玄洋社とムスリム運動の接点

 更新日/2021(平成31→5.1栄和改元/栄和3).2.17日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「玄洋社とムスリム運動の接点」を確認しておく。

 2004.8.21日 れんだいこ拝


 (まだまだ未整備です。とりあえず仮打ったてしとこ。この派の人は著作権なんて野暮なことは云わないよねぇ)

【玄洋社とムスリム運動の接点】
 玄洋社とムスリムを参照する。

 「興亜論者とムスリム
 世界の道義的統一を目指した日本人たちは、東アジアだけでなくイスラーム諸国に対しても特別な関心を払っていた。その中心にいたのが興亜論者であった。 彼らは、欧米に抑圧されるムスリムの惨状を我が事のように考え、欧米列強の植民地支配からの解放を目指して協力しようとしていた。

 だが、この歴史的事実は戦後歪曲されてきた。ムスリムに接近した者はみな、イスラーム理解者などではなく、ただ日本の占領地域の統治や、戦争遂行上の戦略としてムスリムに接近したに過ぎないのだと。確かに、1930年代後半以降にはそうした意図からムスリムに接近する動きもあった。しかし、興亜論者の多くは、そうではなかったのである。

 たとえば田澤拓也氏は、『ムスリム・ニッポン』の中で、1938年の東京モスク開堂式に、軍部や興亜論者の大物が顔をそろえたことの不自然さを強調し、「イスラームと縁もゆかりもない軍部と右翼」と書いている 。果たして、頭山満はイスラームと縁もゆかりもなかったのか。それは大きな誤りである。興亜論者と来日したムスリムたちが、早くも1910年前後から交流していた事実をここで明らかにしておきたい。

 1909年6月には、日本でのイスラーム布教とアジアの防衛を目的として亜細亜義会という団体が結成されている。ここには頭山満、内田良平、満川亀太郎らの興亜論者と、アブデュルレシト・イブラヒーム、A・H・ムハンマド・バラカトゥッラー、アハマド・ファドリーらのムスリムが参加していた。

 亜細亜義会は、イスタンブールやメッカに書簡を送り、日本へのイスラーム指導者の派遣を要請したり、トルコ語の講習を行ったりするなど、日本人のイスラーム理解促進のために地道な活動を行っていた。そして、この当時から日本にモスク建設しようという議論をしていたのである。田中逸平ら日本人のメッカ巡礼を支援した若林半も、頭山に近い興亜論者であった。

 頭山率いる玄洋社が、孫文や朝鮮独立党の金玉均らを支援したり、ビハリ・ボースほはじめとする多くのアジア人亡命者に手を差し伸べたことは比較的よく知られているが、そこにはムスリムもいたということである。

 こうした事実は、日本人のイスラーム理解の出発点として、さらに実証すべき課題だと筆者は考えている。こうした思いで、2001年12月、筆者は福岡の玄洋社記念館を訪れた。訪問前に館長の進藤龍生氏には「玄洋社とムスリムの交流について調べている」旨、お伝えしてあった。

前列右から古島一雄、頭山満、犬養毅、五百木良三、
後列右から足羽清美、在神戸回教僧正シャムグノーフ、
在東京回教僧正クルバンガリー、島野三郎
 

展示された写真の中には、やはり頭山とムスリムたちの交流を示すものがあった。進藤氏は、その写真も収められいる藤本尚則編著『頭山滿翁冩眞傳』を確認し、筆者にその写真解説を見せてくれた。さらに、進藤氏はトルコ系の女性が来館したことを教えてくれたのである。 筆者が、機関紙『玄洋』を調べてみると、確かに1993年3月17日、福岡ユネスコ協会専務理事の竹藤寛氏の案内で、当時慶応義塾大学法学部助教授だったサルジュク・エセンベル女史が来館したとの記事が発見された(同年6月1日号)。

 エセンベル女史の訪問理由こそ、頭山と交流のあったイブラヒームの資料収集であった。その記事は、イブラヒームが1933年に再び来日したときのできごととして、「頭山翁は晩年に至るまで一貫してムスリム解放に献身した老闘士イブラヒム氏を国技館の夏場所に招待」と記して、そのときの写真を掲載している。

 むろん頭山とイブラヒームの目的が完全に一致していたわけではないかもしれない。しかし、二人の間にはアジア解放という同じ志を抱く者同士の信頼感が存在したように、筆者には見える。 日本人のイスラーム理解を考えるとき、戦前の興亜論者とムスリムの交流にもっと光が当てられてもいいのではなかろうか。



【頭山満の言行録】
 頭山は終生、西郷隆盛を尊敬し、西郷の言葉「敬天愛人」を座右の銘にした。ちなみに、中野正剛は自刃の際、机上に「大西郷全集」を広げ、進藤一馬も強い尊敬の念を抱いていた。

 頭山は、「大西郷遺訓」講評で次のように述べている。
 「天を敬し、人を愛す。ここが南洲翁の大眼目じゃろう。世の中を渡るの道はこの敬愛の2字に尽きる。親子、夫婦、兄弟、町内の付き合い、広くは国際間の交際であろうと、別に変わったことではないのじゃ」。

 頭山の次のような言葉も伝えられている。

 「有名な者は他の人が助ける。無名だからこそ自分が助ける」。

 玄洋社は1人1派的なネットワークで繋がっていたところに特徴があった。福岡市博多区千代の玄洋社墓地にある先亡霊塔には「殺身成仁(身を殺し仁をなす)」と、頭山の力強い筆遣いの文字が刻まれている。玄洋社の原点がここにあったということであろう。西欧主義に傾斜する風潮に対し、理屈や能書きではなく、西郷的な生き方に憧憬し、そういう頭山を精神の支えとする者達の自然な結社として玄洋社活動が続いた。そういうところから、「彼らが目指したものは、近代合理主義に立脚した国づくりではなく、西郷が夢見た『もうひとつの日本』だったように思える」と評されている。

 「ひとりでいても淋(さび)しくない人間になれ」。頭山は玄洋社の若い人たちにこう言った。単に孤独に打ち勝てというのではなく、自ら光を放つ人間になれ、という意味だったという。

 頭山が重視したのは、「理論ではなく心情」であり、その心情は、在野精神に貫かれており、「時代背景や出会いが違えば、無政府主義者になっていたかもしれない」とも評されている。





(私論.私見)

中村天風の師でもある頭山満という人物像を垣間見てみる

《頭山満》/夢野久作
 筆者のお目にかかった頭山先生は、御自身で、御自身を現代の聖人とも、昭和維新の原動力とも、何とも思って御座らぬ。
 「俺は若い時分にチットばかり、漢学を習うたダケで、世間の奴のように、骨を折って修養なぞして無い。一向ツマラヌ芸無し猿じゃ」と自分でも云うて御座る。
 それでいて西郷隆盛のいわゆる、生命(いのち)も要らず、名も要らず、金も官位も要らぬ九州浪人や、好漢安永氏のいわゆる「頭山先生の命令とあれば火の柱にでも登る」というニトロ・グリセリン性の青年連に尻を押されて、新興日本の尻を押し通されて、新興日本の尻を押し通して御座った……しかも一寸一刻も、寝ても醒めても押し外した事は無かった。
 日本民族をして日清、日露の国難を押し通させて、今は又、昭和維新の熱病にかかりかけている日本を、そのまんま1935年の非常時の火の雨の中に押し出そうとして御座る。……ように見えるが、その実、御自身ではドウ思っているかわからない。
 ただ、相も変わらず芸無し猿、天才的な平凡児として持って生まれた天性を、あたり憚らず発揮しつくしながら悠々たる好々爺として、今日まで生き残って御座る。
 そこが筆者の眼に古今無双の奇人兼、快人と見えたのだから仕方が無い。世間のいわゆる快人傑士が、その足下にも寄り付けない奇行快動ぶりに、測り知られぬ平々凡々な先生の、人間性の偉大さを感じて、この八十歳の好々爺が心から好きになってしまったのだから致し方マ無い。
 そうして是非とも現代のハイカラ諸君に、このお爺さんを紹介して、諸君の神経衰弱を一挙に吹き飛ばしてみたくなったのだから止むを得ない。(以下、略)

【出展】
 「玄洋社怪人伝ー頭山満とその一派」書しん心水’13年  


中野 正剛(明治38年卒)

 早大出身の政治家、中野正剛(なかのせいごう)。「中野の歴史的演説」は、1942年(昭和17)11月10日、早大の大隈講堂で開かれた創立60周年の記念講演として行われた。太平洋戦争が始まって、約1年後である。中野は熱弁を振るった。〈日本の巨船は怒とうの中に漂っている。便乗主義者を満載していては危険である。諸君、自己に目覚めよ。天下一人をもって興れ〉それは、後輩たちを激励すると同時に、当時の東条英機(とうじょうひでき)内閣への批判の意味が込められていた。学生たちは起立し、校歌を合唱してこたえた。中野の演説を聞いた学生たちの多くは、やがて学徒出陣などによって戦地で命を落とし、中野もこの演説からほぼ1年後の43年(昭和18)10月21日、倒閣を策した容疑で連行され、同月27日、東京・代々木の自宅で自決する。(読売新聞「人ありて~頭山満と玄洋社~」第1部⑨より)

*国は経済によりて滅びず,敗戦によりてすら滅びず。指導者が自信を喪失し,国民が帰趨に迷ふことによりて滅びるのである。「戦時宰相論」(『朝日新聞』昭和18年1月1日)