玄洋社とムスリム運動の接点 |
更新日/2021(平成31→5.1栄和改元/栄和3).2.17日
(れんだいこのショートメッセージ) |
ここで、「玄洋社とムスリム運動の接点」を確認しておく。 2004.8.21日 れんだいこ拝 |
(まだまだ未整備です。とりあえず仮打ったてしとこ。この派の人は著作権なんて野暮なことは云わないよねぇ)
【玄洋社とムスリム運動の接点】 | ||
「玄洋社とムスリム」を参照する。
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【頭山満の言行録】 | ||
頭山は終生、西郷隆盛を尊敬し、西郷の言葉「敬天愛人」を座右の銘にした。ちなみに、中野正剛は自刃の際、机上に「大西郷全集」を広げ、進藤一馬も強い尊敬の念を抱いていた。 頭山は、「大西郷遺訓」講評で次のように述べている。
頭山の次のような言葉も伝えられている。
玄洋社は1人1派的なネットワークで繋がっていたところに特徴があった。福岡市博多区千代の玄洋社墓地にある先亡霊塔には「殺身成仁(身を殺し仁をなす)」と、頭山の力強い筆遣いの文字が刻まれている。玄洋社の原点がここにあったということであろう。西欧主義に傾斜する風潮に対し、理屈や能書きではなく、西郷的な生き方に憧憬し、そういう頭山を精神の支えとする者達の自然な結社として玄洋社活動が続いた。そういうところから、「彼らが目指したものは、近代合理主義に立脚した国づくりではなく、西郷が夢見た『もうひとつの日本』だったように思える」と評されている。 「ひとりでいても淋(さび)しくない人間になれ」。頭山は玄洋社の若い人たちにこう言った。単に孤独に打ち勝てというのではなく、自ら光を放つ人間になれ、という意味だったという。 頭山が重視したのは、「理論ではなく心情」であり、その心情は、在野精神に貫かれており、「時代背景や出会いが違えば、無政府主義者になっていたかもしれない」とも評されている。 |
(私論.私見)
中村天風の師でもある頭山満という人物像を垣間見てみる
《頭山満》/夢野久作
筆者のお目にかかった頭山先生は、御自身で、御自身を現代の聖人とも、昭和維新の原動力とも、何とも思って御座らぬ。
「俺は若い時分にチットばかり、漢学を習うたダケで、世間の奴のように、骨を折って修養なぞして無い。一向ツマラヌ芸無し猿じゃ」と自分でも云うて御座る。
それでいて西郷隆盛のいわゆる、生命(いのち)も要らず、名も要らず、金も官位も要らぬ九州浪人や、好漢安永氏のいわゆる「頭山先生の命令とあれば火の柱にでも登る」というニトロ・グリセリン性の青年連に尻を押されて、新興日本の尻を押し通されて、新興日本の尻を押し通して御座った……しかも一寸一刻も、寝ても醒めても押し外した事は無かった。
日本民族をして日清、日露の国難を押し通させて、今は又、昭和維新の熱病にかかりかけている日本を、そのまんま1935年の非常時の火の雨の中に押し出そうとして御座る。……ように見えるが、その実、御自身ではドウ思っているかわからない。
ただ、相も変わらず芸無し猿、天才的な平凡児として持って生まれた天性を、あたり憚らず発揮しつくしながら悠々たる好々爺として、今日まで生き残って御座る。
そこが筆者の眼に古今無双の奇人兼、快人と見えたのだから仕方が無い。世間のいわゆる快人傑士が、その足下にも寄り付けない奇行快動ぶりに、測り知られぬ平々凡々な先生の、人間性の偉大さを感じて、この八十歳の好々爺が心から好きになってしまったのだから致し方マ無い。
そうして是非とも現代のハイカラ諸君に、このお爺さんを紹介して、諸君の神経衰弱を一挙に吹き飛ばしてみたくなったのだから止むを得ない。(以下、略)
【出展】
「玄洋社怪人伝ー頭山満とその一派」書しん心水’13年
中野 正剛(明治38年卒)
早大出身の政治家、中野正剛(なかのせいごう)。「中野の歴史的演説」は、1942年(昭和17)11月10日、早大の大隈講堂で開かれた創立60周年の記念講演として行われた。太平洋戦争が始まって、約1年後である。中野は熱弁を振るった。〈日本の巨船は怒とうの中に漂っている。便乗主義者を満載していては危険である。諸君、自己に目覚めよ。天下一人をもって興れ〉それは、後輩たちを激励すると同時に、当時の東条英機(とうじょうひでき)内閣への批判の意味が込められていた。学生たちは起立し、校歌を合唱してこたえた。中野の演説を聞いた学生たちの多くは、やがて学徒出陣などによって戦地で命を落とし、中野もこの演説からほぼ1年後の43年(昭和18)10月21日、倒閣を策した容疑で連行され、同月27日、東京・代々木の自宅で自決する。(読売新聞「人ありて~頭山満と玄洋社~」第1部⑨より) *国は経済によりて滅びず,敗戦によりてすら滅びず。指導者が自信を喪失し,国民が帰趨に迷ふことによりて滅びるのである。「戦時宰相論」(『朝日新聞』昭和18年1月1日) |