王子製紙争議に対する介入考 |
(最新見直し2009.3.7日)
(れんだいこのショートメッセージ) | ||
田中清玄の王子製紙争議に対する関わりの実際を考察してみることにする。日共は、「唐牛問題」の際に、次のような清玄批判をしていた。
この謂いがどれだけ正確なのかここで検証してみたい。 前述したが、2002.6.15日発刊の「60年安保とブントを読む」の中で、東原吉伸氏が次のように書いている。
「これ以上は分からない」のだが、インターネット上で「竹田誠著作集」がサイトアップされており、その中に「王子製紙争議」が所収されている。争議の経緯について詳しいのでこれを参照しつつ、田中清玄の果たした役割、王子製紙闘争の史的意義について、れんだいこ風に批評してみることにする。付言しておけば、竹田氏が王子製紙争議を本格的に取り上げた意義は高い。資料の豊富さも評価される。但し、考察観点が折衷的で、この争議からどういう教訓を生み出そうとしているのかの視点が弱いようにも思われる。それはともかく、これを元にしてれんだいこが意見申し上げることにする。 2004.8.8日再編集 れんだいこ拝 |
【王子製紙闘争の史的意義総評】 |
王子製紙争議(1957〜60)は、日鋼室蘭争議(1954年)、三池争議(1960年)とともに「戦後の争議史」を形づくる「山脈の三つの高峰」とされている大争議となった。争議内容から見れば、王子製紙争議の労使双方とも質が高く、経営の有り方、経営側の労務管理をめぐり労資が激しく対立し、結果的にその後の日本的労資関係の経営側優位の基を作ったと云う意味で、王子製紙争議の意義は高い。労働側から見れば、生産管理闘争に向かう地平からの投降であり、経営側主導による労資協調路線導入のモデルとなった。但し、その経緯で労働側の利益を斟酌させ、まことに日本的名企業モデルづくりに貢献したことになる。 |
【「王子製紙ストライキ史」について】 |
1956.11月、定期大会で、レッド・パージ該当者を復職させるための闘争=レッド・パージ復職闘争が、社会党王子労組党員協議会の市川年雄代議員により緊急動議として提案され満場一致で可決された。復職闘争は執行部提案ではなかった。このことは、当時の執行部内では、この闘争に関する意志統一がとれていなかったことを意味する。 1956年末から1957年初め、復職要求に関する団体交渉が行われ、組合は春闘の賃上げ要求と一緒にしてスト権一般投票を行い、3.30日、賛成2876反対922(組合総数4382)でスト権を確立した。この頃、全国的にレッド・パージで解雇された者の闘争が広がりつつあったが、そのほとんどが当該本人と企業の間の法廷での争いであり、労働組合が機関決定により復職闘争を進めることは珍しかった。このような状況の中で、王子労組が復職闘争において一定の成果をあげたことに王子製紙闘争の意義が認められる。 1957年の春闘で、国策パルプ経営者は労働協約改訂を申し入れ、これに対して組合は反対した。一部の組合員が脱退し、自信を失った執行部はリコール要求を受け入れて総辞職した。新執行部には「合理化」に協力的な者が選ばれた。これを主導したのは、水野成夫国策パルプ社長と南喜一副社長であった。彼らは、戦前の日本共産党の幹部である。国策パルプと王子製紙は、国策パルプの経営難に当って王子が援助する等の協力関係にあり、水野成夫は王子争議で会社側の「参謀」の役割を果たしたと云われている。1957.9月、中島慶次社長が、それまでの宥和的対組合政策を清算し、組合の「体質変革」と称して強硬な対労組政策を採ることを決定した。この頃、組合内部では、支部長選挙で、社会党左派の市川年雄と山内義衛が、現職の戸部卯吉−遠山五十二を追い落とし、1398対1377で破った。破れた戸部卯吉と遠山五十二は、翌年第二組合結成の中心人物となる。 1957.11月、王子争議が開始する。組合は年末一時金闘争を指令し、支部ごとにストを反復した。 1958.7.18日から12.9日の無期限ストライキ(145日間)が打たれ長期スト化する。 8.4日から11日にかけて3事業所に闘争至上主義を批判して新労(第二組合)が結成された。新労は“パイの理論”に基づく「うんと働いて、うんと獲ろう」のスローガンを掲げ、労働者への分配をふやすためには「うんと働いて」自分達の企業の繁栄を図り“パイ”を大きくしなければならず、「無責任」な「外部団体」すなわち王子従業員以外の者の「扇動」にふりまわされてはならないと訴えた。 組合脱退者に対する王子労組員の「イヤガラセ」行為は7.18日の無期限スト突入以降頻発した。1960.1月、第一組合が争議を終結する。 |
【田中清玄の「王子製紙ストライキ」との関わりについて】 |
この過程で戦前の共産党委員長・田中清玄が登場してくることになる。経営側は、戦前の共産党委員長・田中清玄を使って王子労組内に「右派勢力」を育成し、新労(事業所別組織である各工場の新労とそれによって構成される企業連である連合会)を結成させた。「右派勢力」の背後には、波多野鼎元農林大臣(片山内閣)主宰の労働文化研究所(社会党右派系、三池争議にも深く関与)、日本能率協会、田中清玄、佐野博、鍋山貞親ら元共産党員等数多くの知恵袋がいた。 |
【経営側と新労間で、「近代化協定」を締結】 |
1961.4月、経営側と新労間で、「従業員としての地位の保障」を前提とする「近代化」=能率増進を進めることを明文化した「近代化協定」を締結した。その内容は、労資双方が旧来の親方日の丸主義的労務慣行を尊重しつつ、近代合理主義的経営に向けて妥当と見られる改革につき相協力する為の種々の取り決めであった。同年8月、完全操業開始。ほぼ同時に大規模な配置転換、要員削減が行われた。1962.8月、苫小牧工場人事部が教育訓練課を設置する。 |
【田中清玄の策した労資協調路線考】 |
この間の王子製紙争議で何が闘われたのか、ここが考察に値する。王子製紙争議の史的意義は、経営側の反動的労務管理に対する闘いであったのみではなく、むしろ「戦前の労務管理の反省からいかにも戦後的な近代的経営手法が導入されたところから始まる」ところにあった。中島社長体制下の経営側の市村、田中、組合出身の浅田コンビがその旗振り役となった。彼らは、「年功序列」的給与制度にメスを入れ、個人の能力、努力を拠り所にして昇給、昇進していくような、自立した個人こそ「生産性向上」の要だと考え、責任の明確化を前提としてする賃金制度としての職務給制度の必要性を説き、導入を図った。それは、管理会計、IEというアメリカ的手法に学びながらも企業共同体意識の強化を目指すといういわば最新式の労務管理手法の革新的試みであった。 |
【労資対決と警察の介入、法廷闘争】 | |
労働組合はこれに古典的に反発した。以下、その経緯を確認していくが、労働組合が機械的に反発するのみではなく、資本側の策動する労使協調型生産性運動に対する労働組合側の理論を創造して立て決して行く必要があったのではなかろうか。史実は、そのようには動かなかった。 会社は、新労に対して就労=生産再開を要請した。8.13日、会社は、札幌地裁に対し、工場等会社施設内立入禁止、出入妨害排除仮処分命令の申請を行った。8.17日、新労は「就労デモ」を始めた。王子労組側はピケを張り工場内への入構を阻止し続けたが、「就労デモ」は生産再開の意志を強く社会にアピールした。 9.6日、札幌地裁が、入出構妨害排除仮処分を決定した。同日、警視庁公安二課は、王子労組中央執行委員会の吉住秀雄委員長、田原賢蔵書記長、服部治男執行委員、東京支部役員の中でただ一人脱退しなかった安原昭三東京支部書記長等の逮捕状をとり、9.7日−8日の2日間で、これら5名を逮捕した。その容疑は、約1ヶ月も前の8.13日、15日、本社で新労組員に対して彼らが暴行
をはたらいたというものであった。5名はその後、不起訴釈放された。
9.14日、春日井工場で新労組員146名が入構し、生産を再開した。9.15日早朝、新労の先発隊55名はバス2台に分乗し、武装警官約千名に守られて苫小牧工場正門に向い、約百名のピケ隊を排除し、正門付近の柵を乗り越えて入構した。王子労組側は、「警官のふり廻す棍棒がビュンビュンと音をたて」何の抵抗もできなかった。その後、午前6時、会社はロックアウトを宣言した。 先の日鋼室蘭争議では、第一組合は新労の入構、生産再開の14日後ピケを解除し、その後、組合員の中に敗北感がひろがっていった。王子製紙の経営者は、「日鋼室蘭争議の例」から王子労組員の「精神的動揺」が深刻化して「スト終結の契機」となるだろうと観測していた。しかし、予測に反して、王子労組は共闘体制に支えられて強靱な抵抗力を示し続けた。 |
【警察、裁判所の動向と暴力団の投入】 |
9.22日、会社側は、札幌地裁に対し仮処分申請を行い、10.9日、札幌地裁は入出荷妨害を禁止する命令を下した。しかし、この決定においては、入出荷妨害の取締を裁判所任命の執行吏に委ねることを求めた会社の申請は認められなかった。そこで、会社は再度執行吏による「妨害排除」を求める申請を行った。 但し、この決定の効力の及ぶ範囲は、争議当事者である会社、王子労組の間に限定され、当事者ではない国鉄の業務を妨害することは「威力業務妨害」として警察による実力排除、検挙の対象となりえた。これにより警官隊の実力行使が完全に不可能になったわけではないが、札幌地裁決定によって著しく制限されるに至った。これを「10.18日札幌地裁判決」と云う。 会社に都合の良い決定でなかった「10.18日札幌地裁判決」直後、会社は暴力団を投入した。10.13日、苫小牧工場の送木水路における原木流送作業を王子労組側が阻止しようとしていた所へ約30名の一団が襲いかかった。入墨の腕をまくりあげ、「おれは室蘭の笹谷一家だ。なめられてたまるか」と棍棒をふりまわしてピケ隊にとびこみ、多くの組合員を負傷させた。さらに、10.20日にも「暴力団スタイルの者」約200名がスコップ、つるはしなどをかざし、薪をふりまわす等の暴力をふるい重軽傷者24名を出した。会社による暴力団の投入は大きく新聞に報道された。記事の2日後、苫小牧工場に自警団が編成された。 |
【「中労委のあっせん」】 |
11.8日、中山伊知郎中労委会長は、王子争議に関する職権斡旋を開始した。中山会長は、二段構えの争議解決を提案した。まず初めに王子労組が新労の存在を承認し、一時ユニオンショップ問題を棚上げすることが先決であるとした。次に、冷却期間(スト終結時〜翌年3.31日)を設定し、この期間中に会社、第一、第二の両組合が平和回復に向けて努力し、ユニオンショップ協定を結ぶための前提条件(両労組の統一、労使間の平和回復)を作り出すべきだとした。また、冷却期間中は、両組合間の組合員の移動がないようにすること、そして、争議に関する訴訟、不当労働行為救済の申立を労使双方が全部取り下げることを提案した。 |
【「中労委あっせん案」について】 | |
11.21日、こうした状況下で、中山伊知郎 同 藤林敬三連名の次のような「中労委あっせん案」が出された。
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【「11月22日斡旋案を受諾」について】 | |
11.22日、会社は斡旋案を受諾した。受諾の最大の理由は死亡災害の発生であった。中島社長は、経営者内強硬派および新労幹部の反対を押切って争議収拾を決定した。戸部卯吉苫小牧新労副委員長(当時)は、中島社長が彼に次のように語ったと述べている。
他方、王子労組は、11.23−24日、春日井支部が、11.25日、苫小牧支部が全員大会で斡旋案受諾を満場一致で決定した。王子労組は新労の解体、吸収を目標としてきたが、当時の労使間の力関係の下で、会社が新労を解散させることを呑む可能性がないことが明白だったからであった。 こうして労資双方共に斡旋案を受諾したものの、会社と労組の緊張関係は続いた。会社側が「分割就労」に固執したため、中労委会長は「仲裁」を申し入れ、仲裁の結果には異議を唱えないことを要請した。労使ともに仲裁を受け入れたが、王子労組は組合員に対しては「中労委がどのような仲裁裁定を出そうとも実力をもって突破する」との方針を示し、12.9日午前7時を期して無期限ストを解除し「職場確保闘争」に入ることを宣言した。 12.8日夜7時、全組合員が工場を包囲し町は緊張に包まれた。組合員には動揺は見られず、百数十日の激闘を共に闘った仲間への信頼、団結の力と「勝利」への確信がみなぎっていた。緊張と抑えられた興奮の中で誰もが一体感に浸っていた。焚火は絶え間なく燃え続け会社が工場の周囲に張りめぐらせたバリケードの丸太が壊されて次々に炎の中に投げこまれた。後は夜明けを待つだけであった。 |
(私論.私見)