政治とは何か論、政治家はどうあるべきか論

 (最新見直し2010.12.20日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「政治とは何か論、政治家はどうあるべきか論」を考察することにする。

 2010.12.20日 れんだいこ拝


 昨今、政界、マスコミ界の政治論、政治家論を聞けば、「政治とカネ問題」こそが政治とは何か論の一級課題で、政治家はどうあるべきか論の前門の試金石の如くに吹聴されている。本当にそうなのか、ここで「政治とは何か論、政治家はどうあるべきか論」を考察してみたい。こういう大上段構えの論は普段あまりしないが、小沢どんに対する「政治とカネ問題」の異常な詮索が突出している折柄、愚考しておきたいと思う。恐らく、昨今の「政治とカネ問題一辺倒政談」は貧すれば頓すの類で、世界から見ればガラパゴス化している日本の象徴的姿として映像されるであろう。ジャーナリズムは本来こういうところで警鐘するものだが、現下の日本ジャーナリズムは「政治とカネ問題」追及の旗頭であり、サルのセンズリと同じで死ぬまで止めないだろう。以下、国政レベルの「政治とは何か論、政治家はどうあるべきか論」につき確認しておく。

 れんだいこが畏敬する田中角栄は、「政治とは生活である」と喝破している。誠に角栄らしいハト派政治論である。これを仮に第一政治論と命名する。れんだいこが推理するのに、角栄は短い言葉の中で、「政治とは国民が飯を食えるようにすることが要諦である。これより始めて政治ブロックを積み上げるのが如くに御するのが政治である」と云っているのではなかろうか。実際、角栄は内治政治を成功させ、その勢いで外交に乗り出し見事な成果を収めている。そういう意味で先後不世出の大政治家足り得ている。

 これに対するに、「政治とは国家、民族の防衛である」と云う論も成り立つ。これはタカ派政治論である。これを仮に第二政治論と命名する。これをこれで構わない。むしろ、両者が相互に提携され、ハト派政治論が国家、民族の防衛にまで思いやり、タカ派政治論が国民生活まで思いやることになるのなら、ハト派政治論、タカ派政治論の違いは政治の根底をどこ置くのかの手法の違いで済む。よって、互いに認め合えば良い。

 問題は、ここへ来て著しい政治の売国型にある。この連中によれば、「政治とは要請されたアジェンダの請負である」と云うことになる。代わりに権力と栄誉を得る。普通、これを売国政治と云う。これを仮に第三政治論と命名する。これが侮れない理由は、17世紀以降の西欧列強の植民地化政策において、狙いを定めた当該国の政財官学報司警軍の八者機関の要人をスポンサーし、この代理人の手で易々と植民地化することに成功して来た歴史があるからである。日本は完全植民地化を免れた稀有な国家であるので気づきにくいが、これは世界史上の奇蹟となっているだけの話で世界史的史実である。

 現代政治の政治論、政治家論は、上記の第一政治論、第二政治論、第三政治論を前提にして論じなければ意味を為さない。これをごちゃ混ぜにして論ずると絵空事の政治論、政治家論に陥ってしまう。自称識者の政治論、政治家論はこのように見立てず一律にのんべりだらりと説くので、難しく論ずる割には中身のないものが多くなる。中身がない分それだけ難渋な文面にしたり、あちこちの学者の言説を貼り付けて権威ぶるものが多い。或いは、長文饒舌にして何を云っているのか分からなくしたり、或いは公式主義、、図式主義に嵌り込み、安逸に片づけてザッツオールとしている手合いが多い。この種の論文を無批判に徒に読むと難しく云う口調を覚えるだけで却って頭が悪くなる。

 次に、近現代政治家の特質を確認しておかねばならない。この違いを無視すると、これまた一律にのんべりだらりとした政治家論になってしまう。近現代政治家は、選挙の洗礼を受ける代議員として選出され、議会で立法活動に当たることを職務としている。これを三権分立の立法活動と云う。これが近現代政治家の政治活動となっている。この政治活動上、政策の近いところで集団が結成され、これが政党となる。政党に所属しない無所属議員も居るが、議会制民主主義の諸原則の縛りを受けながら政治活動する運びとなっていることは言うまでもない。議会は、日本の場合には二院制を敷いている。両院とも代議員によって構成されている。定数は微妙に変動する。これを責任政治で請けあうのが与党であり、与党批判を担うのが野党である。与党の中から内閣が組閣される。その長が首相である。首相を頂点として組織される政体を政権と云う。この一連のルールを議院内閣制と云う。

 政治家が、本来の職務である政策の提言に始まる立法活動を発言するだけで満足せず、政策の実行を責任とする時、責任与党を目指し政権を意欲することになる。但し、政策は相反することが多く、それが為にライバル関係に陥ることになる。そこで、公正な選挙により選ばれた多数決原理を基準とした政治闘争を常態とせねばならない。普通、これを民主主義と云う。民主主義政治は人類の政争史が獲得した知恵であり、現在のところこれ以上歴史の試練に耐えるシステムは見出されていない。

 一応このように確認すると、現代の「政治とは何か論、政治家はどうあるべきか論」の要諦が見えて来る。政治とは、第一政治論、第二政治論、第三政治論と観点の差はあるものの、国家の立法活動の中央集権化された議会を舞台として政治、経済、外交、文化、軍事防衛等々省を束ね司り、民主主義的諸原則のルールに基づき行う国家最重要事取り決めの最高権力であり、国民及び国家の過去、現在、未来にわたる最高責任行為である。政治家とは、これを職業として請け負う国民の代表集団である。と云うことになるのではなかろうか。

 この当たり前のことをなぜことさら確認する必要があるのかと云うと、この全体の中で「政治とカネ問題」がどういうウェイトを占めるのかをはっきりさせたいからである。れんだいこには、政治活動のうち、「政治とカネ問題」は裏方の仕事であり、政治及び政治家はまず表の仕事で評されるべきではなかろうかと思っている。昨今の政治論、政治家論は、この表の政治評価を抜きにして裏方基準で査定され始めており、これは果たして健全な現象であろうかと訝っている。「政治家と女問題」も然りである。興味を持つ者は問題にすれば良かろうが、仮に首相の子供が外に何人いようが、愛人が何人いようが、そのことはそのことを確認するぐらいで良いのではなかろうか。それが役職辞任になり議員辞職になり政界追放になるとしたら、いかがなものだろうかという思いがある。外の愛人が例えば、外国諜報機関員であり、寝床物語で情報が抜けていたとしたら、それは問題にされねばなるまい。そういう例ならいざ知らず、のべつくまなく愛人騒動で明け暮れるのは如何なものだろうか。

 同様に、「政治とカネ問題」で、政党或いは政治家が企業、団体、業界、組合から政治献金受けていたとして、これを政治資金収支報告書に記載し、政治活動に費消していたとしたら、それほど目クジラされることだろうか。近現代政治家は生涯不動の身分的特権ではなく選挙の洗礼を受ける身である。してみれば、政治資金収支報告書への記載と公開がいかほど重要かが分かろう。これを逆に云えば、政治資金収支報告書への記載と公開をした者が記載故に咎められ、「天の声」まで詮索され、釈明を余儀なくされ、或いは逮捕され、逆に不記載の者、杜撰な記載の者が免責されるなどと云うことが有り得てはならない。昨今の小沢どんを廻る「政治とカネ問題」の不快さは、この辺りにあると看做すべきではなかろうか。もとより、政治献金が例えば外国諜報機関からのものであり、見返りに請負政治していたとしたら、それは問題にされねばなるまい。そういう例ならいざ知らず、のべつくまなく「政治とカネ問題」で明け暮れるのは如何なものだろうか。それとも何か。政治家は井戸塀政治家にならねばならぬと云うしきたりでもあるのだろうか。又はカスミでも食って生きるべしとする仙人論でもあるのだろうか。解せないところである。

 小沢どんを廻る「政治とカネ問題」のもう一つの不快さは、政治資金収支報告書不記載の者、杜撰な記載の者が免責された上で、克明に記載した小沢どんを政治倫理審査会、証人喚問、離党勧告、除名、議員辞職、政界追放を仕掛けている執拗さにある。

 とかなんとか。

 2010.12.20日 れんだいこ拝




(私論.私見)