中野正剛

中野正剛 年譜
中野 正剛(なかの せいごう、1886年明治19年)2月12日 - 1943年昭和18年)10月27日)は日本ジャーナリスト、政治家。東方会総裁衆議院議員。号は耕堂。

ウィキペディア(Wikipedia)中野正剛

中野 正剛
なかの せいごう
Seigo Nakano.JPG
生年月日 1886年2月12日
出生地 福岡県福岡市西湊町
没年月日 1943年10月27日(57歳没)
死没地 東京都渋谷区代々木本町
出身校 早稲田大学政治経済学科 卒業
前職 ジャーナリスト
所属政党 (無所属倶楽部→)
革新倶楽部→)
憲政会→)
立憲民政党→)
国策研究クラブ→)
国民同盟→)
東方会→)
(無所属→)
翼賛政治会→)
無所属
称号 勲四等瑞宝章
配偶者 中野多美子

選挙区 福岡県第1区
当選回数 7回
在任期間 1920年5月10日 - 1943年10月27日

日本の旗 初代 東方会総裁
在任期間 1936年5月25日 - 1943年10月27日
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中野 正剛(なかの せいごう、1886年明治19年)2月12日 - 1943年昭和18年)10月27日)は日本ジャーナリスト、政治家。東方会総裁衆議院議員。号は耕堂。

経歴[編集]

生い立ち・学生時代[編集]

福岡藩士・中野泰次郎とトラの長男として、福岡県福岡市西湊町58番地(現・中央区荒戸)の伯父・中野和四郎宅で生まれる。幼名は甚太郎。中野家は代々福岡藩の御船方であり、父・泰次郎の代に分家し福岡市西町(現・中央区今川)で質屋を家業としていた。母・トラは福岡県糸島郡元岡村(現・福岡市西区元岡)で醤油醸造業を営む黨又九郎の長女。

幼少時より腕白坊主で、福岡師範付属小学校時代は同級生に緒方竹虎の兄・大象がいた[1]。 14歳で福岡県中学修猷館(現・福岡県立修猷館高等学校)に進学したが、幼少時から家業の質屋を毛嫌いし“質屋の甚太郎”と呼ばれるのが不快で、在学中の1903年(明治36年)に自ら正剛(まさかた)と改名する[1]。自分の生涯を正しく剛毅に行く抜こうという意志の表れだったが、“まさかた”と呼んでくれたのは母親だけで周囲は皆“せいごう”と呼んだ[1]

中学校の柔道教師は飯塚国三郎で、柔道部に入部した中野は同級生の宮川一貫らと稽古に励んだ[1]。学校で柔道をやるだけでは飽き足らなかった中野は市内に土地を買い、「振武館」という道場を旗揚げして生徒仲間らと共に毎晩9時頃まで汗を流すという、到底14歳とは思えない行動力の持ち主でもあった[1]

1905年(明治38年)、修猷館を卒業後は早稲田大学政治経済学科に進学し、家族と一緒に上京している。 修猷館時代に出会った緒方竹虎とは、早稲田大学や東京朝日新聞社でも行動を共にし、大学時代には2人で下宿をしていた時期もあった。

学費や生活費を稼ぐために、三宅雪嶺の『日本及日本人』に寄稿。そして、このことが縁となって、玄洋社を主宰する頭山満と知り合う。

ジャーナリストとしての活躍と政界進出[編集]

1909年(明治42年)早大を卒業し、同級生だった風見章とともに、東京日日新聞(現・毎日新聞)を発行していた日報社に入社。次いで東京朝日新聞(東朝、現・朝日新聞)に移り、「戎蛮馬」のペンネームで「朝野の政治家」「明治民権史論」などの政治評論を連載し、政治ジャーナリストとして高い評価を得た。 この間、1913年大正2年)に三宅雪嶺の娘・多美子と結婚している。仲人は、頭山満と古島一雄であった。

1916年(大正5年)に東京朝日新聞を退職し、東方時論社に移って社長兼主筆に就任。 東方時論社に移った翌年の1917年(大正6年)、衆議院議員総選挙に立候補するも、落選(立候補した選挙区の当選者は松永安左エ門)。

しかし、日本外交を批判的に論考した『講和会議を目撃して』がベストセラーとなり、勢いをつけ、1920年(大正9年)の総選挙で当選する。以後、8回当選。当初は無所属倶楽部を結成するが、1922年(大正11年)に革新倶楽部結成に動く。その後も憲政会立憲民政党と政党を渡り歩いた。

民政党時代は、党遊説部長として、永井柳太郎と臨時軍事費問題や張作霖爆殺事件田中義一内閣に迫り、反軍派政党人として名を馳せた。また、政府では、内務大臣だった濱口雄幸の推薦で、三木武吉の後任の大蔵参与官逓信政務次官などを歴任した。

ドイツ、イタリアへの訪問[編集]

挙国一致内閣を提唱していた親軍派の安達謙蔵と民政党を脱党、国民同盟を結成。さらに1936年(昭和11年)には、東則正東方会を結成し自ら総裁となった。

1937年(昭和12年)から1938年(昭和13年)にかけて、イタリアドイツ両国を訪問し、ムッソリーニヒトラーと会見、国際政治の動向について話し合う。 秘書として中野に随行した進藤一馬(後の衆議院議員、福岡市長)はムッソリーニを「非常に気さくで体格のいい親しみのあるおじさんといったタイプだ」と言い、ヒトラーは「物静かで知性的な態度であった」と回顧している。またナチスの制服にも憧れ、以後の中野は乗馬ズボンを愛用するようになる。 当時の中野自身、国民に圧倒的な支持を受ける両者を偉大な政治家だと認識していたが独ソ開戦後は評価を変えている。(四男・泰雄談)

ヒトラーを評価していた中野だが、フランスジョルジュ・クレマンソーイギリスウィンストン・チャーチルも高く評価していた。福岡市の玄洋社記念館に中野がクレマンソーを称える絵画が収蔵されている。

1939年(昭和14年)には、議会政治否定・政党解消を主張し、衆議院議員をいったん辞職する(まもなく衆議院に当選復帰)。南進論日独伊三国同盟を支持し、撃栄東亜民族会議を主催した。

1940年(昭和15年)、大政翼賛会総務に就任。1941年(昭和16年)に太平洋戦争開戦時、東方会本部で万歳三唱するが長期化する戦局に懸念を抱くようになる。

東條英機への反発[編集]

内閣総理大臣東條英機が独裁色を強めるとこれに激しく反発するようになる。1942年(昭和17年)に大政翼賛会を権力強化に反対するために脱会している。同年の翼賛選挙に際しても、自ら非推薦候補を選び、東条首相に反抗した。東方会は候補者46人中、当選者は中野のほか、本領信治郎(早大教授)、三田村武夫たち7人だけであった。それでも翼賛政治会に入ることを頑強に拒み、最終的には星野直樹の説得でようやく政治会に入ることを了承した。

そして、同年11月10日早稲田大学大隈講堂において、「天下一人を以て興る」という演題で2時間半にわたり東條を弾劾する大演説を行った。

諸君は、由緒あり、歴史ある早稲田の大学生である。便乗はよしなさい。歴史の動向と取り組みなさい。天下一人を以て興る。諸君みな一人を以て興ろうではないか。日本は革新せられなければならぬ。日本の巨船は怒涛の中にただよっている。便乗主義者を満載していては危険である。諸君は自己に目覚めよ。天下一人を以て興れ、これが私の親愛なる同学諸君に切望する所である。

この正剛の呼びかけに、学生たちは起立し、校歌「都の西北」を合唱してこたえた。演説会場には東條の命を受けた憲兵隊が多数おり、中野の演説を途中制止しようと計画していたが、中野の雄弁と聴衆の興奮熱気はあまりにすさまじく、制止どころではなくなってしまった。当時、早稲田第一高等学院の学生であった竹下登は、この演説を聴いて感動し政治家の道を志している[2]。このエピソードにみられるように、中野は雄弁家の資質をもった人物であった。

中野の反東條の動きはますます高まり、1943年(昭和18年)正月、朝日新聞紙上に「戦時宰相論」を発表し、名指しこそしなかったものの、「難局日本の名宰相は、絶対強くなければならぬ。強からんがためには、誠忠に謹慎に廉潔に、しかして気宇広大でなければならぬ。幸い、日本には尊い皇室がおられるので、多少の無能力な宰相でも務まるようにできているのである」と東條首相を痛烈に批判した。この記事の内容に東條は激怒し、朝日新聞に対して記事の差し止めを命じた。しかし、東條は中野のこの論文が記事になってから読んだのであり、この差し止め命令はほとんど意味のないものであった。ただし、この影響で『朝日新聞』の縮刷版には「戦時宰相論」は収録されておらず、埋め草として、実際の紙面には掲載されなかった記事が収録されている[3]

同年3月、第81帝国議会戦時刑事特別法の審査をめぐって、6月、第82帝国議会で企業整備法案審議をめぐりそれぞれ政府原案に反対した。議会内では鳩山一郎、三木武吉らに呼びかけ、議会で東條内閣に対する批判を展開するが、東條側の切り崩し工作によって両法案反対運動は頓挫する。

議会での反東條の運動に限界を感じた中野は近衛文麿岡田啓介たち「重臣グループ」と連携をとり、松前重義や三田村武夫らと共に東條内閣の打倒に動きはじめた(松前はこのため報復の懲罰召集を受けてしまう)。こうして中野を中心にして、重臣会議の場に東條を呼び出し、戦局不利を理由に東條を退陣させて宇垣一成を後任首相に立てようとする計画が進行し宇垣の了解も取り付け、東條を重臣会議に呼び出すところまで計画が進行したが、この重臣会議は一部の重臣が腰砕けになってしまい失敗に終わる。

逮捕と自殺[編集]

中野正剛

そののち、中野は東久邇宮稔彦王を首班とする内閣の誕生を画策する戦術に切替えたが、東條の側の打つ手は中野の予想以上に早く、まず1943年(昭和18年)9月6日、三田村武夫が警視庁特高部に身柄拘束される(中野正剛事件)。警視庁は10月21日東方同志会(東方会が改称)他3団体の幹部百数十名を身柄拘束する中で中野も拘束された。東條は大いに溜飲を下げたが、この中野の身柄拘束は強引すぎるものとして世評の反発を買うことになった。結局、中野は10月25日に釈放される。その後、東條の直接指令を受けた憲兵隊によって自宅監視状態におかれ、その後の議会欠席を約束させられたという説がある(戸川猪佐武『東條内閣と軍部独裁』講談社)。

そして同年10月27日自宅1階の書斎で割腹自決、隣室には見張りの憲兵2名が休んでいた。自決の理由はいまだに不明で、一説には、徴兵されていた息子の「安全」との交換条件だったとも言われている。また自身がおこなった東久邇宮の首相担ぎ出し工作について、東條サイドに調査攻撃されることにより、皇族に累が及ぶことを懸念していたからだいう説もある。

自刃する直前に中野はムッソリーニやヒトラーからもらった額をはずし、机上に楠木正成の像と『大西郷伝』を置いたと伝えられている。自決の数時間前、四男泰雄に「千里の目を窮めんと欲し更に上る一層の楼」と色紙に書き、憲兵の目の前で渡している。遺書には「俺は日本を見ながら成仏する。悲しんでくださるな」と書き残されていた。

エピソード[編集]

中野は1926年(大正15年)6月に手術ミスで左脚大腿下部切断している。幼年時代の落馬(の木から落ちたとする説もある[1])で左足の関節に痛みを覚えるようになり、一旦は治ったものの、学生時代に柔道の稽古中に骨折、大腿部のカリエスを患って3回手術をしたが完治せず、以来軽いビッコをひくようになった[1]。柔道の稽古に支障はなかったが、この手術のために1年休学し、宮川一貫と同級生になった[1]。後遺症のため成人後に再手術したが、結果、血栓により足の血管が詰まって壊疽を起こし、左足の切断に至った。

休学を余儀なくされた中学修猷館1年の頃、中野は現在の福岡市中央区地行にあった桑畑の土地100坪を購入し、桑の株を掘り起こして更地にし、約20坪の柔道場を建てようと画策[1]。戸畑にあった玄洋社初代社長平岡浩太郎別荘を訪ねて資金援助を頼み、これを快諾した平岡は別荘で食事を提供し、更に帰りの2等汽車の切符を持たせてくれたという[1]

中野正剛の銅像と記念碑

程なく完成した道場を「振武館」と名付け、近所の少年柔道仲間達を夕食後に集めて毎晩9時頃まで自剛天真流の荒々しい柔道稽古を行った[1]。同じ頃、内田良平が16歳で創設した天真館の大将格となっていた同級生の宮川一貫を自然とライバル視するようになっていったが、宮川は既に天賦の才を開花させ、実力は中野よりも上であった[1]。 2人は卒業前の柔道大会で相見えたが、中野は宮川得意の背負投で2本取られて敗れている[1]。この試合を観ていた安川第五郎は後に、「中野さんの負けじ魂は有名だが、闘志を燃やして歯ぎしりをしながら血相を変えて(宮川さんに)飛び掛かっていったあの時の面相は、今でも目に浮かんでくる」と述べている[1]。中野自身も1937年の同窓会誌に「宮川君の柔道はすでに傑出していて自分は彼に敵わないと解っていたが、お互いの後輩たちに、卒業前に勝負をつけてもらおうという空気が出てきて、試合をする事になった」「(試合では)大分長くもみ合ったが、実力の相違で自分が負けた」と寄せている[1]

大学進学に伴い上京してからも、足が不自由ながらその技量は高く、早稲田大学在学中には東京美術学校主催の柔道大会で、史上最強の柔道家といわれ黒澤明の監督作品『姿三四郎』のモデルの一人ともされている徳三宝と試合をして勝ったほどである。当時講道館初段位の中野は同3段で既に講道館随一の大豪と知られた徳と試合をして、見事な支釣込足でこれに一本勝を収め、嘉納治五郎館長から特別賞を受けた[1]。この史実は柔道界でもあまり知られていないが、試合の主審を務めていた三船久蔵も「徳君は滅多に負けた事が無いので、稀に負けると大騒ぎされた」「あの時は、中野さんの右の支釣込足が見事に決まって、徳君が畳を背負ったよ」と述懐している[1]

なお、中野が中学時代に設立した柔道道場「振武館」はその後再建され、現在では福岡市の鳥飼八幡宮にて運営。大相撲九州場所の際は、毎年九重部屋の宿舎として活用されている。境内では道場と共に、1950年3月27日に設置された中野の銅像も目にする事が出来る。

人物評[編集]

緒方竹虎は、「いったん思い込むと、憑かれたようになる」と評し、清瀬一郎も「いつも、オードブルだけ食べて、まずいと思えば、すぐに出て行ってしまう。決してデザートの時間まで席にいない」と同様に評した。また、自宅では数人の学生達を起居させ、食事や学費の面倒をみていた。書生の一人、長谷川峻(後の労働相・運輸相)に、庭のスズメの群れを見て「あのスズメに茶碗のご飯粒を分けてやっても大した事は無い、しかしスズメは腹を満たし大空に飛んでゆく。君達もここから思い切り飛びたて」と話した心温まるエピソードが残っている。

著作等[編集]

  • 『八面鋒 朝野の政治家』博文館、1911年10月。NDLJP:778592
  • 『明治民権史論』有倫堂、1913年3月。NDLJP:950591
  • 『七擒八縦』東亜堂、1913年5月。
  • 『我が観たる満鮮』政教社、1915年5月。NDLJP:953853
  • 『世界政策と極東政策』至誠堂書店、1917年2月。NDLJP:956696
  • 『世界改造の巷より』東方時論社、1919年4月。NDLJP:957974
  • 『講和会議を目撃して』東方時論社、1919年7月。NDLJP:955661
  • 『現実を直視して』善文社、1921年2月。NDLJP:961798
  • 『満鮮の鏡に映して』東方時論社、1921年3月。
  • 『露西亜承認論 大正十二年三月二十日衆議院に於ける演説速記 』東方時論社、1923年5月。NDLJP:965639
  • 『露西亜承認論』東方時論社、1923年6月。NDLJP:911177
  • 『中野正剛対露支論策集』岡野竜一編輯、我観社、1926年4月。NDLJP:1018652
  • 『田中外交の惨敗』平凡社、1928年12月。
  • 『国民に訴ふ 中野正剛大演説集』平凡社、1929年4月。NDLJP:1447367
  • 『国家統制の経済的進出』平凡社、1930年7月。NDLJP:1080499
  • 『沈滞日本の更生』千倉書房、1931年8月。NDLJP:1272160
  • 『転換日本の動向』千倉書房、1932年1月。
  • 『日本の動向』立憲耕堂会、1932年7月。NDLJP:1455467
  • 『満洲国即時承認を高調す 駒井長官を迎へて』野口保元編輯、東京講演会、1932年8月。
  • 『大満洲国建設に就て 駒井氏を迎へて』東京講演会、1933年4月。
  • 『国家改造計画綱領』千倉書房〈東方会叢書 第1輯〉、1933年10月。NDLJP:1448399 NDLJP:1454098
  • 『帝国の非常時断じて解消せず』大阪毎日新聞社編、大阪毎日新聞社・東京日日新聞社〈大毎講座 1〉、1934年3月。NDLJP:1267793
  • 『現状崩壊の過程と積極健全政策の提唱』我観社、1935年1月。
  • 『日本国民に檄す 北支風雲の煙幕を透して』我観社、1935年12月。
  • 『日本拡大強化論』日本講演協会、1936年3月。NDLJP:1270368
  • 『昭和維新と官僚政府の役割』秀光書房、1936年8月。NDLJP:1437051
  • 『電力国営案に対し中野正剛氏所信を明かにす』電気聯合通信社編、電気聯合通信社、1936年8月。
  • 徳富蘇峰、中野正剛、田知花信量『危機線上の日支』東京日日新聞社・大阪毎日新聞社、1936年9月。
  • 『支那をどうする 日支問題を如何に解決すべきか』今日の問題社、1936年10月。NDLJP:1446206 NDLJP:1454716
  • 『中野正剛氏大演説集』朝風社編輯局編、朝風社、1936年11月。NDLJP:1268331
  • 『積極拡大主義の危険性と合理性』東大陸社、1937年3月。NDLJP:1457050
  • 『日本は支那を如何する』育生社、1937年11月。NDLJP:1463497
  • 『伊・独両元首等との時局論争』日本外交協会、1938年3月。NDLJP:1282222
  • 『魂を吐く』金星堂、1938年5月。NDLJP:1268253
  • 『真直ぐに行け』育生社、1938年5月。
  • 『全体主義政策綱領』中野正剛・杉森孝次郎編著、育生社、1939年2月。
  • 『対支国策の根幹を論ず』東方会西日本支部、1939年7月。NDLJP:1455273
  • 『時局打開 国民運動講演速記録』時局海上協議会事務局、1939年7月。NDLJP:1276827
  • 『難局打開の経綸 紀元二千六百年・日本興廃の岐路』東大陸社、1940年1月。NDLJP:1080458
  • 末次信正、中野正剛『日米危機とその見透し』新経済情報社〈政経懇話会叢書 第1輯〉、1941年2月。NDLJP:1030713
  • 『東方会の旗は進む』東京講演会出版部、1941年4月。NDLJP:1270733
  • 『嵐に立つ日本の政治戦略』東京講演会、1941年4月。
  • 『難局突破の指標 新体制実践綱領』新東学社、1941年6月。
  • 『新しい政治の方向』東方会宣伝部、1941年9月、改訂版。NDLJP:1437072
  • 『ルーズヴェルト、チャーチルに答へ日本国民に告ぐ』東方会宣伝部、1941年10月。NDLJP:1455501
  • 『世界維新の嵐に立つ』東方会、1942年1月。NDLJP:1267223
  • 『戦争に勝つ政治』東方会、1942年3月。NDLJP:1455338
  • 『此ノ一戦 国民は如何に戦ふべきか!』鶴書房、1942年4月。NDLJP:1095081
  • 『太閤秀吉』東方同志会出版局〈日本外史講義〉、1943年2月。NDLJP:1058183
  • 『戦争に勝つ政治』武蔵野書房、1943年7月。NDLJP:1442165 NDLJP:1445980
  • 『建武中興史論』正剛会〈中野正剛選集 1〉、1953年11月。

親族[編集]

  • 弟の中野秀人は画家、詩人評論家
  • 妻の多美子(-1934)は三宅雪嶺三宅花圃夫婦の娘。大正2年(1913)に結婚。
  • 長男の克明は昭和6年(1931)に17歳で北アルプス前穂高で滑落死[4]。次男・雄志は昭和10年(1935)に病死[5]。三男・達彦は「真善美社」社長[6]。四男・中野泰雄は亜細亜大学名誉教授[7]。達彦と泰雄の兄弟は、祖父の三宅雪嶺が関東大震災を機に政教社と分かれて正剛とともに設立した出版社「我観社」[8]を引き継ぐ形で、戦後花田清輝を編集主幹とした「真善美社」(祖父の代表作「真善美日本人」より命名[9])を父の遺産で経営し、前衛芸術専門誌『綜合文化』等を刊行し、埴谷雄高や安部公房らをデビューさせたが、1948年(昭和23年)に倒産した。
  • 従兄弟 中野太三郎(朝鮮総督府官僚)[10]
  • 孫 中野民夫(東京工業大学・リベラルアーツ研究教育院・教授)。中野正道(約40年間エジプトで旅行ガイドとして働く)[11]

評伝[編集]

関連作品[編集]

  • 『東條を倒せ 戦時下 幻の倒閣運動 ~中野正剛と東方会~』(NHK、1984年放送):中野正剛役・成田三樹夫

脚注[編集]

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q くろだたけし (1982年11月20日). “名選手ものがたり37 大豪徳三宝を投げる -早大時代の中野正剛-”. 近代柔道(1982年11月号)、65頁 (ベースボール・マガジン社)
  2. ^ 大隈重信生誕百五十年記念講演,「建学の精神を継承して,今こそ新しい早稲田百年の第一歩を」(竹下内閣総理大臣),データベース「世界と日本」
  3. ^ 熊倉正弥 『言論統制下の記者』 朝日新聞社朝日文庫〉、1988年4月20日、40-42頁。ISBN 4-02-260501-4
  4. ^ 中野正剛「シッカリシロチチ」緒方竹虎『人間中野正剛』
  5. ^ 雪嶺と中野正剛流通経済大学三宅雪嶺記念資料館
  6. ^ 888号目次週刊金曜日おしらせブログ、2012年3月23日
  7. ^ 中野泰雄歴史が眠る多磨霊園
  8. ^ 我観『世界大百科事典』
  9. ^ 桂英史「日本人はアジア」をどのように内面化してきたか?東京芸術大学、geidai RAM:OPEN LECTURE Vol.9龔卓軍×相馬千秋×高山明×桂英史、2015年1月25日
  10. ^ 石瀧豊美『玄洋社・封印された実像』海鳥社、2010年、「資料④玄洋社社員名簿」49頁。
  11. ^ 幕末の侍から スフィンクスの縁 子孫は今もカイロに「一族5代 エジプトに足跡」東京新聞、2020年4月27日 夕刊

中野正剛事件

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中野正剛事件(なかのせいごうじけん)とは太平洋戦争中の1943年日本の現職衆議院議員だった東方同志会中野正剛に対し、行政が特別高等警察を通じてその身柄を拘束した事件。中野は最終的に釈放されたが、直後に自殺した。

概要[編集]

以前から内閣総理大臣の東條英機を批判していた衆議院議員の中野正剛は、1943年正月に朝日新聞紙上に「戦時宰相論」を発表して名指しこそしなかったものの、改めて東條を痛烈に批判した。それにより、中野は東條が最も警戒する人物の一人となった[1]

1943年10月21日に東條の意による警視庁特高部によって中野は身柄拘束される[2]治安維持法違反や戦時法違反では証拠不十分のため、行政検束という形を取った[3]東條は大いに溜飲を下げたが、この中野の身柄拘束は強引すぎるものとして世評の反発を買うことになった。友人の徳富蘇峰鳩山一郎は中野の釈放を各方面に主張した。[要出典]行政検束は形式上はすぐに釈放してまたすぐに拘束するという手法で事実上の長期身柄拘束が可能な仕組みであったが、相手が国会議員であっため、行政検束で長期間身柄を拘束することは国会の反発を招きかねなかった[4]。さらに大日本帝国憲法第53条には「両議院の議員は現行犯罪又は内乱外患に関する罪を除く外会期中その院の許諾なくして逮捕せらるることなし」と規定されており、議会開会が10月26日に迫っていた[5]

10月24日に東條に呼び出されて中野の起訴を指示された検事総長松阪広政は、中野の言動は大日本帝国憲法第29条により法に触れない言論の自由の範囲内の収まっているとして「証拠不十分でこんな証拠ではとても起訴はできない。大体、総理、あなたは中野のことになると感情的になりすぎる」と東條に反論して喧嘩になるありさまだった[6][出典無効]検察・警察側としては、中野ほどの大物になると拷問などの強引な取調べはできなかった。[要出典]中野を議会出席停止させるよう東條に呼び出された国務大臣大麻唯男(東條のイエスマンとして議会統制をおこなっていた)も「憲法上の立法府の独立を侵害しかねないのでできません」と反論される[7][出典無効]。東條は証拠不十分とする松阪の一言をとらえて「新しい証拠が出てきて、中野が自白したらどうする」と食い下がり、松阪は議会開会の1日前である10月25日正午までの取調べという条件をつけた[8]。東京憲兵隊の取調べに対して、中野は「自宅で身内の東方同志会2人にガダルカナルの敗戦は陸海軍の作戦不一致の結果だと話した」と自白する[9]

中野は10月25日に釈放された[10]

釈放されたものの、憲兵の見張りという形で非合法的に追い詰められた中野は10月27日に割腹自殺した[11]

中野の亡骸は荼毘に付された後ただちに列車にて福岡に送られたが、深夜博多駅で迎えたのは縁者の当主一人であったという。



 対談:平成元年8月 司会・構成:土「純粋に国を憂(うれ)いた中野正剛」。
(お話:福岡市博物館館長 進藤 一馬氏、聞き手: 福岡シティ銀行頭取 四島 司)
 
雄姿堂々
四島 先程、中野さんの銅像を見てまいりましたが、立派なものですね。青空を背景に雄姿堂々という感
じで。
進藤 はい。動きがあって、先生の演説のポーズがよくとらえられていますね。
四島 先生は、永年中野さんの身近にいらっしゃいましたね。中野さんが、東条独裁に反抗して自決され
たのは、昭和18年ですね。中野さんは国士といいますか、本当に国を憂える方という感じがいたし
ます。
進藤 はい。中野先生くらい、年がら年中、国のことばかり考えていた人はいないでしょうね。政治が全て
といっていい。しいて趣味と言えば、後に始められた乗馬等で、隻脚でしたから「片足で馬場馬術
がやれるのは、世界でもあまりおらんぞ」と言ってお得意でした。
四島 柔道も……。
進藤 ああ、これも若い時ですね。講道館で無敵といわれた鹿児島出身の徳三宝という人がいましたが
、早稲田の学生時代に試合をしてこの人に勝ってますよ。
四島 すごいですね。足が悪くても……。
進藤 中学1年の時に炎症を起こして、ちょっと跛(びっこ)をひくくらいで柔道はできました。
四島 成績は良かったそうですね。
進藤 修猷館卒業の時は、3番の成績です。優秀な人はだいたい官立の学校に行くんですが、早稲田が好きで……。
そして、親友の※緒方竹虎さんを早稲田に誘うんです。緒方さんは高等商業に入っていた、今の一橋大ですね。校長排斥の学校騒動があって、福岡に帰っておられた。先生が「商人の学校に君は向かない。早稲田に来い」と強引に誘うんです。そうして、小石川で一緒に自炊生活を始めるんですね。
反東条を通して…
四島 西郷隆盛を尊敬されていましたよね。
進藤 そうです。それから、大塩平八郎中江藤樹王陽明の学問の影響が強い人たちですね。陽明学派は、知るということは実行することによって初めて知ったといえるので、口先で知っているだけではだめだ、行動で表さなければならないという学派で、このことは先生もよく言っておられましたよ。
四島

その考えで、選挙も非推薦でたたかわれ、反東条を通されたのですね。

進藤 ええ。昭和17年4月の選挙は翼賛会選挙でした。翼賛会推薦でないものは国賊のように言って、警察が圧迫したのですからひどいものです。しかしこの時、先生は非推薦で最高点で当選しています。
四島 すごいですね。

進藤

東方会は46名の候補者をたてて、7名当選でした。非推薦で当選したのは、鳩山一郎さん、三木武吉さん等、2、30人はいたでしょう。先生は東方会をひきいて、東条独裁内閣を批判される。

四島

あの時代に、よく……。

進藤

堂々とね。また、中野先生の時局演説は名演説だというので、どこでも超満員でしょう。そこでも徹底した東条批判です。経済政策も、統制統制で、民意の調達ではなく、上から押さえてばかり。国民がこの時局に奮起して協力するような体制に持っていかなければいけない。役人が統制会社のいい地位にいて、民間人は一生懸命働いているのに、日常の商業を営利主義だというのでは、国民は納得しない……と。
昭和17年の暮れには東方会の公開演説も禁止されてしまいました。

四島

あとはペンだけですね。

進藤

そして、あの18年の元旦の朝日新聞の「戦時宰相論」ですね。「難局日本の名宰相は絶対に強くなければならぬ。強からんがためには、誠忠に、謹慎に、廉潔に、而して気宇広大でなければならぬ」と結んだ論説が東条首相の逆鱗(げきりん)にふれて、発売禁止になって、筆を折ることになる。それからは、演説もできない、書くこともできない。さらに東条内閣は施策や軍への反対を封じるために、18年3月に戦時刑事特別法を成立させて、言論・出版の禁止と、追い打ちをかけました。

四島

無茶ですね。

進藤

そして、6月の議会に、翼賛会だけで食糧緊急対策と企業整備の法案を衆議院に出すんです。3日間の議会でそんな大きな問題を審議できるわけがない、もっとじっくり検討すべきだと、代議士会で先生と鳩山一郎、三木武吉の3人が反対するわけです。
先生は「政党が翼賛会だけで、東条におべっかを使う者だけが用いられ、茶坊主たちが東条を誤らせている。東条首相は、自分では善意でも不逞の臣になることがあるんだ。茶坊主体制が国を誤る」と代議士会で演説された。

四島

激しいですね。ところで中野さんは、17年暮れのガダルカナル撤退のあたりから、日本は負けるかもしれない、と感じておられたようですね。

進藤

そうです。中村良三海軍大将や、経済企院の日下藤吾(くさかとうご)さんたちと、東方会で戦況や国内の生産力の問題を研究していました。日本の生産力では戦争にならない、ガダルカナルで日本の船はやられてしまって、これじゃ戦争はできない、どうすればいいか。それで、東条内閣打倒が一致した結論だったんですね。

  • ※大塩平八郎[寛政5年(1793)-天保8年(1837)]号は中斎。江戸後期の陽明学者。天保の饑饉に窮民救済を町奉行に上書したが、ききいれられず蔵書を売って救済につとめ、ついに門弟とともに救民の兵を挙げ失敗して自殺。
  • ※中江藤樹[慶長13年(16008)-慶安1年(1648)]近江(滋賀県)の人。江戸初期の儒者で、わが国陽明学派の祖といわれる。身分差を超えた人間の内面平等性を強調し、近江聖人と言われた。
  • ※王陽明(1472-1528)中国、明時代の儒学者。浙江省の人。はじめ朱子の物ごとの道理を研究して知識を明らかにする致知の学をとなえたが、後に知行合一の説をとなえ、陽明学派の祖といわれた。

東条打倒で重臣工作

四島

重臣たちに工作されたのもその頃ですね。

進藤

そうです。重臣たちが全員で東条の政策を槍玉にあげて、辞職を迫る。もう、それ以外に方法がない、と重臣工作を始められた。総理経験者の岡田啓介若槻礼次郎(わかつきれいじろう)、広田弘毅(ひろたこうき)、平沼騏一郎(ひらぬまきいちろう)というような人たち、みんな賛成なんですよ。じゃあ、東条に招待されているから、そのお返しということで華族会館に招ぼう。懇談したいから総理1人で来てもらいたいということに……。その席で辞職を迫ろう……。

四島

それがうまくいかなかった……。

進藤

そうなんです。自分1人では十分な説明ができないからと、賀屋大蔵大臣とか鈴木企画院総裁とか、4、5人連れてくるんですね。重臣の方は、岡田さんが引導を渡すつもりだったのが、東条の方から「戦争は自分が責任を持ってやっている、勝算は立っている。任せてくれ」と言い切られて、うやむやになってしまったんです。
重臣からいつまでたっても連絡がこない。華族会館に聞いてみると「もう早く終わりまして、皆さんお帰りになりました」(笑)。

四島

先生は……。

進藤

がっかりされたですよ。「あの人たちは重臣じゃなくて軽臣だ。玩具の兵隊のように、ネジを巻いている間は動いているが、ネジがゆるむと止まってしまって何にもならん」と憤慨しておられました。

※広田弘毅-本シリーズNo.13「広田弘毅」を参照。

自決

四島

そういうこともあって、東条さんが逮捕させたんでしょうね。警視庁と憲兵隊に拘留され、厳しい取り調べを受けて、自決されたのですね。

進藤

警視庁は10月21日に、東方会を一斉検挙し、先生を拘留したものの、国政変乱を立証できない。25日には国会が開かれる。議会開会中は院の許諾なしには議員は逮捕できないので、先生の登院を拘束できない。警視庁は前の晩に帰すと言ったんですよ。東条はそこで、憲兵隊に手をまわすのです。その晩は警視庁にとめられ、あくる26日、憲兵隊に連れて行かれた。いろいろ尋問されて、家に帰られたのは午後の2時くらいですかね。
それから風呂に入って、髪を染めたり、家族と食事しながら雑談などして、久しぶりに帰ったので、紋付を着たいと出させました。そして「今晩自分は早く寝るけれども、新聞を見るから、電気がついていても心配するな」と言って、みんなを早く寝させたんです。
寝室の机には、馬に乗っている楠木正成の銅像が置いてありました。ムッソリーニヒットラーからもらった額も掛けてあったんですが、自害の前の日に「何だか見下ろされているようだから」と言って、取りはずされた。それから大西郷全集を持ってきておられる、少し読まれたんでしょうね。
日本刀は、家宅捜索の時に全部出したんですが、末子の泰雄君が出征するので軍刀に、という理由で1本だけ置いてあった。寝刃(ねたば)をあわせるのに砥石がないので、時計の裏でしてみたがうまくいかぬ。それで形だけ腹を切り、頸動脈を突いて見事な自害でした。知らせで駆けつけられた頭山満先生が、古武士のような見事な最期と言われました。名刺の裏側に「断十二時」と書かれていましたから。27日が命日ということです。

四島

やはり、憲兵に連れていかれた時に覚悟されたんでしょうね。

進藤

その辺はよくわからないんです。割合平然と帰ってこられて、東条との勝負はどうか、家の人が聞くと「もちろん俺の勝ちさ、今度は大きなことをやるんだ」と言っておられたそうなんですね。憲兵がどういうことを先生に訊いたかもわからないんです。「こんなことをやっていたら、戦争は負ける」といっておられたこと。東久邇宮に「殿下、しっかりしてください。日本は負けるかもしれない、宮殿下に大塔宮になっていただかなければならない」と言ったとかいうことです。そういうこと以外に流言蜚語(りゅうげんひご)となるようなことはないんですよ。

満天下を沸かせた「朝野の政治家」

四島 司

四島

実に惜しい方でしたね。中野さんを支援された安川第五郎さんや、緒方竹虎さんは、修猷館の同期ですか。

進藤

いえ、中野先生の方が安川さんより1年上です。また中野先生は緒方さんのお兄さんの大象さんと同期です。それが、先生が足の手術で中学で1年下がって、緒方さんが小学校を早く上がったりしていて、1年違いになったんですね(笑)。
緒方さんを朝日新聞に誘った先生は、今度は政治を一緒にやろうとされた。「緒方が朝日新聞を辞めきらんからつまらん」と言っていましたね。

四島

中野さんは自分が総理になるつもりだったんでしょう。

進藤

だから、緒方さんに頼むところが大きかったんでしょうね。

四島

朝日新聞時代の中野さんは……。

進藤

朝日に入って2年、わずか25歳の時、耕堂というペンネームで、「朝野の政治家」を連載、桂太郎西園寺公望(さいおんじきんもち)からはじめ、犬養木堂(いぬかいもくどう)等、8人の政治家の長所や欠点をえぐり出して書かれた。それが非常に評判になって、主筆の池辺三山が書いたんじゃないか「三山未だ老いず」なんて言われたんですが、弱冠25歳の中野先生とわかって満天下を驚かせ、一躍「朝日に中野あり」と認められたんです。
ついで「自由民権史論」や「与うる書」を連載された。桂内閣を攻撃し、何もかも独りでされるものだから、社内で孤立してしまう。最後は、先生と緒方さんと2人で、桂内閣攻撃の新聞記事を1ページつくったそうです。

四島

まだ20代でしょう。たいへんなものですね。

進藤

大正2年に、多美子夫人と結婚されてすぐ、京城特派員で行かれるんです。その頃、同じ福岡出身で、日露戦争の時諜報で大活躍された明石元二郎(あかしもとじろう)さんが、憲兵隊司令官でした。

四島

ここでも、中野さんは寺内正毅(てらうちまさたけ)さんの朝鮮の政策には批判的で……。

進藤

「総督政治論」を16回も連載して、「寺内さん個人は善政をしくつもりで一生懸命やっているけれども、善意の悪政だ」と攻撃しています。

四島

それから、ヨーロッパヘ。

進藤

留学されたのは数え年の30歳の時で、安川敬一郎さんが援助しました。新橋から発つ時、杉浦重剛(すぎうらじゅうごう)とか三浦観樹(みうらかんじゅ)とか、偉い人が見送りに来ているんです。その時の旅行記、『亡国の山河』に「自分は10年前に郷党の期待を担って、修猷の先生方に上京を送られた。今日30歳にして、当代の錚々(そうそう)たる人たちに送られてヨーロッパに向かう。自分の訪欧は、帝国の進展にかかわる」と、なかなかの名文で書いてありますね。

四島

そして、帰国して政治家に。

進藤

1年位滞在し、ヨーロッパからアメリカを回って帰国後、朝日を退社され、東亜問題研究のため、「東方時論」によって論陣をはられる。この研究会が政治結社の東方会になるのです。翌年、衆議院議員に立候補しますが、落選。松永安左衛門さんが当選でした。それから大正7年12月に、第1次世界大戦の講和使節団の記者団として随行し、パリに行く。牧野伸顕(まきののぶあき)さんが全権委員で、元老の西園寺公望さんが首席全権でした。
しかし、西園寺さんの到着は、会議の大勢がようやく決した後という悠長さで、それも世話役のお花さんを連れ、畳まで持って行っている。フランスのクレマンソーやアメリカのウィルソンという巨人の中で、日本全権は弱体で「闘犬中の小羊」だと痛憤しています。よそはもう真剣勝負で出て来ているのに、というわけです。そして中国の顧維釣(こいきん)という人がずっとアメリカに行って根回しをしていて、アメリカと一緒になって日本を攻撃するんですが、日本はその時一言も反論できないくらいだったんです。
先生は「ヨーロッパ大戦で勝った国がみんな中国に拠点を持って進出している。日本は中国と仲良く貿易をしなければいかん」という意見でした。
そこで、このままじっとしてはおれないと、会議の途中で帰ってくるんですよ。4月神戸に上陸すると早々に、大阪で演説会です。講和会議の実情を訴えて、「こんなことでは日本は駄目だ。第2の維新、新人よ出よ」と訴えられる。その頃から本当に人を魅了するような演説になるんですね。腹の底からの憂国の熱情が伝わるのです。

四島

次の選挙には当選されるんですね。

進藤

第2回目の大正9年選挙で、松永さんを破って大勝するんですよ。これで政治家中野正剛が確立され、松永さんは経済界に去り電力の鬼になられるんです。

四島

何を伺っても、普通の人よりも10年か20年くらい先を走っているんですね。

進藤

先生は、いろいろなことの先が自分で見えるんでしょうね。他の人と一緒に行くのがまだるっこしいというか、とにかく自分だけが先に行ってしまうんですよ。戦後に戦犯裁判の弁護団長をされた清瀬一郎さんは「料理で云えば最初のスープだけで立って行ってしまうようなもんだ。もう少し最後までおれ」(笑)と、よく言っておられました。

※明石元二郎-本シリーズNo.25「明石元二郎」を参照。

柴田文城先生

進藤 一馬氏

四島

中野さんに影響を与えた人たちといいますと。

進藤

第1は、師範附属小学校の高等科で教えていただいた柴田文城先生です。頭山先生の縁戚で、学校へ白馬で通っていました。
中野先生の組は非常に悪かったそうで、柴田先生はある日、中野先生を呼んで「君は元気があっていい。君は将来偉くなると思う。でも、今のようなことではつまらんぞ」と戒められた。そして、クラスに非常にいじめられる子がいたので「弱い者は助けなければならない。君があの子を守ってやれ」と言われたそうです。それから人間が変わったようになって、強い者には立ち向かうが、弱い者は助ける、というふうによくなったんです。
柴田先生は、緒方さんも、その上級の真藤真太郎(しんとうしんたろう)さんも教えたんです。この3人が自分の教え子だったことが、柴田先生の自慢でした。

四島

その先生から漢詩の素養を受けられたとか。

進藤

そうです。王之渙(おうしかん)の「鸛鵲楼(かんじゃくろう)に上(のぼ)る」という有名な詩の一節、「千里の目を窮(きわ)めんと欲して、さらに上(のぼ)る一層の楼」。自決の時、子息の達彦、泰雄さんに遺した書ですが、これは、小学校の時に柴田先生と一緒に宝満山に登った時に、先生が教えたものです。登っていく途中は松原があって、よく景色が見えなかったが、登っていくにつれ景色が開けてくると、その松原と海が見えて、一層立派な景色になる。努力して登ることによって、景色が更に広がっていく、という意味の詩です。

四島

多美子夫人は三宅雪嶺(みやけせつれい)のお嬢さんですね。三宅さんは、言論界の頂点のたいへんな方でしょう。

進藤

三宅さんは頭山さんたちと『日本及び日本人』という雑誌をやっておられたんですが、古島一雄(こじまかずお)さんと頭山先生が間に立つわけですよ。三宅さんのお嬢さんですから、夫人は、帝大でなきゃ学校じゃないように思っていたでしょう。それが早稲田出で、来るなり菓子をパクバク食べて、遠慮なしの人だったので、内心ハラハラだったそうですが(笑)。

四島

進藤先生と中野先生のご縁は、どういうきっかけだったんですか。

進藤

玄洋社の社長をしていた私の父の喜平太が先生を応援していて、猶興会という後援会の会長をやっていました。大正13年に宮川一貫さんと争って25票差で勝った時など、オヤジは投票所の市役所の前に椅子を出して座っていたんです。投票に来る人の顔を見ながら、これはあっち、あれはこっち、と教えていた(笑)。

四島

喜平太先生が入口に座っておられる。それは効いたでしょうね。

進藤

そういうことが御縁で、先生の家から早稲田に通ったんです。それ以来ですから24年くらい先生についていましたね。

たいへんなお母さん思い

左 中野正剛 右 緒方竹虎
昭和15年9月(玄洋社資料館提供)

四島

私生活はどうでしたか。

進藤

質素でしたよ。青年をかわいがって、講演料や原稿料で「猶興居」をつくられ、多い時は6人から8人くらい学生の面倒をみていました。
長谷川峻君、この人は、戦後は大臣を歴任されましたが、全然縁のない東北から、先生の書生にと飛び込んできたのです。前の人吉の市長をやっていた永田正義さんもそうでした。

四島

豪傑酒を好みましたか。

進藤

いいえ、普段は1滴も飲まれませんでした。飲んでもほんの少しでした。頭山満さんも酒は飲めなかったですし。ただ食べることは好きでしたね。

四島

中野先生のご両親は……。

進藤

お父さんは、黒田藩のお船方だったそうです。よく新聞を読んでおられたが、先生はあまりお父さんと話す時間もなかったようです。しかし、大変な母親思いで、学生時代にお母さんから手紙が来ると、「病気は心配ないと書いているが大丈夫だろうか」と緒方さんに言われる。緒方さんは、「そう書いてあるから大丈夫、医者に任せておけばいい」と言うんですが、心配で心配でたまらない。「やっぱり悪いんじゃなかろうか」と、その手紙で何回も寝ている緒方さんを起こしたそうです。それだけ親孝行の中野先生が、お母さんを残して自分の命を絶つということは、なかなかできにくかったと思いますね。

四島

長男の克明さんが亡くなった時の文集を読んで、ホロッとさせられました。「シッカリシロ・チチ」という電報でしたね。克明さんは信州前穂高で遭難されたんですね。

進藤

長男が亡くなり、次男が亡くなり、奥さんが亡くなり……。その前に片足を手術して切断されている。本当に家庭的には不幸ですよ。

四島

足はいつ切断されたんですか。

進藤

大正15年でしたね。医学部の先生が、自宅で患者を診て問題になったのを、先生が間に入って、何とか片づけられた。その時知り合いになった外科の先生が、曲がった足は、手術すれば、1週間もしたら治りますよ、と言われたんですね。東京の病院を借りてその先生が手術をしたんです。処置がまずかったのか、だんだん血管が枯れていったんです。それで翌月、慶応病院で左足切断の手術を受けられたんです。

四島

ところで、太平洋戦争をどう考えておられたんですか。

進藤

始まった時、緒方さんへの電話が心配声だったという話もあります。でも、やはり日本がABCD包囲陣で押さえられて、何かやらざるをえないということはあったでしょう。

四島

三国同盟には賛成だったそうですが。

進藤

そうそう。それが戦後に批判されているんですね。当時はABCD包囲網に対抗……してということだったんでしょうが…。だからそのために、ムッソリーニに会ったり、ヒットラーに会ったりしたんですね。

四島

でも、自決の前には2人の額をはずされたとか。

進藤

どういうお考えだったのでしょうかね。ムッソリーニやヒットラーに感心して帰国したんですが、やはり日本人の本来にかえってみると、諸外国の変動というのは頼りにならん、という気がしたんじゃないでしょうかね。

四島

ちょうど同時代だと思いますが、菊竹六皷(きくたけろっこ)さんとのおつき合いは。

進藤

政党が違うこともありますが、行き来はありませんでした。でも、内心は筆を折らないことに感心していたんじゃないですか。だけど、お互いに「フーン」といって鼻であしらう感じだったんじゃないかと思います。私は2人を会わせたら面白いと思いますね(笑)。鼻っ柱の強い所も、どちらも似ているしね。

猶興会

四島

さきほどの猶興会、銅像と一緒の碑に、猶興の文がありましたね。

進藤

「豪傑之士雖無文王猶興」豪傑の士は文王無しといえどもなおおこる、という孟子の言葉ですね。中野先生が非常に好きな言葉でした。だから、後援会も「猶興会」、自分の塾も「猶興居」と名づけました。

四島

意味はどういうことですか。

進藤

文王は中国古代の周の聖王ですが、豪傑は文王の引きがなければ偉くならないようなものじゃない、豪傑は自分で興る、それが真の豪傑だという意味ですね。

四島

中野さんのいわば英雄待望、新人待望だったのですね。

進藤

中野先生はつねづね「人間は、精神の高揚した時に死ぬのが1番の幸せだ」と言っておられました。西郷さんの城山での最期は、精神が最も高揚していたときでしょう。だから、自決の時も、精神的には1番充足高揚していて、「今度は大きなことをやるぞ」と言って帰ってこられたということは、何か自分の生命を絶つことが警鐘乱打になると考えられたんじゃないでしょうか。

四島

葬儀委員長は緒方竹虎さんがされたのですね。

進藤

東条の代理人から「花輪をあげたいが、受け取ってもらえるか」と電話があったそうです。緒方さんが「あらかじめ受けるか受けぬか聞くのはおかしいじゃないか」といわれて、立消えとなった。
最近、東条の赤松秘書が総理官邸の会議の内容を出していますね。中野をなんとかして罪にしようと、一生懸命やっているんです。

四島

もし、中野先生が自決されずに戦後まで生きておられたら、どうなっていたでしょう。

進藤

うーん、もう少し我慢しておられれば、先生の時代は来たと思います。翼賛選挙の時、東方会から46人立候補しましたね。だから、中野派の代議士候補は40人以上いたということです。先生が演説の応援に行けば、第1党になったと思いますね。
東方会にいた人たちが、戦後は社会党や共産党から国会にでましたよ。特に稲富稜人さんのように農民運動をやってる人たちが社会党で出ていて、優秀な人が多かったですよ。

たいへんな雄弁

四島

私は、ちょっとあそこで自決されたというのが理解しにくいんですが。

進藤

理由は本当に分かりませんね。徳富蘇峰(とくとみそほう)さんも、墓碑文に「人、その何故たるを知る者無し」と書かれたように、実際分からないんですね。有名な馬術名人の遊佐幸平(ゆさこうへい)さんは「中野先生のように潔癖な人は、議員の身分を無視しての拘留に黙っておれなくて、自決されたんじゃないか」と言っています。1面には、これだけやってもできなかったので、諦めもあったんじゃないかとも言いますが、戦争拡大を止められなかったことへの反省もあったかもしれませんね。

四島

たいへんな雄弁家だったそうですね。

進藤

先生は海外事情にも明るく、漢学や歴史の素養が深くありましたからね。国を憂い、腹の底からの憤激が言葉になってほとばしる。本当に肺腑をえぐり、心をゆさぶる雄弁でした。私は、危局にあった日本が、先生の雄弁を必要としたのだと思います。
さらに、戦局が悪くなればなるほど、悲愴感があふれて、ますます弁舌が冴えてくる。昭和17年11月に早稲田大学で学徒出陣を前にした学生たちに行われた「天下一人をもって興る」という演説は、4時間にもわたる大演説でした。「天下ことごとく間違っている。眠っているなら目を覚まそうではないか。真剣に立ち上がれば、天下はその人に率いられる」という、先生の信念を吐露したものでした。

四島

お伺いしていますと、中野さんの決断は、やはり陽明学の考え方からですね。

先がけて民活

豪傑之士雖無文王猶興

四島

実に憂国の人ですが、政治家の中野さんは。

進藤

逓信政務次官の時、省の若手を集めて、電話民営案を練られた。当時は役所仕事で、電話を申し込んでもいつつくかわからない。それで、機器は民間の電機会社がつくれ、オペレーターは逓信省が受け持つ。そして少しでも早く多く電話の架設を進めようということなんです。
この案を閣議に出すと、井上大蔵大臣によって来年に繰り延べになった。先生は、もうやらんというのと同じことだからと、逓信政務次官をあっさり辞めてしまった。そういうところは本当に潔いんですね。

四島

まさに民活論ですね。

進藤

福岡に簡易保険局をつくられたのも中野先生です。逓信関係は、熊本に安達謙蔵(あだちけんぞう)さんがいるので、みんな熊本にいってしまう。それを、簡易保険局だけはこっちだと福岡に持ってこられました。これは一例ですが、先生という人は、国政ばかりでなく、地方の民業はどうしたら発展するかということに熱心で、次官時代に逓信省関係だけでもいろいろ施策されました。

四島

それでは、最後に進藤先生が中野先生に最もひかれるところを。

進藤

一言で云えば直情径行、天才的一面とまた子供の様な単純さがあった。純粋な熱血九州男児ということで、こういう人は珍しいんじゃないですかね。これくらい真剣に国を憂える人がもう少しいたら、日本はもっとよくなりますよ。

四島

よいお話をいろいろとありがとうございました。

 進藤一馬氏の略歴


 明治37年1月1日福岡市に生まれる。大正15年、早稲田大学政経科卒業、中野正剛の秘書となる。昭和19年、玄洋社社長、昭和33年衆議院議員初当選。以来4回当選。42年法務政務次官に就任。47年より61年まで福岡市長。福岡市美術館館長。平成元年福岡市博物館館長。





(私論.私見)

中野 正剛(明治38年卒)

 早大出身の政治家、中野正剛(なかのせいごう)。「中野の歴史的演説」は、1942年(昭和17)11月10日、早大の大隈講堂で開かれた創立60周年の記念講演として行われた。太平洋戦争が始まって、約1年後である。中野は熱弁を振るった。〈日本の巨船は怒とうの中に漂っている。便乗主義者を満載していては危険である。諸君、自己に目覚めよ。天下一人をもって興れ〉それは、後輩たちを激励すると同時に、当時の東条英機(とうじょうひでき)内閣への批判の意味が込められていた。学生たちは起立し、校歌を合唱してこたえた。中野の演説を聞いた学生たちの多くは、やがて学徒出陣などによって戦地で命を落とし、中野もこの演説からほぼ1年後の43年(昭和18)10月21日、倒閣を策した容疑で連行され、同月27日、東京・代々木の自宅で自決する。(読売新聞「人ありて~頭山満と玄洋社~」第1部⑨より)

*国は経済によりて滅びず,敗戦によりてすら滅びず。指導者が自信を喪失し,国民が帰趨に迷ふことによりて滅びるのである。「戦時宰相論」(『朝日新聞』昭和18年1月1日)