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明治39年生まれ。会津藩城代家老家の家系で、出身は北海道函館(亀田郡七飯町)。幼少の頃父親(逓信省の役人)を失い、母親の手で育てられる。次男は田中愛治。 |
函館中学から弘前高校へ進む。 |
在学中、軍事教練反対闘争、東北の農民運動などを指導。休暇を利用して小樽港に潜り込み、沖中仕6000名の大ストを組織している。 |
東大入学と共に入党。新人会を拠点に激しいオルグ活動を展開し、学内の右翼グループ七生社と対立、新人会の自衛隊長として睨み合う。 |
東京地方委員長、地区オルグ責任者、党中央委員長歴任。この時代が「武装共産党」と云われている。 |
和歌山へ本部を移した昭和5.2月、特高の急襲を受けるも、拳銃の乱射戦の末逃走する。 |
同年7月、東京祖師谷大蔵のアジトに潜伏中特高・中川茂夫刑事に検挙される。この時24歳。 |
1933(昭和8)年、同志の小宮山ひでと獄中結婚。 |
1941(昭和16)年4月、逮捕後11年に及ぶ獄中生活を送る。母が自刃したことで衝撃を受け獄中転向し刑務所から仮出所する。 |
身元引受人となった山本玄峰老師に私淑し、刑務所で11年を過ごした後、田中が身を寄せ、三島の禅寺・龍沢寺での修行生活に入る。和歌山出身の老師は、大正時代に荒れ果てていた龍澤寺の住職となり再興させていた。昭和の初めに東京で接心会を開き、政財界に多くの帰依者を生んだ。終戦時は、鈴木貫太郎総理に無条件降伏を密かに勧告したとされる。
その頃の田中は共産主義を捨てたが、それに代わる道が分からず苦悶していた。龍澤寺での最初の修業は典座、いわゆる飯炊きだった。それまで炊事場など入ったこともなく、しょっちゅう焦げ飯を作ってしまう。そこへ老師が顔を出し、「もったいないこっちゃ」と口に入れ、冷や汗をかいたという。
「それから時々回ってくると、私の顔を見て『あんたは殺生しとるな』と言われるが、禅寺のことで鳥や魚を料理しているわけではないから、そう言われてもこっちは何のことかさっぱり分からない。三ヵ月ぐらいたって、どうにかまともな飯が炊けるようになった頃、老師は『あんたもやっと殺生せんようになった』と言われた。それで僕も、なるほど物の味を生かすのが料理で、それを生かさぬのが殺生かと。そうすると今度は、物の価値を生かすのは経済で、人と物の価値を最大限生かすのが政治だなと、ピーンときた。これが龍沢寺へ行って、悟りというものの入り口に立った最初の出来ごとでしたね。毎日、毎日飯炊きをやった末のことでした」(「田中清玄自伝」)。
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終戦後は、神中組(後の三幸建設工業)、神中造船、沼津酸素工業、三島木材、丸和産業、光祥建設、田中技術開発総合研究所など幾つかの会社を経営。 |
戦後は、過激化した共産党に対抗して電源防衛隊を組織、ヤクザも動員して発電所を守り、それがきっかけで、東京電力などとつながりができる。(第1回「共産党の発電所破壊工作を阻止した男」)
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戦後は主として海外で活動した。次のように評されている。
「日本でのマスコミの風評とは異なり、彼はこれらの地域では、『トーキョータイガー』と呼ばれた革命家であり、中東から東南アジア諸国の独立のために命をかけた熱血漢だった」。 |
「彼は、戦後日本に温存された守旧勢力と一切の妥協をせず、それに挑戦状をたたきつけ、若き企業家、政治家、学者など、新興勢力を糾合して新しい、強力な日本産業国家の再建に尽力していた」。 |
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60年代は、山口組3代目の田岡一雄組長と麻薬追放運動を行い、右翼の児玉誉士夫と対決、狙撃されるが奇跡的に命を取り留めた。 |
さらに単身中東へ乗り込み、アラブ首長国連邦のザーイド大統領と深い絆を持った。それが縁で、アブダビの海上油田権益を日本にもたらし、恩恵を受けたのが、火力発電の燃料に苦慮する電力業界だった。そうした足跡が、東京電力も含む各社の社史から丸々消されている。
終戦直後から行動を共にした側近、太田義人によると、始まりは、アブダビのザーイド首長との運命的な出会いだった。最初は勇んで乗り込んだものの、交渉の糸口もなく、田中は途方に暮れていたという。
「後で通訳した人間から聞いたんだけどね、アブダビの王様に石油の話で会いに行ったが、中々ルートがつかず、ホテルで待っていたと。そこで、たまたま知り合ったシャンデリアの商人に、『明日、王様に会うんだけど一緒に行くか』って言われ、車に乗って行ったんだって。あの頃、王様は住民を集めて、皆の話を聞いてたんです。そこで田中は、預かっていった明治天皇の像を渡してね、こう言ったそうだ。『日本には明治天皇という大変立派な方がおって、これだけの国を作り上げた。あなたも、こうならなくちゃいかん』と」。 |
今でこそアラブ首長国連邦のアブダビやドバイは高層ビルが並ぶが、60年代は砂漠の鄙(ひな)びた街に過ぎなかった。そこへ幾つもの小規模な首長国をまとめ、連邦の初代大統領に就くのがザーイドだ。石油資源こそあれ、どうやって将来の国を作るか葛藤の日々が続いていた。
「それから、田中が狙撃された時の話になってね。体に傷があるでしょ。俺は日本のテロリストにやられた、と。服を脱いで、ピストルで撃たれた跡を見せたっていう訳。俺は空手をやるんだ。ここに弾が当たって、こうやって叩いて、相手を押えて、突き出したと。実演したらしい。そしたら、王様がすっかり喜んじゃってね。王様も刺客に狙われたことがあるらしい。すっかり同志になって、いつでも来てくれってなっちゃった。それが縁です。金とか、商売とかの話じゃないよね。通訳も、いや、凄い勢いだったって言ってた」 。 |
そして本人もザーイドに、「アラブ世界でピタリと波長の合った数少ない人物の一人」と最大限の称賛を送った。「田中清玄自伝」が次のように記している。
「お付き合いをしてみて、僕はその人柄、識見、判断力、行動力、それらをすべて総合して、彼こそがアラビア人としては最高の英傑だと思った。今でもこの評価は変わりません。彼が偉いのは、自らの部族であるアブダビのことだけを考えているのではなく、同一種族のドバイ、アジマーン、シャルジャ、ウムアルカイワイン、フジャイラ、ラスアルハイマやオマーンなど、アラビア湾岸のアブダビと同一部族全体のことを常に考えている点だった」
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「このシェイクザイド大統領がいたお蔭で、日本は広大なアブダビ海上油田開発に参加できたんです」。 |
そうした中、切り込み隊長となったのが田中だが、行動原理はどうも石油だけではなさそうだ。太田の証言を続ける。
「その後の田中の発想が面白いんですよ。空手の連中を連れていって、アブダビの軍隊に空手を教えたんです。向こうの陸軍将校の待遇でね。それで、ずっと教えておった。やはり、石油ってのは、田中みたいに無茶苦茶な人でないとね。普通の商売人が行ったんじゃ、窓口に行ってくれ、となるでしょ」。 |
「通訳の話を聞くと、王様と会ってる時、オタイバがいてね、『デビル(悪魔)』って嫌な顔をしたらしい。でも田中は、石油の話で、オタイバなんて全然相手にしてないから。何かあると王様のところに行って、直に話をする。ああいう国だから、分かった、すぐにサインしろって。今はとても出来ないけど、当時はそれが出来たんだね」。 |
建国直後のアラブ首長国連邦は、まだ軍隊も整備の途中だった。そこへ空手の指導者を送り、将来を担う若者を鍛え直した。やがて要職に就いた彼らは、生涯、その恩を忘れなかったはずだ。オタイバは、アラブ首長国連邦の石油大臣だ。それを頭越しに、トップと勝手に話を進めてしまう。これでは大臣の面目が立たないがザーイドの同志を自負する彼に、オタイバはただの小役人だったのだろう。
面白いのは、続いて中東に乗り込んだ商社や石油会社を、田中が「油屋ども」と罵っていたことだ。後に、あるインタビューでこう述べている。
「困ったことに、人間を物や機能としてしか見ない似非合理主義者がハンランしている。経済専門家という欠陥人間は、アラブならアラブを油という観点からしか見ない。軍事評論家は軍事力だけで中東問題を、ベトナム問題を見る。そこに住んで、食い、眠り、祈っている人たちのことは念頭にない。私は違う。人間として、人間の生活としてアラブを見る。日本を見る、アメリカを見る。これが、私の見通しが比較的正しく当たるゆえんです」(「月刊プレイボーイ」、1981年3月号) |
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1967年、アブダビ首長国は欧米に加えて日本にも権益を開放、丸善石油、大協石油、日本鉱業が共同で入札に参加する。落札した3社はアブダビ石油を設立、69年に待望の出油に成功した。エル・ブンドク油田もそうで、4社の石油会社で合同石油開発を設立、BPの持ち分の一部を獲得した。またBPがアブダビ沖に持つ海上油田、アドマ鉱区を譲り受け、発足したのがジャパン石油開発だ。BP首脳も、田中とザーイドの関係を知り、最初から胸襟を開いてくれたという。 現在、日本の原油輸入量の内、アラブ首長国連邦は、サウジアラビアに次いでじつに3割を占める。その発端は、半世紀以上も前のアブダビ首長との邂逅だった。 |
1967~69年、アブダビのザーイド首長との出会いは、日本に幾つもの石油権益をもたらした。アブダビのシェイクザイド国王と何度も会見、その後アラブ諸国を十三回にわたり訪問するなど深い親交を築きあげ、中東石油を日本に持ち込む橋渡しを為し、オイル・ショック時の危機を救った。
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ロンドンのテムズ川の畔(ほとり)にある金融街シティにはイングランド銀行や王立取引所の近く、ムーア・レーンの通りに巨大なビルが聳える。「ロンドンの英国立公文書館で入手したBPと英外務省の機密解除文書」が次のように記述している。
1970年2月13日昼下がり、ブリティッシュ・ペトロリアム(通称BP)、中東に巨大権益を持つ英国の国際石油資本の本社建物から、古武士然とした風貌の日本人が出て来た。その日の夕方、彼からBPの副会長宛に、英文でタイプされた5枚の書簡が送られた。
「本日は、私のために多くの時間を割いて戴き、また素晴らしい昼食に感謝します。ロンドンを経つ前に、会談内容を要約し、書き送らせて戴きます」。 |
「エル・ブンドク油田で、BPは間もなく、フランスから別会社設立に前向きな回答を得られると理解しました。申し上げた通り、これに日本側は参加する用意がほぼ出来ています」。 |
エル・ブンドクとは、アラブ首長国連邦とカタール国境海域の油田で、従来BPが権益を持ってきた。それを近く、フランス企業と共同出資する別会社に移す。その際、BPが持つ権益の一部を日本に譲渡するという交渉だ。
それから2ヵ月後の4月6日、アブダビ駐在の英国政務官が、ロンドンの外務省に報告を送った。
「田中は2日前に当地を訪れ、明日、東京へ戻る予定だ。昨夜、私の自宅で彼と話したところ、今月13日から17日にBPの専門家が東京へ行き、日本側と協議する。来月初めに合意書が作られ、月末には正式な署名が行われる」。 |
「田中によると、彼の会社、田中技術開発は(油田開発に)参加しないが、BPとの交渉で日本側のスポークスマンに選ばれたという」。 |
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1976年初夏、古希を迎えた田中は、それまでの建設や石油の事業から離れ、総合人間科学研究会なる組織を立ち上げた。各界リーダーに国際情勢の情報を提供し、勉強会を催すものだった。設立の際にしたためた「『綜合人間科学研究会』の設立に際し各界の指導者諸氏に訴える」文には、「高度経済成長の明暗」、「人心の全世界的荒廃」などの見出しが並んでいる。
「人類は、日本人をも勿論含めて、今や、自分等がこのまま生存し得るか或いは衰滅の道を転落して行くかの、人類生存史上空前とでも云うべき根本的な転換期に差しかかり、人類と云う自分自身の社会生活根底からの見直しと再生を迫られて居ります」、概要「20世紀に入り、人類は大量生産、大量消費の経済を築き、一部先進国は未曽有の繁栄を享受している。だが、資源とエネルギーの浪費は将来の枯渇を招き、食料不足や人口爆発、大気圏の汚染など深刻な脅威を招きかねない」、
「此の日本の国運を双肩に担う指導的政治家や経済人・言論界人・学者等の任務は並大抵のものではありません。我が国の指導的地位の人々は絶えず激動する世界と国内の諸情勢から寸時と雖も眼を離さず、世界と日本の底流として盛り上がる人心の動向と実相を的確に逸早く読み取り、その現実に立って明確な我が国の前進の方向づけを具体的に確立し、巨視的視座に立つ個々の生きた現実の方策を樹立し、強力に推進すべきことは、云うまでもありません」。 |
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1970年代の初め、田中は国際エネルギー・コンサルタンツなる会社を興し、莫大な手数料が転がり込んだ。その典型が、BPからアブダビ沖のアドマ鉱区を獲得、発足したジャパン石油開発だ。その際、数億円のコンサルタント料が渡ったとされ、国会で問題となり、共産党議員が「悪名高い田中清玄」と名指しされている。側近の太田によると、実態は違うとして次のように証言している。
「大分、言われまし たよ。田中が金を何億と取ったと。でも、コンサルタント料は国際慣習からすれば少ない方でね。それに、それまで使ってる訳ですよ、アラビアに行って。決まれば、成功報酬である程度貰うけど、そうでないと無駄金になっちゃう。借金も多かったし、だから、あまり残らないんです。それに田中は出来上がった会社に入ってないでしょ。経営できないんだから、そんなの。あんな人が中に入ったら、会社は滅茶苦茶になっちゃいますよ」。 |
「従来は、まとめて何億円貰うとかしてたが、私は『そんなのは駄目だ』って止めた。そういう金は、使い方も雑になる。1億入っても、ばら撒いて借金が2億出来たりね。そこで、各社に月100万単位でコンサルタントし、回るようにしたんです。何か問題が起きれば、田中が動いて、その分、経費は貰ってね。私が、そういう風にした」。 |
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1970年代半ば、田中はアラブ首長国連邦のザーイド大統領に会い、アブダビ沖の海水から太陽熱で蛋白質を作る海洋微生物蛋白資源開発プロジェクトを提案した。これから飼料や食料を生産する狙いだ。豊富な石油資源もいずれ枯渇する、その時いかにして国家の命を保つか、それには無限のエネルギーの太陽と汚染されてない海水を使うべき、という。
結局、これは技術的問題で頓挫するが、田中側が初期の準備費用を負担している。それは同志の絆を結んだザーイド大統領、油田を日本に譲ってくれたアラブへの、せめてもの恩返しだったかもしれない。 |
1980年代、田中の関心は石油から離れ、晩年は地球環境問題と再生可能エネルギーに情熱を注いだ。田中が環境問題に目覚めたのは、石油を求め、中東や欧州を駆け巡った体験による。後に自伝やインタビューで、こう述べている。
「しかし、実際のところ油はもう限界です。埋蔵量に限界があるし、大気を汚染する。地球温暖化の問題もある。だから太陽エネルギーに切り替えるべきなんです。私はそのことを石油危機以来ずっと主張してきたのです。この二十年間、その研究を日本や欧米の各会社が本気でやっていたら、多分、湾岸戦争なんか起きなかったでしょうな。これは世界の指導階級の重大な過失ですよ。石油の次に天然ガスといわれたけど、これだって化石燃料で、埋蔵量には限界があるし、害は免れ得ない。根本的な公害対策がいまのところないんです」(「田中清玄自伝」)
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「それはその日暮らしの日本の欠点でもあるし、ひとつは、石炭石油のあとはウラン原子力でいこうというのがメジャー・カンパニーの戦略で、ウラン鉱を開発したから、それで、田中清玄、いらんことをするな、というようなことになった」(「月刊プレイボーイ」81年3月号)。 |
「どうしてもエネルギー問題を解決せにゃいかん。どうしても戦争を阻止する。民族、日本、アジア、人類―それがなかったら、金もうけなんかの動機でこれだけ体を犠牲にしてやれますか」(「月刊プレイボーイ」81年3月号)。
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田中は、石油権益で産油国や国際石油資本と渡り合ううち、地球温暖化の脅威に気づいた。むろん、いきなり太陽では、石油に代わるエネルギーたり得ない。田中は、つなぎとして石炭の微粒子化、無公害液化、またガソリンの代わりに液体水素を使い、それを海水から抽出するのに太陽熱の利用を提唱した。いずれも今日なら、リベラルな環境活動家がこぞって口にしそうで、一部は実現化の動きもある。それを、山口組の組長と親友である右翼の黒幕が真剣に訴えていたのだった。こうした試みは、一部でドン・キホーテのごとく扱われたが、本人は気にせず自ら実践しようとしていた。 |
田中は、脱石油を訴えつつ、機運が高まった原発に真っ向から反対していた。次のように述べている。
「私は原爆ばかりではなく、平和利用という名の下での原子力そのもののエネルギーへの転用にも反対である。というのは、それは根本的に有機体組織を壊滅させるものであることと、放射能もれというものは現代の科学では防ぎようがないからである。それが継続すると、地球上の生命を支え合っているバランス、生物、微生物を含めて二〇〇万種とも言われる種社会、つまり生物全体のバランスをこわしてしまうのだ」(「世界を行動する」)
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そして、科学者は細部に拘って全体を見ない、その背後には、儲け主義の営利会社がいると批判した。 |
元秘書の林賢一が次のように証言している。
「晩年になっても、清玄先生と東京電力の関係はずっと続いてましたよ。先生の指示で、国際情勢のレポートを届けると、向こうの窓口は那須さんでしたね。こっちの都合で遅くなっても、ずっと一人で、本社で待っててくれたのを覚えてます」
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那須翔は、終戦直後に東京電力の前身の関東配電に入社し、主に総務畑を歩んだ。80年代から90年代に社長と会長も務めた、名実共に電力業界の重鎮だ。終戦直後に生まれたつながりは、松永安左エ門、木川田一隆から世代を超えて受け継がれていた。
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禅宗の高僧、白隠禅師が開いた寺で、今も雲水たちが修行に励む、静岡県の三島市郊外、沢地の山林に佇む龍澤寺に葬られ墓がある。墓石の左に墓誌の石碑が並び、「平成五年(1993年)十二月十日 田中清玄 八十七才」とある。 |
アブダビ石油と合同石油開発は、現在、コスモエネルギーホールディングスのグループ企業となり、ジャパン石油開発は旧国際石油開発に統合された。これらは、今も日本に原油や液化天然ガスを送るが、その社史やウェブサイトは、田中の足跡に全く触れていない。 |