鮮の開化派金玉均、孫文、インドのラス・ビハリボースなどの亡命政治家を援助する他方で、条約改正問題では最も強硬に排外主義的民族主義運動をおこした。その資金は、筑豊炭田に代表される北九州の鉱工業から出たと言われる(頭山自身、平岡とともに炭坑を経営していた)。 また、日清戦争前すでに対露同志会に加わって日露開戦を主張するなど、つねに日本の対外進出を計り、強硬外交を唱えた。日清戦争時には天佑侠団、日露戦争時には満洲義軍という大陸浪人による結社を派遣し、日本のアジア進出に積極的な一役を買った。頭山は、こういった活動を通して自己の影響力を拡大していった。 日清・日露両戦争時には政界の裏面で暗躍し、第1次松方内閣の選挙干渉への協力、大正期の宮中某重大事件では皇室尊崇の考えの下に、長州閥の元締・山県有朋に反対するなど多面的な政治活動を行った。政治資金などを豊富に集め、軍部・財閥・官僚を結ぶ位置を占めた。 |
玄洋社は次第に国家主義的団体的色彩を強め、その後の右翼団体の源流となった。黒竜会、浪人会、大日本国粋会、関東国粋会など国家主義を標榜する団体のほとんどはこの玄洋社の系統につながっている。玄洋社は、テロ行為を含めて黒幕として恐れられ、なかでも頭山は右翼の大物として敗戦時の解散まで君臨しつづけた。 その貢献力は明治末期には既に東南アジア各国に有名となり、各国の政治家が続々と玄洋社を訪れている。なかでも中国革命に於ける玄洋社の存在は大きく、以後第二次世界大戦終了直後まで日中和平工作を継続していた政治結社は玄洋社を除いて他にない。 頭山は、大正後半頃から表立った活動はしなくなったが、家長選挙制度を訴えたり、アメリカ排日移民制度に反対したりしている。頭山は長命し、ほとんど神秘的な印象すらあるが、昭和十九(1944)年十月、静岡県御殿場で長い生涯を閉じる。芝増上寺でおこなわれた葬儀は、葬儀委員長広田弘毅、副委員長緒方竹虎、参列するのは荒木貞夫、松井巌根、有田八郎など錚々たる顔ぶれであったという。 参列したひとりである、老政客・古島一雄(頭山とおなじく、アジアの独立革命家を支援した犬養毅の政友)は、かつて頭山の別荘から同志に宛てた手紙の中で、故人についてこう評する。「窓を排すれば富士目前に迫り、内に在れば立雲(頭山のことである)端座山の如し、天下人間英霊の気悉く此内に満つ」。 頭山の遺骨は崇福寺の玄洋社墓地(福岡市博多区千代)、頭山家の菩提寺・円応寺(同市中央区大手門)、東京・青山墓地に分骨された。峰尾は青山墓地で一緒に眠っている。 |
玄洋社は、多彩かつ豊富に人材を輩出した。頭山満、箱田六輔、平岡浩太郎、進藤喜平太、杉山茂丸、内田良五郎、来島直喜、香月恕経、奈良原到、内田良平など枚挙にいとまがない。さらに玄洋社の流れをくんで大成した逸材も山座円次郎、広田弘毅、中野正剛、緒方竹虎など目白押しである。 |
1944.9月、第十代目の玄洋社社長に進藤一馬氏が就任した。広田弘毅、緒方竹虎、安川第五郎ら先輩たちの推挙によった。進藤氏は最初は固辞していたが、「頭山の『そっちが一番の適任者。万事よろしくやってくれ。広田、緒方らによく相談して』の言葉で腹を決めた」とのこと。玄洋社社長は進藤氏が最後となる。 1945.6.19日、福岡大空襲で玄洋社の社屋は焼失。孫文の書も、大隈重信を襲撃した来島恒喜が着ていたモーニングコートも灰と化した。 連合国軍総司令部(GHQ)の指令で玄洋社は解散。一馬は公職を追放され、「超国家主義団体のリーダー」として逮捕された。 東京・巣鴨の拘置所で、3階にいた広田が階段を下りて運動場に行く途中、1階の一馬の部屋の前に立った。鉄格子に駆け寄った一馬に、「心配ない。君のことはよく説明しておいた」と手短に告げて立ち去った。「いくら調べても玄洋社が好戦主義の秘密結社とする証拠は出てこなかった。それで釈放された」と云う。進藤一馬は、「実際の玄洋社は昭和11年からは財団法人となり、政治結社としての実践団体ではなかった。柔道場明道館だけがかろうじて維持されていた」と回顧している。 2年8か月の獄舎生活から解放された一馬は、先人たちの名誉回復に動き出す。1952年、福岡正剛会、翌年、頭山立雲会を設立。中野正剛記念碑を建立し、広田の銅像建設期成会の会長を務めた。 1978年、玄洋社記念館落成。館報第1号に一馬は、こう記している。 「(社長就任から)わずか一年数か月後に解散を余儀なくされ、大任を果たせなかったことを何とかして償いたいと願い、記念館設立に一念発起しました」とのこと。 進藤氏は、衆議院議員、前福岡市長を務め、平成4.11月89歳で没した。その進藤氏のが奔走で創設されたのが玄洋社記念館。玄洋社記念館は、資料の収集、展示、研究会、講演会の開催、先覚の顕彰・慰霊祭の実施、広報紙発行などの事業を行っている。 |
参考資料:「立雲翁の面影」(非売品、明道館)、「国史大事典」、および玄洋社記念館(福岡市舞鶴)所収の諸史料、『玄洋社々史』明治文献http://kyushu.yomiuri.co.jp/genyou/genmain.htm |
【歴史学者ハーバート・ノーマンの頭山評】 | |
以下、「頭山満と玄洋社」その他を参照する。 戦後、カナダ人歴史学者ハーバート・ノーマンは、獄中下の共産主義者の釈放に尽力したことで知られている。そのノーマンの「頭山満と玄洋社」に向ける視線は厳しい。カナダ人歴史学者ハーバート・ノーマン「福岡こそは日本の国家主義と帝国主義のうちでも最も気違いじみた一派の精神的発祥地として重要である」として、危険な軍国主義者団体として捉えている。ノーマンの目には、玄洋社は、「旧式の膨張主義圧力集団」(「日本における特定政党・団体・結社の解散」)と映っていた。 太平洋戦争中の44年に発表した論文「玄洋社―日本帝国主義の源流」の前書きでは、「日本帝国主義、反動の重要な邪悪な役割を演じてきた」「(戦後も)彼らは再び日本軍国主義復活の先ぽうとなる恐れがある」とし、強い警戒感を抱いていたことがうかがえる。 頭山満らが、アジア各地の革命家、独立運動家らを支援したことについても否定的。孫文らを厚遇したのは、日本の利益につながることを期待していたとした。フィリピンのアギナルド、インドのラス・ビハリ・ボースらについては、「無節操な冒険者、安価な出世主義者、政治的山師など自国でも無用な、歓迎されない連中ばかりをつかんだのである」と書く。 著作は敗戦後、翻訳、紹介され、ノーマンの描いた玄洋社、頭山のイメージが定着していった観はいなめない。「歴史学者ハーバート・ノーマンは玄洋社を国家主義の源流とした 玄洋社の名が、連合国軍総司令部(GHQ)の文書に記されている。1946年(昭和21年)1月4日付の「ある種類の政党・協会・結社その他の団体の廃止に関する覚書」。GHQの最高司令官マッカーサーはこの日、「軍国主義指導者」の公職追放とともに、「超国家主義団体」に解散指令を発した。団体リストには、27団体の名前が並び、8番目に玄洋社。「Dark Ocean Society」と英訳されている。この方針の策定に深くかかわったのが、カナダ人の歴史家で外交官ハーバート・ノーマンと言われる。一時、GHQに籍を置き、マッカーサーとも親しかった。 ノーマンの履歴は、「解散指令導いた外交官」に次のように記されている。
|
【玄洋社とムスリム運動の接点】 | ||
「玄洋社とムスリム」を参照する。
|
|
【頭山満の言行録】 | ||
頭山は終生、西郷隆盛を尊敬し、西郷の言葉「敬天愛人」を座右の銘にした。ちなみに、中野正剛は自刃の際、机上に「大西郷全集」を広げ、進藤一馬も強い尊敬の念を抱いていた。 頭山は、「大西郷遺訓」講評で次のように述べている。
頭山の次のような言葉も伝えられている。
玄洋社は1人1派的なネットワークで繋がっていたところに特徴があった。福岡市博多区千代の玄洋社墓地にある先亡霊塔には「殺身成仁(身を殺し仁をなす)」と、頭山の力強い筆遣いの文字が刻まれている。玄洋社の原点がここにあったということであろう。西欧主義に傾斜する風潮に対し、理屈や能書きではなく、西郷的な生き方に憧憬し、そういう頭山を精神の支えとする者達の自然な結社として玄洋社活動が続いた。そういうところから、「彼らが目指したものは、近代合理主義に立脚した国づくりではなく、西郷が夢見た『もうひとつの日本』だったように思える」と評されている。 「ひとりでいても淋(さび)しくない人間になれ」。頭山は玄洋社の若い人たちにこう言った。単に孤独に打ち勝てというのではなく、自ら光を放つ人間になれ、という意味だったという。 頭山が重視したのは、「理論ではなく心情」であり、その心情は、在野精神に貫かれており、「時代背景や出会いが違えば、無政府主義者になっていたかもしれない」とも評されている。 |
中村天風の師でもある頭山満という人物像を垣間見てみる
《頭山満》/夢野久作
筆者のお目にかかった頭山先生は、御自身で、御自身を現代の聖人とも、昭和維新の原動力とも、何とも思って御座らぬ。
「俺は若い時分にチットばかり、漢学を習うたダケで、世間の奴のように、骨を折って修養なぞして無い。一向ツマラヌ芸無し猿じゃ」と自分でも云うて御座る。
それでいて西郷隆盛のいわゆる、生命(いのち)も要らず、名も要らず、金も官位も要らぬ九州浪人や、好漢安永氏のいわゆる「頭山先生の命令とあれば火の柱にでも登る」というニトロ・グリセリン性の青年連に尻を押されて、新興日本の尻を押し通されて、新興日本の尻を押し通して御座った……しかも一寸一刻も、寝ても醒めても押し外した事は無かった。
日本民族をして日清、日露の国難を押し通させて、今は又、昭和維新の熱病にかかりかけている日本を、そのまんま1935年の非常時の火の雨の中に押し出そうとして御座る。……ように見えるが、その実、御自身ではドウ思っているかわからない。
ただ、相も変わらず芸無し猿、天才的な平凡児として持って生まれた天性を、あたり憚らず発揮しつくしながら悠々たる好々爺として、今日まで生き残って御座る。
そこが筆者の眼に古今無双の奇人兼、快人と見えたのだから仕方が無い。世間のいわゆる快人傑士が、その足下にも寄り付けない奇行快動ぶりに、測り知られぬ平々凡々な先生の、人間性の偉大さを感じて、この八十歳の好々爺が心から好きになってしまったのだから致し方マ無い。
そうして是非とも現代のハイカラ諸君に、このお爺さんを紹介して、諸君の神経衰弱を一挙に吹き飛ばしてみたくなったのだから止むを得ない。(以下、略)
【出展】
「玄洋社怪人伝ー頭山満とその一派」書しん心水’13年
中野 正剛(明治38年卒)
早大出身の政治家、中野正剛(なかのせいごう)。「中野の歴史的演説」は、1942年(昭和17)11月10日、早大の大隈講堂で開かれた創立60周年の記念講演として行われた。太平洋戦争が始まって、約1年後である。中野は熱弁を振るった。〈日本の巨船は怒とうの中に漂っている。便乗主義者を満載していては危険である。諸君、自己に目覚めよ。天下一人をもって興れ〉それは、後輩たちを激励すると同時に、当時の東条英機(とうじょうひでき)内閣への批判の意味が込められていた。学生たちは起立し、校歌を合唱してこたえた。中野の演説を聞いた学生たちの多くは、やがて学徒出陣などによって戦地で命を落とし、中野もこの演説からほぼ1年後の43年(昭和18)10月21日、倒閣を策した容疑で連行され、同月27日、東京・代々木の自宅で自決する。(読売新聞「人ありて~頭山満と玄洋社~」第1部⑨より) *国は経済によりて滅びず,敗戦によりてすら滅びず。指導者が自信を喪失し,国民が帰趨に迷ふことによりて滅びるのである。「戦時宰相論」(『朝日新聞』昭和18年1月1日) |